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11.松岡寺2
3
山田光教寺より東へ一里程行くと、柴山潟(シバヤマガタ)と呼ばれる湖に出る。加賀三湖の一つで、柴山潟の北には今江潟があり、東には木場潟と呼ばれる湖があった。
現在、柴山潟は半分以上埋め立てられ、今江潟はすべて埋め立てられ、木場潟も埋め立てられて小さくなっている。埋め立てられた所は水田となっているが、当時、この辺りは葦(アシ)の生い茂る湿地帯だった。
湖には潟(カタ)の衆と呼ばれる漁師や湖上運送に携わる者たちが住み、小舟を自由に操って行き来していた。この者たちはほとんどの者が、かつては時宗の徒であったが、今は本願寺の門徒になっていた。
木場潟の最南端、波倉の地に高田派門徒の最初の攻撃を受けた本蓮寺があり、木場潟に沿って、一里程、北東に富樫幸千代が本拠地とする蓮台寺城があった。そして、本蓮寺より東に一里程の所に松岡寺がある。また、松岡寺と蓮台寺城との距離も一里程だったが、その間にちょっとした山があって遮られていた。
蓮如の供をした風眼坊の一行は柴山潟沿いの湿地帯を歩いていた。
「風眼坊様、この辺りには敵はいないでしょうね」とお雪が前を行く風眼坊に声を掛けた。
「分からんのう。しかし、気を付けた方がいいのう」
「富樫次郎は今、どこにいるのでしょう」
「それも分からんのう。しかし、次郎は大軍に囲まれておる。心配しなくても見つかる事はあるまい」
「そうですね‥‥‥」
風眼坊は筒袖(ツツソデ)にたっつけ袴を着て、笠を被り、腰に小刀を差し、六尺棒を突いていた。
お雪は吉崎に潜入して来た尼僧の持っていた吹矢と愛用の笛を帯に差し、笠を被って、杖を突いていた。
蓮如は手拭いで頬被りをして、さらに笠を被り、使いなれた杖を突き、十郎は小刀を差し、背中に荷物を背負い、半弓を構えていた。
この辺りは葦がそこら中に生えていて視界が効かなかった。こんな所に敵がいるとは思えないが、戦場からはぐれた敵と遭遇する可能性はあった。一行は周囲に気を配りながら進んで行った。
先頭を行く風眼坊が急に足を止めた。
水辺の側に一人の男が倒れていた。甲冑も着けず、武器も持っていなかったが、武士に違いなかった。
「死んでいるのでしょうか」とお雪が恐る恐る覗いた。
「南無阿弥陀仏」と蓮如が唱えた。
風眼坊は近くまで行って調べた。
「傷はないようじゃのう」
「溺死ですか」と十郎が聞いた。
「いや、そうでもないようじゃ」
風眼坊が倒れている武士に触れて調べていると、武士は急に動いた。
お雪が悲鳴を上げた。
「どうやら、生きておるようじゃ。しかも、かなり酒臭い」
「何じゃ。ただの酔っ払いか」と蓮如は言った。
「らしいな」風眼坊が武士の頬をたたくと、武士は目を覚ました。
「ここはどこじゃ」と寝ぼけた声で言った。
武士は起き上がると、「喉がカラカラじゃ」と言って、湖に顔を付け、水をたらふく飲み込んだ。
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武士は名を疋田豊次郎(ヒキタブンジロウ)といい、富樫次郎政親の家臣だと言う。
豊次郎は河北郡倉月庄疋田郷の郷士で、代々、富樫家の家臣だった。豊次郎が生まれた頃、富樫家は二つに分裂し、幕府首脳部の細川、畠山の勢力争いも絡んで戦に明け暮れていた。文安四年(一四四七年)、豊次郎が四歳の時、両派は和解し、北加賀の半国守護として富樫次郎成春(シゲハル)、南加賀の半国守護として富樫五郎泰高(ヤスタカ)となった。疋田氏は富樫次郎成春の家臣となった。
長禄二年(一四五八年)、北加賀守護の富樫次郎成春は、度重なる荘園横領によって守護職を解任され、北加賀の守護職は赤松次郎政則に与えられた。この交替劇の裏には、幕府首脳部の細川と畠山の権力争いが関係していた。三年前に畠山左衛門督(サエモンノカミ)持国が死亡し、畠山派だった成春が追放され、細川派の赤松が送り込まれて来たのだった。当時、十五歳だった豊次郎は父と共に戦に出て、侵入して来る赤松勢と戦ったが、結局、土地を守るため、赤松家の被官とならざるを得なかった。
寛正五年(一四六四年)、南加賀の守護、富樫五郎泰高は隠居し、成春の遺児、次郎政親が家督を継いで富樫家は一つになった。富樫家は一つになったが、成春派の家臣たちの多くは政親の家臣にはならず、表向きは赤松家の被官を装いながらも、赤松を追い出し、泰高派の政親を倒す事を心に決めていた。豊次郎は成春派の重臣だった本折(モトオリ)越前守と共に、次郎政親の家臣となり、幼い政親の側近に仕える事となった。
応仁元年(一四六七年)、大乱が始まり、旧領を回復した赤松政則は加賀から出て行った。ようやく、富樫次郎政親は加賀一国の守護となる事ができたが、反政親派は、政親の弟、幸千代を擁して西軍となり、越前の朝倉と組み、北加賀に於いて蜂起した。当時、政親と共に京都にいた豊次郎は東軍となり、国元にいる父親及び一族の者たちは皆、西軍と言う形になってしまった。
文明三年(一四七一年)、朝倉が東軍に寝返ると次郎政親は京から下向して加賀に入り、南加賀の守護所を占拠していた幸千代の軍を北加賀に追い返した。ところが、幸千代は朝倉に敗れた甲斐と手を組み、勢力を増し、去年の七月、とうとう次郎政親を加賀から追い出したのだった。
山之内庄において、豊次郎は次郎政親方として幸千代方と戦ったが、攻めて来る敵の中には豊次郎の弟たちや幼なじみの者たちもおり、豊次郎に限らず、同族同士で敵味方となって戦っている者が多かった。
豊次郎は途中で戦うのが嫌になり、戦場から離れて山の中へと入って行った。色々な事を考えながら山の中をさまよい、しばらくして山から出て来ると、すでに戦は終わり、次郎政親は越前に逃げていた。
幸千代は軽海(カルミ)の守護所近くの蓮台寺の小高い山の上に城を築いて、本陣としていた。
豊次郎は今更、幸千代方に寝返る事もできず、仕方なく越前一乗谷を目指して行ったが、途中、山代の湯まで来た時、湯女(ユナ)の誘いに負けて酒を飲み、やけくそになり、もう、どうにでもなれ、と毎日、酒浸りになった。持っていた銭も使い果し、太刀まで質に入れて飲んでしまい、あげくには遊女屋の用心棒となっていた。
もう、豊次郎にとって富樫家の家督争いなど、どうでもよかった。しかし、富樫次郎政親が、ようやく越前から加賀に進攻して来たという事を耳にし、しかも、本願寺門徒が次郎方に付くと聞いて、居たたまれず遊女屋を飛び出して来たのだった。
噂によると、次郎方が圧倒的に有利だと言う。幸千代方は本願寺門徒にやられるだろうとの事だった。幸千代方が負けるという事は疋田一族が負けるという事だった。一族が負ければ、当然、一族の土地は奪われる事になる。豊次郎一人が次郎方にいたとしても、一族の土地すべてを守る事はできないだろう。何とかしなければならないと思いながら、豊次郎は遊女屋を飛び出したが、どうしていいのか分からず、また酒にすがり、酔っ払いながらも、とにかく、次郎のもとに行こうと北を目指して歩き、柴山潟のほとりまで来て潰れてしまったのだった。
「それで、そなたは富樫次郎のもとに戻ってどうするつもりなんじゃ」と風眼坊は聞いた。
「分かりません。しかし、何とかしなければ‥‥‥」
「刀も飲んでしまわれたのですか」とお雪が聞いた。
「おっ」と豊次郎は腰を探ると、「らしいのう」と情けない顔をした。
「覚えておらんのか」と蓮如が聞いた。
「ああ、どこで、刀を酒に代えたのか、まったく覚えておらん」
「呆れた奴じゃのう」
「こんな所で寝ているなんて、ほんとに危険ですよ」
「分かっとる」
「それにしても、酒臭いのう」と風眼坊は鼻をつまんだ。
豊次郎はフラフラした足取りで、一行の後を付いて来た。
富樫次郎の陣に向かうにしても、こんなに酔っ払ったままで武器も持たずに行ったら、怪しまれるだけだった。それに、次郎がどこに陣を敷いているのかも分からない。とりあえず、風眼坊たちと共に門徒たちが陣を敷いている本蓮寺に行き、充分な情報をつかんでからの方がいいだろうという事になり、豊次郎も一緒に本蓮寺に向かっていた。
本蓮寺に近づくにつれて、あちこちに旗指物(ハタサシモノ)が見えて来た。旗の色は様々だったが、どれも皆、南無阿弥陀仏と書いてあった。本願寺の門徒衆が陣を敷いていたのだった。
門徒たちは様々な武器を手にして、古びてはいるが一応、皆、甲冑を身に着けていた。そして、彼らを指揮しているのは国人と呼ばれる在地領主、すなわち武士であった。武士たちは馬に乗り、色鮮やかな甲冑に身を包んでいた。彼らの中には丸めた頭に頭巾を被った者も何人かいた。
この辺りに陣を敷いている者たちは、江沼郡から来た門徒たちで、まだ戦をしてはいなかった。
一行は蓮如の書いた書状を見せながら門徒たちの陣を抜けて、本蓮寺へと向かった。
本蓮寺は武装した門徒たちで溢れていた。
今、現在、この本蓮寺が前線基地となっていた。続々と本蓮寺に江沼郡から兵糧米(ヒョウロウマイ)が運び込まれていた。
本蓮寺は高田派門徒の最初の攻撃に会い、本堂、庫裏、蔵は破壊された後、火を掛けられて全焼してしまっていた。辛うじて山門だけが昔の面影を残していた。焼けた本堂の跡に仮の道場が建てられ、その道場の後ろに小屋が三つ建てられてあった。寺の回りは土塁が高く築かれ、その土塁の上に南無阿弥陀仏と書かれた旗が幾つも並んで立てられ、風になびいていた。
本蓮寺の住持職は、越前超勝寺巧遵(ギョウジュン)の従兄弟(イトコ)に当たる蓮恵(レンエ)であったが、蓮恵は八年前に二十五歳の若さで亡くなってしまった。蓮恵の子の蓮心が跡を継いだが、蓮心はまだ十二歳だった。そこで、蓮如は異母弟の蓮照を後見として送り込んでいた。蓮照を大将として、勝光寺門徒の庄(ショウ)四郎五郎、柴山潟衆を率いる柴山八郎左衛門、浜方(ハマカタ)衆を率いる黒崎源五郎、塩焼き衆を率いる篠原太郎兵衛らの国人門徒が守っていた。
風眼坊は本蓮寺において、一人の武将の怪我の治療を行なった。
右足の矢傷で、大した治療もせずに放って置いたため、膿(ウミ)が出て、肉は腐りかけていた。すでに、毒が体に回って凄い熱だった。
風眼坊は傷口を綺麗に洗ってみたが、すでに変色している足を見て、切らなければ駄目だと判断した。風眼坊は傷口の上を紐できつく縛り、側にいた武士から太刀を借りた。そして、蓮如と十郎とお雪に怪我人を押えさせ、一刀のもとに足を切り落とした。血の噴き出す切口に血止めの薬を塗り、毒消しの薬を飲ませた。
大した武将だった。足を切り落としても、わめかず、気絶もしなかった。
慣れた手付きで怪我人の治療をする風眼坊を見ていた蓮如、お雪、十郎の三人は驚きの気持ちを隠せなかった。
三人共、風眼坊が医者に化けると言った時、本当に信じていたわけではなかった。山伏流に病人や怪我人の前で祈祷をして治すのだろうと思っていた。ところが、風眼坊の治療は現実的だった。傷口を洗い、症状を見極め、思い切った事に足を切り落としてしまった。
足が切り落とされるのを目の前で見て、普通なら悲鳴を上げてしまうかもしれなかったお雪だったが、風眼坊の張り詰めた気持ちが、その場を覆っていたので、悲鳴を上げる事も忘れ、ただ一心に風眼坊のする事を手伝っていた。ようやく治療が終わり、風眼坊から「御苦労様」と言われた時になって、急に気が遠くなり、風眼坊の腕の中に倒れてしまったお雪だった。
蓮如が蓮照には会わないと言うので、本坊の方には行かなかったが、柴山八郎左衛門から大体の状況を知る事ができた。
今、本蓮寺周辺には江沼郡の光教寺、勝光寺、称名寺の門徒及び、能美郡の門徒、およそ五千人が待機していた。
富樫次郎政親は越前の門徒衆を率いて、本蓮寺より木場潟沿いに北に十五町(約一、六キロ)程先の小高い丘に陣を敷いていると言う。その数、一万人余りで、木場潟の湖上には柴山潟衆、今江潟衆、木場潟衆、一千人が船の上で待機している。
また、松岡寺には江沼郡の願成寺(ガンショウジ)、専称寺の門徒及び、板津(小松市)庄の門徒、大杉谷川沿いの川の民や山の民らが八千人程集まり、その中の一千人は本蓮寺と松岡寺の中央にある山の上に陣を張って蓮台寺城を見張り、三千人は前進して、一山越えれば、すぐに蓮台寺城の裏に出るという所まで進んでいた。
一千人が陣を敷いている山の上は、かつて、幸千代方が陣を敷いて松岡寺を攻撃していたが、六月三十日の決戦の時、何人もの犠牲者を出しながらも何とか攻め落とし、敵を追い出す事ができた。この山を本願寺方が取った事によって、大分、有利になったと言えた。
対する敵の高田派と幸千代連合軍は約二万の兵力を以て蓮台寺城を守っていた。
そして、蓮台寺城より北東一里程の距離にある軽海の守護所には五千人余りの兵が守り、これに対して、本願寺方は軽海潟を挟んで対岸にある鵜川(ウカワ)浄徳寺に陣を敷いていた。越前超勝寺巧遵の兄で浄徳寺の住持である慶恵(キョウエ)を大将とし、山上庄(辰口町)の門徒、石川郡の手取川流域の河原衆ら七千人余りが対峙していた。
また、河合藤左衛門率いる山之内(鳥越村)衆三千人も、富樫次郎方として浄徳寺と松岡寺の中間辺りに陣を敷いていた。
この時点では、白山の衆徒は動いていなかった。白山としては今回の戦を富樫家の家督争い及び、浄土真宗内の勢力争いと見ていた。白山としては戦に参加する理由はなかった。次郎方からも、幸千代方からも、再三、誘いは来ていたが動かなかった。今回の戦に参加して勝ったとしても、大して得る物はなく、まして、負けてしまえば、加賀の国は浄土真宗一色になってしまう。絶対に負けるわけにはいかなかった。負けないためには強い方に味方するしかなかったが、今の所、どちらが有利という見通しがつかない。白山衆徒は武装して門前を守りながらも不気味に動こうとはしなかった。
風眼坊たちは柴山八郎左衛門から状況を聞くと、松岡寺へと向かった。
出発する時になって疋田豊次郎がいない事に気づいた。本蓮寺の門前町に入るまでは、確かに一緒にいた。そして、風眼坊が怪我人を診ている時には、どこに行ったのか、いなかった。辺りを捜してみたが見つからないので、一行は豊次郎を置いて行く事にした。もしかしたら、先に富樫次郎の陣に向かったのかもしれないと一行が本蓮寺を後にして歩き出した時、後ろから呼び止められ、振り返ると豊次郎がこちらに向かって走っていた。
いつの間にやら甲冑を付け、太刀も帯びていた。右手には瓢箪(ヒョウタン)を持ち、風眼坊たちに追い付くと、「わしも連れて行ってくれ」と言った。
「どうしたんじゃ、その格好は」と風眼坊は聞いた。
「貰った」と豊次郎は笑った。
「門徒にか」
「ああ、気前がいいもんじゃ。ほれ、酒も貰ったわ」
「また、飲んでいるんですか」とお雪は豊次郎を睨んだ。
「そう、怒るな。別嬪(ベッピン)が台なしじゃ」
「付いて来るのは構わんが次郎殿の陣は北じゃぞ。わしらは、これから松岡寺に向かうんじゃが、それでもいいのか」
「おう。松岡寺も味方じゃろう。考えたんじゃがのう、わしは次郎殿に付いて戦うより、本願寺に付いて戦おうかと思っておるんじゃ」
「どうして」
「次郎殿に付いて戦うと、どうしても、幸千代方にいる同族と戦わなければならん。しかし、本願寺に付いて戦えば敵は高田派の門徒じゃろう。同族と戦わずに済むかもしれん」
「まあ、理屈はそうじゃが、高田派門徒と組んでいる幸千代方は、やはり、本願寺から見たら法敵と言う事じゃ」
「まあ、そうじゃが、わしら疋田一族の中にも本願寺の門徒になった奴が何人かおるんじゃ。奴らは、今まで、次郎殿を敵として幸千代殿に付いて戦をやって来た。しかし、今、本願寺が次郎殿に付いてしまった。幸千代殿に付いてしまった門徒たちはどうしておるのかと考えたんじゃ」
「成程な。と言う事は、あの蓮台寺城の中にも本願寺門徒がおるかもしれないと言うんじゃな」
「多分、おるはずじゃ。奴らは次郎殿を敵としてなら戦うだろうが、本願寺を相手には戦うまい」
「ふーむ。複雑な状況になっておるわけじゃのう」風眼坊はチラッと蓮如を見た。
蓮如は豊次郎の顔を見つめていたが何も言わなかった。
「それで、おぬしは、どうするつもりなんじゃ」
「まだ、分からん」と豊次郎は首を振った。「分からんが、何としてでも蓮台寺城に籠もっておる同族の者たちを助けたい」
「おぬしの言う事を聞いておると、今回の戦では本願寺方が勝つと決め込んでおるようじゃが、どうしてじゃ」
「どうしたも、こうしたも、事実じゃろうが、違うのか」
「はっきり言うとな、今の所は互角じゃ」
「互角?」と豊次郎は怪訝な顔をした。
「そうじゃ。もしかしたら本願寺が負けるかもしれん」
「次郎殿が負けると言うのか」
「その可能性もありと言うのじゃ」
「うーむ、互角か‥‥‥」
「しかし、もし、敵の中に本願寺の門徒がおるとしたら勝つ見込みはある」と風眼坊は言った。「とにかく、松岡寺に行ったら、その作戦を考えよう」
「ちょっと、待て。作戦を考える? 一体、おぬしは何者じゃ」
「わしは医者じゃ」
「おぬしらはどうも怪しい。おぬしは医者には見えんし‥‥‥」
「正真正銘のお医者様です」とお雪が言った。「さっき、怪我人の治療をして来たばかりです」
「ほう、治療をね。そう言う別嬪の姉さんは何者なんじゃ」
「わたしはお医者様の弟子です」
「なに、弟子だ?」
「はい。修行中ですけど」
「そっちの目付きの悪い爺さんは何者じゃ」
「わしが目付きが悪いとな」
「ああ。見るからに盗賊の親玉という感じじゃ」
「盗賊の親玉か‥‥‥そいつはいい。この方はのう、庭師じゃ」
蓮如に下男に化けてもらった風眼坊だったが、どうしても、蓮如を下男と呼ぶ事ができず、その時、ひらめいたまま、庭師と言ったのだった。
「庭師だ? 庭師がどうして医者と一緒にこんな所を歩いておるんじゃ」
「どちらも戦には欠かせんからじゃよ。庭師というのはのう、土木工事の専門家じゃ。番匠(バンショウ、大工)と共に陣を敷くのに欠かせんものじゃ」
「まあいい。おぬしらが何者であっても味方には違いあるまい。わしが怪我した時は姉さんに見て貰うかのう。よろしく、頼むわ」
「わたしの治療はちょっと荒いわよ。診てあげてもいいけど悲鳴なんか上げないでね」
「へっ、悲鳴なんか上げるか」
「お雪殿も言うのう」と風眼坊は笑った。
一行はすでに戦地に入っていた。
本蓮寺から松岡寺に向かう途中、幾つもの死体が転がっていた。身に着けていた武器や甲冑は勿論の事、着物まで剥がされて転がっていた。
その死体は皆、敵方の者だった。本願寺方の死体は皆、引き取られて行ったのだろうが、敵方の死体は放ったままだった。最も、敵方の者が、ここまで死体を引き取りに来る事は不可能だったが、哀れなものだった。この暑さの中、放って置かれた死体は腐り、蛆虫(ウジムシ)がわき、異臭を放っていた。
ただ、この哀れな死体たちにも廻向(エコウ)している者たちがいた。
時宗の徒であった。彼らは柴山潟の近くの潮津(ウシオツ)の道場の者たちだった。今回の戦では、本願寺方となって出陣して来たが、たとえ、敵であろうと死んでしまえば仏様じゃ、見て見ぬ振りはできぬと、こうして、廻向して回っているのだと言う。
蓮如はその事を聞いた時、自分が情けなく思われて来た。同じ、浄土宗でありながら、時宗の徒はこうして死者を弔(トムラ)っている。それに引き換え、本願寺の門徒たちは戦をして人を殺している。この辺りに転がっている死体は皆、本願寺門徒が殺したに違いなかった。しかも、身ぐるみまで剥がして‥‥‥
確かに、蓮如は門徒たちに死者の弔い方は教えなかった。しかし、本願寺の門徒たちが殺し、そして、死んでしまった者をそのまま、放って置くとは何という事だろうか‥‥‥それに比べ、時宗の徒の死者に対する振るまい方はどうだろう‥‥‥
今まで、蓮如は時宗の教えに反感を持って来た。純粋な浄土宗とは認めていなかった。しかし、教えは純粋でなくても、やっている事は、人間として当然の事ではないのだろうか、と思った。
当時、死に対する穢(ケガ)れは、現代人が想像もできない程、嫌がられていた。
現代では、宗教と言えば、どの宗派でも葬式をするが、当時、一般人の葬式を行なったのは時宗だけだった。身分の高い者たちは自分たちの菩提寺(ボダイジ)を持ち、そこの僧侶に行なわせた。しかし、僧侶とはいえ、死者に触れる事はなかった。直接、死者たちに触れるのは『清め』と呼ばれる者たち、あるいは、河原者と呼ばれる賤民(センミン)だった。彼ら賤民は差別されてはいても、穢れを清める特殊能力を持った者たちとして、死者を取り扱う際にはなくてはならない存在だった。それでは、一般人は死者をどうしていたかというと、ただ、決められた場所に捨てるだけだった。しかも、それは死の寸前であった。家の中で死んでしまうと家が穢れるというので、死ぬ前に外に出さなくてはならなかった。
宗教は、かつて、生きている者たちのより所だった。やがて、寺院が土地を失い、勢力もなくなると、生き残る手段として檀家(ダンカ)の死者の弔いをやるようになり、現代では、仏教といえば葬式というようになって行った。
蓮如はこの時、生きている者たちの事は勿論の事、死んで行った者たちも浄土に送らなければならないと改めて、思っていた。
蓮如は時宗の僧と共に死者の廻向を始めた。風眼坊にも蓮如の今の気持ちは痛い程分かった。お雪と十郎、そして、豊次郎は死者に触れる事を嫌がったが、風眼坊が、わしの加持(カジ)で穢れは落としてやる、と言うと、まず、お雪が蓮如を手伝った。お雪がやっているのに、十郎と豊次郎が見ていわけにもいかず、十郎も豊次郎も死者に手を触れた。一同は時宗の徒と共に敵の死者を弔った。
一行が松岡寺に着いたのは日が暮れる頃だった。
皆、土と汗にまみれた顔をしていたが、晴れ晴れとしていた。
疋田豊次郎は相変わらず、酔っ払っていた。
松岡寺に来るまで、偉そうな事をまくし立て、たった一人でも敵地に乗り込んで、一族を救い出すとまで言っていた豊次郎だったが、松岡寺の陣中の中で酒を見つけると、門徒たちの中に入って行き、酔い潰れるまで飲んでいた。
蓮如は松岡寺に着くと、途端に上人様に戻った。
さっさと勝手知っている松岡寺の庫裏に上がり込み、驚いている回りの者たちを尻目に、息子の蓮綱を呼ぶと坊主共を集めろと命じた。
蓮如は相変わらず、ぼろを纏っていたが、上人様として振る舞い、初めて、戦の指揮を執った。松岡寺にいる幹部連中を集めて、絵地図を見ながら、現在の状況と、これからの作戦を詳しく聞き、「負けてはならん。絶対に勝つのだ」と強い口調で言った。
松岡寺は以前とまったく変わっていた。寺院と言うより、完全な城塞だった。
松岡寺は大杉谷川を見下ろす小高い丘の上に建っていたが、大杉谷川から水を引き入れ、松岡寺の回りには幾重にも濠が掘られてあった。その濠の幅は三間(約五、五メートル)以上もあり、橋が架けられてあった。そして、濠の後ろには高い土塁が築かれ、松岡寺は勿論の事、多屋までが土塁に囲まれ守られてあった。その土塁の要所要所に見張り櫓(ヤグラ)があり、弓を構えた兵士が見張っていた。
土塁に囲まれた松岡寺の境内には、以前、ちょっとした庭園だった所に、兵士の溜まる長屋が建てられ、米蔵の数も増え、弓矢がどっさりと積んである武器庫まであった。土塁の上には本蓮寺と同じく、南無阿弥陀仏と書かれた旗が幾つも刺してあり、風になびいていた。
松岡寺の住持職の蓮綱は大将らしい甲冑を着て、立派な太刀を下げ、僧侶という身分も忘れて、自分が一軍の大将になったという事を誇りに思い、武将らしく振る舞っていた。先月の末、敵が攻めて来た時も堂々としていて大将らしく振る舞っていた。
蓮綱は生まれながらにして本願寺の坊主だったが、元々、抹香(マッコウ)臭い事は性に合わなかった。幼い頃から山や川で遊ぶのが好きで、いつもガキ大将でいた。武士の子として生まれたかったと、何度、思った事だろう。武士として、一軍を率いる大将になりたいというのは子供の頃からの夢だった。しかし、その夢を諦めて、ここ、波佐谷松岡寺の住職となった。
住職となっても、蓮綱はほとんど寺にはいなかった。いつも、山の中に入って布教活動を行なっていた。布教活動をするというより、寺の中にじっとしていられない性分だった。蓮綱は山や川に住む連中たちの中に入り、坊主としてというより、彼らの仲間といった方がいい程、溶け込んで行った。
門徒を獲得するやり方は父親の蓮如そっくりだったが、蓮綱はそんな布教をしていた頃の父親を知らなかった。幼い頃より父親のもとを離れ、二俣の本泉寺に預けられた蓮綱にとって、蓮如の存在は父親と言うよりは本願寺の法主、上人様と言ったほうがピンと来た。そして、時折、見る父親は机の前に坐って、難しい本を読んでいるか御文を書いていた。蓮綱は蓮如が足を使って門徒を増やして行ったと言う事を何度か話には聞いていても、実際に目にした事はなかった。
蓮如が突然、松岡寺に現れた時、蓮綱は軍配団扇(グンバイウチワ)を手にして床几(ショウギ)に坐り、大将として、どうあるべきかを一人、研究していた。そんな時、自分の名を呼ぶ蓮如の声を聞き、初め、耳を疑ったが、紛れもなく蓮如の声だと気づき、慌てて、軍配団扇をつかんだまま駈け出した。蓮如の姿を見て、驚き、そして、自分の姿を見て後悔した。
蓮綱はまず、蓮如に怒鳴られるだろうと思った。本願寺の僧でありながら、甲冑に身を固めている自分の姿を怒るだろうと思った。蓮如が争い事を好まない事は昔から知っていた。それなのに自分は争い事の張本人のような格好をしていた。しかし、蓮如は蓮綱の姿について何も言わなかった。ただ、坊主たちを集めろ、と一言命じただけだった。
この時、松岡寺にいた主な有力門徒たちは、まず、慶聞坊、そして、江沼郡から来た熊坂の願生坊と黒瀬藤兵衛、そして、大杉谷川流域の山の民の頭とも言える宇津呂備前守(ウツロビゼンノカミ)、金平(カネヒラ)金山の金(カネ)掘り衆の頭、猪股吉兵衛、板津(小松市)衆を率いる内山六郎右衛門だった。
この時、内山六郎右衛門は本蓮寺と松岡寺の中程にある山の上に、宇津呂備前守と猪股吉兵衛は松岡寺より半里程北の江指の地に陣を敷いていたが、蓮如が来たと言うので、慌てて松岡寺に飛んで来たのだった。
蓮如は皆を集めると、これからの作戦を聞いた。そして、一言、唸るように、「絶対に勝て!」と言った。そして、「早く勝って、さっさと、この戦を終わりにするんじゃ!」と付け足した。
それは、たったの一度だけだった。次の日も、次の日も作戦会議は毎日行われたが、蓮如は顔を出さなかった。庫裏の一番奥の客室に籠もって、何かを書いていた。
風眼坊とお雪は忙しかった。
医者という触込みで松岡寺に乗り込んで来たため、毎日、引張り凧の忙しさだった。
初めは、やはり、偉そうな武将の怪我の治療だったが、やがて、腕がいいとの評判が広まり、一般の門徒たちの治療もするようになって行った。そして、銭のない者からは無理に銭を取らないとの評判が広まると、いよいよ、大忙しとなって行った。
実際、風眼坊は驚いていた。今までの情報からして、まだ、それ程の犠牲者は出ていないと思っていたのに、事実は門徒の中にもかなりの犠牲者がいた。そして、その犠牲者たちの話によると、戦死した者もかなりいるようだった。先月の十二日の本蓮寺襲撃の時の犠牲者は分からないが、先月の末の決戦の時の戦死者は少なくとも百人はおり、負傷者においては一千人はいそうだった。
風眼坊はお雪と一緒に毎日、負傷者の治療をしたが、蓮如には喋らなかった。これ以上、蓮如を苦しめたくはなかった。
それにしても、お雪はよく働いた。これが富樫次郎の側室だったお雪の方かと疑いたくなる程、別人のように負傷者たちの面倒をよく見ていた。本蓮寺では治療の後に気絶してしまったが、松岡寺に来てからはそんな事はなかった。本蓮寺の時より、ひどい負傷者もいたのに、お雪は目を背ける事もせず、風眼坊の言うままに治療の手伝いをしていた。
風眼坊たちが蓮如と共に、この松岡寺にいたのは一月足らずだったが、誰ともなく、お雪の事を観音様と呼ぶようになっていた。風眼坊から見ても、確かに、お雪の負傷者に対する態度は観音様と言えるものだった。
酔っ払いの疋田豊次郎はどうしたかと言うと、河北郡二俣本泉寺へと旅立って行った。風眼坊が、豊次郎を使って、敵の中にいる本願寺門徒を寝返させようと蓮如に持ちかけた。蓮如は話に乗って来た。
幸千代に付いている武士たちは、ほとんどが北加賀の者たちだった。北加賀には本願寺門徒が多かった。彼らの身内の中に本願寺の門徒がいる可能性は高い。その門徒を利用して、敵の陣地にいる身内を寝返させるのだと風眼坊は言った。
武士と言う者は土地を守るために戦をする。特に、在地の国人たちは自分の土地を守るために、その土地を保証してくれる者のために戦に出ている。負ければ、すべての土地を失う事になるので必死になって戦う。すべて、土地のためだ。その土地を保証してくれる者が、たまたま、富樫幸千代だったというだけで、彼らは幸千代方として戦っている。実際、彼らにとって、それは幸千代だろうが、次郎だろうが、どっちでもいい事だった。もし、本願寺が土地の保証をしてくれれば、それでも構わないはずだ。彼らにとって、一番、重要な事は自分の土地を保証してくれる者が戦に勝つ、と言う事だけだった。
今の状態では、次郎と幸千代は五分五分の状態にある。しかし、河北郡の門徒が動けば、必ず、本願寺方、すなわち、次郎方が有利になる事は確かだ。そうなれば、北加賀の国人たちは土地を守るためには寝返る事もあるだろう。しかし、武士として寝返りを潔しとしない者もかなりいるだろう。そこで、彼らに逃げ道を与える。敵に寝返る事を潔しとしない者でも、本願寺門徒となる事によって、次郎を敵にするのは構わないが本願寺とは戦をしないという事で、幸千代の陣から引き上げる事ができる。そして、土地を本願寺に寄進すれば、その土地は本願寺の荘園となり守護不入の土地となる。本願寺が負けない限り、次郎が勝とうが幸千代が勝とうが、土地を取られる事はなくなるというわけだ。また、敵の中には武士たちに率いられて戦に来ている百姓たちもかなりいる。彼らの中には必ず、本願寺の門徒がいるに違いない。強制的に駆り出されて、兵となっている門徒たちがかなりいるはずだ。彼らも助け出さなくてはならない。
風眼坊は、延々と蓮如を口説き、豊次郎をその寝返り作戦に使おうと提案した。
「本願寺が土地を持つのか」と蓮如は不満顔をした。
「門徒の土地です。本願寺が領主になって、今までより低い年貢を取れば、百姓たちは喜びます」
「しかし、戦に勝つために、侍たちを門徒にするのはのう‥‥‥」
「今回の戦に勝つためです」
「‥‥‥しかし、あの疋田とかいう男は大丈夫なのか。いつも、酔っ払っておるようじゃが」
「大丈夫です。奴は、まだ、どうしたらいいのか悩んでおるのです。奴ははっきり言って純粋です。今のこの世について、奴なりに真剣に考えております。応仁の乱よりこのかた、将軍から下々の者まで同族同士、兄弟同士で争い、それが当たり前の世の中になっております。奴には、それがどうしてもできないのです。どうして、同族同士で争わなくてはならないのか、奴には分からず、つい酒に逃げてしまうのです。奴に、ちゃんとやり方を教えれば立派にやりとげるでしょう。その事はわたしが保証します」
「分かった。そなたの言う通りにしよう‥‥‥しかし、そなたは不思議なお人じゃ。そなた程の人が、どうして、いつまでもフラフラしておるのじゃろう。勿体ないのう‥‥‥」
風眼坊は豊次郎に蓮如の書いた書状を持たせて、蓮崇のいる本泉寺に送った。
書状には、この者、内密の使命を持って、本泉寺に遣わす。この者に協力して、本願寺に勝利をもたらすように願う、蓮如兼寿、と書かれてあった。
朝から暑い一日だった。
風眼坊と十郎は蓮如と同じ客室で寝起きしていた。
松岡寺に来てから風眼坊は医者としての仕事が忙しく、蓮如の身を守るという使命は十郎に任せ切りだった。幸いに、この警戒厳重な松岡寺に忍び込む程の者もおらず、何事もなかったが、すでに、蓮如がここにいる事は敵も気づいている事だろう。安心はできなかった。
風眼坊がまだ寝ぼけ眼(マナコ)でいる頃、お雪が風眼坊を呼びに来た。
お雪は、ここに来てからというもの益々、生き生きとして張り切り、美しくなって行った。毎日、暑いというのに、一人で涼しい顔をして忙しく働いていた。
「分かった。ちょっと待ってくれ」と風眼坊は言うと井戸の方に向かった。
朝日が輝き、今日も猛暑になりそうだった。
最近、雨がまったく降らないので、辺り一面、乾燥しきっていた。
風眼坊が井戸で顔を洗っている時だった。
「戦じゃ!」と叫びながら松岡寺の門に駆け込む者がいた。
七月の二十六日、風眼坊たちがここに来てから半月程が経っていた。
伝令の話によると、今日の早朝、蓮台寺城の城下において戦が始まり、今、決戦の最中だと言う。松岡寺からも至急、援軍を頼むとの事だった。
伝令からの話を聞くと、蓮綱は出撃命令を下した。
松岡寺に待機していた五千人のうち、二千人を松岡寺に残し、三千人を前線に向かわせた。前線に向かった三千人は江沼郡の門徒で熊坂願生坊と黒瀬藤兵衛が率いて行った。
「忙しくなるぞ」と風眼坊はお雪に言うと、お雪に薬の調合を命じ、薬を仕入れに町に出掛けた。
いよいよ、決戦か‥‥‥戦の勝利よりも犠牲者が余り出ない事を風眼坊は願った。
風眼坊は門徒たちの怪我の治療をしてから、信仰の強さというものを改めて知った。門徒たちはどんなに苦しい時でも、念仏を唱える事によって、それに耐えて来ていた。彼らにとって、どんな麻酔薬よりも、念仏の方が効くといってもいい程だった。
この念仏が戦場において使われた場合、集団催眠にかかり、命ぜられるままに敵に突進して行くという事になる。味方が有利の場合、それは物凄い効果を現すだろう。ところが、不利になって来た場合、それは自殺行為に等しく、大量の犠牲者を出してしまう事になる。そんな事にならないように願いながら、風眼坊は前線に向かう兵士たちを見送った。
この日より十日程前、河北郡の門徒がようやく動き始めていた。
二俣本泉寺を初め、鳥越弘願寺(グガンジ)、木越(キゴシ)光徳寺、磯部聖安寺(ショウアンジ)、英田(アガタ)広済寺、そして、石川郡の吉藤(ヨシフジ)専光寺、宮腰迎西寺(ミヤノコシギョウサイジ)、大桑善福寺(ゼンプクジ)、それらの門徒、総勢一万二千余りが動き出した。
彼らはまず、幸千代の本拠地である野々市(ノノイチ)の守護所を襲い、敵を追い出して占領した。そして、野々市に本陣を敷き、幸千代の家臣たちの領地を次々に攻めた。兵力となる者たちが皆、南加賀に出陣しているので、留守兵の守る敵の城や館はたやすく落とす事ができた。
蓮如の書状を持って、本泉寺に向かった疋田豊次郎は蓮崇と会って作戦を検討し、敵の中にいる同族を寝返えさせるために倉月庄疋田郷(金沢市)に帰って行った。
久し振りに故郷に帰った豊次郎は年寄り衆を集め、早速、本願寺側の提案を伝えた。年寄り衆は豊次郎の言う事になかなか賛成しなかったが、本願寺門徒によって野々市の守護所が占拠されたという事を知ると、本願寺の実力を思い知り、豊次郎の言う事を聞かざる得ない状況に追い込まれて行った。本願寺の門徒にならない限り、疋田郷にも門徒たちは攻めて来るのは確実だった。一万もの大軍に攻められたら、ひとたまりもなかった。
豊次郎の提案に賛成して本願寺の門徒となったのは疋田氏だけではなかった。木越光徳寺の近くを領する大場氏、磯部聖安寺の近くを領する諸江氏は、すでに門徒となっていたが、やがて、山本氏、中原氏、千田氏、高桑氏、浅野氏ら倉月庄の有力な郷士、ほとんどの者が本願寺の門徒となって行った。そして、彼らは戦場に出ている自分たちの身内を連れ戻すために使いの者を送った。
二十六日の早朝、決戦が始まると、倉月庄の郷士たちは野々市を占拠している本願寺門徒を倒すという名目で、さっそうと蓮台寺城を出ると、さっさと郷里に帰ってしまった。その兵は、そのまま本願寺の兵力となり、自領を拡大するために幸千代方の武士たちの領地の侵略横領を開始した。
また、遊撃軍として各地の高田派の寺院を襲っていた慶覚坊、蛭川新七郎、安吉源左衛門、高坂四郎左衛門らの成果も現れ、寺院を破壊され、追い出された坊主や門徒たちは皆、蓮台寺城へと逃げて行った。蓮台寺城では倉月庄の者たち二千人余りが減ったが、各地から、寺を追われた高田派の坊主や門徒たちが皆、集結して来た為、以前以上の兵力となっていた。
決戦は二十六日の朝から二十八日の日暮れまで、丸三日間、行なわれた。
松岡寺にいた風眼坊には、はっきりした情報はつかめなかった。噂では、二十六日の早朝、次郎の方から仕掛けたと言う。木場潟の東岸及び、軽海の守護所を囲む軽海潟の西岸の二ケ所において三日間、戦は行なわれたが、結局、決着は着かなかった。
木場潟の合戦では、初日は次郎政親、本願寺方が有利に展開して行った。しかし、二日目には幸千代方の総攻撃に合い、しかも、山から降りて来た敵に側面から攻撃され、味方は分断されて混乱に陥り、辛うじて本蓮寺まで退却した。やっとの思いで本蓮寺にたどり着いた次郎は部下たちを怒鳴り散らし、越前に帰ると喚いていたと言う。
三日目、本蓮寺の近くまで陣を進めた幸千代方の守護代、額熊夜叉(ヌカクマヤシャ)は一気に本蓮寺を潰しに掛かって来た。本蓮寺はもう少しのところで落城だったが、手薄になっていた蓮台寺城を宇津呂備前守率いる本願寺門徒が搦手(カラメテ)から襲い掛かり、城に火を掛けた。本城を襲われた熊夜叉は、あと寸前で落とせる本蓮寺の攻撃を諦め、蓮台寺城に引き上げて行った。蓮台寺城を攻めていた本願寺方も深入りはせずに引き上げた。
次の日、幸千代方は蓮台寺城の防備を固め、本願寺方は本蓮寺の防備を固め、お互い、守りを固めるだけで攻撃には出なかった。そして、また、膠着(コウチャク)状態へと入って行った。
一方、軽海潟の合戦では西岸において、守護所を守る幸千代方の狩野(カノウ)伊賀入道と浄徳寺に集結している門徒たちの間で行なわれ、一進一退という有り様だったが、本願寺方はじわじわと敵を包囲し、守護所と蓮台寺城との連絡線を断ち、孤立させて行った。
狩野伊賀入道は早くも守護所に立て籠もり、籠城作戦に入って行った。
この二ケ所の合戦だけを見ると五分五分というところだったが、加賀国全体に目をやると圧倒的に本願寺方の有利に展開していた。蓮台寺城を守る武士にしても、高田派門徒にしても、すでに帰る所がなくなっていた。もう、後がないといえた。
高田派の坊主及び門徒たちは憎き本願寺を倒すために必死だったが、幸千代というよりも、守護代の額熊夜叉に付いて来た国人たちの中には、北加賀にいる家族たちの事を心配し、寝返った倉月庄の郷士たちの噂を聞いて、心のぐらついて来ている者も多かった。
敵を内部から崩すために、慶覚坊は高田派の寺院を破壊するだけでなく、寺から追い出された高田派門徒に化けさせて、本願寺の門徒を蓮台寺城に送り込み、敵の心を動揺させる噂を流していた。
蓮崇は寝返った倉月庄の郷士たちを使って、大野庄(金沢市金石町周辺)、安江庄(金沢市安江町)、押野庄(金沢市押野町)、大桑庄(金沢市大桑町)などの国人たちの寝返りを勧めていた。
幸千代方の蓮台寺城は内部から、少しづつ崩壊への道へと進んでいた。
本願寺が様々な戦略を駆使している時、幸千代方は何もしなかったわけではなかった。しかし、本陣とした蓮台寺城の場所が悪かった。元々、幸千代の本拠地は北加賀の野々市だった。次郎を追い出すため南加賀に進出して、次郎を追い出す事に成功すると南加賀に腰を落着けてしまった。
幸千代方としては蓮台寺城を本拠地にして、加賀の国を一つにまとめて行くつもりだった。越前の甲斐八郎が幸千代のもとにいた時は西軍という立場もあり、加賀の国を一つにまとめられそうな兆しはあった。ところが、国内を統一する前に甲斐八郎が朝倉弾正左衛門尉と和解してしまい、越前に引き上げてしまった。そして、今まで押えていた高田派門徒が蜂起し、それを合図のように、次郎と本願寺が手を結び、幸千代に対抗して来た。幸千代は高田派と組み、敵を倒す決意をした。
一気に倒してしまうつもりだった。しかし、敵はなかなか、しぶとかった。つい、目の前の敵の事しか頭が行かず、改めて北加賀に戻って、戦陣を立て直すという事ができなかった。そうこうしているうちに北加賀は本願寺門徒に占領されるという有り様となり、戻る事ができなくなっていた。
幸千代の守護代、額熊夜叉は本拠地を本願寺にやられた事を知ると、能登、越中の西軍に援軍を頼み、越前の甲斐八郎にも援軍を頼んだ。
甲斐八郎と朝倉弾正左衛門尉は和解した時、お互いに加賀の事には干渉しないという取り決めをしていた。甲斐も朝倉も加賀に兵を送り込まなかった。
能登(石川県北部)も越中(富山県)も隣国の騒ぎに干渉する程の余裕はなかった。越中でも加賀と同様に、畠山家の分裂で国内が二つに割れて争っていた。能登も同様だった。幸千代を助ける為に英雄気取りで出陣したら、たちまち留守を狙われ、それこそ自分らが帰れなくなってしまう。加賀が東軍側になってしまうと京への陸路が閉ざされてしまうので、何とか助けてやりたいとは思うが、能登の守護代の遊佐(ユサ)美作守も、越中の守護代の遊佐河内守も、すぐに動く事はできなかった。
松岡寺の多屋には前線から続々と負傷者が送られて来た。とても、風眼坊とお雪の二人だけでは間に合わず、多屋の内方(ウチカタ)衆(妻や娘)にも手伝ってもらい、蓮如も出て来て手伝ってくれた。今回の三日間の合戦において、敵の犠牲者の数は分からないが、本願寺及び次郎方では死者は五、六百人、負傷者は二千人余りにも達していた。風眼坊とお雪たちが面倒みたのは、その中のほんの一部に過ぎなかった。
豊次郎は河北郡倉月庄疋田郷の郷士で、代々、富樫家の家臣だった。豊次郎が生まれた頃、富樫家は二つに分裂し、幕府首脳部の細川、畠山の勢力争いも絡んで戦に明け暮れていた。文安四年(一四四七年)、豊次郎が四歳の時、両派は和解し、北加賀の半国守護として富樫次郎成春(シゲハル)、南加賀の半国守護として富樫五郎泰高(ヤスタカ)となった。疋田氏は富樫次郎成春の家臣となった。
長禄二年(一四五八年)、北加賀守護の富樫次郎成春は、度重なる荘園横領によって守護職を解任され、北加賀の守護職は赤松次郎政則に与えられた。この交替劇の裏には、幕府首脳部の細川と畠山の権力争いが関係していた。三年前に畠山左衛門督(サエモンノカミ)持国が死亡し、畠山派だった成春が追放され、細川派の赤松が送り込まれて来たのだった。当時、十五歳だった豊次郎は父と共に戦に出て、侵入して来る赤松勢と戦ったが、結局、土地を守るため、赤松家の被官とならざるを得なかった。
寛正五年(一四六四年)、南加賀の守護、富樫五郎泰高は隠居し、成春の遺児、次郎政親が家督を継いで富樫家は一つになった。富樫家は一つになったが、成春派の家臣たちの多くは政親の家臣にはならず、表向きは赤松家の被官を装いながらも、赤松を追い出し、泰高派の政親を倒す事を心に決めていた。豊次郎は成春派の重臣だった本折(モトオリ)越前守と共に、次郎政親の家臣となり、幼い政親の側近に仕える事となった。
応仁元年(一四六七年)、大乱が始まり、旧領を回復した赤松政則は加賀から出て行った。ようやく、富樫次郎政親は加賀一国の守護となる事ができたが、反政親派は、政親の弟、幸千代を擁して西軍となり、越前の朝倉と組み、北加賀に於いて蜂起した。当時、政親と共に京都にいた豊次郎は東軍となり、国元にいる父親及び一族の者たちは皆、西軍と言う形になってしまった。
文明三年(一四七一年)、朝倉が東軍に寝返ると次郎政親は京から下向して加賀に入り、南加賀の守護所を占拠していた幸千代の軍を北加賀に追い返した。ところが、幸千代は朝倉に敗れた甲斐と手を組み、勢力を増し、去年の七月、とうとう次郎政親を加賀から追い出したのだった。
山之内庄において、豊次郎は次郎政親方として幸千代方と戦ったが、攻めて来る敵の中には豊次郎の弟たちや幼なじみの者たちもおり、豊次郎に限らず、同族同士で敵味方となって戦っている者が多かった。
豊次郎は途中で戦うのが嫌になり、戦場から離れて山の中へと入って行った。色々な事を考えながら山の中をさまよい、しばらくして山から出て来ると、すでに戦は終わり、次郎政親は越前に逃げていた。
幸千代は軽海(カルミ)の守護所近くの蓮台寺の小高い山の上に城を築いて、本陣としていた。
豊次郎は今更、幸千代方に寝返る事もできず、仕方なく越前一乗谷を目指して行ったが、途中、山代の湯まで来た時、湯女(ユナ)の誘いに負けて酒を飲み、やけくそになり、もう、どうにでもなれ、と毎日、酒浸りになった。持っていた銭も使い果し、太刀まで質に入れて飲んでしまい、あげくには遊女屋の用心棒となっていた。
もう、豊次郎にとって富樫家の家督争いなど、どうでもよかった。しかし、富樫次郎政親が、ようやく越前から加賀に進攻して来たという事を耳にし、しかも、本願寺門徒が次郎方に付くと聞いて、居たたまれず遊女屋を飛び出して来たのだった。
噂によると、次郎方が圧倒的に有利だと言う。幸千代方は本願寺門徒にやられるだろうとの事だった。幸千代方が負けるという事は疋田一族が負けるという事だった。一族が負ければ、当然、一族の土地は奪われる事になる。豊次郎一人が次郎方にいたとしても、一族の土地すべてを守る事はできないだろう。何とかしなければならないと思いながら、豊次郎は遊女屋を飛び出したが、どうしていいのか分からず、また酒にすがり、酔っ払いながらも、とにかく、次郎のもとに行こうと北を目指して歩き、柴山潟のほとりまで来て潰れてしまったのだった。
「それで、そなたは富樫次郎のもとに戻ってどうするつもりなんじゃ」と風眼坊は聞いた。
「分かりません。しかし、何とかしなければ‥‥‥」
「刀も飲んでしまわれたのですか」とお雪が聞いた。
「おっ」と豊次郎は腰を探ると、「らしいのう」と情けない顔をした。
「覚えておらんのか」と蓮如が聞いた。
「ああ、どこで、刀を酒に代えたのか、まったく覚えておらん」
「呆れた奴じゃのう」
「こんな所で寝ているなんて、ほんとに危険ですよ」
「分かっとる」
「それにしても、酒臭いのう」と風眼坊は鼻をつまんだ。
豊次郎はフラフラした足取りで、一行の後を付いて来た。
富樫次郎の陣に向かうにしても、こんなに酔っ払ったままで武器も持たずに行ったら、怪しまれるだけだった。それに、次郎がどこに陣を敷いているのかも分からない。とりあえず、風眼坊たちと共に門徒たちが陣を敷いている本蓮寺に行き、充分な情報をつかんでからの方がいいだろうという事になり、豊次郎も一緒に本蓮寺に向かっていた。
本蓮寺に近づくにつれて、あちこちに旗指物(ハタサシモノ)が見えて来た。旗の色は様々だったが、どれも皆、南無阿弥陀仏と書いてあった。本願寺の門徒衆が陣を敷いていたのだった。
門徒たちは様々な武器を手にして、古びてはいるが一応、皆、甲冑を身に着けていた。そして、彼らを指揮しているのは国人と呼ばれる在地領主、すなわち武士であった。武士たちは馬に乗り、色鮮やかな甲冑に身を包んでいた。彼らの中には丸めた頭に頭巾を被った者も何人かいた。
この辺りに陣を敷いている者たちは、江沼郡から来た門徒たちで、まだ戦をしてはいなかった。
一行は蓮如の書いた書状を見せながら門徒たちの陣を抜けて、本蓮寺へと向かった。
本蓮寺は武装した門徒たちで溢れていた。
今、現在、この本蓮寺が前線基地となっていた。続々と本蓮寺に江沼郡から兵糧米(ヒョウロウマイ)が運び込まれていた。
本蓮寺は高田派門徒の最初の攻撃に会い、本堂、庫裏、蔵は破壊された後、火を掛けられて全焼してしまっていた。辛うじて山門だけが昔の面影を残していた。焼けた本堂の跡に仮の道場が建てられ、その道場の後ろに小屋が三つ建てられてあった。寺の回りは土塁が高く築かれ、その土塁の上に南無阿弥陀仏と書かれた旗が幾つも並んで立てられ、風になびいていた。
本蓮寺の住持職は、越前超勝寺巧遵(ギョウジュン)の従兄弟(イトコ)に当たる蓮恵(レンエ)であったが、蓮恵は八年前に二十五歳の若さで亡くなってしまった。蓮恵の子の蓮心が跡を継いだが、蓮心はまだ十二歳だった。そこで、蓮如は異母弟の蓮照を後見として送り込んでいた。蓮照を大将として、勝光寺門徒の庄(ショウ)四郎五郎、柴山潟衆を率いる柴山八郎左衛門、浜方(ハマカタ)衆を率いる黒崎源五郎、塩焼き衆を率いる篠原太郎兵衛らの国人門徒が守っていた。
風眼坊は本蓮寺において、一人の武将の怪我の治療を行なった。
右足の矢傷で、大した治療もせずに放って置いたため、膿(ウミ)が出て、肉は腐りかけていた。すでに、毒が体に回って凄い熱だった。
風眼坊は傷口を綺麗に洗ってみたが、すでに変色している足を見て、切らなければ駄目だと判断した。風眼坊は傷口の上を紐できつく縛り、側にいた武士から太刀を借りた。そして、蓮如と十郎とお雪に怪我人を押えさせ、一刀のもとに足を切り落とした。血の噴き出す切口に血止めの薬を塗り、毒消しの薬を飲ませた。
大した武将だった。足を切り落としても、わめかず、気絶もしなかった。
慣れた手付きで怪我人の治療をする風眼坊を見ていた蓮如、お雪、十郎の三人は驚きの気持ちを隠せなかった。
三人共、風眼坊が医者に化けると言った時、本当に信じていたわけではなかった。山伏流に病人や怪我人の前で祈祷をして治すのだろうと思っていた。ところが、風眼坊の治療は現実的だった。傷口を洗い、症状を見極め、思い切った事に足を切り落としてしまった。
足が切り落とされるのを目の前で見て、普通なら悲鳴を上げてしまうかもしれなかったお雪だったが、風眼坊の張り詰めた気持ちが、その場を覆っていたので、悲鳴を上げる事も忘れ、ただ一心に風眼坊のする事を手伝っていた。ようやく治療が終わり、風眼坊から「御苦労様」と言われた時になって、急に気が遠くなり、風眼坊の腕の中に倒れてしまったお雪だった。
蓮如が蓮照には会わないと言うので、本坊の方には行かなかったが、柴山八郎左衛門から大体の状況を知る事ができた。
今、本蓮寺周辺には江沼郡の光教寺、勝光寺、称名寺の門徒及び、能美郡の門徒、およそ五千人が待機していた。
富樫次郎政親は越前の門徒衆を率いて、本蓮寺より木場潟沿いに北に十五町(約一、六キロ)程先の小高い丘に陣を敷いていると言う。その数、一万人余りで、木場潟の湖上には柴山潟衆、今江潟衆、木場潟衆、一千人が船の上で待機している。
また、松岡寺には江沼郡の願成寺(ガンショウジ)、専称寺の門徒及び、板津(小松市)庄の門徒、大杉谷川沿いの川の民や山の民らが八千人程集まり、その中の一千人は本蓮寺と松岡寺の中央にある山の上に陣を張って蓮台寺城を見張り、三千人は前進して、一山越えれば、すぐに蓮台寺城の裏に出るという所まで進んでいた。
一千人が陣を敷いている山の上は、かつて、幸千代方が陣を敷いて松岡寺を攻撃していたが、六月三十日の決戦の時、何人もの犠牲者を出しながらも何とか攻め落とし、敵を追い出す事ができた。この山を本願寺方が取った事によって、大分、有利になったと言えた。
対する敵の高田派と幸千代連合軍は約二万の兵力を以て蓮台寺城を守っていた。
そして、蓮台寺城より北東一里程の距離にある軽海の守護所には五千人余りの兵が守り、これに対して、本願寺方は軽海潟を挟んで対岸にある鵜川(ウカワ)浄徳寺に陣を敷いていた。越前超勝寺巧遵の兄で浄徳寺の住持である慶恵(キョウエ)を大将とし、山上庄(辰口町)の門徒、石川郡の手取川流域の河原衆ら七千人余りが対峙していた。
また、河合藤左衛門率いる山之内(鳥越村)衆三千人も、富樫次郎方として浄徳寺と松岡寺の中間辺りに陣を敷いていた。
この時点では、白山の衆徒は動いていなかった。白山としては今回の戦を富樫家の家督争い及び、浄土真宗内の勢力争いと見ていた。白山としては戦に参加する理由はなかった。次郎方からも、幸千代方からも、再三、誘いは来ていたが動かなかった。今回の戦に参加して勝ったとしても、大して得る物はなく、まして、負けてしまえば、加賀の国は浄土真宗一色になってしまう。絶対に負けるわけにはいかなかった。負けないためには強い方に味方するしかなかったが、今の所、どちらが有利という見通しがつかない。白山衆徒は武装して門前を守りながらも不気味に動こうとはしなかった。
風眼坊たちは柴山八郎左衛門から状況を聞くと、松岡寺へと向かった。
出発する時になって疋田豊次郎がいない事に気づいた。本蓮寺の門前町に入るまでは、確かに一緒にいた。そして、風眼坊が怪我人を診ている時には、どこに行ったのか、いなかった。辺りを捜してみたが見つからないので、一行は豊次郎を置いて行く事にした。もしかしたら、先に富樫次郎の陣に向かったのかもしれないと一行が本蓮寺を後にして歩き出した時、後ろから呼び止められ、振り返ると豊次郎がこちらに向かって走っていた。
いつの間にやら甲冑を付け、太刀も帯びていた。右手には瓢箪(ヒョウタン)を持ち、風眼坊たちに追い付くと、「わしも連れて行ってくれ」と言った。
「どうしたんじゃ、その格好は」と風眼坊は聞いた。
「貰った」と豊次郎は笑った。
「門徒にか」
「ああ、気前がいいもんじゃ。ほれ、酒も貰ったわ」
「また、飲んでいるんですか」とお雪は豊次郎を睨んだ。
「そう、怒るな。別嬪(ベッピン)が台なしじゃ」
「付いて来るのは構わんが次郎殿の陣は北じゃぞ。わしらは、これから松岡寺に向かうんじゃが、それでもいいのか」
「おう。松岡寺も味方じゃろう。考えたんじゃがのう、わしは次郎殿に付いて戦うより、本願寺に付いて戦おうかと思っておるんじゃ」
「どうして」
「次郎殿に付いて戦うと、どうしても、幸千代方にいる同族と戦わなければならん。しかし、本願寺に付いて戦えば敵は高田派の門徒じゃろう。同族と戦わずに済むかもしれん」
「まあ、理屈はそうじゃが、高田派門徒と組んでいる幸千代方は、やはり、本願寺から見たら法敵と言う事じゃ」
「まあ、そうじゃが、わしら疋田一族の中にも本願寺の門徒になった奴が何人かおるんじゃ。奴らは、今まで、次郎殿を敵として幸千代殿に付いて戦をやって来た。しかし、今、本願寺が次郎殿に付いてしまった。幸千代殿に付いてしまった門徒たちはどうしておるのかと考えたんじゃ」
「成程な。と言う事は、あの蓮台寺城の中にも本願寺門徒がおるかもしれないと言うんじゃな」
「多分、おるはずじゃ。奴らは次郎殿を敵としてなら戦うだろうが、本願寺を相手には戦うまい」
「ふーむ。複雑な状況になっておるわけじゃのう」風眼坊はチラッと蓮如を見た。
蓮如は豊次郎の顔を見つめていたが何も言わなかった。
「それで、おぬしは、どうするつもりなんじゃ」
「まだ、分からん」と豊次郎は首を振った。「分からんが、何としてでも蓮台寺城に籠もっておる同族の者たちを助けたい」
「おぬしの言う事を聞いておると、今回の戦では本願寺方が勝つと決め込んでおるようじゃが、どうしてじゃ」
「どうしたも、こうしたも、事実じゃろうが、違うのか」
「はっきり言うとな、今の所は互角じゃ」
「互角?」と豊次郎は怪訝な顔をした。
「そうじゃ。もしかしたら本願寺が負けるかもしれん」
「次郎殿が負けると言うのか」
「その可能性もありと言うのじゃ」
「うーむ、互角か‥‥‥」
「しかし、もし、敵の中に本願寺の門徒がおるとしたら勝つ見込みはある」と風眼坊は言った。「とにかく、松岡寺に行ったら、その作戦を考えよう」
「ちょっと、待て。作戦を考える? 一体、おぬしは何者じゃ」
「わしは医者じゃ」
「おぬしらはどうも怪しい。おぬしは医者には見えんし‥‥‥」
「正真正銘のお医者様です」とお雪が言った。「さっき、怪我人の治療をして来たばかりです」
「ほう、治療をね。そう言う別嬪の姉さんは何者なんじゃ」
「わたしはお医者様の弟子です」
「なに、弟子だ?」
「はい。修行中ですけど」
「そっちの目付きの悪い爺さんは何者じゃ」
「わしが目付きが悪いとな」
「ああ。見るからに盗賊の親玉という感じじゃ」
「盗賊の親玉か‥‥‥そいつはいい。この方はのう、庭師じゃ」
蓮如に下男に化けてもらった風眼坊だったが、どうしても、蓮如を下男と呼ぶ事ができず、その時、ひらめいたまま、庭師と言ったのだった。
「庭師だ? 庭師がどうして医者と一緒にこんな所を歩いておるんじゃ」
「どちらも戦には欠かせんからじゃよ。庭師というのはのう、土木工事の専門家じゃ。番匠(バンショウ、大工)と共に陣を敷くのに欠かせんものじゃ」
「まあいい。おぬしらが何者であっても味方には違いあるまい。わしが怪我した時は姉さんに見て貰うかのう。よろしく、頼むわ」
「わたしの治療はちょっと荒いわよ。診てあげてもいいけど悲鳴なんか上げないでね」
「へっ、悲鳴なんか上げるか」
「お雪殿も言うのう」と風眼坊は笑った。
一行はすでに戦地に入っていた。
本蓮寺から松岡寺に向かう途中、幾つもの死体が転がっていた。身に着けていた武器や甲冑は勿論の事、着物まで剥がされて転がっていた。
その死体は皆、敵方の者だった。本願寺方の死体は皆、引き取られて行ったのだろうが、敵方の死体は放ったままだった。最も、敵方の者が、ここまで死体を引き取りに来る事は不可能だったが、哀れなものだった。この暑さの中、放って置かれた死体は腐り、蛆虫(ウジムシ)がわき、異臭を放っていた。
ただ、この哀れな死体たちにも廻向(エコウ)している者たちがいた。
時宗の徒であった。彼らは柴山潟の近くの潮津(ウシオツ)の道場の者たちだった。今回の戦では、本願寺方となって出陣して来たが、たとえ、敵であろうと死んでしまえば仏様じゃ、見て見ぬ振りはできぬと、こうして、廻向して回っているのだと言う。
蓮如はその事を聞いた時、自分が情けなく思われて来た。同じ、浄土宗でありながら、時宗の徒はこうして死者を弔(トムラ)っている。それに引き換え、本願寺の門徒たちは戦をして人を殺している。この辺りに転がっている死体は皆、本願寺門徒が殺したに違いなかった。しかも、身ぐるみまで剥がして‥‥‥
確かに、蓮如は門徒たちに死者の弔い方は教えなかった。しかし、本願寺の門徒たちが殺し、そして、死んでしまった者をそのまま、放って置くとは何という事だろうか‥‥‥それに比べ、時宗の徒の死者に対する振るまい方はどうだろう‥‥‥
今まで、蓮如は時宗の教えに反感を持って来た。純粋な浄土宗とは認めていなかった。しかし、教えは純粋でなくても、やっている事は、人間として当然の事ではないのだろうか、と思った。
当時、死に対する穢(ケガ)れは、現代人が想像もできない程、嫌がられていた。
現代では、宗教と言えば、どの宗派でも葬式をするが、当時、一般人の葬式を行なったのは時宗だけだった。身分の高い者たちは自分たちの菩提寺(ボダイジ)を持ち、そこの僧侶に行なわせた。しかし、僧侶とはいえ、死者に触れる事はなかった。直接、死者たちに触れるのは『清め』と呼ばれる者たち、あるいは、河原者と呼ばれる賤民(センミン)だった。彼ら賤民は差別されてはいても、穢れを清める特殊能力を持った者たちとして、死者を取り扱う際にはなくてはならない存在だった。それでは、一般人は死者をどうしていたかというと、ただ、決められた場所に捨てるだけだった。しかも、それは死の寸前であった。家の中で死んでしまうと家が穢れるというので、死ぬ前に外に出さなくてはならなかった。
宗教は、かつて、生きている者たちのより所だった。やがて、寺院が土地を失い、勢力もなくなると、生き残る手段として檀家(ダンカ)の死者の弔いをやるようになり、現代では、仏教といえば葬式というようになって行った。
蓮如はこの時、生きている者たちの事は勿論の事、死んで行った者たちも浄土に送らなければならないと改めて、思っていた。
蓮如は時宗の僧と共に死者の廻向を始めた。風眼坊にも蓮如の今の気持ちは痛い程分かった。お雪と十郎、そして、豊次郎は死者に触れる事を嫌がったが、風眼坊が、わしの加持(カジ)で穢れは落としてやる、と言うと、まず、お雪が蓮如を手伝った。お雪がやっているのに、十郎と豊次郎が見ていわけにもいかず、十郎も豊次郎も死者に手を触れた。一同は時宗の徒と共に敵の死者を弔った。
一行が松岡寺に着いたのは日が暮れる頃だった。
皆、土と汗にまみれた顔をしていたが、晴れ晴れとしていた。
4
疋田豊次郎は相変わらず、酔っ払っていた。
松岡寺に来るまで、偉そうな事をまくし立て、たった一人でも敵地に乗り込んで、一族を救い出すとまで言っていた豊次郎だったが、松岡寺の陣中の中で酒を見つけると、門徒たちの中に入って行き、酔い潰れるまで飲んでいた。
蓮如は松岡寺に着くと、途端に上人様に戻った。
さっさと勝手知っている松岡寺の庫裏に上がり込み、驚いている回りの者たちを尻目に、息子の蓮綱を呼ぶと坊主共を集めろと命じた。
蓮如は相変わらず、ぼろを纏っていたが、上人様として振る舞い、初めて、戦の指揮を執った。松岡寺にいる幹部連中を集めて、絵地図を見ながら、現在の状況と、これからの作戦を詳しく聞き、「負けてはならん。絶対に勝つのだ」と強い口調で言った。
松岡寺は以前とまったく変わっていた。寺院と言うより、完全な城塞だった。
松岡寺は大杉谷川を見下ろす小高い丘の上に建っていたが、大杉谷川から水を引き入れ、松岡寺の回りには幾重にも濠が掘られてあった。その濠の幅は三間(約五、五メートル)以上もあり、橋が架けられてあった。そして、濠の後ろには高い土塁が築かれ、松岡寺は勿論の事、多屋までが土塁に囲まれ守られてあった。その土塁の要所要所に見張り櫓(ヤグラ)があり、弓を構えた兵士が見張っていた。
土塁に囲まれた松岡寺の境内には、以前、ちょっとした庭園だった所に、兵士の溜まる長屋が建てられ、米蔵の数も増え、弓矢がどっさりと積んである武器庫まであった。土塁の上には本蓮寺と同じく、南無阿弥陀仏と書かれた旗が幾つも刺してあり、風になびいていた。
松岡寺の住持職の蓮綱は大将らしい甲冑を着て、立派な太刀を下げ、僧侶という身分も忘れて、自分が一軍の大将になったという事を誇りに思い、武将らしく振る舞っていた。先月の末、敵が攻めて来た時も堂々としていて大将らしく振る舞っていた。
蓮綱は生まれながらにして本願寺の坊主だったが、元々、抹香(マッコウ)臭い事は性に合わなかった。幼い頃から山や川で遊ぶのが好きで、いつもガキ大将でいた。武士の子として生まれたかったと、何度、思った事だろう。武士として、一軍を率いる大将になりたいというのは子供の頃からの夢だった。しかし、その夢を諦めて、ここ、波佐谷松岡寺の住職となった。
住職となっても、蓮綱はほとんど寺にはいなかった。いつも、山の中に入って布教活動を行なっていた。布教活動をするというより、寺の中にじっとしていられない性分だった。蓮綱は山や川に住む連中たちの中に入り、坊主としてというより、彼らの仲間といった方がいい程、溶け込んで行った。
門徒を獲得するやり方は父親の蓮如そっくりだったが、蓮綱はそんな布教をしていた頃の父親を知らなかった。幼い頃より父親のもとを離れ、二俣の本泉寺に預けられた蓮綱にとって、蓮如の存在は父親と言うよりは本願寺の法主、上人様と言ったほうがピンと来た。そして、時折、見る父親は机の前に坐って、難しい本を読んでいるか御文を書いていた。蓮綱は蓮如が足を使って門徒を増やして行ったと言う事を何度か話には聞いていても、実際に目にした事はなかった。
蓮如が突然、松岡寺に現れた時、蓮綱は軍配団扇(グンバイウチワ)を手にして床几(ショウギ)に坐り、大将として、どうあるべきかを一人、研究していた。そんな時、自分の名を呼ぶ蓮如の声を聞き、初め、耳を疑ったが、紛れもなく蓮如の声だと気づき、慌てて、軍配団扇をつかんだまま駈け出した。蓮如の姿を見て、驚き、そして、自分の姿を見て後悔した。
蓮綱はまず、蓮如に怒鳴られるだろうと思った。本願寺の僧でありながら、甲冑に身を固めている自分の姿を怒るだろうと思った。蓮如が争い事を好まない事は昔から知っていた。それなのに自分は争い事の張本人のような格好をしていた。しかし、蓮如は蓮綱の姿について何も言わなかった。ただ、坊主たちを集めろ、と一言命じただけだった。
この時、松岡寺にいた主な有力門徒たちは、まず、慶聞坊、そして、江沼郡から来た熊坂の願生坊と黒瀬藤兵衛、そして、大杉谷川流域の山の民の頭とも言える宇津呂備前守(ウツロビゼンノカミ)、金平(カネヒラ)金山の金(カネ)掘り衆の頭、猪股吉兵衛、板津(小松市)衆を率いる内山六郎右衛門だった。
この時、内山六郎右衛門は本蓮寺と松岡寺の中程にある山の上に、宇津呂備前守と猪股吉兵衛は松岡寺より半里程北の江指の地に陣を敷いていたが、蓮如が来たと言うので、慌てて松岡寺に飛んで来たのだった。
蓮如は皆を集めると、これからの作戦を聞いた。そして、一言、唸るように、「絶対に勝て!」と言った。そして、「早く勝って、さっさと、この戦を終わりにするんじゃ!」と付け足した。
それは、たったの一度だけだった。次の日も、次の日も作戦会議は毎日行われたが、蓮如は顔を出さなかった。庫裏の一番奥の客室に籠もって、何かを書いていた。
風眼坊とお雪は忙しかった。
医者という触込みで松岡寺に乗り込んで来たため、毎日、引張り凧の忙しさだった。
初めは、やはり、偉そうな武将の怪我の治療だったが、やがて、腕がいいとの評判が広まり、一般の門徒たちの治療もするようになって行った。そして、銭のない者からは無理に銭を取らないとの評判が広まると、いよいよ、大忙しとなって行った。
実際、風眼坊は驚いていた。今までの情報からして、まだ、それ程の犠牲者は出ていないと思っていたのに、事実は門徒の中にもかなりの犠牲者がいた。そして、その犠牲者たちの話によると、戦死した者もかなりいるようだった。先月の十二日の本蓮寺襲撃の時の犠牲者は分からないが、先月の末の決戦の時の戦死者は少なくとも百人はおり、負傷者においては一千人はいそうだった。
風眼坊はお雪と一緒に毎日、負傷者の治療をしたが、蓮如には喋らなかった。これ以上、蓮如を苦しめたくはなかった。
それにしても、お雪はよく働いた。これが富樫次郎の側室だったお雪の方かと疑いたくなる程、別人のように負傷者たちの面倒をよく見ていた。本蓮寺では治療の後に気絶してしまったが、松岡寺に来てからはそんな事はなかった。本蓮寺の時より、ひどい負傷者もいたのに、お雪は目を背ける事もせず、風眼坊の言うままに治療の手伝いをしていた。
風眼坊たちが蓮如と共に、この松岡寺にいたのは一月足らずだったが、誰ともなく、お雪の事を観音様と呼ぶようになっていた。風眼坊から見ても、確かに、お雪の負傷者に対する態度は観音様と言えるものだった。
酔っ払いの疋田豊次郎はどうしたかと言うと、河北郡二俣本泉寺へと旅立って行った。風眼坊が、豊次郎を使って、敵の中にいる本願寺門徒を寝返させようと蓮如に持ちかけた。蓮如は話に乗って来た。
幸千代に付いている武士たちは、ほとんどが北加賀の者たちだった。北加賀には本願寺門徒が多かった。彼らの身内の中に本願寺の門徒がいる可能性は高い。その門徒を利用して、敵の陣地にいる身内を寝返させるのだと風眼坊は言った。
武士と言う者は土地を守るために戦をする。特に、在地の国人たちは自分の土地を守るために、その土地を保証してくれる者のために戦に出ている。負ければ、すべての土地を失う事になるので必死になって戦う。すべて、土地のためだ。その土地を保証してくれる者が、たまたま、富樫幸千代だったというだけで、彼らは幸千代方として戦っている。実際、彼らにとって、それは幸千代だろうが、次郎だろうが、どっちでもいい事だった。もし、本願寺が土地の保証をしてくれれば、それでも構わないはずだ。彼らにとって、一番、重要な事は自分の土地を保証してくれる者が戦に勝つ、と言う事だけだった。
今の状態では、次郎と幸千代は五分五分の状態にある。しかし、河北郡の門徒が動けば、必ず、本願寺方、すなわち、次郎方が有利になる事は確かだ。そうなれば、北加賀の国人たちは土地を守るためには寝返る事もあるだろう。しかし、武士として寝返りを潔しとしない者もかなりいるだろう。そこで、彼らに逃げ道を与える。敵に寝返る事を潔しとしない者でも、本願寺門徒となる事によって、次郎を敵にするのは構わないが本願寺とは戦をしないという事で、幸千代の陣から引き上げる事ができる。そして、土地を本願寺に寄進すれば、その土地は本願寺の荘園となり守護不入の土地となる。本願寺が負けない限り、次郎が勝とうが幸千代が勝とうが、土地を取られる事はなくなるというわけだ。また、敵の中には武士たちに率いられて戦に来ている百姓たちもかなりいる。彼らの中には必ず、本願寺の門徒がいるに違いない。強制的に駆り出されて、兵となっている門徒たちがかなりいるはずだ。彼らも助け出さなくてはならない。
風眼坊は、延々と蓮如を口説き、豊次郎をその寝返り作戦に使おうと提案した。
「本願寺が土地を持つのか」と蓮如は不満顔をした。
「門徒の土地です。本願寺が領主になって、今までより低い年貢を取れば、百姓たちは喜びます」
「しかし、戦に勝つために、侍たちを門徒にするのはのう‥‥‥」
「今回の戦に勝つためです」
「‥‥‥しかし、あの疋田とかいう男は大丈夫なのか。いつも、酔っ払っておるようじゃが」
「大丈夫です。奴は、まだ、どうしたらいいのか悩んでおるのです。奴ははっきり言って純粋です。今のこの世について、奴なりに真剣に考えております。応仁の乱よりこのかた、将軍から下々の者まで同族同士、兄弟同士で争い、それが当たり前の世の中になっております。奴には、それがどうしてもできないのです。どうして、同族同士で争わなくてはならないのか、奴には分からず、つい酒に逃げてしまうのです。奴に、ちゃんとやり方を教えれば立派にやりとげるでしょう。その事はわたしが保証します」
「分かった。そなたの言う通りにしよう‥‥‥しかし、そなたは不思議なお人じゃ。そなた程の人が、どうして、いつまでもフラフラしておるのじゃろう。勿体ないのう‥‥‥」
風眼坊は豊次郎に蓮如の書いた書状を持たせて、蓮崇のいる本泉寺に送った。
書状には、この者、内密の使命を持って、本泉寺に遣わす。この者に協力して、本願寺に勝利をもたらすように願う、蓮如兼寿、と書かれてあった。
5
朝から暑い一日だった。
風眼坊と十郎は蓮如と同じ客室で寝起きしていた。
松岡寺に来てから風眼坊は医者としての仕事が忙しく、蓮如の身を守るという使命は十郎に任せ切りだった。幸いに、この警戒厳重な松岡寺に忍び込む程の者もおらず、何事もなかったが、すでに、蓮如がここにいる事は敵も気づいている事だろう。安心はできなかった。
風眼坊がまだ寝ぼけ眼(マナコ)でいる頃、お雪が風眼坊を呼びに来た。
お雪は、ここに来てからというもの益々、生き生きとして張り切り、美しくなって行った。毎日、暑いというのに、一人で涼しい顔をして忙しく働いていた。
「分かった。ちょっと待ってくれ」と風眼坊は言うと井戸の方に向かった。
朝日が輝き、今日も猛暑になりそうだった。
最近、雨がまったく降らないので、辺り一面、乾燥しきっていた。
風眼坊が井戸で顔を洗っている時だった。
「戦じゃ!」と叫びながら松岡寺の門に駆け込む者がいた。
七月の二十六日、風眼坊たちがここに来てから半月程が経っていた。
伝令の話によると、今日の早朝、蓮台寺城の城下において戦が始まり、今、決戦の最中だと言う。松岡寺からも至急、援軍を頼むとの事だった。
伝令からの話を聞くと、蓮綱は出撃命令を下した。
松岡寺に待機していた五千人のうち、二千人を松岡寺に残し、三千人を前線に向かわせた。前線に向かった三千人は江沼郡の門徒で熊坂願生坊と黒瀬藤兵衛が率いて行った。
「忙しくなるぞ」と風眼坊はお雪に言うと、お雪に薬の調合を命じ、薬を仕入れに町に出掛けた。
いよいよ、決戦か‥‥‥戦の勝利よりも犠牲者が余り出ない事を風眼坊は願った。
風眼坊は門徒たちの怪我の治療をしてから、信仰の強さというものを改めて知った。門徒たちはどんなに苦しい時でも、念仏を唱える事によって、それに耐えて来ていた。彼らにとって、どんな麻酔薬よりも、念仏の方が効くといってもいい程だった。
この念仏が戦場において使われた場合、集団催眠にかかり、命ぜられるままに敵に突進して行くという事になる。味方が有利の場合、それは物凄い効果を現すだろう。ところが、不利になって来た場合、それは自殺行為に等しく、大量の犠牲者を出してしまう事になる。そんな事にならないように願いながら、風眼坊は前線に向かう兵士たちを見送った。
この日より十日程前、河北郡の門徒がようやく動き始めていた。
二俣本泉寺を初め、鳥越弘願寺(グガンジ)、木越(キゴシ)光徳寺、磯部聖安寺(ショウアンジ)、英田(アガタ)広済寺、そして、石川郡の吉藤(ヨシフジ)専光寺、宮腰迎西寺(ミヤノコシギョウサイジ)、大桑善福寺(ゼンプクジ)、それらの門徒、総勢一万二千余りが動き出した。
彼らはまず、幸千代の本拠地である野々市(ノノイチ)の守護所を襲い、敵を追い出して占領した。そして、野々市に本陣を敷き、幸千代の家臣たちの領地を次々に攻めた。兵力となる者たちが皆、南加賀に出陣しているので、留守兵の守る敵の城や館はたやすく落とす事ができた。
蓮如の書状を持って、本泉寺に向かった疋田豊次郎は蓮崇と会って作戦を検討し、敵の中にいる同族を寝返えさせるために倉月庄疋田郷(金沢市)に帰って行った。
久し振りに故郷に帰った豊次郎は年寄り衆を集め、早速、本願寺側の提案を伝えた。年寄り衆は豊次郎の言う事になかなか賛成しなかったが、本願寺門徒によって野々市の守護所が占拠されたという事を知ると、本願寺の実力を思い知り、豊次郎の言う事を聞かざる得ない状況に追い込まれて行った。本願寺の門徒にならない限り、疋田郷にも門徒たちは攻めて来るのは確実だった。一万もの大軍に攻められたら、ひとたまりもなかった。
豊次郎の提案に賛成して本願寺の門徒となったのは疋田氏だけではなかった。木越光徳寺の近くを領する大場氏、磯部聖安寺の近くを領する諸江氏は、すでに門徒となっていたが、やがて、山本氏、中原氏、千田氏、高桑氏、浅野氏ら倉月庄の有力な郷士、ほとんどの者が本願寺の門徒となって行った。そして、彼らは戦場に出ている自分たちの身内を連れ戻すために使いの者を送った。
二十六日の早朝、決戦が始まると、倉月庄の郷士たちは野々市を占拠している本願寺門徒を倒すという名目で、さっそうと蓮台寺城を出ると、さっさと郷里に帰ってしまった。その兵は、そのまま本願寺の兵力となり、自領を拡大するために幸千代方の武士たちの領地の侵略横領を開始した。
また、遊撃軍として各地の高田派の寺院を襲っていた慶覚坊、蛭川新七郎、安吉源左衛門、高坂四郎左衛門らの成果も現れ、寺院を破壊され、追い出された坊主や門徒たちは皆、蓮台寺城へと逃げて行った。蓮台寺城では倉月庄の者たち二千人余りが減ったが、各地から、寺を追われた高田派の坊主や門徒たちが皆、集結して来た為、以前以上の兵力となっていた。
決戦は二十六日の朝から二十八日の日暮れまで、丸三日間、行なわれた。
松岡寺にいた風眼坊には、はっきりした情報はつかめなかった。噂では、二十六日の早朝、次郎の方から仕掛けたと言う。木場潟の東岸及び、軽海の守護所を囲む軽海潟の西岸の二ケ所において三日間、戦は行なわれたが、結局、決着は着かなかった。
木場潟の合戦では、初日は次郎政親、本願寺方が有利に展開して行った。しかし、二日目には幸千代方の総攻撃に合い、しかも、山から降りて来た敵に側面から攻撃され、味方は分断されて混乱に陥り、辛うじて本蓮寺まで退却した。やっとの思いで本蓮寺にたどり着いた次郎は部下たちを怒鳴り散らし、越前に帰ると喚いていたと言う。
三日目、本蓮寺の近くまで陣を進めた幸千代方の守護代、額熊夜叉(ヌカクマヤシャ)は一気に本蓮寺を潰しに掛かって来た。本蓮寺はもう少しのところで落城だったが、手薄になっていた蓮台寺城を宇津呂備前守率いる本願寺門徒が搦手(カラメテ)から襲い掛かり、城に火を掛けた。本城を襲われた熊夜叉は、あと寸前で落とせる本蓮寺の攻撃を諦め、蓮台寺城に引き上げて行った。蓮台寺城を攻めていた本願寺方も深入りはせずに引き上げた。
次の日、幸千代方は蓮台寺城の防備を固め、本願寺方は本蓮寺の防備を固め、お互い、守りを固めるだけで攻撃には出なかった。そして、また、膠着(コウチャク)状態へと入って行った。
一方、軽海潟の合戦では西岸において、守護所を守る幸千代方の狩野(カノウ)伊賀入道と浄徳寺に集結している門徒たちの間で行なわれ、一進一退という有り様だったが、本願寺方はじわじわと敵を包囲し、守護所と蓮台寺城との連絡線を断ち、孤立させて行った。
狩野伊賀入道は早くも守護所に立て籠もり、籠城作戦に入って行った。
この二ケ所の合戦だけを見ると五分五分というところだったが、加賀国全体に目をやると圧倒的に本願寺方の有利に展開していた。蓮台寺城を守る武士にしても、高田派門徒にしても、すでに帰る所がなくなっていた。もう、後がないといえた。
高田派の坊主及び門徒たちは憎き本願寺を倒すために必死だったが、幸千代というよりも、守護代の額熊夜叉に付いて来た国人たちの中には、北加賀にいる家族たちの事を心配し、寝返った倉月庄の郷士たちの噂を聞いて、心のぐらついて来ている者も多かった。
敵を内部から崩すために、慶覚坊は高田派の寺院を破壊するだけでなく、寺から追い出された高田派門徒に化けさせて、本願寺の門徒を蓮台寺城に送り込み、敵の心を動揺させる噂を流していた。
蓮崇は寝返った倉月庄の郷士たちを使って、大野庄(金沢市金石町周辺)、安江庄(金沢市安江町)、押野庄(金沢市押野町)、大桑庄(金沢市大桑町)などの国人たちの寝返りを勧めていた。
幸千代方の蓮台寺城は内部から、少しづつ崩壊への道へと進んでいた。
本願寺が様々な戦略を駆使している時、幸千代方は何もしなかったわけではなかった。しかし、本陣とした蓮台寺城の場所が悪かった。元々、幸千代の本拠地は北加賀の野々市だった。次郎を追い出すため南加賀に進出して、次郎を追い出す事に成功すると南加賀に腰を落着けてしまった。
幸千代方としては蓮台寺城を本拠地にして、加賀の国を一つにまとめて行くつもりだった。越前の甲斐八郎が幸千代のもとにいた時は西軍という立場もあり、加賀の国を一つにまとめられそうな兆しはあった。ところが、国内を統一する前に甲斐八郎が朝倉弾正左衛門尉と和解してしまい、越前に引き上げてしまった。そして、今まで押えていた高田派門徒が蜂起し、それを合図のように、次郎と本願寺が手を結び、幸千代に対抗して来た。幸千代は高田派と組み、敵を倒す決意をした。
一気に倒してしまうつもりだった。しかし、敵はなかなか、しぶとかった。つい、目の前の敵の事しか頭が行かず、改めて北加賀に戻って、戦陣を立て直すという事ができなかった。そうこうしているうちに北加賀は本願寺門徒に占領されるという有り様となり、戻る事ができなくなっていた。
幸千代の守護代、額熊夜叉は本拠地を本願寺にやられた事を知ると、能登、越中の西軍に援軍を頼み、越前の甲斐八郎にも援軍を頼んだ。
甲斐八郎と朝倉弾正左衛門尉は和解した時、お互いに加賀の事には干渉しないという取り決めをしていた。甲斐も朝倉も加賀に兵を送り込まなかった。
能登(石川県北部)も越中(富山県)も隣国の騒ぎに干渉する程の余裕はなかった。越中でも加賀と同様に、畠山家の分裂で国内が二つに割れて争っていた。能登も同様だった。幸千代を助ける為に英雄気取りで出陣したら、たちまち留守を狙われ、それこそ自分らが帰れなくなってしまう。加賀が東軍側になってしまうと京への陸路が閉ざされてしまうので、何とか助けてやりたいとは思うが、能登の守護代の遊佐(ユサ)美作守も、越中の守護代の遊佐河内守も、すぐに動く事はできなかった。
松岡寺の多屋には前線から続々と負傷者が送られて来た。とても、風眼坊とお雪の二人だけでは間に合わず、多屋の内方(ウチカタ)衆(妻や娘)にも手伝ってもらい、蓮如も出て来て手伝ってくれた。今回の三日間の合戦において、敵の犠牲者の数は分からないが、本願寺及び次郎方では死者は五、六百人、負傷者は二千人余りにも達していた。風眼坊とお雪たちが面倒みたのは、その中のほんの一部に過ぎなかった。
12.本泉寺
1
風眼坊は蓮如、お雪、十郎を連れて山の中を歩いていた。
山のあちこちに萩の花が咲き、ツクツク法師が鳴いている。
もう、秋になっていた。
戦のけりは、まだ着いていなかった。
この前、一行が松岡寺(ショウコウジ)に出掛けたのは一月程前の事だった。
風眼坊たちは戦の負傷者たちの手当に忙しく働き、八月の初めに吉崎に戻って来た。およそ、一月の間、吉崎を留守にしていたわけだったが、慶聞坊が、上人様は今、松岡寺にいると連絡してくれたので、家族たちも吉崎を守っていた近江の坊主たちも、蓮如がいない事を知っていながら、蓮如がいるという風に装っていたため、何事も起こらなかった。
ただ、毎月恒例の二十五日の講の日は、戦に出ていない年寄りや女子供の門徒たちが吉崎に集まって来たため、今更、講を取りやめにする事もできず、上人様は戦が始まってから、ずっと、門徒たちの身を案じて、本堂に籠もり、念仏を上げておられる。上人様の邪魔をするわけにはいかんと言って、代わりに、近江から来ている赤野井の慶乗坊(キョウジョウボウ)が説教をした。
その日、集まって来た門徒たちは皆、本堂から聞こえて来る念仏に耳を澄まし、合掌してから帰って行った。その時、本堂にいたのは勿論、蓮如ではない。吉崎を守っている門徒の中から、後ろ姿が蓮如に似ている者と声が蓮如に似ている者を選び、本堂を閉め切り、立ち入り禁止にして、後ろ姿の似ている者を坐らせ、声の似ている者を内陣の中に隠して、念仏を唱えさせたのだった。
風眼坊たちは出て行く時と同じように、抜け穴から御坊へと戻って行った。そして、小屋の中で元の姿に着替えると、何事もなかったかのように、庭園から、それぞれがここを出て行く前にいた場所へと戻って行った。
吉崎の地にも敵は攻めて来ていた。しかし、それ程の大軍ではなかった。慶覚坊によって寺院を破壊され、追い出された高田派の坊主や門徒たちと越前の高田派門徒とが、吉崎を睨みながら陣を敷いていたが、一千人にも充たず、ただ見張っているという感じで、強いて攻撃はして来なかった。高田派門徒としては本蓮寺や松岡寺などより、この吉崎御坊を落としたいと願っているのだが、今の状況では、蓮台寺城から、ここまで出陣して来るのは不可能だった。
敵と対峙しているとはいえ、吉崎の地は、まだ平和といえた。
風眼坊らにとって、その比較的平和な吉崎御坊での退屈な日々が一月近く続いた。
その退屈な日々に最初に文句を言ったのは、お雪だった。
お雪は本蓮寺での負傷者の治療以来、風眼坊の事を先生と呼んでいた。吉崎に戻って来て、まだ十日と経たないうちに、先生、また、前線に行きましょう、と言い出した。風眼坊が、もう少し待て、と言っても、お雪は風眼坊の顔を見るたびに、早く行こう、とせきたてた。風眼坊は、上人様に言え、と言った。お雪は蓮如には言えなかったようだった。
その上人様も御文を書いたり、念仏を唱えたり、毎日、判で押したような暮らしをしていたが、とうとう九月になると我慢できなくなったのか、風眼坊を呼んでニャッと笑うと、「そろそろ、逃げるかのう」と小声で言った。
「今度は、どこに行きますか」と風眼坊もニヤニヤしながら聞いた。
「そうじゃのう。今度は蓮乗の所でも行くかのう」
「本泉寺ですか」
「うむ」と蓮如は嬉しそうに頷いた。
「ちょっと、遠いのう」と風眼坊は少し考えた。
蓮如は風眼坊の顔色を窺いながら、「無理かのう」と聞いた。
「いえ、山の中を通って行けば、戦場を通らずに行けるでしょう」
「そうか‥‥‥お雪殿はどうかのう、付いて来るかのう」
「来るなと言っても来るでしょう。わしの顔を見るたびに、ここから出ようと言って、うるさい位じゃ」
「おお、そうじゃったのか。お雪殿も早く、ここから出たかったのか‥‥‥そうか、そうか。十郎はどうじゃ」
「十郎だって喜んで付いて来ますよ」
話が決まると早かった。
蓮如が風眼坊に、ここから逃げようと言ってから、一時(二時間)も経たないうちに、一行は船に乗って大聖寺川をさかのぼっていた。
合戦の方はというと、七月二十六日から三日間続いた決戦の後、八月五日に軽海の守護所が落城していた。北加賀の敵の要所を次々に落として来た河北郡の門徒たちが、軽海の守護所の包囲戦に加わると、大した攻撃もせずに、守護所は簡単に落ちてしまった。
守護所を守っていた狩野伊賀入道は五千人程の兵を引き連れて蓮台寺城へと落ちて行き、一千人余りの敵兵は降伏した。降伏した者たちは武装を解かれ、とりあえず浄徳寺へと送られた。
ほとんど破壊されずに落ちた守護所には、富樫次郎がおよそ二年振りに守護として納まり、次郎勢と越前門徒、一万人余りの兵は軽海に本陣を移し、蓮台寺城と対峙した。
そして、八月二十一日に大きな合戦が起こった。
幸千代方の夜明け前の奇襲で始まったが、すでに、蓮台寺城は本願寺門徒によって、完全に包囲されていた。河北郡の門徒一万人も加わり、遊撃軍だった慶覚坊や安吉源左衛門らも加わっている。各地に散っていた本願寺の兵力が、すべて、ここに集結していた。総勢六万人余り、対する蓮台寺城の兵力は三万弱、ちょっとした小細工の奇襲を掛けても、包囲する本願寺方に取っては大した効き目はなかった。
奇襲の後、幸千代方は城から打って出た。
先頭に立っていたのは高田派門徒たちだった。彼らは死に物狂いで攻めて来た。しかし、敵の数には勝てなかった。退路を断たれ、城に戻る事もできずに、無残にも全滅した。高田派門徒が全滅するのを見ると、幸千代方からは攻めて来なくなった。守りを固め、籠城(ロウジョウ)戦に入って行った。
籠城戦に持ち込むには充分な水と充分な兵糧米は勿論、必要だったが、一番、重要な事は、その水や兵糧米がなくなる前に援軍が来るという事だった。幸千代は、西軍である越中の守護の畠山右衛門佐義就(ヨシナリ)、能登の守護の畠山左衛門佐義統(ヨシムネ)を頼りにしていた。事実、越中からも、能登からも、近いうちに援軍を送る、との密書が蓮台寺城に届いていた。どちらの密書にも、近いうちに、と書いてあるだけで、詳しい日取りまでは書いてないが、両国が援軍を送ると言った事は確かだった。ただ、幸千代方は両国の事情を知らなかった。近いうちにと言うからには一月も待てば、援軍は必ず来るだろうと楽観視していた。一月位の籠城に耐えるだけの水も兵糧米も充分にあった。節約すれば、二月は持たせる事ができるだろう。能登と越中の援軍が来れば、本願寺門徒など簡単に潰す事ができるだろうと、考えていた。
敵の籠城に対して、本願寺方ではただ包囲していただけではなかった。
援軍が来るとすれば、能登か越中よりないと本願寺方も見ていた。越前の甲斐は動かないだろう。もし、動きがあれば吉崎から連絡が入る手筈となっている。甲斐が動けば朝倉も動く、そうなれば、加賀だけでなく、越前にまで及ぶ大乱戦へとなって行く。しかし、朝倉がいる限り、そんな馬鹿な事はさせないだろう。本願寺方としては、とりあえずは越前の事は考えず、能登と越中に絞って考える事にした。何としてでも、能登、越中から幸千代方の援軍が来ないようにしなければならない、と色々作戦を考えていた。
能登にしろ越中にしろ、加賀に入るには陸路の場合なら河北郡、海路の場合なら梯川(カケハシガワ)河口の安宅湊(アタカミナト)か手取川の支流、湊川河口の今湊からだった。本願寺方は蓮台寺城を包囲している六万の中から、一万人を土地に詳しい英田(アガタ)広済寺、鳥越弘願寺(グガンジ)、越智伯耆守(オチホウキノカミ)に預けて河北郡に帰らせ、国境を封鎖させた。そして、能美郡の浜方衆に安宅湊を、手取川の河原衆に今湊を守らせた。それだけではなかった。能登、越中両国の本願寺門徒に戦の準備をさせ、もし、加賀に干渉するようなら門徒たちに一揆を起こさせると脅迫した。この脅迫に屈したわけではなかったが、両国から援軍の来る気配はなかった。
風眼坊と蓮如とお雪と十郎の一行は大聖寺川をさかのぼり、菅生(スゴウ)の石部(イソベ)神社まで舟で行ったのは前回と同じだったが、そこから、山田光教寺へは向かわず、河崎専称寺へと向かった。専称寺に着いた時は、まだ日が高かった。先に進んで、そこらで野宿している所を敵に襲われたらかなわないので、今晩は、ここの多屋に泊めてもらい、明日の朝早く、出掛ける事にした。
戦地に入ってしまえば、襲って来るのは敵だけとは限らなかった。戦に関係していない者たちも心が荒(スサ)み、人の隙を見つけては物を奪ったり、人を殺したり、平気でするようになる。応仁の乱の時、京に出現した足軽のような輩(ヤカラ)は戦となると必ず、出て来るものだった。
実際、慶覚坊が各地の高田派の寺院を攻め、敵を追い出し、火をかけ、立ち去ろうとすると、どこからともなく浮浪の徒の集団が現れ、本願寺を名乗って多屋に押し込み、略奪をしていた。奴らはどこの門前町にもいた。高田派の門前町に限らず、本願寺の門前町にも、白山の門前町にも、門前町だけではなく、城下町にも、とにかく、盛り場と呼ばれる所には、必ず、いる連中だった。奴らは戦が始まれは、待ってましたと強い方に味方し、弱い者いじめに専念した。慶覚坊は奴らのやるがままに任せていた。奴らの行為は正当ではないにしろ、敵の損害となり、味方を有利に導くものだった。ただ、戦に関係ない者まで巻き込む事になるが、それは仕方のない事だった。
次の朝、専称寺を出た一行は白山三箇寺の一つ那谷寺(ナタデラ)の賑やかな門前を通って山道へと入って行った。険しい山を越え、大杉谷川に出ると大杉円光寺はすぐだった。
円光寺は蓮如の異母弟の蓮照(レンショウ)が創建した寺院だった。
蓮照は当時、応玄と名乗り、母の如円と妹の俊如と一緒に、この地で暮らしていた。蓮如と応玄は父、存如(ソンニョ)が亡くなった時、本願寺八代目法主の地位を争った仲であった。父が亡くなった時、蓮如はすでに四十三歳になっており、部屋住みのままで、応玄の母、如円に邪魔物扱いされていた。如円は自分の息子を法主にするために色々と画策するが、父の弟、二俣本泉寺の如乗の支持によって、八代目の法主は蓮如に決定した。如円は半狂乱になり、本願寺の財産を持ち出し、応玄と俊如を連れて大谷の本願寺から出て行った。そして、この山の奥に籠もったのだった。母親の如円はこの地で亡くなり、妹の俊如は母親が亡くなった後、蓮如の長男、順如の妻となった。応玄は改めて蓮如の弟子となって名を蓮照と改め、円光寺の住持となり、波倉本蓮寺の蓮心の後見人となったのだった。
風眼坊たち一行は突然の夕立に合い、びっしょりになって円光寺に駈け込んだ。こんな山奥の寺でも、円光寺は武装した門徒たちによって守られていた。行蔵坊という坊主の多屋に泊めてもらい、山菜と川魚の料理を御馳走になった。行蔵坊は戦に出ていていなかったが、話し好きのおかみさんや娘たちが持て成してくれた。
おかみさんの話によると、この山から戦に出て行った若者が二人、戦死したと言う。重傷を負って戻って来た者も何人かいる。その怪我が元で、これから仕事ができなくなったら可哀想な事じゃ。面倒見てくれる者がおればいいが、なければ、一人では生きてはいけん。ほんに可哀想な事じゃ。そうなると、いっそ、死んだ方がよかったかもしれんのう、とおかみさんは言って念仏を唱えた。娘たちも心配そうな顔をして念仏を唱えていた。
この辺りの門徒のほとんどの者は、杣(ソマ、きこり)か、筏(イカダ)流し(川による材木運送業)に従事していた。どちらも体が元手であった。体が不自由になれば仕事はできず、生きて行くのは難しかった。
蓮如は黙って、彼女たちの念仏を聞いていた。
風眼坊は、彼女たちが上人様の事を悪く言いはしないかと心配した。幸い、上人様の事は口に出さなかった。彼女たちにとっては、上人様というのは雲の上の存在で、決して、あれこれ言ってはならないのかもしれなかった。
次の日は一日中、山奥の道なき所を歩いた。何ケ所か険しい場所もあり、しかも、昼過ぎから大雨となり、風も強く、暴風雨の有り様となった。お雪は泣き言も言わずに歩き通した。元々、意志の強い女だったが、最近、さらに強くなったようだった。岩壁に張り付くようにして歩かなければならない危険な山道でも平気な顔で歩いているお雪を見ながら、大した女だと風眼坊は感心していた。
その日はびっしょりになりながらも、蓮綱が開いた山之内庄(鳥越村)の鮎滝坊(アユタキボウ)にたどり着いた。
暴風雨は一晩中やまなかった。
次の日の朝になって、ようやく小雨となり、一行は鮎滝坊を出た。その日の予定は、法敬坊(ホウキョウボウ)の開いた手取川の側にある島田道場に行くはずだったが、手取川が増水して氾濫し、島田道場の辺りは水浸しになっていた。一行は島田道場に行くのはやめて、山の中を通って越前超勝寺巧遵(ギョウジュン)の弟、順慶の開いた大桑の善福寺へと向かった。
そして、五日目にようやく二俣の本泉寺に到着した。
本泉寺も松岡寺や吉崎御坊程ではないが変わっていた。
寺は武装した門徒に守られ、高い見張り櫓が組まれ、濠が掘られて、土塁が築かれていた。
中でも一番、変わっていたのは勝如尼だった。女だてらに甲冑を身に着け、勇ましく坊主たちの指揮を執っていた。
蓮崇は本坊にはいなかった。門前にある下間玄信(シモツマゲンシン)の多屋にいた。
玄信の多屋の庭に疋田豊次郎がいた。もう会う事もないだろうと思っていたが、一月半振りの再会だった。相変わらず酔っ払っていた。
風眼坊とお雪を見つけると、「やあ、別嬪(ベッピン)のお医者様じゃないか、生憎、わしは、まだ、この通りピンピンしておるよ」と言って、笑った。
「あら、そう。よかったわね。偉そうな事、言ってたくせに、どうせ何もしないで、お酒ばかり飲んでたんでしょ」とお雪も負けてはいなかった。
「おお、そうじゃ。酒を飲んで悪いか」
「悪くはないけど、そんなに年中、酔っ払っているのはよくないわ」
「ほう、わしの事を心配しておるのか、そいつは有り難い」
「心配なんか、するもんですか」
「なあ、先生よ」と豊次郎は今度は風眼坊に声を掛けて来た。
「何じゃ」
「後で聞いて分かったんじゃが、わしらが松岡寺に行った頃、上人様は松岡寺におったらしいのう」
「それがどうした」
「わしが思うに、先生は上人様を知っておるな」
「ああ、知っておるが、それがどうしたんじゃ」
「やはりな。医者だとか何とか言っておるが、本当は本願寺のお偉方じゃな」
「いや、わしは医者じゃ。医者として上人様を知っておるんじゃ」
「成程、上人様、お抱えの医者というわけか‥‥‥」
「まあ、そんなようなもんじゃ。診るのは上人様だけじゃないがな」
「それで、上人様は今も松岡寺におるのか」
「分からんのう。しかし、上人様に何か用でもあるのか」
「わしは本願寺の門徒になった。わしだけじゃない。わしら一族の者、そして、倉月庄の者たち、みんなが門徒となった。そのお陰で、一族の者たちは助かった。まだ、決着は着いてはおらんが、多分、助かった事になるじゃろう。しかし、わしらは本願寺の上人様を知らん。誰も会った事もなければ、見た事もない。みんな、不安なんじゃよ。これからの事を考えるとな‥‥‥わしらは今まで、強い武士には従って来た。そして、土地を安堵(アンド)して貰った。皆、武士に従うのには慣れておるが、寺に従うのには慣れておらん。今回、門徒になった者たちでも本願寺方として戦うより、やはり、次郎方として戦った方がいいのではないかと言い出す者も現れて来たんじゃ。わしは上人様と一度、会って話がしたいと思っておるんじゃ」
「そう思ったのなら会いに行けばいいじゃろう。こんな所で酔っ払っておらんで」
「それはそうなんじゃが、わしが行ったとて会ってはくれんじゃろう」
「いや、上人様は誰とでもお会いなさる」
「上人様がそう思っても、部下の者はそうは思うまい。誰か有力な門徒と一緒に行かなければ会うことはできまい。ここにしろ、松岡寺にしろ、あんなに厳重に警固しておる。まして、上人様がおる所など、もっと警戒厳重なはずじゃ」
「うむ」と風眼坊は頷いた。「そりゃ、言えるのう」
「そこで、わしは蓮崇殿に頼んだ。そしたら、今はここから動けん。もう少し待ってくれと言うのみで、一向に上人様に会わせてくれん。じゃから、こうして、ここで酔っ払ってしまうというわけじゃ。そこで、先生、頼みなんじゃが、わしを上人様の所に連れて行ってくれんか」
お雪が急に笑い出した。
「何がおかしい」
「だって‥‥‥」とお雪は風眼坊を見た。
風眼坊はお雪にわかるように首を振って、「まあ、いい。もう少し、ここで待っていろ。会わせてやる」と豊次郎に言った。
「会わせてくれるか」
「ああ」
風眼坊とお雪は多屋の中に入って行った。蓮崇は広間の片隅で、一人で絵地図を眺めていた。風眼坊の顔を見ると驚いて、目を丸くした。
「どうしたんです、こんな所に」
「じっとしておられなくてな」と風眼坊は言いながら絵地図を覗き込み、蓮崇の前に腰を下ろした。
「すると、上人様も一緒ですか」
「ああ、今、勝如尼殿と話し込んでおる」
「上人様にも困ったものよのう。戦の最中に、のこのこ、こんな所まで来て‥‥‥」
「それは大丈夫じゃ。上人様には悪いが下男の格好をさせたら誰も気づかん」
「上人様に下男の格好を‥‥‥」蓮崇は口を開けたまま風眼坊を見ていた。「何と言う事を‥‥‥」
「いや。本人が結構、気に入っておるんじゃ。ああいう格好をしてみて、初めて、下男の気持ちというものが分かったと言っておった」
「それにしても、何も下男に化ける事もなかろうに‥‥‥ところで、その娘さんはどなたです」
「ああ。この娘はお雪と言って、わしの弟子じゃ」
「弟子?」
「ああ、わしは今回、医者として旅をしておるんじゃが、この娘はよく働く。もう、一人前の医者と言ってもいい位じゃ」
「そんな‥‥‥」と言って、お雪は照れて俯いた。
「ほう。風眼坊殿は医者でもあったのか‥‥‥大したもんじゃのう」
「別に大した事もないが、どうじゃ、戦の方はうまく行っておるのか」
「その事なんじゃが‥‥‥そうじゃ、丁度いい」
「なに?」
「風眼坊殿に頼みがあるんです」
「何じゃ、わしに頼みとは」
「実はのう」と言いかけて、蓮崇はお雪の方を見た。
「あの、わたし、座をはずしますか」
「ああ、そうじゃのう。悪いが、ちょっと、はずしてくれ」と風眼坊は言った。
お雪は、失礼しますと言って、広間から出て行こうとした。
「お雪、外にいる酔っ払いを上人様に会わせてやってくれんか」と風眼坊はお雪に声を掛けた。
お雪は笑って頷いた。
「いい娘さんじゃのう」と蓮崇はお雪の後ろ姿を見送りながら言った。
「うむ、いい娘(コ)じゃ」
「まさか、風眼坊殿の‥‥‥」
「何を言っておる。さっきの話の続きは何じゃ」
「ああ、そうじゃ。頼みと言うのは実は武器の事なんです」
「武器? やはり、足らんのか」
蓮崇は頷いた。
「どれ位?」
「まあ、ざっと、一万人分」
「なに、一万人分!」
「はい。河北郡には兵力となる門徒の数は二万人はおります。しかし、武器を持っているのは半分の一万人です。敵が高田派の門徒だけなら農具の鎌(カマ)や鍬(クワ)を担いででも戦に出るが、敵はれっきとした武士たちじゃ。まともな武器がないと動こうとしないんですよ」
「そうか‥‥‥やはり、武器が足らんのか‥‥‥」
「前に風眼坊殿が言ったように、敵からも武器は頂きました。しかし、まだ、全然、足りんのです」
「敵から捕っても足りんのか」
「はい。各地の高田派の寺をやっつけている者たちから戦利品は送られて来るが、武器は余りない。その代わり、銭の方はたっぷりある。そこで、風眼坊殿に武器を仕入れて来て貰いたいんです」
「わしが、武器の仕入れか‥‥‥」
「誰かに行かせようと思っていたんじゃが、なかなか、やれそうな奴がおらんのです。わしが行けば何とかなりそうじゃが、今の所、わしは動けん。丁度いい時に、風眼坊殿が現れたというわけです。上人様の方はここにいる限りは大丈夫じゃろう。風眼坊殿が戻って来るまでは、ここからは一歩も出しません。どうです、やって、貰えませんか」
「やるしかないじゃろうのう‥‥‥しかし、一万人分の武器となると大変な事じゃのう」
「できるだけで結構です。ただ、銭の心配は入りません。どうせ、敵から巻き上げた銭ですから思う存分に使って下さい。それと、弓矢の矢をできるだけ仕入れて欲しいのですが」
「矢か‥‥‥」
「はい。戦慣れしてないもんで、無駄な矢が多すぎるんですよ。矢の届く距離まで行かないうちに矢を放ってしまうのです」
「だろうな‥‥‥で、武器の方は何がいいんじゃ」
「槍ですね。しかも、長い槍の方がいいですね」
「分かった。槍と矢じゃな。甲冑は?」
「あれば何でも結構です。風眼坊殿にお任せします」
「やってみるか」
「心当たりでもありますか」
「いや。しかし、銭があれば何とかなるじゃろう」
頼みますと言うように蓮崇は頷いた。「ただ、加賀の国内では無理です。越前も無理でしょう。近江、あるいは、京か、奈良まで足を運ばないと無理かもしれません」
「分かっておる」と風眼坊は頷いて、「近江か‥‥‥」とつぶやいた。
「しかし、風眼坊殿、ほんとに丁度いい時に来ましたね。明日だったら、わしは野々市(ノノイチ)の方に行っておって留守でしたよ」
「野々市に行くのか」
「ええ、寝返り組の連中が、あそこにおるんです。一応、会っておこうと思いまして」
「寝返りで思い出したが、外にいた疋田豊次郎は役に立ったのか」
「役に立ったなんてもんじゃない。あいつのお陰で、倉月庄の者たちは寝返って、蓮台寺城から抜け出し、今、本願寺方として戦っております。その数、何と、二千人余りじゃ」
「なに、二千人も蓮台寺城から抜け出して来たのか」
「そうです。奴が蓮台寺城まで行き、仲間を説得しなかったら、とても、そんな事はできなかったじゃろう」
「何じゃと! 奴は蓮台寺城に乗り込んで行ったのか」
「はい、二、三人引き連れただけでのう。大した奴じゃよ。今、その倉月庄の者たちを使って、どんどん寝返りを勧めているところです」
「奴が蓮台寺城に乗り込んだ‥‥‥あの酔っ払いが‥‥‥」
風眼坊は、なぜか、おかしくなって笑い出した。
「あの酔っ払いが、やりおったわ」と蓮崇も笑っていた。
蓮崇が出て行った後も、風眼坊は広間で一人考えていた。
武器の調達‥‥‥しかも、一万人分も‥‥‥
弓矢の矢‥‥‥矢作りで有名なのは京の清水坂(キヨミズザカ)だが、あそこは叡山(エイザン)の膝元、本願寺に武器を売るかどうか‥‥‥矢といえば甲賀の飯道山でも作ってはいるが大量にあるかどうか分からん。今の時期、どこでも武器は必要だ。たとえ、銭があっても手に入るかどうか難しい。銭で取り引きをするのは商人。商人なら銭で動く可能性はある。
風眼坊は飯道山花養院の松恵尼を思い出した。
松恵尼は『小野屋』という名で店を幾つも持ち、信楽焼きなどの焼物、薬、白粉、お茶、それに家庭で使う鍋や包丁なども扱っていた。刀の研師がいるというのは聞いた事があるが、刀剣類の取り引きはしていなかった。しかし、あれだけ、やり手の松恵尼が今の時勢、武器を扱っている可能性は充分にあった。武器を扱っていないにしろ、同じ商人として武器商人を知っているかもしれない。また、松恵尼としても、この先、本願寺を取り引き相手にすれば損になる事はあるまい。
風眼坊はさっそく、明日、甲賀に向かう事に決めた。ついでに、息子、光一郎の顔も見たかったし、太郎のもとで、どれだけ腕を上げたかも知りたかった。
本泉寺に戻ると庫裏の客間の一室で、蓮如と疋田豊次郎、そして、お雪と十郎が酒を飲んでいた。
「風眼坊殿、どこに行っておったんじゃ」と蓮如がいい機嫌で言った。
「はい、ちょっと、蓮崇殿と会っておりました」
「そうか、まあ、風眼坊殿も一緒にやろう」
「先生もひどいな。人が悪いですよ」と豊次郎が言った。「どうして、このお方が上人様だと言ってくれなかったのです」
「あの時、言っても、どうせ信じはせんじゃろう」
「そうよ。疋田様は上人様の事を目付きの悪い盗賊の親玉だって、言ったのですよ」とお雪が言って風眼坊にも酒を注いだ。
「もう、その事は忘れて下さい。失礼いたしました。しかし、本願寺の上人様ともあろうお人が、あんな格好をして、あんな所におるなんて誰も思いはしませんよ。きっと、人に話しても信じて貰えないでしょう」
「本願寺の上人様というのは、どんな人だと思っておったんじゃ」と蓮如は聞いた。
「それは、やはり、上人様と言うからには偉そうな格好をして、大きな寺の奥の方にいて、普通の人には、なかなか、お目にかかれないようなお人で、外に出る時は大勢の坊さんたちに囲まれておるようなお人かのう」
「残念でした」とお雪が言った。「上人様は普段でも、贅沢な暮らしなんてしておりません。それに、門徒さんたちが来れば、上人様は誰とでも会ってお話します。決して、偉そうな素振りなんて見せません」
「じゃろうのう」と豊次郎は頷いた。「そうでなければ、平気で、そんな格好はできんじゃろう。偉いもんじゃ。本物の上人様じゃ」
「わしは、ただ、門徒たちの身になってみたかっただけじゃ」と蓮如はとぼけた顔をして酒を一口なめた。
「わしは、ほんとにびっくりしたわ」と豊次郎は言った。「お雪殿にこの部屋に連れて来られて、このお方が上人様だと言われた時、かつがれておるのかと思った。しかし、上人様が、わしが蓮如じゃ、と言った時、間違いなく、上人様じゃと確信した。何というかのう、確かに、この方が本願寺の上人様じゃと確信したんじゃ。わしは、度偉いお人に会ってしまったと思った。何と言ったらいいのか分からんが、とにかく、わしは、このお方が上人様なら、わしは付いて行ってもいいと思ったんじゃ」
「ほう。酔っ払っておるだけじゃなく、おぬしにも人を見る目はあるようじゃな」と風眼坊は笑った。
「わしも一応は一族を背負って立つ身ですから」と言うと豊次郎は酒を飲んだ。
「ところで、おぬし、蓮台寺城に行って来たそうじゃのう。どうじゃった、あっちの様子は」
「えっ、蓮台寺城に?」と十郎が驚いた。
「おぬし、敵の本拠地に行ったのか」と蓮如も驚いた。
「行って来て、二千人余りを寝返らせたそうです」と風眼坊は言った。
「凄い!」とお雪は改めて、豊次郎を見つめた。
「いや、照れるなあ。みんなして、そんな見ないで下さいよ。ちょっと行って来ただけですよ」
「ちょっと、と言っても‥‥‥」と十郎は口ごもった。
「わしも、おぬしがそれ程の事をするとは、はっきり言って見直しておるよ。それで、どうじゃったんじゃ」
「ええ。とにかく、敵は負けるとは思っておりませんでした」
「そうか、おぬしが蓮台寺城に行ったのは、七月の決戦の前じゃったな」
「はい。わしが城に入ったのは七月十八日でした」
「どうやって城に入ったんじゃ」
「途中で高田派の門徒たちと一緒になりました。寺を破壊されて、本願寺を倒すために蓮台寺城に向かっておりました。奴らと一緒に難無く、城には入れました」
「簡単に入れたのか」
「ええ、わしらだけじゃなかったんです。その時、各地から本願寺にやられた高田派の連中が蓮台寺城に集まって来ておりました。どこの誰々だと名を言うだけで城内に入れました」
「そうか、敵としては兵力は多い程、いいからのう。それから、どうした」
「わしは一族の所に行って、奴らを説得しました。蓮台寺城の中におると、回りの状況がまったくと言っていい程、分かりません。味方が不利な情報は流しませんから余計です。わしは河北郡の今の状況を説明して説得しましたが、なかなか聞いてはくれません。河北郡では、本願寺の門徒というのはほとんどが百姓衆です。百姓が何百人集まったとて何ができる、と耳を貸しませんでした。ところが、いつの頃からか、野々市の守護所が本願寺門徒に囲まれて危ない、と言う噂が広まりました。上層部では、そんな事はないと否定しましたが、どこから入って来るのか、北加賀の状況がわりと詳しく噂になりました。そこで、ようやく、一族の者たちも自分たちの領地の事が心配になり、わしの言う事に乗って来ました。話はまとまりましたが、今度は、どうやって、城から抜け出すかが問題でした。一人や二人なら何とかなりますが、一族の者、二百人が城から出るとなると大変な事でした。しかし、城から出て地元に帰ろうとしていたのは、わしらだけではなかったのです。わしらは一族以外の者たちには内密に事を運んでおりましたが、ある日、同じ倉月庄の郷士、山本若狭守(ワカサノカミ)殿に声を掛けられ、この城から抜け出そうと誘われました。若狭守殿は一族だけでなく、倉月庄の者たち、すべて、二千人を城から出そうとしておりました。若狭守殿のもとにも、地元から本願寺方に寝返るようにとの使いの者が来ておりました。他の者たちの所にも来ておったようです。話はすぐにまとまりました。そして、倉月庄の郷士、二千人余りは決戦の起きた二十六日、野々市の守護所を救うという名目で、堂々と蓮台寺城を抜け出した来たわけです」
「ふむ。しかし、よく、二千人余りもの武士たちを出したものよのう」
「丁度、その時、まだ夜が明ける前で、蓮台寺城は敵の襲撃を受けて混乱しておりましたから‥‥‥絶好の機会だと、どさくさに紛れて堂々と出て行きました。城内にあった武器をできるだけ持ち、ほとんどの者が馬に乗って出て行きました」
「馬に乗って堂々とか‥‥‥そいつは見事じゃのう」と蓮如が言った。
「すべて、山本若狭守殿が指揮を執っておりましたが、なかなかのものでした」
「山本若狭守か‥‥‥会ってみたいものじゃのう」と風眼坊が言った。
「今は野々市におると思いますが」
「敵の追撃は受けませんでしたか」と十郎が聞いた。
「いや、それどころではなかったじゃろう。戦が終わってから、わしらがいなくなったのに気づいたんじゃないかのう」
「敵の大将、幸千代の様子は分からなかったか」と風眼坊は聞いた。
「分かりません。ただ、噂では、毎日、宴を催しておるようです。わしらの仲間うちで、幸千代殿に拝謁(ハイエツ)した者は一人もおりません。重臣たちの中でも、ほんの数人の者しか拝謁できないようです。幸千代殿はまだ十六歳だそうですから、ただの飾り物に過ぎないと思います」
「やはり、幸千代は飾り物か‥‥‥」
「はい。実際、敵の大将と言えるのは守護代の額熊夜叉(ヌカクマヤシャ)殿です」
「額熊夜叉?」
「はい。熊夜叉殿の親父、丹後守殿は幸千代殿や次郎殿の親父の富樫介(成春)殿の重臣でしたが、北加賀に入って来た赤松勢と戦って戦死しました。熊夜叉殿は親父の後を継ぎ、富樫介殿の重臣となり、赤松氏に抵抗を続けました。後に、富樫五郎(泰高)殿が隠居して、富樫介殿の子、次郎殿に家督を譲ると、富樫介の守護代だった本折(モトオリ)越前守殿は次郎殿と共に南加賀に移りました。本折殿が抜けると熊夜叉殿は富樫介派の中心的人物となって行ったのです。次郎殿に対抗するため、弟の幸千代殿を大将として引き入れたのも熊夜叉殿です」
「ほう‥‥‥その熊夜叉とやらは、どんな男じゃ」
「武将としては、一流でしょう。ただ、持駒が弱いですね」
「そうか‥‥‥」
「おぬしらが消えたとなると、他の連中も地元に帰りたくなるんじゃないかのう」と蓮如が言った。
「多分、そうでしょう。同じ手を使って寝返り作戦が進んでおるはずです。この間の決戦の後は、寝返る者たちが続出しておる事でしょう」
「もうすぐ、戦も終わるかのう」と蓮如が誰にともなく聞いた。
「いえ、まだ、かかるでしょう」と風眼坊が答えた。「敵は籠城に入りました。籠城戦に入ると戦は長引く事になるでしょう。ところで」と風眼坊は豊次郎を見た。「城内の兵糧米はかなり、ありそうなのか」
「ありそうですね。かなり、溜め込んでおるようです」
「じゃろうな。かなり溜め込んでなければ、いつまでも、あんな所に腰を落着けてはおるまいからな。おぬしの見た所、どの位は持ちそうじゃ」
「そうですね。蓮台寺城に籠もっておるのが今の状況で二万位でしょう。一日百石は食うでしょう。一万石あるとして百日は持つ事になりますが、まあ、一万石はないでしょう。半分として、五十日と言うところですかね」
「二ケ月か‥‥‥水の方はどうじゃ」
「たっぷりあります。あの辺りは湿地帯で、蓮台寺城もそれ程、高い所にあるわけではないので、どこを掘っても水は出て来るようです」
「成程のう。二ケ月は余裕というわけじゃのう」
「後二ケ月か。二ケ月で、この戦は終わるんじゃな」と蓮如は聞いた。
「後詰(ゴヅ)めの軍が来なければです」と風眼坊は言った。
「後詰め?」
「はい、援軍です」
「援軍が来るのか」
「分かりません。しかし、籠城というのは援軍が来るという前提のもとで行なう作戦です。援軍がどこからも来ないのに、籠城などしても自滅するだけです」
「そりゃそうじゃのう。しかし、援軍がどこから来るんじゃ」
「多分、越中か能登でしょう」
「はい、そうです」と豊次郎が言った。「蓮台寺城にいる奴らは越中から大軍が来る事を信じて戦っております」
「やはり、そうか」
「はい。北加賀に赤松氏が入って来た時、富樫介方の者たちは赤松氏に敗れ、越中に逃げました。その頃より、幸千代方は越中とは関係があるようです。しかし、越中から大軍が来ると言うのは本当ですかね」
「分からん。ただ、蓮崇殿の話によると、すでに、能登と越中の国境は封鎖してあるとの事じゃ。何か動きがあれば、すぐに対処できるじゃろう」
「国境封鎖ですか‥‥‥大したものですね。本願寺には大した軍師がおるらしいですね」
「一癖も二癖もあるような坊主が大勢おるわ」
「もし、越中から援軍が来るとなると、戦は益々大きくなるのう」蓮如は心配顔をした。
「ええ、援軍が来れば大変な事になります。加賀だけでなく、北陸の地、すべてが戦場になるかもしれません」
「ふーむ、まずいのう。援軍が来る前に、何とか蓮台寺城を落とす事はできんのか」
「その事については、蓮崇殿を初め、蓮台寺城を包囲している者たちが色々と考えて実行しておるでしょう。前線におる者たちに任せましょう」
蓮如は何も言わなかった。
自分が命じて始まった戦だったが、自分の意志で、この戦をやめさせる事ができないのが歯痒くてしょうがないのだろう、と風眼坊は思った。すでに、蓮如が開戦を命じてから二ケ月以上が経っていた。戦の犠牲者は数知れなかった。それは、直接的に戦による負傷者たちばかりでなく、戦という名目で、せっかく実った農作物を、すべて刈り取られた百姓たち、打ち壊しにあって財産をすべて奪われた土蔵や酒屋、戦とは全く関係ない場所での襲撃や放火に遭って逃げ惑う者たち、彼ら、すべてが犠牲者だった。
戦が長引けば、そんな犠牲者の数は増え、各地から浮浪の徒や浪人どもが集まって来て、やりたい放題に暴れ回る事になるだろう。蓮如が早く、戦をやめたいと思うのは無理もなかった。
蓮如は話題を変え、久し振りに、お雪の笛が聞きたくなったと言い出した。
お雪は頷くと、皆の顔を窺った。
豊次郎も是非、聞きたいと言い、風眼坊も十郎も同意した。
お雪は帯に差していた笛を抜くと構え、吹き始めた。
綺麗な調べが流れ出した。
蓮如は目を閉じて聴いていた。
気候が涼しくなって来たせいか、どことなく淋しく、物悲しい調べに聞こえた。
次の日の朝早く、小雨の降る中、風眼坊は豊次郎を連れて近江の国、甲賀に向かった。
風眼坊も豊次郎も砂金や銀貨を背負っていた。武器を買うに当たって、取り合えずの見せ金だった。
お雪も一緒に行くと言い張ったが、今回は急ぎ旅だし、あちこち歩き回らなければならない。ここ本泉寺にも負傷者はいるはずじゃ。誰かが治療しなければならない。それができるのはお雪しかいない、それと、蓮如の事も頼むと、やっとの事で説得して置いて来たのだった。
本泉寺は前線から離れているため負傷者はあまりいなかった。いたとしても皆、軽傷者ばかりだった。重傷を負った者は前線に収容されたまま地元に戻って来る事はできない。武器を取って戦う事はできないが、歩く事はできる軽傷者だけが帰って来ていた。
負傷者は余りいなかったが、高田派門徒に攻められ、家を焼かれて逃げて来た本願寺門徒たちが、かなり避難していた。それと、ここ本泉寺には捕虜(ホリョ)となった敵兵と、孤児となった子供たちが収容されていた。
捕虜は野々市の守護所から送られて来た者たち、孤児は河北郡の遊軍として、各地の高田派寺院を攻撃していた高坂(コウサカ)四郎左衛門が連れて来た子供たちだった。捕虜の数は二百人余り、孤児の数は三十人余りいた。
最初、捕虜は一千人近くいたが、ほとんどの者は寝返り、一族の迎えによって釈放された。今、収容されている二百人余りは、次郎政親対幸千代で争う以前の、五郎泰高対次郎成春で争っていた頃より成春派として戦って来た者たちが多かった。今更、寝返ってみても、次郎方が自分たちを受け入れてくれるはずはないと決め込み、寝返る位なら死んだ方がましだと思っていた。彼らは町はずれに作られた牢屋敷に収容されていた。
一方、孤児たちは敵味方関係無く、本泉寺の近くの多屋に収容されていた。
風眼坊が出掛けて行ってしまうと、何となく気が抜けてしまったように沈んでいたお雪だったが、子供が怪我をしたから診てくれと言われ、初めて孤児たちを見ると、それ以来、すっかり孤児たちの面倒を見るようになって行った。
子供たちの相手など、今までした事もなかったお雪なのに、自分でも不思議に思う程、子供たちの気持ちになって世話をし、誰もが嫌がる事でも進んで行なった。
孤児たちを世話していたのは多屋の娘たちだった。お雪はいつの間にか、その中心になっていた。年齢もお雪が一番年上だったが、年齢差だけでなく、お雪には元々、人を引き寄せ、まとめると言う才能があるのかもしれない。娘たちは、お雪さん、お雪さんと、お雪の事を頼りにし、子供たちには、先生、先生と呼ばれて好かれていた。
お雪は朝から晩まで、子供たちの面倒を見ていた。
お雪自身が子供たちと同じように戦による孤児だった。両親を亡くして独りぼっちになってしまった子供の気持ちは痛い程、よく分かった。お雪は、かつての自分のような生き方を子供たちにさせたくなかった。決して自分の過去の事を口にしないお雪だったが、子供たちに対する接し方にお雪の気持ちは充分に現れていた。
お雪が毎日、孤児たちの面倒を見ていた頃、蓮如は毎日、泥だらけになって、土や石と格闘していた。本泉寺の裏手にある庭園の改築をしていた。
蓮如は風眼坊のひらめきから庭師と呼ばれた事を自分でも気に入り、わしは、ここに上人として来たのではない、庭師として来たのじゃ、と自分でも言い、ここにいる事を門徒たちに公表する事を禁じた。
本泉寺の庭園を直そうと思ったのは、今回、ここに来てからの思い付きではなかった。
蓮如が庭園造りに興味を持ち出したのは、近江の国、大津に顕証寺(ケンショウジ)を建てた五年程前からだった。大谷本願寺を破壊され、落ち着く事なく、琵琶湖湖畔の道場をあちこち移動して暮らして来たため、ようやく落ち着く場所が見つかり、蓮如は初めて自分で庭造りをした。その時は、専門の庭師を頼んで、蓮如は命ずるだけだったが、完成した庭は、自分の納得するものではなかった。
次に造った庭園は吉崎御坊の庭園だった。吉崎の庭園は蓮如自らが動き、自分の思い通りのものができ、ある程度、満足だった。しかし、時が経ってみると、だんだんと気に入らない所があちこちに出て来た。何というか、わざとらしい所がやけに目に付いて来た。
大津の庭園は自分の思い通りにはならなかったが、そんな事はなかった。いいと思う事もなかったが悪いと思う事もなかった。特に目に付く所もなかったが鼻持ちならない所もなかった。ところが、自分の手で造った庭園は日を追う毎に、気に入らない所があちこちと出て来た。蓮如は、どうしてだろうと考え、庭園造りの難しさを身に染みて感じた。
蓮如の庭園造りは蓮如の中の極楽浄土を表現するというものだった。蓮如は初め、浄土をこの世のものとは別な世界として表現しようとした。そして、自分の中の浄土を表現したのが吉崎の庭園だった。完成した日、これこそ、阿弥陀如来のいる極楽浄土だ、と自分で感激した。ところが日が経つにつれて、あの日の感激が嘘のように、つまらない庭園となって行った。
蓮如は悩んだ。どうしたら浄土を表現する事ができるのか。
布教しながら、あちこちを歩き回りながらも、庭園の事は常に心の片隅に残っていた。そして、庭園造りには調和こそが最も重要だという事を学んだ。飽きの来ない庭園を造るには調和というのが一番重要な事だった。それは、庭園だけの事ではなかった。すべての事に言える事だった。極楽浄土と言うのは調和のよく取れた世界の事だし、自然界と言うのも調和の取れた世界の事だった。
蓮如は、その調和の取れた庭園を、いつの日にか造らなければならないと思っていた。それは蓮如の思想の表現でもあった。しかし、毎日、布教に忙しく、そんな事はすっかり忘れていた。それが、この間、風眼坊に庭師と呼ばれて、急に思い出したように庭造りがしたくなったのだった。
最初、吉崎の庭園を直そうと思った。しかし、ここでやるのは、はばかられた。皆、戦に真剣になっているのに、庭いじりなど、とんでもない事だった。まして、この吉崎の地を守っているのは、近江から、わざわざ来てくれた門徒たちだった。それに、庭園には抜け穴があった。庭園をいじっているうちに、抜け穴が見つかってしまう恐れもあった。抜け穴が見つかってしまえば自由に出られなくなる。それが一番、困る事だった。そこで蓮如は本泉寺を思い出した。
本泉寺の庭園は叔父の如乗が生きていた頃は、ちゃんと手入れしてあったが、如乗が亡くなってからというもの、誰も顧(カエリ)みず、放ったままになっていた。吉崎に進出する前、何日か、本泉寺に滞在した頃、何とかしようと思ったが、結局、何もできなかった。
今がいい機会だと言えた。戦をしている門徒たちには悪いが、どうせ、自分が指揮を執っているわけではなかった。はっきり言って、自分の知らない所で戦は進んでいた。門徒たちが、どういう作戦のもとで、どう戦っているかも詳しく知らなかった。
蓮如は蓮如なりに自分の信仰心が正しかったという事を形として表現したかった。その形というのが庭園だった。
誰も気づかなかったが、松岡寺から戻って一月近く、吉崎の書斎に籠もっていたのは、庭園造りの設計図のようなものを練っていたのだった。勿論、御文も何枚か書いたが、頭の中は庭園造りの事で一杯だった。そして、頭の中の庭園の形が決まると、蓮如は風眼坊に本泉寺に行こう、と声を掛けた。
蓮如が本泉寺に行く目的は、初めから庭園造りが目的だったのだった。
蓮如は毎日、生き生きとして庭園造りに励んでいた。手子(テコ)となって手伝ったのは十郎だった。ぶつぶつと文句を言いながらも、十郎は土にまみれて蓮如を手伝っていた。
合戦の方はというと、七月二十六日から三日間続いた決戦の後、八月五日に軽海の守護所が落城していた。北加賀の敵の要所を次々に落として来た河北郡の門徒たちが、軽海の守護所の包囲戦に加わると、大した攻撃もせずに、守護所は簡単に落ちてしまった。
守護所を守っていた狩野伊賀入道は五千人程の兵を引き連れて蓮台寺城へと落ちて行き、一千人余りの敵兵は降伏した。降伏した者たちは武装を解かれ、とりあえず浄徳寺へと送られた。
ほとんど破壊されずに落ちた守護所には、富樫次郎がおよそ二年振りに守護として納まり、次郎勢と越前門徒、一万人余りの兵は軽海に本陣を移し、蓮台寺城と対峙した。
そして、八月二十一日に大きな合戦が起こった。
幸千代方の夜明け前の奇襲で始まったが、すでに、蓮台寺城は本願寺門徒によって、完全に包囲されていた。河北郡の門徒一万人も加わり、遊撃軍だった慶覚坊や安吉源左衛門らも加わっている。各地に散っていた本願寺の兵力が、すべて、ここに集結していた。総勢六万人余り、対する蓮台寺城の兵力は三万弱、ちょっとした小細工の奇襲を掛けても、包囲する本願寺方に取っては大した効き目はなかった。
奇襲の後、幸千代方は城から打って出た。
先頭に立っていたのは高田派門徒たちだった。彼らは死に物狂いで攻めて来た。しかし、敵の数には勝てなかった。退路を断たれ、城に戻る事もできずに、無残にも全滅した。高田派門徒が全滅するのを見ると、幸千代方からは攻めて来なくなった。守りを固め、籠城(ロウジョウ)戦に入って行った。
籠城戦に持ち込むには充分な水と充分な兵糧米は勿論、必要だったが、一番、重要な事は、その水や兵糧米がなくなる前に援軍が来るという事だった。幸千代は、西軍である越中の守護の畠山右衛門佐義就(ヨシナリ)、能登の守護の畠山左衛門佐義統(ヨシムネ)を頼りにしていた。事実、越中からも、能登からも、近いうちに援軍を送る、との密書が蓮台寺城に届いていた。どちらの密書にも、近いうちに、と書いてあるだけで、詳しい日取りまでは書いてないが、両国が援軍を送ると言った事は確かだった。ただ、幸千代方は両国の事情を知らなかった。近いうちにと言うからには一月も待てば、援軍は必ず来るだろうと楽観視していた。一月位の籠城に耐えるだけの水も兵糧米も充分にあった。節約すれば、二月は持たせる事ができるだろう。能登と越中の援軍が来れば、本願寺門徒など簡単に潰す事ができるだろうと、考えていた。
敵の籠城に対して、本願寺方ではただ包囲していただけではなかった。
援軍が来るとすれば、能登か越中よりないと本願寺方も見ていた。越前の甲斐は動かないだろう。もし、動きがあれば吉崎から連絡が入る手筈となっている。甲斐が動けば朝倉も動く、そうなれば、加賀だけでなく、越前にまで及ぶ大乱戦へとなって行く。しかし、朝倉がいる限り、そんな馬鹿な事はさせないだろう。本願寺方としては、とりあえずは越前の事は考えず、能登と越中に絞って考える事にした。何としてでも、能登、越中から幸千代方の援軍が来ないようにしなければならない、と色々作戦を考えていた。
能登にしろ越中にしろ、加賀に入るには陸路の場合なら河北郡、海路の場合なら梯川(カケハシガワ)河口の安宅湊(アタカミナト)か手取川の支流、湊川河口の今湊からだった。本願寺方は蓮台寺城を包囲している六万の中から、一万人を土地に詳しい英田(アガタ)広済寺、鳥越弘願寺(グガンジ)、越智伯耆守(オチホウキノカミ)に預けて河北郡に帰らせ、国境を封鎖させた。そして、能美郡の浜方衆に安宅湊を、手取川の河原衆に今湊を守らせた。それだけではなかった。能登、越中両国の本願寺門徒に戦の準備をさせ、もし、加賀に干渉するようなら門徒たちに一揆を起こさせると脅迫した。この脅迫に屈したわけではなかったが、両国から援軍の来る気配はなかった。
風眼坊と蓮如とお雪と十郎の一行は大聖寺川をさかのぼり、菅生(スゴウ)の石部(イソベ)神社まで舟で行ったのは前回と同じだったが、そこから、山田光教寺へは向かわず、河崎専称寺へと向かった。専称寺に着いた時は、まだ日が高かった。先に進んで、そこらで野宿している所を敵に襲われたらかなわないので、今晩は、ここの多屋に泊めてもらい、明日の朝早く、出掛ける事にした。
戦地に入ってしまえば、襲って来るのは敵だけとは限らなかった。戦に関係していない者たちも心が荒(スサ)み、人の隙を見つけては物を奪ったり、人を殺したり、平気でするようになる。応仁の乱の時、京に出現した足軽のような輩(ヤカラ)は戦となると必ず、出て来るものだった。
実際、慶覚坊が各地の高田派の寺院を攻め、敵を追い出し、火をかけ、立ち去ろうとすると、どこからともなく浮浪の徒の集団が現れ、本願寺を名乗って多屋に押し込み、略奪をしていた。奴らはどこの門前町にもいた。高田派の門前町に限らず、本願寺の門前町にも、白山の門前町にも、門前町だけではなく、城下町にも、とにかく、盛り場と呼ばれる所には、必ず、いる連中だった。奴らは戦が始まれは、待ってましたと強い方に味方し、弱い者いじめに専念した。慶覚坊は奴らのやるがままに任せていた。奴らの行為は正当ではないにしろ、敵の損害となり、味方を有利に導くものだった。ただ、戦に関係ない者まで巻き込む事になるが、それは仕方のない事だった。
次の朝、専称寺を出た一行は白山三箇寺の一つ那谷寺(ナタデラ)の賑やかな門前を通って山道へと入って行った。険しい山を越え、大杉谷川に出ると大杉円光寺はすぐだった。
円光寺は蓮如の異母弟の蓮照(レンショウ)が創建した寺院だった。
蓮照は当時、応玄と名乗り、母の如円と妹の俊如と一緒に、この地で暮らしていた。蓮如と応玄は父、存如(ソンニョ)が亡くなった時、本願寺八代目法主の地位を争った仲であった。父が亡くなった時、蓮如はすでに四十三歳になっており、部屋住みのままで、応玄の母、如円に邪魔物扱いされていた。如円は自分の息子を法主にするために色々と画策するが、父の弟、二俣本泉寺の如乗の支持によって、八代目の法主は蓮如に決定した。如円は半狂乱になり、本願寺の財産を持ち出し、応玄と俊如を連れて大谷の本願寺から出て行った。そして、この山の奥に籠もったのだった。母親の如円はこの地で亡くなり、妹の俊如は母親が亡くなった後、蓮如の長男、順如の妻となった。応玄は改めて蓮如の弟子となって名を蓮照と改め、円光寺の住持となり、波倉本蓮寺の蓮心の後見人となったのだった。
風眼坊たち一行は突然の夕立に合い、びっしょりになって円光寺に駈け込んだ。こんな山奥の寺でも、円光寺は武装した門徒たちによって守られていた。行蔵坊という坊主の多屋に泊めてもらい、山菜と川魚の料理を御馳走になった。行蔵坊は戦に出ていていなかったが、話し好きのおかみさんや娘たちが持て成してくれた。
おかみさんの話によると、この山から戦に出て行った若者が二人、戦死したと言う。重傷を負って戻って来た者も何人かいる。その怪我が元で、これから仕事ができなくなったら可哀想な事じゃ。面倒見てくれる者がおればいいが、なければ、一人では生きてはいけん。ほんに可哀想な事じゃ。そうなると、いっそ、死んだ方がよかったかもしれんのう、とおかみさんは言って念仏を唱えた。娘たちも心配そうな顔をして念仏を唱えていた。
この辺りの門徒のほとんどの者は、杣(ソマ、きこり)か、筏(イカダ)流し(川による材木運送業)に従事していた。どちらも体が元手であった。体が不自由になれば仕事はできず、生きて行くのは難しかった。
蓮如は黙って、彼女たちの念仏を聞いていた。
風眼坊は、彼女たちが上人様の事を悪く言いはしないかと心配した。幸い、上人様の事は口に出さなかった。彼女たちにとっては、上人様というのは雲の上の存在で、決して、あれこれ言ってはならないのかもしれなかった。
次の日は一日中、山奥の道なき所を歩いた。何ケ所か険しい場所もあり、しかも、昼過ぎから大雨となり、風も強く、暴風雨の有り様となった。お雪は泣き言も言わずに歩き通した。元々、意志の強い女だったが、最近、さらに強くなったようだった。岩壁に張り付くようにして歩かなければならない危険な山道でも平気な顔で歩いているお雪を見ながら、大した女だと風眼坊は感心していた。
その日はびっしょりになりながらも、蓮綱が開いた山之内庄(鳥越村)の鮎滝坊(アユタキボウ)にたどり着いた。
暴風雨は一晩中やまなかった。
次の日の朝になって、ようやく小雨となり、一行は鮎滝坊を出た。その日の予定は、法敬坊(ホウキョウボウ)の開いた手取川の側にある島田道場に行くはずだったが、手取川が増水して氾濫し、島田道場の辺りは水浸しになっていた。一行は島田道場に行くのはやめて、山の中を通って越前超勝寺巧遵(ギョウジュン)の弟、順慶の開いた大桑の善福寺へと向かった。
そして、五日目にようやく二俣の本泉寺に到着した。
2
本泉寺も松岡寺や吉崎御坊程ではないが変わっていた。
寺は武装した門徒に守られ、高い見張り櫓が組まれ、濠が掘られて、土塁が築かれていた。
中でも一番、変わっていたのは勝如尼だった。女だてらに甲冑を身に着け、勇ましく坊主たちの指揮を執っていた。
蓮崇は本坊にはいなかった。門前にある下間玄信(シモツマゲンシン)の多屋にいた。
玄信の多屋の庭に疋田豊次郎がいた。もう会う事もないだろうと思っていたが、一月半振りの再会だった。相変わらず酔っ払っていた。
風眼坊とお雪を見つけると、「やあ、別嬪(ベッピン)のお医者様じゃないか、生憎、わしは、まだ、この通りピンピンしておるよ」と言って、笑った。
「あら、そう。よかったわね。偉そうな事、言ってたくせに、どうせ何もしないで、お酒ばかり飲んでたんでしょ」とお雪も負けてはいなかった。
「おお、そうじゃ。酒を飲んで悪いか」
「悪くはないけど、そんなに年中、酔っ払っているのはよくないわ」
「ほう、わしの事を心配しておるのか、そいつは有り難い」
「心配なんか、するもんですか」
「なあ、先生よ」と豊次郎は今度は風眼坊に声を掛けて来た。
「何じゃ」
「後で聞いて分かったんじゃが、わしらが松岡寺に行った頃、上人様は松岡寺におったらしいのう」
「それがどうした」
「わしが思うに、先生は上人様を知っておるな」
「ああ、知っておるが、それがどうしたんじゃ」
「やはりな。医者だとか何とか言っておるが、本当は本願寺のお偉方じゃな」
「いや、わしは医者じゃ。医者として上人様を知っておるんじゃ」
「成程、上人様、お抱えの医者というわけか‥‥‥」
「まあ、そんなようなもんじゃ。診るのは上人様だけじゃないがな」
「それで、上人様は今も松岡寺におるのか」
「分からんのう。しかし、上人様に何か用でもあるのか」
「わしは本願寺の門徒になった。わしだけじゃない。わしら一族の者、そして、倉月庄の者たち、みんなが門徒となった。そのお陰で、一族の者たちは助かった。まだ、決着は着いてはおらんが、多分、助かった事になるじゃろう。しかし、わしらは本願寺の上人様を知らん。誰も会った事もなければ、見た事もない。みんな、不安なんじゃよ。これからの事を考えるとな‥‥‥わしらは今まで、強い武士には従って来た。そして、土地を安堵(アンド)して貰った。皆、武士に従うのには慣れておるが、寺に従うのには慣れておらん。今回、門徒になった者たちでも本願寺方として戦うより、やはり、次郎方として戦った方がいいのではないかと言い出す者も現れて来たんじゃ。わしは上人様と一度、会って話がしたいと思っておるんじゃ」
「そう思ったのなら会いに行けばいいじゃろう。こんな所で酔っ払っておらんで」
「それはそうなんじゃが、わしが行ったとて会ってはくれんじゃろう」
「いや、上人様は誰とでもお会いなさる」
「上人様がそう思っても、部下の者はそうは思うまい。誰か有力な門徒と一緒に行かなければ会うことはできまい。ここにしろ、松岡寺にしろ、あんなに厳重に警固しておる。まして、上人様がおる所など、もっと警戒厳重なはずじゃ」
「うむ」と風眼坊は頷いた。「そりゃ、言えるのう」
「そこで、わしは蓮崇殿に頼んだ。そしたら、今はここから動けん。もう少し待ってくれと言うのみで、一向に上人様に会わせてくれん。じゃから、こうして、ここで酔っ払ってしまうというわけじゃ。そこで、先生、頼みなんじゃが、わしを上人様の所に連れて行ってくれんか」
お雪が急に笑い出した。
「何がおかしい」
「だって‥‥‥」とお雪は風眼坊を見た。
風眼坊はお雪にわかるように首を振って、「まあ、いい。もう少し、ここで待っていろ。会わせてやる」と豊次郎に言った。
「会わせてくれるか」
「ああ」
風眼坊とお雪は多屋の中に入って行った。蓮崇は広間の片隅で、一人で絵地図を眺めていた。風眼坊の顔を見ると驚いて、目を丸くした。
「どうしたんです、こんな所に」
「じっとしておられなくてな」と風眼坊は言いながら絵地図を覗き込み、蓮崇の前に腰を下ろした。
「すると、上人様も一緒ですか」
「ああ、今、勝如尼殿と話し込んでおる」
「上人様にも困ったものよのう。戦の最中に、のこのこ、こんな所まで来て‥‥‥」
「それは大丈夫じゃ。上人様には悪いが下男の格好をさせたら誰も気づかん」
「上人様に下男の格好を‥‥‥」蓮崇は口を開けたまま風眼坊を見ていた。「何と言う事を‥‥‥」
「いや。本人が結構、気に入っておるんじゃ。ああいう格好をしてみて、初めて、下男の気持ちというものが分かったと言っておった」
「それにしても、何も下男に化ける事もなかろうに‥‥‥ところで、その娘さんはどなたです」
「ああ。この娘はお雪と言って、わしの弟子じゃ」
「弟子?」
「ああ、わしは今回、医者として旅をしておるんじゃが、この娘はよく働く。もう、一人前の医者と言ってもいい位じゃ」
「そんな‥‥‥」と言って、お雪は照れて俯いた。
「ほう。風眼坊殿は医者でもあったのか‥‥‥大したもんじゃのう」
「別に大した事もないが、どうじゃ、戦の方はうまく行っておるのか」
「その事なんじゃが‥‥‥そうじゃ、丁度いい」
「なに?」
「風眼坊殿に頼みがあるんです」
「何じゃ、わしに頼みとは」
「実はのう」と言いかけて、蓮崇はお雪の方を見た。
「あの、わたし、座をはずしますか」
「ああ、そうじゃのう。悪いが、ちょっと、はずしてくれ」と風眼坊は言った。
お雪は、失礼しますと言って、広間から出て行こうとした。
「お雪、外にいる酔っ払いを上人様に会わせてやってくれんか」と風眼坊はお雪に声を掛けた。
お雪は笑って頷いた。
「いい娘さんじゃのう」と蓮崇はお雪の後ろ姿を見送りながら言った。
「うむ、いい娘(コ)じゃ」
「まさか、風眼坊殿の‥‥‥」
「何を言っておる。さっきの話の続きは何じゃ」
「ああ、そうじゃ。頼みと言うのは実は武器の事なんです」
「武器? やはり、足らんのか」
蓮崇は頷いた。
「どれ位?」
「まあ、ざっと、一万人分」
「なに、一万人分!」
「はい。河北郡には兵力となる門徒の数は二万人はおります。しかし、武器を持っているのは半分の一万人です。敵が高田派の門徒だけなら農具の鎌(カマ)や鍬(クワ)を担いででも戦に出るが、敵はれっきとした武士たちじゃ。まともな武器がないと動こうとしないんですよ」
「そうか‥‥‥やはり、武器が足らんのか‥‥‥」
「前に風眼坊殿が言ったように、敵からも武器は頂きました。しかし、まだ、全然、足りんのです」
「敵から捕っても足りんのか」
「はい。各地の高田派の寺をやっつけている者たちから戦利品は送られて来るが、武器は余りない。その代わり、銭の方はたっぷりある。そこで、風眼坊殿に武器を仕入れて来て貰いたいんです」
「わしが、武器の仕入れか‥‥‥」
「誰かに行かせようと思っていたんじゃが、なかなか、やれそうな奴がおらんのです。わしが行けば何とかなりそうじゃが、今の所、わしは動けん。丁度いい時に、風眼坊殿が現れたというわけです。上人様の方はここにいる限りは大丈夫じゃろう。風眼坊殿が戻って来るまでは、ここからは一歩も出しません。どうです、やって、貰えませんか」
「やるしかないじゃろうのう‥‥‥しかし、一万人分の武器となると大変な事じゃのう」
「できるだけで結構です。ただ、銭の心配は入りません。どうせ、敵から巻き上げた銭ですから思う存分に使って下さい。それと、弓矢の矢をできるだけ仕入れて欲しいのですが」
「矢か‥‥‥」
「はい。戦慣れしてないもんで、無駄な矢が多すぎるんですよ。矢の届く距離まで行かないうちに矢を放ってしまうのです」
「だろうな‥‥‥で、武器の方は何がいいんじゃ」
「槍ですね。しかも、長い槍の方がいいですね」
「分かった。槍と矢じゃな。甲冑は?」
「あれば何でも結構です。風眼坊殿にお任せします」
「やってみるか」
「心当たりでもありますか」
「いや。しかし、銭があれば何とかなるじゃろう」
頼みますと言うように蓮崇は頷いた。「ただ、加賀の国内では無理です。越前も無理でしょう。近江、あるいは、京か、奈良まで足を運ばないと無理かもしれません」
「分かっておる」と風眼坊は頷いて、「近江か‥‥‥」とつぶやいた。
「しかし、風眼坊殿、ほんとに丁度いい時に来ましたね。明日だったら、わしは野々市(ノノイチ)の方に行っておって留守でしたよ」
「野々市に行くのか」
「ええ、寝返り組の連中が、あそこにおるんです。一応、会っておこうと思いまして」
「寝返りで思い出したが、外にいた疋田豊次郎は役に立ったのか」
「役に立ったなんてもんじゃない。あいつのお陰で、倉月庄の者たちは寝返って、蓮台寺城から抜け出し、今、本願寺方として戦っております。その数、何と、二千人余りじゃ」
「なに、二千人も蓮台寺城から抜け出して来たのか」
「そうです。奴が蓮台寺城まで行き、仲間を説得しなかったら、とても、そんな事はできなかったじゃろう」
「何じゃと! 奴は蓮台寺城に乗り込んで行ったのか」
「はい、二、三人引き連れただけでのう。大した奴じゃよ。今、その倉月庄の者たちを使って、どんどん寝返りを勧めているところです」
「奴が蓮台寺城に乗り込んだ‥‥‥あの酔っ払いが‥‥‥」
風眼坊は、なぜか、おかしくなって笑い出した。
「あの酔っ払いが、やりおったわ」と蓮崇も笑っていた。
3
蓮崇が出て行った後も、風眼坊は広間で一人考えていた。
武器の調達‥‥‥しかも、一万人分も‥‥‥
弓矢の矢‥‥‥矢作りで有名なのは京の清水坂(キヨミズザカ)だが、あそこは叡山(エイザン)の膝元、本願寺に武器を売るかどうか‥‥‥矢といえば甲賀の飯道山でも作ってはいるが大量にあるかどうか分からん。今の時期、どこでも武器は必要だ。たとえ、銭があっても手に入るかどうか難しい。銭で取り引きをするのは商人。商人なら銭で動く可能性はある。
風眼坊は飯道山花養院の松恵尼を思い出した。
松恵尼は『小野屋』という名で店を幾つも持ち、信楽焼きなどの焼物、薬、白粉、お茶、それに家庭で使う鍋や包丁なども扱っていた。刀の研師がいるというのは聞いた事があるが、刀剣類の取り引きはしていなかった。しかし、あれだけ、やり手の松恵尼が今の時勢、武器を扱っている可能性は充分にあった。武器を扱っていないにしろ、同じ商人として武器商人を知っているかもしれない。また、松恵尼としても、この先、本願寺を取り引き相手にすれば損になる事はあるまい。
風眼坊はさっそく、明日、甲賀に向かう事に決めた。ついでに、息子、光一郎の顔も見たかったし、太郎のもとで、どれだけ腕を上げたかも知りたかった。
本泉寺に戻ると庫裏の客間の一室で、蓮如と疋田豊次郎、そして、お雪と十郎が酒を飲んでいた。
「風眼坊殿、どこに行っておったんじゃ」と蓮如がいい機嫌で言った。
「はい、ちょっと、蓮崇殿と会っておりました」
「そうか、まあ、風眼坊殿も一緒にやろう」
「先生もひどいな。人が悪いですよ」と豊次郎が言った。「どうして、このお方が上人様だと言ってくれなかったのです」
「あの時、言っても、どうせ信じはせんじゃろう」
「そうよ。疋田様は上人様の事を目付きの悪い盗賊の親玉だって、言ったのですよ」とお雪が言って風眼坊にも酒を注いだ。
「もう、その事は忘れて下さい。失礼いたしました。しかし、本願寺の上人様ともあろうお人が、あんな格好をして、あんな所におるなんて誰も思いはしませんよ。きっと、人に話しても信じて貰えないでしょう」
「本願寺の上人様というのは、どんな人だと思っておったんじゃ」と蓮如は聞いた。
「それは、やはり、上人様と言うからには偉そうな格好をして、大きな寺の奥の方にいて、普通の人には、なかなか、お目にかかれないようなお人で、外に出る時は大勢の坊さんたちに囲まれておるようなお人かのう」
「残念でした」とお雪が言った。「上人様は普段でも、贅沢な暮らしなんてしておりません。それに、門徒さんたちが来れば、上人様は誰とでも会ってお話します。決して、偉そうな素振りなんて見せません」
「じゃろうのう」と豊次郎は頷いた。「そうでなければ、平気で、そんな格好はできんじゃろう。偉いもんじゃ。本物の上人様じゃ」
「わしは、ただ、門徒たちの身になってみたかっただけじゃ」と蓮如はとぼけた顔をして酒を一口なめた。
「わしは、ほんとにびっくりしたわ」と豊次郎は言った。「お雪殿にこの部屋に連れて来られて、このお方が上人様だと言われた時、かつがれておるのかと思った。しかし、上人様が、わしが蓮如じゃ、と言った時、間違いなく、上人様じゃと確信した。何というかのう、確かに、この方が本願寺の上人様じゃと確信したんじゃ。わしは、度偉いお人に会ってしまったと思った。何と言ったらいいのか分からんが、とにかく、わしは、このお方が上人様なら、わしは付いて行ってもいいと思ったんじゃ」
「ほう。酔っ払っておるだけじゃなく、おぬしにも人を見る目はあるようじゃな」と風眼坊は笑った。
「わしも一応は一族を背負って立つ身ですから」と言うと豊次郎は酒を飲んだ。
「ところで、おぬし、蓮台寺城に行って来たそうじゃのう。どうじゃった、あっちの様子は」
「えっ、蓮台寺城に?」と十郎が驚いた。
「おぬし、敵の本拠地に行ったのか」と蓮如も驚いた。
「行って来て、二千人余りを寝返らせたそうです」と風眼坊は言った。
「凄い!」とお雪は改めて、豊次郎を見つめた。
「いや、照れるなあ。みんなして、そんな見ないで下さいよ。ちょっと行って来ただけですよ」
「ちょっと、と言っても‥‥‥」と十郎は口ごもった。
「わしも、おぬしがそれ程の事をするとは、はっきり言って見直しておるよ。それで、どうじゃったんじゃ」
「ええ。とにかく、敵は負けるとは思っておりませんでした」
「そうか、おぬしが蓮台寺城に行ったのは、七月の決戦の前じゃったな」
「はい。わしが城に入ったのは七月十八日でした」
「どうやって城に入ったんじゃ」
「途中で高田派の門徒たちと一緒になりました。寺を破壊されて、本願寺を倒すために蓮台寺城に向かっておりました。奴らと一緒に難無く、城には入れました」
「簡単に入れたのか」
「ええ、わしらだけじゃなかったんです。その時、各地から本願寺にやられた高田派の連中が蓮台寺城に集まって来ておりました。どこの誰々だと名を言うだけで城内に入れました」
「そうか、敵としては兵力は多い程、いいからのう。それから、どうした」
「わしは一族の所に行って、奴らを説得しました。蓮台寺城の中におると、回りの状況がまったくと言っていい程、分かりません。味方が不利な情報は流しませんから余計です。わしは河北郡の今の状況を説明して説得しましたが、なかなか聞いてはくれません。河北郡では、本願寺の門徒というのはほとんどが百姓衆です。百姓が何百人集まったとて何ができる、と耳を貸しませんでした。ところが、いつの頃からか、野々市の守護所が本願寺門徒に囲まれて危ない、と言う噂が広まりました。上層部では、そんな事はないと否定しましたが、どこから入って来るのか、北加賀の状況がわりと詳しく噂になりました。そこで、ようやく、一族の者たちも自分たちの領地の事が心配になり、わしの言う事に乗って来ました。話はまとまりましたが、今度は、どうやって、城から抜け出すかが問題でした。一人や二人なら何とかなりますが、一族の者、二百人が城から出るとなると大変な事でした。しかし、城から出て地元に帰ろうとしていたのは、わしらだけではなかったのです。わしらは一族以外の者たちには内密に事を運んでおりましたが、ある日、同じ倉月庄の郷士、山本若狭守(ワカサノカミ)殿に声を掛けられ、この城から抜け出そうと誘われました。若狭守殿は一族だけでなく、倉月庄の者たち、すべて、二千人を城から出そうとしておりました。若狭守殿のもとにも、地元から本願寺方に寝返るようにとの使いの者が来ておりました。他の者たちの所にも来ておったようです。話はすぐにまとまりました。そして、倉月庄の郷士、二千人余りは決戦の起きた二十六日、野々市の守護所を救うという名目で、堂々と蓮台寺城を抜け出した来たわけです」
「ふむ。しかし、よく、二千人余りもの武士たちを出したものよのう」
「丁度、その時、まだ夜が明ける前で、蓮台寺城は敵の襲撃を受けて混乱しておりましたから‥‥‥絶好の機会だと、どさくさに紛れて堂々と出て行きました。城内にあった武器をできるだけ持ち、ほとんどの者が馬に乗って出て行きました」
「馬に乗って堂々とか‥‥‥そいつは見事じゃのう」と蓮如が言った。
「すべて、山本若狭守殿が指揮を執っておりましたが、なかなかのものでした」
「山本若狭守か‥‥‥会ってみたいものじゃのう」と風眼坊が言った。
「今は野々市におると思いますが」
「敵の追撃は受けませんでしたか」と十郎が聞いた。
「いや、それどころではなかったじゃろう。戦が終わってから、わしらがいなくなったのに気づいたんじゃないかのう」
「敵の大将、幸千代の様子は分からなかったか」と風眼坊は聞いた。
「分かりません。ただ、噂では、毎日、宴を催しておるようです。わしらの仲間うちで、幸千代殿に拝謁(ハイエツ)した者は一人もおりません。重臣たちの中でも、ほんの数人の者しか拝謁できないようです。幸千代殿はまだ十六歳だそうですから、ただの飾り物に過ぎないと思います」
「やはり、幸千代は飾り物か‥‥‥」
「はい。実際、敵の大将と言えるのは守護代の額熊夜叉(ヌカクマヤシャ)殿です」
「額熊夜叉?」
「はい。熊夜叉殿の親父、丹後守殿は幸千代殿や次郎殿の親父の富樫介(成春)殿の重臣でしたが、北加賀に入って来た赤松勢と戦って戦死しました。熊夜叉殿は親父の後を継ぎ、富樫介殿の重臣となり、赤松氏に抵抗を続けました。後に、富樫五郎(泰高)殿が隠居して、富樫介殿の子、次郎殿に家督を譲ると、富樫介の守護代だった本折(モトオリ)越前守殿は次郎殿と共に南加賀に移りました。本折殿が抜けると熊夜叉殿は富樫介派の中心的人物となって行ったのです。次郎殿に対抗するため、弟の幸千代殿を大将として引き入れたのも熊夜叉殿です」
「ほう‥‥‥その熊夜叉とやらは、どんな男じゃ」
「武将としては、一流でしょう。ただ、持駒が弱いですね」
「そうか‥‥‥」
「おぬしらが消えたとなると、他の連中も地元に帰りたくなるんじゃないかのう」と蓮如が言った。
「多分、そうでしょう。同じ手を使って寝返り作戦が進んでおるはずです。この間の決戦の後は、寝返る者たちが続出しておる事でしょう」
「もうすぐ、戦も終わるかのう」と蓮如が誰にともなく聞いた。
「いえ、まだ、かかるでしょう」と風眼坊が答えた。「敵は籠城に入りました。籠城戦に入ると戦は長引く事になるでしょう。ところで」と風眼坊は豊次郎を見た。「城内の兵糧米はかなり、ありそうなのか」
「ありそうですね。かなり、溜め込んでおるようです」
「じゃろうな。かなり溜め込んでなければ、いつまでも、あんな所に腰を落着けてはおるまいからな。おぬしの見た所、どの位は持ちそうじゃ」
「そうですね。蓮台寺城に籠もっておるのが今の状況で二万位でしょう。一日百石は食うでしょう。一万石あるとして百日は持つ事になりますが、まあ、一万石はないでしょう。半分として、五十日と言うところですかね」
「二ケ月か‥‥‥水の方はどうじゃ」
「たっぷりあります。あの辺りは湿地帯で、蓮台寺城もそれ程、高い所にあるわけではないので、どこを掘っても水は出て来るようです」
「成程のう。二ケ月は余裕というわけじゃのう」
「後二ケ月か。二ケ月で、この戦は終わるんじゃな」と蓮如は聞いた。
「後詰(ゴヅ)めの軍が来なければです」と風眼坊は言った。
「後詰め?」
「はい、援軍です」
「援軍が来るのか」
「分かりません。しかし、籠城というのは援軍が来るという前提のもとで行なう作戦です。援軍がどこからも来ないのに、籠城などしても自滅するだけです」
「そりゃそうじゃのう。しかし、援軍がどこから来るんじゃ」
「多分、越中か能登でしょう」
「はい、そうです」と豊次郎が言った。「蓮台寺城にいる奴らは越中から大軍が来る事を信じて戦っております」
「やはり、そうか」
「はい。北加賀に赤松氏が入って来た時、富樫介方の者たちは赤松氏に敗れ、越中に逃げました。その頃より、幸千代方は越中とは関係があるようです。しかし、越中から大軍が来ると言うのは本当ですかね」
「分からん。ただ、蓮崇殿の話によると、すでに、能登と越中の国境は封鎖してあるとの事じゃ。何か動きがあれば、すぐに対処できるじゃろう」
「国境封鎖ですか‥‥‥大したものですね。本願寺には大した軍師がおるらしいですね」
「一癖も二癖もあるような坊主が大勢おるわ」
「もし、越中から援軍が来るとなると、戦は益々大きくなるのう」蓮如は心配顔をした。
「ええ、援軍が来れば大変な事になります。加賀だけでなく、北陸の地、すべてが戦場になるかもしれません」
「ふーむ、まずいのう。援軍が来る前に、何とか蓮台寺城を落とす事はできんのか」
「その事については、蓮崇殿を初め、蓮台寺城を包囲している者たちが色々と考えて実行しておるでしょう。前線におる者たちに任せましょう」
蓮如は何も言わなかった。
自分が命じて始まった戦だったが、自分の意志で、この戦をやめさせる事ができないのが歯痒くてしょうがないのだろう、と風眼坊は思った。すでに、蓮如が開戦を命じてから二ケ月以上が経っていた。戦の犠牲者は数知れなかった。それは、直接的に戦による負傷者たちばかりでなく、戦という名目で、せっかく実った農作物を、すべて刈り取られた百姓たち、打ち壊しにあって財産をすべて奪われた土蔵や酒屋、戦とは全く関係ない場所での襲撃や放火に遭って逃げ惑う者たち、彼ら、すべてが犠牲者だった。
戦が長引けば、そんな犠牲者の数は増え、各地から浮浪の徒や浪人どもが集まって来て、やりたい放題に暴れ回る事になるだろう。蓮如が早く、戦をやめたいと思うのは無理もなかった。
蓮如は話題を変え、久し振りに、お雪の笛が聞きたくなったと言い出した。
お雪は頷くと、皆の顔を窺った。
豊次郎も是非、聞きたいと言い、風眼坊も十郎も同意した。
お雪は帯に差していた笛を抜くと構え、吹き始めた。
綺麗な調べが流れ出した。
蓮如は目を閉じて聴いていた。
気候が涼しくなって来たせいか、どことなく淋しく、物悲しい調べに聞こえた。
4
次の日の朝早く、小雨の降る中、風眼坊は豊次郎を連れて近江の国、甲賀に向かった。
風眼坊も豊次郎も砂金や銀貨を背負っていた。武器を買うに当たって、取り合えずの見せ金だった。
お雪も一緒に行くと言い張ったが、今回は急ぎ旅だし、あちこち歩き回らなければならない。ここ本泉寺にも負傷者はいるはずじゃ。誰かが治療しなければならない。それができるのはお雪しかいない、それと、蓮如の事も頼むと、やっとの事で説得して置いて来たのだった。
本泉寺は前線から離れているため負傷者はあまりいなかった。いたとしても皆、軽傷者ばかりだった。重傷を負った者は前線に収容されたまま地元に戻って来る事はできない。武器を取って戦う事はできないが、歩く事はできる軽傷者だけが帰って来ていた。
負傷者は余りいなかったが、高田派門徒に攻められ、家を焼かれて逃げて来た本願寺門徒たちが、かなり避難していた。それと、ここ本泉寺には捕虜(ホリョ)となった敵兵と、孤児となった子供たちが収容されていた。
捕虜は野々市の守護所から送られて来た者たち、孤児は河北郡の遊軍として、各地の高田派寺院を攻撃していた高坂(コウサカ)四郎左衛門が連れて来た子供たちだった。捕虜の数は二百人余り、孤児の数は三十人余りいた。
最初、捕虜は一千人近くいたが、ほとんどの者は寝返り、一族の迎えによって釈放された。今、収容されている二百人余りは、次郎政親対幸千代で争う以前の、五郎泰高対次郎成春で争っていた頃より成春派として戦って来た者たちが多かった。今更、寝返ってみても、次郎方が自分たちを受け入れてくれるはずはないと決め込み、寝返る位なら死んだ方がましだと思っていた。彼らは町はずれに作られた牢屋敷に収容されていた。
一方、孤児たちは敵味方関係無く、本泉寺の近くの多屋に収容されていた。
風眼坊が出掛けて行ってしまうと、何となく気が抜けてしまったように沈んでいたお雪だったが、子供が怪我をしたから診てくれと言われ、初めて孤児たちを見ると、それ以来、すっかり孤児たちの面倒を見るようになって行った。
子供たちの相手など、今までした事もなかったお雪なのに、自分でも不思議に思う程、子供たちの気持ちになって世話をし、誰もが嫌がる事でも進んで行なった。
孤児たちを世話していたのは多屋の娘たちだった。お雪はいつの間にか、その中心になっていた。年齢もお雪が一番年上だったが、年齢差だけでなく、お雪には元々、人を引き寄せ、まとめると言う才能があるのかもしれない。娘たちは、お雪さん、お雪さんと、お雪の事を頼りにし、子供たちには、先生、先生と呼ばれて好かれていた。
お雪は朝から晩まで、子供たちの面倒を見ていた。
お雪自身が子供たちと同じように戦による孤児だった。両親を亡くして独りぼっちになってしまった子供の気持ちは痛い程、よく分かった。お雪は、かつての自分のような生き方を子供たちにさせたくなかった。決して自分の過去の事を口にしないお雪だったが、子供たちに対する接し方にお雪の気持ちは充分に現れていた。
お雪が毎日、孤児たちの面倒を見ていた頃、蓮如は毎日、泥だらけになって、土や石と格闘していた。本泉寺の裏手にある庭園の改築をしていた。
蓮如は風眼坊のひらめきから庭師と呼ばれた事を自分でも気に入り、わしは、ここに上人として来たのではない、庭師として来たのじゃ、と自分でも言い、ここにいる事を門徒たちに公表する事を禁じた。
本泉寺の庭園を直そうと思ったのは、今回、ここに来てからの思い付きではなかった。
蓮如が庭園造りに興味を持ち出したのは、近江の国、大津に顕証寺(ケンショウジ)を建てた五年程前からだった。大谷本願寺を破壊され、落ち着く事なく、琵琶湖湖畔の道場をあちこち移動して暮らして来たため、ようやく落ち着く場所が見つかり、蓮如は初めて自分で庭造りをした。その時は、専門の庭師を頼んで、蓮如は命ずるだけだったが、完成した庭は、自分の納得するものではなかった。
次に造った庭園は吉崎御坊の庭園だった。吉崎の庭園は蓮如自らが動き、自分の思い通りのものができ、ある程度、満足だった。しかし、時が経ってみると、だんだんと気に入らない所があちこちに出て来た。何というか、わざとらしい所がやけに目に付いて来た。
大津の庭園は自分の思い通りにはならなかったが、そんな事はなかった。いいと思う事もなかったが悪いと思う事もなかった。特に目に付く所もなかったが鼻持ちならない所もなかった。ところが、自分の手で造った庭園は日を追う毎に、気に入らない所があちこちと出て来た。蓮如は、どうしてだろうと考え、庭園造りの難しさを身に染みて感じた。
蓮如の庭園造りは蓮如の中の極楽浄土を表現するというものだった。蓮如は初め、浄土をこの世のものとは別な世界として表現しようとした。そして、自分の中の浄土を表現したのが吉崎の庭園だった。完成した日、これこそ、阿弥陀如来のいる極楽浄土だ、と自分で感激した。ところが日が経つにつれて、あの日の感激が嘘のように、つまらない庭園となって行った。
蓮如は悩んだ。どうしたら浄土を表現する事ができるのか。
布教しながら、あちこちを歩き回りながらも、庭園の事は常に心の片隅に残っていた。そして、庭園造りには調和こそが最も重要だという事を学んだ。飽きの来ない庭園を造るには調和というのが一番重要な事だった。それは、庭園だけの事ではなかった。すべての事に言える事だった。極楽浄土と言うのは調和のよく取れた世界の事だし、自然界と言うのも調和の取れた世界の事だった。
蓮如は、その調和の取れた庭園を、いつの日にか造らなければならないと思っていた。それは蓮如の思想の表現でもあった。しかし、毎日、布教に忙しく、そんな事はすっかり忘れていた。それが、この間、風眼坊に庭師と呼ばれて、急に思い出したように庭造りがしたくなったのだった。
最初、吉崎の庭園を直そうと思った。しかし、ここでやるのは、はばかられた。皆、戦に真剣になっているのに、庭いじりなど、とんでもない事だった。まして、この吉崎の地を守っているのは、近江から、わざわざ来てくれた門徒たちだった。それに、庭園には抜け穴があった。庭園をいじっているうちに、抜け穴が見つかってしまう恐れもあった。抜け穴が見つかってしまえば自由に出られなくなる。それが一番、困る事だった。そこで蓮如は本泉寺を思い出した。
本泉寺の庭園は叔父の如乗が生きていた頃は、ちゃんと手入れしてあったが、如乗が亡くなってからというもの、誰も顧(カエリ)みず、放ったままになっていた。吉崎に進出する前、何日か、本泉寺に滞在した頃、何とかしようと思ったが、結局、何もできなかった。
今がいい機会だと言えた。戦をしている門徒たちには悪いが、どうせ、自分が指揮を執っているわけではなかった。はっきり言って、自分の知らない所で戦は進んでいた。門徒たちが、どういう作戦のもとで、どう戦っているかも詳しく知らなかった。
蓮如は蓮如なりに自分の信仰心が正しかったという事を形として表現したかった。その形というのが庭園だった。
誰も気づかなかったが、松岡寺から戻って一月近く、吉崎の書斎に籠もっていたのは、庭園造りの設計図のようなものを練っていたのだった。勿論、御文も何枚か書いたが、頭の中は庭園造りの事で一杯だった。そして、頭の中の庭園の形が決まると、蓮如は風眼坊に本泉寺に行こう、と声を掛けた。
蓮如が本泉寺に行く目的は、初めから庭園造りが目的だったのだった。
蓮如は毎日、生き生きとして庭園造りに励んでいた。手子(テコ)となって手伝ったのは十郎だった。ぶつぶつと文句を言いながらも、十郎は土にまみれて蓮如を手伝っていた。
13.小野屋1
1
懐かしかった。
飯道山の山頂を風眼坊は感慨深げに眺めていた。
ここに来るのは、実に四年振りの事だった。
あの時、弟子の太郎と花養院にいた楓の祝言を行なった。早いもので、あれから四年という歳月が流れていた。あの後、二人は故郷の五ケ所浦に帰ったが、また戻って来た、というのは風の便りで聞いていた。
きっと、もう子供もいるに違いない。どんな子供だろう、会うのが楽しみだった。
中でも一番の楽しみは、何と言っても、息子、光一郎の成長振りを見る事だった。太郎のもとで、どれだけ腕を上げたのかを見るのが一番の楽しみだった。
風眼坊がそんな事を思いながら飯道山を眺めている時、連れの疋田豊次郎は息を切らしながら、ようやく風眼坊に追い付き、景色を楽しむどころではなかった。
五日前に二俣本泉寺を出て来た二人は、かなり、きつい旅をして来ていた。豊次郎は風眼坊に付いて行くのがやっとだった。それでも、風眼坊にしてみればのんびり歩いているつもりだった。
昨日、琵琶湖を舟で渡り、目的地が目と鼻の先の距離になると、風眼坊は知らず知らずのうちに急ぎ足となって行った。
風眼坊は琵琶湖側から阿星山(アボシサン)の山頂を目指した。かなり急な山道を風眼坊は走るような速さで登って行った。豊次郎にはとても付いて行けなかった。風眼坊は少し登っては豊次郎を待ち、また歩き始めた。飯道山へと向かう奥駈け道まで来て、飯道山を眺めていたのも豊次郎を待っていたのだった。豊次郎が来たので先に進もうとしたが、豊次郎が少し休ませてくれと頼んだので少し休む事にした。
実に懐かしかった。
何度、この道を行ったり来たりした事だろう。光一郎もこの道を一ケ月間、歩き通した事だろう。もしかしたら、太郎と一緒に百日間、歩いたかもしれなかった。ひょっとしたら、今、この道を歩いているかもしれない。どこかで、ばったり出会うかもしれない。何となく照れ臭いような気もするが、早く、光一郎に会いたかった。
「先生、まるで、山伏のようじゃのう」と息を切らせながら豊次郎は言った。
「そうか、おぬしにはまだ言ってなかったのう。わしは医者でもあるが、大峯の山伏でもあるんじゃ」
「何だって! それならそうと言って下さいよ。わしは先生がただの医者だと思っておったから、医者なんかに負けるものかと今まで付いて来たけど、先生が山伏なら、かなうわけない。もう、くたくたで足は棒になってますよ」
「もうすぐじゃ。頑張れ」
「付いて来るんじゃなかったわ」
「そう言うな。このお山はのう、有名な武術道場なんじゃよ」
「武術道場?」
「ああ。おぬしも、かなり使いそうじゃが、このお山には、おぬし程の腕を持っておる奴らは、ごろごろおる。そういう所を見ておくのも、この先、何かのためになろう」
「飯道山とか言ったか、この山は」
「ここは、まだ阿星山じゃが、あそこに見えるのが飯道山じゃ。おぬし、越前の一乗谷で武術指南をしておる大橋勘解由(カゲユ)というのを知っておるか」
「ええ、名前だけは」
「奴も若い頃、ここで修行をしておるんじゃ」
「へえ。わさわざ、あんな所からも来ておるのか」
「ああ、最近はかなり遠くからも来ておるらしいの。実はのう、わしの伜もここにおるんじゃよ。ちょっと一目会いたくてのう」
「へえ。先生にそんな大きな子供がおったんですか」
「まあな。おぬしの方はどうなんじゃ。子供はおるのか」
「ええ、十歳になる男の子がおります」
「ほう。おぬしにもそんな大きな子がおったのか」
「はい。この間、久し振りに会ったら驚く程、大きくなっていました」
「そうか、子供の成長は早いからのう。そうじゃ、おぬしもその子が十七、八になったら、このお山に入れるがいい。これからは加賀も大変じゃ。まず、強くなければ生きて行けんようになるぞ」
「ええ、確かにそうですね」
「まあ、ここで、どんな事をやっておるか見て行けばいい」
二人は飯道山の山頂から飯道寺へと下りた。
飯道寺に近づくにつれて、修行者たちの掛声や木剣のぶつかり合う音が勇ましく聞こえて来た。
飯道山も四年前とは変わっていた。この山も、山そのものが城塞と化していた。加賀の国だけでなく、今の時勢、どこに行っても戦から逃げる事はできなかった。
二人はまず、水本院に高林坊を訪ねた。高林坊はいなかった。不動院の方だろうというので、そちらに向かった。
高林坊はいた。風眼坊を見ると目を丸くして、「おい。一体、どうしたんじゃ」と風眼坊の姿をまじまじと見ていた。
風眼坊は町人の格好のままだった。
「久し振りじゃのう」と風眼坊と高林坊はお互いを見ながら同時に言った。
「その格好は、どうしたんじゃ」
「これか。今、ちょっと、加賀でな、町医者をやっておるんじゃよ」
「町医者?」
「ああ。加賀の国はのう、本願寺の勢力が強くてのう、山伏は嫌われておるんでな、町医者になったんじゃ」
「ほう。それで、また、何で加賀なんかにおるんじゃ」
「それなんじゃよ。まあ、話せば長くなるがのう。早い話が火乱坊が本願寺の坊主になって加賀におるんじゃ」
「なに、火乱坊が加賀におるのか」
風眼坊は高林坊に、火乱坊との出会いから、今までの成り行きを簡単に説明した。
「成程のう。あいつが本願寺の坊主にのう‥‥‥」
「おう。二十年という月日は人を変えるもんじゃ、としみじみと思ったわ」
「うむ。確かにのう」
風眼坊は高林坊に頼み、豊次郎に道場の見学をさせた。豊次郎は師範代に案内されて道場を見て回った。
「高林坊。ところで、わしの伜じゃが、まだ、このお山におるんじゃろう」
「いや。ここにはおらんが」と言って、高林坊は風眼坊の顔を見て、「そうか、おぬし、まだ、あの事を知らんのじゃな」と言った。
「あの事? 何かあったのか、光一郎に」
「いや、おぬしの伜に何かあったわけではない。伜の師匠に、とんでもない事が起きたんじゃよ」
「伜の師匠?」
「おお、太郎坊じゃ」
「なに、光一郎は太郎坊の弟子になったのか」
「そういう事じゃ」
「あいつが太郎坊の弟子にか‥‥‥」風眼坊は、そうか、そうかと満足そうに頷いてから、「それで、今、どこにおるんじゃ」と聞いた。
「播磨じゃ」
「播磨? 何で、そんな所におるんじゃ」
「それがのう、話せば長くなるが、早い話が、まず、楓殿の正体が分かったんじゃ」
「楓の正体? 何じゃ、そりゃ。楓は孤児(ミナシゴ)じゃなかったのか」
「ところが、とんでもない所の遺児じゃった」
「遺児?」
高林坊は頷いた。「驚くなよ。赤松の遺児だったんじゃ」
「赤松? あの播磨の赤松か」
「そうじゃ、あの赤松じゃ。幕府の侍所(サムライドコロ)の赤松家じゃ」
「楓が、赤松家の遺児‥‥‥」
風眼坊は備中の国(岡山県西部)に生まれたので、当時、まだ子供だったが、赤松家によって将軍が殺されたという嘉吉(カキツ)の変を知っていた。そして、赤松家が滅び、やがて、政則によって再興されたという事も噂で知っていた。風眼坊にとって、赤松家というのは、たとえ、一時は滅びたといえ、中国地方における名族に違いなかった。
「それで、楓はどうしたんじゃ」
「赤松家にさらわれたんじゃ」
「さらわれた?」
「ああ。そこで、太郎坊は弟子たちを連れて楓殿を取り戻しに播磨に乗り込んで行ったんじゃよ」
「赤松家を相手に乗り込んだのか」
「そうじゃ。金比羅坊の奴まで一緒に付いて行きおったわ」
「金比羅坊まで‥‥‥それはいつの事じゃ」
「確か、七月の初め頃じゃったかのう」
「二月前じゃな‥‥‥それで、向こうに行ってから、どうなったのか分からんのか」
「分からん。しかし、花養院の松恵尼殿なら何か知っておるじゃろう。わしにはよく分からんが、今回、松恵尼殿も動いておるらしい」
「松恵尼殿か‥‥‥松恵尼殿は楓の正体を知っておったのか」
「知っておったらしいのう」
「そうか‥‥‥じゃろうのう」
「しかし、どうして、松恵尼殿が赤松家の遺児を預かっておったのか、ちょっと分からん事じゃがのう」
「ああ、そうじゃのう‥‥‥楓が赤松家の者だったとはのう‥‥‥今の赤松家のお屋形とは、どういう間柄になるんじゃ」
「実の姉らしい」
「実の姉か‥‥‥楓がお屋形の姉か‥‥‥そいつは赤松家も放ってはおくまい‥‥‥もしかしたら、太郎坊たちは消されたかもしれんのう‥‥‥」
「うむ」と高林坊は頷いた。「いくら、あれだけの腕を持っておったとしても相手が赤松家ではのう。相手が悪すぎるからのう‥‥‥」
「そうか‥‥‥光一郎の事じゃが、このお山ではどうじゃった」
「強かったよ。去年の修行者は今まででも一番強かったじゃろう。その中でも強かった者、三人が太郎坊の弟子となって、今年も残っておったんじゃ」
「太郎坊の奴、三人も弟子がおるのか」
「ああ。太郎坊としては、まだ、弟子なんか取りたくなかったんじゃろうが、三人共、見事に百日行をやってのう。太郎坊の弟子になったわ」
「そうか、光一郎も百日行をやったか‥‥‥」
豊次郎が戻って来た。興奮しているようだった。
風眼坊は花養院に行こうと思った。もしかしたら、太郎と一緒に行った光一郎は、すでに死んでいるかもしれなかった。そんな事を聞きたくはなかったが、事実を確かめなくてはならなかった。もし、まだ生きているとしたら、風眼坊も播磨に行かなければならなくなるかもしれなかった。
風眼坊は高林坊に、また来る、と言うと不動院を後にした。
「おい、風眼坊」と高林坊が呼んだ。
「何じゃ」と風眼坊は浮かない顔のまま振り返った。
「おぬし、何か、用があって、ここに来たんじゃなかったのか」
「用‥‥‥おお、そうじゃ。忘れておったわ」と風眼坊は不動院に戻った。
「おぬしらしくないのう。加賀から、わざわざ、伜に会いに来たわけではあるまい」
「実はのう、武器の調達に来たんじゃ。このお山に余った武器はないかのう」
「余った武器などないわ」
「じゃろうな。矢も余っとらんか」
「矢か。余ってない事もないがのう。うちも取り引き先があるからのう」
「銭はいくらでも出す。相手は本願寺じゃ。取り引き先としては文句ないとは思うがのう」
「本願寺か‥‥‥本願寺と言えば叡山の敵じゃのう」
「まあ、天台宗の敵じゃが、本願寺はこの先、叡山相手に戦はせんじゃろう。敵とするのは武士たちじゃ」
「武士?」
「ああ。やがて、本願寺は加賀の国を取るじゃろう」
「なに! 本願寺が加賀の国を取る。そんな事ができるか」
「まあ、見てろ。火乱坊は取る気でおる。わしも、そうなるような気がする。この先、武器はいくらでも欲しいはずじゃ。今、ここで本願寺と取り引きをすれば、この先、損はないぞ」
「うむ。本願寺か‥‥‥まあ、わしの一存では決められん。話だけはしてみるがのう」
「頼むわ」
風眼坊は豊次郎を連れて山を下りた。
豊次郎は興奮して、道場内での修行を見た感想をしきりに言っていたが、風眼坊の耳には入らなかった。
風眼坊の足取りは重かった。
「どうかしたんですか」と豊次郎が聞いても、風眼坊は上の空だった。
「祭りでもあるんですかねえ」と豊次郎が言うと風眼坊は、「祭り‥‥‥」と言って回りを見回した。
あちこちに飾り付けがしてあり、山の下の大鳥居のある広場の一画では舞台を作っていた。
「今日は何日じゃ」と風眼坊は聞いた。
「十二日ですが」
「そうか。九月の十二日じゃな。あさってから三日間、ここの祭りじゃ」
「へえ、丁度いい時に来ましたね」
「さあ、それはどうかな。武器がここで見つからなかったら、大和まで足を伸ばさなくてはなるまい。のんびり、祭り見物などできんじゃろう」
「そうですね。早く、武器を集めて帰らないと‥‥‥」
この時、広場で舞台を作っていたのは金勝座(コンゼザ)の甚助だった。金勝座は五日前に播磨の国、置塩(オキシオ)城下から戻って来ていた。
風眼坊は金勝座の事を知らなかった。金勝座が結成された二年前、風眼坊は熊野の山の中で家族と共に過ごし、光一郎に剣術を教えていた。
花養院の門をくぐった所で風眼坊は足を止めた。花養院の境内の中は子供たちで一杯だった。子供たちがキャーキャー言いながら遊んでいた。
「何ですか、これは」と豊次郎が子供たちを見ながら聞いた。
「知らん」と風眼坊は首を振った。
一体、どうなっているのか風眼坊にも分からなかった。
「孤児たちですかね」と豊次郎は言った。
「孤児?」
「ええ、戦の孤児です。本泉寺にも孤児を預かっている所がありました」
「本泉寺にか」
「ええ。多屋の娘たちが面倒を見ておりました」
「ほう‥‥‥」
風眼坊と豊次郎が門の所に立ったまま子供たちを見ていると、一人の娘が近づいて来て風眼坊に声を掛けて来た。
「あの、もしかしたら、風眼坊様ではありませんか」
「ああ、わしは風眼坊だが‥‥‥」と風眼坊は娘を見たが、見覚えはなかった。
「あたし、ちいです。分かりませんか」
「ちい?」
「金比羅坊の娘です」
「なに、あのおちいちゃんか‥‥‥随分、大きくなったのう。そうか、ここで働いておったのか」
「お久し振りです」と、おちいは頭を下げた。
「おちいちゃんは、ここで、子供たちの面倒を見ておるのか」
「はい」
「そうか、偉いのう‥‥‥親父は元気か」
風眼坊は金比羅坊が太郎と一緒に播磨に行った事は知っていたが、おちいに、ちょっと探りを入れてみた。太郎たちに何かが起こったとすれば、この娘が何らかの反応を示すに違いなかった。松恵尼から事実を聞く前に、少しでも予備知識が欲しかった。
「はい。元気です」と、おちいは言った。その表情には少しの曇りもなかった。
風眼坊は、ほんの少し安心した。
「でも、父は今、播磨の国に行っています。向こうで活躍したと言っていました」
「そうか、元気か。そいつはよかった。しかし、誰がそう言ったんじゃ。誰か、播磨に行って、戻って来た者がおるのか」
「はい。金勝座の人たちです」
「金勝座?」
「はい。金勝座の人たちは、向こうで、父や太郎坊様たちとずっと一緒だったそうです」
「それじゃあ、みんな、向こうで無事なんじゃな」
「太郎坊様は赤松家のお殿様になられたそうです」
「なに、お殿様?」
「はい。あたしの父は太郎坊様の家来になって、もうすぐ、あたしたちを迎えに来るそうです」
「そうなのか‥‥‥ところで、松恵尼殿はおられるか」
「いえ。祭りの事で、ちょっと出掛けています」
「そうか‥‥‥ところで、その金勝座の人たちというのは、どこにおるのか知らんか」
「助六さんたちは、ここにいますけど」
「その助六さんと言うのは金勝座の人なのか」
「ええ、踊り子さんです。とっても綺麗で、いい人です」
風眼坊は、まず、その助六と会う事にした。
おちいの話は、はっきり言ってよく分からなかった。分からなかったが、光一郎を初め、皆、無事らしい事は分かった。無事だという事が分かれば、後は、向こうで何がどう起こったのか早く知りたかった。
風眼坊は花養院の客間で、助六、太一、藤若、千代の四人の娘たちと会った。踊り子だけあって、皆、綺麗な娘たちだった。風眼坊は自分を光一郎の父親だと説明した。
四人の反応はなかった。四人は光一郎を知らないようだった。仕方がないので、太郎坊の師匠だと言った。すると、太一が、「もしかしたら、風光坊様のお父上ですか」と聞いて来た。
「そう言えば、何となく似ているわね」と助六が言った。
「多分、そうじゃろう。わしは伜が山伏になったのは知らん。ただ、伜が太郎坊の弟子になったと聞いておるから、多分、その風光坊が光一郎じゃろう。それで、その風光坊の事じゃが、まだ、無事でおるのか」
「はい。大丈夫、御無事です」と太一が言った。
「そうか、よかった。わしはまた、赤松家を相手に播磨に乗り込んで行ったと聞き、もしや、死んでしまったのではないかと心配じゃったわ」
「御安心下さい」と助六が言った。「皆、御無事です。危ない事も何度かありましたが、太郎坊様のお陰で何とか乗り切り、今は、太郎坊様は赤松日向守(ヒュウガノカミ)と名乗って、赤松家のお屋形様の義理の兄上として、一城の主(アルジ)におさまりました。太郎坊様と共に戦った者たちは皆、太郎坊様の家臣となって仕えています。風光坊様も太郎坊様の側近の武将になっています」
「光一郎が武将に‥‥‥」
「はい」と太一が頷いた。「鎧兜(ヨロイカブト)に身を固めて、置塩の城下を行軍した時は、皆、立派でした。風光坊様も太郎坊様を守る立派な武将でした」
「城下を行軍までしたのか」
「はい。とても素晴らしい行軍でした」と藤若は言った。
「そうか、すまんが、わしに事の成り行きを話してくれんか。どうして、太郎坊が殿様になったのかを」
四人の踊り子たちは、この花養院に皆が集まり、播磨の国に向かって旅立って行った時から、順を追って風眼坊に話してくれた。
太郎たちが瑠璃寺(ルリジ)の山伏たちと城下の外れで戦う所まで来た時、松恵尼が帰って来た。
松恵尼は風眼坊を見ると嬉しそうに笑い、「あらあら、やっと、お山から出て来たようね」と言った。「それにしても、その格好はどうしたの。もう、山伏はやめたの」と聞きながら、松恵尼は風眼坊の隣に坐った。
「ちょっとな」と風眼坊も嬉しそうに笑った。「訳あってな、今は医者をやっておる」
「へえ。お医者様ねえ。それもいいかもしれないわね」
「なかなか、医者というのも忙しいもんじゃよ」
「そうねえ。今の御時勢は、お医者様は大変でしょうねえ」
「松恵尼殿、とんでもない事が起きたものよのう」
「そうね。世の中、とんでもない事が起こるから、また面白いのよね。風眼坊殿もようやく、お山から出て来て、何かを始めたようね」
「いや、わしはまだ何も始めとらん。今回、ここに来たのは火乱坊に付き合っているだけじゃ」
「火乱坊殿?」
「おう。今、奴と一緒におるんじゃ。奴は確かに何かを始めておる」
「火乱坊殿は、前に本願寺と関係しているって聞いたけど、今は何をしてるの」
「今も本願寺の坊主じゃ。それも、蓮如殿にかなり信頼されておる」
「蓮如殿?」
「ああ、本願寺の法主じゃ」
「へえ、そうなの。本願寺ね‥‥‥」
「松恵尼殿、その事は後で話すとして、今、丁度いい所なんじゃ。もう少し、播磨の様子を聞かせてくれ」
「そうね。ゆっくりと聞くがいいわ。まるで、お芝居の中の話のように面白いわ。あなたも、大したお弟子さんを持ったものね」
「そう言う松恵尼殿も、大した娘を持ったものじゃわい」
松恵尼は笑うと客間から出て行った。
豊次郎は、いつの間にか消えていた。旅の間中、酒抜きだったので酒が欲しくなって町に出たのだろうと、風眼坊は放っておいた。
踊り子たちは話の続きを始めた。風眼坊は時折、頷きながら、太郎たちの武勇談を聞いていた。
庭一杯に白い菊の花が咲いていた。
ここに来たのも久し振りだった。
懐かしかった。
風眼坊が、ここ、松恵尼のもう一つの顔、奈美という名で住んでいる家に初めて来たのは、もう二十年近くも前の事だった。風眼坊が一度、火乱坊と共に山を下り、各地を旅して、またフラフラと飯道山に戻って来た時だった。
確か、あの日も飯道山の祭りの前だった。
松恵尼に連れられて風眼坊はこの家に来た。たんぼの中にある普通の農家だった。家には誰もいなかった。どうして、こんな所に連れて来たのだろうと、風眼坊は通された部屋で松恵尼を待っていた。
現れた松恵尼は尼僧ではなかった。長い黒髪を後ろに垂らし、色鮮やかな着物を着ていた。
風眼坊は目を疑った。
これは一体、どうした事か。
風眼坊はこの山に来て、初めて松恵尼に会った時から松恵尼に憧れていた。風眼坊だけではない。山にいる者は誰もが松恵尼に憧憬(アコガレ)の気持ちを持っていた。しかし、松恵尼が尼僧だという事で誰もが諦めていた。それだけでなく、松恵尼には、どこか近づきがたいような所があった。正体がまったく分からず、あの若さで花養院の院主をやっているというのは、余程、身分の高い公家の出に違いないと誰もが思っていた。山で修行している者たちにとって松恵尼の存在は高嶺の花だった。
その松恵尼が尼僧ではなく、ただの女として風眼坊の前に現れた。
風眼坊は、これはどうした事か、と訳を尋ねたが、松恵尼は教えてくれなかった。ただ、今のわたしは奈美ですと言い、もう疲れましたと言った。
風眼坊には、何に疲れたのか、まったく見当も付かなかった。
奈美と名乗った松恵尼は酒の用意をして、付き合って下さいと言った。
風眼坊は奈美と一緒に酒を飲んだ。
静かな夜だった。
風眼坊が何を聞いても、奈美は首を振るだけで喋らなかった。何も喋なかったが、奈美が疲れ切っているという事は風眼坊にも分かった。何かがあったに違いなかった。風眼坊は、奈美をこれ程までに苦しめている理由を知りたかった。しかし、その事を聞く事を諦め、ただ、奈美と共に黙って酒を飲んでいた。
お互いに何も話さず、夜が明けるまで一緒に酒を飲んでいた。何も話さなかったのに、不思議と色々な事を一晩中話していたかのように、風眼坊には奈美という女が分かって来たような気がした。
夜が明けた頃、奈美は、「ありがとう。商売に手を出して失敗しちゃったの。でも、もう大丈夫」と言って笑った。
あの時以来、風眼坊は飯道山に戻って来ると必ず、この農家に泊まり、松恵尼ではない、奈美という女と一緒に過ごしていた。最後にここに来たのは、太郎と楓の祝言をやった時だった。あれから、もう四年が経っていた。
この農家は昔、奈美の母親が住んでいた家だった。
奈美の母親は伊勢の国の関氏のもとに嫁に行き、奈美を生んだ。
奈美は十六歳の時、今は亡き伊勢の国司北畠教具(ノリトモ)に見初められ、側室となって多気(タゲ)の都に行くが、子供の死産、そして、父親の戦死と不幸が続き、また、側室同士の嫌がらせなどもあり、十八歳で教具のもとを去って実家に帰った。実家に帰っても父親は亡く、母親と共に肩身の狭い思いをして、関氏のもとも離れ、母親の実家へと戻って来た。
母親の実家は甲賀だった。甲賀と言っても飯道山とは少し離れた池田という所だった。
教具としても奈美の事を諦め切れず、何度か、使いの者を送って来たが、奈美は戻ろうとしなかった。そして、ついに教具は奈美を連れ戻すため、自ら甲賀にやって来た。奈美は仕方なく教具に会ったが、決心は固く、尼僧になるとまで言い出した。教具も諦め、教具の力によって、奈美は飯道山の花養院の院主となり、母親のために、この農家を用意してくれたのだった。
その母親も、この家に五年住んだだけで亡くなってしまった。母親が生きていた頃は下女と下男を二人づつ置いて、僅かながら田畑を耕していたが、今は留守を守る下男、義助が一人いるだけだった。
風眼坊は家に入ると、「義助はおるか」と呼んだ。
返事はなかった。
風眼坊は勝手に上がる事にした。
四年振りに来てみて、何となく雰囲気が変わっている事に気づいた。外見は変わっていないが、家の中がまったく違っていた。
まず、土間があり、右手に廐(ウマヤ)、左手に台所、正面に囲炉裏のある板の間があり、廐の隣に、使用人の義助の部屋がある。そこまでは変わっていなかった。板の間の向こうに、部屋が四つあり、南側の二部屋が客間で、北側の二部屋が居間と納戸(ナンド、寝室)だった。
南側の奥の間に囲炉裏があり、その部屋で、太郎と楓の祝言を行なった。以前、その四部屋はすべて板の間だったのに、今は、すべて畳が敷き詰められてあった。しかも、二つの客間には床の間や違い棚まで付けられ、墨蹟(ボクセキ)の掛軸が掛けてあり、以前は屋根裏が丸見えだったのに天井が張られてあった。
豪勢なもんだ、と風眼坊は思った。外見はただの農家だが、中に入れば武家屋敷顔負けだった。商売の方が余程うまく行っているらしい。
風眼坊は居間の方に寝そべって、松恵尼、いや、奈美が来るのを待っていた。
風眼坊は横になりながら、播磨に行った息子たちの事を思っていた。
世の中、色々な事が起こるものだと、しみじみと感じていた。あの楓が赤松家の娘だったとは驚くよりほかなかった。
奈美は、その事を知りながら、ここで、太郎と祝言を挙げさせ、太郎の故郷、五ケ所浦に送った。太郎は五ケ所浦において、親父の跡を継いで水軍の大将となり、二人は二度と、この地には帰って来ないはずだった。そうすれば、楓は一生、自分の素性を知らずに、太郎の妻として一生を終わっただろう。ところが、二人はひょっこりと戻って来てしまった。そして、楓は播磨にさらわれ、太郎は楓を連れ戻すために弟子たちを連れて播磨に乗り込んだ。向こうで色々とあったらしいが、今は、正式に赤松家の武将だという。
太郎は故郷を去るにあたって、水軍の大将という地位も捨て、多分、武士も捨てようとしていたに違いない。それが、運命の巡り会わせによって、また、武士に戻ってしまった。しかも、愛洲家よりも、さらに大きな大名の一族となってしまっている。
まあ、結局はそれが、あいつの運命だったのかもしれんのう、と風眼坊は思った。
加賀の戦のけりが着いたら、太郎の武将振りと息子の武者振りでも見に播磨まで出掛けるか、と思った。そう言えば、金比羅坊の奴も、また武士に戻ってしまったな。
今の世は、はっきり言って武士で生きた方がいいのかもしれない。
風眼坊は加賀で山伏をやめて以来、自分の生き方をもう一度、考え直してみる方がいいかもしれないと思っていた。
風眼坊は一緒に来た豊次郎の事を思い出し、また、どこかで酔っ払っているな、と思い、自分も酒が飲みたくなって来た。このうちに酒はないのかと台所を捜したら、すぐに、とっくりが見つかった。中を覗いてみると、まだ、かなり入っている。義助が独りで飲んでいるのだろう。
風眼坊はとっくりとお椀を持って居間に戻って来た。何となく、部屋が以前と比べて、狭くなったような気がした。
客間の方に行ってみた。こっちも狭くなっているが、それは床の間を作ったからだった。居間の方には床の間はない。しかし、狭くなったような気がした。
畳を敷いて天井を張ったから、そう見えるのかもしれない、気のせいだろうと思い、酒を飲み始めたが、やはり気になった。
風眼坊は廊下に出てみた。廊下の突き当たりに厠(カワヤ)があるが、部屋よりも廊下の方が三尺程長かった。部屋と厠との間に、三尺程の空間があるに違いなかった。よく、武家屋敷にある隠し部屋だった。
風眼坊は板壁を調べた。よくできていて、なかなか分からなかったが、ようやく細工が分かった。壁の一部が回転し、中に入れるようになっていた。これなら、一々、はずしたり、はめたりしなくても、すぐに元の壁に戻す事ができた。誰が考えたのか大したものだった。
その狭い部屋は暗かった。
やがて目が慣れると、上の方から光が入って来ていて部屋の中の様子が分かった。階段があった。登って行くと二階に出た。
二階にも下と同じように四つの部屋があった。勿論、床の間や囲炉裏はないが、八畳の部屋が四つあり、見事な絵の描いてある襖(フスマ)で区切られていた。
部屋の両脇にある廊下はかがまなければ通れないが、部屋の方は立てるだけの高さがあった。丁度、廐と義助の部屋の上あたりの板の間に幾つも荷物が置いてあった。そして、三方にある格子窓からは外の景色がよく見え、板の間に面している壁には、あちこちに隙間があって、板の間から土間、台所、入り口まで丸見えだった。
風眼坊は、ただ大したもんだ、と驚くばかりだった。
ここは、吉崎の蓮崇の多屋にある例の蔵のようなものだな、と思った。奈美も商人として、やはり、こういう場所で密談を行なうのか、と信じられない気分だった。
風眼坊は二階の隠し部屋から戻ると、落ち着いて酒を飲み始めた。
やがて、下男の義助が戻って来た。
義助は、奈美がこの地に来てから、ずっといる使用人で、すでに六十歳を過ぎた老人だったが、体はまだまだ達者だった。義助は家に入って来ると、居間で酒を飲んでいる風眼坊を見て、「誰じゃ!」と言って、手に持った鎌を構えた。
「わしじゃ」と風眼坊は言った。
「わしじゃ分からん。勝手に人様のうちに上がり込んで、酒を食らっているとは、ふてえ野郎じゃ、とっとと出て行きやがれ」
「義助、わしじゃ、風眼坊じゃ」
「は? 風眼坊様‥‥‥」
「そうじゃ」
狐につままれたような顔をして風眼坊を見ていた義助は、ようやく、照れ臭そうに笑うと鎌を下ろした。
「これは、どうも、風眼坊様で‥‥‥そんな成りをしてたもんで‥‥‥これは風眼坊様、随分とお久し振りで‥‥‥」
「おう。四年振りじゃ。四年も経つと色々と変わるものじゃのう」
「へい。近頃、世の中、どんどん変わっちまって、わしなんか、とても付いて行けやせんよ」
「ああ、まったくのう。山の中におったら、ほんと、世の中から置いて行かれるのう。おぬしも知っておろう。ここで祝言を挙げた、あの二人が今では播磨で城を持つ武将になったそうじゃ」
「はい。聞いておりますとも、わしは楓殿の事は、まだ小さい頃より存じておりました。あの楓殿が播磨の赤松殿の本当の姉上様だったとは、とても、とても信じられません」
「そうじゃろうのう。わしでさえ、そんな夢のような話は信じられんわ。義助、そんな所に立ってないで、まあ、上がって飲もう。おぬしに聞きたい事もあるしのう」
「へい。ちょっとお待ち下さい」
義助は足を洗い、顔を洗い、手を洗い、野良着を着替えて現れた。
「本当にお久し振りです」と義助は改めて言って、頭を下げた。
「相変わらず、達者なようじゃのう」
「へい、お陰様で‥‥‥」
「まあ、飲め」風眼坊は義助にお椀を差し出した。
「へい、それじゃあ、一杯だけ」
風眼坊は義助に注いでやった。
「飲め、なんて偉そうに言ったが、この酒はおぬしのじゃったな。勝手に飲んで悪かったのう」
「いえ、どうぞ、たんと召し上がって下さい」
「おう、いただくわ。ところで、どうじゃ、奈美殿は忙しそうか」
「へい。子供さんを預かるようになってから、毎日、忙しそうです」
「一体、いつから、あんなに子供だらけになったんじゃ」
「へい。もう一年になりますだ。戦のお陰で、親を亡くした子供たちが、どんどん集まって来ました」
「困った事よのう。戦の犠牲者というのは、いつも、何の罪のない弱い子供や女、年寄りばかりじゃのう」
「はい。ここも、いつ、戦になるやら分かりません」
「まったくのう。どこへ行っても戦をやっておる。嫌な世の中になったものよのう。ところで、奈美殿の商売の方はどうじゃ、忙しいのか」
「へい。最近、よく京の方に行かれます。もしかしたら、京にもお店を出すのかもしれません」
「なに、京に店を出すのか」
「わしにはよく分かりませんが、何となく、そんな気がしますだ」
「そうか、京に店をか‥‥‥今、奈美殿は、いくつ店を持っておるんじゃ」
「へい。六つですじゃ」
「六つ? と言う事は、また、新しく二つ店を出したのか」
「へい。播磨の置塩城下と和泉(イズミ)の堺にお店を出しました」
「なに、もう、播磨に店を出したのか」
「へい」
「しかし、太郎たちが播磨に行ったのは七月じゃろう。もう、播磨に店を出したのか」
「いえ。播磨にお店を出したのは、もう二年も前の事でございます」
「ほう。太郎たちとは関係なく、すでに播磨に店を出しておったのか」
「へい」
「播磨にのう。堺にはいつ出したんじゃ」
「播磨に出してから、すぐでございます。播磨からの荷を置く中継地になっておるそうですじゃ」
「成程のう。奈美殿もやるのう」
義助は頷き、「大したお人です」と言った。
「なあ、義助、おぬしに聞きたいんじゃがのう。奈美殿は一体、何者なんじゃ。赤松家の遺児を預かるなど、ただ者ではあるまい。正体は一体、何なんじゃ」
「風眼坊様は御存じではなかったのですか」
「わしは知らん。教えてはくれなかった」
「そうだったんですか。わしの方こそ、その事を風眼坊様より聞きたかったのです」
「おぬしも知らんのか」
「へい、知りません。風眼坊様なら知っておると思っておりました」
「わしは知らん‥‥‥ただ、奈美殿の後ろに誰かがおるという事は気づいておったがのう。それが誰なのかは分からん」
「へい。確かな事は分かりませんが、わしが思うに、どうも、伊勢の殿様が関係あるような気がします」
「伊勢の殿様‥‥‥北畠殿か」
「へい」
「そう言えば伊勢の都の多気に『小野屋』の本店があったな‥‥‥しかし、北畠殿と赤松殿と言うのは、何かつながりがあるのかのう」
「そういう難しい事は、わしには分かりませんが、御主人様のお店を任されているお人は皆、伊勢出身です」
「そうか‥‥‥北畠殿とつながりがあるのか‥‥‥」風眼坊は腕を組んで考えた。
義助は酒を一口飲むと、「風眼坊様は今まで、どちらの方にいらしておったのですか」と聞いた。
「わしか、わしは大峯の山の中に、ずっと、おったわ」
「そうですか‥‥‥もう、今だから言いますけど、わしは風眼坊様と御主人様は御一緒になるものとばかり思っておりました」
「何じゃと!」
「お許し下さい。しかし、わしが思うに、御主人様があれだけ商売に真剣になったのも、風眼坊様への思いを断ち切るためだったと思います」
「義助、何を言うんじゃ」
「いえ、これは本当の事でございます。風眼坊様がここに来て、御主人様と一緒の時、御主人様は本当に嬉しそうでした。風眼坊様が帰ってしまうと、それは気の毒な位に淋しそうでした。その淋しさを紛らすため、御主人様は商売に熱を入れて行ったのだと思います」
「そんな事があったのか‥‥‥しかし、奈美殿は松恵尼というもう一つの顔を持っておる。わしと一緒になんか、なれるはずはないじゃろ」
「へい。それは分かっております。しかし、あの頃、御主人様は若かったし、見ていて気の毒でした」
「確かに、若くて綺麗じゃったからのう」
「それに、御主人様がもう一つの顔を見せたのは、商売関係の身内以外では風眼坊様お一人だけです」
「そうか‥‥‥」
その御主人が小女(コオンナ)を連れて帰って来た。
すでに尼僧ではなかった。上品な着物を着て、旅籠屋の女将という感じだった。もう四十歳になったはずなのに、奈美はどう見ても三十代前半に見えた。
「あら、さっそく、やってるのね」と奈美は言って小女たちに指図して、夕食の用意を始めた。
「風眼坊殿、お連れの方があったそうですね」
「ああ、そうじゃ、忘れてたわ。どうせ、そこらで飲んでるじゃろう。酒好きの酔っ払いじゃからのう」
奈美は料理を運んでいる義助の方を見ると、「悪いけど風眼坊殿のお連れの方を捜して来ておくれ」と言った。
「へい」と義助は頷いた。
風眼坊は義助に豊次郎の年格好を教えた。
「義助、無理に連れて来なくもいいぞ。どうせ、奴の事じゃ。一晩中、飲んでおるじゃろう。どこにおるかだけ調べてくれ。明日、迎えに行くわ」
「へい。畏まりました」
義助は出て行った。
小女も客間にお膳を並べると出て行った。
「まったく、あなたは、いつも忘れた頃に突然、現れるのね」と言うと、嬉しそうに笑って風眼坊の前に坐った。
「ほんとはもっと早く来たかったんじゃがのう。どうも、伜がここにおるとなると照れくさくてのう」
「風眼坊殿も人の親ですねえ。息子さんは息子さんで一生懸命やっておりますよ」
「らしいのう。今晩は久し振りに、奈美殿と一緒に夜が明けるまで飲もうかのう。積もる話も色々あるしのう」
「そうですわね。二人っきりで朝まで飲みましょう。でも、その前にやる事があります」
「やる事?」
「ええ。まず、あなたが今回、ここに来た目的があったんでしょう。わたしに頼みって一体、何なの」
「ああ、そんな事は明日でいいわ」
「いいえ。その事を片付けてから、ゆっくり、楽しみましょ」
「そうか‥‥‥じゃあ、そうするか」
風眼坊は奈美の顔を見つめながら、義助から聞いた事を考えていた。
「そうか、おぬしにはまだ言ってなかったのう。わしは医者でもあるが、大峯の山伏でもあるんじゃ」
「何だって! それならそうと言って下さいよ。わしは先生がただの医者だと思っておったから、医者なんかに負けるものかと今まで付いて来たけど、先生が山伏なら、かなうわけない。もう、くたくたで足は棒になってますよ」
「もうすぐじゃ。頑張れ」
「付いて来るんじゃなかったわ」
「そう言うな。このお山はのう、有名な武術道場なんじゃよ」
「武術道場?」
「ああ。おぬしも、かなり使いそうじゃが、このお山には、おぬし程の腕を持っておる奴らは、ごろごろおる。そういう所を見ておくのも、この先、何かのためになろう」
「飯道山とか言ったか、この山は」
「ここは、まだ阿星山じゃが、あそこに見えるのが飯道山じゃ。おぬし、越前の一乗谷で武術指南をしておる大橋勘解由(カゲユ)というのを知っておるか」
「ええ、名前だけは」
「奴も若い頃、ここで修行をしておるんじゃ」
「へえ。わさわざ、あんな所からも来ておるのか」
「ああ、最近はかなり遠くからも来ておるらしいの。実はのう、わしの伜もここにおるんじゃよ。ちょっと一目会いたくてのう」
「へえ。先生にそんな大きな子供がおったんですか」
「まあな。おぬしの方はどうなんじゃ。子供はおるのか」
「ええ、十歳になる男の子がおります」
「ほう。おぬしにもそんな大きな子がおったのか」
「はい。この間、久し振りに会ったら驚く程、大きくなっていました」
「そうか、子供の成長は早いからのう。そうじゃ、おぬしもその子が十七、八になったら、このお山に入れるがいい。これからは加賀も大変じゃ。まず、強くなければ生きて行けんようになるぞ」
「ええ、確かにそうですね」
「まあ、ここで、どんな事をやっておるか見て行けばいい」
二人は飯道山の山頂から飯道寺へと下りた。
飯道寺に近づくにつれて、修行者たちの掛声や木剣のぶつかり合う音が勇ましく聞こえて来た。
飯道山も四年前とは変わっていた。この山も、山そのものが城塞と化していた。加賀の国だけでなく、今の時勢、どこに行っても戦から逃げる事はできなかった。
二人はまず、水本院に高林坊を訪ねた。高林坊はいなかった。不動院の方だろうというので、そちらに向かった。
高林坊はいた。風眼坊を見ると目を丸くして、「おい。一体、どうしたんじゃ」と風眼坊の姿をまじまじと見ていた。
風眼坊は町人の格好のままだった。
「久し振りじゃのう」と風眼坊と高林坊はお互いを見ながら同時に言った。
「その格好は、どうしたんじゃ」
「これか。今、ちょっと、加賀でな、町医者をやっておるんじゃよ」
「町医者?」
「ああ。加賀の国はのう、本願寺の勢力が強くてのう、山伏は嫌われておるんでな、町医者になったんじゃ」
「ほう。それで、また、何で加賀なんかにおるんじゃ」
「それなんじゃよ。まあ、話せば長くなるがのう。早い話が火乱坊が本願寺の坊主になって加賀におるんじゃ」
「なに、火乱坊が加賀におるのか」
風眼坊は高林坊に、火乱坊との出会いから、今までの成り行きを簡単に説明した。
「成程のう。あいつが本願寺の坊主にのう‥‥‥」
「おう。二十年という月日は人を変えるもんじゃ、としみじみと思ったわ」
「うむ。確かにのう」
風眼坊は高林坊に頼み、豊次郎に道場の見学をさせた。豊次郎は師範代に案内されて道場を見て回った。
「高林坊。ところで、わしの伜じゃが、まだ、このお山におるんじゃろう」
「いや。ここにはおらんが」と言って、高林坊は風眼坊の顔を見て、「そうか、おぬし、まだ、あの事を知らんのじゃな」と言った。
「あの事? 何かあったのか、光一郎に」
「いや、おぬしの伜に何かあったわけではない。伜の師匠に、とんでもない事が起きたんじゃよ」
「伜の師匠?」
「おお、太郎坊じゃ」
「なに、光一郎は太郎坊の弟子になったのか」
「そういう事じゃ」
「あいつが太郎坊の弟子にか‥‥‥」風眼坊は、そうか、そうかと満足そうに頷いてから、「それで、今、どこにおるんじゃ」と聞いた。
「播磨じゃ」
「播磨? 何で、そんな所におるんじゃ」
「それがのう、話せば長くなるが、早い話が、まず、楓殿の正体が分かったんじゃ」
「楓の正体? 何じゃ、そりゃ。楓は孤児(ミナシゴ)じゃなかったのか」
「ところが、とんでもない所の遺児じゃった」
「遺児?」
高林坊は頷いた。「驚くなよ。赤松の遺児だったんじゃ」
「赤松? あの播磨の赤松か」
「そうじゃ、あの赤松じゃ。幕府の侍所(サムライドコロ)の赤松家じゃ」
「楓が、赤松家の遺児‥‥‥」
風眼坊は備中の国(岡山県西部)に生まれたので、当時、まだ子供だったが、赤松家によって将軍が殺されたという嘉吉(カキツ)の変を知っていた。そして、赤松家が滅び、やがて、政則によって再興されたという事も噂で知っていた。風眼坊にとって、赤松家というのは、たとえ、一時は滅びたといえ、中国地方における名族に違いなかった。
「それで、楓はどうしたんじゃ」
「赤松家にさらわれたんじゃ」
「さらわれた?」
「ああ。そこで、太郎坊は弟子たちを連れて楓殿を取り戻しに播磨に乗り込んで行ったんじゃよ」
「赤松家を相手に乗り込んだのか」
「そうじゃ。金比羅坊の奴まで一緒に付いて行きおったわ」
「金比羅坊まで‥‥‥それはいつの事じゃ」
「確か、七月の初め頃じゃったかのう」
「二月前じゃな‥‥‥それで、向こうに行ってから、どうなったのか分からんのか」
「分からん。しかし、花養院の松恵尼殿なら何か知っておるじゃろう。わしにはよく分からんが、今回、松恵尼殿も動いておるらしい」
「松恵尼殿か‥‥‥松恵尼殿は楓の正体を知っておったのか」
「知っておったらしいのう」
「そうか‥‥‥じゃろうのう」
「しかし、どうして、松恵尼殿が赤松家の遺児を預かっておったのか、ちょっと分からん事じゃがのう」
「ああ、そうじゃのう‥‥‥楓が赤松家の者だったとはのう‥‥‥今の赤松家のお屋形とは、どういう間柄になるんじゃ」
「実の姉らしい」
「実の姉か‥‥‥楓がお屋形の姉か‥‥‥そいつは赤松家も放ってはおくまい‥‥‥もしかしたら、太郎坊たちは消されたかもしれんのう‥‥‥」
「うむ」と高林坊は頷いた。「いくら、あれだけの腕を持っておったとしても相手が赤松家ではのう。相手が悪すぎるからのう‥‥‥」
「そうか‥‥‥光一郎の事じゃが、このお山ではどうじゃった」
「強かったよ。去年の修行者は今まででも一番強かったじゃろう。その中でも強かった者、三人が太郎坊の弟子となって、今年も残っておったんじゃ」
「太郎坊の奴、三人も弟子がおるのか」
「ああ。太郎坊としては、まだ、弟子なんか取りたくなかったんじゃろうが、三人共、見事に百日行をやってのう。太郎坊の弟子になったわ」
「そうか、光一郎も百日行をやったか‥‥‥」
豊次郎が戻って来た。興奮しているようだった。
風眼坊は花養院に行こうと思った。もしかしたら、太郎と一緒に行った光一郎は、すでに死んでいるかもしれなかった。そんな事を聞きたくはなかったが、事実を確かめなくてはならなかった。もし、まだ生きているとしたら、風眼坊も播磨に行かなければならなくなるかもしれなかった。
風眼坊は高林坊に、また来る、と言うと不動院を後にした。
「おい、風眼坊」と高林坊が呼んだ。
「何じゃ」と風眼坊は浮かない顔のまま振り返った。
「おぬし、何か、用があって、ここに来たんじゃなかったのか」
「用‥‥‥おお、そうじゃ。忘れておったわ」と風眼坊は不動院に戻った。
「おぬしらしくないのう。加賀から、わざわざ、伜に会いに来たわけではあるまい」
「実はのう、武器の調達に来たんじゃ。このお山に余った武器はないかのう」
「余った武器などないわ」
「じゃろうな。矢も余っとらんか」
「矢か。余ってない事もないがのう。うちも取り引き先があるからのう」
「銭はいくらでも出す。相手は本願寺じゃ。取り引き先としては文句ないとは思うがのう」
「本願寺か‥‥‥本願寺と言えば叡山の敵じゃのう」
「まあ、天台宗の敵じゃが、本願寺はこの先、叡山相手に戦はせんじゃろう。敵とするのは武士たちじゃ」
「武士?」
「ああ。やがて、本願寺は加賀の国を取るじゃろう」
「なに! 本願寺が加賀の国を取る。そんな事ができるか」
「まあ、見てろ。火乱坊は取る気でおる。わしも、そうなるような気がする。この先、武器はいくらでも欲しいはずじゃ。今、ここで本願寺と取り引きをすれば、この先、損はないぞ」
「うむ。本願寺か‥‥‥まあ、わしの一存では決められん。話だけはしてみるがのう」
「頼むわ」
風眼坊は豊次郎を連れて山を下りた。
豊次郎は興奮して、道場内での修行を見た感想をしきりに言っていたが、風眼坊の耳には入らなかった。
2
風眼坊の足取りは重かった。
「どうかしたんですか」と豊次郎が聞いても、風眼坊は上の空だった。
「祭りでもあるんですかねえ」と豊次郎が言うと風眼坊は、「祭り‥‥‥」と言って回りを見回した。
あちこちに飾り付けがしてあり、山の下の大鳥居のある広場の一画では舞台を作っていた。
「今日は何日じゃ」と風眼坊は聞いた。
「十二日ですが」
「そうか。九月の十二日じゃな。あさってから三日間、ここの祭りじゃ」
「へえ、丁度いい時に来ましたね」
「さあ、それはどうかな。武器がここで見つからなかったら、大和まで足を伸ばさなくてはなるまい。のんびり、祭り見物などできんじゃろう」
「そうですね。早く、武器を集めて帰らないと‥‥‥」
この時、広場で舞台を作っていたのは金勝座(コンゼザ)の甚助だった。金勝座は五日前に播磨の国、置塩(オキシオ)城下から戻って来ていた。
風眼坊は金勝座の事を知らなかった。金勝座が結成された二年前、風眼坊は熊野の山の中で家族と共に過ごし、光一郎に剣術を教えていた。
花養院の門をくぐった所で風眼坊は足を止めた。花養院の境内の中は子供たちで一杯だった。子供たちがキャーキャー言いながら遊んでいた。
「何ですか、これは」と豊次郎が子供たちを見ながら聞いた。
「知らん」と風眼坊は首を振った。
一体、どうなっているのか風眼坊にも分からなかった。
「孤児たちですかね」と豊次郎は言った。
「孤児?」
「ええ、戦の孤児です。本泉寺にも孤児を預かっている所がありました」
「本泉寺にか」
「ええ。多屋の娘たちが面倒を見ておりました」
「ほう‥‥‥」
風眼坊と豊次郎が門の所に立ったまま子供たちを見ていると、一人の娘が近づいて来て風眼坊に声を掛けて来た。
「あの、もしかしたら、風眼坊様ではありませんか」
「ああ、わしは風眼坊だが‥‥‥」と風眼坊は娘を見たが、見覚えはなかった。
「あたし、ちいです。分かりませんか」
「ちい?」
「金比羅坊の娘です」
「なに、あのおちいちゃんか‥‥‥随分、大きくなったのう。そうか、ここで働いておったのか」
「お久し振りです」と、おちいは頭を下げた。
「おちいちゃんは、ここで、子供たちの面倒を見ておるのか」
「はい」
「そうか、偉いのう‥‥‥親父は元気か」
風眼坊は金比羅坊が太郎と一緒に播磨に行った事は知っていたが、おちいに、ちょっと探りを入れてみた。太郎たちに何かが起こったとすれば、この娘が何らかの反応を示すに違いなかった。松恵尼から事実を聞く前に、少しでも予備知識が欲しかった。
「はい。元気です」と、おちいは言った。その表情には少しの曇りもなかった。
風眼坊は、ほんの少し安心した。
「でも、父は今、播磨の国に行っています。向こうで活躍したと言っていました」
「そうか、元気か。そいつはよかった。しかし、誰がそう言ったんじゃ。誰か、播磨に行って、戻って来た者がおるのか」
「はい。金勝座の人たちです」
「金勝座?」
「はい。金勝座の人たちは、向こうで、父や太郎坊様たちとずっと一緒だったそうです」
「それじゃあ、みんな、向こうで無事なんじゃな」
「太郎坊様は赤松家のお殿様になられたそうです」
「なに、お殿様?」
「はい。あたしの父は太郎坊様の家来になって、もうすぐ、あたしたちを迎えに来るそうです」
「そうなのか‥‥‥ところで、松恵尼殿はおられるか」
「いえ。祭りの事で、ちょっと出掛けています」
「そうか‥‥‥ところで、その金勝座の人たちというのは、どこにおるのか知らんか」
「助六さんたちは、ここにいますけど」
「その助六さんと言うのは金勝座の人なのか」
「ええ、踊り子さんです。とっても綺麗で、いい人です」
風眼坊は、まず、その助六と会う事にした。
おちいの話は、はっきり言ってよく分からなかった。分からなかったが、光一郎を初め、皆、無事らしい事は分かった。無事だという事が分かれば、後は、向こうで何がどう起こったのか早く知りたかった。
風眼坊は花養院の客間で、助六、太一、藤若、千代の四人の娘たちと会った。踊り子だけあって、皆、綺麗な娘たちだった。風眼坊は自分を光一郎の父親だと説明した。
四人の反応はなかった。四人は光一郎を知らないようだった。仕方がないので、太郎坊の師匠だと言った。すると、太一が、「もしかしたら、風光坊様のお父上ですか」と聞いて来た。
「そう言えば、何となく似ているわね」と助六が言った。
「多分、そうじゃろう。わしは伜が山伏になったのは知らん。ただ、伜が太郎坊の弟子になったと聞いておるから、多分、その風光坊が光一郎じゃろう。それで、その風光坊の事じゃが、まだ、無事でおるのか」
「はい。大丈夫、御無事です」と太一が言った。
「そうか、よかった。わしはまた、赤松家を相手に播磨に乗り込んで行ったと聞き、もしや、死んでしまったのではないかと心配じゃったわ」
「御安心下さい」と助六が言った。「皆、御無事です。危ない事も何度かありましたが、太郎坊様のお陰で何とか乗り切り、今は、太郎坊様は赤松日向守(ヒュウガノカミ)と名乗って、赤松家のお屋形様の義理の兄上として、一城の主(アルジ)におさまりました。太郎坊様と共に戦った者たちは皆、太郎坊様の家臣となって仕えています。風光坊様も太郎坊様の側近の武将になっています」
「光一郎が武将に‥‥‥」
「はい」と太一が頷いた。「鎧兜(ヨロイカブト)に身を固めて、置塩の城下を行軍した時は、皆、立派でした。風光坊様も太郎坊様を守る立派な武将でした」
「城下を行軍までしたのか」
「はい。とても素晴らしい行軍でした」と藤若は言った。
「そうか、すまんが、わしに事の成り行きを話してくれんか。どうして、太郎坊が殿様になったのかを」
四人の踊り子たちは、この花養院に皆が集まり、播磨の国に向かって旅立って行った時から、順を追って風眼坊に話してくれた。
太郎たちが瑠璃寺(ルリジ)の山伏たちと城下の外れで戦う所まで来た時、松恵尼が帰って来た。
松恵尼は風眼坊を見ると嬉しそうに笑い、「あらあら、やっと、お山から出て来たようね」と言った。「それにしても、その格好はどうしたの。もう、山伏はやめたの」と聞きながら、松恵尼は風眼坊の隣に坐った。
「ちょっとな」と風眼坊も嬉しそうに笑った。「訳あってな、今は医者をやっておる」
「へえ。お医者様ねえ。それもいいかもしれないわね」
「なかなか、医者というのも忙しいもんじゃよ」
「そうねえ。今の御時勢は、お医者様は大変でしょうねえ」
「松恵尼殿、とんでもない事が起きたものよのう」
「そうね。世の中、とんでもない事が起こるから、また面白いのよね。風眼坊殿もようやく、お山から出て来て、何かを始めたようね」
「いや、わしはまだ何も始めとらん。今回、ここに来たのは火乱坊に付き合っているだけじゃ」
「火乱坊殿?」
「おう。今、奴と一緒におるんじゃ。奴は確かに何かを始めておる」
「火乱坊殿は、前に本願寺と関係しているって聞いたけど、今は何をしてるの」
「今も本願寺の坊主じゃ。それも、蓮如殿にかなり信頼されておる」
「蓮如殿?」
「ああ、本願寺の法主じゃ」
「へえ、そうなの。本願寺ね‥‥‥」
「松恵尼殿、その事は後で話すとして、今、丁度いい所なんじゃ。もう少し、播磨の様子を聞かせてくれ」
「そうね。ゆっくりと聞くがいいわ。まるで、お芝居の中の話のように面白いわ。あなたも、大したお弟子さんを持ったものね」
「そう言う松恵尼殿も、大した娘を持ったものじゃわい」
松恵尼は笑うと客間から出て行った。
豊次郎は、いつの間にか消えていた。旅の間中、酒抜きだったので酒が欲しくなって町に出たのだろうと、風眼坊は放っておいた。
踊り子たちは話の続きを始めた。風眼坊は時折、頷きながら、太郎たちの武勇談を聞いていた。
3
庭一杯に白い菊の花が咲いていた。
ここに来たのも久し振りだった。
懐かしかった。
風眼坊が、ここ、松恵尼のもう一つの顔、奈美という名で住んでいる家に初めて来たのは、もう二十年近くも前の事だった。風眼坊が一度、火乱坊と共に山を下り、各地を旅して、またフラフラと飯道山に戻って来た時だった。
確か、あの日も飯道山の祭りの前だった。
松恵尼に連れられて風眼坊はこの家に来た。たんぼの中にある普通の農家だった。家には誰もいなかった。どうして、こんな所に連れて来たのだろうと、風眼坊は通された部屋で松恵尼を待っていた。
現れた松恵尼は尼僧ではなかった。長い黒髪を後ろに垂らし、色鮮やかな着物を着ていた。
風眼坊は目を疑った。
これは一体、どうした事か。
風眼坊はこの山に来て、初めて松恵尼に会った時から松恵尼に憧れていた。風眼坊だけではない。山にいる者は誰もが松恵尼に憧憬(アコガレ)の気持ちを持っていた。しかし、松恵尼が尼僧だという事で誰もが諦めていた。それだけでなく、松恵尼には、どこか近づきがたいような所があった。正体がまったく分からず、あの若さで花養院の院主をやっているというのは、余程、身分の高い公家の出に違いないと誰もが思っていた。山で修行している者たちにとって松恵尼の存在は高嶺の花だった。
その松恵尼が尼僧ではなく、ただの女として風眼坊の前に現れた。
風眼坊は、これはどうした事か、と訳を尋ねたが、松恵尼は教えてくれなかった。ただ、今のわたしは奈美ですと言い、もう疲れましたと言った。
風眼坊には、何に疲れたのか、まったく見当も付かなかった。
奈美と名乗った松恵尼は酒の用意をして、付き合って下さいと言った。
風眼坊は奈美と一緒に酒を飲んだ。
静かな夜だった。
風眼坊が何を聞いても、奈美は首を振るだけで喋らなかった。何も喋なかったが、奈美が疲れ切っているという事は風眼坊にも分かった。何かがあったに違いなかった。風眼坊は、奈美をこれ程までに苦しめている理由を知りたかった。しかし、その事を聞く事を諦め、ただ、奈美と共に黙って酒を飲んでいた。
お互いに何も話さず、夜が明けるまで一緒に酒を飲んでいた。何も話さなかったのに、不思議と色々な事を一晩中話していたかのように、風眼坊には奈美という女が分かって来たような気がした。
夜が明けた頃、奈美は、「ありがとう。商売に手を出して失敗しちゃったの。でも、もう大丈夫」と言って笑った。
あの時以来、風眼坊は飯道山に戻って来ると必ず、この農家に泊まり、松恵尼ではない、奈美という女と一緒に過ごしていた。最後にここに来たのは、太郎と楓の祝言をやった時だった。あれから、もう四年が経っていた。
この農家は昔、奈美の母親が住んでいた家だった。
奈美の母親は伊勢の国の関氏のもとに嫁に行き、奈美を生んだ。
奈美は十六歳の時、今は亡き伊勢の国司北畠教具(ノリトモ)に見初められ、側室となって多気(タゲ)の都に行くが、子供の死産、そして、父親の戦死と不幸が続き、また、側室同士の嫌がらせなどもあり、十八歳で教具のもとを去って実家に帰った。実家に帰っても父親は亡く、母親と共に肩身の狭い思いをして、関氏のもとも離れ、母親の実家へと戻って来た。
母親の実家は甲賀だった。甲賀と言っても飯道山とは少し離れた池田という所だった。
教具としても奈美の事を諦め切れず、何度か、使いの者を送って来たが、奈美は戻ろうとしなかった。そして、ついに教具は奈美を連れ戻すため、自ら甲賀にやって来た。奈美は仕方なく教具に会ったが、決心は固く、尼僧になるとまで言い出した。教具も諦め、教具の力によって、奈美は飯道山の花養院の院主となり、母親のために、この農家を用意してくれたのだった。
その母親も、この家に五年住んだだけで亡くなってしまった。母親が生きていた頃は下女と下男を二人づつ置いて、僅かながら田畑を耕していたが、今は留守を守る下男、義助が一人いるだけだった。
風眼坊は家に入ると、「義助はおるか」と呼んだ。
返事はなかった。
風眼坊は勝手に上がる事にした。
四年振りに来てみて、何となく雰囲気が変わっている事に気づいた。外見は変わっていないが、家の中がまったく違っていた。
まず、土間があり、右手に廐(ウマヤ)、左手に台所、正面に囲炉裏のある板の間があり、廐の隣に、使用人の義助の部屋がある。そこまでは変わっていなかった。板の間の向こうに、部屋が四つあり、南側の二部屋が客間で、北側の二部屋が居間と納戸(ナンド、寝室)だった。
南側の奥の間に囲炉裏があり、その部屋で、太郎と楓の祝言を行なった。以前、その四部屋はすべて板の間だったのに、今は、すべて畳が敷き詰められてあった。しかも、二つの客間には床の間や違い棚まで付けられ、墨蹟(ボクセキ)の掛軸が掛けてあり、以前は屋根裏が丸見えだったのに天井が張られてあった。
豪勢なもんだ、と風眼坊は思った。外見はただの農家だが、中に入れば武家屋敷顔負けだった。商売の方が余程うまく行っているらしい。
風眼坊は居間の方に寝そべって、松恵尼、いや、奈美が来るのを待っていた。
風眼坊は横になりながら、播磨に行った息子たちの事を思っていた。
世の中、色々な事が起こるものだと、しみじみと感じていた。あの楓が赤松家の娘だったとは驚くよりほかなかった。
奈美は、その事を知りながら、ここで、太郎と祝言を挙げさせ、太郎の故郷、五ケ所浦に送った。太郎は五ケ所浦において、親父の跡を継いで水軍の大将となり、二人は二度と、この地には帰って来ないはずだった。そうすれば、楓は一生、自分の素性を知らずに、太郎の妻として一生を終わっただろう。ところが、二人はひょっこりと戻って来てしまった。そして、楓は播磨にさらわれ、太郎は楓を連れ戻すために弟子たちを連れて播磨に乗り込んだ。向こうで色々とあったらしいが、今は、正式に赤松家の武将だという。
太郎は故郷を去るにあたって、水軍の大将という地位も捨て、多分、武士も捨てようとしていたに違いない。それが、運命の巡り会わせによって、また、武士に戻ってしまった。しかも、愛洲家よりも、さらに大きな大名の一族となってしまっている。
まあ、結局はそれが、あいつの運命だったのかもしれんのう、と風眼坊は思った。
加賀の戦のけりが着いたら、太郎の武将振りと息子の武者振りでも見に播磨まで出掛けるか、と思った。そう言えば、金比羅坊の奴も、また武士に戻ってしまったな。
今の世は、はっきり言って武士で生きた方がいいのかもしれない。
風眼坊は加賀で山伏をやめて以来、自分の生き方をもう一度、考え直してみる方がいいかもしれないと思っていた。
風眼坊は一緒に来た豊次郎の事を思い出し、また、どこかで酔っ払っているな、と思い、自分も酒が飲みたくなって来た。このうちに酒はないのかと台所を捜したら、すぐに、とっくりが見つかった。中を覗いてみると、まだ、かなり入っている。義助が独りで飲んでいるのだろう。
風眼坊はとっくりとお椀を持って居間に戻って来た。何となく、部屋が以前と比べて、狭くなったような気がした。
客間の方に行ってみた。こっちも狭くなっているが、それは床の間を作ったからだった。居間の方には床の間はない。しかし、狭くなったような気がした。
畳を敷いて天井を張ったから、そう見えるのかもしれない、気のせいだろうと思い、酒を飲み始めたが、やはり気になった。
風眼坊は廊下に出てみた。廊下の突き当たりに厠(カワヤ)があるが、部屋よりも廊下の方が三尺程長かった。部屋と厠との間に、三尺程の空間があるに違いなかった。よく、武家屋敷にある隠し部屋だった。
風眼坊は板壁を調べた。よくできていて、なかなか分からなかったが、ようやく細工が分かった。壁の一部が回転し、中に入れるようになっていた。これなら、一々、はずしたり、はめたりしなくても、すぐに元の壁に戻す事ができた。誰が考えたのか大したものだった。
その狭い部屋は暗かった。
やがて目が慣れると、上の方から光が入って来ていて部屋の中の様子が分かった。階段があった。登って行くと二階に出た。
二階にも下と同じように四つの部屋があった。勿論、床の間や囲炉裏はないが、八畳の部屋が四つあり、見事な絵の描いてある襖(フスマ)で区切られていた。
部屋の両脇にある廊下はかがまなければ通れないが、部屋の方は立てるだけの高さがあった。丁度、廐と義助の部屋の上あたりの板の間に幾つも荷物が置いてあった。そして、三方にある格子窓からは外の景色がよく見え、板の間に面している壁には、あちこちに隙間があって、板の間から土間、台所、入り口まで丸見えだった。
風眼坊は、ただ大したもんだ、と驚くばかりだった。
ここは、吉崎の蓮崇の多屋にある例の蔵のようなものだな、と思った。奈美も商人として、やはり、こういう場所で密談を行なうのか、と信じられない気分だった。
風眼坊は二階の隠し部屋から戻ると、落ち着いて酒を飲み始めた。
やがて、下男の義助が戻って来た。
義助は、奈美がこの地に来てから、ずっといる使用人で、すでに六十歳を過ぎた老人だったが、体はまだまだ達者だった。義助は家に入って来ると、居間で酒を飲んでいる風眼坊を見て、「誰じゃ!」と言って、手に持った鎌を構えた。
「わしじゃ」と風眼坊は言った。
「わしじゃ分からん。勝手に人様のうちに上がり込んで、酒を食らっているとは、ふてえ野郎じゃ、とっとと出て行きやがれ」
「義助、わしじゃ、風眼坊じゃ」
「は? 風眼坊様‥‥‥」
「そうじゃ」
狐につままれたような顔をして風眼坊を見ていた義助は、ようやく、照れ臭そうに笑うと鎌を下ろした。
「これは、どうも、風眼坊様で‥‥‥そんな成りをしてたもんで‥‥‥これは風眼坊様、随分とお久し振りで‥‥‥」
「おう。四年振りじゃ。四年も経つと色々と変わるものじゃのう」
「へい。近頃、世の中、どんどん変わっちまって、わしなんか、とても付いて行けやせんよ」
「ああ、まったくのう。山の中におったら、ほんと、世の中から置いて行かれるのう。おぬしも知っておろう。ここで祝言を挙げた、あの二人が今では播磨で城を持つ武将になったそうじゃ」
「はい。聞いておりますとも、わしは楓殿の事は、まだ小さい頃より存じておりました。あの楓殿が播磨の赤松殿の本当の姉上様だったとは、とても、とても信じられません」
「そうじゃろうのう。わしでさえ、そんな夢のような話は信じられんわ。義助、そんな所に立ってないで、まあ、上がって飲もう。おぬしに聞きたい事もあるしのう」
「へい。ちょっとお待ち下さい」
義助は足を洗い、顔を洗い、手を洗い、野良着を着替えて現れた。
「本当にお久し振りです」と義助は改めて言って、頭を下げた。
「相変わらず、達者なようじゃのう」
「へい、お陰様で‥‥‥」
「まあ、飲め」風眼坊は義助にお椀を差し出した。
「へい、それじゃあ、一杯だけ」
風眼坊は義助に注いでやった。
「飲め、なんて偉そうに言ったが、この酒はおぬしのじゃったな。勝手に飲んで悪かったのう」
「いえ、どうぞ、たんと召し上がって下さい」
「おう、いただくわ。ところで、どうじゃ、奈美殿は忙しそうか」
「へい。子供さんを預かるようになってから、毎日、忙しそうです」
「一体、いつから、あんなに子供だらけになったんじゃ」
「へい。もう一年になりますだ。戦のお陰で、親を亡くした子供たちが、どんどん集まって来ました」
「困った事よのう。戦の犠牲者というのは、いつも、何の罪のない弱い子供や女、年寄りばかりじゃのう」
「はい。ここも、いつ、戦になるやら分かりません」
「まったくのう。どこへ行っても戦をやっておる。嫌な世の中になったものよのう。ところで、奈美殿の商売の方はどうじゃ、忙しいのか」
「へい。最近、よく京の方に行かれます。もしかしたら、京にもお店を出すのかもしれません」
「なに、京に店を出すのか」
「わしにはよく分かりませんが、何となく、そんな気がしますだ」
「そうか、京に店をか‥‥‥今、奈美殿は、いくつ店を持っておるんじゃ」
「へい。六つですじゃ」
「六つ? と言う事は、また、新しく二つ店を出したのか」
「へい。播磨の置塩城下と和泉(イズミ)の堺にお店を出しました」
「なに、もう、播磨に店を出したのか」
「へい」
「しかし、太郎たちが播磨に行ったのは七月じゃろう。もう、播磨に店を出したのか」
「いえ。播磨にお店を出したのは、もう二年も前の事でございます」
「ほう。太郎たちとは関係なく、すでに播磨に店を出しておったのか」
「へい」
「播磨にのう。堺にはいつ出したんじゃ」
「播磨に出してから、すぐでございます。播磨からの荷を置く中継地になっておるそうですじゃ」
「成程のう。奈美殿もやるのう」
義助は頷き、「大したお人です」と言った。
「なあ、義助、おぬしに聞きたいんじゃがのう。奈美殿は一体、何者なんじゃ。赤松家の遺児を預かるなど、ただ者ではあるまい。正体は一体、何なんじゃ」
「風眼坊様は御存じではなかったのですか」
「わしは知らん。教えてはくれなかった」
「そうだったんですか。わしの方こそ、その事を風眼坊様より聞きたかったのです」
「おぬしも知らんのか」
「へい、知りません。風眼坊様なら知っておると思っておりました」
「わしは知らん‥‥‥ただ、奈美殿の後ろに誰かがおるという事は気づいておったがのう。それが誰なのかは分からん」
「へい。確かな事は分かりませんが、わしが思うに、どうも、伊勢の殿様が関係あるような気がします」
「伊勢の殿様‥‥‥北畠殿か」
「へい」
「そう言えば伊勢の都の多気に『小野屋』の本店があったな‥‥‥しかし、北畠殿と赤松殿と言うのは、何かつながりがあるのかのう」
「そういう難しい事は、わしには分かりませんが、御主人様のお店を任されているお人は皆、伊勢出身です」
「そうか‥‥‥北畠殿とつながりがあるのか‥‥‥」風眼坊は腕を組んで考えた。
義助は酒を一口飲むと、「風眼坊様は今まで、どちらの方にいらしておったのですか」と聞いた。
「わしか、わしは大峯の山の中に、ずっと、おったわ」
「そうですか‥‥‥もう、今だから言いますけど、わしは風眼坊様と御主人様は御一緒になるものとばかり思っておりました」
「何じゃと!」
「お許し下さい。しかし、わしが思うに、御主人様があれだけ商売に真剣になったのも、風眼坊様への思いを断ち切るためだったと思います」
「義助、何を言うんじゃ」
「いえ、これは本当の事でございます。風眼坊様がここに来て、御主人様と一緒の時、御主人様は本当に嬉しそうでした。風眼坊様が帰ってしまうと、それは気の毒な位に淋しそうでした。その淋しさを紛らすため、御主人様は商売に熱を入れて行ったのだと思います」
「そんな事があったのか‥‥‥しかし、奈美殿は松恵尼というもう一つの顔を持っておる。わしと一緒になんか、なれるはずはないじゃろ」
「へい。それは分かっております。しかし、あの頃、御主人様は若かったし、見ていて気の毒でした」
「確かに、若くて綺麗じゃったからのう」
「それに、御主人様がもう一つの顔を見せたのは、商売関係の身内以外では風眼坊様お一人だけです」
「そうか‥‥‥」
その御主人が小女(コオンナ)を連れて帰って来た。
すでに尼僧ではなかった。上品な着物を着て、旅籠屋の女将という感じだった。もう四十歳になったはずなのに、奈美はどう見ても三十代前半に見えた。
「あら、さっそく、やってるのね」と奈美は言って小女たちに指図して、夕食の用意を始めた。
「風眼坊殿、お連れの方があったそうですね」
「ああ、そうじゃ、忘れてたわ。どうせ、そこらで飲んでるじゃろう。酒好きの酔っ払いじゃからのう」
奈美は料理を運んでいる義助の方を見ると、「悪いけど風眼坊殿のお連れの方を捜して来ておくれ」と言った。
「へい」と義助は頷いた。
風眼坊は義助に豊次郎の年格好を教えた。
「義助、無理に連れて来なくもいいぞ。どうせ、奴の事じゃ。一晩中、飲んでおるじゃろう。どこにおるかだけ調べてくれ。明日、迎えに行くわ」
「へい。畏まりました」
義助は出て行った。
小女も客間にお膳を並べると出て行った。
「まったく、あなたは、いつも忘れた頃に突然、現れるのね」と言うと、嬉しそうに笑って風眼坊の前に坐った。
「ほんとはもっと早く来たかったんじゃがのう。どうも、伜がここにおるとなると照れくさくてのう」
「風眼坊殿も人の親ですねえ。息子さんは息子さんで一生懸命やっておりますよ」
「らしいのう。今晩は久し振りに、奈美殿と一緒に夜が明けるまで飲もうかのう。積もる話も色々あるしのう」
「そうですわね。二人っきりで朝まで飲みましょう。でも、その前にやる事があります」
「やる事?」
「ええ。まず、あなたが今回、ここに来た目的があったんでしょう。わたしに頼みって一体、何なの」
「ああ、そんな事は明日でいいわ」
「いいえ。その事を片付けてから、ゆっくり、楽しみましょ」
「そうか‥‥‥じゃあ、そうするか」
風眼坊は奈美の顔を見つめながら、義助から聞いた事を考えていた。
14.小野屋2
4
風眼坊は姿勢を改めて、奈美に武器の事を話した。
奈美は風眼坊の話を黙って最後まで聞いていた。そして、しばらく黙ったまま考えていた。
「何とか、ならんかのう」と風眼坊は奈美の顔を覗き込むように聞いた。
「多分、何とかなるでしょう」と奈美は軽く言った。
「えっ! 何とかなるか」
「ええ」と奈美は笑った。「それで、いつまでに揃えればいいの」
「早ければ早い方がいいが」
「一月は掛かるわね」
「まあ、一月は掛かるじゃろうのう。しかし、奈美殿、本当に一月で揃えられるのか」
「何とかやってみましょう。相手が本願寺なら、やり甲斐があります」
「やはり、奈美殿は武器を扱っておったんじゃな」
「この御時勢ですからね。一応、始めましたが、なかなか大変です。見る目を持っていないと、とんでもない物をつかまされますからね」
「それは言えるのう」
「明日、うちの者がここに集まります。その時、改めて、その事は相談しましょう」
「奈美殿の店の者が、明日、ここに来るのか」
「ええ、信楽(シガラキ)の市を見に来ます」
「おお、そうか。ここの祭りと一緒に信楽で市があったのう。信楽焼きは結構、儲かるのか」
奈美は頷いた。「茶の湯が流行っているお陰で、信楽焼きの人気はどんどん上がって来ています」
「茶の湯か‥‥‥流行っておるらしいのう。わしにはよく分からんが‥‥‥明日、来るというのは焼物を扱っておる者たちじゃろう。武器も扱っておるのか」
「今回の戦で、地方の武士たちが京に集まったお陰で、茶の湯が京や奈良だけでなく、地方の武士たちの間にまで広まりました。それに、京のお公家さんたちが戦乱を避けて、地方に行った事も茶の湯の流行を助けました。今、武士との取り引きに、茶の湯は欠かせない物となって来ています。武器の取り引きと茶の湯とは、つながりがあるという訳なんですよ」
「ほう、そういうものかのう‥‥‥」
義助が戻って来た。
豊次郎は『たぬき』という飲み屋にいたが、今は『花屋敷』という遊女屋にいると言う。多分、朝まで、そこにいるだろうとの事だった。
「義助、悪いけど、お風呂を沸かしておくれな」と奈美は言った。「風眼坊殿は長い旅でお疲れだからね」
「へい。畏まりました」
「風呂か、旅の垢でも落とすか」
「さっぱりして、お酒を飲みましょう。そのお髭も綺麗に剃って下さいな」
「この髭か」と風眼坊は口髭を撫でた。「少し、伸ばしてみようと思っておるんじゃ」
「えっ、伸ばすの」
「ああ。今、医者をやっておるんでな、ちょっと気分転換のつもりでな」
松恵尼は笑いながら、「医者として貫禄が付くかもしれないわね」と言った。
「そうかのう。ところで、さっきの話じゃが、明日、播磨の店の者も来るのか」
「いいえ、播磨からは来ないわ。堺と奈良と伊賀上野から来ます」
「ほう。わしはまだ堺には行った事ないが、大層、賑わっておるそうじゃのう」
「今度、堺から遣明船(ケンミンセン)を出すとの話も出ています。これから益々、堺は賑わって行くでしょう」
「遣明船を堺からか」
「ええ。戦で兵庫津が使えなくなりましたからね」
「堺か‥‥‥」
「仕事の話はこれでおしまいね」
「そうじゃな。小野屋の御主人、何卒、お願い致します」と風眼坊は頭を下げた。
「こちらこそ、これからもずっと、お付き合い願いますよ」と奈美も頭を下げた。
「喜んで」と風眼坊は笑った。
奈美も笑った。
「ところで、奈美殿、どうして、奈美殿が赤松家の遺児を預かっておったんじゃ」
奈美の顔から笑みが消えて、俯いた。
「話したくなければ、無理には聞かん」
「いいえ‥‥‥話すわ。ある日、山伏が来て、赤ん坊を置いて行ったのよ。その山伏は伊勢の世義寺(セギデラ)の山伏だった。赤ん坊は多気(タゲ)の御所様に頼まれたって言って置いて行ったの。赤ん坊には何の罪もないものね、わたしは育てる事に決めたの」
「北畠家と赤松家はつながりがあるのか」
「両方とも村上源氏なのよ」
「同族だったのか‥‥‥同族だったので助けたのか‥‥‥」
「そうね‥‥‥」
「奈美殿と北畠殿との関係は?」
「わたしは、その頃、北畠殿のために情報を集めていたのよ」
「‥‥‥成程のう」
「今は、もう、北畠殿との縁も切れたわ。他に聞きたい事は」
「そうじゃのう‥‥‥この細工は、誰が作ったんじゃ」と風眼坊は天井を指差した。
「細工?」
風眼坊は、今度は階段のある隠し部屋の壁を指差した。
「さては、あそこに行ったのね」と奈美も天井を指差した。
「なかなか、いい部屋じゃった」
「参ったわね。絶対に気づかれないと思ってたんだけど、あなたには、かなわないわ」
「よく出来ておるんで感心したよ」
「そうでしょう。元、宮大工で、今は金勝座の舞台や小道具を作ったりしている甚助っていう人が作ったのよ」
「へえ、大したもんだ。あの部屋を使って密談なんかするのか」
「いいえ。一度も使った事ないわ」
「だろうな。こんなたんぼの中の一軒屋じゃ、わざわざ、あんな所に隠れる必要もないわな。どうして、また、あんな部屋を作ったんじゃ」
「まだ、金勝座の座員が揃う前、その甚助さんが毎日、ここで、ごろごろしてたのよ。丁度、冬の寒い最中でね。天井を張れば、少しは、うちの中が暖かくなるから、天井を張ろうって言い出してね。わしに任せてくれって、さっさと仕事を始めちゃったのよ。わたしも甚助さんの腕が確かな事は知ってたので、好きにさせといたら、こんなのが出来上がったっていうわけ。ここでは、こんな隠し部屋なんか必要ないけど、これを見本にしてね、新しいお店を作る時には、必ず、隠し部屋を作る事にしてるのよ」
「ほう。と言う事は播磨や堺の店には、こんなのがあるのか」
「そういう事」
「なかなか考えるもんじゃのう」
「ねえ、せっかくだから、今晩、上の部屋を使おうか」
「この上で飲むのか」
「飲んだ後よ」
「そいつは楽しみじゃのう」
風眼坊は義助の沸かしてくれた風呂に入って、さっぱりすると、お膳の用意してある客間の方に移動した。
囲炉裏には火が入っていた。
奈美は風眼坊の隣に坐り、風眼坊の顔を見て笑うと、とっくりを持って酌をした。
風眼坊は酒を一息に飲み干すと、うまいのう、と言って、酒盃を奈美に渡して酌をした。
奈美も一息に飲み干すと、おいしい、と言って笑った。
「何となく、あなたが、そんな格好でいると変ね」
「そうかのう。わしはわりと気に入っておるんじゃがのう」
「あなた、自分のお弟子さんの真似をしてるみたい」
「なに、太郎の奴も、こんな町人の格好しておったのか」
「ええ。太郎坊の名前があまりにも有名になり過ぎて、太郎坊を名乗って、このお山にいられなくなったの。そして、山にいる時は火山坊を名乗って、山から下りて来ると、三好日向という彫り物師でいたわ。職人の格好をしてね」
「ほう。奴が彫り物師か‥‥‥まあ、手先は器用じゃったからのう」
「その職人さんも、どうやら、武士に戻ったようね」
「らしいのう」
「ところで、火乱坊殿が加賀にいるんですって」
「おう。あっちで、門徒たちを引き連れて戦をしておるわ。奴も変わったわ」
「そう。相変わらず、薙刀を振り回しているのね」
「ああ、どえらい事を考えておるわ」
「どえらい事?」
「ああ。加賀の国を本願寺で乗っ取る気でおる」
「えっ! そんな事ができるの」
「やるかもしれん。あの本願寺の門徒たちは底知れない力を持っておる。いつの日か、武士たちを追い出してしまうかもしれんのう」
「へえ、本願寺って、そんなに力を持ってるの」
「今までの叡山や、興福寺などとは違う新しい力じゃ。その新しい力が古くなった力を倒そうとしておるんじゃよ」
「へえ‥‥‥それで、あなたも、その本願寺に付いて行くつもりなの」
「いや。成り行きで、今は本願寺に付いておるが、わしは門徒になるつもりはない。これからどうするか、まだ、決めてはおらんがのう。北陸の地には、わしのいる場所はないわ」
「ねえ。いっその事、わたしと組んで商売でもやらない?」
「商売か‥‥‥」そう言って風眼坊は少し考えたが、首を振った。「商売も、どうも、わしには合わんのう」
「合うか、合わないか、やってみなければ分からないわよ」
「それはそうじゃがのう」
「わたしね、今度、船を持って、琉球や朝鮮と取引きしようと思っているの。それを、あなたがやってくれたらなと、ちょっと思ったんだけど、駄目か‥‥‥」
「わしが船に乗るのか。船だったら、太郎じゃろ」
「今回の事がなければ、あの二人に、その話をしようと思ってたんだけど、もう、遅いわ」
「そうじゃのう‥‥‥もしかしたら、奴は赤松家の水軍になるかも知れんのう」
「その可能性は充分にあるわね。でも、今は銀山の開発をしなければならないでしょうから、水軍になるのはまだまだ、先になるわ」
「そうじゃった。奴は銀山を見つけたんじゃったのう。その銀山の開発も奈美殿の店がやるのか」
「いえ、まだ、正式に決まってないけど、多分、そうなると思うわ」
「銀山開発か‥‥‥儲かりそうじゃのう」
「お陰様で。あなたのお弟子さんが、えらいお宝を見つけてくれましたので、これから、忙しくなりそうですわ」
「まったく、大した事をやってくれたもんじゃのう」
「ほんと。わたしは、はっきり言って殺されてしまう事を覚悟してましたよ」
「そうじゃろうのう。なんせ、相手が赤松家じゃあな。殺されても当然じゃ。それが、殺されるどころか、堂々と殿様におさまってしまうとはのう。奴も悪運が強いというか、しぶといというか、なかなか、やるもんじゃのう」
「師匠も頑張らないと、お弟子さんに追い越されるわよ」
「そうじゃのう。太郎に追い越されるのう。いや、もう、追い越されたかもしれんのう」
「どうしたの、そんな弱気になって」
「別に弱気になったわけじゃないが、最近、改めて、自分の事を考えるようになってのう」
「へえ、あなたがねえ。いつも、行き当たりばったりだった、あなたが、自分の事を考えるようになったの」
「そうじゃ。年になったせいかのう」
奈美は風眼坊の顔を見ながら笑った。そして、思い出したかのように、「そういえば、この前、駿河から手紙が来てたわ」と言った。
「駿河? 新九郎か」
「そう。今は早雲というお坊さんよ」
「早雲? 奴は坊主になったのか」
「武士は、もう、やめたって言って、頭を丸めて駿河に旅立って行ったわ」
「ほう、あいつが坊主にね。四年も山に籠もっておると色々な事が起こるもんじゃのう」
「そうよ。昔と違って、今は時が流れるのが速いのよ。ぼうっとしてたら回りはすっかり変わってしまうわ」
「そうじゃのう。それで、新九郎の手紙には何と書いてあったんじゃ」
「小太郎に会ったら、駿河に来るように言ってくれ、と書いてあったわ」
「駿河か‥‥‥奴は今、駿河で何をしておるんじゃ」
「さあ。毎日、ブラブラしてるんじゃないの。なんせ、妹さんが駿河のお屋形様の奥方なんですからね」
「ふうん。駿河で世捨人(ヨステビト)をやっておるわけか」
「らしいわね」
「栄意坊の奴は何しておるか、知らんか」
「さあ」と奈美は首を振った。「去年は百地(モモチ)殿の所にいたんだけど、また、どこかに旅に出たらしいわ」
「そうか、奴は旅に出たか‥‥‥弥五郎の所では何をしておったんじゃ」
「百地殿の所でも若い者たちに武術を教えていてね。その師範をやっていたらしいわ」
「ふうん‥‥‥高林坊の奴は、このお山に落ち着いたらしいし、今、命懸けで何かをやっておるというのは火乱坊だけじゃな」
「そうかしら。それぞれ、みんな、命懸けで生きてるんじゃないのかしら」
「そうかのう。わしには命を懸けるものなどないわ」
「そうなの。わたしに命を懸けてみたら」
「奈美殿にか」風眼坊は改めて、奈美を見つめると頷いた。「それもいいかも知れんのう」
奈美も笑って、「ねえ、一期一会(イチゴイチエ)って知ってる?」と聞いた。
「一期一会? 何じゃ、それは」
「茶の湯で、よく使うんだけどね。今、この時は、一生のうちでたった一度しかないから、真剣な気持ちになって、お茶を飲めって言うの」
「お茶を飲むのにも覚悟がいるのか」
「そうよ。お茶だけじゃないわ。何をするにも、その瞬間瞬間を命懸けの気持ちで過ごせって言うのよ」
「一期一会か‥‥‥それじゃあ、今晩は、奈美殿に命を懸けて、真剣に酒を飲むかのう」
「お酒だけじゃなくて、命懸けで、わたしに惚れるのよ」
「命懸けで、惚れるのか‥‥‥この年になって、女に命懸けで惚れろと言うのか」
「年は関係ないでしょ。男はいくつになっても男だし、女はいくつになっても女よ」
「確かにのう。わしが、もし、若い頃、命懸けで奈美殿に惚れておったら、今頃、どうなっておったかのう」
「‥‥‥多分、お互いに苦しんだと思うわ」
「今、こうやって会う事はなかったかのう」
「多分ね。あなたはここに戻って来ても、わたしには会いに来なかったでしょう」
「そうかのう‥‥‥」
「昔の話はよしましょ」
「ああ‥‥‥そういえば義助はどこに行ったんじゃ。いつも、聞こうと思っておったんじゃが、義助の奴は、わしがここに来ると、いつも消えるが、どこに行くんじゃ」
「気を利かしているのよ。義助には息子がいるの。きっと、息子の所に行くんでしょ」
「息子の所か‥‥‥」
「ねえ。十月の十五日に楓と太郎殿の披露式典があるのよ。一緒に行かない?」
「十月十五日といったら後一月後じゃないか。ちょっと無理じゃのう。奈美殿は行くのか」
「勿論よ。楓の母親ですもの」
「おお、そうじゃったのう。太郎の両親たちも行くのかのう」
「多分、まだ、両親たちには教えてないんじゃないかしら」
「のんきなもんじゃな」
「それだけ、大物なのよ」
「大物か‥‥‥かもしれんのう」
二人の話は尽きなかった。
夜になって冷え込んで来たが、囲炉裏を囲み、ほろ酔い気分で話に熱中している二人には全然、気にならなかった。
次の日の昼過ぎ、奈美の手下たちが甲賀にやって来た。
堺の『小野屋』の主人、伝兵衛と手代(テダイ)の平蔵。
伊賀上野の『小野屋』の主人、善兵衛と手代の忠助。
元、奈良の『小野屋』の主人で、今は隠居している長兵衛と手代の新八。
そして、茶人の村田珠光(ジュコウ)と弟子の倫勧坊澄胤(リンカンボウチョウイン)の一行だった。
風眼坊は二階の隠し部屋で、のんびり寝ていた。久し振りに奈美と出会い、何となく、ほっとしていた。故郷に帰って来たというような感じになり、安心して眠っていた。
奈美も、今朝は少し寝過ごしてしまっていた。夕べは久し振りに女に戻り、風眼坊にずっと甘えていた。奈美は今日、松恵尼に戻って花養院には行かなかった。風眼坊がここにいる間は、奈美でいようと思っていた。奈美は起きるとすぐに、張り切って風眼坊の食事の用意をしたが、風眼坊はなかなか起きて来なかった。
豊次郎は豊次郎で、加賀の戦から離れ、物見遊山(モノミユサン)に来たような気分で遊んでいた。遊女屋『花屋敷』の牡丹という娘が気に入り、牡丹を抱きながら、一晩中、酒を飲み続け、夜が明ける頃に酔い潰れ、牡丹を抱いたまま昼近くまで寝ていて、起きると、また、酒を飲み始めていた。
義助は朝、豊次郎を迎えに行ったが、まだ、寝ていると言うので、そのままにしてきて、昼頃、もう一度、行った。今度は、起きていたが、「わしはここが気に入った。ここにいる。先生がどこかに行くようなら呼びに来てくれ」と言って、帰ろうとしなかった。
義助は『花屋敷』の女将に銭を渡し、豊次郎の事を頼むと言って帰って来た。
昼過ぎになって、下がやけに賑やかなので、風眼坊はようやく目を覚ました。
風眼坊が下に降りようとしたら、奈美が上がって来た。
「着いたようじゃな」と風眼坊は言った。
「やっと起きたのね。せっかく、御飯まで用意して待っていたのに」と奈美は睨んだ。
「そいつは悪かった。どうも、奈美殿の所にいると、つい安心してのう。ゆっくりと眠ってしまったわ」風眼坊はあくびをしてから、「ところで例の事は話してくれたのか」と聞いた。
「まだよ。あの人たち、ここに泊まるはずになっているから、今晩、その話をするといいわ」
「今晩は宴会と言うわけじゃな」
「そうね」
「宴会もここでやるのか」
「そうよ。どこも、一杯なのよ」
「そうか、明日から祭りじゃからな」
「そう言う事」
「わしはどうする。降りて行って挨拶した方がいいか」
「これから、お山に登って、それから湯屋(ユヤ)に寄って来るっていうから、もう少し、ここに隠れていて」
「そうか、分かった」
奈美は降りて行った。
やがて、客たちは出て行った。
風眼坊は下に降りると井戸で顔を洗い、「豊次郎の奴は、まだ、帰って来んのか」と奈美に聞いた。
「まだ、お楽しみのようね」
「そうか、困った奴じゃのう」
風眼坊は奈美の用意した飯を食べると、祭りの準備に忙しい町へと出た。
たんぼの中の一軒屋の奈美の家から町に向かうと橋を渡って、すぐの所に奈美の経営する旅籠屋『伊勢屋』があった。その伊勢屋の北側が居酒屋などの並ぶ盛り場だった。豊次郎が最初に飲んでいた『たぬき』という店は伊勢屋のすぐ前だった。
伊勢屋の前を通って真っすぐ行くと寺院と大きな旅籠屋の間を通り、大通りへと出る。この大通りが飯道山への参道だった。正面に大鳥居があり、なだらかな坂を登って行くと二の鳥居があり、そこから、急な登り坂が飯道寺まで続いていた。
風眼坊は参道を横切り、料亭『湊屋』と寺院の間を通り抜けて行った。湊屋は毎年、年末に飯道山の武術師範たちが集まって宴会をする料亭だった。その湊屋の裏にも盛り場があった。
こちらの盛り場は、伊勢屋の所より、ちょっと高級な遊女屋が並んでいた。こちらの盛り場は側に観音院があるため観音町と呼ばれ、伊勢屋の方の盛り場は側に不動院があるため不動町と呼ばれていた。豊次郎がいる『花屋敷』という遊女屋は、この観音町にあった。
風眼坊は花屋敷の門をくぐった。
懐かしかった。
風眼坊も若い頃は、この門を何度もくぐっていた。あの頃、『四天王』と持て囃されていた風眼坊たち四人は、武術だけでなく、遊びの方でも『四天王』と呼ばれる程、毎晩、派手に遊んでいたものだった。あの頃、風眼坊たちが遊んでいた店は、ほとんど無くなっていたが、ここ花屋敷は昔のまま残っていた。
花屋敷の女将は風眼坊の事を覚えていた。昔話に花を咲かせた後、豊次郎のいる部屋に案内された。
豊次郎は独りで酒を飲んでいた。
「女子(オナゴ)はどうした」と風眼坊は聞いた。
「逃げられた」
「情けないのう」
「逃げられたっていうのは嘘です。お稽古事があるんだそうです。それが終わったら、また、戻って来ます」
「そうか、いい女子か」
「まあね」
「先生、もう、出掛けるんですか」
「いや、まだじゃ。今晩、商人と会う手筈になっておる。話がうまくまとまれば、明日、帰る事となろう。まあ、今晩は、ここにいろ。ただ、余り飲み過ぎるなよ。話がまとまるにしろ、まとまらないにしろ、明日はここを出るからな」
「分かりました。先生は今、どこにおるんです、あの寺ですか」
「あそこは尼寺じゃ。男は泊まれん。わしも女子の所じゃ」
「何じゃ、先生も女子の所か。お楽しみってところですか」
「まあな。それじゃあ、明日、迎えに来るからな」
「話がうまく行くといいですね」
「ああ、そうじゃな」
風眼坊は花屋敷から出ると、さて、これからどこに行こうか、と考えた。
奈美の所に戻っても、奈美は今晩の準備のため、伊勢屋の方に行っていていないし、太郎も息子もいない山に登ってもしょうがないし、花養院にでも行って子供たちと遊ぶか、と花養院の方に向かっていた。不動町の盛り場の横を通った時、ちらっと『とんぼ』の親爺が見えたので、風眼坊は懐かしくなって『とんぼ』の方に足が向いた。
居酒屋『とんぼ』は開いていた。風眼坊は暖簾をくぐった。
「親爺、懐かしいのう」と風眼坊は声を掛けた。
「風眼坊か‥‥‥」と無口な親爺は言った。「懐かしいのう。一体、どうしたんじゃ」
「ちょっと、用があってのう」
「そうか‥‥‥懐かしいのう」
「いつも、こんな早くから、店をやってるのか」
「いや、今日は特別じゃ。今晩、忙しくなると思っての、ちょっと、仕込みをしておったんじゃよ」
「そうか、祭りの前の晩じゃからのう。昔、親爺にお世話になった者たちが、みんな、集まって来るというわけじゃな」
「まあ、そういう事じゃ。まだ、日は高いが、久し振りじゃ、まあ、一杯飲んで行け」
親爺は風眼坊に枡(マス)に入れた酒を出した。無口な親爺に似合わず、よく喋っていた。
「ここに最後に来たのは、いつだったかのう」風眼坊は懐かしそうに店の中を見回しながら聞いた。
「あれは、おぬしが弟子の太郎坊をこの山に連れて来た時じゃよ」
「おお、そうか。確か、栄意坊に高林坊も一緒だったのう」
「そうじゃよ。おぬしの弟子の太郎坊というのは大した男になったものよのう。さすが、おぬしじゃ。見る目が高いわ」
「ああ、わしも実際、驚いておるわ」
「わしは、ここに長い事おるが、おぬしたちの『四天王』とおぬしの弟子の『天狗太郎』は後々までも語り草になろうのう」
「太郎坊は、そんな有名になったのか」
「有名なんてもんじゃない。毎年、この山に来る若い者たちは、皆、太郎坊の『陰の術』を習いに来るんじゃよ。太郎坊が余りにも有名になりすぎての、おぬしの弟子は太郎坊を名乗れなくなって、火山坊と名乗っておったわ」
「ほう。火山坊か‥‥‥奴は、ここにもよく来たのか」
「一時は、毎日のように来ておったのう」
「毎日、来ておったのか」
「ああ。何があったのか知らんが、去年の今頃かのう。毎日、酔っ払っておったのう」
「奴が酔っ払っておった?」
「ああ。太郎坊でありながら、太郎坊を名乗れなかったのが、くやしかったのかのう。理由は知らんが毎日、酔っ払っておった。火山坊の評判もあまり、よくなかったのう。毎日、酒臭くて、あれでよく、剣術なんか教えていられるな、と陰口をたたかれておったわ」
「そんなひどかったのか」
「ああ、ひどかった。しかし、さすがに、十二月になって太郎坊に戻って、皆に陰の術を教えておる間は素面(シラフ)じゃった。陰の術が終わるとまた、酔っ払いに戻ったがのう」
「奴が酔っ払いじゃったとは信じられんのう」
「世の中、信じられん事が起こるもんじゃよ。その酔っ払いも大峯山に修行に行ったきり、まだ、帰って来んらしいのう」
「奴が大峯に行った?」
「ああ、大方、おぬしに会いに行ったんじゃなかったのか」
「奴が大峯に行ったのはいつの事じゃ」
「六月じゃったかのう」
「入れ違いじゃ。わしは五月に山を下りてしまった」
「そうじゃったのか。もしかしたら、まだ、おぬしの事を捜しておるのかも知れんのう」
「ああ、そうかも知れん。わしは一千日間、山の中に籠もると言って山を下りて来たからのう」
「可哀想な事じゃ。きっと、太郎坊は師匠のおぬしに相談したい事があったに違いない」
「そうかも知れんのう。奴が大峯まで来たとは知らんかったわ」
「あいつが何かを悩んでおった事は確かじゃよ」
「そうか‥‥‥悩んでおったか‥‥‥」
「大丈夫じゃ」と親爺は言った。「太郎坊は独りでも立ち直るよ」
「うむ。分かっておる」と風眼坊は頷いた。
「師匠が師匠じゃからのう。弟子も立派じゃ」
「親爺、ありがとうよ」
「何も礼を言われる筋はない」
「いや、太郎坊の事を見守ってくれた」
「わしは何もしとらん。太郎坊とも、ろくに口を聞いた事もないしな」
「いいんじゃ。親爺はただ見守ってくれておるだけでな。わしらが飲み歩いておる頃も親爺はあまり喋らなかった。しかし、親爺は何でも知っておった。それで、いいんじゃ‥‥‥太郎坊が酔っ払いじゃったか‥‥‥」
風眼坊は急に笑い出した。
「どうしたんじゃ」
「いや、何となく楽しくなってのう。わしも奴の噂はよく耳にしておった。しかし、悪い噂はなかった。人間、真面目だけでは大物にはなれん。どこか弱い所が無ければ駄目じゃ。奴が毎日、酔っ払っておったと聞いて、わしは嬉しいんじゃよ。奴はまだまだ伸びる。悩みながら、どんどん大きくなって行く。わしも負けてはおれん。奴に追い越されんようにせんとな」
「いいお弟子さんを持ったもんじゃのう。風眼坊は幸せ者じゃ」
「親爺にだけ言うがのう。太郎坊は今、播磨で、赤松家の武将になったよ」
「なに、赤松家の武将になった?」
「ああ。奴の嫁さんを知っとるか」
「いや、知らんが‥‥‥太郎坊には嫁さんがおったのか」
「いた。花養院にいた楓という娘じゃ」
「その娘なら知っておる。どこか、遠くの方に嫁に行き、また、戻って来たというのは聞いておったが、その娘の亭主が太郎坊だったのか」
「そうじゃ。その楓という娘が、なんと、赤松家のお屋形様の姉君でな、太郎と一緒に播磨に行って、今は、一城の主だと言うわ」
「ほう、そいつは、たまげたものよのう。あの娘が播磨の赤松家の娘だったとはのう‥‥」
「まったくじゃ」
「この事は親爺の胸だけにしまって置いてくれ」
「分かっておるわ。しかし、今年も、十二月には陰の術があるんじゃろう。太郎坊は来るのかのう」
「来る。太郎坊はきっと来るよ」
「うむ。わしも、その事は分かっておるつもりじゃ」
風眼坊は『とんぼ』の親爺と別れた。
太郎の別の面が分かってよかったと思った。あの太郎が、今の豊次郎のように酔っ払いだったとは驚きだった。風眼坊自身が、若い頃、酔っ払いだったので、酔っ払いの気持ちはよく分かっていた。
風眼坊は花養院には寄らずに奈美の家に帰った。
もう、日が暮れ掛かっていた。
客間の床の間に山水の掛軸が掛かっていた。
その前に、秋の花が綺麗に生けられてあり、香まで焚かれてあった。
村田珠光が弟子の倫勧坊と一緒に、お茶会の準備をしていた。
珠光は頭を丸め、一見した所、禅僧のように見えるが、着ている着物は俗人と同じだった。奈美の話によると、以前は、一休禅師の弟子で、休心珠光という禅僧だったが、茶の湯の道に生きる覚悟を決めて、還俗(ゲンゾク)したのだと言う。
居間の方では、風眼坊と奈美、三人の小野屋の主人とで商談が始まっていた。
風眼坊の話を聞き終わると、三人の小野屋の主人は奈美の方を見て、小さく頷いた。
風眼坊が奈美の方を見ると、奈美は、ただ、笑っているだけだった。
「何とか、致しましょう」と堺から来た小野屋伝兵衛が言った。
「本当ですか」と風眼坊は聞いた。
「はい。ただし、少々、時間が掛かりますが」
「どの位ですか」
「そうですね。一月近くは掛かると思います」
「一月位なら結構です。お願い致します。もしかしたら、今、堺に在庫があるのですか」
「はい。刀が二千本、それと、槍が三千本程ございます。ただ、刀身だけです。これに拵(コシラ)えをしなければなりませんので、少々、時間が掛かるというわけです」
「あと五千本は集まりますか」
「長兵衛殿の所には、どれ程ありますか」と奈美は聞いた。
「まあ、刀が五百本、槍が一千本、薙刀(ナギナタ)が二百本というところでしょうか」と奈良の小野屋の主人は言った。
「善兵衛殿の所は?」
「はい。わたしの所は、それ程ありません。刀が二百本と言うところでしょうか。ただ、刀の柄(ツカ)に巻く組紐は充分にあります」と伊賀上野の小野屋の主人は言った。
「あとは、堺中の納屋(ナヤ、倉庫)を捜せば、何とかなるでしょう。それでも足りなければ、播磨から取り寄せます」と伝兵衛は言った。
「弓矢の矢の方はどうです」と風眼坊は聞いた。
「それは、長兵衛殿が何とかするでしょう」と伝兵衛は言った。
「はい。三万本程でいかがですかな」と長兵衛は言った。
「三万本ですか‥‥‥三万本もあれば何とかなるでしょう。しかし、そんなにも集められるのですか」
「いえ、今、蔵の中で眠っておりますよ」
「えっ、蔵の中に? という事は、手元にあると言う事ですか」
「はい。ございます」
「凄いもんじゃのう。いつも、そんなに武器の在庫があるのですか」
「いえ、これは、女将の命によって集めたものです」
「奈美殿の命令で?」
「一戦をしようと思ってね」と奈美は笑った。
「女将は、楓殿のために小野屋の全財産を賭けて、戦をする覚悟だったのです」と長兵衛は言った。
「赤松家を相手に戦か‥‥‥」と風眼坊は奈美の顔をまじまじと見た。
「もしもの時はね」と言って、奈美は笑った。
「成程、それで武器を蓄えておったという事か‥‥‥それにしても、三万本もの矢をよく集めましたね」
「皆、興福寺から流れて来るんですよ。珠光殿のお弟子さんの倫勧坊殿も何本か、協力してくれました」
倫勧坊は今、隣の部屋で、珠光の手伝いをしていた。丁度、太郎と同じ位の年の奈良興福寺の衆徒で、勇ましい僧兵だった。
「しかし、三万本とは凄いものですね」と風眼坊は感心した。「一体、どうやって、そんなにも集めたのですか」
「矢で銭を貸したわけです。今回の戦で、興福寺も数多くの荘園を横領されました。内情はかなり苦しいようです。上の者たちは、それでも、結構、贅沢しておりますが、下っ端の神人(ジニン)あたりは食うのもやっとの有り様です。その下級神人たちが作っておるのが弓矢の矢です。わたしは彼らのために、その矢を質として銭を貸したわけです。初めのうちは皆、ほんの数本を持って来て、銭に替えて行きましたが、そのうちに、だんだんと数が増えて行き、終いには、車に山積みにした矢を持って来る者まで現れましたよ。それで、今では三万本もの矢が蔵の中で眠っておるというわけです」
「成程のう。溜まるもんじゃのう」
「風眼坊殿、よかったですね」と奈美は言った。
「ああ、まさか、こんなにもうまい具合に事が運ぶとは思ってもおらんかったわ」
「風眼坊殿、こちらこそ、お礼を言わなければなりませんよ」と長兵衛は言った。「矢の事なんですがね。三万本もの矢をどうしようかと考えておった所なんですよ。女将に言われて集めましたが、楓殿も無事、赤松家に迎えられましたし、処分しなければならなかったんですが、興福寺で作った矢を興福寺に無断で売りさばくわけにもいかず、困っておったところなんですよ」
「加賀辺りなら大丈夫というわけですか」
「加賀というより本願寺だから安心なのです」
「どういう事です」
「興福寺は今回の戦で、東軍にも西軍にも属さず中立でおります。そして、矢をどちらの軍にも売っておるわけです。早い話が、どこの陣にも興福寺から矢を売りに来ている者がおると言う事です。そんな所に、わしらが興福寺の矢を売りに行けば、すぐに、興福寺にばれてしまいます。興福寺は座を組織して、矢の製造販売をしております。座に入っておらん者が、その取り引きをやれば、たちまちに興福寺の衆徒に襲われる事になります。その点、本願寺はまだ、興福寺と取り引きはしておらんでしょう。興福寺に見つかる心配はないと言うわけです」
「成程のう。商売というのも、なかなか難しいもんじゃのう」
「お陰様で、蔵が空き、他の物を仕入れる事ができます」
「皆さん、仕事の話はこれでお終いね。そろそろ、お茶会の方の準備もできる頃でしょう」
一汁三菜の会席料理が並び、お茶会が始まった。
お茶会の席では、宗教や政治、愚痴や人の悪口、仕事に関する事など俗世間の事を話すのは禁じられていた。小野屋の主人たちは、明日から始まる信楽の市の事を話し、珠光から陶器の事を聞いていた。風眼坊はみんなの話にはついて行けなかった。陶器など、まったく興味がなく、話を聞いていても何の事を言っているのか全然、分からなかった。そんな風眼坊を見ながら、奈美は時々、笑っていた。
食事が終わると皆、席を立ち、隣の部屋へと移った。
囲炉裏には炭が入り、湯が沸いていた。それぞれが席に着くと、珠光の弟子、倫勧坊によって茶菓子が配られ、珠光によってお茶が点てられた。
風眼坊は珠光の細かい動作を注目していた。珠光の動きには一分の隙もなかった。まるで、能を演じているかのように、お茶を点てる動きに無駄がなかった。座敷の中に、ある種の緊張感が漂っていた。皆、珠光の動きに注目していた。
やがて、珠光の点てたお茶が倫勧坊によって、各自に配られた。
風眼坊も一期一会の覚悟で、珠光の点てたお茶に挑んだ。
風眼坊にしても、お茶会に出るのは初めてではなかったが、お茶会に出て、これ程、緊張した事はなかった。そして、目の前で、お茶を点てているのを見るのも初めてだった。普通、お茶は別の部屋で点てられて運ばれて来るものだった。しかし、客の見守る中、鮮やかな手捌(テサバ)きで、珠光はお茶を点てていた。
珠光が点てたお茶を飲むのは、これが最初で最後の事に違いないと風眼坊は真剣な気持ちになって、お茶を飲んでいた。
村田珠光は将軍義政の茶の湯の師匠だった。当時、珠光の始めた『佗(ワ)び茶』を心得ている者は、京や奈良に住む上流の武士や裕福な商人たちに限られていたが、茶の湯を嗜む誰もが、珠光の名を知っており、彼らにとって珠光は神様ともいえる程の存在であった。風眼坊も珠光の名は噂によって耳にしていた。
珠光以前の茶の湯は、多分に娯楽と賭博(トバク)の要素を含んでいた。『闘茶(トウチャ)』と呼ばれ、何種類かのお茶を飲み、そのお茶を飲み比べて勝ち負けを決める遊びの一種だった。その闘茶は一般庶民の間にまで広まり、庶民たちもささやかな物を賭けて盛んに行なわれていた。その闘茶から娯楽と賭博の要素を抜き、様式的にまとめたのが将軍義政の同朋衆(ドウボウシュウ)の一人、能阿弥(ノウアミ)だった。
闘茶には座敷飾りというのが、まず基本だった。それは庶民たちによるお茶会においても、ささやかながら押板(オシイタ、現在の床の間の原形)の上に花を飾り、壁には掛軸を飾っていた。その座敷飾りを細かく検討して様式化したのが能阿弥だった。能阿弥は将軍家が代々蒐集して来た唐物(カラモノ)の絵画や陶器などを評価し、それぞれの持っている価値を決め、『君台観左右帳記(クンタイカンソウチョウキ)』を著した。日本で初めての鑑定書だった。この鑑定書を基準として、後に名物と呼ばれる数々の茶道具が生まれる事となった。
能阿弥から目利き(鑑定)と立花(リッカ、生け花)を学び、能阿弥による華やかな書院の茶の湯に、禅による精神を取り入れ、四畳半の座敷による『佗び茶』と呼ばれる茶の湯を完成させたのが、珠光であった。
能阿弥の書院の茶の湯は、床飾りや茶道具を目利きし、座敷飾りの様式を完成させた。しかし、お茶は別室で点てられ、客たちの待つ座敷に運ばれていた。珠光は飾り付けのされた、その座敷内で、客の見ている前でお茶を点てる事を始めた。ここに現代の茶道における、亭主が客を持て成す接待の基本というものが出来上がった。
お茶会を開く亭主は、客を綺麗に飾り立てた座敷に案内し、客の心を和らげ、茶菓子を出して、客の見ている前で、少しの無駄のない鮮やかな手捌きでお茶を点てる。客は、床の間の飾り付けや生け花などに亭主の気配りを感じ、亭主の点てたお茶を静かに飲む。
能の世界と同様に、為手(シテ、演ずる者)と見手(観客)が一体感となる世界が、座敷を舞台として演じられ、そこに、日常とは違う緊張感が生まれた。その緊張感を高めるため、珠光は広い書院より四畳半の狭い部屋がいいと強調し、また、飾り付けも所持している物をごてごてと並べて飾るのではなく、禅に通じる『佗び』を主張した。
将軍義政は珠光より、客の見ている前でお茶を点てるという、まったく新しいやり方を教わって熱中した。将軍でありながら、何もかもが自分の思うようにならない事に嫌気が差していた義政に取って、自らが皆の前でお茶を点てて、大名たちに、そのお茶を飲ませるという事は、少なくとも、その場を自分が仕切っているという気分が味わえた。
義政の場合は客を持て成すというよりも、将軍様がじきじきに点てたお茶を飲ませてやる、有り難いと思って飲め、という気分が多分に含まれていたが、義政によって、珠光の考えた茶の湯は大名たちの間に、あっと言う間に流行って行った。
大名たちにとって、将軍様に招待されて、将軍様が自ら点てたお茶を飲むというのは名誉ある有り難い事だった。大名たちは自分がそう感じたのだから、部下の武将たちに、お茶を点てて飲ませてやれば、部下たちも感激して、益々、忠誠を尽くすに違いないと誰もが思った。武士たちの間に茶の湯は流行って行った。武士たちの間に流行れば、茶の湯に必要な茶道具を提供する側の商人たちに流行らないはずはなかった。応仁の乱という、京の都がほとんど焼けてしまった戦の最中でも、上流の武士たちの間では暇さえあれば、お茶会が行なわれていた。
ただ、当時はまだ、たとえ、お茶会とはいえ、武士の世界において、将軍と大名たちが同座するという事は考えられなかった。将軍は、たとえ、お茶会の席でも上段の間にいなければならない。お茶会の場が広い書院から四畳半に移ったとしても、畳一枚分は上段の間として、将軍が坐り、そこでお茶を点てていた。その形が、そのまま、町人たちの間にも伝わり、茶室における床の間となって行った。
当時、武家屋敷の書院の上段の間には床の間、違棚(チガイダナ)、付書院などが付き、茶室の原型はあったが、書院の中にある床の間は、後の茶室の床の間のように畳一枚分の広さはなかった。幅はその書院の作りによって様々だったが、せいぜい二尺位で板の間だった。それは押板から発達した床の間だったため、飾り物が置ければよく、畳程の幅は必要なかった。その書院作りが町人に伝わる事によって、押板風の床の間と上段の間が一緒になり、畳一枚分の床の間に変化して行った。町人たちは、その畳一枚の上段に高価な唐物の陶器や磁器を飾った。その唐物は、町人たちに取っては将軍様と同じように権威の象徴だった。
やがて、町人たちによって、茶の湯は益々、発達して行き、茶室が日常とはまったく違った、俗界と切り放された特殊な世界という観念が出来上がって来ると、その座敷内では身分というものは無くなり、ただの亭主と客という間柄だけとなった。武士の世界においても、茶室から上段の間は消え、畳一枚分の床の間が残る事となった。後の千利休の時代になると、茶室が三畳、二畳と小さくなって行き、床の間も小さくなって行くが、畳一枚分の広さの床の間は、後の世まで座敷飾りの基本として残って行った。
珠光は応仁の乱が始まって、しばらくすると戦乱を避けて奈良に帰った。奈良において、武士や興福寺の僧や商人たちに茶の湯の指導をしたり、堺にも出掛けて行って、正当な茶の湯を広めていた。今回、小野屋の主人たちと一緒にこの地に来たのは、やはり、信楽の陶器市を見るためだった。茶の湯といえば唐物中心だった中に、珠光が信楽の陶器を高く評価したため、信楽焼きの人気は年々高くなって行った。
奈美の屋敷で行なわれたお茶会も、珠光の考え出した『佗び茶』と呼ばれるものだった。
濃茶の後に薄茶が配られると、張り詰めていた雰囲気から和やかな雰囲気へと変わって行った。小野屋の主人たちは陶器の話から掛物の話へと移っていた。風眼坊は、みんなの話をただ黙って聞いていた。
薄茶を飲み終わり、話も一段落すると、「そろそろ、宴会の用意を致しますから、すみませんけど、お庭の方にでも出ていて下さいな」と奈美は言った。
客たちは皆、部屋から追い出されて庭へと下りた。
珠光が風眼坊に近づいて来て、声を掛けて来た。
「風眼坊殿は、お医者様だそうですね」
「はい、一応は」
「ところで、風眼坊殿、蓮如上人殿はお元気ですか」
「はい。もう、元気なんてもんじゃないですよ。戦をやっておるというのに、じっとしておられなくて、あっちに行ったり、こっちに行ったり、忙しく動き回っておられます。今は本泉寺の庭園を造ると言って、張り切って土いじりをしておりますよ。珠光殿は蓮如殿を御存じでしたか」
「いえ、会った事はありませんが、上人殿の噂はよく耳にします。わたしの禅の師匠は一休禅師ですが、よく、上人殿の事をお話になります。一休禅師が認めておる程の人ですから、一度、会いたいと思っておりますが、越前はちょっと遠いですからね」
「そうですか。珠光殿は一休禅師殿のお弟子さんでしたか、わたしも蓮如殿から、一休殿の噂はよく聞いております」
「そうですか、上人殿も噂しておりましたか。お互いに、会ったのはたった一度だけだったそうですけど、一度だけの出会いでも、お互いに分かり合えると言う事もあるのですね」
「一度しか、会ってなかったのですか」
「ええ、らしいです」
「そうだったのですか、蓮如殿が一休殿の話をする時は、いつも楽しそうです」
「一休殿もそうですよ」
「不思議なものですな‥‥‥ところで、珠光殿は越前の曾我蛇足(ジャソク)という絵師を御存じでしょうか」
「蛇足殿、知っておりますとも、共に一休殿のもとで禅を組んだ仲です」
「やはり、そうでしたか」
「風眼坊殿は蛇足殿を御存じですか」
「はい。一度、一緒に飲んだだけですが、なかなかの人物だと思いました」
「蛇足殿の絵は一流です。わたしも公方様のもとで、名画と呼ばれる絵を何枚も見ましたが、蛇足殿の絵は、それらの名画に勝るとも劣る事はないでしょう」
「絵の方は、まだ見た事はないので何とも言えませんが、あの人なら、それ位の絵は描きそうですね」
「それにしても、こんな所で、蛇足殿を知っておる御仁に会えるとは思ってもおらなかったわ。奇遇ですな」
珠光と風眼坊は話に弾んでいた。
やがて、奈美が用意ができたと呼んだ。
皆は宴会の用意の整った客間に上がった。
昨日も御馳走だったが、今日の御馳走は物凄かった。珍味といわれる品々が並び、新鮮な海の幸が並んでいた。風眼坊は商人としての奈美の実力をまざまざと見せつけられたような気がした。
全員が席に着くと、隣の部屋から音楽が流れ始め、金勝座の舞姫たちが現れた。
客たちは拍手で迎え、舞姫たちは華麗に舞った。
曲舞(クセマイ)が終わると、一座によって『楓御料人物語』が上演された。皆、酒を飲むのも忘れて金勝座の演じる狂言芝居に熱中していた。風眼坊も例外ではなかった。まさか、太郎と楓の話を芝居にして演じるとは思ってもいない事だった。
金勝座は一通り、演じ終わると宴会に加わった。
賑やかな宴会は夜更けまで続いた。
豊次郎は『たぬき』という飲み屋にいたが、今は『花屋敷』という遊女屋にいると言う。多分、朝まで、そこにいるだろうとの事だった。
「義助、悪いけど、お風呂を沸かしておくれな」と奈美は言った。「風眼坊殿は長い旅でお疲れだからね」
「へい。畏まりました」
「風呂か、旅の垢でも落とすか」
「さっぱりして、お酒を飲みましょう。そのお髭も綺麗に剃って下さいな」
「この髭か」と風眼坊は口髭を撫でた。「少し、伸ばしてみようと思っておるんじゃ」
「えっ、伸ばすの」
「ああ。今、医者をやっておるんでな、ちょっと気分転換のつもりでな」
松恵尼は笑いながら、「医者として貫禄が付くかもしれないわね」と言った。
「そうかのう。ところで、さっきの話じゃが、明日、播磨の店の者も来るのか」
「いいえ、播磨からは来ないわ。堺と奈良と伊賀上野から来ます」
「ほう。わしはまだ堺には行った事ないが、大層、賑わっておるそうじゃのう」
「今度、堺から遣明船(ケンミンセン)を出すとの話も出ています。これから益々、堺は賑わって行くでしょう」
「遣明船を堺からか」
「ええ。戦で兵庫津が使えなくなりましたからね」
「堺か‥‥‥」
「仕事の話はこれでおしまいね」
「そうじゃな。小野屋の御主人、何卒、お願い致します」と風眼坊は頭を下げた。
「こちらこそ、これからもずっと、お付き合い願いますよ」と奈美も頭を下げた。
「喜んで」と風眼坊は笑った。
奈美も笑った。
「ところで、奈美殿、どうして、奈美殿が赤松家の遺児を預かっておったんじゃ」
奈美の顔から笑みが消えて、俯いた。
「話したくなければ、無理には聞かん」
「いいえ‥‥‥話すわ。ある日、山伏が来て、赤ん坊を置いて行ったのよ。その山伏は伊勢の世義寺(セギデラ)の山伏だった。赤ん坊は多気(タゲ)の御所様に頼まれたって言って置いて行ったの。赤ん坊には何の罪もないものね、わたしは育てる事に決めたの」
「北畠家と赤松家はつながりがあるのか」
「両方とも村上源氏なのよ」
「同族だったのか‥‥‥同族だったので助けたのか‥‥‥」
「そうね‥‥‥」
「奈美殿と北畠殿との関係は?」
「わたしは、その頃、北畠殿のために情報を集めていたのよ」
「‥‥‥成程のう」
「今は、もう、北畠殿との縁も切れたわ。他に聞きたい事は」
「そうじゃのう‥‥‥この細工は、誰が作ったんじゃ」と風眼坊は天井を指差した。
「細工?」
風眼坊は、今度は階段のある隠し部屋の壁を指差した。
「さては、あそこに行ったのね」と奈美も天井を指差した。
「なかなか、いい部屋じゃった」
「参ったわね。絶対に気づかれないと思ってたんだけど、あなたには、かなわないわ」
「よく出来ておるんで感心したよ」
「そうでしょう。元、宮大工で、今は金勝座の舞台や小道具を作ったりしている甚助っていう人が作ったのよ」
「へえ、大したもんだ。あの部屋を使って密談なんかするのか」
「いいえ。一度も使った事ないわ」
「だろうな。こんなたんぼの中の一軒屋じゃ、わざわざ、あんな所に隠れる必要もないわな。どうして、また、あんな部屋を作ったんじゃ」
「まだ、金勝座の座員が揃う前、その甚助さんが毎日、ここで、ごろごろしてたのよ。丁度、冬の寒い最中でね。天井を張れば、少しは、うちの中が暖かくなるから、天井を張ろうって言い出してね。わしに任せてくれって、さっさと仕事を始めちゃったのよ。わたしも甚助さんの腕が確かな事は知ってたので、好きにさせといたら、こんなのが出来上がったっていうわけ。ここでは、こんな隠し部屋なんか必要ないけど、これを見本にしてね、新しいお店を作る時には、必ず、隠し部屋を作る事にしてるのよ」
「ほう。と言う事は播磨や堺の店には、こんなのがあるのか」
「そういう事」
「なかなか考えるもんじゃのう」
「ねえ、せっかくだから、今晩、上の部屋を使おうか」
「この上で飲むのか」
「飲んだ後よ」
「そいつは楽しみじゃのう」
風眼坊は義助の沸かしてくれた風呂に入って、さっぱりすると、お膳の用意してある客間の方に移動した。
囲炉裏には火が入っていた。
奈美は風眼坊の隣に坐り、風眼坊の顔を見て笑うと、とっくりを持って酌をした。
風眼坊は酒を一息に飲み干すと、うまいのう、と言って、酒盃を奈美に渡して酌をした。
奈美も一息に飲み干すと、おいしい、と言って笑った。
「何となく、あなたが、そんな格好でいると変ね」
「そうかのう。わしはわりと気に入っておるんじゃがのう」
「あなた、自分のお弟子さんの真似をしてるみたい」
「なに、太郎の奴も、こんな町人の格好しておったのか」
「ええ。太郎坊の名前があまりにも有名になり過ぎて、太郎坊を名乗って、このお山にいられなくなったの。そして、山にいる時は火山坊を名乗って、山から下りて来ると、三好日向という彫り物師でいたわ。職人の格好をしてね」
「ほう。奴が彫り物師か‥‥‥まあ、手先は器用じゃったからのう」
「その職人さんも、どうやら、武士に戻ったようね」
「らしいのう」
「ところで、火乱坊殿が加賀にいるんですって」
「おう。あっちで、門徒たちを引き連れて戦をしておるわ。奴も変わったわ」
「そう。相変わらず、薙刀を振り回しているのね」
「ああ、どえらい事を考えておるわ」
「どえらい事?」
「ああ。加賀の国を本願寺で乗っ取る気でおる」
「えっ! そんな事ができるの」
「やるかもしれん。あの本願寺の門徒たちは底知れない力を持っておる。いつの日か、武士たちを追い出してしまうかもしれんのう」
「へえ、本願寺って、そんなに力を持ってるの」
「今までの叡山や、興福寺などとは違う新しい力じゃ。その新しい力が古くなった力を倒そうとしておるんじゃよ」
「へえ‥‥‥それで、あなたも、その本願寺に付いて行くつもりなの」
「いや。成り行きで、今は本願寺に付いておるが、わしは門徒になるつもりはない。これからどうするか、まだ、決めてはおらんがのう。北陸の地には、わしのいる場所はないわ」
「ねえ。いっその事、わたしと組んで商売でもやらない?」
「商売か‥‥‥」そう言って風眼坊は少し考えたが、首を振った。「商売も、どうも、わしには合わんのう」
「合うか、合わないか、やってみなければ分からないわよ」
「それはそうじゃがのう」
「わたしね、今度、船を持って、琉球や朝鮮と取引きしようと思っているの。それを、あなたがやってくれたらなと、ちょっと思ったんだけど、駄目か‥‥‥」
「わしが船に乗るのか。船だったら、太郎じゃろ」
「今回の事がなければ、あの二人に、その話をしようと思ってたんだけど、もう、遅いわ」
「そうじゃのう‥‥‥もしかしたら、奴は赤松家の水軍になるかも知れんのう」
「その可能性は充分にあるわね。でも、今は銀山の開発をしなければならないでしょうから、水軍になるのはまだまだ、先になるわ」
「そうじゃった。奴は銀山を見つけたんじゃったのう。その銀山の開発も奈美殿の店がやるのか」
「いえ、まだ、正式に決まってないけど、多分、そうなると思うわ」
「銀山開発か‥‥‥儲かりそうじゃのう」
「お陰様で。あなたのお弟子さんが、えらいお宝を見つけてくれましたので、これから、忙しくなりそうですわ」
「まったく、大した事をやってくれたもんじゃのう」
「ほんと。わたしは、はっきり言って殺されてしまう事を覚悟してましたよ」
「そうじゃろうのう。なんせ、相手が赤松家じゃあな。殺されても当然じゃ。それが、殺されるどころか、堂々と殿様におさまってしまうとはのう。奴も悪運が強いというか、しぶといというか、なかなか、やるもんじゃのう」
「師匠も頑張らないと、お弟子さんに追い越されるわよ」
「そうじゃのう。太郎に追い越されるのう。いや、もう、追い越されたかもしれんのう」
「どうしたの、そんな弱気になって」
「別に弱気になったわけじゃないが、最近、改めて、自分の事を考えるようになってのう」
「へえ、あなたがねえ。いつも、行き当たりばったりだった、あなたが、自分の事を考えるようになったの」
「そうじゃ。年になったせいかのう」
奈美は風眼坊の顔を見ながら笑った。そして、思い出したかのように、「そういえば、この前、駿河から手紙が来てたわ」と言った。
「駿河? 新九郎か」
「そう。今は早雲というお坊さんよ」
「早雲? 奴は坊主になったのか」
「武士は、もう、やめたって言って、頭を丸めて駿河に旅立って行ったわ」
「ほう、あいつが坊主にね。四年も山に籠もっておると色々な事が起こるもんじゃのう」
「そうよ。昔と違って、今は時が流れるのが速いのよ。ぼうっとしてたら回りはすっかり変わってしまうわ」
「そうじゃのう。それで、新九郎の手紙には何と書いてあったんじゃ」
「小太郎に会ったら、駿河に来るように言ってくれ、と書いてあったわ」
「駿河か‥‥‥奴は今、駿河で何をしておるんじゃ」
「さあ。毎日、ブラブラしてるんじゃないの。なんせ、妹さんが駿河のお屋形様の奥方なんですからね」
「ふうん。駿河で世捨人(ヨステビト)をやっておるわけか」
「らしいわね」
「栄意坊の奴は何しておるか、知らんか」
「さあ」と奈美は首を振った。「去年は百地(モモチ)殿の所にいたんだけど、また、どこかに旅に出たらしいわ」
「そうか、奴は旅に出たか‥‥‥弥五郎の所では何をしておったんじゃ」
「百地殿の所でも若い者たちに武術を教えていてね。その師範をやっていたらしいわ」
「ふうん‥‥‥高林坊の奴は、このお山に落ち着いたらしいし、今、命懸けで何かをやっておるというのは火乱坊だけじゃな」
「そうかしら。それぞれ、みんな、命懸けで生きてるんじゃないのかしら」
「そうかのう。わしには命を懸けるものなどないわ」
「そうなの。わたしに命を懸けてみたら」
「奈美殿にか」風眼坊は改めて、奈美を見つめると頷いた。「それもいいかも知れんのう」
奈美も笑って、「ねえ、一期一会(イチゴイチエ)って知ってる?」と聞いた。
「一期一会? 何じゃ、それは」
「茶の湯で、よく使うんだけどね。今、この時は、一生のうちでたった一度しかないから、真剣な気持ちになって、お茶を飲めって言うの」
「お茶を飲むのにも覚悟がいるのか」
「そうよ。お茶だけじゃないわ。何をするにも、その瞬間瞬間を命懸けの気持ちで過ごせって言うのよ」
「一期一会か‥‥‥それじゃあ、今晩は、奈美殿に命を懸けて、真剣に酒を飲むかのう」
「お酒だけじゃなくて、命懸けで、わたしに惚れるのよ」
「命懸けで、惚れるのか‥‥‥この年になって、女に命懸けで惚れろと言うのか」
「年は関係ないでしょ。男はいくつになっても男だし、女はいくつになっても女よ」
「確かにのう。わしが、もし、若い頃、命懸けで奈美殿に惚れておったら、今頃、どうなっておったかのう」
「‥‥‥多分、お互いに苦しんだと思うわ」
「今、こうやって会う事はなかったかのう」
「多分ね。あなたはここに戻って来ても、わたしには会いに来なかったでしょう」
「そうかのう‥‥‥」
「昔の話はよしましょ」
「ああ‥‥‥そういえば義助はどこに行ったんじゃ。いつも、聞こうと思っておったんじゃが、義助の奴は、わしがここに来ると、いつも消えるが、どこに行くんじゃ」
「気を利かしているのよ。義助には息子がいるの。きっと、息子の所に行くんでしょ」
「息子の所か‥‥‥」
「ねえ。十月の十五日に楓と太郎殿の披露式典があるのよ。一緒に行かない?」
「十月十五日といったら後一月後じゃないか。ちょっと無理じゃのう。奈美殿は行くのか」
「勿論よ。楓の母親ですもの」
「おお、そうじゃったのう。太郎の両親たちも行くのかのう」
「多分、まだ、両親たちには教えてないんじゃないかしら」
「のんきなもんじゃな」
「それだけ、大物なのよ」
「大物か‥‥‥かもしれんのう」
二人の話は尽きなかった。
夜になって冷え込んで来たが、囲炉裏を囲み、ほろ酔い気分で話に熱中している二人には全然、気にならなかった。
5
次の日の昼過ぎ、奈美の手下たちが甲賀にやって来た。
堺の『小野屋』の主人、伝兵衛と手代(テダイ)の平蔵。
伊賀上野の『小野屋』の主人、善兵衛と手代の忠助。
元、奈良の『小野屋』の主人で、今は隠居している長兵衛と手代の新八。
そして、茶人の村田珠光(ジュコウ)と弟子の倫勧坊澄胤(リンカンボウチョウイン)の一行だった。
風眼坊は二階の隠し部屋で、のんびり寝ていた。久し振りに奈美と出会い、何となく、ほっとしていた。故郷に帰って来たというような感じになり、安心して眠っていた。
奈美も、今朝は少し寝過ごしてしまっていた。夕べは久し振りに女に戻り、風眼坊にずっと甘えていた。奈美は今日、松恵尼に戻って花養院には行かなかった。風眼坊がここにいる間は、奈美でいようと思っていた。奈美は起きるとすぐに、張り切って風眼坊の食事の用意をしたが、風眼坊はなかなか起きて来なかった。
豊次郎は豊次郎で、加賀の戦から離れ、物見遊山(モノミユサン)に来たような気分で遊んでいた。遊女屋『花屋敷』の牡丹という娘が気に入り、牡丹を抱きながら、一晩中、酒を飲み続け、夜が明ける頃に酔い潰れ、牡丹を抱いたまま昼近くまで寝ていて、起きると、また、酒を飲み始めていた。
義助は朝、豊次郎を迎えに行ったが、まだ、寝ていると言うので、そのままにしてきて、昼頃、もう一度、行った。今度は、起きていたが、「わしはここが気に入った。ここにいる。先生がどこかに行くようなら呼びに来てくれ」と言って、帰ろうとしなかった。
義助は『花屋敷』の女将に銭を渡し、豊次郎の事を頼むと言って帰って来た。
昼過ぎになって、下がやけに賑やかなので、風眼坊はようやく目を覚ました。
風眼坊が下に降りようとしたら、奈美が上がって来た。
「着いたようじゃな」と風眼坊は言った。
「やっと起きたのね。せっかく、御飯まで用意して待っていたのに」と奈美は睨んだ。
「そいつは悪かった。どうも、奈美殿の所にいると、つい安心してのう。ゆっくりと眠ってしまったわ」風眼坊はあくびをしてから、「ところで例の事は話してくれたのか」と聞いた。
「まだよ。あの人たち、ここに泊まるはずになっているから、今晩、その話をするといいわ」
「今晩は宴会と言うわけじゃな」
「そうね」
「宴会もここでやるのか」
「そうよ。どこも、一杯なのよ」
「そうか、明日から祭りじゃからな」
「そう言う事」
「わしはどうする。降りて行って挨拶した方がいいか」
「これから、お山に登って、それから湯屋(ユヤ)に寄って来るっていうから、もう少し、ここに隠れていて」
「そうか、分かった」
奈美は降りて行った。
やがて、客たちは出て行った。
風眼坊は下に降りると井戸で顔を洗い、「豊次郎の奴は、まだ、帰って来んのか」と奈美に聞いた。
「まだ、お楽しみのようね」
「そうか、困った奴じゃのう」
風眼坊は奈美の用意した飯を食べると、祭りの準備に忙しい町へと出た。
たんぼの中の一軒屋の奈美の家から町に向かうと橋を渡って、すぐの所に奈美の経営する旅籠屋『伊勢屋』があった。その伊勢屋の北側が居酒屋などの並ぶ盛り場だった。豊次郎が最初に飲んでいた『たぬき』という店は伊勢屋のすぐ前だった。
伊勢屋の前を通って真っすぐ行くと寺院と大きな旅籠屋の間を通り、大通りへと出る。この大通りが飯道山への参道だった。正面に大鳥居があり、なだらかな坂を登って行くと二の鳥居があり、そこから、急な登り坂が飯道寺まで続いていた。
風眼坊は参道を横切り、料亭『湊屋』と寺院の間を通り抜けて行った。湊屋は毎年、年末に飯道山の武術師範たちが集まって宴会をする料亭だった。その湊屋の裏にも盛り場があった。
こちらの盛り場は、伊勢屋の所より、ちょっと高級な遊女屋が並んでいた。こちらの盛り場は側に観音院があるため観音町と呼ばれ、伊勢屋の方の盛り場は側に不動院があるため不動町と呼ばれていた。豊次郎がいる『花屋敷』という遊女屋は、この観音町にあった。
風眼坊は花屋敷の門をくぐった。
懐かしかった。
風眼坊も若い頃は、この門を何度もくぐっていた。あの頃、『四天王』と持て囃されていた風眼坊たち四人は、武術だけでなく、遊びの方でも『四天王』と呼ばれる程、毎晩、派手に遊んでいたものだった。あの頃、風眼坊たちが遊んでいた店は、ほとんど無くなっていたが、ここ花屋敷は昔のまま残っていた。
花屋敷の女将は風眼坊の事を覚えていた。昔話に花を咲かせた後、豊次郎のいる部屋に案内された。
豊次郎は独りで酒を飲んでいた。
「女子(オナゴ)はどうした」と風眼坊は聞いた。
「逃げられた」
「情けないのう」
「逃げられたっていうのは嘘です。お稽古事があるんだそうです。それが終わったら、また、戻って来ます」
「そうか、いい女子か」
「まあね」
「先生、もう、出掛けるんですか」
「いや、まだじゃ。今晩、商人と会う手筈になっておる。話がうまくまとまれば、明日、帰る事となろう。まあ、今晩は、ここにいろ。ただ、余り飲み過ぎるなよ。話がまとまるにしろ、まとまらないにしろ、明日はここを出るからな」
「分かりました。先生は今、どこにおるんです、あの寺ですか」
「あそこは尼寺じゃ。男は泊まれん。わしも女子の所じゃ」
「何じゃ、先生も女子の所か。お楽しみってところですか」
「まあな。それじゃあ、明日、迎えに来るからな」
「話がうまく行くといいですね」
「ああ、そうじゃな」
風眼坊は花屋敷から出ると、さて、これからどこに行こうか、と考えた。
奈美の所に戻っても、奈美は今晩の準備のため、伊勢屋の方に行っていていないし、太郎も息子もいない山に登ってもしょうがないし、花養院にでも行って子供たちと遊ぶか、と花養院の方に向かっていた。不動町の盛り場の横を通った時、ちらっと『とんぼ』の親爺が見えたので、風眼坊は懐かしくなって『とんぼ』の方に足が向いた。
居酒屋『とんぼ』は開いていた。風眼坊は暖簾をくぐった。
「親爺、懐かしいのう」と風眼坊は声を掛けた。
「風眼坊か‥‥‥」と無口な親爺は言った。「懐かしいのう。一体、どうしたんじゃ」
「ちょっと、用があってのう」
「そうか‥‥‥懐かしいのう」
「いつも、こんな早くから、店をやってるのか」
「いや、今日は特別じゃ。今晩、忙しくなると思っての、ちょっと、仕込みをしておったんじゃよ」
「そうか、祭りの前の晩じゃからのう。昔、親爺にお世話になった者たちが、みんな、集まって来るというわけじゃな」
「まあ、そういう事じゃ。まだ、日は高いが、久し振りじゃ、まあ、一杯飲んで行け」
親爺は風眼坊に枡(マス)に入れた酒を出した。無口な親爺に似合わず、よく喋っていた。
「ここに最後に来たのは、いつだったかのう」風眼坊は懐かしそうに店の中を見回しながら聞いた。
「あれは、おぬしが弟子の太郎坊をこの山に連れて来た時じゃよ」
「おお、そうか。確か、栄意坊に高林坊も一緒だったのう」
「そうじゃよ。おぬしの弟子の太郎坊というのは大した男になったものよのう。さすが、おぬしじゃ。見る目が高いわ」
「ああ、わしも実際、驚いておるわ」
「わしは、ここに長い事おるが、おぬしたちの『四天王』とおぬしの弟子の『天狗太郎』は後々までも語り草になろうのう」
「太郎坊は、そんな有名になったのか」
「有名なんてもんじゃない。毎年、この山に来る若い者たちは、皆、太郎坊の『陰の術』を習いに来るんじゃよ。太郎坊が余りにも有名になりすぎての、おぬしの弟子は太郎坊を名乗れなくなって、火山坊と名乗っておったわ」
「ほう。火山坊か‥‥‥奴は、ここにもよく来たのか」
「一時は、毎日のように来ておったのう」
「毎日、来ておったのか」
「ああ。何があったのか知らんが、去年の今頃かのう。毎日、酔っ払っておったのう」
「奴が酔っ払っておった?」
「ああ。太郎坊でありながら、太郎坊を名乗れなかったのが、くやしかったのかのう。理由は知らんが毎日、酔っ払っておった。火山坊の評判もあまり、よくなかったのう。毎日、酒臭くて、あれでよく、剣術なんか教えていられるな、と陰口をたたかれておったわ」
「そんなひどかったのか」
「ああ、ひどかった。しかし、さすがに、十二月になって太郎坊に戻って、皆に陰の術を教えておる間は素面(シラフ)じゃった。陰の術が終わるとまた、酔っ払いに戻ったがのう」
「奴が酔っ払いじゃったとは信じられんのう」
「世の中、信じられん事が起こるもんじゃよ。その酔っ払いも大峯山に修行に行ったきり、まだ、帰って来んらしいのう」
「奴が大峯に行った?」
「ああ、大方、おぬしに会いに行ったんじゃなかったのか」
「奴が大峯に行ったのはいつの事じゃ」
「六月じゃったかのう」
「入れ違いじゃ。わしは五月に山を下りてしまった」
「そうじゃったのか。もしかしたら、まだ、おぬしの事を捜しておるのかも知れんのう」
「ああ、そうかも知れん。わしは一千日間、山の中に籠もると言って山を下りて来たからのう」
「可哀想な事じゃ。きっと、太郎坊は師匠のおぬしに相談したい事があったに違いない」
「そうかも知れんのう。奴が大峯まで来たとは知らんかったわ」
「あいつが何かを悩んでおった事は確かじゃよ」
「そうか‥‥‥悩んでおったか‥‥‥」
「大丈夫じゃ」と親爺は言った。「太郎坊は独りでも立ち直るよ」
「うむ。分かっておる」と風眼坊は頷いた。
「師匠が師匠じゃからのう。弟子も立派じゃ」
「親爺、ありがとうよ」
「何も礼を言われる筋はない」
「いや、太郎坊の事を見守ってくれた」
「わしは何もしとらん。太郎坊とも、ろくに口を聞いた事もないしな」
「いいんじゃ。親爺はただ見守ってくれておるだけでな。わしらが飲み歩いておる頃も親爺はあまり喋らなかった。しかし、親爺は何でも知っておった。それで、いいんじゃ‥‥‥太郎坊が酔っ払いじゃったか‥‥‥」
風眼坊は急に笑い出した。
「どうしたんじゃ」
「いや、何となく楽しくなってのう。わしも奴の噂はよく耳にしておった。しかし、悪い噂はなかった。人間、真面目だけでは大物にはなれん。どこか弱い所が無ければ駄目じゃ。奴が毎日、酔っ払っておったと聞いて、わしは嬉しいんじゃよ。奴はまだまだ伸びる。悩みながら、どんどん大きくなって行く。わしも負けてはおれん。奴に追い越されんようにせんとな」
「いいお弟子さんを持ったもんじゃのう。風眼坊は幸せ者じゃ」
「親爺にだけ言うがのう。太郎坊は今、播磨で、赤松家の武将になったよ」
「なに、赤松家の武将になった?」
「ああ。奴の嫁さんを知っとるか」
「いや、知らんが‥‥‥太郎坊には嫁さんがおったのか」
「いた。花養院にいた楓という娘じゃ」
「その娘なら知っておる。どこか、遠くの方に嫁に行き、また、戻って来たというのは聞いておったが、その娘の亭主が太郎坊だったのか」
「そうじゃ。その楓という娘が、なんと、赤松家のお屋形様の姉君でな、太郎と一緒に播磨に行って、今は、一城の主だと言うわ」
「ほう、そいつは、たまげたものよのう。あの娘が播磨の赤松家の娘だったとはのう‥‥」
「まったくじゃ」
「この事は親爺の胸だけにしまって置いてくれ」
「分かっておるわ。しかし、今年も、十二月には陰の術があるんじゃろう。太郎坊は来るのかのう」
「来る。太郎坊はきっと来るよ」
「うむ。わしも、その事は分かっておるつもりじゃ」
風眼坊は『とんぼ』の親爺と別れた。
太郎の別の面が分かってよかったと思った。あの太郎が、今の豊次郎のように酔っ払いだったとは驚きだった。風眼坊自身が、若い頃、酔っ払いだったので、酔っ払いの気持ちはよく分かっていた。
風眼坊は花養院には寄らずに奈美の家に帰った。
もう、日が暮れ掛かっていた。
6
客間の床の間に山水の掛軸が掛かっていた。
その前に、秋の花が綺麗に生けられてあり、香まで焚かれてあった。
村田珠光が弟子の倫勧坊と一緒に、お茶会の準備をしていた。
珠光は頭を丸め、一見した所、禅僧のように見えるが、着ている着物は俗人と同じだった。奈美の話によると、以前は、一休禅師の弟子で、休心珠光という禅僧だったが、茶の湯の道に生きる覚悟を決めて、還俗(ゲンゾク)したのだと言う。
居間の方では、風眼坊と奈美、三人の小野屋の主人とで商談が始まっていた。
風眼坊の話を聞き終わると、三人の小野屋の主人は奈美の方を見て、小さく頷いた。
風眼坊が奈美の方を見ると、奈美は、ただ、笑っているだけだった。
「何とか、致しましょう」と堺から来た小野屋伝兵衛が言った。
「本当ですか」と風眼坊は聞いた。
「はい。ただし、少々、時間が掛かりますが」
「どの位ですか」
「そうですね。一月近くは掛かると思います」
「一月位なら結構です。お願い致します。もしかしたら、今、堺に在庫があるのですか」
「はい。刀が二千本、それと、槍が三千本程ございます。ただ、刀身だけです。これに拵(コシラ)えをしなければなりませんので、少々、時間が掛かるというわけです」
「あと五千本は集まりますか」
「長兵衛殿の所には、どれ程ありますか」と奈美は聞いた。
「まあ、刀が五百本、槍が一千本、薙刀(ナギナタ)が二百本というところでしょうか」と奈良の小野屋の主人は言った。
「善兵衛殿の所は?」
「はい。わたしの所は、それ程ありません。刀が二百本と言うところでしょうか。ただ、刀の柄(ツカ)に巻く組紐は充分にあります」と伊賀上野の小野屋の主人は言った。
「あとは、堺中の納屋(ナヤ、倉庫)を捜せば、何とかなるでしょう。それでも足りなければ、播磨から取り寄せます」と伝兵衛は言った。
「弓矢の矢の方はどうです」と風眼坊は聞いた。
「それは、長兵衛殿が何とかするでしょう」と伝兵衛は言った。
「はい。三万本程でいかがですかな」と長兵衛は言った。
「三万本ですか‥‥‥三万本もあれば何とかなるでしょう。しかし、そんなにも集められるのですか」
「いえ、今、蔵の中で眠っておりますよ」
「えっ、蔵の中に? という事は、手元にあると言う事ですか」
「はい。ございます」
「凄いもんじゃのう。いつも、そんなに武器の在庫があるのですか」
「いえ、これは、女将の命によって集めたものです」
「奈美殿の命令で?」
「一戦をしようと思ってね」と奈美は笑った。
「女将は、楓殿のために小野屋の全財産を賭けて、戦をする覚悟だったのです」と長兵衛は言った。
「赤松家を相手に戦か‥‥‥」と風眼坊は奈美の顔をまじまじと見た。
「もしもの時はね」と言って、奈美は笑った。
「成程、それで武器を蓄えておったという事か‥‥‥それにしても、三万本もの矢をよく集めましたね」
「皆、興福寺から流れて来るんですよ。珠光殿のお弟子さんの倫勧坊殿も何本か、協力してくれました」
倫勧坊は今、隣の部屋で、珠光の手伝いをしていた。丁度、太郎と同じ位の年の奈良興福寺の衆徒で、勇ましい僧兵だった。
「しかし、三万本とは凄いものですね」と風眼坊は感心した。「一体、どうやって、そんなにも集めたのですか」
「矢で銭を貸したわけです。今回の戦で、興福寺も数多くの荘園を横領されました。内情はかなり苦しいようです。上の者たちは、それでも、結構、贅沢しておりますが、下っ端の神人(ジニン)あたりは食うのもやっとの有り様です。その下級神人たちが作っておるのが弓矢の矢です。わたしは彼らのために、その矢を質として銭を貸したわけです。初めのうちは皆、ほんの数本を持って来て、銭に替えて行きましたが、そのうちに、だんだんと数が増えて行き、終いには、車に山積みにした矢を持って来る者まで現れましたよ。それで、今では三万本もの矢が蔵の中で眠っておるというわけです」
「成程のう。溜まるもんじゃのう」
「風眼坊殿、よかったですね」と奈美は言った。
「ああ、まさか、こんなにもうまい具合に事が運ぶとは思ってもおらんかったわ」
「風眼坊殿、こちらこそ、お礼を言わなければなりませんよ」と長兵衛は言った。「矢の事なんですがね。三万本もの矢をどうしようかと考えておった所なんですよ。女将に言われて集めましたが、楓殿も無事、赤松家に迎えられましたし、処分しなければならなかったんですが、興福寺で作った矢を興福寺に無断で売りさばくわけにもいかず、困っておったところなんですよ」
「加賀辺りなら大丈夫というわけですか」
「加賀というより本願寺だから安心なのです」
「どういう事です」
「興福寺は今回の戦で、東軍にも西軍にも属さず中立でおります。そして、矢をどちらの軍にも売っておるわけです。早い話が、どこの陣にも興福寺から矢を売りに来ている者がおると言う事です。そんな所に、わしらが興福寺の矢を売りに行けば、すぐに、興福寺にばれてしまいます。興福寺は座を組織して、矢の製造販売をしております。座に入っておらん者が、その取り引きをやれば、たちまちに興福寺の衆徒に襲われる事になります。その点、本願寺はまだ、興福寺と取り引きはしておらんでしょう。興福寺に見つかる心配はないと言うわけです」
「成程のう。商売というのも、なかなか難しいもんじゃのう」
「お陰様で、蔵が空き、他の物を仕入れる事ができます」
「皆さん、仕事の話はこれでお終いね。そろそろ、お茶会の方の準備もできる頃でしょう」
一汁三菜の会席料理が並び、お茶会が始まった。
お茶会の席では、宗教や政治、愚痴や人の悪口、仕事に関する事など俗世間の事を話すのは禁じられていた。小野屋の主人たちは、明日から始まる信楽の市の事を話し、珠光から陶器の事を聞いていた。風眼坊はみんなの話にはついて行けなかった。陶器など、まったく興味がなく、話を聞いていても何の事を言っているのか全然、分からなかった。そんな風眼坊を見ながら、奈美は時々、笑っていた。
食事が終わると皆、席を立ち、隣の部屋へと移った。
囲炉裏には炭が入り、湯が沸いていた。それぞれが席に着くと、珠光の弟子、倫勧坊によって茶菓子が配られ、珠光によってお茶が点てられた。
風眼坊は珠光の細かい動作を注目していた。珠光の動きには一分の隙もなかった。まるで、能を演じているかのように、お茶を点てる動きに無駄がなかった。座敷の中に、ある種の緊張感が漂っていた。皆、珠光の動きに注目していた。
やがて、珠光の点てたお茶が倫勧坊によって、各自に配られた。
風眼坊も一期一会の覚悟で、珠光の点てたお茶に挑んだ。
風眼坊にしても、お茶会に出るのは初めてではなかったが、お茶会に出て、これ程、緊張した事はなかった。そして、目の前で、お茶を点てているのを見るのも初めてだった。普通、お茶は別の部屋で点てられて運ばれて来るものだった。しかし、客の見守る中、鮮やかな手捌(テサバ)きで、珠光はお茶を点てていた。
珠光が点てたお茶を飲むのは、これが最初で最後の事に違いないと風眼坊は真剣な気持ちになって、お茶を飲んでいた。
村田珠光は将軍義政の茶の湯の師匠だった。当時、珠光の始めた『佗(ワ)び茶』を心得ている者は、京や奈良に住む上流の武士や裕福な商人たちに限られていたが、茶の湯を嗜む誰もが、珠光の名を知っており、彼らにとって珠光は神様ともいえる程の存在であった。風眼坊も珠光の名は噂によって耳にしていた。
珠光以前の茶の湯は、多分に娯楽と賭博(トバク)の要素を含んでいた。『闘茶(トウチャ)』と呼ばれ、何種類かのお茶を飲み、そのお茶を飲み比べて勝ち負けを決める遊びの一種だった。その闘茶は一般庶民の間にまで広まり、庶民たちもささやかな物を賭けて盛んに行なわれていた。その闘茶から娯楽と賭博の要素を抜き、様式的にまとめたのが将軍義政の同朋衆(ドウボウシュウ)の一人、能阿弥(ノウアミ)だった。
闘茶には座敷飾りというのが、まず基本だった。それは庶民たちによるお茶会においても、ささやかながら押板(オシイタ、現在の床の間の原形)の上に花を飾り、壁には掛軸を飾っていた。その座敷飾りを細かく検討して様式化したのが能阿弥だった。能阿弥は将軍家が代々蒐集して来た唐物(カラモノ)の絵画や陶器などを評価し、それぞれの持っている価値を決め、『君台観左右帳記(クンタイカンソウチョウキ)』を著した。日本で初めての鑑定書だった。この鑑定書を基準として、後に名物と呼ばれる数々の茶道具が生まれる事となった。
能阿弥から目利き(鑑定)と立花(リッカ、生け花)を学び、能阿弥による華やかな書院の茶の湯に、禅による精神を取り入れ、四畳半の座敷による『佗び茶』と呼ばれる茶の湯を完成させたのが、珠光であった。
能阿弥の書院の茶の湯は、床飾りや茶道具を目利きし、座敷飾りの様式を完成させた。しかし、お茶は別室で点てられ、客たちの待つ座敷に運ばれていた。珠光は飾り付けのされた、その座敷内で、客の見ている前でお茶を点てる事を始めた。ここに現代の茶道における、亭主が客を持て成す接待の基本というものが出来上がった。
お茶会を開く亭主は、客を綺麗に飾り立てた座敷に案内し、客の心を和らげ、茶菓子を出して、客の見ている前で、少しの無駄のない鮮やかな手捌きでお茶を点てる。客は、床の間の飾り付けや生け花などに亭主の気配りを感じ、亭主の点てたお茶を静かに飲む。
能の世界と同様に、為手(シテ、演ずる者)と見手(観客)が一体感となる世界が、座敷を舞台として演じられ、そこに、日常とは違う緊張感が生まれた。その緊張感を高めるため、珠光は広い書院より四畳半の狭い部屋がいいと強調し、また、飾り付けも所持している物をごてごてと並べて飾るのではなく、禅に通じる『佗び』を主張した。
将軍義政は珠光より、客の見ている前でお茶を点てるという、まったく新しいやり方を教わって熱中した。将軍でありながら、何もかもが自分の思うようにならない事に嫌気が差していた義政に取って、自らが皆の前でお茶を点てて、大名たちに、そのお茶を飲ませるという事は、少なくとも、その場を自分が仕切っているという気分が味わえた。
義政の場合は客を持て成すというよりも、将軍様がじきじきに点てたお茶を飲ませてやる、有り難いと思って飲め、という気分が多分に含まれていたが、義政によって、珠光の考えた茶の湯は大名たちの間に、あっと言う間に流行って行った。
大名たちにとって、将軍様に招待されて、将軍様が自ら点てたお茶を飲むというのは名誉ある有り難い事だった。大名たちは自分がそう感じたのだから、部下の武将たちに、お茶を点てて飲ませてやれば、部下たちも感激して、益々、忠誠を尽くすに違いないと誰もが思った。武士たちの間に茶の湯は流行って行った。武士たちの間に流行れば、茶の湯に必要な茶道具を提供する側の商人たちに流行らないはずはなかった。応仁の乱という、京の都がほとんど焼けてしまった戦の最中でも、上流の武士たちの間では暇さえあれば、お茶会が行なわれていた。
ただ、当時はまだ、たとえ、お茶会とはいえ、武士の世界において、将軍と大名たちが同座するという事は考えられなかった。将軍は、たとえ、お茶会の席でも上段の間にいなければならない。お茶会の場が広い書院から四畳半に移ったとしても、畳一枚分は上段の間として、将軍が坐り、そこでお茶を点てていた。その形が、そのまま、町人たちの間にも伝わり、茶室における床の間となって行った。
当時、武家屋敷の書院の上段の間には床の間、違棚(チガイダナ)、付書院などが付き、茶室の原型はあったが、書院の中にある床の間は、後の茶室の床の間のように畳一枚分の広さはなかった。幅はその書院の作りによって様々だったが、せいぜい二尺位で板の間だった。それは押板から発達した床の間だったため、飾り物が置ければよく、畳程の幅は必要なかった。その書院作りが町人に伝わる事によって、押板風の床の間と上段の間が一緒になり、畳一枚分の床の間に変化して行った。町人たちは、その畳一枚の上段に高価な唐物の陶器や磁器を飾った。その唐物は、町人たちに取っては将軍様と同じように権威の象徴だった。
やがて、町人たちによって、茶の湯は益々、発達して行き、茶室が日常とはまったく違った、俗界と切り放された特殊な世界という観念が出来上がって来ると、その座敷内では身分というものは無くなり、ただの亭主と客という間柄だけとなった。武士の世界においても、茶室から上段の間は消え、畳一枚分の床の間が残る事となった。後の千利休の時代になると、茶室が三畳、二畳と小さくなって行き、床の間も小さくなって行くが、畳一枚分の広さの床の間は、後の世まで座敷飾りの基本として残って行った。
珠光は応仁の乱が始まって、しばらくすると戦乱を避けて奈良に帰った。奈良において、武士や興福寺の僧や商人たちに茶の湯の指導をしたり、堺にも出掛けて行って、正当な茶の湯を広めていた。今回、小野屋の主人たちと一緒にこの地に来たのは、やはり、信楽の陶器市を見るためだった。茶の湯といえば唐物中心だった中に、珠光が信楽の陶器を高く評価したため、信楽焼きの人気は年々高くなって行った。
奈美の屋敷で行なわれたお茶会も、珠光の考え出した『佗び茶』と呼ばれるものだった。
濃茶の後に薄茶が配られると、張り詰めていた雰囲気から和やかな雰囲気へと変わって行った。小野屋の主人たちは陶器の話から掛物の話へと移っていた。風眼坊は、みんなの話をただ黙って聞いていた。
薄茶を飲み終わり、話も一段落すると、「そろそろ、宴会の用意を致しますから、すみませんけど、お庭の方にでも出ていて下さいな」と奈美は言った。
客たちは皆、部屋から追い出されて庭へと下りた。
珠光が風眼坊に近づいて来て、声を掛けて来た。
「風眼坊殿は、お医者様だそうですね」
「はい、一応は」
「ところで、風眼坊殿、蓮如上人殿はお元気ですか」
「はい。もう、元気なんてもんじゃないですよ。戦をやっておるというのに、じっとしておられなくて、あっちに行ったり、こっちに行ったり、忙しく動き回っておられます。今は本泉寺の庭園を造ると言って、張り切って土いじりをしておりますよ。珠光殿は蓮如殿を御存じでしたか」
「いえ、会った事はありませんが、上人殿の噂はよく耳にします。わたしの禅の師匠は一休禅師ですが、よく、上人殿の事をお話になります。一休禅師が認めておる程の人ですから、一度、会いたいと思っておりますが、越前はちょっと遠いですからね」
「そうですか。珠光殿は一休禅師殿のお弟子さんでしたか、わたしも蓮如殿から、一休殿の噂はよく聞いております」
「そうですか、上人殿も噂しておりましたか。お互いに、会ったのはたった一度だけだったそうですけど、一度だけの出会いでも、お互いに分かり合えると言う事もあるのですね」
「一度しか、会ってなかったのですか」
「ええ、らしいです」
「そうだったのですか、蓮如殿が一休殿の話をする時は、いつも楽しそうです」
「一休殿もそうですよ」
「不思議なものですな‥‥‥ところで、珠光殿は越前の曾我蛇足(ジャソク)という絵師を御存じでしょうか」
「蛇足殿、知っておりますとも、共に一休殿のもとで禅を組んだ仲です」
「やはり、そうでしたか」
「風眼坊殿は蛇足殿を御存じですか」
「はい。一度、一緒に飲んだだけですが、なかなかの人物だと思いました」
「蛇足殿の絵は一流です。わたしも公方様のもとで、名画と呼ばれる絵を何枚も見ましたが、蛇足殿の絵は、それらの名画に勝るとも劣る事はないでしょう」
「絵の方は、まだ見た事はないので何とも言えませんが、あの人なら、それ位の絵は描きそうですね」
「それにしても、こんな所で、蛇足殿を知っておる御仁に会えるとは思ってもおらなかったわ。奇遇ですな」
珠光と風眼坊は話に弾んでいた。
やがて、奈美が用意ができたと呼んだ。
皆は宴会の用意の整った客間に上がった。
昨日も御馳走だったが、今日の御馳走は物凄かった。珍味といわれる品々が並び、新鮮な海の幸が並んでいた。風眼坊は商人としての奈美の実力をまざまざと見せつけられたような気がした。
全員が席に着くと、隣の部屋から音楽が流れ始め、金勝座の舞姫たちが現れた。
客たちは拍手で迎え、舞姫たちは華麗に舞った。
曲舞(クセマイ)が終わると、一座によって『楓御料人物語』が上演された。皆、酒を飲むのも忘れて金勝座の演じる狂言芝居に熱中していた。風眼坊も例外ではなかった。まさか、太郎と楓の話を芝居にして演じるとは思ってもいない事だった。
金勝座は一通り、演じ終わると宴会に加わった。
賑やかな宴会は夜更けまで続いた。
15.蓮台寺城1
1
いつの間にか、雁(カリ)の飛ぶ季節となっていた。
山々の樹木は色づき始め、朝夕はめっきりと肌寒くなって来た。
紅葉に映える山の中を、風眼坊は休む暇もなく、本泉寺に向かっていた。
甲賀に行った風眼坊と豊次郎は、小野屋の手代、平蔵と新八の二人を連れて、吉崎に戻って来た。とりあえず、豊次郎と手代二人を蓮崇の多屋に預け、風眼坊は抜け穴を通って御坊に顔を出した。蓮如の妻、如勝に会うと、蓮如を二十五日の講までに戻してくれと頼まれた。今日は十八日だった。ゆっくりしている暇はなかった。風眼坊はすぐに、その足で本泉寺へと向かった。
途中、大勢の本願寺門徒が待機している野々市の守護所に寄って蓮崇と会い、蓮崇と共に馬に乗って本泉寺に向かった。本泉寺に着いたのは二十日の日暮れ時だった。
西の空が今回の戦で流れた出た血のように真っ赤に染まっていた。
蓮崇はあまりにも早い、風眼坊の帰りに驚き、また、武器が何とかなりそうだと聞くと、なお一層、驚いた。武器が手に入るのは早くても二ケ月は掛かるだろうと覚悟していた。
籠城戦に入って、もうすぐ一月になり、蓮台寺城を囲んでいる門徒たちの間に厭戦(エンセン)気分が現れ出ていた。彼らは正式な武士ではないので、何もしないで、ただ敵を囲んでいるという事が、よく理解できず、辛抱できなかった。何もしないで、こんな所にいるのなら、さっさと帰って仕事をした方がずっとましだと思っている。せっかく実った稲は、すべて刈り取られ、兵糧米として取り上げられてしまい、戦が終わったとしても、この先、どうしたらいいのだ、という不安を誰もが感じていた。その不安は戦の士気にも影響して来た。
蓮崇は武器の事は諦め、犠牲者がかなり出る事を覚悟して、早いうちに総攻撃を掛け、戦を終わらせなければならないと考えていた。しかし、風眼坊から、武器が十月の中頃までには着くだろうと言われ、それまで待ってみる事にした。
風眼坊、蓮崇、蓮如、お雪、十郎の一行は舟で森下川を下って日本海に出ると、大型の船に乗り換え、海路、吉崎に向かった。
二十四日の晩には無事に吉崎御坊に戻り、蓮如は書斎に籠もり、蓮崇は小野屋の手代と会っていた。お雪は如勝を手伝い、明日の講の準備に忙しく働き、十郎は長い船旅に疲れて気分が悪いと休んでいる。風眼坊は蓮如の書斎の隣の部屋に控えていたが、風眼坊もいささか船旅に疲れていた。やはり、海よりも山の方が風眼坊には合っていた。
籠城戦に入って一月が過ぎていた。
包囲している本願寺方は何もしないで、ただ包囲していただけではなかった。やるべき事は充分にしていた。まず、倉月庄の郷士たちによる寝返り作戦は順調に進み、北加賀の国人や郷士たちは、ほとんど蓮台寺城を抜け出して本願寺門徒となっていた。
七月の末の決戦の時は三万近くの兵がいた蓮台寺城も惨めなもので、今は一万余りに減っていた。囲む次郎、本願寺連合軍は五万人を越していた。確かに、兵力には問題なかったが、一つの城を落とすのは、そう簡単にできるものではなかった。挑発して外におびき出して戦おうと試みたが、敵は矢を射るのみで外に出て来ようとはしなかった。また、金掘り衆を使って、穴を掘って城に潜入し、敵の兵糧米を燃やしてしまおうとも考えたが、この辺りは地盤が緩く、穴を掘っても、すぐに崩れてしまった。
籠城する敵方は、寝返り者が続出しているとはいえ、残っている者たちは団結を固め、後詰(ゴヅ)めが来る事を信じ、士気が落ちているようには見えなかった。
二十五日の講が過ぎると、次の日に蓮如は本泉寺に戻ろうと言い出した。
「また、庭園造りですか」と風眼坊は聞いた。
「やはり、まずいかのう」と蓮如は覗くように風眼坊の顔色を窺った。
「蓮如殿が本泉寺で庭園を造っておる事は、ほんの数人しか知りませんから大丈夫だとは思いますが、そう、ちょくちょく出歩かれたのでは、ここを守っておる近江の門徒たちに悪いような気がして‥‥‥」
「そうじゃのう。わざわざ近江から、わしを守るために来ておるのに、わしがここにおらんのではのう」
「せめて、今月一杯は、ここにいましょう」と風眼坊は言った。
「ほんとか、来月になったら行ってくれるか」
「ええ、どうせ、その頃になれば、お雪や十郎が騒ぎ出すでしょうから」
「そうしてくれるか、ありがたい‥‥‥ところで、戦の事じゃが、まだ、終わりそうもないのか」
「はい。籠城戦というのは長引くものです。力攻めをして落とせない事もないでしょうが、かなりの犠牲者が出てしまいます」
「どの位じゃ」
「力攻めしたとしてですか」
「ああ」
「そうですね。一万は出るでしょうね」
「一万もか‥‥‥」
「下手をすれば、それ以上出るかも知れません。力攻めの場合、一気に大軍を以て総攻撃を掛けます。敵が矢を放って来ようとも、構わず前進しなければなりません。逃げようにも、後ろからは味方がどんどん来ますから前に進むしかないのです。そして、味方がやられても、その味方を乗り越えながら前進するのです。確かに敵の数倍の兵力があれば、その作戦は成功して勝利を収めるでしょう。しかし、一万人の敵を倒すのに、一万人以上の犠牲者を出したのでは勝利とは言えません」
「ひどいのう。絶対にそんな事はしてはいかん。風眼坊殿、蓮崇に、力攻めはいかん、と言って来てくれ」
「大丈夫です。蓮崇殿はそこの所は充分に分かっております」
「そうか‥‥‥それじゃあ、やはり、敵の兵糧が無くなるまで待つのか」
「そんな、悠長な事もしてられません。敵の様子からして兵糧米はたっぷりあるでしょう。そして、多分、敵は雪の降るのを待っておるのでしょう」
「雪?」
「ええ、そうです。雪が降って寒くなれば、長く陣を敷いておられません。包囲網を解いて、兵力を分散させなくてはならなくなります。一度、分散してしまったら、もう終わりです。今のように門徒たちを集める事ができなくなります」
「どうしてじゃ」
「大義名分がなくなるからです。それは蓮如殿が一番御存じのはずです。今回の戦の敵は富樫幸千代ではありません。高田派門徒です。確かに蓮台寺城に高田派門徒は籠もっております。しかし、すでに高田派の寺院は本願寺門徒によって破壊され、彼らの拠点とする場所はありません。蓮如殿は、富樫幸千代を倒せと、門徒たちに命ずる事はできますか」
「いや、それはできん」
「蓮如殿が命じなければ、今回のように門徒たちは動きません。ばらばらになった門徒たちは幸千代に攻められるでしょう」
「雪が降る前に、あの城を落とさなければならんのか‥‥‥」
「はい。後一ケ月ちょっと、というところでしょうか」
「何か、いい手はないのか」
「色々と作戦を考え、やっておるようですが、うまく行かないようです」
「そうか‥‥‥雪の降る前に何とかせんとな‥‥‥敵はそんなにも兵糧米を溜め込んでおったのか‥‥‥」
「寝返りをして、あの城から出て来た者の話を聞くと、飯だけは毎日、腹一杯食ったというから相当あるんでしょう。それに寝返り者が続出して、一時は三万近くもおったのに、今は一万余りですからね。三倍は食いつなげます」
「そうか‥‥‥敵の兵力は減ったが、それが逆に、敵の籠城を伸ばす事になったのか」
「そういう事です」
「いっその事、ねずみが敵の兵糧米をみんな食ってくれればいいのにのう」
「そうですね。ねずみの大軍でも敵の城に攻め込ませますか」と風眼坊は笑った。
風眼坊は笑ったが、蓮如は真面目な顔をして風眼坊を見ていた。
風眼坊は蓮如の前から去ると、十郎と交替して庫裏の客間に戻った。
通り掛かりに、お雪の部屋を覗くと、お雪がぼうっとして坐り込んでいた。
「どうした、疲れたのか」と風眼坊は声を掛けた。
「えっ?」と振り返るとお雪は笑って、首を振った。
「先生、戦はいつになったら終わるのでしょう」
「雪が降る頃には終わるさ」
「雪? そうね。もうすぐ、雪が降るのね‥‥‥」
「本泉寺にいた孤児たちの事を考えておったのか」
「えっ、いえ‥‥‥先生は戦が終わったら、ここから出て行くのですか」
「うむ、分からんのう。しかし、そうも行くまい」
「どうしてです」
「入っても構わんかな」
「はい。どうぞ」
風眼坊はお雪の部屋に入ると縁側に行って腰を下ろした。
数人の坊主が荷物を担いで裏門から入って来るのが見えた。その裏門から七曲と呼ばれる坂道を降りて行くと南門があり、そこは北潟湖に面した船着き場だった。以前は、一般門徒もその船着き場を利用していたが、直接、本坊につながっているため、一般門徒の使用は禁じられ、主に、本坊で使用する物資類を運ぶ時だけ利用されていた。一般門徒の船着き場は新たに門前町の方に作られ、門徒たちは門前町を通り、北門をくぐって表の山門から入らなければならなかった。
「戦の後というのは物騒でのう」と風眼坊は言った。「戦が終わったからといって、すぐに元には戻らんのじゃよ。医者として負傷者の手当もしなければならんしのう」
「それじゃあ、まだ、当分はここにいるのですね」
「ああ、多分な。お雪はどうする。これからの事は決まったのか」
「いえ。あの、あたしは先生のお手伝いをして負傷者の手当をします」
「おう、そうか。そうして貰えると助かるわ」
「先生は本願寺の門徒さんにはならないのですか」
「わしか‥‥‥わしはならん。お雪はなるのか」
お雪は首を振った。「ただ、裏方様に、ならないかって言われているの」
「なればいい。蓮如殿の教えは素晴らしい教えじゃ。門徒になって損はないぞ」
「それじゃあ、先生はどうして、ならないのですか」
「わしは長い事、山伏をやって来たからの、みんなで集まって何だかんだするのは、どうも性に合わんのじゃ」
「あたしもそうかもしれない」
「そんな事はない。蓮如殿から聞いたぞ。本泉寺で子供たちの面倒をよく見ておったそうじゃないか」
「そんな、ただ、あそこには負傷者がいなかったから、子供たちの面倒を見ていただけです」
「まあ、いい。自分で決めればいい。わしは少し昼寝するわ」
風眼坊は隣の部屋に帰った。
お雪は、また、ぼうっとして外を見ていた。
以前は綺麗な景色が見えたのに、今は高く土塁が築かれ、ここからは景色が見えなかった。
お雪は一人になると、いつも、不安に駆られていた。今までは親の仇討ち一筋に生きていたため、自分の事など考えた事もなかったが、仇討ちの事をすっかり忘れた今は、この先、どうやって生きて行ったらいいのか分からず、不安だった。叔母の智春尼は蓮如に帰依(キエ)して、禅宗から改宗して本願寺の尼僧となり、生き生きとしていた。今まで色々と迷惑の掛け通しだったので、もう、これ以上、叔母を頼るわけにも行かず、今、お雪が頼れるのは風眼坊ただ一人だった。その風眼坊はお雪の事を自分の娘のように見るだけで、一人の女として見てくれなかった。確かに年齢は倍以上も離れているが、お雪は風眼坊の事を一人の男として見ていた。風眼坊にどう思われようとも、お雪はこの先、風眼坊に付いて行こうと決めた。風眼坊がこの加賀の国から出て行く時は、何と言われようとも一緒に行こうと決心した。
十月になって、風眼坊は蓮如たちを連れて、また、本泉寺に来ていた。蓮崇も一緒だったため、今回は避難という形で、堂々と蓮如のままで海路を通って来た。
小野屋との武器の取り引きの話はうまく行き、十月の十日前後には、第一陣が本泉寺に着く手筈になっていた。
蓮崇は本泉寺に戻ると、休む間もなく、豊次郎と一緒に野々市の守護所に出掛け、数日後に一隊の兵を引き連れて戻って来た。
蓮如は十郎と一緒に庭園造りに励み、お雪は孤児たちの面倒を見ていた。風眼坊だけは、ここに来てもやる事がなく、庭園造りを手伝ったり、お雪の所に行って、子供たちと遊んだり、毎日、ブラブラと暮らしていた。
戦の方の変化はあまりなかった。ただ、敵が城から出て来る気配がまったくないので、包囲網は縮まり、完全に、蓮台寺城の周囲は本願寺門徒の大きな輪によって囲まれた。厭戦気分になっている兵の士気を高めるため、大規模な土木工事を行い、濠を掘り、土塁を築き、蓮台寺城は長大な土塁に囲まれているという状況となっていた。
また、国境を守っている河北郡の門徒たちの連絡によると、越中の方で、加賀に進攻して来そうな動きがあるというので、守りを固めるため、野々市の守護所に待機していた兵一千人余りを湯涌谷(ユワクダニ)の石黒孫左衛門が率いて、越中の国、砺波(トナミ)郡井波の瑞泉寺(ズイセンジ)に向かわせた。越中の門徒たちの指揮をしていたのは蓮乗だった。蓮乗は一軍の大将として、甲冑に身を固め、馬に乗って颯爽と走り回っているという。
冷たい雨が降っていた。
朝晩の冷え込みも厳しくなり、徐々に寒さが増していた。
庭園造りができず、蓮如は部屋に籠もって何かを書いていた。十郎は雨に感謝して、ゆっくりと体を伸ばして休んでいた。蓮如のお陰で腰が痛くてしょうがなかった。十郎は、このまま、二、三日、雨が振り続いてくれたらいいと願っていた。お雪の方は雨が降ろうと関係なく、子供たちの世話に忙しかった。
風眼坊は下間玄信の多屋で蓮崇と会っていた。
「蓮崇殿、慶覚坊の奴は、今、どこにおるんじゃ」と風眼坊は聞いた。
「慶覚坊殿は本蓮寺と松岡寺の間にある山の上におります。山の上から蓮台寺城を睨んでおりますよ」
「ほう、あの上におるのか‥‥‥で、蓮台寺城は落ちそうか」
「難しい。しかし、今月中には何とかせんと‥‥‥」
「策はあるのか」
「ある。あるが誰かが死ぬ事になります」
「誰か、というのは有力門徒の誰かがか」
「そうです。総攻撃を掛けるには、ただ、外から攻めただけでは犠牲者を多く出し、落城まで漕ぎ付けるかどうか難しい。もし、失敗してしまえば、門徒たちの間に不安と恐れが残り、士気は低下してしまう。絶対に成功させるには城の中に誰かを潜入させて、城内を混乱させ、それと同時に外から総攻撃を掛けて一気に潰すしかない。ただ、その作戦だと、城内に潜入した者たちは全員、死ぬ事となるでしょう」
「うむ。最小限の犠牲者で城を落とすには、その方法しかあるまいのう。しかし、今、城内に入るのは難しいじゃろう。七月頃なら、各地から逃げて来た高田派門徒を城内に簡単に入れておったようじゃが、今となると難しいんじゃないかのう」
「はい。確かに難しい事です。しかし、籠城に入って、すでに一月半、敵も疲れと油断が出て来ておると思います。大手口の方から夜襲を掛けると見せかけて、搦手(カラメテ)から潜入させようと考えております」
「夜襲か‥‥‥」
「はい。松明(タイマツ)を持たせた兵を大手口に攻め寄せます。そして、城内に火矢を射続けます。その隙に搦手から百人程の兵を潜入させ、城内に火を点けて回ります。城内から火の手が上がったら、城の四方より総攻撃を掛けます。どうでしょう、この作戦は」
「うむ、搦手の百人は死ぬ覚悟で行くわけじゃな」
蓮崇は厳しい顔付きで頷いた。
「城内から火の手が上がらなかったら、この作戦は中止というわけか」
「はい。また、やり直しです。しかし、かなりの矢を損失する事になるので、やり直しが効くのも一回だけでしょう」
「ふーむ。決行は夜明け前じゃな」
「はい」
「搦手の百人を率いるのが誰か、というのが問題となるわけじゃな」
「そうです。武器が到着次第、わしは松岡寺に行くつもりです。そこで皆を集めて戦評定を行ない、この作戦を告げます。もし、誰もおらなかったら、わしが行くつもりです」
「蓮崇殿が行くのか」
「はい。どうせ、あの時、死ぬ覚悟をしました。あの時に比べたら今回の死は立派な討ち死にです‥‥‥雪が降る前に何とかしないと、せっかく、ここまで来た事が無意味になってしまいます」
風眼坊は蓮崇の顔を見ながら、「富樫次郎の武将にやらせたらどうじゃ」と聞いた。
蓮崇は首を振った。「先の事を考えると、これは本願寺門徒がやらなければなりません」
「今回の戦は本願寺門徒のお陰で勝てた、という恩をきせるわけか」
「そうです。次郎が改めて守護に収まったとしても、この加賀の国を次郎の思い通りにはさせません」
「今回の戦が終わったら、今度は、次郎を相手に戦をするというのか」
「多分。きっと、そういう成り行きになるでしょう。この先、守護と本願寺がうまく行くとは思えません」
「しかし、わしが思うには、蓮如殿は、守護を倒せ、とは絶対に言わんぞ」
「わしもそう思います」
「守護と戦うという事は、幕府も敵に回すという事じゃ。何があっても蓮如殿がそんな事はさせまい」
「分かっております。しかし、この戦に勝ってしまえば門徒たちの心構えも変わって来ます。わしは、門徒たちは守護と対立する方向に向かって行くと思います」
「うむ、それも確かじゃ。この戦に勝てば門徒たちは力を合わせれば何でもできると思うに違いない。武士を武士とも思わなくなって行くじゃろう」
「そして、それは、たとえ、上人様といえども止める事はできないでしょう」
「蓮如殿は益々、辛い立場に追い込まれる事になるのう」
「時の流れです。時の勢いというものは、決して止める事はできません」
「確かにのう。時の勢いか‥‥‥」
「今、時代は早い速さで変わりつつあります」
「時代は変わるか‥‥‥ところで、豊次郎の奴はどこに行ったんじゃ」
「ああ、あいつは今、寝返った者たちを連れて、次郎のいる軽海の守護所に行きました。門徒になったとはいえ、武士ですからね。やはり、守護職の次郎の存在は無視できないのでしょう」
「そうか、軽海に行ったか‥‥‥武士は恩賞がないと動かんからのう。本領は、すでに本願寺によって安堵されたので、新たな恩賞目当てに、次郎のもとに駈け付けたというわけか、奴らもやる事はやるのう」
「そういうものですか」
「奴らは本願寺門徒であり、次郎の被官となるわけじゃのう。戦が終わった後、苦しい立場に追い込まれる事になりそうじゃ」
「ええ。特に豊次郎は苦しくなるでしょう」
「まあ、奴の事じゃから、うまい事やって行くとは思うがの。それより、わしには、あれだけ大勢の門徒たちが戦に参加しておるというのが、よく分からんが、門徒たちは戦をして何の得があるんじゃ」
「そこの所なんです、問題は」と蓮崇は言った。「初めのうちは高田派門徒に攻められておる松岡寺を救うために、皆、勇んで戦に出て行きました。憎き高田派を倒せ、と意気が揚がっておりました。誰もが損得など考えず、ただ、本願寺のためにと戦っておりました。ところが、こう戦が長引くと、だんだんと何のために戦をしておるのか分からなくなって来てしまっておるんです。今回の戦に勝って、一番、得するのは富樫次郎ですからね。武士の家督争いに、何で、本願寺が戦わなければならないのだ、と思う連中も出て来ております。かと言って、今更、本願寺が手を引くわけにも行きません。早いうちに、何とか、けりをつけなければ‥‥‥」
「そうじゃのう。しかし、よく、門徒たちは戦陣から抜け出さんのう」
「戦陣から抜け出したら、生きて行けなくなるからです」
「生きて行けなくなる?」
「はい。門徒として生きて行けなくなるのです。戦が終わってから村八分にされ、後ろ指さされ、村から出て行かなくてはなりません」
「破門か」
「いえ、正式に破門されるわけではありませんが同じ事です」
「成程のう。それは厳しいのう。戦となると武士も百姓も皆、同じと言う事じゃのう」
「はい。武士と同じで、戦で活躍して死ねば、各道場において、後々までも語り継がれる英雄になるでしょう」
「そうか‥‥‥寒くなって来たのう、今年は雪が早いかもしれんのう」
風眼坊は外の雨を眺めていた。
蓮崇も雨を見つめていた。
同じ雨を見ながら、考えている事はまったく違っていた。
風眼坊は播磨に行ったという息子、光一郎の事を思い、蓮崇は蓮台寺城を囲んでいる門徒たちの事を思い、早く武器が届かないか、と考えていた。
武器は来た。
何艘もの船を連ねて森下川を上って来た。当然の事だが、警固の兵の数も多かった。彼らが、すべて松恵尼の手下だとすると、松恵尼は相当の軍事力も抱えているという事になる。楓のために、赤松家を相手に戦をすると言ったのも、あながち嘘ではなかったのかも知れなかった。
堺にある『小野屋』の主人、伝兵衛がその一隊の指揮を執っていた。吉崎にいた手代の平蔵と、吉崎まで風眼坊と共に来て、打ち合わせの後、一度、帰って行った手代の新八も一緒にいた。そして、驚いた事に茶人の村田珠光(ジュコウ)も一緒に来ていた。
武器は船から上げられると、そのまま蓮崇が野々市から連れて来た兵によって運ばれて行った。蓮崇も武器と共に前線へと向かった。
武器を運んで来た者たちは本泉寺門前の多屋に分散して入り、今晩はここに泊まり、明日の朝、帰る事となった。
風眼坊は珠光の姿を見つけると近づいて行って声を掛けた。
「風眼坊殿、そなたも、こちらにおられたか」と珠光はニコニコしながら言った。
「まさか、珠光殿が一緒に来られるとは思いませんでしたよ」
「なかなか、こんな遠くまで来られんからのう。いい機会じゃと思って、一緒に来る事にしたわ。吉崎に行ったら蓮如殿はこちらだと聞いたものでな、こうして、やって来たんじゃよ」
風眼坊は話をしながら珠光を本泉寺の庭園まで連れて行った。
「ほう、庭園造りですか‥‥‥うむ、素晴らしい庭になりそうですな」
蓮如と十郎の二人は泥だらけになって池を掘っていた。
「あれは、やはり、京から来た山水河原者かな」と珠光が聞いた。
「いえ、あの方が蓮如殿です」
「は?」
「蓮如殿、お客様です」と風眼坊は蓮如に声を掛けた。
蓮如は風眼坊の方を向くと、隣にいる珠光に軽く頭を下げて近づいて来た。
「村田珠光殿です」と風眼坊は紹介した。
「なに、村田珠光殿‥‥‥これは、これは、ようこそ、こんな所まで」
「初めまして、一休殿より、お噂はよく存じております」
「そうですか‥‥‥一休殿はお元気でいらっしゃいますか」
「はい。相変わらずです」
「しかし、驚きですな。村田殿がこんな所まで来るとは‥‥‥信じられんのう」
「いえ、この間、近江の甲賀で風眼坊殿に会いまして、上人様のお噂を聞きましたら、ぜひお会いしたくなりまして、小野屋さんに頼んで一緒に連れて来て貰ったのです」
「小野屋さん?」
「わしの知り合いの商人です」と風眼坊は言った。
「そうですか‥‥‥しかし、風眼坊殿も顔が広いですな。村田殿を御存じだったとは」
「いえ、わしも、この間、甲賀で初めてお会いしたのです」
「そうか、まあ、こんな所では何じゃから、風眼坊殿、村田殿を客間の方に御案内してくれ。わしも着替えてから、すぐに行くわ」
風眼坊は珠光を庫裏の方に案内した。
「やあ、驚きましたよ」と珠光は坊主頭を撫でた。「まさか、本願寺の上人様ともあろうお方が自ら、庭造りをしておるとは思ってもいませんでした。一休殿と気が合うわけが分かるような気がします」
「一休殿も庭園を造ったりするのですか」
「いえ、庭園こそは造りませんが、上人様と同じに格好など一向に気にしません。知らない人が見たら、ただの百姓の親爺としか見ないでしょう」
「そうですか‥‥‥一休殿もあんな感じですか」
「はい‥‥‥実際に会ってみないと人というのは分からないものですね。京や奈良で聞く噂では、上人様は吉崎の地に大層な寺院を築き、大勢の門徒たちに囲まれ、贅沢に暮らしておる。しかも、本願寺では妻帯肉食を許しておるので、上人様は何人もの妻を持ち、本願寺の講に出てみれば、豪華な料理が並び、酒池肉林(シュチニクリン)の騒ぎだと聞きましたが、いいかげんな事を言うものじゃのう」
「わしもその噂は聞きました。わしも初めて上人様を見た時は驚きましたよ。噂とはまったく違いました。大したお人です」
客間に通されると話好きの勝如尼は珠光を質問攻めにして困らせた。勝如尼は珠光の事を知らなかった。京から武器を持って来た商人だと思い、京の事などを聞き、珠光の口から将軍の話が出ると、将軍様を御存じですかと、一旦は恐縮したが、戦が始まる前の都の様子などをしきりに聞いていた。
蓮如が法衣に着替えて現れても、まだ色々と訪ねていたが、やがて、ごゆっくりしていらっしゃいませと言って引き下がって行った。
「なかなか、豪快な尼御前(アマゴゼ)ですな」と珠光は勝如尼の去る姿を見送りながら言った。
「わしの叔母です」と蓮如は言った。
「そうでしたか‥‥‥」
「はい。もう亡くなりましたが、ここの叔父には色々とお世話になりました。わしが、この北陸の地に出て来たのも、ここの叔父が布教を広めてくれたお陰です」
「そうだったのですか。わたしは上人様が急に北陸に行かれたと聞き、また、どうして、あんな所に行かれただろうと不思議に思っておりました。こちらにも多くの門徒さんがいらしたわけだったのですね‥‥‥それにしても今回はとんだ事になりましたね。奈良や堺で加賀の国に大規模な一揆が起こったとの噂は聞きましたが、わたしは吉崎に行って驚きました。吉崎の御坊は完全なる城塞と言ってもいい程でした。詳しい戦況までは知りませんが大変な事になったものですね」
「ええ。早く、終わって欲しいものです」と蓮如は庭園の方を見ながら言った。
蓮如は戦の事から話題を変え、一休の事を珠光より聞いた。二人は最近の一休の様子や、珠光が初めて一休の門に入った当時の事などを楽しそうに話していた。
「村田殿、そなたが始めたという『佗び茶』というのが、京にいる武士たちの間で流行っておると聞いておりますが、一体、どんなものなのでしょうか」と蓮如は聞いた。
「はい。上人様は闘茶(トウチャ)というのを御存じでしょうか」と珠光は聞いた。
「いえ。聞いた事はありますが、どんなものやら知りません」
「闘茶というのは何種類かのお茶を飲み比べて、いくつ飲み当てるかを競うものです。景品なども用意され、皆で、わいわい騒ぎながら行なう一種の遊び事です。この闘茶は南北朝の頃より起こり、今では下々の間にまで広がって楽しまれております。奈良で流行っている『淋汗(リンカン)茶の湯』というのも闘茶の一種です」
「淋汗茶の湯?」
「はい。風呂上がりに闘茶をやり、みんなで騒ぐものです。わたしも奈良で育ったため、若い頃、その淋汗茶の湯に没頭して寺を追い出された事もございました。しかし、今、思えば、あの頃の事が、今のわたしに充分、役に立っております」
「そうですか‥‥‥」
「わたしの佗び茶は闘茶とはまったく違います。闘茶とは別に、将軍様の回りにいる同朋(ドウボウ)衆たちによって、書院の茶の湯というものが発達して来ました。書院の茶の湯というのも、元々は闘茶から始まったものですが、やがて、娯楽性が薄れて行き、書院を飾る立て花や能狂言などの様式美が加わり、伊勢流の礼法も加わって洗練されて行きました。その書院の茶の湯に、わたしは禅による精神を入れました。お茶を点てる事、そして、そのお茶を飲む事に、座禅のような厳しく冷めた境地を取り入れたのです。いわゆる『佗び』と言われる境地です。そして、広い書院ではなく四畳半の座敷で行なう茶の湯を勧めて来ました」
「ほう‥‥‥という事は、今、流行っておるというのは、その四畳半の茶の湯というものですか」
「はい。何も四畳半にこだわる事はありませんが、『佗び』を出すには、あまり広くない方がいいのです」
「そういうものですか。わしは茶の湯というものを見た事もないので分かりませんが、闘茶というのが流行るというのは、わしにも分かります。しかし、座禅のような佗び茶が流行るというのはどういう事なのでしょう」
「佗び茶が流行っておるといっても、それはほんの一部の人たちだけです。ある程度余裕のある人たちです。武将とか僧侶とか大きな商家の主人とかです。彼らは娯楽という娯楽はほとんどやり、茶の湯にたどり着いたというわけです。これは、今の世の中が乱世だからかもしれません。明日も知れない、この世の中、誰もが遁世(トンゼイ)したいと願っております。しかし、そう簡単に俗世間を捨てる事はできません。そこで、一時的に遁世の気分を味わうのが、茶の湯なのです。茶の湯の席は俗世間の中にありながら、俗世間から隔離された場なのです。その席では俗世間での身分の差もありません。ただ、亭主とお客と言う対等な立場があるだけです。たとえ、将軍様でも、茶の席では上座に坐る事なく、対等でなければなりません。そして、その席では俗世間に関する事は話してはならないと決まっております。一時的にも俗世間から解放され、嫌な事も忘れ、落ち着いた静かな気持ちになって、再び俗世間に出て行くというのが、皆に受けておるのだと思います」
「成程のう。分かるような気もする。時折、わしも本願寺の法主というのが嫌になる事があります。わしはそんな時、旅に出ております。山の中を歩き、嫌な事はみんな忘れてしまいます。茶の湯というのは、どうやら、わしの旅のようなものじゃな」
「そうかも知れません。それに、上人様がやっておられる庭園造りも共通するものがあると思います」
「わしの庭園造りか‥‥‥」
「しかし、正直に言いますと、残念な事に、まだ、わたしの考えているようには実施されてはおりません。上下関係で成り立っている武士の世界において、急に身分差をなくすといっても、なかなか、うまくは行きません。将軍様は四畳半の座敷においても、相変わらず上段の間に坐ります。それを見習って、他の武将たちも上段の間に坐って、茶を点てております。わたしは徐々に将軍様をお客と同じ座に坐ってもらうようにするつもりですが、難しい事です」
「そいつは難しい事じゃのう。下手をしたら首が無くなるかもしれんのじゃないのかの」
「かもしれません。でも、わたしはやるつもりです。それをやらなければ、わたしの『佗び茶』は完成しないのです」
「う~む」と唸りながら、蓮如は頷いた。
風眼坊は、珠光という、この男が、こんな途方もない事を考えていたとは夢にも思っていなかった。『佗び茶』という芸事を考え、一休禅師のもとで修行したにしろ、所詮、遁世者に過ぎないと思っていた。ところが、そんな甘い男ではなかった。将軍様を上段の間から引きずり降ろすという事を本気で考えている程、自分が始めた『佗び茶』に命を賭けていた。たとえ、芸事の中の事にしろ、将軍様と他の大名が同席するという事は考えられない事だった。物事は何でも些細な事から徐々に進行して行く。茶の湯の座敷から、身分というものが崩壊して行く可能性がないとは言えなかった。
蓮如と珠光、この二人はやっている事はまったく別だったが、片や阿弥陀如来のもとでは、片や茶の湯の席では、人々は皆、平等だと考えていた。風眼坊は目の前にいる二人を見ながら、二人の巨人を見ているように感じていた。
しはらく、沈黙が続いていた。
勝如尼が客を二人連れて来た。
小野屋伝兵衛と手代の平蔵だった。二人は蓮如への手土産を持って来た。
小野屋からは応永備前の太刀一振り、珠光からは宇治の茶が一壷、蓮如に贈られた。
さっそく、蓮如の所望により、お茶会が行なわれる事となった。茶道具などなかったが、有り合わせの物で間に合わせた。茶の湯では、物にこだわる事も大事だが、物に囚われない事も大事だった。
即席に作られた床の間に花が飾られ、蓮如の書いた墨蹟(ボクセキ)が壁に掛けられた。
有り合わせの道具で、未完成の庭園と、雲の掛かった上弦の月を眺めながら、珠光を亭主として、まさしく『佗び茶』の茶会は始まった。
包囲している本願寺方は何もしないで、ただ包囲していただけではなかった。やるべき事は充分にしていた。まず、倉月庄の郷士たちによる寝返り作戦は順調に進み、北加賀の国人や郷士たちは、ほとんど蓮台寺城を抜け出して本願寺門徒となっていた。
七月の末の決戦の時は三万近くの兵がいた蓮台寺城も惨めなもので、今は一万余りに減っていた。囲む次郎、本願寺連合軍は五万人を越していた。確かに、兵力には問題なかったが、一つの城を落とすのは、そう簡単にできるものではなかった。挑発して外におびき出して戦おうと試みたが、敵は矢を射るのみで外に出て来ようとはしなかった。また、金掘り衆を使って、穴を掘って城に潜入し、敵の兵糧米を燃やしてしまおうとも考えたが、この辺りは地盤が緩く、穴を掘っても、すぐに崩れてしまった。
籠城する敵方は、寝返り者が続出しているとはいえ、残っている者たちは団結を固め、後詰(ゴヅ)めが来る事を信じ、士気が落ちているようには見えなかった。
二十五日の講が過ぎると、次の日に蓮如は本泉寺に戻ろうと言い出した。
「また、庭園造りですか」と風眼坊は聞いた。
「やはり、まずいかのう」と蓮如は覗くように風眼坊の顔色を窺った。
「蓮如殿が本泉寺で庭園を造っておる事は、ほんの数人しか知りませんから大丈夫だとは思いますが、そう、ちょくちょく出歩かれたのでは、ここを守っておる近江の門徒たちに悪いような気がして‥‥‥」
「そうじゃのう。わざわざ近江から、わしを守るために来ておるのに、わしがここにおらんのではのう」
「せめて、今月一杯は、ここにいましょう」と風眼坊は言った。
「ほんとか、来月になったら行ってくれるか」
「ええ、どうせ、その頃になれば、お雪や十郎が騒ぎ出すでしょうから」
「そうしてくれるか、ありがたい‥‥‥ところで、戦の事じゃが、まだ、終わりそうもないのか」
「はい。籠城戦というのは長引くものです。力攻めをして落とせない事もないでしょうが、かなりの犠牲者が出てしまいます」
「どの位じゃ」
「力攻めしたとしてですか」
「ああ」
「そうですね。一万は出るでしょうね」
「一万もか‥‥‥」
「下手をすれば、それ以上出るかも知れません。力攻めの場合、一気に大軍を以て総攻撃を掛けます。敵が矢を放って来ようとも、構わず前進しなければなりません。逃げようにも、後ろからは味方がどんどん来ますから前に進むしかないのです。そして、味方がやられても、その味方を乗り越えながら前進するのです。確かに敵の数倍の兵力があれば、その作戦は成功して勝利を収めるでしょう。しかし、一万人の敵を倒すのに、一万人以上の犠牲者を出したのでは勝利とは言えません」
「ひどいのう。絶対にそんな事はしてはいかん。風眼坊殿、蓮崇に、力攻めはいかん、と言って来てくれ」
「大丈夫です。蓮崇殿はそこの所は充分に分かっております」
「そうか‥‥‥それじゃあ、やはり、敵の兵糧が無くなるまで待つのか」
「そんな、悠長な事もしてられません。敵の様子からして兵糧米はたっぷりあるでしょう。そして、多分、敵は雪の降るのを待っておるのでしょう」
「雪?」
「ええ、そうです。雪が降って寒くなれば、長く陣を敷いておられません。包囲網を解いて、兵力を分散させなくてはならなくなります。一度、分散してしまったら、もう終わりです。今のように門徒たちを集める事ができなくなります」
「どうしてじゃ」
「大義名分がなくなるからです。それは蓮如殿が一番御存じのはずです。今回の戦の敵は富樫幸千代ではありません。高田派門徒です。確かに蓮台寺城に高田派門徒は籠もっております。しかし、すでに高田派の寺院は本願寺門徒によって破壊され、彼らの拠点とする場所はありません。蓮如殿は、富樫幸千代を倒せと、門徒たちに命ずる事はできますか」
「いや、それはできん」
「蓮如殿が命じなければ、今回のように門徒たちは動きません。ばらばらになった門徒たちは幸千代に攻められるでしょう」
「雪が降る前に、あの城を落とさなければならんのか‥‥‥」
「はい。後一ケ月ちょっと、というところでしょうか」
「何か、いい手はないのか」
「色々と作戦を考え、やっておるようですが、うまく行かないようです」
「そうか‥‥‥雪の降る前に何とかせんとな‥‥‥敵はそんなにも兵糧米を溜め込んでおったのか‥‥‥」
「寝返りをして、あの城から出て来た者の話を聞くと、飯だけは毎日、腹一杯食ったというから相当あるんでしょう。それに寝返り者が続出して、一時は三万近くもおったのに、今は一万余りですからね。三倍は食いつなげます」
「そうか‥‥‥敵の兵力は減ったが、それが逆に、敵の籠城を伸ばす事になったのか」
「そういう事です」
「いっその事、ねずみが敵の兵糧米をみんな食ってくれればいいのにのう」
「そうですね。ねずみの大軍でも敵の城に攻め込ませますか」と風眼坊は笑った。
風眼坊は笑ったが、蓮如は真面目な顔をして風眼坊を見ていた。
風眼坊は蓮如の前から去ると、十郎と交替して庫裏の客間に戻った。
通り掛かりに、お雪の部屋を覗くと、お雪がぼうっとして坐り込んでいた。
「どうした、疲れたのか」と風眼坊は声を掛けた。
「えっ?」と振り返るとお雪は笑って、首を振った。
「先生、戦はいつになったら終わるのでしょう」
「雪が降る頃には終わるさ」
「雪? そうね。もうすぐ、雪が降るのね‥‥‥」
「本泉寺にいた孤児たちの事を考えておったのか」
「えっ、いえ‥‥‥先生は戦が終わったら、ここから出て行くのですか」
「うむ、分からんのう。しかし、そうも行くまい」
「どうしてです」
「入っても構わんかな」
「はい。どうぞ」
風眼坊はお雪の部屋に入ると縁側に行って腰を下ろした。
数人の坊主が荷物を担いで裏門から入って来るのが見えた。その裏門から七曲と呼ばれる坂道を降りて行くと南門があり、そこは北潟湖に面した船着き場だった。以前は、一般門徒もその船着き場を利用していたが、直接、本坊につながっているため、一般門徒の使用は禁じられ、主に、本坊で使用する物資類を運ぶ時だけ利用されていた。一般門徒の船着き場は新たに門前町の方に作られ、門徒たちは門前町を通り、北門をくぐって表の山門から入らなければならなかった。
「戦の後というのは物騒でのう」と風眼坊は言った。「戦が終わったからといって、すぐに元には戻らんのじゃよ。医者として負傷者の手当もしなければならんしのう」
「それじゃあ、まだ、当分はここにいるのですね」
「ああ、多分な。お雪はどうする。これからの事は決まったのか」
「いえ。あの、あたしは先生のお手伝いをして負傷者の手当をします」
「おう、そうか。そうして貰えると助かるわ」
「先生は本願寺の門徒さんにはならないのですか」
「わしか‥‥‥わしはならん。お雪はなるのか」
お雪は首を振った。「ただ、裏方様に、ならないかって言われているの」
「なればいい。蓮如殿の教えは素晴らしい教えじゃ。門徒になって損はないぞ」
「それじゃあ、先生はどうして、ならないのですか」
「わしは長い事、山伏をやって来たからの、みんなで集まって何だかんだするのは、どうも性に合わんのじゃ」
「あたしもそうかもしれない」
「そんな事はない。蓮如殿から聞いたぞ。本泉寺で子供たちの面倒をよく見ておったそうじゃないか」
「そんな、ただ、あそこには負傷者がいなかったから、子供たちの面倒を見ていただけです」
「まあ、いい。自分で決めればいい。わしは少し昼寝するわ」
風眼坊は隣の部屋に帰った。
お雪は、また、ぼうっとして外を見ていた。
以前は綺麗な景色が見えたのに、今は高く土塁が築かれ、ここからは景色が見えなかった。
お雪は一人になると、いつも、不安に駆られていた。今までは親の仇討ち一筋に生きていたため、自分の事など考えた事もなかったが、仇討ちの事をすっかり忘れた今は、この先、どうやって生きて行ったらいいのか分からず、不安だった。叔母の智春尼は蓮如に帰依(キエ)して、禅宗から改宗して本願寺の尼僧となり、生き生きとしていた。今まで色々と迷惑の掛け通しだったので、もう、これ以上、叔母を頼るわけにも行かず、今、お雪が頼れるのは風眼坊ただ一人だった。その風眼坊はお雪の事を自分の娘のように見るだけで、一人の女として見てくれなかった。確かに年齢は倍以上も離れているが、お雪は風眼坊の事を一人の男として見ていた。風眼坊にどう思われようとも、お雪はこの先、風眼坊に付いて行こうと決めた。風眼坊がこの加賀の国から出て行く時は、何と言われようとも一緒に行こうと決心した。
2
十月になって、風眼坊は蓮如たちを連れて、また、本泉寺に来ていた。蓮崇も一緒だったため、今回は避難という形で、堂々と蓮如のままで海路を通って来た。
小野屋との武器の取り引きの話はうまく行き、十月の十日前後には、第一陣が本泉寺に着く手筈になっていた。
蓮崇は本泉寺に戻ると、休む間もなく、豊次郎と一緒に野々市の守護所に出掛け、数日後に一隊の兵を引き連れて戻って来た。
蓮如は十郎と一緒に庭園造りに励み、お雪は孤児たちの面倒を見ていた。風眼坊だけは、ここに来てもやる事がなく、庭園造りを手伝ったり、お雪の所に行って、子供たちと遊んだり、毎日、ブラブラと暮らしていた。
戦の方の変化はあまりなかった。ただ、敵が城から出て来る気配がまったくないので、包囲網は縮まり、完全に、蓮台寺城の周囲は本願寺門徒の大きな輪によって囲まれた。厭戦気分になっている兵の士気を高めるため、大規模な土木工事を行い、濠を掘り、土塁を築き、蓮台寺城は長大な土塁に囲まれているという状況となっていた。
また、国境を守っている河北郡の門徒たちの連絡によると、越中の方で、加賀に進攻して来そうな動きがあるというので、守りを固めるため、野々市の守護所に待機していた兵一千人余りを湯涌谷(ユワクダニ)の石黒孫左衛門が率いて、越中の国、砺波(トナミ)郡井波の瑞泉寺(ズイセンジ)に向かわせた。越中の門徒たちの指揮をしていたのは蓮乗だった。蓮乗は一軍の大将として、甲冑に身を固め、馬に乗って颯爽と走り回っているという。
冷たい雨が降っていた。
朝晩の冷え込みも厳しくなり、徐々に寒さが増していた。
庭園造りができず、蓮如は部屋に籠もって何かを書いていた。十郎は雨に感謝して、ゆっくりと体を伸ばして休んでいた。蓮如のお陰で腰が痛くてしょうがなかった。十郎は、このまま、二、三日、雨が振り続いてくれたらいいと願っていた。お雪の方は雨が降ろうと関係なく、子供たちの世話に忙しかった。
風眼坊は下間玄信の多屋で蓮崇と会っていた。
「蓮崇殿、慶覚坊の奴は、今、どこにおるんじゃ」と風眼坊は聞いた。
「慶覚坊殿は本蓮寺と松岡寺の間にある山の上におります。山の上から蓮台寺城を睨んでおりますよ」
「ほう、あの上におるのか‥‥‥で、蓮台寺城は落ちそうか」
「難しい。しかし、今月中には何とかせんと‥‥‥」
「策はあるのか」
「ある。あるが誰かが死ぬ事になります」
「誰か、というのは有力門徒の誰かがか」
「そうです。総攻撃を掛けるには、ただ、外から攻めただけでは犠牲者を多く出し、落城まで漕ぎ付けるかどうか難しい。もし、失敗してしまえば、門徒たちの間に不安と恐れが残り、士気は低下してしまう。絶対に成功させるには城の中に誰かを潜入させて、城内を混乱させ、それと同時に外から総攻撃を掛けて一気に潰すしかない。ただ、その作戦だと、城内に潜入した者たちは全員、死ぬ事となるでしょう」
「うむ。最小限の犠牲者で城を落とすには、その方法しかあるまいのう。しかし、今、城内に入るのは難しいじゃろう。七月頃なら、各地から逃げて来た高田派門徒を城内に簡単に入れておったようじゃが、今となると難しいんじゃないかのう」
「はい。確かに難しい事です。しかし、籠城に入って、すでに一月半、敵も疲れと油断が出て来ておると思います。大手口の方から夜襲を掛けると見せかけて、搦手(カラメテ)から潜入させようと考えております」
「夜襲か‥‥‥」
「はい。松明(タイマツ)を持たせた兵を大手口に攻め寄せます。そして、城内に火矢を射続けます。その隙に搦手から百人程の兵を潜入させ、城内に火を点けて回ります。城内から火の手が上がったら、城の四方より総攻撃を掛けます。どうでしょう、この作戦は」
「うむ、搦手の百人は死ぬ覚悟で行くわけじゃな」
蓮崇は厳しい顔付きで頷いた。
「城内から火の手が上がらなかったら、この作戦は中止というわけか」
「はい。また、やり直しです。しかし、かなりの矢を損失する事になるので、やり直しが効くのも一回だけでしょう」
「ふーむ。決行は夜明け前じゃな」
「はい」
「搦手の百人を率いるのが誰か、というのが問題となるわけじゃな」
「そうです。武器が到着次第、わしは松岡寺に行くつもりです。そこで皆を集めて戦評定を行ない、この作戦を告げます。もし、誰もおらなかったら、わしが行くつもりです」
「蓮崇殿が行くのか」
「はい。どうせ、あの時、死ぬ覚悟をしました。あの時に比べたら今回の死は立派な討ち死にです‥‥‥雪が降る前に何とかしないと、せっかく、ここまで来た事が無意味になってしまいます」
風眼坊は蓮崇の顔を見ながら、「富樫次郎の武将にやらせたらどうじゃ」と聞いた。
蓮崇は首を振った。「先の事を考えると、これは本願寺門徒がやらなければなりません」
「今回の戦は本願寺門徒のお陰で勝てた、という恩をきせるわけか」
「そうです。次郎が改めて守護に収まったとしても、この加賀の国を次郎の思い通りにはさせません」
「今回の戦が終わったら、今度は、次郎を相手に戦をするというのか」
「多分。きっと、そういう成り行きになるでしょう。この先、守護と本願寺がうまく行くとは思えません」
「しかし、わしが思うには、蓮如殿は、守護を倒せ、とは絶対に言わんぞ」
「わしもそう思います」
「守護と戦うという事は、幕府も敵に回すという事じゃ。何があっても蓮如殿がそんな事はさせまい」
「分かっております。しかし、この戦に勝ってしまえば門徒たちの心構えも変わって来ます。わしは、門徒たちは守護と対立する方向に向かって行くと思います」
「うむ、それも確かじゃ。この戦に勝てば門徒たちは力を合わせれば何でもできると思うに違いない。武士を武士とも思わなくなって行くじゃろう」
「そして、それは、たとえ、上人様といえども止める事はできないでしょう」
「蓮如殿は益々、辛い立場に追い込まれる事になるのう」
「時の流れです。時の勢いというものは、決して止める事はできません」
「確かにのう。時の勢いか‥‥‥」
「今、時代は早い速さで変わりつつあります」
「時代は変わるか‥‥‥ところで、豊次郎の奴はどこに行ったんじゃ」
「ああ、あいつは今、寝返った者たちを連れて、次郎のいる軽海の守護所に行きました。門徒になったとはいえ、武士ですからね。やはり、守護職の次郎の存在は無視できないのでしょう」
「そうか、軽海に行ったか‥‥‥武士は恩賞がないと動かんからのう。本領は、すでに本願寺によって安堵されたので、新たな恩賞目当てに、次郎のもとに駈け付けたというわけか、奴らもやる事はやるのう」
「そういうものですか」
「奴らは本願寺門徒であり、次郎の被官となるわけじゃのう。戦が終わった後、苦しい立場に追い込まれる事になりそうじゃ」
「ええ。特に豊次郎は苦しくなるでしょう」
「まあ、奴の事じゃから、うまい事やって行くとは思うがの。それより、わしには、あれだけ大勢の門徒たちが戦に参加しておるというのが、よく分からんが、門徒たちは戦をして何の得があるんじゃ」
「そこの所なんです、問題は」と蓮崇は言った。「初めのうちは高田派門徒に攻められておる松岡寺を救うために、皆、勇んで戦に出て行きました。憎き高田派を倒せ、と意気が揚がっておりました。誰もが損得など考えず、ただ、本願寺のためにと戦っておりました。ところが、こう戦が長引くと、だんだんと何のために戦をしておるのか分からなくなって来てしまっておるんです。今回の戦に勝って、一番、得するのは富樫次郎ですからね。武士の家督争いに、何で、本願寺が戦わなければならないのだ、と思う連中も出て来ております。かと言って、今更、本願寺が手を引くわけにも行きません。早いうちに、何とか、けりをつけなければ‥‥‥」
「そうじゃのう。しかし、よく、門徒たちは戦陣から抜け出さんのう」
「戦陣から抜け出したら、生きて行けなくなるからです」
「生きて行けなくなる?」
「はい。門徒として生きて行けなくなるのです。戦が終わってから村八分にされ、後ろ指さされ、村から出て行かなくてはなりません」
「破門か」
「いえ、正式に破門されるわけではありませんが同じ事です」
「成程のう。それは厳しいのう。戦となると武士も百姓も皆、同じと言う事じゃのう」
「はい。武士と同じで、戦で活躍して死ねば、各道場において、後々までも語り継がれる英雄になるでしょう」
「そうか‥‥‥寒くなって来たのう、今年は雪が早いかもしれんのう」
風眼坊は外の雨を眺めていた。
蓮崇も雨を見つめていた。
同じ雨を見ながら、考えている事はまったく違っていた。
風眼坊は播磨に行ったという息子、光一郎の事を思い、蓮崇は蓮台寺城を囲んでいる門徒たちの事を思い、早く武器が届かないか、と考えていた。
3
武器は来た。
何艘もの船を連ねて森下川を上って来た。当然の事だが、警固の兵の数も多かった。彼らが、すべて松恵尼の手下だとすると、松恵尼は相当の軍事力も抱えているという事になる。楓のために、赤松家を相手に戦をすると言ったのも、あながち嘘ではなかったのかも知れなかった。
堺にある『小野屋』の主人、伝兵衛がその一隊の指揮を執っていた。吉崎にいた手代の平蔵と、吉崎まで風眼坊と共に来て、打ち合わせの後、一度、帰って行った手代の新八も一緒にいた。そして、驚いた事に茶人の村田珠光(ジュコウ)も一緒に来ていた。
武器は船から上げられると、そのまま蓮崇が野々市から連れて来た兵によって運ばれて行った。蓮崇も武器と共に前線へと向かった。
武器を運んで来た者たちは本泉寺門前の多屋に分散して入り、今晩はここに泊まり、明日の朝、帰る事となった。
風眼坊は珠光の姿を見つけると近づいて行って声を掛けた。
「風眼坊殿、そなたも、こちらにおられたか」と珠光はニコニコしながら言った。
「まさか、珠光殿が一緒に来られるとは思いませんでしたよ」
「なかなか、こんな遠くまで来られんからのう。いい機会じゃと思って、一緒に来る事にしたわ。吉崎に行ったら蓮如殿はこちらだと聞いたものでな、こうして、やって来たんじゃよ」
風眼坊は話をしながら珠光を本泉寺の庭園まで連れて行った。
「ほう、庭園造りですか‥‥‥うむ、素晴らしい庭になりそうですな」
蓮如と十郎の二人は泥だらけになって池を掘っていた。
「あれは、やはり、京から来た山水河原者かな」と珠光が聞いた。
「いえ、あの方が蓮如殿です」
「は?」
「蓮如殿、お客様です」と風眼坊は蓮如に声を掛けた。
蓮如は風眼坊の方を向くと、隣にいる珠光に軽く頭を下げて近づいて来た。
「村田珠光殿です」と風眼坊は紹介した。
「なに、村田珠光殿‥‥‥これは、これは、ようこそ、こんな所まで」
「初めまして、一休殿より、お噂はよく存じております」
「そうですか‥‥‥一休殿はお元気でいらっしゃいますか」
「はい。相変わらずです」
「しかし、驚きですな。村田殿がこんな所まで来るとは‥‥‥信じられんのう」
「いえ、この間、近江の甲賀で風眼坊殿に会いまして、上人様のお噂を聞きましたら、ぜひお会いしたくなりまして、小野屋さんに頼んで一緒に連れて来て貰ったのです」
「小野屋さん?」
「わしの知り合いの商人です」と風眼坊は言った。
「そうですか‥‥‥しかし、風眼坊殿も顔が広いですな。村田殿を御存じだったとは」
「いえ、わしも、この間、甲賀で初めてお会いしたのです」
「そうか、まあ、こんな所では何じゃから、風眼坊殿、村田殿を客間の方に御案内してくれ。わしも着替えてから、すぐに行くわ」
風眼坊は珠光を庫裏の方に案内した。
「やあ、驚きましたよ」と珠光は坊主頭を撫でた。「まさか、本願寺の上人様ともあろうお方が自ら、庭造りをしておるとは思ってもいませんでした。一休殿と気が合うわけが分かるような気がします」
「一休殿も庭園を造ったりするのですか」
「いえ、庭園こそは造りませんが、上人様と同じに格好など一向に気にしません。知らない人が見たら、ただの百姓の親爺としか見ないでしょう」
「そうですか‥‥‥一休殿もあんな感じですか」
「はい‥‥‥実際に会ってみないと人というのは分からないものですね。京や奈良で聞く噂では、上人様は吉崎の地に大層な寺院を築き、大勢の門徒たちに囲まれ、贅沢に暮らしておる。しかも、本願寺では妻帯肉食を許しておるので、上人様は何人もの妻を持ち、本願寺の講に出てみれば、豪華な料理が並び、酒池肉林(シュチニクリン)の騒ぎだと聞きましたが、いいかげんな事を言うものじゃのう」
「わしもその噂は聞きました。わしも初めて上人様を見た時は驚きましたよ。噂とはまったく違いました。大したお人です」
客間に通されると話好きの勝如尼は珠光を質問攻めにして困らせた。勝如尼は珠光の事を知らなかった。京から武器を持って来た商人だと思い、京の事などを聞き、珠光の口から将軍の話が出ると、将軍様を御存じですかと、一旦は恐縮したが、戦が始まる前の都の様子などをしきりに聞いていた。
蓮如が法衣に着替えて現れても、まだ色々と訪ねていたが、やがて、ごゆっくりしていらっしゃいませと言って引き下がって行った。
「なかなか、豪快な尼御前(アマゴゼ)ですな」と珠光は勝如尼の去る姿を見送りながら言った。
「わしの叔母です」と蓮如は言った。
「そうでしたか‥‥‥」
「はい。もう亡くなりましたが、ここの叔父には色々とお世話になりました。わしが、この北陸の地に出て来たのも、ここの叔父が布教を広めてくれたお陰です」
「そうだったのですか。わたしは上人様が急に北陸に行かれたと聞き、また、どうして、あんな所に行かれただろうと不思議に思っておりました。こちらにも多くの門徒さんがいらしたわけだったのですね‥‥‥それにしても今回はとんだ事になりましたね。奈良や堺で加賀の国に大規模な一揆が起こったとの噂は聞きましたが、わたしは吉崎に行って驚きました。吉崎の御坊は完全なる城塞と言ってもいい程でした。詳しい戦況までは知りませんが大変な事になったものですね」
「ええ。早く、終わって欲しいものです」と蓮如は庭園の方を見ながら言った。
蓮如は戦の事から話題を変え、一休の事を珠光より聞いた。二人は最近の一休の様子や、珠光が初めて一休の門に入った当時の事などを楽しそうに話していた。
「村田殿、そなたが始めたという『佗び茶』というのが、京にいる武士たちの間で流行っておると聞いておりますが、一体、どんなものなのでしょうか」と蓮如は聞いた。
「はい。上人様は闘茶(トウチャ)というのを御存じでしょうか」と珠光は聞いた。
「いえ。聞いた事はありますが、どんなものやら知りません」
「闘茶というのは何種類かのお茶を飲み比べて、いくつ飲み当てるかを競うものです。景品なども用意され、皆で、わいわい騒ぎながら行なう一種の遊び事です。この闘茶は南北朝の頃より起こり、今では下々の間にまで広がって楽しまれております。奈良で流行っている『淋汗(リンカン)茶の湯』というのも闘茶の一種です」
「淋汗茶の湯?」
「はい。風呂上がりに闘茶をやり、みんなで騒ぐものです。わたしも奈良で育ったため、若い頃、その淋汗茶の湯に没頭して寺を追い出された事もございました。しかし、今、思えば、あの頃の事が、今のわたしに充分、役に立っております」
「そうですか‥‥‥」
「わたしの佗び茶は闘茶とはまったく違います。闘茶とは別に、将軍様の回りにいる同朋(ドウボウ)衆たちによって、書院の茶の湯というものが発達して来ました。書院の茶の湯というのも、元々は闘茶から始まったものですが、やがて、娯楽性が薄れて行き、書院を飾る立て花や能狂言などの様式美が加わり、伊勢流の礼法も加わって洗練されて行きました。その書院の茶の湯に、わたしは禅による精神を入れました。お茶を点てる事、そして、そのお茶を飲む事に、座禅のような厳しく冷めた境地を取り入れたのです。いわゆる『佗び』と言われる境地です。そして、広い書院ではなく四畳半の座敷で行なう茶の湯を勧めて来ました」
「ほう‥‥‥という事は、今、流行っておるというのは、その四畳半の茶の湯というものですか」
「はい。何も四畳半にこだわる事はありませんが、『佗び』を出すには、あまり広くない方がいいのです」
「そういうものですか。わしは茶の湯というものを見た事もないので分かりませんが、闘茶というのが流行るというのは、わしにも分かります。しかし、座禅のような佗び茶が流行るというのはどういう事なのでしょう」
「佗び茶が流行っておるといっても、それはほんの一部の人たちだけです。ある程度余裕のある人たちです。武将とか僧侶とか大きな商家の主人とかです。彼らは娯楽という娯楽はほとんどやり、茶の湯にたどり着いたというわけです。これは、今の世の中が乱世だからかもしれません。明日も知れない、この世の中、誰もが遁世(トンゼイ)したいと願っております。しかし、そう簡単に俗世間を捨てる事はできません。そこで、一時的に遁世の気分を味わうのが、茶の湯なのです。茶の湯の席は俗世間の中にありながら、俗世間から隔離された場なのです。その席では俗世間での身分の差もありません。ただ、亭主とお客と言う対等な立場があるだけです。たとえ、将軍様でも、茶の席では上座に坐る事なく、対等でなければなりません。そして、その席では俗世間に関する事は話してはならないと決まっております。一時的にも俗世間から解放され、嫌な事も忘れ、落ち着いた静かな気持ちになって、再び俗世間に出て行くというのが、皆に受けておるのだと思います」
「成程のう。分かるような気もする。時折、わしも本願寺の法主というのが嫌になる事があります。わしはそんな時、旅に出ております。山の中を歩き、嫌な事はみんな忘れてしまいます。茶の湯というのは、どうやら、わしの旅のようなものじゃな」
「そうかも知れません。それに、上人様がやっておられる庭園造りも共通するものがあると思います」
「わしの庭園造りか‥‥‥」
「しかし、正直に言いますと、残念な事に、まだ、わたしの考えているようには実施されてはおりません。上下関係で成り立っている武士の世界において、急に身分差をなくすといっても、なかなか、うまくは行きません。将軍様は四畳半の座敷においても、相変わらず上段の間に坐ります。それを見習って、他の武将たちも上段の間に坐って、茶を点てております。わたしは徐々に将軍様をお客と同じ座に坐ってもらうようにするつもりですが、難しい事です」
「そいつは難しい事じゃのう。下手をしたら首が無くなるかもしれんのじゃないのかの」
「かもしれません。でも、わたしはやるつもりです。それをやらなければ、わたしの『佗び茶』は完成しないのです」
「う~む」と唸りながら、蓮如は頷いた。
風眼坊は、珠光という、この男が、こんな途方もない事を考えていたとは夢にも思っていなかった。『佗び茶』という芸事を考え、一休禅師のもとで修行したにしろ、所詮、遁世者に過ぎないと思っていた。ところが、そんな甘い男ではなかった。将軍様を上段の間から引きずり降ろすという事を本気で考えている程、自分が始めた『佗び茶』に命を賭けていた。たとえ、芸事の中の事にしろ、将軍様と他の大名が同席するという事は考えられない事だった。物事は何でも些細な事から徐々に進行して行く。茶の湯の座敷から、身分というものが崩壊して行く可能性がないとは言えなかった。
蓮如と珠光、この二人はやっている事はまったく別だったが、片や阿弥陀如来のもとでは、片や茶の湯の席では、人々は皆、平等だと考えていた。風眼坊は目の前にいる二人を見ながら、二人の巨人を見ているように感じていた。
しはらく、沈黙が続いていた。
勝如尼が客を二人連れて来た。
小野屋伝兵衛と手代の平蔵だった。二人は蓮如への手土産を持って来た。
小野屋からは応永備前の太刀一振り、珠光からは宇治の茶が一壷、蓮如に贈られた。
さっそく、蓮如の所望により、お茶会が行なわれる事となった。茶道具などなかったが、有り合わせの物で間に合わせた。茶の湯では、物にこだわる事も大事だが、物に囚われない事も大事だった。
即席に作られた床の間に花が飾られ、蓮如の書いた墨蹟(ボクセキ)が壁に掛けられた。
有り合わせの道具で、未完成の庭園と、雲の掛かった上弦の月を眺めながら、珠光を亭主として、まさしく『佗び茶』の茶会は始まった。
16.蓮台寺城2
4
文明六年十月十四日の未明、本願寺門徒による蓮台寺城の総攻撃が始まった。
それより五日前に、武器を手に入れた蓮崇は武器を野々市の守護所に運び、そこに待機していた河北郡の門徒、一万人に武器を持たせて松岡寺に向かった。
三日前には松岡寺に着き、次の日、蓮崇は各地にいる武将たちを集めた。
蓮台寺城の正面、大手側に陣を敷き、敵と対峙している越前門徒の藤島定善坊(ジョウゼンボウ)と和田長光坊。
木場潟の水路をふさいでいる柴山八郎左衛門。
軽海(カルミ)への街道を押えている専光寺慶念(キョウネン)。
蓮台寺城の北側を固めている浄徳寺慶恵(キョウエ)と蛭川(ヒルカワ)新七郎。
搦手側を固めている山之内衆を率いる河合藤左衛門と大杉谷川流域の門徒を率いる宇津呂備前守。
南側を固める熊坂願生坊(ガンショウボウ)と黒崎源五郎。
松岡寺と本蓮寺の中程にある山の上に陣する慶覚坊と安吉(ヤスヨシ)源左衛門。
本蓮寺で待機している庄四郎五郎。
浄徳寺に待機している笠間兵衛(ヒョウエ)。
倉月庄の郷士の代表として山本若狭守。
そして、松岡寺に待機している慶聞坊の十六人が集まった。
白山中宮八院の一つ昌隆寺に待機している白山衆徒にも、戦評定(イクサヒョウジョウ)に来るように呼びかけたが出て来なかった。
越前門徒らと共に、大手正面に陣を敷く富樫次郎政親にも声を掛けたが、用があるなら、そっちから来い、というような高飛車な返事だった。それでも、本願寺の動きが気になるのか、少し遅れて、次郎の重臣の一人、山川三河守(ヤマゴウミカワノカミ)がやって来た。
戦評定は、富樫次郎の家臣や門徒ではない山之内衆が加わっているため、上座なし、席次なしで行なわれた。本願寺方では蓮綱を総大将としていたが、この評定に蓮綱は出なかった。蓮綱が出ると当然、序列が決まってしまう。そうなると、次郎の名代として来ている山川三河守を蓮綱よりも上にするか下にするかで、つまらない争いになってしまう。そんな事をしている暇はなかった。
評定は蓮崇の進行によって行なわれた。
まず、蓮台寺城周辺の見取り図を前にして、各部署の現在の状況をそれぞれが説明した。そして、蓮崇が、大量の武器が届いた事と河北郡からの援軍の事を話し、これからどうするか、各自の意見を聞いた。
一通り、皆の意見を聞いたところ、雪が降る前に、けりを付けなければならないという思いは一致していた。そして、士気が低下しているため、早いうちに片を付けなければならないと誰もが思っていた。しかし、その作戦となると意見は一致しなかった。
やはり、犠牲者を覚悟の上での力責めを支持するものが多かった。特に、次郎の重臣、山川三河守は時を同じくして一斉に攻めかかる事を主張した。国人門徒たちも、それ以外はないと山川の意見に同意した。
その意見に反対したのは、頭を丸めた坊主たちだった。力攻めをすれば、確かに勝てるだろうが犠牲者が多数でる。その犠牲者というのは歩兵で成り立つ本願寺の門徒たちだった。本願寺は他の寺院と違って荘園を持っていない。門徒だけが本願寺の財産といってよかった。その門徒を大勢、死なせたのでは、戦に勝ったとしても、この先、布教を広めて行くのに差し障りとなる。かと言って、力攻め以外にいい案は出て来なかった。
蓮崇は皆の意見を一通り聞くと、一同を見回し、「それでは、明後日の未明に総攻撃を掛ける事に致しましょう」と言った。
「あさってか‥‥‥」とそれぞれが皆の顔を見回した。
「いいじゃろう」と山川三河守が大きく頷いた。
「しかしのう‥‥‥」と和田長光坊が身を乗り出した。
「ただ、力攻めだけでは多数の犠牲者が出てしまいます。そこで、総攻撃の前に、小人数で城内に潜入し、城に火を掛け、敵を混乱させてから総攻撃を掛ければ、それ程の犠牲者を出さなくても済むかもしれません」と蓮崇は言うと皆の顔を見渡した。
「確かにそうかもしれんが、城内に潜入などできるのか」と山川は蓮崇を睨んだ後、一同の顔を見回した。
「難しいでしょう」と蓮崇は言った。「しかし、死ぬ気でやれば何とかなると思います。敵も籠城に入って、すでに一月半になります。疲れておるに違いありません。何とか夜中に忍び込み、未明に火を掛け、敵を混乱させます」
「まあ、言うのは簡単じゃがな、誰が、その役をするかじゃな。下っ端を使ったのでは勤まるまい」と山川は蓮崇を問い詰めた。
「この中の誰かが犠牲になるという事か」と慶覚坊が山川に言った。
「その作戦を実行に移すとすればじゃ。うまく、行っても死ぬ事は確実。失敗すれば、ただの犬死にじゃ」山川は身を乗り出し、皆を見回しながら言った。
「しかし、成功すれば、総攻撃の方も確実にうまく行くのう」と安吉源左衛門は腕を組み、半分、眠ったような顔付きで言った。
「皆さん、どうですか、この作戦は」と蓮崇は一人一人の顔を見ながら言った。
「作戦はいい。だが、その大役をやる奴がこの中におるのか」と山川は皮肉っぽい口調で言った。
蓮崇はまた、皆を見回した。
誰も自分がやるとは言い出さなかった。
「その大役、わしが引き受けます」と蓮崇は言い放った。「わしは今回、まだ、戦らしい戦をしておりません。見事に成功して最後に花を咲かせましょう」
「蓮崇殿、おぬし‥‥‥」と慶覚坊は蓮崇の顔を見つめた。「おぬし、初めから自分でやるつもりで、この作戦を披露したな」
「口に出した者がやらなければ、しょうがないでしょう」
「それでは」と蓮崇が作戦の説明を言おうとした時、藤島定善坊が声を掛けた。
「蓮崇殿、蓮崇殿が行くのは、まずい」と定善坊は言った。「蓮崇殿がいなくなれば、本願寺をまとめて行く者がいなくなってしまう‥‥‥わしが、その役を引き受けよう」
「なに、おぬしがやる?」と定善坊の兄、浄徳寺の慶恵が驚いた。
「ああ、蓮崇殿が死んだら困るが、わしなら兄上もおる事だし、これだけ名誉な大役を引き受けて、死ねるのなら本望じゃ」
「定善坊殿、引き受けてくれるか」と蓮崇は努めて平静をよそおって聞いた。
定善坊は自分を見つめている皆の顔を見回し、蓮崇の方を向くと大きく頷いた。
「定善坊‥‥‥」と和田長光坊は何かを言おうとしたが言葉にならなかった。
その後、詳しく作戦を立て、話がまとまると、各自、明後日の準備のため、それぞれの陣地に帰って行った。
蓮崇と慶聞坊と慶覚坊の三人が残った。
「いよいよ、明後日か‥‥‥」と慶聞坊は伸びて来た坊主頭を撫でた。
「長かったのう」と慶覚坊は言った。
蓮崇は綺麗に剃っていたが、慶覚坊も慶聞坊も髪は伸び、髭も伸びていた。
「上人様が高田派打倒を宣言してから、もうすぐ、四ケ月じゃ」と蓮崇は言った。
「しかし、面白い作戦を考えたものじゃのう」と慶覚坊が絵図面を見ながら言った。
「いや、わしが自分で城内に潜入するつもりじゃったからのう。自分でやるとなると、何とか成功させるために色々と考えるものじゃよ」
「やはり、自分でやるつもりじゃったのか」
「定善坊のお陰で、命拾いしたわ」
「しかし、よく、定善坊も覚悟を決めたもんじゃのう」
「あそこも兄弟が多いからのう。定善坊は末っ子じゃろう。子供の頃から兄貴たちに頭が上がらなかったんじゃろう。何か、あっと言わせるような事をしたかったに違いない」
「確かにのう。成功すれば、たとえ、死んでも名は残るからのう。超勝寺の一族は、ますます、本願寺の中で勢力を伸ばす事になるのう」
「そうですね。ところで、富樫次郎ですが、よく出て来ましたね」と慶聞坊は言った。
「ああ。わしも、てっきり来ないものじゃと思っておった」と蓮崇も言った。
「次郎としても、早く、この戦を終わりにしたいのじゃろう。そこで、いつまでも敵を包囲してないで、総攻撃を掛けるよう、檄を飛ばすため、家臣を送ってよこしたのじゃろう」
「それと、本願寺の武将たちの顔を見に来たのかもしれん」と蓮崇は言った。「すでに、戦の後の事も考え、本願寺の有力者の顔触れを偵察しに来たのでしょうな」
「成程、それもあるかもしれんのう。これだけの顔触れが一度に揃うという機会は、なかなか、ないからのう。この先、敵になるにしろ、味方のままでおるにしろ、本願寺内の実力者を知っていて損はないからのう」
「やはり、この先、次郎とは敵同士になるのでしょうか」と慶聞坊は聞いた。
「多分な。うまく行くはずはない」
「まあ、先の事は後にして、そろそろ、わしらも準備にかかりますかな」
「慶聞坊、ここの事は頼むぞ」
「はい。蓮綱殿の事は任せといて下さい」
蓮崇は慶覚坊と共に、蓮台寺城を一望のもとに見渡せる山の上へと登った。
十月十四日の丑(ウシ)の刻(午前二時)頃、蓮台寺城の東側、搦手(カラメテ)を守る城兵は眠気が覚めてしまったかのように、敵陣が動くのをじっと見つめていた。
搦手には二つの軍が陣を敷いていた。今まで、じっと動かず、昼間のように篝火(カガリビ)を焚いて蓮台寺城を睨んでいた。それが、こんな真夜中に松明(タイマツ)を持った兵がぞろぞろと移動していた。左側に陣を敷いていた軍は左に移動し、右側に陣を敷いていた軍は右側に移動している。
一体、何を始めるつもりか、と城内の兵はじっと敵の動きを見つめていた。左右に移動し始めた軍勢は、そのまま真っすぐに蓮台寺城から離れて行き、搦手側は篝火も消え、真っ暗となった。
次に、蓮台寺城の南に盛り上がる山の軍勢が動き出した。松明がぞろぞろと山を下りて行き、松岡寺の方に向かい、山の上から、やはり篝火は消えた。そして、山の下を固めていた二つの軍勢も陣を払い、それぞれ、松岡寺、本蓮寺へと向かい出した。南側も篝火がすっかり消え、真っ暗となった。
同じ頃、北側でも異変は起きていた。北側にも三つの軍勢が陣を敷いていたが、それらは皆、陣地を払い、北へと移動して行った。北側も真っ暗になってしまった。
三方が真っ暗になり、大手にあたる木場潟に面している西側だけが、多くの篝火が焚かれて明るかった。
敵の異常な動きを知った城内では、真夜中だというのに重臣たちが集まり、緊急の評定が行なわれていた。守護代の額熊夜叉(ヌカクマヤシャ)を中心に十数人の武将が集まり、敵の行動を分析検討していた。
「仲間割れじゃな」と熊夜叉は言った。「本願寺は次郎殿と手を組んで戦って来た。しかし、本願寺と次郎殿は一つの敵を相手にしておったのではない。本願寺の敵は高田派の門徒で、次郎殿の敵は幸千代殿じゃ。本願寺は各地の高田派の寺院を破壊し、高田派門徒をこの城に追い込んだ。この中に高田派門徒や坊主たちがおるので本願寺はこの城を囲んだ。次郎殿としては、本願寺門徒の数を頼んで、一気に、この城を落としたいと思っておるが、本願寺としては、多くの犠牲者を出してまで、この城を落とす気などない。本願寺は持久戦に持ち込み、こちらが干乾しになるのを待っておるつもりだったのじゃろう。しかし、次郎殿は早いところ戦のけりを着けたい。味方にあれだけの兵がおれば力攻めをするのは当然の事じゃ。あれだけの兵がすべてが武士だったら、すでに、この城は落城しておったじゃろう。それが、今まで無事でおったのは、奴らが正規の武士ではなく、百姓たちの集まりだからじゃ‥‥‥多分、その事で次郎殿と本願寺の意見が分かれ、本願寺は手を引く事に決め、ああして陣を引き払ったんじゃろう」
「しかし、何も、こんな夜中に引き払わなくても‥‥‥」と高田派の坊主が言った。
「昼間だったら、追撃される恐れがあるからじゃ」
「しかし、敵の罠かもしれませんぞ」と北加賀守護代の小杉但馬守が言った。
「罠? あれだけの軍勢がおって、何で罠など掛けるのじゃ。罠というのは味方が不利の時、敵を欺くために使うものじゃ」
「そうかも知れんが、一応、物見を出して調べた方がいいんじゃないかのう」
「うむ。勿論、それは調べる。六郎、誰か、物見に出してくれ」
「はっ」と六郎と呼ばれた武将は出て行った。
「さて、どうするかじゃ」と熊夜叉は一同を見渡した。
「もし、本願寺が引き上げたとすれば、まず、あの山を取り戻さなくてはなるまい」と狩野伊賀入道は言った。
「そうじゃのう。本願寺も馬鹿じゃ。あの山を取られたら、松岡寺も本蓮寺も簡単に潰せる。やはり、考える事が甘いのう」
「あの山を取るのなら今のうちじゃ。夜が明ける前に、あの山の上に陣を敷き、夜明けと共に、松岡寺と本蓮寺をたたき潰すのじゃ」
「伊賀殿、あの山の事は、そなたに任そう」
その時、大手側を見張っていた兵が新しい情報を持って来た。
木場潟に浮かんでいた船が皆、松明を灯しながら引き上げて行き、前面に陣を敷いていた三つの軍勢のうち二つが陣を払い、本蓮寺の方に移動して行った。この蓮台寺城を囲んでいた軍勢の内、今、残っているのは、正面に陣を敷いている富樫次郎政親軍だけで、そこだけが篝火を燃やしていて明るく、後は、どこも真っ暗になってしまったという。
「やはりのう、間違いないわ。仲間割れじゃ。本願寺は次郎殿に愛想を尽かし、全員、退却したんじゃ。雪が降るまで、じっと我慢と決め込んでおったが、どうやら、我らに運が向いて来たらしい。本願寺が消えれば、次郎殿の兵など五千もおるまい。城から打って出て、たたき潰してくれるわ。しかも、次郎殿の後ろは木場潟じゃ。自ら、逃げ場のない所に陣を敷いておる。多分、次郎殿は夜中に本願寺が引き上げた事など知るまい。今頃、高鼾をかいて寝ておる事じゃろう。よし、明日の朝、夜明けと共に出撃じゃ。皆を起こして、準備させい!」
城の中は戦の準備に慌ただしくなった。本願寺が消えたという事で士気は上がり、富樫次郎の陣の篝火に吸い寄せられるように、兵は皆、大手口に集中して行った。
敵陣を探るために放った物見は帰って来なかった。しかし、誰も、そんな事には気づかず、戦の準備に忙しく動き回っていた。物見を出した松村六郎左衛門は物見の事など、すっかり忘れ、一番槍を務めようと兵を引き連れ山を下り、最前線まで進出していた。
一方、狩野伊賀入道は五百の兵を引き連れ、松岡寺と本蓮寺の中央に位置する山を目指して、松明を掲げて進んでいた。
山の上の敵の陣地には空濠が掘られ、土塁が築かれていたが誰もいなかった。柵で囲まれた陣地の中には小屋が幾つか建ち、高い井楼(セイロウ)が立っていた。
狩野伊賀守率いる五百人は陣地の中に入り、夜明けを待った。
狩野伊賀入道の頭の中には、すでに、今回の戦に勝利した後の事が浮かんでいた。次郎を倒し、幸千代殿がこの国の守護となれば、守護代の熊夜叉殿は幸千代殿と共に京に移り、自分は正式に南加賀の守護代となるだろうと思っていた。自分がこの手で、この辺りを治める事となる。そうなると邪魔なのは本願寺だった。次郎を倒した後、松岡寺、本蓮寺を倒し、そして、吉崎を倒せばいい、と簡単に思った。しかし、よく考えてみると、この先、本願寺を敵に回して戦をするよりも、本願寺と手を結んだ方がいいかもしれない、とも思った。あれだけの門徒のいる本願寺を敵に回して戦をするよりも、手を結んだ方が絶対によかった。本願寺にしてみれば、この国の守護は次郎だろうと幸千代殿だろうと、どっちでもいいはずだ。成り行きで、次郎と組んでいるが、幸千代殿を敵にしているわけではない。こっちが高田派と手を切れば、本願寺も幸千代殿を恨むまい。高田派には悪いが高田派の坊主共を本願寺に引き渡し、手を結んだ方が得策だと思った。熊夜叉殿も、そう思うに違いない。次郎を倒したら、さっそく本願寺に使いを出した方がいいだろう、と思った。
そんな事を考えている時、一人の兵が大変だ、と言って、伊賀入道のいる小屋に走り込んで来た。
「城が、城が燃えています」
「何じゃと」
伊賀入道が外に出て、蓮台寺城の方を見ると、確かに城が燃えていた。
「一体、どうした事じゃ。馬鹿もんが慌てて、火事でも起こしたのか‥‥‥」
すでに、明るくなりかけていた。
「何じゃ、あれは」
誰もいないはずの、蓮台寺城の回りには兵が溢れていた。旗を靡(ナビ)かせながら、数万の軍勢が蓮台寺城目指して、一斉に攻めていた。
「図(ハカ)られたか‥‥‥」
その時、山の回りから鬨(トキ)の声が上がり、敵が攻め寄せて来た。
皆、呆然として、蓮台寺城を見ていたため、戦うどころではなかった。ほとんどの者は弓矢で射られ、敵に立ち向かって行った者も、皆、やられた。
伊賀入道は二、三人の敵を倒したが、数には勝てず、討ち死にした。
山の上の五百人を全滅にした本願寺勢は、そのまま、山づたいに蓮台寺城に攻め込んで行った。
一方、蓮台寺城では戦の準備も調い、後は夜が明けるのを待つだけだった。搦手や南の方の守りを固めていた兵たちも、ほとんどが出撃のため大手口に集まっていた。
夜が明ける、ほんの少し前だった。突然、南にある曲輪(クルワ)から火の手が上がった。しばらくして、搦手の曲輪からも火が出た。
「曲者(クセモノ)じゃ!」と誰かが騒いだ。
「敵じゃ!」とまた、誰かが怒鳴った。
城内は混乱に陥った。
この時、最前線にいた兵たちは、山の上の城の騒ぎを聞き、鬨の声と勘違いした。
すでに、明るくなりかけていた。
最前線にいた松村六郎左衛門は二千人余りの兵を引き連れ、富樫次郎の陣を目指して突撃して行った。
額熊夜叉は幸千代と共に本丸にいた。火事が起きたとの知らせを聞き、「馬鹿者めが、こんな時に火事を起こしおって」と敵の侵入に気づいていない。
やがて、物見櫓(モノミヤグラ)にいた兵が慌てて部屋に飛び込んで来た。
「敵です」とその兵は言った。
「敵がどうした。はっきり言わんか」
「回り中、敵に囲まれております」
「なに」
熊夜叉は物見櫓に登って回りを見回した。確かに、回り中、敵だった。しかも、その敵は一斉に、こちらに向かって来ていた。
大手口の方を見ると、城から打って出た軍勢が、その数倍もの敵に囲まれている。全滅は時間の問題だった。城内の方を見ると、あちこちで城が燃え、すでに、城内に敵が入っており、戦いが始まっていた。
「くそ! 本願寺め」
熊夜叉は櫓から下りると、幸千代のもとに戻り、「やり直しじゃ」と幸千代の側近の小杉新八郎に言った。
「逃げるのですか」と新八郎は聞いた。
「逃げるのではない。改めて、再起を図るのじゃ」
「畏まりました」
「ただ、この城から抜け出すのは容易な事ではないぞ。数万の大軍が押し寄せて来ておる」
「やはり、罠だったのですか」
「敵にしてやられたわ」
熊夜叉は幸千代と新八郎を連れ、本丸から出ると、物陰に隠れながら山の中に落ちて行った。
城内は極度の混乱状態に陥っていた。
夜が明け、数万の敵が攻めて来る事を知った兵たちは、信じられない事が起こったかのように自分の目を疑った。
敵の数は、昨日の昼とまったく変わっていない。
誰もが数万の敵は引き上げ、敵は富樫次郎の軍、五千余りだと信じ込んでいた。そして、味方の勝利を思い、心の中に安心感が生まれていた。ところが、敵は減ってはいなかった。しかも、攻めて来る敵に対する守りは全然、固めていない。皆、なす術(スベ)を知らず、おまけに城は燃え、敵は、すでに城内に潜入していた。
この時、場内に潜入していたのは藤島定善坊率いる百人だけだった。しかし、混乱している兵たちは、すでに、数千の敵がいるものと思い込んでいた。
やがて、大将の幸千代と守護代の熊夜叉がいない事が城内に知れると、戦をする気力もなくなって行った。かと行って、数万の敵に囲まれては逃げる事もできず、城内の兵は、ばらばらになったまま、攻めて来る大軍の前に散って行った。
城に合図の火の手が上がってから、わずか、一時(二時間)で、蓮台寺城は陥落(カンラク)した。
城は、すべて、燃えて無くなり、城内には死体の山が築かれて行った。ただ、いつもの戦と違う事は、それらの死体には、ほとんど首が付いたままだった。次郎の家臣の武士たちは武将の首を掻き切っていたが、本願寺の門徒たちは敵の首などに用はなかった。用があるのは、見事に討ち死にして行った門徒たちの死体だった。
この時、五千人以上が負傷し、一千人近くが戦死した。中には武士も何人かいたが、ほとんどの者が名もないの本願寺の門徒だった。夜中の内に、搦手から城内に潜入した藤島定善坊も全身に傷を負い、戦死していた。彼が率いていた百人の内、負傷しながらも生きていたのは、わずかに十六人だった。
焼け跡から木場潟を眺めていた蓮崇に、慶覚坊が近づいて来て言った。
「うまく、行ったのう」
「ええ。ようやく、終わった」
「思い通りじゃったな」
「はい。しかし、これからが大変じゃ」
「そうじゃな。とにかく、早いとこ、上人様に戦が終わった事を伝えた方がいいな」
「はい。それは、もう、慶聞坊が飛んで行きました」
「ほう。あいつめ、もう出掛けたのか。早い奴じゃのう。ようやく、これで風眼坊もお払い箱じゃな」
「そうは行きませんよ。風眼坊殿は今、医者をやっておりますからね。これから、しばらくは負傷者の手当に忙しい事でしょう」
「奴が医者?」
「ええ。なかなか、評判がいいみたいですよ」
「ほう‥‥‥あいつも何を考えておるんだか分からん奴じゃのう」
慶覚坊も木場潟を眺めた。
木場潟の向こうに今江潟と柴山潟が見え、その向こうに海が見えた。
いい眺めだった。
幸千代はこの眺めが気に入って、この地に城を築いたのだろうか‥‥‥
平和な時代に生まれたら、ここの城主として、のんびり、景色を見ながら暮らせたのかも知れなかった。
慶覚坊は、そんな事を考えながら景色を眺めていた。
戦のあった次の日、初雪が降り、辺り一面、ほんのりと雪化粧をした。
戦は終わった。
後に、この戦は、加賀文明の一向一揆と呼ばれ、本願寺門徒による一揆の始まりであった。
一般に、一向宗といった場合、その中には、一遍智真(イッペンチシン)の始めた時宗、一向俊聖(イッコウシュンショウ)の始めた一向宗、そして、浄土真宗が含まれていた。念仏一つに専念している宗派は、すべて、一向宗と呼ばれ、一々、区別されなかった。蓮如は浄土真宗本願寺派が一向宗と呼ばれるのを嫌い、門徒たちにも、一向宗と呼ぶな、と何度も言っていたが、蓮如の思惑通りにはならず、以後、本願寺門徒による一揆の事を、一向一揆と呼ぶようになって行った。
蓮台寺城の攻城戦が、あれだけの短時間で決着が着いたのは、蓮崇の考えた芝居じみた作戦のお陰だった。
蓮崇は自ら小人数を引き連れて、搦手から城内に潜入するつもりでいた。しかし、敵の守りは堅く、簡単に潜入できそうもなかった。敵の目をそらせ、搦手の守りを薄くしなければならない。蓮崇は色々と考えた。野々市から引き連れて行く一万余りの兵を何とか使って、敵の目をごまかせないかと考えた。そこで思い付いたのが松明による移動だった。
一万の兵を分散し、夜中に松明を持たせて移動させる。初め、蓮崇は、それらの兵を皆、大手口に集めようと思った。大手口に松明を集中させ、その他は篝火を消して真っ暗にする。大手口に兵が集まるのを城内から見れば、搦手の守りは、いくらか手薄になるだろうと考えた。蓮崇は、その作戦を松岡寺の評定の場で披露した。そして、みんなで検討し、大手口に集めるよりも陣を引き払うように見せた方がいいだろうという事に決まり、そのように実行した。敵はまんまと引っ掛かり、本願寺方が陣を払ったと錯覚して城の守りを解き、富樫次郎の軍に総攻撃を掛けるべく大手口に集合した。
定善坊率いる百人は、楽々と搦手から城内に潜入し、城に火を掛け、作戦は大成功に終わった。ただ、敵の大将の幸千代と守護代の額熊夜叉の姿がどこにも見当たらず、討つ事ができなかったのは残念な事だった。あれだけの包囲陣を突破して逃げる事は至難の業だった。しかし、城内、しらみ潰しに捜してみたが、死体もなければ隠れてもいなかった。
後で分かった事だが、城の南面から攻め登っていた兵が、山中で、三人のかったい(癩病)乞食と出会っていた。顔や手に汚い布を巻き付け、ぼろぼろの着物を纏っていたと言う。兵たちは乞食に気づいたが、皆、城を落とす事に真剣だったので、乞食の事など誰も気に止めなかった。後になって考えてみて、あんな所に乞食がいるわけがないと気づき、あの三人が、幸千代たちだったに違いないと思ったが後の祭りだった。
冷静に考えてみれば、一月半も数万の兵に包囲されていた山の中に、乞食がウロウロしているはずはなかった。しかし、その時は、誰もその事に気づかず、かったいが山の中に隠れているな、としか思わなかった。
幸千代と額熊夜叉と小杉新八郎の三人は、無事に京まで逃げて行った。
蓮台寺城が落城してから、各地で残党狩りが行なわれ、無事に城から抜け出した者たちも数多く捕まって行った。幸千代の重臣で、新八郎の父親、小杉但馬守も捕まり、切腹して果てた。
本泉寺にいた蓮如のもとに落城の知らせを持って来たのは慶聞坊だった。慶聞坊はその日のうちに馬を飛ばして本泉寺に駈け付けた。
蓮如は村田珠光(ジュコウ)と風眼坊と十郎の四人で庭園造りをしていた。庭園はほぼ完成していたが、肝心な植木と庭石がなかった。
慶聞坊が戦の終わりを告げると蓮如は手を止め、「そうか‥‥‥」と一言、言った。
「蓮台寺城が落ちたのか」と風眼坊は聞いた。
「はい。今朝未明より総攻撃が始まり、一時余りの攻撃で、城は見事に落ちました」
「そうか‥‥‥ようやく、落ちたか‥‥‥蓮崇殿の作戦がうまく行ったのじゃな」
「はい。うまく、行きました」
「それで、蓮崇殿は無事なのか」
「蓮崇殿は無事です。しかし、藤島の定善坊殿が亡くなりました」
「なに、定善坊が死んだ?」と蓮如が聞いた。
「はい。搦手より百人を引き連れて城内に潜入し、城に火を掛け、敵を混乱させ、総攻撃を助けましたが討ち死にしました」
「そうじゃったのか‥‥‥あいつが討ち死にか」
「はい。傷だらけでした」
「そうか‥‥‥犠牲者はどれ位じゃ」
「城が落ちて、すぐに、わたしはこちらに向かったので、詳しくは分かりませんが、予想以上に少ないと思います」
「それでも、数百人は死んだじゃろうな」と風眼坊が言った。
「多分‥‥‥」
「上人様、そろそろ、吉崎に帰られた方がいいと思いますが」と慶聞坊は言った。
「ああ、分かっておる」
次の日、蓮崇が戻って来て、戦の詳しい状況を蓮如に知らせた。
門徒たちは皆、陣を払って引き上げて行き、富樫次郎は野々市の守護所に入った。負傷者も軽い者たちは皆、家に帰って行ったが、重傷者が一千人近く、松岡寺と本蓮寺の多屋に収容されていると言う。
蓮如は珠光を連れ、蓮崇、慶聞坊、十郎と共に、船に乗って吉崎に帰って行った。
風眼坊はお雪を連れて、負傷者のいる松岡寺に向かった。
「忙しくなるぞ」と風眼坊はお雪に言った。
「はい」とお雪は頷いた。何となく嬉しそうだった。
初雪の散らつく中、風眼坊とお雪は並んで本泉寺の門前町の中を歩いて行った。
まず、蓮台寺城周辺の見取り図を前にして、各部署の現在の状況をそれぞれが説明した。そして、蓮崇が、大量の武器が届いた事と河北郡からの援軍の事を話し、これからどうするか、各自の意見を聞いた。
一通り、皆の意見を聞いたところ、雪が降る前に、けりを付けなければならないという思いは一致していた。そして、士気が低下しているため、早いうちに片を付けなければならないと誰もが思っていた。しかし、その作戦となると意見は一致しなかった。
やはり、犠牲者を覚悟の上での力責めを支持するものが多かった。特に、次郎の重臣、山川三河守は時を同じくして一斉に攻めかかる事を主張した。国人門徒たちも、それ以外はないと山川の意見に同意した。
その意見に反対したのは、頭を丸めた坊主たちだった。力攻めをすれば、確かに勝てるだろうが犠牲者が多数でる。その犠牲者というのは歩兵で成り立つ本願寺の門徒たちだった。本願寺は他の寺院と違って荘園を持っていない。門徒だけが本願寺の財産といってよかった。その門徒を大勢、死なせたのでは、戦に勝ったとしても、この先、布教を広めて行くのに差し障りとなる。かと言って、力攻め以外にいい案は出て来なかった。
蓮崇は皆の意見を一通り聞くと、一同を見回し、「それでは、明後日の未明に総攻撃を掛ける事に致しましょう」と言った。
「あさってか‥‥‥」とそれぞれが皆の顔を見回した。
「いいじゃろう」と山川三河守が大きく頷いた。
「しかしのう‥‥‥」と和田長光坊が身を乗り出した。
「ただ、力攻めだけでは多数の犠牲者が出てしまいます。そこで、総攻撃の前に、小人数で城内に潜入し、城に火を掛け、敵を混乱させてから総攻撃を掛ければ、それ程の犠牲者を出さなくても済むかもしれません」と蓮崇は言うと皆の顔を見渡した。
「確かにそうかもしれんが、城内に潜入などできるのか」と山川は蓮崇を睨んだ後、一同の顔を見回した。
「難しいでしょう」と蓮崇は言った。「しかし、死ぬ気でやれば何とかなると思います。敵も籠城に入って、すでに一月半になります。疲れておるに違いありません。何とか夜中に忍び込み、未明に火を掛け、敵を混乱させます」
「まあ、言うのは簡単じゃがな、誰が、その役をするかじゃな。下っ端を使ったのでは勤まるまい」と山川は蓮崇を問い詰めた。
「この中の誰かが犠牲になるという事か」と慶覚坊が山川に言った。
「その作戦を実行に移すとすればじゃ。うまく、行っても死ぬ事は確実。失敗すれば、ただの犬死にじゃ」山川は身を乗り出し、皆を見回しながら言った。
「しかし、成功すれば、総攻撃の方も確実にうまく行くのう」と安吉源左衛門は腕を組み、半分、眠ったような顔付きで言った。
「皆さん、どうですか、この作戦は」と蓮崇は一人一人の顔を見ながら言った。
「作戦はいい。だが、その大役をやる奴がこの中におるのか」と山川は皮肉っぽい口調で言った。
蓮崇はまた、皆を見回した。
誰も自分がやるとは言い出さなかった。
「その大役、わしが引き受けます」と蓮崇は言い放った。「わしは今回、まだ、戦らしい戦をしておりません。見事に成功して最後に花を咲かせましょう」
「蓮崇殿、おぬし‥‥‥」と慶覚坊は蓮崇の顔を見つめた。「おぬし、初めから自分でやるつもりで、この作戦を披露したな」
「口に出した者がやらなければ、しょうがないでしょう」
「それでは」と蓮崇が作戦の説明を言おうとした時、藤島定善坊が声を掛けた。
「蓮崇殿、蓮崇殿が行くのは、まずい」と定善坊は言った。「蓮崇殿がいなくなれば、本願寺をまとめて行く者がいなくなってしまう‥‥‥わしが、その役を引き受けよう」
「なに、おぬしがやる?」と定善坊の兄、浄徳寺の慶恵が驚いた。
「ああ、蓮崇殿が死んだら困るが、わしなら兄上もおる事だし、これだけ名誉な大役を引き受けて、死ねるのなら本望じゃ」
「定善坊殿、引き受けてくれるか」と蓮崇は努めて平静をよそおって聞いた。
定善坊は自分を見つめている皆の顔を見回し、蓮崇の方を向くと大きく頷いた。
「定善坊‥‥‥」と和田長光坊は何かを言おうとしたが言葉にならなかった。
その後、詳しく作戦を立て、話がまとまると、各自、明後日の準備のため、それぞれの陣地に帰って行った。
蓮崇と慶聞坊と慶覚坊の三人が残った。
「いよいよ、明後日か‥‥‥」と慶聞坊は伸びて来た坊主頭を撫でた。
「長かったのう」と慶覚坊は言った。
蓮崇は綺麗に剃っていたが、慶覚坊も慶聞坊も髪は伸び、髭も伸びていた。
「上人様が高田派打倒を宣言してから、もうすぐ、四ケ月じゃ」と蓮崇は言った。
「しかし、面白い作戦を考えたものじゃのう」と慶覚坊が絵図面を見ながら言った。
「いや、わしが自分で城内に潜入するつもりじゃったからのう。自分でやるとなると、何とか成功させるために色々と考えるものじゃよ」
「やはり、自分でやるつもりじゃったのか」
「定善坊のお陰で、命拾いしたわ」
「しかし、よく、定善坊も覚悟を決めたもんじゃのう」
「あそこも兄弟が多いからのう。定善坊は末っ子じゃろう。子供の頃から兄貴たちに頭が上がらなかったんじゃろう。何か、あっと言わせるような事をしたかったに違いない」
「確かにのう。成功すれば、たとえ、死んでも名は残るからのう。超勝寺の一族は、ますます、本願寺の中で勢力を伸ばす事になるのう」
「そうですね。ところで、富樫次郎ですが、よく出て来ましたね」と慶聞坊は言った。
「ああ。わしも、てっきり来ないものじゃと思っておった」と蓮崇も言った。
「次郎としても、早く、この戦を終わりにしたいのじゃろう。そこで、いつまでも敵を包囲してないで、総攻撃を掛けるよう、檄を飛ばすため、家臣を送ってよこしたのじゃろう」
「それと、本願寺の武将たちの顔を見に来たのかもしれん」と蓮崇は言った。「すでに、戦の後の事も考え、本願寺の有力者の顔触れを偵察しに来たのでしょうな」
「成程、それもあるかもしれんのう。これだけの顔触れが一度に揃うという機会は、なかなか、ないからのう。この先、敵になるにしろ、味方のままでおるにしろ、本願寺内の実力者を知っていて損はないからのう」
「やはり、この先、次郎とは敵同士になるのでしょうか」と慶聞坊は聞いた。
「多分な。うまく行くはずはない」
「まあ、先の事は後にして、そろそろ、わしらも準備にかかりますかな」
「慶聞坊、ここの事は頼むぞ」
「はい。蓮綱殿の事は任せといて下さい」
蓮崇は慶覚坊と共に、蓮台寺城を一望のもとに見渡せる山の上へと登った。
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十月十四日の丑(ウシ)の刻(午前二時)頃、蓮台寺城の東側、搦手(カラメテ)を守る城兵は眠気が覚めてしまったかのように、敵陣が動くのをじっと見つめていた。
搦手には二つの軍が陣を敷いていた。今まで、じっと動かず、昼間のように篝火(カガリビ)を焚いて蓮台寺城を睨んでいた。それが、こんな真夜中に松明(タイマツ)を持った兵がぞろぞろと移動していた。左側に陣を敷いていた軍は左に移動し、右側に陣を敷いていた軍は右側に移動している。
一体、何を始めるつもりか、と城内の兵はじっと敵の動きを見つめていた。左右に移動し始めた軍勢は、そのまま真っすぐに蓮台寺城から離れて行き、搦手側は篝火も消え、真っ暗となった。
次に、蓮台寺城の南に盛り上がる山の軍勢が動き出した。松明がぞろぞろと山を下りて行き、松岡寺の方に向かい、山の上から、やはり篝火は消えた。そして、山の下を固めていた二つの軍勢も陣を払い、それぞれ、松岡寺、本蓮寺へと向かい出した。南側も篝火がすっかり消え、真っ暗となった。
同じ頃、北側でも異変は起きていた。北側にも三つの軍勢が陣を敷いていたが、それらは皆、陣地を払い、北へと移動して行った。北側も真っ暗になってしまった。
三方が真っ暗になり、大手にあたる木場潟に面している西側だけが、多くの篝火が焚かれて明るかった。
敵の異常な動きを知った城内では、真夜中だというのに重臣たちが集まり、緊急の評定が行なわれていた。守護代の額熊夜叉(ヌカクマヤシャ)を中心に十数人の武将が集まり、敵の行動を分析検討していた。
「仲間割れじゃな」と熊夜叉は言った。「本願寺は次郎殿と手を組んで戦って来た。しかし、本願寺と次郎殿は一つの敵を相手にしておったのではない。本願寺の敵は高田派の門徒で、次郎殿の敵は幸千代殿じゃ。本願寺は各地の高田派の寺院を破壊し、高田派門徒をこの城に追い込んだ。この中に高田派門徒や坊主たちがおるので本願寺はこの城を囲んだ。次郎殿としては、本願寺門徒の数を頼んで、一気に、この城を落としたいと思っておるが、本願寺としては、多くの犠牲者を出してまで、この城を落とす気などない。本願寺は持久戦に持ち込み、こちらが干乾しになるのを待っておるつもりだったのじゃろう。しかし、次郎殿は早いところ戦のけりを着けたい。味方にあれだけの兵がおれば力攻めをするのは当然の事じゃ。あれだけの兵がすべてが武士だったら、すでに、この城は落城しておったじゃろう。それが、今まで無事でおったのは、奴らが正規の武士ではなく、百姓たちの集まりだからじゃ‥‥‥多分、その事で次郎殿と本願寺の意見が分かれ、本願寺は手を引く事に決め、ああして陣を引き払ったんじゃろう」
「しかし、何も、こんな夜中に引き払わなくても‥‥‥」と高田派の坊主が言った。
「昼間だったら、追撃される恐れがあるからじゃ」
「しかし、敵の罠かもしれませんぞ」と北加賀守護代の小杉但馬守が言った。
「罠? あれだけの軍勢がおって、何で罠など掛けるのじゃ。罠というのは味方が不利の時、敵を欺くために使うものじゃ」
「そうかも知れんが、一応、物見を出して調べた方がいいんじゃないかのう」
「うむ。勿論、それは調べる。六郎、誰か、物見に出してくれ」
「はっ」と六郎と呼ばれた武将は出て行った。
「さて、どうするかじゃ」と熊夜叉は一同を見渡した。
「もし、本願寺が引き上げたとすれば、まず、あの山を取り戻さなくてはなるまい」と狩野伊賀入道は言った。
「そうじゃのう。本願寺も馬鹿じゃ。あの山を取られたら、松岡寺も本蓮寺も簡単に潰せる。やはり、考える事が甘いのう」
「あの山を取るのなら今のうちじゃ。夜が明ける前に、あの山の上に陣を敷き、夜明けと共に、松岡寺と本蓮寺をたたき潰すのじゃ」
「伊賀殿、あの山の事は、そなたに任そう」
その時、大手側を見張っていた兵が新しい情報を持って来た。
木場潟に浮かんでいた船が皆、松明を灯しながら引き上げて行き、前面に陣を敷いていた三つの軍勢のうち二つが陣を払い、本蓮寺の方に移動して行った。この蓮台寺城を囲んでいた軍勢の内、今、残っているのは、正面に陣を敷いている富樫次郎政親軍だけで、そこだけが篝火を燃やしていて明るく、後は、どこも真っ暗になってしまったという。
「やはりのう、間違いないわ。仲間割れじゃ。本願寺は次郎殿に愛想を尽かし、全員、退却したんじゃ。雪が降るまで、じっと我慢と決め込んでおったが、どうやら、我らに運が向いて来たらしい。本願寺が消えれば、次郎殿の兵など五千もおるまい。城から打って出て、たたき潰してくれるわ。しかも、次郎殿の後ろは木場潟じゃ。自ら、逃げ場のない所に陣を敷いておる。多分、次郎殿は夜中に本願寺が引き上げた事など知るまい。今頃、高鼾をかいて寝ておる事じゃろう。よし、明日の朝、夜明けと共に出撃じゃ。皆を起こして、準備させい!」
城の中は戦の準備に慌ただしくなった。本願寺が消えたという事で士気は上がり、富樫次郎の陣の篝火に吸い寄せられるように、兵は皆、大手口に集中して行った。
敵陣を探るために放った物見は帰って来なかった。しかし、誰も、そんな事には気づかず、戦の準備に忙しく動き回っていた。物見を出した松村六郎左衛門は物見の事など、すっかり忘れ、一番槍を務めようと兵を引き連れ山を下り、最前線まで進出していた。
一方、狩野伊賀入道は五百の兵を引き連れ、松岡寺と本蓮寺の中央に位置する山を目指して、松明を掲げて進んでいた。
山の上の敵の陣地には空濠が掘られ、土塁が築かれていたが誰もいなかった。柵で囲まれた陣地の中には小屋が幾つか建ち、高い井楼(セイロウ)が立っていた。
狩野伊賀守率いる五百人は陣地の中に入り、夜明けを待った。
狩野伊賀入道の頭の中には、すでに、今回の戦に勝利した後の事が浮かんでいた。次郎を倒し、幸千代殿がこの国の守護となれば、守護代の熊夜叉殿は幸千代殿と共に京に移り、自分は正式に南加賀の守護代となるだろうと思っていた。自分がこの手で、この辺りを治める事となる。そうなると邪魔なのは本願寺だった。次郎を倒した後、松岡寺、本蓮寺を倒し、そして、吉崎を倒せばいい、と簡単に思った。しかし、よく考えてみると、この先、本願寺を敵に回して戦をするよりも、本願寺と手を結んだ方がいいかもしれない、とも思った。あれだけの門徒のいる本願寺を敵に回して戦をするよりも、手を結んだ方が絶対によかった。本願寺にしてみれば、この国の守護は次郎だろうと幸千代殿だろうと、どっちでもいいはずだ。成り行きで、次郎と組んでいるが、幸千代殿を敵にしているわけではない。こっちが高田派と手を切れば、本願寺も幸千代殿を恨むまい。高田派には悪いが高田派の坊主共を本願寺に引き渡し、手を結んだ方が得策だと思った。熊夜叉殿も、そう思うに違いない。次郎を倒したら、さっそく本願寺に使いを出した方がいいだろう、と思った。
そんな事を考えている時、一人の兵が大変だ、と言って、伊賀入道のいる小屋に走り込んで来た。
「城が、城が燃えています」
「何じゃと」
伊賀入道が外に出て、蓮台寺城の方を見ると、確かに城が燃えていた。
「一体、どうした事じゃ。馬鹿もんが慌てて、火事でも起こしたのか‥‥‥」
すでに、明るくなりかけていた。
「何じゃ、あれは」
誰もいないはずの、蓮台寺城の回りには兵が溢れていた。旗を靡(ナビ)かせながら、数万の軍勢が蓮台寺城目指して、一斉に攻めていた。
「図(ハカ)られたか‥‥‥」
その時、山の回りから鬨(トキ)の声が上がり、敵が攻め寄せて来た。
皆、呆然として、蓮台寺城を見ていたため、戦うどころではなかった。ほとんどの者は弓矢で射られ、敵に立ち向かって行った者も、皆、やられた。
伊賀入道は二、三人の敵を倒したが、数には勝てず、討ち死にした。
山の上の五百人を全滅にした本願寺勢は、そのまま、山づたいに蓮台寺城に攻め込んで行った。
一方、蓮台寺城では戦の準備も調い、後は夜が明けるのを待つだけだった。搦手や南の方の守りを固めていた兵たちも、ほとんどが出撃のため大手口に集まっていた。
夜が明ける、ほんの少し前だった。突然、南にある曲輪(クルワ)から火の手が上がった。しばらくして、搦手の曲輪からも火が出た。
「曲者(クセモノ)じゃ!」と誰かが騒いだ。
「敵じゃ!」とまた、誰かが怒鳴った。
城内は混乱に陥った。
この時、最前線にいた兵たちは、山の上の城の騒ぎを聞き、鬨の声と勘違いした。
すでに、明るくなりかけていた。
最前線にいた松村六郎左衛門は二千人余りの兵を引き連れ、富樫次郎の陣を目指して突撃して行った。
額熊夜叉は幸千代と共に本丸にいた。火事が起きたとの知らせを聞き、「馬鹿者めが、こんな時に火事を起こしおって」と敵の侵入に気づいていない。
やがて、物見櫓(モノミヤグラ)にいた兵が慌てて部屋に飛び込んで来た。
「敵です」とその兵は言った。
「敵がどうした。はっきり言わんか」
「回り中、敵に囲まれております」
「なに」
熊夜叉は物見櫓に登って回りを見回した。確かに、回り中、敵だった。しかも、その敵は一斉に、こちらに向かって来ていた。
大手口の方を見ると、城から打って出た軍勢が、その数倍もの敵に囲まれている。全滅は時間の問題だった。城内の方を見ると、あちこちで城が燃え、すでに、城内に敵が入っており、戦いが始まっていた。
「くそ! 本願寺め」
熊夜叉は櫓から下りると、幸千代のもとに戻り、「やり直しじゃ」と幸千代の側近の小杉新八郎に言った。
「逃げるのですか」と新八郎は聞いた。
「逃げるのではない。改めて、再起を図るのじゃ」
「畏まりました」
「ただ、この城から抜け出すのは容易な事ではないぞ。数万の大軍が押し寄せて来ておる」
「やはり、罠だったのですか」
「敵にしてやられたわ」
熊夜叉は幸千代と新八郎を連れ、本丸から出ると、物陰に隠れながら山の中に落ちて行った。
城内は極度の混乱状態に陥っていた。
夜が明け、数万の敵が攻めて来る事を知った兵たちは、信じられない事が起こったかのように自分の目を疑った。
敵の数は、昨日の昼とまったく変わっていない。
誰もが数万の敵は引き上げ、敵は富樫次郎の軍、五千余りだと信じ込んでいた。そして、味方の勝利を思い、心の中に安心感が生まれていた。ところが、敵は減ってはいなかった。しかも、攻めて来る敵に対する守りは全然、固めていない。皆、なす術(スベ)を知らず、おまけに城は燃え、敵は、すでに城内に潜入していた。
この時、場内に潜入していたのは藤島定善坊率いる百人だけだった。しかし、混乱している兵たちは、すでに、数千の敵がいるものと思い込んでいた。
やがて、大将の幸千代と守護代の熊夜叉がいない事が城内に知れると、戦をする気力もなくなって行った。かと行って、数万の敵に囲まれては逃げる事もできず、城内の兵は、ばらばらになったまま、攻めて来る大軍の前に散って行った。
城に合図の火の手が上がってから、わずか、一時(二時間)で、蓮台寺城は陥落(カンラク)した。
城は、すべて、燃えて無くなり、城内には死体の山が築かれて行った。ただ、いつもの戦と違う事は、それらの死体には、ほとんど首が付いたままだった。次郎の家臣の武士たちは武将の首を掻き切っていたが、本願寺の門徒たちは敵の首などに用はなかった。用があるのは、見事に討ち死にして行った門徒たちの死体だった。
この時、五千人以上が負傷し、一千人近くが戦死した。中には武士も何人かいたが、ほとんどの者が名もないの本願寺の門徒だった。夜中の内に、搦手から城内に潜入した藤島定善坊も全身に傷を負い、戦死していた。彼が率いていた百人の内、負傷しながらも生きていたのは、わずかに十六人だった。
焼け跡から木場潟を眺めていた蓮崇に、慶覚坊が近づいて来て言った。
「うまく、行ったのう」
「ええ。ようやく、終わった」
「思い通りじゃったな」
「はい。しかし、これからが大変じゃ」
「そうじゃな。とにかく、早いとこ、上人様に戦が終わった事を伝えた方がいいな」
「はい。それは、もう、慶聞坊が飛んで行きました」
「ほう。あいつめ、もう出掛けたのか。早い奴じゃのう。ようやく、これで風眼坊もお払い箱じゃな」
「そうは行きませんよ。風眼坊殿は今、医者をやっておりますからね。これから、しばらくは負傷者の手当に忙しい事でしょう」
「奴が医者?」
「ええ。なかなか、評判がいいみたいですよ」
「ほう‥‥‥あいつも何を考えておるんだか分からん奴じゃのう」
慶覚坊も木場潟を眺めた。
木場潟の向こうに今江潟と柴山潟が見え、その向こうに海が見えた。
いい眺めだった。
幸千代はこの眺めが気に入って、この地に城を築いたのだろうか‥‥‥
平和な時代に生まれたら、ここの城主として、のんびり、景色を見ながら暮らせたのかも知れなかった。
慶覚坊は、そんな事を考えながら景色を眺めていた。
戦のあった次の日、初雪が降り、辺り一面、ほんのりと雪化粧をした。
6
戦は終わった。
後に、この戦は、加賀文明の一向一揆と呼ばれ、本願寺門徒による一揆の始まりであった。
一般に、一向宗といった場合、その中には、一遍智真(イッペンチシン)の始めた時宗、一向俊聖(イッコウシュンショウ)の始めた一向宗、そして、浄土真宗が含まれていた。念仏一つに専念している宗派は、すべて、一向宗と呼ばれ、一々、区別されなかった。蓮如は浄土真宗本願寺派が一向宗と呼ばれるのを嫌い、門徒たちにも、一向宗と呼ぶな、と何度も言っていたが、蓮如の思惑通りにはならず、以後、本願寺門徒による一揆の事を、一向一揆と呼ぶようになって行った。
蓮台寺城の攻城戦が、あれだけの短時間で決着が着いたのは、蓮崇の考えた芝居じみた作戦のお陰だった。
蓮崇は自ら小人数を引き連れて、搦手から城内に潜入するつもりでいた。しかし、敵の守りは堅く、簡単に潜入できそうもなかった。敵の目をそらせ、搦手の守りを薄くしなければならない。蓮崇は色々と考えた。野々市から引き連れて行く一万余りの兵を何とか使って、敵の目をごまかせないかと考えた。そこで思い付いたのが松明による移動だった。
一万の兵を分散し、夜中に松明を持たせて移動させる。初め、蓮崇は、それらの兵を皆、大手口に集めようと思った。大手口に松明を集中させ、その他は篝火を消して真っ暗にする。大手口に兵が集まるのを城内から見れば、搦手の守りは、いくらか手薄になるだろうと考えた。蓮崇は、その作戦を松岡寺の評定の場で披露した。そして、みんなで検討し、大手口に集めるよりも陣を引き払うように見せた方がいいだろうという事に決まり、そのように実行した。敵はまんまと引っ掛かり、本願寺方が陣を払ったと錯覚して城の守りを解き、富樫次郎の軍に総攻撃を掛けるべく大手口に集合した。
定善坊率いる百人は、楽々と搦手から城内に潜入し、城に火を掛け、作戦は大成功に終わった。ただ、敵の大将の幸千代と守護代の額熊夜叉の姿がどこにも見当たらず、討つ事ができなかったのは残念な事だった。あれだけの包囲陣を突破して逃げる事は至難の業だった。しかし、城内、しらみ潰しに捜してみたが、死体もなければ隠れてもいなかった。
後で分かった事だが、城の南面から攻め登っていた兵が、山中で、三人のかったい(癩病)乞食と出会っていた。顔や手に汚い布を巻き付け、ぼろぼろの着物を纏っていたと言う。兵たちは乞食に気づいたが、皆、城を落とす事に真剣だったので、乞食の事など誰も気に止めなかった。後になって考えてみて、あんな所に乞食がいるわけがないと気づき、あの三人が、幸千代たちだったに違いないと思ったが後の祭りだった。
冷静に考えてみれば、一月半も数万の兵に包囲されていた山の中に、乞食がウロウロしているはずはなかった。しかし、その時は、誰もその事に気づかず、かったいが山の中に隠れているな、としか思わなかった。
幸千代と額熊夜叉と小杉新八郎の三人は、無事に京まで逃げて行った。
蓮台寺城が落城してから、各地で残党狩りが行なわれ、無事に城から抜け出した者たちも数多く捕まって行った。幸千代の重臣で、新八郎の父親、小杉但馬守も捕まり、切腹して果てた。
本泉寺にいた蓮如のもとに落城の知らせを持って来たのは慶聞坊だった。慶聞坊はその日のうちに馬を飛ばして本泉寺に駈け付けた。
蓮如は村田珠光(ジュコウ)と風眼坊と十郎の四人で庭園造りをしていた。庭園はほぼ完成していたが、肝心な植木と庭石がなかった。
慶聞坊が戦の終わりを告げると蓮如は手を止め、「そうか‥‥‥」と一言、言った。
「蓮台寺城が落ちたのか」と風眼坊は聞いた。
「はい。今朝未明より総攻撃が始まり、一時余りの攻撃で、城は見事に落ちました」
「そうか‥‥‥ようやく、落ちたか‥‥‥蓮崇殿の作戦がうまく行ったのじゃな」
「はい。うまく、行きました」
「それで、蓮崇殿は無事なのか」
「蓮崇殿は無事です。しかし、藤島の定善坊殿が亡くなりました」
「なに、定善坊が死んだ?」と蓮如が聞いた。
「はい。搦手より百人を引き連れて城内に潜入し、城に火を掛け、敵を混乱させ、総攻撃を助けましたが討ち死にしました」
「そうじゃったのか‥‥‥あいつが討ち死にか」
「はい。傷だらけでした」
「そうか‥‥‥犠牲者はどれ位じゃ」
「城が落ちて、すぐに、わたしはこちらに向かったので、詳しくは分かりませんが、予想以上に少ないと思います」
「それでも、数百人は死んだじゃろうな」と風眼坊が言った。
「多分‥‥‥」
「上人様、そろそろ、吉崎に帰られた方がいいと思いますが」と慶聞坊は言った。
「ああ、分かっておる」
次の日、蓮崇が戻って来て、戦の詳しい状況を蓮如に知らせた。
門徒たちは皆、陣を払って引き上げて行き、富樫次郎は野々市の守護所に入った。負傷者も軽い者たちは皆、家に帰って行ったが、重傷者が一千人近く、松岡寺と本蓮寺の多屋に収容されていると言う。
蓮如は珠光を連れ、蓮崇、慶聞坊、十郎と共に、船に乗って吉崎に帰って行った。
風眼坊はお雪を連れて、負傷者のいる松岡寺に向かった。
「忙しくなるぞ」と風眼坊はお雪に言った。
「はい」とお雪は頷いた。何となく嬉しそうだった。
初雪の散らつく中、風眼坊とお雪は並んで本泉寺の門前町の中を歩いて行った。
17.大河内庄
1
空は晴れ渡っているが、風が冷たかった。
すでに、山の頂き辺りはうっすらと雪化粧している。紅葉の季節も終わり、樹木は冬支度に入っていた。
播磨の国と但馬の国の国境辺りの山の中を黙々と歩く山伏の一行があった。山伏は全部で五人。一人の山伏は四十年配だったが、他の四人は皆、若かった。道のない山の中を何のためらいもなく、先頭を歩いているのは太郎坊だった。その後ろに四十年配の男が息を切らせながら続き、その後ろを太郎坊の三人の弟子たちが続いていた。
この道は播磨の国から鬼山一族の住む村への一番の近道だった。
太郎が鬼山一族の村に行くのは今回が三度目で、初めて行ったのは銀山を捜しに行った八月の半ば、二度目は一月後の九月の半ば、そして、今回は、もう十一月の三日となっていた。
二度目に行った時、太郎は自分の身分を明かした。お屋形様の義理の兄で、赤松日向守と名乗り、銀山奉行として播磨の国、大河内庄(オオコウチショウ)を本拠にして銀山の開発を行なうと告げ、これからも赤松家のために力を貸して欲しいと頼んだ。そして、鬼山一族のこれからの事をどうするか決めてほしいと言った。
銀山開発が始まれば、この村には大勢の人足(ニンソク)が入って来る事となり、今までのようには住めなくなる。新しくできる大河内庄の城下に移りたい者は移っても構わない。長老の左京大夫は太郎の家臣として銀山奉行に任命する。他の者たちは左京大夫のもとで山師として働いてくれるなら、それに越した事はないが、武士になりたい者は家来に取り立てる。ただ、銀を作る技術だけは一族の者の力を借りなければならない。その技術を日本人に教えたくなければ教えなくてもいい。その場合は、ある程度、一族の者はこの山に残ってほしい。それに、できれば以前のように女のもとに男が通うという習慣を改め、夫婦になれるのなら、これからは夫婦として暮らしてほしい。以上のような事を考えておいてくれと言って、二度目の時は彼らと別れた。
今回は、その返事を聞くためと、銀山を開発する事に正式に決まった大河内庄の『小野屋』の主人、藤兵衛も一緒だった。
藤兵衛は伊勢の国、安濃津(アノウツ、津市)の『小野屋』の番頭だったが、今回の銀山開発の責任者に抜擢され、松恵尼と共に播磨の国にやって来たのだった。元々は武士だったそうで、物腰が何となく商人という感じがしなかった。武士を捨て、好きでこの道に入ったのに、未だに、客の接待は苦手だと言う。安濃津にいた時も、表に出て客の応対をするよりも、ほとんどが船に乗って関東の方と取り引きをしていた。商人同士の駆け引きは得意でも、どうも、お得意さんたちに頭を下げるのは苦手だと言った。今回、この仕事に抜擢されて、山が相手なら、わしに丁度いいと喜んでいた。
鬼山一族の村に着くと五人は長老の小屋で待たされた。しばらくして、村の男たち全員が集まった。
「どうです、皆の意見はまとまりましたか」と太郎は長老に聞いた。
長老は頷き、「何とか、決まりました」と答えた。
「そうですか。それで、どのように決まりました」
「まず、仰せつかった銀山奉行の件ですが、わしではなく、小五郎にお願いしたいのです。わしは、もうすぐ八十です。あと何年生きられるやら分かりません。それに、長い間、山の中で暮らしておりました。今更、山を下りる気はございません。あと何年生きられるか分からんが、その短い間に若い者たちに技術を教えようと思っております」
「そうですか。長老殿がそうおっしゃるのでしたら、わたしの方はそれでも構いません。それでは、小五郎殿、よろしくお願いいたします」
「はい。畏まりました」と小五郎は頭を下げた。
「それと、小次郎の事じゃが」と長老は言った。「あいつは目が不自由なので、お城下の方に連れて行って欲しいんじゃ。小次郎はくりと夫婦になり、子供も一緒にお願いします」
「はい、分かりました。他に城下の方に移られる者はおりませんか」
「銀太と小太郎の二人が、どうしても、武士になりたいと言います。わしが見たところ、この二人は山師をやるより武士の方が向いておるように思います。できれば、殿の家来にでもして下され」
「はい」と言って、太郎は銀太と小太郎を見た。この二人なら、立派な武士になるだろうと思った。
「銀太はろくと夫婦になり、小太郎はすなと夫婦になるという事になっております。それと、申し上げにくいのじゃが、きさときくの二人もお城下に行きたいと言っておるんです。どうか、二人とその子供たちの面倒も見て欲しいのですが」
「おきさ殿とおきく殿の二人は誰かと夫婦にはならないのですか」
「ええ。子供だけを連れて、お城下に移りたいと言っております」
「そうですか、分かりました。すると、あとの者たちはこの山に残るというわけですか」
「はい。とりあえずはこの山に残り、銀を作ります。丁度、六組の夫婦が残る事となります。この六組に銀を作る技術を教え、その子孫たちに伝えて行きます。今は六組ですが、すぐに子孫たちは増えます。できれば、技術だけは、これらの子孫だけに残したいのです」
太郎は、助太郎、助四郎、助五郎、小三郎、助六郎、助七郎の六人の顔を見渡した。
「わしら一族に取って、銀を作る技術は命と言ってもいい程、大切なものです。その技術のお陰で、わしらはこの異国の地で生きて行く事ができました。できれば、一族以外の者には教えたくはないのです。お分かり下さい」
「分かりました」と太郎は頷いた。「城下の方ですが、今、急いで造っておりますが、まだ、まともに人が住める状態ではありません。申し訳ありませんが、もう一冬、ここを守っていて貰いたいのです。春になって雪がなくなれば、わたし共は但馬に進攻して生野を占領するつもりでおります。そうすれば、生野にも新しい城下ができる事でしょう。皆、冬になれば、生野に下りて暮らせる事になると思います」
「生野を占領しますか‥‥‥」長老は少し驚いたような顔をして太郎を見た。
「そのつもりです」
「生野の周辺は、ほとんどが鷲原寺(ワシハラジ)の荘園です。あそこを攻めれば鷲原寺の山伏や僧兵を相手にする事となります。鷲原寺にはかなりの僧兵がおります。生野を占領すのは難しい事と思いますが‥‥‥」
「と言う事は、この辺りは山名氏の勢力範囲ではないのですか」
「一応は、鷲原寺も山名氏の支配下に入ってはおりますが、山名氏の荘園侵略には腹を立てております。もしかしたら、赤松家が朝来郡まで勢力を広げるとすれば、鷲原寺は寝返るかもしれません」
「成程、そういう事だったのか。生野の山の上の砦を見たが、どうも兵が少ないと思った」
「はい。山名氏は生野の山の上や国境近くに砦を設けてはおりますが、それは、ただの見張りに過ぎません」
「そうか、いい事を聞いた。とにかく、その鷲原寺というのを調べてみよう」
相談が終わると、小五郎の案内で小野屋藤兵衛は山の中を見て回った。
太郎がこの村に来て以来、長老の小屋は太郎たちが使う事となり、長老はおちいと一緒に、おせんの小屋に移っていた。そして、太郎たちの世話は、おきさとおきくとおこんとおとみの四人が当たっていた。この四人の娘は、初めて太郎たちがこの山に来た時、交渉のあった四人だった。おきさとおきくの二人は大河内庄の城下に移る事となったが、おこんとおとみの二人は違った。おこんは助四郎と夫婦になり、おとみは助五郎と夫婦になり、ここに残ると言う。しかし、それぞれが正式に夫婦となる来年の春までは、太郎たちの接待を任されていた。
藤兵衛は山の中を一通り見て回ると、小五郎の小屋に入って、小五郎と二人で長い間、銀山開発について今後の相談をしていた。
その晩、太郎たちはいつものように御馳走になり、宴が終わると、それぞれの小屋に入って行った。藤兵衛は男まさりの女、おとくと気が合い、おとくの小屋へと行ったらしかった。村の男たちには悪いが、太郎たちが来ると相変わらず、女の小屋へは出入り禁止になっていた。いつも通りに、風光坊はおこんの小屋に、八郎坊はおとみの小屋に、探真坊はおきくの小屋に、そして、太郎はおきさの小屋へと収まった。他の女の所に行こうと思えば行けるのだが、皆、馴染みの女の所に収まっていた。
他の女の事は知らないが、おきさの場合は、もう太郎を離さなかった。絶対に、他の女の所に行かないようにと太郎を見張っていた。おきさにしてみれば、このまま、太郎の子供を生めば、その子は大河内城主の子供となり、おきさは正式の妻になれないとしても側室となる。当然、おきさの三人の子供は、おきさの願っていた通り、武士になれる。しかも、ただの武士ではない。赤松一族の武士となるのだった。
おきさは初めて太郎と会った時、太郎をただの山伏だと思った。何の欲もなく、ただ、太郎という男が好きになっただけだった。それが、今は状況が変わった。太郎はただの山伏でなく、赤松のお屋形様の義理の兄だと言う。何としてでも、太郎の側室になりたかった。それに、太郎の子供を宿しているという兆候もあった。おきさは他の女に太郎を取られないように、ずっと太郎から離れなかった。
おきさの小屋に行くと、太郎は眠っている、おきさの三人の男の子を覗き込み、「皆、立派な武士になりそうだな」と言った。
「夢のようよ。でも、もう一人、増えそう」とおきさは笑った。
「へえ。おなかの中に赤ちゃんができたのか」
「多分ね。あなたの子よ」
「まさか」と太郎は驚いて、おきさを見た。
「ほんとよ」とおきさは嬉しそうな顔をして笑った。「あの晩にできたの」
「まさか。たった一度で、子供ができたのか」
おきさは頷いた。「だって、今年になって、あれしたの、あなただけだもの。太郎様が帰った後にも先にも、誰も、この小屋に入れてないわ」
「信じられんな」と太郎は首を振った。
「ほんとなのよ。この村では、男の人が好きな女のもとに通うようになってるけど、皆、誰とでも寝るわけじゃないのよ。あたしが今まで寝たのは四人だけよ。助次郎さんと小太郎さんと小三郎さんと、そして、あなただけ。小三郎さんとはたった一回だけよ。あたしが十八になって小屋を持った時、あたしの部屋に通える男の人は、助太郎さんと助次郎さんと小太郎さんと小次郎さんの四人だったの。あたしはずっと助次郎さんが好きだったから、最初の男は助次郎さんだったわ。助太郎さんは嫌いだったから、通って来ても断ったわ。小太郎さんはそれ程、嫌いじゃなかったから何度か、通って来たわ。小次郎さんは目が不自由だから通っては来なかった。小次郎さんは目は不自由だけど、いい男だから、結構、女の方から誘っていたみたいだけど、あたしはそんな事はしなかった。とにかく、あの頃、あたしは助次郎さんに夢中だったの。助次郎さんもあたしの事、好きだったみたいだけど、やっぱり、よその女の所にも通っていたわ。助次郎さんがよその女の所に行っている時、小太郎さんが訪ねて来ると、あたしも腹いせに小太郎さんに抱かれたの。でも、次の年から、助次郎さんもあまり出歩かなくなったし、あたしも他の男の人が来ても入れなかったわ。それなのに、助次郎さんは京の都で戦が始まると、あたしの兄さんの銀次と一緒に山から出て行ってしまったの。あたしはずっと助次郎さんが帰って来るのを待ってたわ。でも帰って来なかった。あたしは助次郎さんが出て行ってから一年間は、誰もこの小屋に入れなかった。それは、おとくさんも同じだった。おとくさんも銀次兄さんが出て行ってから誰も入れなかったわ。一年待ってみてね、あたし、もう、助次郎さんの事は諦めようと思って、また、小太郎さんに抱かれたわ。でも、その頃になると、もう、みんな落ち着いて来ていたの。正式に夫婦じゃないけど、自然に夫婦みたいになっていたわ。小太郎さんの奥さんはおすなさんなの。小太郎さんはおすなさんの目を盗んでは時々、あたしの小屋に来ていたけど、おすなさんの小屋とあたしの小屋って隣同士でしょ。すぐに見つかって、おすなさんに怒られていたわ。それでも、この子とこの子は小太郎さんの子なのよ」
おきさは三歳の子と六歳の子を指差した。
「そして、この子は助次郎さんの子よ」と一番上の子の頭を撫でた。
「ふうん、そうか。皆、自然に夫婦のようになっていたのか」
「長年、付き合って行くと、自然と、自分に一番合う相手が見つかるのよ」
「長老や小五郎さんは娘たちの所には、通わなかったのかい」
「通えないのよ。どれが、自分の娘だか分からないから通えないの。長老様が失敗じゃったって言ってたわ。あたしたちの母さんたちと、ちゃんと決めて、夫婦になっていたら、若い女子を抱けたのになあって」
「成程ね。そんな先の事まで考えなかったんだな。みんな、夫婦のようになってるって言ったけど、おきささんの旦那さんは誰なんだ」
「だから、あたしにはいないのよ。今、相手がいないのは、あたしと、おとくさんと、おきくちゃんね。あとはみんな、一応、いるわ」
「おきくちゃんも相手がいないのか」
「ええ。おきくちゃんは丁度、釣り合いの取れる男の人がいないのよ。助次郎さんと銀次兄さんが出て行っちゃたから、助太郎さんと銀太兄さんしかいないの。あとはみんな、年下になっちゃうの。一つ年下に助四郎さんがいるけど、助四郎さんはおこんさんが離さないし、その下の助五郎さんは、おとみちゃんと仲がいいし、時々、助太郎さんが通っては来るけど、助太郎さんにはおりんさんがいるし、おきくちゃん、あなたの家来の五郎(探真坊)さんが気に入ってるみたいよ」
「それで、城下に来たいって言ってたんだな。あいつも、なかなか、うまくやってるようだな」
「おとくさんも銀次兄さんが出て行ってから相手がいなかったけど、どうやら、あなたが連れて来た藤兵衛さんとうまくやってるみたいよ。おとくさんが、あんなに女らしいの、久し振りに見たわ」
「と言う事は、今、八郎と一緒にいるおとみちゃんには助五郎さんがいて、光一郎と一緒にいるおこんさんには助四郎さんがいるというわけだな」
「そうね、一応は。でも、おこんさんの所は出入りが激しいわ。来る者は拒まずっていう感じで、誰とでもやってるわ。おこんさんにしてみれば誰でもいいんじゃない。ただ、助四郎さんの方がおこんさんに参ってるのよ」
「うちの光一郎も参ってるというわけか」
「光一郎さんはいい男だけど、ちょっと若すぎるわね。おこんさんを城下に連れて行ってみても、うまく行かないと思うわ」
「だろうな」
「ね、分かったでしょ。だから、あたしのおなかの中にいるのは、あなたの子供なの。信じてくれる」
太郎は頷いた。「ああ。信じるよ」
「よかった」と、おきさはニッコリ笑った。
「ねえ、今度はあなたの番、あなたの事、話して」
「うん」
太郎はおきさに、故郷、五ケ所浦の事や甲賀の事など話して聞かせた。
この山から出た事のないおきさは当然、海というものを知らなかった。太郎は海を知らないおきさに海の事を説明した。おきさは不思議そうな顔をして、太郎の話を聞いていた。
次の日、太郎たち一行は山を下りた。
一行の中に銀太と小太郎の姿があった。彼らがこれから住む事となる城下を一応、見てもらおうと思い、連れて来たのだった。
城下造りが着々と進んでいた。
大河内城は市川の上流、小田原川との合流地点の山の上に建てる事となった。市川に沿って姫路から但馬の国に抜ける街道が走り、小田原川に沿っては播磨の国一の宮、伊和(イワ)神社へと続く街道が走り、伊和神社からは因幡(イナバ)街道につながっていた。北から侵入して来る山名氏を押えるのに、丁度いい場所と言えた。
山の上から回りを見渡すと、東に笠形山(カサガタヤマ)、西に雪彦山(セッピコサン)が見え、市川の周辺を除き、辺り一面は山また山だった。城下町は東側を市川、南側を小田原川に挟まれ、北と西に山が囲む地に造られつつあった。
大勢の職人や人足たちが普請(フシン)奉行の太田典膳、作事(サクジ)奉行の菅原主殿助(トノモノスケ)、材木奉行の堀次郎の指示のもと、忙しそうに働いていた。太田と菅原は置塩のお屋形様が付けてくれた土木建築の専門家で、堀次郎は浦上美作守に命じられ、偽の太郎を京から播磨に連れて来る途中、山賊に襲われた、あの頼りない男だった。堀次郎はそのまま太郎の家臣となり、材木奉行となっていた。荒々しい戦の方は苦手でも銭勘定の方は得意らしく、うまくやっているようだった。
人足たちは置塩城下の河原者の頭、片目の銀左衛門と、この辺りの河原者の頭、権左衛門の力によって集められた。権左衛門も銀左と同じく、雪彦山金剛寺に所属している河原者で、市川による運送業の元締だった。
人足たちは集まったが、番匠(バンショウ、大工)や鍛冶師(カジシ)、鋳物師(イモジ)、壁塗師(カベヌリシ)などの職人を集めるのが大変だった。今、置塩城下を初め、各地で城下造りをしているため、なかなか集まらなかった。仕方なく、小野屋の力を借りて、伊勢や奈良から腕のいい職人たちが集められた。
以前、代官所と五、六軒の農家、僅かばかりの水田があっただけで、あとは草茫々の草原だった地に、一千人以上の人々が朝から晩まで忙しく働いていた。
新しく城下ができると聞き付けて、人々は続々とこの地にやって来た。大通りに面したいい場所を手に入れるため、商人たちはもとより、城下造りに関係のない職人たちや人足相手の立君(タチギミ)、武士を対象とした遊女、芸人たちから乞食まで、まだ城下もできていないのに集まって来ていた。
城下の町割りは以前からあった稲荷(イナリ)神社を中心に行われた。稲荷神社の隣に、大徳寺の禅僧で、一休禅師の弟子だという磨羅宗湛(マラソウタン)を住持職とした雲雨山磨羅寺(ウンウサンマラジ)を造り、その参道を盛り場として、この界隈を町人や職人たちの町とした。稲荷神社の西側を武家町として、山の上の城へと続く道の近くの山側に赤松日向守(太郎)の屋形を造り、その回りに重臣たちの屋敷を並べた。城下造りの資金をほとんど負担している『小野屋』は、大通りに面した町の中程に広い土地を与えられていた。
城下造りが始まって一月半が経ち、山の上は邪魔な木を切り倒して平らにならし、簡単な砦ができていた。城下の方では大通りができ、太郎の屋形と磨羅寺を集中的に作っていた。商人たちは与えられた土地に各自で屋敷や蔵を建てていたが、まだ、どこも完成してはいなかった。新たに太郎の家来になった者たちも皆、城下造りに参加して、朝から晩まで汗を流していた。
太郎たち一行は大河内城下に帰って来ると代官所へと入って行った。
屋形ができるまでは、ここが太郎の仮の宿所だった。以前、この地の代官だった平野四郎左衛門は、そのまま太郎の家臣となり、家族と共に近くの空き屋敷に移っていた。太郎と数人の重臣たちが、この代官所で暮らし、その他の家臣たちは人足たちと共に掘立て小屋で寝起きしていた。
相談役として付いて来ていた上原性祐(ショウユウ)入道と喜多野性守(ショウシュ)入道の年寄り二人は、披露式典の前に置塩城下に帰ったまま向こうにいた。もうすぐ冬じゃ、住む所もないのに、あんな所にいたら体に悪い、春になったら、また行くと言って戻って来なかった。
太郎たちが帰って来た時、代官所には夢庵肖柏(ムアンショウハク)が一人、昼寝していただけだった。
夢庵は披露式典の時、太郎と一緒に置塩城下に行き、礼装に着替えて、忙しそうに活躍していた。公家の出だけあって、その姿はなかなか様になっていた。式典も無事に終わり、用も済んだので摂津(セッツ)の国に帰るのかと思っていたら、また、太郎と一緒にここに戻って来た。初めのうちは、但馬の国にでも遊びに行くかな、と言っていたが、結局、どこにも行かず、かといって城下造りを手伝うわけでもなく、毎日、ブラブラしていた。皆が忙しそうに働いているのに、平気でブラブラしているのも変わっているが、そんな夢庵を見て、誰も何も言わないのもおかしな事だった。もっとも、夢庵が汗を流して働いている姿など想像もできないが、誰一人として夢庵に文句を言わないのは、やはり、夢庵が一種の人徳というものを持っているからかもしれなかった。
太郎は城下の景色のいい所に夢庵のために屋敷を作るつもりでいた。今回、夢庵には、どうお礼をしても足らない程の恩を受けていた。夢庵自身はそんな事、一向に気にしていないが、太郎は夢庵をここに引き留めて置きたかった。引き留めて置くのは無理だと分かっているが、屋敷があれば、時折、戻って来てくれるだろうと思っていた。太郎も赤松家の武将になったからには、夢庵から茶の湯や連歌を初め、色々な事を学びたかった。今まで剣一筋に生きて来たため、そっちの方面はまったく知らなかった。この先、置塩のお屋形様のお茶会や連歌会に招待される事もあるだろう。そんな時、恥はかきたくなかった。太郎の恥は、太郎だけではなく楓や太郎の家臣たちの恥でもあった。太郎も早く一人前の武将になりたかった。
太郎は一休みすると、銀太と小太郎を連れて城下の方に出掛けた。藤兵衛は小野屋に帰り、太郎の三人の弟子たちは武術道場の作事場に道場造りの手伝いに出掛けた。
代官所は市川に沿った但馬街道に面していた。新しくできる城下町の一番東側に位置している。この代官所の横から、大通りが一の宮へと続く街道と平行して東西に走っている。この大通りが城下の中心となる通りだった。
太郎は銀太と小太郎を連れて大通りを歩いていた。
「この辺りは商人たちの町です」と太郎は歩きながら説明した。
大通りの両側に、大きな蔵や屋敷が作られつつあった。ほとんどが置塩城下から出店を出している商人たちである。かなり作業が進んでいる所もあれば、敷地内を縄で囲むだけで、まだ草も刈ってない所もあった。
しばらく進むと右側に大通りがあり、突き当たりの山の裾野に大きな寺院を建てていた。臨済宗大徳寺の末寺(マツジ)である雲雨山磨羅寺だった。磨羅寺の参道の両側には茶屋や旅籠屋、遊女屋などが並ぶ事になるが、まだ建物は何もなく、草が生い茂っているだけだった。
さらに進むと左側に小野屋の広い敷地がある。整地はしてあるが作事作業は始まってはいない。隅の方に藤兵衛たちが寝起きしている小屋があり、大量の材木が積んであった。小野屋は丁度、四つ角に面した所にあり、北に行けば稲荷神社にぶつかり、南に行けば一の宮街道に出た。
三人はさらに大通りを西に向かった。
「ここから先に武家屋敷が並びます」と太郎は二人に説明した。
銀太と小太郎は珍しそうに新しい町造りの様子を眺めていた。
武家屋敷が並ぶという土地は整地されて区切られていたが、やはり、まだ、ここにも建物は何も建っていなかった。ただ、太郎の屋形だけが屋根も上がり、大勢の人たちが作業に励んでいた。
三人は次の四つ角を北に曲がった。それは太郎の屋形の正面に続く大通りだった。
「この辺りに重臣たちの屋敷がずらっと並びます。まだ、誰がどこに屋敷を建てるか、はっきりと決まっておりませんが、銀太殿と小太郎殿の屋敷もこの辺りに建てる事となるでしょう」
「さすが、殿の屋敷は大きなものですね」と銀太が正面に見える建築途中の屋形を見ながら言った。
「わたしら家族だけが住むのでしたら、こんな大きな屋敷はいらないのですけど、置塩のお屋形様が下向して来られた時、この屋敷に泊まる事になるので、やはり、これ位の大きさが必要なんですよ」
「凄いもんじゃのう」と小太郎が唸った。「出来上がったら、まるで御殿のようじゃろうのう。わしら山の中で育った者には、とても想像すらできません」
作業中の屋形の中を覗き、三人は屋形の横を通って山の方へと向かった。
屋形の斜め後ろ辺りに武術道場を造っていた。太郎の三人の弟子たちが人足たちと一緒に草を刈っていた。その中にチラッと夢庵の姿が見えたので、太郎は立ち止まった。
確かに、それは夢庵だった。いつの間にこんな所にいるのだろうと思って、太郎は声を掛けた。
「夢庵殿、何をしてるのです」
夢庵は顔を上げると、「見た通りじゃ」と笑った。「そなたの弟子たちに剣術でも習おうと思って来たんじゃが、この有り様じゃ」
「夢庵殿は剣術をされるんですか」
「少しはのう」
「そうですか、今度、お手合わせ願います」
「いや。そなたと立ち会える程の腕はない。遠慮するわ」
太郎は夢庵と別れ、二人を連れて山の中に入った。
「この山の上に城を建てます」と太郎は言って細い山道を登って行った。
銀太と小太郎は太郎の後に従った。
山の頂上の砦には次郎吉がいた。次郎吉は名を伊藤大和守(ヤマトノカミ)と改め、太郎の家老の一人となっていた。
「どうかしたんですか」と太郎は次郎吉に聞いた。
「いや、なに、わしには、どうも普請とか作事とか似合わんのでな。かといって代官所で夢庵殿と一緒にゴロゴロしているわけにもいかん。そこで、ここに来て昼寝しておったんじゃ」
「次郎吉殿、そろそろ街が恋しくなったのですね」と太郎は笑いながら言った。
「まあな」と次郎吉も笑った。
「そうだ。次郎吉殿、この二人、新しく俺の家臣になったんですけど、置塩城下まで連れて行ってくれませんか」
「なに、置塩城下までか」と次郎吉の目の色が変わった。
「はい。この二人はずっと山の中にいたので、まだ、置塩城下を知らないのです。一度はお屋形様の城下を見ておかなくてはならんでしょう」
「おお、勿論じゃ」
「それじゃあ、明日にでも二人を連れて行って下さい。都の楽しさを充分、二人に味あわせてやって下さい」
「充分にか‥‥‥分かった。いや、畏まりました、殿」
次郎吉と別れると太郎は二人を連れて、今、造っている城下を見渡せる見晴らしのいい場所に行って腰を下ろした。
「上から見ると城下も広いのう」と銀太は言った。
「出来上がったら、ここも都になるのう」と小太郎は言った。
「ここに、あなた方も住む事になるのです。多分、二人には何かの奉行をやってもらう事となるでしょう」
「わしらが奉行に‥‥‥そんな偉い武士になれるのですか」
「当然です。あの銀山を守り通して来たのですから」
「夢のようじゃ」と銀太が言った。「わしの弟に銀次というのがおって、助次郎というのと一緒に山を下りて行った。立派な武士になるんじゃと言ってのう、もう七年も前の事だが未だに何の音沙汰もない。奴らも、もう少し我慢しておったら立派な武士になれたものを‥‥‥」
「おきささんから聞きましたよ」と言ってから、太郎は少し間を置いて銀太に聞いた。「話は変わりますが、おきささんが、わたしの子供を孕(ハラ)んだと言っておりましたが本当でしょうか」
「おきさが孕んだ?」と二人は驚いたように同時に太郎を見た。
「もし、それが本当だとしたら、まさしく、それは殿のお子です」と銀太が言い、小太郎も頷いた。
「別におきささんの言う事を信じないわけではないんですけど、あの村では、特に決まった夫婦関係はなく、男が女のもとに通っておるのでしょう」
「おきさは殿と一緒になって以来、誰も自分の小屋には入れておりません」と銀太は言った。「殿と一緒になる前も、ずっと子供の面倒を見るだけで、男は誰一人入れておらんでしょう。おきさは村を出て行った助次郎の事をずっと思っておるのです」
「それは聞きました。しかし、小太郎さんの子供も二人います」
「確かに」と小太郎は頷いた。「しかし、わしがおきさを抱いたのは、ほんの数える程です。紀四郎、三番目の子供ですけど、その子が生まれてから、わしは一度もおきさを抱いてはおりません、わしだけでなく、おきさは誰とも一緒に寝なかったでしょう」
「おきさはわしの妹だから庇うわけではないが、母親に似て身持ちの固い女です。おきさはほんとに好きになった男としか寝ません。わしらの母親がそうだったそうです。わしらの母親は小五郎様としか寝なかったそうです。長老様や内蔵助(クラノスケ)様が訪ねて行っても、絶対に寝なかったそうです。無理にでも抱こうとすると匕首(短剣)を取り出して、自分の首に当てたそうです。だから、わしらの兄弟だけは父親がはっきりしております。おきさはその母親の血を強く引いたため、他の女たちのように誰とでも寝るという事ができなかったのです。自分の子供の父親がはっきり分かるのはおきさだけでしょう。もし、おなかの中に子供ができたとすれば、それは間違いなく、殿のお子です」
「そうだったのか‥‥‥おきさは小五郎殿の娘か‥‥‥」
「殿、どうか、おきさの事、お願い致します」と銀太は言った。
「わしが言うのもおかしいが、おきさは本当にいい女子(オナゴ)です」と小太郎も言った。
「分かった」と太郎は言った。
分かった、とは言ったが、実際、大変な事になってしまったものだった。おきさが子供を産んでしまえば、楓に隠す事はできない。どうしよう、面倒な事になってしまった、と思った。
冷たい風の吹く、夕暮れ時だった。
一日の作業も終わり、人足たちが各小屋へと向かっていた。
掘立て小屋の立ち並ぶ一画では、あちこちから飯を炊く煙が上がっていた。
そんな頃、代官所の客殿(キャクデン)の一室に赤松日向守(太郎)の重臣たちが集まっていた。
まず、太郎の三人の弟子。彼らは本名に戻り、太郎の側近衆になっていた。風光坊は風間光一郎に、八郎坊は宮田八郎に、探真坊は山崎五郎を名乗っていた。
次に家老として、阿修羅坊、金比羅坊、弥平次、伊助の四人がいた。阿修羅坊は大沢播磨守を名乗り、金比羅坊は岩瀬讃岐守(サヌキノカミ)、弥平次は小川弾正忠(ダンジョウチュウ)、伊助は青木近江守を名乗っている。皆、偉そうな名前を名乗り、それぞれが家来を持つ身分となって武士の姿も板につき、武将としての貫禄も備わって来ていた。
その他、祐筆(ユウヒツ)の別所造酒祐(ミキノスケ)、勘定奉行となった松井山城守(吉次)、廐(ウマヤ)奉行となった川上伊勢守(藤吉)、射場(イバ)奉行の朝田河内守らが顔を揃えていた。ただ、次郎吉こと伊藤大和守も家老の一人だったが、鬼山(キノヤマ)銀太と鬼山小太郎を連れて置塩城下に行っているため、この場にはいなかった。
金勝座の一行も二日前に、この地に来ており、金勝座全員が太郎の家臣となっていた。家臣になったといっても武士になったわけではなく、今まで通りに各地で諜報(チョウホウ)活動をするというものだった。また、今まで通りに松恵尼の手下でもあった。金勝座の頭、助五郎は金勝雅楽頭(ウタノカミ)を名乗り、披露(ヒロウ)奉行という肩書を持って、この場に来ていた。
以上十三人が太郎を中心に頭を並べていた。
「皆に集まって貰ったのは銀山の件です」と太郎は言った。「銀山を開発するに当たって、但馬に進攻しようと思っております」
太郎は皆の顔を見回した。
「やはり、但馬を攻めるのか」と岩瀬讃岐守(金比羅坊)が言った。
太郎は頷いた。「生野まで行かなくても播磨から銀山に入る事はできます。しかし、大々的に開発するとなると、やはり、生野の地は占領した方がいいと思います」
「そうじゃのう」と大沢播磨守(阿修羅坊)が言った。「銀を作るとなると煙が昇るからのう。山名方に気づかれんようにするには、生野を占領した方がいいかもしれんのう」
「はい。山名方にばれないようにやらなければならないという事が、一番、難しい事なのです」
「うむ、難しいのう」と讃岐守は唸った。
「生野か‥‥‥あそこは鷲原寺(ワシハラジ)の勢力が強いんじゃないかのう」と播磨守は言った。
「鬼山の長老もそう言っていました。阿修羅坊殿、いや、播磨守殿、その鷲原寺に行った事はありますか」
「ああ、何度かある。鷲原寺は朝来郡(アサゴグン)一帯の炭の座を支配しておってのう。鉄を産する瑠璃寺(ルリジ)と取り引きをしておる。わしもその関係で何度か行った事はある」
「かなりの僧兵や山伏がおるのですか」
「うむ。かなりの勢力を持っておるのう。朝来郡の南半分は鷲原寺の勢力範囲と言ってもいいじゃろう」
「北半分は山名か」と讃岐守が聞いた。
「ああ、そうじゃ。山名の重臣、太田垣(オオタガキ)氏じゃ。太田垣氏は安井城(後の竹田城)を本拠に丹波と播磨からの侵入を防いでおるんじゃ」
「その安井城というのは、生野からどの位、離れていますか」と太郎は播磨守に聞いた。
「そうじゃのう、四里というところかのう」
「四里ですか‥‥‥太田垣氏というのはどんな武将です」
「山名の四天王と言われる程の重臣じゃ」
「四天王‥‥‥」
「そうじゃ。今のわしらの兵力では、とても相手にはなるまい。ただ、城主の太田垣土佐守は今、京におるはずじゃ。留守を守っている三河守というのは土佐守の次男じゃが、この男がなかなかの猛将だとの噂じゃ」
「そうですか‥‥‥山名にとって生野の辺りというのは、それ程、重要な地ではないのでしょうか」
「そうじゃのう。赤松氏にとっての、この大河内庄と同じようなもんじゃないかのう。赤松氏にとって、この地は但馬への入り口に当たる重要な地じゃが、わざわざ、城を建ててまで守りを固めようとは思わん。見張りだけは置いておくが、敵が攻めて来たら置塩城から攻めればいいと思っておる。敵も多分そうじゃろう。もし、国境を越えて来たら安井城から攻めて来るんじゃろう」
「やはり、攻めて来ますか」
「そりゃそうじゃ。しかも、国境を越えて攻めて行けば、もはや、殿と太田垣との戦いでは済まなくなる。赤松対山名という事になるじゃろう」
「そうか‥‥‥それはまずいな」
「ただ、宗全入道が亡くなってから、どうも、山名氏は元気がないようじゃ。宗全の跡を継いだ左衛門佐(サエモンノスケ、政豊)は国をまとめる事より幕府の機嫌を取る方に忙しいようじゃ。細川九郎(政元)と和議してから、山城の守護に任命され、京から離れる事は難しいじゃろう。もしかしたら、生野辺りを占領したとしても山名は動かんかもしれんのう」
「とにかく、生野を攻めるとしても来年の春になるでしょう。それまでに色々な情報を集めなければなりません」
「よし、鷲原寺の事はわしに任せろ」と播磨守は言った。
「山伏の事は播磨守殿に任せる事にして、わたしは太田垣氏を調べましょう」と青木近江守(伊助)が言った。
「わたしらも但馬に入りましょう」と金勝雅楽頭(助五郎)が言った。
「それじゃあ、わしは、みんなの連絡を取りますか」と川上伊勢守(藤吉)が言った。
「皆さん、お願いします」と太郎は頭を下げた。
「ところで、殿、その銀山なんじゃが、一体、どれ位の銀が取れるんじゃ」と播磨守が聞いた。
「播磨守殿には、まだ言ってませんでしたね。掘ってみない事には詳しくは分かりませんが、一千貫はあるそうです」
「一千貫?‥‥‥」
「銭にして、十二万貫文だそうです」
「十二万貫文‥‥‥とてつもないものじゃのう」
「はい。あの山を守っていた鬼山一族は明(ミン)の国から来た人たちです。我々の知らない特殊な技術を持っているそうです」
「ほう、明の人か‥‥‥しかし、十二万貫文とは大したものじゃのう。こいつは絶対に敵には渡せんのう」
「絶対に銀山を守らなければなりません」
「うむ」
その後、城下における、それぞれの屋敷を建てる場所を決め、評定はお開きとなった。
いつの間にか、外では初雪が散らついていた。
夕べ、初雪が降ったが積もる程ではなく、翌日はいい天気だった。
代官所の離れの間で、太郎は久し振りに助六と会っていた。金勝座が飯道山の祭りに帰って以来、二人だけで会って話すのは初めてだった。披露式典が終わって、すぐ、太郎たちはこの地に戻って来たが、金勝座はすぐに来る事はできなかった。お屋形の政則に気に入られたお陰で、披露式典に集まって来た武将たちの間で、金勝座の舞台は引張り凧のように忙しかった。十一月になって招待された客たちも帰り、置塩城下も落ち着いて、ようやく金勝座も解放されたのだった。太郎たちが鬼山一族の村に行っている時、金勝座は大河内庄にやって来た。
「代官所なんて初めて入ったけど豪勢なのね」と助六が部屋の中を見回しながら言った。
「ここはお屋形様とか、赤松家の重臣の方々が下向して来た時に使う客殿なんだよ」
「へえ、凄いものね。こんな広い所に誰もいないの」
「ああ、今はね。夕べ、雪が降ったから、皆、忙しいのさ。雪が積もったら仕事ができなくなるからね。それまでにやれる所までやらなければならない」
「そうか、ここは飯道山よりずっと雪が多いのね。大変ね‥‥‥それにしても立派ね。こんな田舎の代官所がこんなに立派なら、置塩のお屋形なんて凄いんでしょうね」
「ああ、凄かったよ。まるで御殿だな」
「そう言えば、あたしは見てないから知らないけど、太郎様と楓様の披露式典をした会場は物凄く豪華だったんですって」
太郎は頷いた。「物凄かったよ。俺たちを披露するためだけに、あれだけの物を作るんだから大したもんだよ。赤松家というものの恐ろしさを改めて知ったよ」
「ほんと、凄かったわね。偉そうなお侍さんたちがあんなにも集まるなんて、さすがよね」
「お屋形様の話だと、有力な播磨の国人はすべて揃ったそうだ。備前と美作の国人が半分程、来なかったんだそうだ」
「へえ。まだ、赤松家に敵対する国人たちがいるんだ」
「まだ、いるらしい。しかし、あの式典で、はっきり敵対する者が分かったから、後は何とかなるだろう、と言っていた」
「ふうん。お屋形様もまだまだ、大変ね」
「春になったら、また、美作に行くと言っていた」
「そう。お殿様なんて、立派な屋敷で、毎日、贅沢な暮らしをしてると思ってたけど、実際は、お殿様も色々と大変なのね」
「特に今の世の中は、うかうかしてられないらしい。国人たちが以前より力を持って来ているので、守護だからといって、昔の様に京にいて、のんびりしてはいられないんだそうだ」
「それじゃあ、太郎様もこれから何かと忙しくなるのね」
「多分な」
床の間の掛け物を眺めていた助六は太郎を見ると笑って、「ところで、太郎様は冬の間、ずっと、ここにいるの」と聞いた。
太郎は頷いた。「ただ、もう少ししたら飯道山に行かなければならない」
「陰の術ね」
「うん。陰の術も相変わらず進歩なしだ。一昨年(オトトシ)から全然、進歩していない」
「そう言えば、飯道山で、あなたのお師匠さんに会ったわ」
「松恵尼殿から聞いて驚いたよ。俺はすっかり師匠に騙されてたんだ。俺は師匠に会いに大峯山に行ったんだ。そしたら、師匠は山奥に籠もって千日行をしていると聞いた。俺は山の中を捜し回ったが結局、見つからなかった。見つかるわけないよな。その時、すでに師匠は山を下りて加賀に行ってたんだもんな」
「へえ、そうだったの。お師匠さんに会いに大峯山に行ってたんだ」
「そうさ。その間に楓が消えちまったというわけさ」
「あなたのお師匠さんて松恵尼様のいい人なの」
「さあ、そこまでは知らんけど、古くからの知り合いだろうな」
「あたしの感だけど、あの二人はできてるわよ」
「かもしれないな‥‥‥飯道山は賑やかだったかい」
「ええ。凄かった。世の中が物騒になったから、みんな、嫌な事を忘れて祭りで浮かれたいのよ。喧嘩騒ぎも多かったみたいよ」
「そうか‥‥‥」
「ねえ。楓様はいつ、こっちに来るの」
「春、いや、夏になるかもしれない」
「楓様って面白い人ね。あたしたち仲良しになっちゃったのよ」
「えっ?」と太郎は驚いて助六を見た。「楓に会ってたのか」
「ええ」と助六は笑って頷いた。「楓様、尼さんに化けて、よく、『浦浪』に遊びに来たのよ」
「あいつめ、お屋形様の屋敷から抜け出して遊んでるのか」
「踊りが習いたいって言うので教えてあげたの。なかなかうまいものよ。素質あるみたい」
「あいつが踊りを?」
「そうよ。今度、舞台で踊りたいって言ってたわ」
「何を考えてるんだよ。まったく」
「いいじゃない。お殿様の奥方様が舞台で踊るっていうのも面白いわ」
「かもしれんが、それどころじゃないだろう。どうやら、楓のおなかには赤ん坊がいるらしいんだ。赤ん坊を産むまではそんな事はできん」
「へえ、楓様のおなかの中に赤ん坊がいるの‥‥‥百太郎様の弟か妹がいるんだ‥‥‥」
「松恵尼様から聞いたけど、奈々さん(助六)にも子供がいるんだって?」
「えっ、そんな事、松恵尼様、言ったの」
「びっくりしたよ。まさか、奈々さんに子供がいたなんて、でも、奈々さんは楓と同い年だもんな。子供がいたって、おかしくないよな。今、いくつなんだい」
「四つ。もうすぐ五つになるわ」
「女の子だって?」
「ええ。みい、って言うの」
「奈々さんの娘じゃ可愛いい子だろうな。こっちに家ができたら、娘も旦那さんも呼ぶがいい」
「旦那なんて、いないのよ。行方不明。多分、戦で死んじゃったのよ。あたしが子供を産んだ事も知らずに‥‥‥」
「そうだったのか‥‥‥子供は今、どこにいるんだ」
「伊勢よ。両親が見ているわ」
「最近、会ってないんだな」
「そうね‥‥‥」
「両親も子供も、みんな、こっちに呼べばいい」
「はい‥‥‥」
「子供の事を思い出させちゃったみたいだな」
「大丈夫よ‥‥‥」とは言ったが、助六は何となく、しんみりとしていた。しかし、すぐに笑って話題を変えた。「お頭から聞いたけど、今度、但馬の国に行くんですって」
「うん。来年の春、生野を占領するつもりなんだ。それで、みんなに色々と情報を集めてもらいたいんだよ。置塩城下で忙しかっただろうから、ゆっくり休んでからでいいんだけど、ここじゃ、ゆっくりも休めないか」
「大丈夫よ。みんな、河原で寝るのは慣れてるから、結構、のんびりやってるわ」
「そうか‥‥‥みんなが河原にいるのに、俺がこんな所でのんびりしてるのは悪いような気がするな」
「なに言ってるのよ。あなたはここの城下のお殿様でしょ。お殿様が河原なんかで寝てたら、いい笑い者になるわよ」
「そうなんだよな。俺一人なら別に笑い者になっても構わんが、俺だけでは済まなくなるからな。置塩のお屋形様も笑い者になってしまう」
「そうか‥‥‥前のように自由には動けなくなるのね」
「いや。ただ、名前が一つ増えただけさ。殿様として赤松日向守、山伏として太郎坊移香、仏師として三好日向。俺は今まで通り、山伏や仏師に化けて自由にやるさ」
「今は、何なの」
「今は赤松日向守かな‥‥‥」
「それじゃあ、仏師になって河原に行きません?」
「河原?」
「河原に何かあるのか」
「みんな、あなたに会いたがってるのよ。あなたがお殿様になってから、なかなか会えなくなったから、以前のあなたに会いたがってるのよ」
「そうか、そう言えば、みんなには色々とお世話になったのに、ろくにお礼も言ってなかった」
「お礼なんかどうでもいいのよ。ただ、みんな、あなたがお殿様になっても変わっていないという事を確かめたいのよ」
「俺は変わってないさ」
「分かってるわ。行きましょ」
職人姿に着替えて三好日向に戻った太郎は、助六と一緒に市川の河原へと向かった。
四日後、金勝座は但馬の国に潜入した。
「どうです、皆の意見はまとまりましたか」と太郎は長老に聞いた。
長老は頷き、「何とか、決まりました」と答えた。
「そうですか。それで、どのように決まりました」
「まず、仰せつかった銀山奉行の件ですが、わしではなく、小五郎にお願いしたいのです。わしは、もうすぐ八十です。あと何年生きられるやら分かりません。それに、長い間、山の中で暮らしておりました。今更、山を下りる気はございません。あと何年生きられるか分からんが、その短い間に若い者たちに技術を教えようと思っております」
「そうですか。長老殿がそうおっしゃるのでしたら、わたしの方はそれでも構いません。それでは、小五郎殿、よろしくお願いいたします」
「はい。畏まりました」と小五郎は頭を下げた。
「それと、小次郎の事じゃが」と長老は言った。「あいつは目が不自由なので、お城下の方に連れて行って欲しいんじゃ。小次郎はくりと夫婦になり、子供も一緒にお願いします」
「はい、分かりました。他に城下の方に移られる者はおりませんか」
「銀太と小太郎の二人が、どうしても、武士になりたいと言います。わしが見たところ、この二人は山師をやるより武士の方が向いておるように思います。できれば、殿の家来にでもして下され」
「はい」と言って、太郎は銀太と小太郎を見た。この二人なら、立派な武士になるだろうと思った。
「銀太はろくと夫婦になり、小太郎はすなと夫婦になるという事になっております。それと、申し上げにくいのじゃが、きさときくの二人もお城下に行きたいと言っておるんです。どうか、二人とその子供たちの面倒も見て欲しいのですが」
「おきさ殿とおきく殿の二人は誰かと夫婦にはならないのですか」
「ええ。子供だけを連れて、お城下に移りたいと言っております」
「そうですか、分かりました。すると、あとの者たちはこの山に残るというわけですか」
「はい。とりあえずはこの山に残り、銀を作ります。丁度、六組の夫婦が残る事となります。この六組に銀を作る技術を教え、その子孫たちに伝えて行きます。今は六組ですが、すぐに子孫たちは増えます。できれば、技術だけは、これらの子孫だけに残したいのです」
太郎は、助太郎、助四郎、助五郎、小三郎、助六郎、助七郎の六人の顔を見渡した。
「わしら一族に取って、銀を作る技術は命と言ってもいい程、大切なものです。その技術のお陰で、わしらはこの異国の地で生きて行く事ができました。できれば、一族以外の者には教えたくはないのです。お分かり下さい」
「分かりました」と太郎は頷いた。「城下の方ですが、今、急いで造っておりますが、まだ、まともに人が住める状態ではありません。申し訳ありませんが、もう一冬、ここを守っていて貰いたいのです。春になって雪がなくなれば、わたし共は但馬に進攻して生野を占領するつもりでおります。そうすれば、生野にも新しい城下ができる事でしょう。皆、冬になれば、生野に下りて暮らせる事になると思います」
「生野を占領しますか‥‥‥」長老は少し驚いたような顔をして太郎を見た。
「そのつもりです」
「生野の周辺は、ほとんどが鷲原寺(ワシハラジ)の荘園です。あそこを攻めれば鷲原寺の山伏や僧兵を相手にする事となります。鷲原寺にはかなりの僧兵がおります。生野を占領すのは難しい事と思いますが‥‥‥」
「と言う事は、この辺りは山名氏の勢力範囲ではないのですか」
「一応は、鷲原寺も山名氏の支配下に入ってはおりますが、山名氏の荘園侵略には腹を立てております。もしかしたら、赤松家が朝来郡まで勢力を広げるとすれば、鷲原寺は寝返るかもしれません」
「成程、そういう事だったのか。生野の山の上の砦を見たが、どうも兵が少ないと思った」
「はい。山名氏は生野の山の上や国境近くに砦を設けてはおりますが、それは、ただの見張りに過ぎません」
「そうか、いい事を聞いた。とにかく、その鷲原寺というのを調べてみよう」
相談が終わると、小五郎の案内で小野屋藤兵衛は山の中を見て回った。
太郎がこの村に来て以来、長老の小屋は太郎たちが使う事となり、長老はおちいと一緒に、おせんの小屋に移っていた。そして、太郎たちの世話は、おきさとおきくとおこんとおとみの四人が当たっていた。この四人の娘は、初めて太郎たちがこの山に来た時、交渉のあった四人だった。おきさとおきくの二人は大河内庄の城下に移る事となったが、おこんとおとみの二人は違った。おこんは助四郎と夫婦になり、おとみは助五郎と夫婦になり、ここに残ると言う。しかし、それぞれが正式に夫婦となる来年の春までは、太郎たちの接待を任されていた。
藤兵衛は山の中を一通り見て回ると、小五郎の小屋に入って、小五郎と二人で長い間、銀山開発について今後の相談をしていた。
その晩、太郎たちはいつものように御馳走になり、宴が終わると、それぞれの小屋に入って行った。藤兵衛は男まさりの女、おとくと気が合い、おとくの小屋へと行ったらしかった。村の男たちには悪いが、太郎たちが来ると相変わらず、女の小屋へは出入り禁止になっていた。いつも通りに、風光坊はおこんの小屋に、八郎坊はおとみの小屋に、探真坊はおきくの小屋に、そして、太郎はおきさの小屋へと収まった。他の女の所に行こうと思えば行けるのだが、皆、馴染みの女の所に収まっていた。
他の女の事は知らないが、おきさの場合は、もう太郎を離さなかった。絶対に、他の女の所に行かないようにと太郎を見張っていた。おきさにしてみれば、このまま、太郎の子供を生めば、その子は大河内城主の子供となり、おきさは正式の妻になれないとしても側室となる。当然、おきさの三人の子供は、おきさの願っていた通り、武士になれる。しかも、ただの武士ではない。赤松一族の武士となるのだった。
おきさは初めて太郎と会った時、太郎をただの山伏だと思った。何の欲もなく、ただ、太郎という男が好きになっただけだった。それが、今は状況が変わった。太郎はただの山伏でなく、赤松のお屋形様の義理の兄だと言う。何としてでも、太郎の側室になりたかった。それに、太郎の子供を宿しているという兆候もあった。おきさは他の女に太郎を取られないように、ずっと太郎から離れなかった。
おきさの小屋に行くと、太郎は眠っている、おきさの三人の男の子を覗き込み、「皆、立派な武士になりそうだな」と言った。
「夢のようよ。でも、もう一人、増えそう」とおきさは笑った。
「へえ。おなかの中に赤ちゃんができたのか」
「多分ね。あなたの子よ」
「まさか」と太郎は驚いて、おきさを見た。
「ほんとよ」とおきさは嬉しそうな顔をして笑った。「あの晩にできたの」
「まさか。たった一度で、子供ができたのか」
おきさは頷いた。「だって、今年になって、あれしたの、あなただけだもの。太郎様が帰った後にも先にも、誰も、この小屋に入れてないわ」
「信じられんな」と太郎は首を振った。
「ほんとなのよ。この村では、男の人が好きな女のもとに通うようになってるけど、皆、誰とでも寝るわけじゃないのよ。あたしが今まで寝たのは四人だけよ。助次郎さんと小太郎さんと小三郎さんと、そして、あなただけ。小三郎さんとはたった一回だけよ。あたしが十八になって小屋を持った時、あたしの部屋に通える男の人は、助太郎さんと助次郎さんと小太郎さんと小次郎さんの四人だったの。あたしはずっと助次郎さんが好きだったから、最初の男は助次郎さんだったわ。助太郎さんは嫌いだったから、通って来ても断ったわ。小太郎さんはそれ程、嫌いじゃなかったから何度か、通って来たわ。小次郎さんは目が不自由だから通っては来なかった。小次郎さんは目は不自由だけど、いい男だから、結構、女の方から誘っていたみたいだけど、あたしはそんな事はしなかった。とにかく、あの頃、あたしは助次郎さんに夢中だったの。助次郎さんもあたしの事、好きだったみたいだけど、やっぱり、よその女の所にも通っていたわ。助次郎さんがよその女の所に行っている時、小太郎さんが訪ねて来ると、あたしも腹いせに小太郎さんに抱かれたの。でも、次の年から、助次郎さんもあまり出歩かなくなったし、あたしも他の男の人が来ても入れなかったわ。それなのに、助次郎さんは京の都で戦が始まると、あたしの兄さんの銀次と一緒に山から出て行ってしまったの。あたしはずっと助次郎さんが帰って来るのを待ってたわ。でも帰って来なかった。あたしは助次郎さんが出て行ってから一年間は、誰もこの小屋に入れなかった。それは、おとくさんも同じだった。おとくさんも銀次兄さんが出て行ってから誰も入れなかったわ。一年待ってみてね、あたし、もう、助次郎さんの事は諦めようと思って、また、小太郎さんに抱かれたわ。でも、その頃になると、もう、みんな落ち着いて来ていたの。正式に夫婦じゃないけど、自然に夫婦みたいになっていたわ。小太郎さんの奥さんはおすなさんなの。小太郎さんはおすなさんの目を盗んでは時々、あたしの小屋に来ていたけど、おすなさんの小屋とあたしの小屋って隣同士でしょ。すぐに見つかって、おすなさんに怒られていたわ。それでも、この子とこの子は小太郎さんの子なのよ」
おきさは三歳の子と六歳の子を指差した。
「そして、この子は助次郎さんの子よ」と一番上の子の頭を撫でた。
「ふうん、そうか。皆、自然に夫婦のようになっていたのか」
「長年、付き合って行くと、自然と、自分に一番合う相手が見つかるのよ」
「長老や小五郎さんは娘たちの所には、通わなかったのかい」
「通えないのよ。どれが、自分の娘だか分からないから通えないの。長老様が失敗じゃったって言ってたわ。あたしたちの母さんたちと、ちゃんと決めて、夫婦になっていたら、若い女子を抱けたのになあって」
「成程ね。そんな先の事まで考えなかったんだな。みんな、夫婦のようになってるって言ったけど、おきささんの旦那さんは誰なんだ」
「だから、あたしにはいないのよ。今、相手がいないのは、あたしと、おとくさんと、おきくちゃんね。あとはみんな、一応、いるわ」
「おきくちゃんも相手がいないのか」
「ええ。おきくちゃんは丁度、釣り合いの取れる男の人がいないのよ。助次郎さんと銀次兄さんが出て行っちゃたから、助太郎さんと銀太兄さんしかいないの。あとはみんな、年下になっちゃうの。一つ年下に助四郎さんがいるけど、助四郎さんはおこんさんが離さないし、その下の助五郎さんは、おとみちゃんと仲がいいし、時々、助太郎さんが通っては来るけど、助太郎さんにはおりんさんがいるし、おきくちゃん、あなたの家来の五郎(探真坊)さんが気に入ってるみたいよ」
「それで、城下に来たいって言ってたんだな。あいつも、なかなか、うまくやってるようだな」
「おとくさんも銀次兄さんが出て行ってから相手がいなかったけど、どうやら、あなたが連れて来た藤兵衛さんとうまくやってるみたいよ。おとくさんが、あんなに女らしいの、久し振りに見たわ」
「と言う事は、今、八郎と一緒にいるおとみちゃんには助五郎さんがいて、光一郎と一緒にいるおこんさんには助四郎さんがいるというわけだな」
「そうね、一応は。でも、おこんさんの所は出入りが激しいわ。来る者は拒まずっていう感じで、誰とでもやってるわ。おこんさんにしてみれば誰でもいいんじゃない。ただ、助四郎さんの方がおこんさんに参ってるのよ」
「うちの光一郎も参ってるというわけか」
「光一郎さんはいい男だけど、ちょっと若すぎるわね。おこんさんを城下に連れて行ってみても、うまく行かないと思うわ」
「だろうな」
「ね、分かったでしょ。だから、あたしのおなかの中にいるのは、あなたの子供なの。信じてくれる」
太郎は頷いた。「ああ。信じるよ」
「よかった」と、おきさはニッコリ笑った。
「ねえ、今度はあなたの番、あなたの事、話して」
「うん」
太郎はおきさに、故郷、五ケ所浦の事や甲賀の事など話して聞かせた。
この山から出た事のないおきさは当然、海というものを知らなかった。太郎は海を知らないおきさに海の事を説明した。おきさは不思議そうな顔をして、太郎の話を聞いていた。
次の日、太郎たち一行は山を下りた。
一行の中に銀太と小太郎の姿があった。彼らがこれから住む事となる城下を一応、見てもらおうと思い、連れて来たのだった。
2
城下造りが着々と進んでいた。
大河内城は市川の上流、小田原川との合流地点の山の上に建てる事となった。市川に沿って姫路から但馬の国に抜ける街道が走り、小田原川に沿っては播磨の国一の宮、伊和(イワ)神社へと続く街道が走り、伊和神社からは因幡(イナバ)街道につながっていた。北から侵入して来る山名氏を押えるのに、丁度いい場所と言えた。
山の上から回りを見渡すと、東に笠形山(カサガタヤマ)、西に雪彦山(セッピコサン)が見え、市川の周辺を除き、辺り一面は山また山だった。城下町は東側を市川、南側を小田原川に挟まれ、北と西に山が囲む地に造られつつあった。
大勢の職人や人足たちが普請(フシン)奉行の太田典膳、作事(サクジ)奉行の菅原主殿助(トノモノスケ)、材木奉行の堀次郎の指示のもと、忙しそうに働いていた。太田と菅原は置塩のお屋形様が付けてくれた土木建築の専門家で、堀次郎は浦上美作守に命じられ、偽の太郎を京から播磨に連れて来る途中、山賊に襲われた、あの頼りない男だった。堀次郎はそのまま太郎の家臣となり、材木奉行となっていた。荒々しい戦の方は苦手でも銭勘定の方は得意らしく、うまくやっているようだった。
人足たちは置塩城下の河原者の頭、片目の銀左衛門と、この辺りの河原者の頭、権左衛門の力によって集められた。権左衛門も銀左と同じく、雪彦山金剛寺に所属している河原者で、市川による運送業の元締だった。
人足たちは集まったが、番匠(バンショウ、大工)や鍛冶師(カジシ)、鋳物師(イモジ)、壁塗師(カベヌリシ)などの職人を集めるのが大変だった。今、置塩城下を初め、各地で城下造りをしているため、なかなか集まらなかった。仕方なく、小野屋の力を借りて、伊勢や奈良から腕のいい職人たちが集められた。
以前、代官所と五、六軒の農家、僅かばかりの水田があっただけで、あとは草茫々の草原だった地に、一千人以上の人々が朝から晩まで忙しく働いていた。
新しく城下ができると聞き付けて、人々は続々とこの地にやって来た。大通りに面したいい場所を手に入れるため、商人たちはもとより、城下造りに関係のない職人たちや人足相手の立君(タチギミ)、武士を対象とした遊女、芸人たちから乞食まで、まだ城下もできていないのに集まって来ていた。
城下の町割りは以前からあった稲荷(イナリ)神社を中心に行われた。稲荷神社の隣に、大徳寺の禅僧で、一休禅師の弟子だという磨羅宗湛(マラソウタン)を住持職とした雲雨山磨羅寺(ウンウサンマラジ)を造り、その参道を盛り場として、この界隈を町人や職人たちの町とした。稲荷神社の西側を武家町として、山の上の城へと続く道の近くの山側に赤松日向守(太郎)の屋形を造り、その回りに重臣たちの屋敷を並べた。城下造りの資金をほとんど負担している『小野屋』は、大通りに面した町の中程に広い土地を与えられていた。
城下造りが始まって一月半が経ち、山の上は邪魔な木を切り倒して平らにならし、簡単な砦ができていた。城下の方では大通りができ、太郎の屋形と磨羅寺を集中的に作っていた。商人たちは与えられた土地に各自で屋敷や蔵を建てていたが、まだ、どこも完成してはいなかった。新たに太郎の家来になった者たちも皆、城下造りに参加して、朝から晩まで汗を流していた。
太郎たち一行は大河内城下に帰って来ると代官所へと入って行った。
屋形ができるまでは、ここが太郎の仮の宿所だった。以前、この地の代官だった平野四郎左衛門は、そのまま太郎の家臣となり、家族と共に近くの空き屋敷に移っていた。太郎と数人の重臣たちが、この代官所で暮らし、その他の家臣たちは人足たちと共に掘立て小屋で寝起きしていた。
相談役として付いて来ていた上原性祐(ショウユウ)入道と喜多野性守(ショウシュ)入道の年寄り二人は、披露式典の前に置塩城下に帰ったまま向こうにいた。もうすぐ冬じゃ、住む所もないのに、あんな所にいたら体に悪い、春になったら、また行くと言って戻って来なかった。
太郎たちが帰って来た時、代官所には夢庵肖柏(ムアンショウハク)が一人、昼寝していただけだった。
夢庵は披露式典の時、太郎と一緒に置塩城下に行き、礼装に着替えて、忙しそうに活躍していた。公家の出だけあって、その姿はなかなか様になっていた。式典も無事に終わり、用も済んだので摂津(セッツ)の国に帰るのかと思っていたら、また、太郎と一緒にここに戻って来た。初めのうちは、但馬の国にでも遊びに行くかな、と言っていたが、結局、どこにも行かず、かといって城下造りを手伝うわけでもなく、毎日、ブラブラしていた。皆が忙しそうに働いているのに、平気でブラブラしているのも変わっているが、そんな夢庵を見て、誰も何も言わないのもおかしな事だった。もっとも、夢庵が汗を流して働いている姿など想像もできないが、誰一人として夢庵に文句を言わないのは、やはり、夢庵が一種の人徳というものを持っているからかもしれなかった。
太郎は城下の景色のいい所に夢庵のために屋敷を作るつもりでいた。今回、夢庵には、どうお礼をしても足らない程の恩を受けていた。夢庵自身はそんな事、一向に気にしていないが、太郎は夢庵をここに引き留めて置きたかった。引き留めて置くのは無理だと分かっているが、屋敷があれば、時折、戻って来てくれるだろうと思っていた。太郎も赤松家の武将になったからには、夢庵から茶の湯や連歌を初め、色々な事を学びたかった。今まで剣一筋に生きて来たため、そっちの方面はまったく知らなかった。この先、置塩のお屋形様のお茶会や連歌会に招待される事もあるだろう。そんな時、恥はかきたくなかった。太郎の恥は、太郎だけではなく楓や太郎の家臣たちの恥でもあった。太郎も早く一人前の武将になりたかった。
太郎は一休みすると、銀太と小太郎を連れて城下の方に出掛けた。藤兵衛は小野屋に帰り、太郎の三人の弟子たちは武術道場の作事場に道場造りの手伝いに出掛けた。
代官所は市川に沿った但馬街道に面していた。新しくできる城下町の一番東側に位置している。この代官所の横から、大通りが一の宮へと続く街道と平行して東西に走っている。この大通りが城下の中心となる通りだった。
太郎は銀太と小太郎を連れて大通りを歩いていた。
「この辺りは商人たちの町です」と太郎は歩きながら説明した。
大通りの両側に、大きな蔵や屋敷が作られつつあった。ほとんどが置塩城下から出店を出している商人たちである。かなり作業が進んでいる所もあれば、敷地内を縄で囲むだけで、まだ草も刈ってない所もあった。
しばらく進むと右側に大通りがあり、突き当たりの山の裾野に大きな寺院を建てていた。臨済宗大徳寺の末寺(マツジ)である雲雨山磨羅寺だった。磨羅寺の参道の両側には茶屋や旅籠屋、遊女屋などが並ぶ事になるが、まだ建物は何もなく、草が生い茂っているだけだった。
さらに進むと左側に小野屋の広い敷地がある。整地はしてあるが作事作業は始まってはいない。隅の方に藤兵衛たちが寝起きしている小屋があり、大量の材木が積んであった。小野屋は丁度、四つ角に面した所にあり、北に行けば稲荷神社にぶつかり、南に行けば一の宮街道に出た。
三人はさらに大通りを西に向かった。
「ここから先に武家屋敷が並びます」と太郎は二人に説明した。
銀太と小太郎は珍しそうに新しい町造りの様子を眺めていた。
武家屋敷が並ぶという土地は整地されて区切られていたが、やはり、まだ、ここにも建物は何も建っていなかった。ただ、太郎の屋形だけが屋根も上がり、大勢の人たちが作業に励んでいた。
三人は次の四つ角を北に曲がった。それは太郎の屋形の正面に続く大通りだった。
「この辺りに重臣たちの屋敷がずらっと並びます。まだ、誰がどこに屋敷を建てるか、はっきりと決まっておりませんが、銀太殿と小太郎殿の屋敷もこの辺りに建てる事となるでしょう」
「さすが、殿の屋敷は大きなものですね」と銀太が正面に見える建築途中の屋形を見ながら言った。
「わたしら家族だけが住むのでしたら、こんな大きな屋敷はいらないのですけど、置塩のお屋形様が下向して来られた時、この屋敷に泊まる事になるので、やはり、これ位の大きさが必要なんですよ」
「凄いもんじゃのう」と小太郎が唸った。「出来上がったら、まるで御殿のようじゃろうのう。わしら山の中で育った者には、とても想像すらできません」
作業中の屋形の中を覗き、三人は屋形の横を通って山の方へと向かった。
屋形の斜め後ろ辺りに武術道場を造っていた。太郎の三人の弟子たちが人足たちと一緒に草を刈っていた。その中にチラッと夢庵の姿が見えたので、太郎は立ち止まった。
確かに、それは夢庵だった。いつの間にこんな所にいるのだろうと思って、太郎は声を掛けた。
「夢庵殿、何をしてるのです」
夢庵は顔を上げると、「見た通りじゃ」と笑った。「そなたの弟子たちに剣術でも習おうと思って来たんじゃが、この有り様じゃ」
「夢庵殿は剣術をされるんですか」
「少しはのう」
「そうですか、今度、お手合わせ願います」
「いや。そなたと立ち会える程の腕はない。遠慮するわ」
太郎は夢庵と別れ、二人を連れて山の中に入った。
「この山の上に城を建てます」と太郎は言って細い山道を登って行った。
銀太と小太郎は太郎の後に従った。
山の頂上の砦には次郎吉がいた。次郎吉は名を伊藤大和守(ヤマトノカミ)と改め、太郎の家老の一人となっていた。
「どうかしたんですか」と太郎は次郎吉に聞いた。
「いや、なに、わしには、どうも普請とか作事とか似合わんのでな。かといって代官所で夢庵殿と一緒にゴロゴロしているわけにもいかん。そこで、ここに来て昼寝しておったんじゃ」
「次郎吉殿、そろそろ街が恋しくなったのですね」と太郎は笑いながら言った。
「まあな」と次郎吉も笑った。
「そうだ。次郎吉殿、この二人、新しく俺の家臣になったんですけど、置塩城下まで連れて行ってくれませんか」
「なに、置塩城下までか」と次郎吉の目の色が変わった。
「はい。この二人はずっと山の中にいたので、まだ、置塩城下を知らないのです。一度はお屋形様の城下を見ておかなくてはならんでしょう」
「おお、勿論じゃ」
「それじゃあ、明日にでも二人を連れて行って下さい。都の楽しさを充分、二人に味あわせてやって下さい」
「充分にか‥‥‥分かった。いや、畏まりました、殿」
次郎吉と別れると太郎は二人を連れて、今、造っている城下を見渡せる見晴らしのいい場所に行って腰を下ろした。
「上から見ると城下も広いのう」と銀太は言った。
「出来上がったら、ここも都になるのう」と小太郎は言った。
「ここに、あなた方も住む事になるのです。多分、二人には何かの奉行をやってもらう事となるでしょう」
「わしらが奉行に‥‥‥そんな偉い武士になれるのですか」
「当然です。あの銀山を守り通して来たのですから」
「夢のようじゃ」と銀太が言った。「わしの弟に銀次というのがおって、助次郎というのと一緒に山を下りて行った。立派な武士になるんじゃと言ってのう、もう七年も前の事だが未だに何の音沙汰もない。奴らも、もう少し我慢しておったら立派な武士になれたものを‥‥‥」
「おきささんから聞きましたよ」と言ってから、太郎は少し間を置いて銀太に聞いた。「話は変わりますが、おきささんが、わたしの子供を孕(ハラ)んだと言っておりましたが本当でしょうか」
「おきさが孕んだ?」と二人は驚いたように同時に太郎を見た。
「もし、それが本当だとしたら、まさしく、それは殿のお子です」と銀太が言い、小太郎も頷いた。
「別におきささんの言う事を信じないわけではないんですけど、あの村では、特に決まった夫婦関係はなく、男が女のもとに通っておるのでしょう」
「おきさは殿と一緒になって以来、誰も自分の小屋には入れておりません」と銀太は言った。「殿と一緒になる前も、ずっと子供の面倒を見るだけで、男は誰一人入れておらんでしょう。おきさは村を出て行った助次郎の事をずっと思っておるのです」
「それは聞きました。しかし、小太郎さんの子供も二人います」
「確かに」と小太郎は頷いた。「しかし、わしがおきさを抱いたのは、ほんの数える程です。紀四郎、三番目の子供ですけど、その子が生まれてから、わしは一度もおきさを抱いてはおりません、わしだけでなく、おきさは誰とも一緒に寝なかったでしょう」
「おきさはわしの妹だから庇うわけではないが、母親に似て身持ちの固い女です。おきさはほんとに好きになった男としか寝ません。わしらの母親がそうだったそうです。わしらの母親は小五郎様としか寝なかったそうです。長老様や内蔵助(クラノスケ)様が訪ねて行っても、絶対に寝なかったそうです。無理にでも抱こうとすると匕首(短剣)を取り出して、自分の首に当てたそうです。だから、わしらの兄弟だけは父親がはっきりしております。おきさはその母親の血を強く引いたため、他の女たちのように誰とでも寝るという事ができなかったのです。自分の子供の父親がはっきり分かるのはおきさだけでしょう。もし、おなかの中に子供ができたとすれば、それは間違いなく、殿のお子です」
「そうだったのか‥‥‥おきさは小五郎殿の娘か‥‥‥」
「殿、どうか、おきさの事、お願い致します」と銀太は言った。
「わしが言うのもおかしいが、おきさは本当にいい女子(オナゴ)です」と小太郎も言った。
「分かった」と太郎は言った。
分かった、とは言ったが、実際、大変な事になってしまったものだった。おきさが子供を産んでしまえば、楓に隠す事はできない。どうしよう、面倒な事になってしまった、と思った。
3
冷たい風の吹く、夕暮れ時だった。
一日の作業も終わり、人足たちが各小屋へと向かっていた。
掘立て小屋の立ち並ぶ一画では、あちこちから飯を炊く煙が上がっていた。
そんな頃、代官所の客殿(キャクデン)の一室に赤松日向守(太郎)の重臣たちが集まっていた。
まず、太郎の三人の弟子。彼らは本名に戻り、太郎の側近衆になっていた。風光坊は風間光一郎に、八郎坊は宮田八郎に、探真坊は山崎五郎を名乗っていた。
次に家老として、阿修羅坊、金比羅坊、弥平次、伊助の四人がいた。阿修羅坊は大沢播磨守を名乗り、金比羅坊は岩瀬讃岐守(サヌキノカミ)、弥平次は小川弾正忠(ダンジョウチュウ)、伊助は青木近江守を名乗っている。皆、偉そうな名前を名乗り、それぞれが家来を持つ身分となって武士の姿も板につき、武将としての貫禄も備わって来ていた。
その他、祐筆(ユウヒツ)の別所造酒祐(ミキノスケ)、勘定奉行となった松井山城守(吉次)、廐(ウマヤ)奉行となった川上伊勢守(藤吉)、射場(イバ)奉行の朝田河内守らが顔を揃えていた。ただ、次郎吉こと伊藤大和守も家老の一人だったが、鬼山(キノヤマ)銀太と鬼山小太郎を連れて置塩城下に行っているため、この場にはいなかった。
金勝座の一行も二日前に、この地に来ており、金勝座全員が太郎の家臣となっていた。家臣になったといっても武士になったわけではなく、今まで通りに各地で諜報(チョウホウ)活動をするというものだった。また、今まで通りに松恵尼の手下でもあった。金勝座の頭、助五郎は金勝雅楽頭(ウタノカミ)を名乗り、披露(ヒロウ)奉行という肩書を持って、この場に来ていた。
以上十三人が太郎を中心に頭を並べていた。
「皆に集まって貰ったのは銀山の件です」と太郎は言った。「銀山を開発するに当たって、但馬に進攻しようと思っております」
太郎は皆の顔を見回した。
「やはり、但馬を攻めるのか」と岩瀬讃岐守(金比羅坊)が言った。
太郎は頷いた。「生野まで行かなくても播磨から銀山に入る事はできます。しかし、大々的に開発するとなると、やはり、生野の地は占領した方がいいと思います」
「そうじゃのう」と大沢播磨守(阿修羅坊)が言った。「銀を作るとなると煙が昇るからのう。山名方に気づかれんようにするには、生野を占領した方がいいかもしれんのう」
「はい。山名方にばれないようにやらなければならないという事が、一番、難しい事なのです」
「うむ、難しいのう」と讃岐守は唸った。
「生野か‥‥‥あそこは鷲原寺(ワシハラジ)の勢力が強いんじゃないかのう」と播磨守は言った。
「鬼山の長老もそう言っていました。阿修羅坊殿、いや、播磨守殿、その鷲原寺に行った事はありますか」
「ああ、何度かある。鷲原寺は朝来郡(アサゴグン)一帯の炭の座を支配しておってのう。鉄を産する瑠璃寺(ルリジ)と取り引きをしておる。わしもその関係で何度か行った事はある」
「かなりの僧兵や山伏がおるのですか」
「うむ。かなりの勢力を持っておるのう。朝来郡の南半分は鷲原寺の勢力範囲と言ってもいいじゃろう」
「北半分は山名か」と讃岐守が聞いた。
「ああ、そうじゃ。山名の重臣、太田垣(オオタガキ)氏じゃ。太田垣氏は安井城(後の竹田城)を本拠に丹波と播磨からの侵入を防いでおるんじゃ」
「その安井城というのは、生野からどの位、離れていますか」と太郎は播磨守に聞いた。
「そうじゃのう、四里というところかのう」
「四里ですか‥‥‥太田垣氏というのはどんな武将です」
「山名の四天王と言われる程の重臣じゃ」
「四天王‥‥‥」
「そうじゃ。今のわしらの兵力では、とても相手にはなるまい。ただ、城主の太田垣土佐守は今、京におるはずじゃ。留守を守っている三河守というのは土佐守の次男じゃが、この男がなかなかの猛将だとの噂じゃ」
「そうですか‥‥‥山名にとって生野の辺りというのは、それ程、重要な地ではないのでしょうか」
「そうじゃのう。赤松氏にとっての、この大河内庄と同じようなもんじゃないかのう。赤松氏にとって、この地は但馬への入り口に当たる重要な地じゃが、わざわざ、城を建ててまで守りを固めようとは思わん。見張りだけは置いておくが、敵が攻めて来たら置塩城から攻めればいいと思っておる。敵も多分そうじゃろう。もし、国境を越えて来たら安井城から攻めて来るんじゃろう」
「やはり、攻めて来ますか」
「そりゃそうじゃ。しかも、国境を越えて攻めて行けば、もはや、殿と太田垣との戦いでは済まなくなる。赤松対山名という事になるじゃろう」
「そうか‥‥‥それはまずいな」
「ただ、宗全入道が亡くなってから、どうも、山名氏は元気がないようじゃ。宗全の跡を継いだ左衛門佐(サエモンノスケ、政豊)は国をまとめる事より幕府の機嫌を取る方に忙しいようじゃ。細川九郎(政元)と和議してから、山城の守護に任命され、京から離れる事は難しいじゃろう。もしかしたら、生野辺りを占領したとしても山名は動かんかもしれんのう」
「とにかく、生野を攻めるとしても来年の春になるでしょう。それまでに色々な情報を集めなければなりません」
「よし、鷲原寺の事はわしに任せろ」と播磨守は言った。
「山伏の事は播磨守殿に任せる事にして、わたしは太田垣氏を調べましょう」と青木近江守(伊助)が言った。
「わたしらも但馬に入りましょう」と金勝雅楽頭(助五郎)が言った。
「それじゃあ、わしは、みんなの連絡を取りますか」と川上伊勢守(藤吉)が言った。
「皆さん、お願いします」と太郎は頭を下げた。
「ところで、殿、その銀山なんじゃが、一体、どれ位の銀が取れるんじゃ」と播磨守が聞いた。
「播磨守殿には、まだ言ってませんでしたね。掘ってみない事には詳しくは分かりませんが、一千貫はあるそうです」
「一千貫?‥‥‥」
「銭にして、十二万貫文だそうです」
「十二万貫文‥‥‥とてつもないものじゃのう」
「はい。あの山を守っていた鬼山一族は明(ミン)の国から来た人たちです。我々の知らない特殊な技術を持っているそうです」
「ほう、明の人か‥‥‥しかし、十二万貫文とは大したものじゃのう。こいつは絶対に敵には渡せんのう」
「絶対に銀山を守らなければなりません」
「うむ」
その後、城下における、それぞれの屋敷を建てる場所を決め、評定はお開きとなった。
いつの間にか、外では初雪が散らついていた。
4
夕べ、初雪が降ったが積もる程ではなく、翌日はいい天気だった。
代官所の離れの間で、太郎は久し振りに助六と会っていた。金勝座が飯道山の祭りに帰って以来、二人だけで会って話すのは初めてだった。披露式典が終わって、すぐ、太郎たちはこの地に戻って来たが、金勝座はすぐに来る事はできなかった。お屋形の政則に気に入られたお陰で、披露式典に集まって来た武将たちの間で、金勝座の舞台は引張り凧のように忙しかった。十一月になって招待された客たちも帰り、置塩城下も落ち着いて、ようやく金勝座も解放されたのだった。太郎たちが鬼山一族の村に行っている時、金勝座は大河内庄にやって来た。
「代官所なんて初めて入ったけど豪勢なのね」と助六が部屋の中を見回しながら言った。
「ここはお屋形様とか、赤松家の重臣の方々が下向して来た時に使う客殿なんだよ」
「へえ、凄いものね。こんな広い所に誰もいないの」
「ああ、今はね。夕べ、雪が降ったから、皆、忙しいのさ。雪が積もったら仕事ができなくなるからね。それまでにやれる所までやらなければならない」
「そうか、ここは飯道山よりずっと雪が多いのね。大変ね‥‥‥それにしても立派ね。こんな田舎の代官所がこんなに立派なら、置塩のお屋形なんて凄いんでしょうね」
「ああ、凄かったよ。まるで御殿だな」
「そう言えば、あたしは見てないから知らないけど、太郎様と楓様の披露式典をした会場は物凄く豪華だったんですって」
太郎は頷いた。「物凄かったよ。俺たちを披露するためだけに、あれだけの物を作るんだから大したもんだよ。赤松家というものの恐ろしさを改めて知ったよ」
「ほんと、凄かったわね。偉そうなお侍さんたちがあんなにも集まるなんて、さすがよね」
「お屋形様の話だと、有力な播磨の国人はすべて揃ったそうだ。備前と美作の国人が半分程、来なかったんだそうだ」
「へえ。まだ、赤松家に敵対する国人たちがいるんだ」
「まだ、いるらしい。しかし、あの式典で、はっきり敵対する者が分かったから、後は何とかなるだろう、と言っていた」
「ふうん。お屋形様もまだまだ、大変ね」
「春になったら、また、美作に行くと言っていた」
「そう。お殿様なんて、立派な屋敷で、毎日、贅沢な暮らしをしてると思ってたけど、実際は、お殿様も色々と大変なのね」
「特に今の世の中は、うかうかしてられないらしい。国人たちが以前より力を持って来ているので、守護だからといって、昔の様に京にいて、のんびりしてはいられないんだそうだ」
「それじゃあ、太郎様もこれから何かと忙しくなるのね」
「多分な」
床の間の掛け物を眺めていた助六は太郎を見ると笑って、「ところで、太郎様は冬の間、ずっと、ここにいるの」と聞いた。
太郎は頷いた。「ただ、もう少ししたら飯道山に行かなければならない」
「陰の術ね」
「うん。陰の術も相変わらず進歩なしだ。一昨年(オトトシ)から全然、進歩していない」
「そう言えば、飯道山で、あなたのお師匠さんに会ったわ」
「松恵尼殿から聞いて驚いたよ。俺はすっかり師匠に騙されてたんだ。俺は師匠に会いに大峯山に行ったんだ。そしたら、師匠は山奥に籠もって千日行をしていると聞いた。俺は山の中を捜し回ったが結局、見つからなかった。見つかるわけないよな。その時、すでに師匠は山を下りて加賀に行ってたんだもんな」
「へえ、そうだったの。お師匠さんに会いに大峯山に行ってたんだ」
「そうさ。その間に楓が消えちまったというわけさ」
「あなたのお師匠さんて松恵尼様のいい人なの」
「さあ、そこまでは知らんけど、古くからの知り合いだろうな」
「あたしの感だけど、あの二人はできてるわよ」
「かもしれないな‥‥‥飯道山は賑やかだったかい」
「ええ。凄かった。世の中が物騒になったから、みんな、嫌な事を忘れて祭りで浮かれたいのよ。喧嘩騒ぎも多かったみたいよ」
「そうか‥‥‥」
「ねえ。楓様はいつ、こっちに来るの」
「春、いや、夏になるかもしれない」
「楓様って面白い人ね。あたしたち仲良しになっちゃったのよ」
「えっ?」と太郎は驚いて助六を見た。「楓に会ってたのか」
「ええ」と助六は笑って頷いた。「楓様、尼さんに化けて、よく、『浦浪』に遊びに来たのよ」
「あいつめ、お屋形様の屋敷から抜け出して遊んでるのか」
「踊りが習いたいって言うので教えてあげたの。なかなかうまいものよ。素質あるみたい」
「あいつが踊りを?」
「そうよ。今度、舞台で踊りたいって言ってたわ」
「何を考えてるんだよ。まったく」
「いいじゃない。お殿様の奥方様が舞台で踊るっていうのも面白いわ」
「かもしれんが、それどころじゃないだろう。どうやら、楓のおなかには赤ん坊がいるらしいんだ。赤ん坊を産むまではそんな事はできん」
「へえ、楓様のおなかの中に赤ん坊がいるの‥‥‥百太郎様の弟か妹がいるんだ‥‥‥」
「松恵尼様から聞いたけど、奈々さん(助六)にも子供がいるんだって?」
「えっ、そんな事、松恵尼様、言ったの」
「びっくりしたよ。まさか、奈々さんに子供がいたなんて、でも、奈々さんは楓と同い年だもんな。子供がいたって、おかしくないよな。今、いくつなんだい」
「四つ。もうすぐ五つになるわ」
「女の子だって?」
「ええ。みい、って言うの」
「奈々さんの娘じゃ可愛いい子だろうな。こっちに家ができたら、娘も旦那さんも呼ぶがいい」
「旦那なんて、いないのよ。行方不明。多分、戦で死んじゃったのよ。あたしが子供を産んだ事も知らずに‥‥‥」
「そうだったのか‥‥‥子供は今、どこにいるんだ」
「伊勢よ。両親が見ているわ」
「最近、会ってないんだな」
「そうね‥‥‥」
「両親も子供も、みんな、こっちに呼べばいい」
「はい‥‥‥」
「子供の事を思い出させちゃったみたいだな」
「大丈夫よ‥‥‥」とは言ったが、助六は何となく、しんみりとしていた。しかし、すぐに笑って話題を変えた。「お頭から聞いたけど、今度、但馬の国に行くんですって」
「うん。来年の春、生野を占領するつもりなんだ。それで、みんなに色々と情報を集めてもらいたいんだよ。置塩城下で忙しかっただろうから、ゆっくり休んでからでいいんだけど、ここじゃ、ゆっくりも休めないか」
「大丈夫よ。みんな、河原で寝るのは慣れてるから、結構、のんびりやってるわ」
「そうか‥‥‥みんなが河原にいるのに、俺がこんな所でのんびりしてるのは悪いような気がするな」
「なに言ってるのよ。あなたはここの城下のお殿様でしょ。お殿様が河原なんかで寝てたら、いい笑い者になるわよ」
「そうなんだよな。俺一人なら別に笑い者になっても構わんが、俺だけでは済まなくなるからな。置塩のお屋形様も笑い者になってしまう」
「そうか‥‥‥前のように自由には動けなくなるのね」
「いや。ただ、名前が一つ増えただけさ。殿様として赤松日向守、山伏として太郎坊移香、仏師として三好日向。俺は今まで通り、山伏や仏師に化けて自由にやるさ」
「今は、何なの」
「今は赤松日向守かな‥‥‥」
「それじゃあ、仏師になって河原に行きません?」
「河原?」
「河原に何かあるのか」
「みんな、あなたに会いたがってるのよ。あなたがお殿様になってから、なかなか会えなくなったから、以前のあなたに会いたがってるのよ」
「そうか、そう言えば、みんなには色々とお世話になったのに、ろくにお礼も言ってなかった」
「お礼なんかどうでもいいのよ。ただ、みんな、あなたがお殿様になっても変わっていないという事を確かめたいのよ」
「俺は変わってないさ」
「分かってるわ。行きましょ」
職人姿に着替えて三好日向に戻った太郎は、助六と一緒に市川の河原へと向かった。
四日後、金勝座は但馬の国に潜入した。
18.早雲庵
1
真っ白に雪化粧した富士山が神々しく聳(ソビ)えている。
駿府の町も、村々にも、華やかな雰囲気が漂っている。
文明七年の新年が明けていた。
東や西では戦の最中だったが、ここ駿河の国は今川氏のお陰で戦場になる事もなく、平和な毎日が続いていた。
駿府のお屋形では琴の調べの流れる中、着飾った女房たちが晴れ晴れとした顔をして、新年の挨拶を交わしていた。北川殿の屋敷では、お屋形の今川治部大輔(ジブノタイフ)義忠が家族と一緒に楽しい一時を過ごしていた。長女の美鈴は七歳になり、長男の竜王丸(タツオウマル)は五歳となっていた。
浅間(センゲン)神社は初詣での人々で埋まり、誰の顔もほころび、口々におめでとうと言い合っていた。
駿府から一山越えた石脇の早雲庵にも正月はやって来ていた。早雲庵の正月は、これといって普段と余り変わりないが、それでも何となく、みんな浮き浮きしていた。早い話が、正月だというのに行く所もない連中がゴロゴロしているのだった。
早雲は狭い庵(イオリ)の中に誰がゴロゴロしていても何も言わなかった。一応、早雲庵と呼ばれていても、早雲自身、この庵が自分のものだとは思っていない。小河(コガワ)の長谷川次郎左衛門尉が早雲のために建ててくれたものだったが、早雲は来る者は拒まなかった。別に歓迎するわけでもないが追い出す事もしない。来たい者は来たい時に来て、出て行きたい時に出て行った。
今年の新年をここで迎えたのは七人だった。主の早雲、富嶽(フガク)という名の絵師、三河浪人の多米(タメ)権兵衛、銭泡(ゼンポウ)と名乗る乞食坊主、円福坊という越後の八海山の老山伏、大和から来た鋳物師(イモジ)の万吉、そして、春雨という女芸人が狭い早雲庵で新年を迎えていた。
富嶽、多米、円福坊、万吉の四人は早雲庵の常連だった。富嶽と多米の二人は、すでに、ここの住人と言えるし、円福坊と万吉の二人は年中、旅をしていて、この地に来ると必ず早雲庵に顔を出し、しばらく滞在しては、また旅に出て行った。二人共、早雲がこの地に庵を建てるまでは、小河の長谷川次郎左衛門尉の所に世話になっていたが、次郎左衛門尉の屋敷よりも、こっちの方が気楽なので、いつの間にか早雲庵の常連となっていた。今回、たまたま年の暮れに早雲庵に来た二人は、そのまま、ここで新年を迎えた。
早雲がこの地に来て、すでに三度目の正月だった。去年の正月も一昨年の正月も、今年のように七、八人の者が早雲庵にいたが、女が居座っているのは初めての事だった。
春雨という女は年の頃は二十七、八の京から来た踊り子で、去年の十二月の十日頃から、ここに居着いてしまっていた。
春雨がここに来た時、珍しく、早雲庵には誰もいなかった。春雨は腹を減らして寒さに震え、日の暮れる頃、ようやく、ここにたどり着いた。一晩、泊めて貰おうと誰もいない庵の中で待っていたが、誰も帰って来なかった。疲れていた事もあって、春雨はいつの間にか囲炉裏の側で眠ってしまった。朝になって目が覚めると、勝手な事をして悪いとは思ったが、有り合わせの物で雑炊(ゾウスイ)を作った。ようやく雑炊ができ、食べようと思った時、誰かが庵に入って来た。
乞食坊主だった。この乞食がこの庵の主(アルジ)なのか、と春雨は疑った。
「すまんがのう。何かを食わせてくれんかのう。もう、三日も何も食っておらんのじゃ」と乞食は、今にも死にそうな声を出して言った。
春雨は、何と答えたらいいのか分からなかったが、主が帰って来たら謝ればいいと思い、その乞食と二人で雑炊を平らげた。
「どうも、御馳走様でした」と乞食坊主は春雨に両手を合わせた。
「やっと、生き返ったわね」と春雨は言った。
春雨は自分の事を言ったのだったが、乞食は勘違いして、お陰様で、と言って、また両手を合わせた。
「いいのよ‥‥‥ねえ、あんた、この辺の人」と春雨は乞食に聞いた。
「いえ、違います」と乞食は首を振った。
「ふうん。じゃあ、どこの人」
「どこといって別に決まってはおらんが、昔は京の都にいた事もあるのう」
「へえ、あんた、京の人なの」
「はい。戦が始まる前の事ですわ」
「ほんと、実はあたしも京から来たのよ」
「ほう、そうですか」
二人がありし日の都の話をしていると、また、誰かが訪ねて来た。
「和尚さん、おるかね」と外で呼んでいた。
春雨が出て行くと、漁師が魚をぶら下げて立っていた。春雨を見て不思議そうな顔をしていた漁師は持って来た魚を見せると、「和尚さんは留守かい。まあ、これを食ってくれや」と春雨に魚を渡した。
帰ろうとする漁師に春雨は声を掛けた。
「ねえ、ちょっと。あたしも和尚さんを待ってるんだけど、いつ帰って来るのか知らない」
「さあ、分からんのう。旅に出たとすれば、しばらくは帰って来んじゃろうのう。昨日は、いたんじゃから、当分、戻っては来んじゃろう。駿府のお屋形様の所に行ったのなら、その内、帰って来るじゃろう。絵画きさんもおらんのかい」
「ええ、誰もいないわ」
「そうか、誰もいないとは珍しいのう。必ず、誰かがおるんじゃがの」
「ここに住んでるのは和尚さんだけじゃなかったの」
「いや、色んなお人が出入りしておるのう。和尚さんがいなくても誰かがおるんじゃが‥‥‥まあ、しばらく待っていれば、誰かが戻って来るじゃろう」
そう言うと、漁師は帰って行った。
春雨は漁師の言った事を考えながら、魚をぶら下げて庵の中に戻った。
「御馳走様でした」と乞食坊主は帰ろうとした。
「ねえ、あんた、どこ、行くの」と春雨は聞いた。
「別に当てはございません」
「じゃあ、もう少しいてよ」
「しかし、人様のうちに長居するわけにも‥‥‥」
「いいのよ。ここはあたしのうちじゃないのよ」
「はあ?」と乞食坊主は怪訝な顔をした。
「あたしもあんたと同じで、おなかを減らして、昨夜、ここに来たの。そしたら誰もいなくて、悪いとは思ったんだけど勝手に上がり込んで、勝手に雑炊を作ってたのよ。食べようとした時に、あんたが来たっていうわけ。だから、あんたもここの主人に無断で、ご飯を頂いたっていう事になるのよ」
「何と、わしは知らずに人様の物を無断で食べたと言うのか」
「そういう事ね」
「何とした事じゃ」
「だから、あんたもここの主が戻って来るまで、ここにいて、あたしと一緒に謝ってよ」
「‥‥‥仕方ないのう」
昼過ぎになって、主の早雲が戻って来た。
春雨は乞食坊主と二人で庵の中の掃除をしていた。早雲は勝手に上がり込んでいる二人を見ても何も言わなかったが、綺麗に片付けてある庵の中を見回して、二人にお礼を言い、土産じゃ、と言って二人の前に御馳走を並べた。
春雨が、勝手に上がり込んで、飯まで食べた事を謝ろうとしたら、絵画きと呼ばれている坊さんと浪人者が帰って来て、また、土産だ、と言って御馳走を並べた。早雲たちが話を始めてしまい、春雨は言い出すきっかけを失ってしまった。ようやく、話が一段落すると浪人者が言った。
「早雲殿、ところで、その別嬪(ベッピン)さんはどなたです」
「いや、わしは知らん。おぬしらの知り合いじゃろ」
「いや、わしらは知らん。てっきり、早雲殿の知り合いじゃと思っておったわ」と絵画きは言った。
「あの、申し訳ありません」と春雨は謝った。事の次第を皆に話したが、誰一人として文句も言わず、まあいい、これだけの御馳走があるんじゃ。みんなで食べようと、その話は打ち切りとなった。
早雲は昨日、駿府に出掛けていた。駿府のお屋形様が凱旋(ガイセン)して来たので、そのお祝いに出掛けたのだった。
絵画きの富嶽と多米権兵衛は留守番していたが、小河の長谷川次郎左衛門尉から、今晩、お茶会をやるから来ないかと誘いが来て、次郎左衛門尉の屋敷まで出掛けていた。
お茶会といっても、現代のお茶会とは違って『闘茶(トウチャ)』と呼ばれる、何種類かのお茶を飲み分ける遊びだった。ただ、お茶を飲み分けるだけではなく、お互いに景品を持ち合い、勝った者は景品が貰えるという勝負事だった。そして、そのお茶会の後には、必ず、宴会が付き物で、夜が更けるまで飲んで騒いだ。庶民たちの娯楽として、当時、闘茶は下々の者の間にまで流行っていた。
富嶽と多米の二人には勿論、景品として持って行く物はなかった。しかし、その点は次郎左衛門尉がいつもうまくやってくれた。ちゃんと二人の景品まで用意した上で招待しているのだった。その景品というのも並大低の物ではなかった。高価な品々がずらりと並び、それらの品々を平然とやり取りしていた。もっとも、二人の目当てはそんな高級品ではない。お茶会の後の豪華な宴会が目当てだった。次郎左衛門尉は早雲を招待しに来たのだったが、留守なら仕方がない、お二人だけでもどうぞ、と言うので、喜び勇んで出掛けて行ったのだった。
春雨と乞食坊主の銭泡は、その日から早雲庵に居着いてしまっていた。
春雨は京の四条河原で踊っていた曲舞女(クセマイオンナ)だった。あの頃は春雨も若く、京で一、二を争う程の踊り子だった。在京している武士たちの屋敷に招待されて舞った事も何度もあった。お公家さんの屋敷にも出入りした。誰からもちやほやされて毎日が華やいでいた。
しかし、京の都で戦が始まった。突然の事にとても信じられなかった。どうせ、すぐに終わるだろうと楽観していたが、戦は終わるどころか、益々、大きくなって行き、建ち並ぶ屋敷や寺社は次々に燃えて消えた。春雨の一座も、とうとう京を離れなければならなくなった。
春雨は一座と共にあちこち流れ歩いた。京での華やかな生活が、まるで嘘のような悲惨な旅だった。旅をして回るのは子供の頃から慣れてはいても、一度、覚えてしまった贅沢な暮らしを忘れる事はできなかった。戦はいつまで経っても終わらなかった。そして、いつしか京を出てから七年の歳月が経ち、春雨も年を取って行った。
一座には若い娘も入り、春雨の存在は徐々に影が薄くなって行った。いくら踊りがうまくても若さには勝てなかった。一座と共に駿河の府中まで来て、春雨は舞台に出してもらえず、座頭(ザガシラ)と喧嘩して悪態を付き、飛び出してしまった。飛び出してから後悔しても遅かった。今更、戻るわけにも行かず、かといって、踊りしか知らない春雨には生きる術が分からなかった。
一座は駿河の公演が終わったら京に戻るはずだった。春雨も早く京に帰りたかった。しかし、一座から飛び出した今となっては京に帰ってもしょうがなかった。この年では、どこの一座でも使っては貰えない。笛や鼓でもできれば使ってはくれるが、春雨にはできなかった。若い頃、踊りは若いうちだけだから笛や鼓(ツヅミ)を習っておいた方がいいよ、とよく言われたが、春雨はそんな先の事なんか考えもしなかった。自分の踊りに自信を持っていたし、若い者には負けないと思っていた。今でもそう思っているが、舞台に上がれなければ、どうしようもなかった。
確かに、客たちは若い娘たちの方を喜んだ。客たちに見る目がないんだ、と思っても、客商売の舞台では、客を呼べなければ話にならなかった。一座から捨てられた春雨は、これから、どうしようか、と空きっ腹を抱えて、海を見ながら考えていた。どう考えてみても春雨には踊りしかなかった。結局、謝って、一座に戻ろうと京に向かう一座を追った。そして、一山越えた所で日が暮れかかり、小高い丘の上に建つ早雲庵にたどり着いたのだった。今更、座頭に謝って一座に戻るのもしゃくだった春雨は、何となく居心地のいい早雲庵の住人となってしまった。
一方、乞食坊主の方は早雲庵の建つ丘のすぐ下で寝ていた。朝になって、食べ物の匂いで目が覚め、匂いに誘われるままに早雲庵にやって来たのだった。
頭を丸め、ぼろぼろになった墨染めの衣を着てはいるが、早雲や富嶽と同じように偽坊主だった。この偽坊主も居心地のいい早雲庵が気に入ったとみえて、出て行こうとはしなかった。不思議な事だったが、この乞食坊主は以前、京において早雲と面識があった。しかし、お互いに気づかず、十日程経った後に、お互いに話の内容から、相手が誰なのか分かったのだった。当時、早雲の方は足利義視(ヨシミ)の申次衆(モウシツギシュウ)の武士、乞食坊主の方は『伏見屋』という幕府に出入りしていた羽振りのいい商人だった。
お互いに、変わり果てた相手の姿が信じられなかった。
伏見屋は戦のお陰で、商売の方はうまく行ったが家族を失ってしまった。伏見屋が取り引きに出掛けている留守、屋敷が西軍の足軽に襲われた。伏見屋としても、浪人たちを雇い、厳重に守りを固めていたが足軽の数が多すぎた。東軍との取り引きがうまく行き、喜んで帰って来ると屋敷はすでに燃え落ちていた。
伏見屋は愕然(ガクゼン)となった。そして、その後に取った行動が、今の乞食坊主となる原因だった。伏見屋は家族たちの心配をするよりも隠しておいた財産の心配をした。慌てて、焼け落ちた屋敷内に飛び込むと財産が無事かどうか確かめた。幸いにも隠しておいた財産は無事だった。伏見屋は胸を撫で下ろした。そして、家族の事を思った。家族の者は皆、無残な姿で殺されていた。
伏見屋は家族を失って、初めて、自分は今まで何をして来たのだろうと考えた。
家族のために働いて来たのではなかったのか。
それが、いつの間にか、家族の事は忘れ、銭を儲ける事に取り付かれていた。財産は残ったが、家族がいないのでは意味がなかった。
伏見屋は財産をすべて持って、南都、奈良に向かった。奈良には、茶の湯の師匠、村田珠光(ジュコウ)がいた。伏見屋は珠光の家に世話になりながら、毎日、豪遊して暮らした。珠光のために、珠光が理想とする茶室を作ったり、名物と呼ばれる茶道具を集めたり、銭に糸目を付けずに遊び暮らした。また、珠光の回りには遊び上手が揃っていた。毎日、退屈する事もなく楽しく過ごした。これ以上の贅沢はないと言われる程の贅沢を味わった。そして、財産を使い果すと伏見屋は頭を丸め、銭が泡と消えたので、自ら銭泡(ゼンポウ)と名乗り、墨染め衣を身にまとって奈良から姿を消した。
贅沢の限りを付くし、無一文となったが、伏見屋には後悔はなかった。返って気持ちがよかった。それからの伏見屋は銭を稼ぐ事は一切しなかった。珠光の弟子だという事も口に出さなかった。村田珠光は将軍の茶の湯の師匠だった。その事を口に出せば、大名なら放っては置かなかっただろう。珠光の始めた『佗び茶』は、すでに噂にはなっていたが、それを実際に知っている者は京や奈良の一部の人たちだけだった。地方の大名たちは、その『佗び茶』を知っていると言えば飛び付いて来るだろう。しかし、銭泡となった伏見屋は、お茶の事など一言も喋らず、腹を空かしていても乞食坊主のままでいた。
早雲は伏見屋の話を聞いていた。
「珠光殿も喜んでいた事でしょう」と早雲は聞いた。
早雲は珠光のお茶会に義視と一緒に参加した事があったので、珠光の事は知っていた。
「はい。あの時は実に楽しかった。決して、今が楽しくないと言うわけではないがの。あの時、最高の贅沢を経験したお陰で、返って、今の無一文の生活も楽しく思えるのかもしれんのう」
「もう、商売はなさらないのですか」
「銭はもう必要ないんじゃ。銭が無くても、月があり、山があり、海がある。そして、季節毎に様々に変わる自然を眺めておれば飽きる事はない。腹を空かしておっても何とかなる。死ぬ時が来たら逆らわずに死ぬだけじゃ」
「銭泡殿、ここには好きなだけいて下さい。結構、ここも楽しい所ですよ。わしも、この地に落ち着くつもりはなかったんじゃが、居心地がいいのか、もう、この地に来て、二年半にもなるわ」
「ええ、いい人ばかりですな。そなたの人徳で、いい人ばかりが集まって来るんじゃろうのう」
「人徳なんて、そんなもんじゃないですよ。ただ、気ままに、やりたい事をやっておるだけです」
「お言葉に甘えて、春になるまでお世話になる事にします」
「どうぞ、好きなだけいて下さい」
銭泡と春雨の二人は、そのまま、早雲庵に居続けた。
銭泡の方は問題ないが、春雨の方は問題だった。春雨は別に気にしていなかったが、今まで、女っ気のなかった早雲庵に女が加わるのは回りの方で気にし出した。
年は少し取ってはいても春雨は、誰が見てもいい女だった。そんな女が同じ屋根の下で暮らすとなると、まず、多米が意識し出した。
富嶽がたまりかねて、春雨のための離れを作ろうと言い出した。早雲も最近のみんなの様子が変な事に気づいて同意し、早雲庵の南東に、小さな小屋、春雨庵が建てられた。
春雨は大した女だった。男をあしらう事には慣れていた。多米が言い寄ろうが、村の男たちが変な目付きをしようが一向に気にしなかった。毎日、みんなの食事の面倒を見、早雲庵に訪ねて来る者たちの世話を焼いていた。
春雨は訪ねて来る者たちに、勝手に、早雲和尚の弟子だと名乗っていた。しばらくすると、早雲ではなく春雨に会いに来る者も現れ、早雲庵はいつも賑やかだった。
そして、文明六年の年は暮れ、年は改まって文明七年となった。
海のように広い霞ケ浦を挟んで、鹿島神宮と香取神宮が向かい合って建っている。鹿島神宮も香取神宮も、新年を祝う着飾った参拝客で溢れていた。
早雲の弟子、才雲(サイウン)と孫雲(ソンウン)の二人は常陸の国(茨城県北東部)鹿島で新年を迎えていた。
二人は去年の春、早雲の供をして鹿島神宮にやって来て、そのまま、この地に置いて行かれたのだった。
鹿島神宮は対岸にある香取神宮と共に武神を祀り、武術が盛んだった。早雲は駿河のお屋形、今川治部大輔義忠の武運を祈るために、この地にやって来た。早雲がこの地に来たのは二度目だった。前に来たのは駿河に向かう前だった。その時は、ただ参拝しただけだったが、今回は二人の弟子が、せっかく、ここまで来たのだから、どうしても武術修行を見たいと言うので、鹿島の森の奥にある武術道場に行ってみた。飯道山のように山の上ではなかったが、道場の雰囲気は似ていた。修行に励んでいるのは神宮寺の山伏、この辺りの郷士、そして、神宮の神官たちだった。剣術、槍術、棒術、薙刀術に分かれて稽古に励んでいた。
三人が木陰から稽古を眺めていると、棒を持った山伏が近づいて来て睨み、「何か用か」と言って来た。
「有名な鹿島の太刀というものを、この目で見たくなったのでな、少し見せてもらっておる」と早雲は答えた。
「ほう、御坊殿は見ただけで武術というものが分かるとは、なかなかの腕と見えるのう」と山伏は喧嘩を売るような態度だった。
「いや、わしには武術の事など分からんが、ただ、国への土産話にと思って覗いて見ただけじゃ。修行の邪魔になると言うのなら、すまなかった。この大勢の人たちの修行振りを見ただけで、いい土産話ができた。失礼致しました」
早雲は二人を促して、その場から去ろうとした。
「待て、ただ稽古を見ただけではつまらんじゃろ。どうじゃ、実際に鹿島の太刀を見てみる気はないか」
「いえ、結構でございます」と早雲は頭を下げた。
その時、武士が近づいて来て、山伏に声を掛けた。
「こいつらが覗き見をしていたんじゃ。どうせ、香取の回し者じゃろう」と山伏は武士に言った。
「そうか」と武士は早雲たちを見てから、「おぬしは稽古に戻ってくれ。わしが話を付ける」と言った。
山伏は去って行った。残った武士は、「どうも、失礼いたした」と早雲たちに謝った。
「御坊殿はどちらから参ったのですかな」
「駿河です」と早雲は答えた。
「ほう、駿河から、はるばると‥‥‥わざわざ遠くから来てくれたのに、嫌な思いをさせてしまいました。お詫びと言っては何ですが、お茶でも飲んで行って下さい」
早雲たちは武士に案内されて、道場のはずれに建つ小屋に案内された。
その小屋の中では、師範たちが休んでいた。
早雲たちを連れて来た武士の名は塚原土佐守(トサノカミ)といい、この道場内でも、かなり偉い男のようだった。早雲は土佐守とお茶を飲みながら、半時程、世間話をした。
早雲も土佐守も四十歳半ばの同じ位の年頃だった。土佐守の話によると、戦の始まる前、彼は京の都に行った事があり、その行き帰りに駿河の今川氏のお屋形に寄り、大層な御馳走で持て成されたと言う。
もう十年以上も前の事だが、神道流(シントウリュウ)を開いた飯篠長威斎(イイザサチョウイサイ)と数人の弟子たちが京に向かい、将軍義政の御前で武術を披露し、長威斎はそのまま将軍の武術師範として、しばらくの間、京に留まった。その一行の中に土佐守もいた。京に滞在中に長威斎の弟子たちは各地の武将の武術師範となって散って行ったが、土佐守は長威斎のもとを離れず、一年近く、京に滞在して後、長威斎と共に香取に帰って来た。香取に戻ると長威斎は隠居してしまい、土佐守は鹿島に帰って修行者たちの指導に当たり、今に至っていた。
鹿島では鹿島神道流、香取では香取神道流というが、当時、この二つの武術は同じものだった。鹿島神宮にも、香取神宮にも、古くから伝わる武術があり、それらを一つにまとめて『天真正伝(テンシンショウデン)神道流』としたのが飯篠長威斎だった。長威斎は幼い頃より香取の武術を身に付け、さらに、鹿島の武術を吉川呼常より習った。そして、呼常の娘を嫁に貰い、長男の修理亮(シュリノスケ)を香取の地に置き、次男の山城守(ヤマシロノカミ)を鹿島の地に置いて、武術の指導に当たらせていた。塚原土佐守は山城守のもとで武術師範をしていた。
土佐守が長威斎と共に京に来た時、早雲も京にいたが、まだ、足利義視の申次衆になっていなかったので、長威斎一行の噂は耳にしても実際に見る事はできなかった。
早雲がそろそろ帰ろうとした時、思わぬ男と再会した。その男は木剣を引っ提げて、小屋の中に入って来ると、「暑いのう」と言って、浴びるように水を飲んだ。
その水の飲み方に見覚えがあった。見覚えがあったが、すぐには思い出せなかった。しかし、その男が、大原殿と呼ばれた時、早雲は思い出した。
「大原殿」と早雲は笑いながら、その男に声を掛けた
呼ばれた男はキョトンとして、早雲を見たが誰だか分からないようだった。
「久し振りじゃのう。わしじゃ、伊勢新九郎じゃ」
「伊勢新九郎‥‥‥おお、おぬしか。懐かしいのう。しかし、一体、どうしたんじゃ、その格好は」
「おぬしこそ、何でまた、こんな所におるんじゃ」
二人は二十年程前、飯道山で共に修行した仲だった。丁度、風眼坊たち四天王が活躍していた頃だった。当時、新九郎は京の伊勢家に居候していたが、久し振りに訪ねて来た風眼坊と会い、そのまま、飯道山まで行ったのだった。故郷を出る時、新九郎と風眼坊の武術の腕は互角だった。しかし、三年間、会わないうちに風眼坊は見る見る腕を上げ、新九郎には、とても太刀打ちできなかった。元来、負けず嫌いな新九郎は風眼坊に負けるものかと修行を積むために飯道山にやって来た。
一方、大原源五郎は甲賀の郷士の伜で、四天王のお陰で、武術が盛んになり始めていた飯道山に登って来ていた。
二人は一年間、同じ釜の飯を食べながら、飯道山での厳しい修行に耐えて来た仲だった。
早雲は源五郎に歓迎され、彼の屋敷に招待された。彼は今、近江守と名乗り、この辺りの支配者、鹿島氏の家臣となっていた。
源五郎は飯道山を下りてから諸国に修行の旅に出た。この鹿島の地に来た時、塚原土佐守と試合をして見事に負け、長威斎の弟子となった。そして、この地で嫁を貰い、今では三人の子供もあり、大きな屋敷に多くの家来たちに囲まれて暮らしていた。
早雲はのんびりと十日間も大原の屋敷に世話になり、弟子の二人を大原のもとに預けて、駿河に戻って来た。弟子の二人は武術を身に付けたいと言うし、大原は二人位、居候が増えても変わらんから置いて行け、わしが武術をたたき込んでやると言うので、早雲は二人をこき使ってくれと置いて来た。
才雲と孫雲の二人は毎日、朝早くから雑用などをして働き、昼過ぎから屋敷内の道場で、近江守の弟子という岩田勘兵衛から剣術を習った。二人とも武術を習うのは初めてで、まったくの素人だったが真面目に稽古に励んでいるお陰で腕を上げて行った。
鹿島に来て半年が経ち、二人の腕は近江守の目に止まる程となり、今度は塚原土佐守の道場に通う事となった。
ここ鹿島では飯道山のやり方とは違い、武術を習いたい者は、まず、師範のもとで修行を積み、何年かの修行に耐え、腕を上げた者だけが鹿島神宮の道場で修行ができるというやり方だった。したがって、武術道場はあちこちにあり、武士だけでなく百姓や漁師たち、あらゆる身分の者たちが稽古に励んでいた。それらの道場にも階級があり、腕を上げる毎に上級の道場に移り、そこでまた、修行を積み、最後には鹿島神宮の道場で修行を積んだ。鹿島神宮の道場で修行を積めば、師範として道場を開く事ができるが、幼い頃より修行を積んで来た者でも神宮の道場に入るのは難しい事だった。
年末年始と才雲と孫雲は大原の屋敷で忙しく働き、武家の正月というものを初めて経験していた。
雪が降っていた。
春雨は早雲庵の離れ、春雨庵で、ぼんやりと落ちて来る雪を眺めていた。
どうして、あたしはこんな所にいるんだろう、と考えていた。
確かに、ここにいれば毎日が楽しかった。毎日、色々な人が訪ねて来て、色々な話をしてくれた。ここに来て、初めて、世の中には色々な人がいるんだな、と思った。
春雨は今まで、自分の舞台を見に来てくれる色々な人たちを舞台の上から見て来た。でも、それは、ただ、漠然と見ていたに過ぎなかった。今まで、自分の踊りをみんなが同じように見ているものと思っていた。しかし、人は一人一人、みんな違っていた。たとえ、同じ物を見ても考える事は一人一人が違っていた。そんな事は当たり前の事だが、春雨は気づかなかった。
春雨は自分の踊りに自信を持っていた。その踊りが田舎の連中に分からないのは、見る目のない客の方が悪いのだと思っていた。ここに来て、色々な人たちと話をしてみて、春雨は自分の考えが間違っていたのかもしれないと思うようになっていた。世の中には色々な人間がいる。しかし、その様々な人間が共通に美しいと感じる物があるに違いないと思った。例えば、道端に咲く可憐な花とか、例えば、西の空を真っ赤に染める夕焼けとか、例えば、朝日に輝く富士の山とか、どんなにひねくれている者でも美しいと感じる物があるに違いないと思った。
今までの自分の踊りには、どこか、押し付けがましいところがあったように思えて来た。京の都で、あれだけ評判になった踊りを見せてやる。さあ、よく見るがいい、と言うような押し付けがましいところがなかったとは言えなかった。道端に咲く花にしろ、夕焼けにしろ、富士山にしろ、そんな押し付けがましいところは少しもなかった。
春雨は舞台から離れてみて、初めて、踊りというものの難しさ、深さを知ったような気がした。しかし、今となっては、もう、踊りの事はどうでもよかった。それよりも、踊りを捨ててしまって、これから先、どうやって生きて行けばいいのだろう。
毎日、楽しく過ごしていても、これから、どうしたらいいんだろう、と考えない日はなかった。
銭泡法師のように、今まで好き勝手に生きて来た人なら、将来の事など考えずに、ここで、毎日、楽しく暮らしていればいいだろうが、春雨にはそんな暮らしはできなかった。すでに二十七歳になってしまったとはいえ、人並みな暮らしがしたかった。人並みに夫を持って、子供を産み、家族のために生きたかった。
今までに、そんな男がいなかったわけじゃない。ただ、運がなかっただけだった。若い頃には、命懸けで男に惚れた事もあった。踊りを捨ててまでも、その男と一緒に暮らしたかった。しかし、それは実現しなかった。子供を孕(ハラ)んだ事もあった。しかし、流産してしまった。
春雨がここに落ち着いたのは、はっきり言って早雲に惚れたからだった。一目会った時から、春雨は早雲という男に惹かれた。そして、一緒に暮らしているうちに、益々、惹かれて行った。春雨の気持ちも知らず、当の早雲は春雨にはまったく興味が無さそうだった。
春雨は自分という女に自信を持っていた。男なら誰でも自分の魅力に参ると思っていた。たとえ、僧侶であろうと男に違いなかった。現に富嶽にしろ、銭泡にしろ、隠れては春雨に言い寄って来ていた。早雲もいつか言い寄って来るに違いないと思って待っているのだが、早雲は言い寄っては来なかった。春雨を女と見ていなかった。男女の差別なく皆と同じように春雨にも接していた。そんな目に会うのは初めてだった。腹も立ち、しゃくに思うが、春雨の心は益々、早雲に惹かれて行き、ここから出て行く事は不可能になっていた。
「どうしたんだろ」と春雨は呟いた。「どうして坊主なんかに惚れたんだろ。まあ、いいか。納得するまで、ここにいて、飽きたらどこかに行こう。銭泡さんじゃないけど、世の中、何とかなるもんだわ」
「何が何とかなるんじゃ」と早雲の声がした。
振り返ると、土間に早雲が立っていた。
「しんみりとしていて、そなたらしくないのう」と早雲は笑った。
「あっ、お帰りなさい。やっと帰って来たんですね」春雨は嬉しそうに早雲を迎えた。「早雲様がなかなか帰って来ないので、あたし、淋しかったんですよう」
「何を言うか」
「だって、みんな、どこかに行っちゃうんだもの」
「みんな、どこかに行ったって」
「ええ。権兵衛さんは一昨日から、いなくなっちゃったし、絵画きさんは今朝早く、雪が降ってるのに、どこかに出掛けちゃうし」
「ほう、権兵衛は出て行ったか」
「ええ、あたしに一言も言わずに消えちゃったわ」
「それは、そなたがいじめるから逃げて行ったんじゃろ」
「あたしがいじめるなんて、権兵衛さんがしつこくするからですよ」
「それは、そなたのような女子(オナゴ)と一緒に暮らしておったら、男なら誰でも、ちょっかい出したくなるさ」
「早雲様も?」と春雨は聞いてみた。
「ああ、当然じゃ」と早雲は頷いた。
「ほんと?」
「ほんとじゃとも。ただのう、わしが先頭になって、そなたを追いかけ回しておったら、示しがつかんじゃろうが」
「うまい事、言っちゃって、早雲様の言う事は本当なんだか、冗談なんだか分かりゃしない。あたし、本気にしちゃうから」
「わしは嘘は言わんよ」と早雲は笑った。
「じゃあ、今度、夜這いに来てよ。あたし、待ってるから」
「おう。その内な」
「まったく‥‥‥いい加減な事ばっかり」春雨は膨れた顔をして早雲を睨んだ。
「そなたは、いい女子じゃのう」と早雲はまた、笑った。
「早雲様、絵画きさんは雪の降る中、朝早くから、どこに行ったんですか」
「ああ、富嶽か。また、富士山を描きに行ったんじゃろ」
「何も雪の降る中、行かなくても富士山は消えやしないのに」
「富士山はいつでもあるんじゃが、雪の方は、いつでもあるっていうもんじゃないからのう。この辺りはあまり雪は多くないんじゃ。雪景色を描くには雪が降ってる時に行かないと描けないんじゃろう」
「へえ、絵を描くのも大変なんですね」
「らしいのう。しかし、奴の絵はここに来て見る見る上達して来ておる」
「そうなんですか」
「今川のお屋形様が、いい絵を随分と集めておってのう。時折、見せてもらっておるんじゃ。奴が絵を見る時の目は真剣そのものじゃ。一つの絵を飽きもせずに一日中眺めておる事もあったわ」
「絵を一日中‥‥‥」
「そうじゃ。富嶽も昔は武士じゃった。京で戦が始まった時は、奴も武士として戦に出たらしい。何があったのか詳しくは知らんが、武士をやめて絵を描き始めた。特に、誰かに習ったというわけでもない。わしはたまたま富士山の裾野で富嶽と出会ってのう。意気投合して、ここに連れて来たんじゃ。ここに来てからも、ここにいる時よりも旅に出ておる方が多いと言えるのう。わしも、よく旅に出る方じゃから行き違いになる事も多くてのう。まあ、年末年始位じゃろうのう、みんながここに集まるのは」
「それじゃあ、絵画きさんはしばらくは帰って来ないのですか」
「ああ、一度、出掛けたら、まあ、一月は戻って来んじゃろう」
「そうなんですか‥‥‥早雲様はまだ旅には出ないんでしょう」
「まあ、今のところはの」
「権兵衛さんは、どこに行ったのです」
「さあな。そなたに振られて、やけになって戦にでも行ったんじゃないのか」
「そんな‥‥‥」
「また、そのうち戻って来るさ。もし、戻って来なければ、それでもいいがのう。いつまでも、こんな所でゴロゴロしていてもしょうがないからのう」
「あたしがここに来たから、みんな、ばらばらになっちゃったのかしら」
「そんな事はない。そなたのせいで、みんな色気立って来た事は確かじゃが、ここに来る連中たちは皆、ただ、ここに遊びに来ておるだけじゃ。ちょっと、のんびりしたくなると、ここにやって来る。しかし、ここに長居する事はない。しばらく、ここにおれば分かる事じゃが、色々な連中がここに来て、勝手に寝泊りして行く。旅から帰って来て、知らない人間がいなかった試しはない。いつも、見た事もない奴が我家のごとくに住んでおる‥‥‥それでいいんじゃよ。この早雲庵は誰の物でもないんじゃ」
「そうなんですか。それで、この前、あたしと銭泡さんが勝手に上がり込んでいても、変だとは思わなかったんですね」
「ああ、そういう事じゃ。だから、そなたも遠慮する事はない。行く所がなければ、ずっとここにいても構わん。かえって、いてくれた方がいいかもしれん。留守の間に、どんな奴が訪ねて来たか聞けるからのう。ただ、時折、物騒な奴らもここに来るからのう。そなたの身が心配じゃが‥‥‥」
「あたしの事なら大丈夫です。一座にいた頃から危険な目には慣れてますから。自分の身を守る術(スベ)は心得ています」
「そうか、それなら心配ないのう。まあ、しばらくはここにいて、これからの事を考えればいい」
早雲はそう言うと立ち上がった。出て行こうとしたが、急に振り返ると、「おう、忘れておったわい」と言った。「銭泡殿がお茶を点てると言うんで、そなたを呼びに来たんじゃったわ」
「お茶?」
「ああ、駿府のお屋形様から銘茶を貰って来てのう。そいつの味見じゃ」
「銭泡さんがお茶を点てるんですか」と春雨は不思議そうに聞いた。
「今は、あんな乞食のような格好をしておるが、数年前までは、幕府に出入りしていた商人じゃ。大きな屋敷や蔵をいくつもを持っておってのう、贅沢な暮らし振りじゃったわ」
「へえ、あの銭泡さんが‥‥‥とても、信じられない」
「茶の湯の腕も一流じゃ」
早雲は春雨を連れて、春雨の離れから出た。
「こいつは積もりそうじゃのう」と早雲は早雲庵の屋根の上を眺めた。
「そうですねえ」と春雨は空を見上げた。
「静かな正月じゃのう」
「そうですねえ」
二人は並んで早雲庵に入って行った。
それから四日後の事だった。春雨の身に思わぬ事が起こった。
早雲庵の者たちは誰もが一度、春雨の舞いを見たいと思っていた。そこで、小河の長谷川次郎左衛門尉の屋敷で、春雨の舞いを見るという事が、春雨には内緒で決まっていた。勿論、踊りには唄が付き物だった。長谷川屋敷では一流の囃し方を集め、春雨のための衣装も舞台もすべて用意した。
春雨に取っては夢のような事だった。もう、踊りの事は諦めていた。二度と舞台に立つ事はないと思っていた。
春雨は蝶の様に舞台狭しと舞った。そして、その舞いは喝采(カッサイ)で迎えられた。信じられない事だった。自分の舞いを認めてくれる人たちがいる事を春雨は改めて知った。そして、その後、春雨は駿府のお屋形様の前でも舞った。お屋形様を初め、奥方様や女房たちも皆、春雨の舞いに喝采を贈った。たった二度だけの喝采だったが春雨は嬉しかった。自分を認めてくれる人たちがいる事を知って嬉しかった。
早雲は銭泡を連れて小坂の山を越えていた。
山を下りた所に、お屋形様の弟、中原摂津守(セッツノカミ)の屋敷があった。その屋敷には三日前に来ていた。今日、向かっている所はもう少し先だった。
新年の挨拶に、お屋形様のもとに行った時、お屋形様は銭泡が京の伏見屋だと見抜いてしまった。もっとも、早雲が銭泡と会った時とは違い、ぼろを纏ってはいなかったし、頭は剃っていても小綺麗ななりをしていた。
お屋形の義忠は京に行った時、戦の最中だったにしろ、京の文化を取り入れる事に熱心だった。当時はまだ、村田珠光(ジュコウ)も将軍の側にいて武将たちに茶の湯の指導をしていた。義忠も勿論、珠光から茶の湯を習った。当時、義視の側近にいた早雲も義忠と茶の湯を共にした事があった。また、義忠は伏見屋たち町人の茶の湯の会にも顔を出していた。特に、伏見屋は珠光の直々の弟子だと聞いて、よく出入りしては目利き(鑑定)の事などを尋ねていたらしかった。
義忠は駿河に帰って来ても、自分なりに茶の湯の研究は続けていた。続けてはいたが、分からない事も色々とあった。しかし、分からない事があっても教えてくれる者がいなかった。戦が終わって京に行ったら、珠光の弟子を何としてでも、この駿河に連れて来ようと思っていた。そんな時、突然、伏見屋がこの駿河にやって来た。願ってもない事だった。義忠は銭泡を質問責めにして、自分の所持している唐物(カラモノ)や茶道具を銭泡に見せて鑑定してもらい、さっそく、お茶会を開いた。ほんの挨拶に来ただけだった早雲と銭泡は、お屋形から帰してもらえず、六日間も駿府に滞在する羽目となってしまった。
お屋形様も銭泡に付きっきりで茶の湯を習いたかったが、武将たちが次ぎ次ぎに新年の挨拶をしに来るので、そうもいかなかった。暗くなってからでないと自分の時間が持てなかった。
早雲と銭泡は、お屋形様が挨拶に出ている昼間、何をしていたかというと、正月早々から、埃にまみれて蔵の中に入り、今川家代々の蒐集品(シュウシュウヒン)の整理をしていた。埃まみれにはなったが、これがまた、結構、楽しいものだった。
蔵の中からは色々な物が出て来た。今川氏が駿河に本拠地を移して、すでに百年が経ち、蔵の中には今川家代々の歴史が詰まっていた。特に、四十年程前、義忠の祖父、範政が将軍義教を迎えた時、接待に用いた数々の品物が、そっくり出て来た時は驚きだった。四十年前の物とはいえ、それらはすべて、四十年経った今でも一流の物ばかりが揃っていた。
銭泡は六日間で蔵から出て来た蒐集品のすべてを鑑定し、夜になると、お屋形様に茶の湯の指導をした。銭泡と一緒にいた早雲も自然と茶の湯を身に付けて行った。今まで、お茶会には出た事あっても、本気で茶の湯を学ぶ気などなかった早雲も、六日間、銭泡と共にいた事で、改めて、茶の湯の深さというものを知って行った。
銭泡がお屋形様に茶の湯を指導したという事は瞬く間に噂となり、今川家の家臣たちの耳に入って行った。丁度、正月だった事もあって、各地から家臣たちが新年の挨拶に来ていたため、噂が広まるのも早かった。お屋形様の屋敷から戻った五日後には、さっそく、鞠子(丸子)の斎藤氏から茶の湯の指導を頼まれ、次には、お屋形の弟、中原摂津守に招待され、そして、今度は、お屋形様の叔父の小鹿逍遙入道(オジカショウヨウニュウドウ)に招待され、今、早雲は銭泡を連れて小鹿屋敷に向かっていた。
小鹿逍遙入道は今川家の長老だった。お屋形様の父親、範忠には四人の兄弟があり、長男の範豊は家督を継ぐ以前に亡くなり、範忠は次男だった。三男は範満、四男は範頼で、範忠も範満も、すでに亡くなっていた。四男の範頼が小鹿の地に来て小鹿姓を名乗り、今は隠居している逍遙入道だった。
早雲と銭泡は藁科(ワラシナ)川を渡り、しばらく行くと阿部川(安倍川)を渡った。当時は現代の様に、藁科川と阿部川は合流していない。阿部川は賤機山(シズハタヤマ)のすぐ西を流れ、いくつもの支流を生みながら駿河湾へと流れ込んでいた。また、浅間神社と駿府屋形の間を支流の北川が北西に向かって流れていた。その北川の側に建てられたのが北川殿の屋敷だった。
小鹿新五郎範満の屋敷は阿部川を渡り、さらに、阿部川の支流を渡って半里ばかり先の久能山の裾野の小高い丘の上に建っていた。屋敷は三間程の幅のある空濠と一丈余りの土塁に囲まれ、土塁の隅には見張り櫓(ヤグラ)が建っていた。
門番に用向きを告げると、御隠居様の屋敷は南側にあると言って案内してくれた。御隠居屋敷もやはり、濠と土塁に囲まれていたが、見張り櫓はなく門番もいなかった。門をくぐると右側に見事な庭園が見渡せ、離れの座敷が庭園の中に建てられてあった。見るからに風流を楽しんでいるようだった。
案内してくれた門番が帰ると、逍遙入道、自らが出て来て、早雲たちを屋敷の中に案内した。案内された十畳間は庭園に面し、山水四季が描かれた襖に囲まれていた。
早雲は目の前に座っている逍遙入道には前に会った事があった。応仁の乱が始まった頃、お屋形様と一緒に上京して来て、常にお屋形様の側にいたのが、当時、式部大輔(シキブノタイフ)と呼ばれていた逍遙入道だった。早雲がこの地に来て、しばらく、お屋形様の屋敷に世話になっていた時、式部大輔の顔が見えないのでおかしいと思っていたが、まさか、隠居していたとは驚きだった。
「お久し振りです。伊勢殿、そして、伏見屋殿」と入道は言って笑った。
「驚きましたよ。式部殿が隠居なさっておったとは‥‥‥どうして、また、隠居などを」
「早雲殿、これはまた、おかしな事を聞かれる。そなたの方こそ出家なさるとは、わしに取っては驚きじゃ。将軍様の側近くに勤めておりながら潔くやめてしまうとはのう。伏見屋殿もそうじゃ。あれだれの財産を持ちながら店をたたんで、さすらっておられる。お二人共、まだ、わしよりお若いというのに‥‥‥」
「成程、人の事をとやかく言えませんな」と早雲は笑った。
「もう、わしらの時代は終わったんじゃよ」と入道は言った。「早雲殿、わしは、そなたが駿河に来られたというのは噂を聞いて知っておった。わしは初め、幕府の命で、何かを探るために今川家に入り込んで来たのかと思った。頭を丸めて出家しているとはいえ、北川殿の実の兄上じゃ。その立場を利用して、何かをたくらんでいるのではないかと疑っておったんじゃ。しかし、そなたはしばらくして、お屋形様の屋敷から出て行かれた。それでも、わしはそなたの事を信じなかった‥‥‥そなたの噂は時々、聞いた。山西に小さな庵を構えて気楽にやっていると聞いた。一年経ち、二年経ち、ようやく、わしは考え違いをしていた事に気づいたんじゃ‥‥‥わしはそなたが羨ましいわ。まったく好き勝手に生きている。わしも隠居しているとはいえ、そなたのように好きに旅になど出られん。そなたと一度、話がしてみたかったんじゃ。もしかしたら、わしと同じ心境になって出家したのかもしれんと思ってな」
「逍遙殿、わたしが世を捨てたのは、武士の世界がつくづく嫌になったからです」と早雲は言った。
「さようか‥‥‥わしもそうじゃ」と入道は頷いた。
逍遙入道は、幼い頃より家督相続の争いに巻き込まれ、武士というものの非情さを身に染みて味わっていた。
逍遙入道の父親で、お屋形様の祖父に当たる範政は六十歳を過ぎて若い嫁を貰った。そして、生まれたのが千代秋丸と呼ばれた逍遙入道だった。範政は千代秋丸を可愛いがった。千代秋丸が七歳になった時、家督を継ぐはずだった範政の長男範豊が跡継ぎを作らずに亡くなってしまった。範政は幕府に千代秋丸の家督を願い出た。当時、次男の範忠は二十五歳、三男の範満は二十歳で、二人とも将軍の奉公衆として在京していた。
兄の突然の死を聞いた二人は慌てて駿河に帰ろうとしたが、国元からの連絡によると、駿府の屋形はすでに武装した兵に囲まれ、帰る事は難しいだろうとの事だった。まさか、父親が自分たちに対して、そんな事をするとは信じられなかったが、父親が千代秋丸に家督相続を願い出たと聞いて、信じざるを得なかった。
時の将軍義教は父親の願いを許さず、次男の範忠の家督を主張した。義教が千代秋丸の家督を許さなかったのは、ただ、千代秋丸が幼少だったからだけの理由ではなく、千代秋丸の母親が鎌倉の扇谷(オオギガヤツ)上杉氏定の娘だったからだった。その頃、義教は幕府の命に従わない鎌倉公方の持氏と対立していた。今川氏のいる駿河の国は幕府の支配の及ぶ最前線だった。駿河の国と北に接する甲斐の国(山梨県)と東に接する伊豆の国、相模の国は、鎌倉公方の支配下にあった。鎌倉公方と対立関係にあった幕府としては、最前線を守る今川氏が鎌倉方になる事を恐れていたのだった。今川家の家督相続は、今川家だけの問題ではなく、幕府を左右する程、重大な問題だった。
そんな中、範忠は自ら家督相続の資格を放棄して出家してしまった。範忠としては父親に反対してまで自分が家督を継ごうとは思わず、自分が身を引けば事がうまく行くだろうと考えたのだが、かえって、事は複雑になって行った。範忠が出家すると幕府内に力を持つ山名氏が千代秋丸を支持し、山名氏に対抗する細川氏が三男の範満を支持した。
今川家の家督争いは幕府内の勢力争いと変わり、京の都において、今にも戦が始まるかという雰囲気にまでなったが、家督が決定しない内に父親の範政が亡くなり、将軍義教が飽くまでも範忠を主張したので、ようやく、範忠が還俗して家督を継ぐ事に決定した。正式に家督を継いだ範忠は兵を引き連れて帰国し、千代秋丸を支持する国人たちを倒して駿府の屋形に入った。
千代秋丸は国人たちに守られながら駿府を後にした。すべて、千代秋丸の意志ではなかった。千代秋丸は幼い内に父親を亡くし、兄弟たちとも別れて暮らさなければならなかった。千代秋丸が母親と共に駿府に戻ったのは、それから三年後の事だった。駿府に戻って来てからも反範忠派の者たちに担ぎ上げられ、範忠に対抗した時期もあったが、範忠が亡くなり、義忠の代になってからは義忠をよく助け、三年前に二十五歳になった長男の新五郎に家督を譲ると、まだ四十六歳だというのに頭を丸め、さっさと隠居してしまった。自分の役目はすでに終わったとでも言うような、あっさりとした隠居の仕方だった。
俗世間と縁を切った逍遙、早雲、銭泡の三人の坊主頭は小春日和の日差しの中、和やかに話を交わしていた。
夕方になると、元、逍遙の家臣で、今は隠居しているという久保秋月斎、大内南風斎が訪ねて来て、五人で風流なお茶会が始まった。
春雨がここに来た時、珍しく、早雲庵には誰もいなかった。春雨は腹を減らして寒さに震え、日の暮れる頃、ようやく、ここにたどり着いた。一晩、泊めて貰おうと誰もいない庵の中で待っていたが、誰も帰って来なかった。疲れていた事もあって、春雨はいつの間にか囲炉裏の側で眠ってしまった。朝になって目が覚めると、勝手な事をして悪いとは思ったが、有り合わせの物で雑炊(ゾウスイ)を作った。ようやく雑炊ができ、食べようと思った時、誰かが庵に入って来た。
乞食坊主だった。この乞食がこの庵の主(アルジ)なのか、と春雨は疑った。
「すまんがのう。何かを食わせてくれんかのう。もう、三日も何も食っておらんのじゃ」と乞食は、今にも死にそうな声を出して言った。
春雨は、何と答えたらいいのか分からなかったが、主が帰って来たら謝ればいいと思い、その乞食と二人で雑炊を平らげた。
「どうも、御馳走様でした」と乞食坊主は春雨に両手を合わせた。
「やっと、生き返ったわね」と春雨は言った。
春雨は自分の事を言ったのだったが、乞食は勘違いして、お陰様で、と言って、また両手を合わせた。
「いいのよ‥‥‥ねえ、あんた、この辺の人」と春雨は乞食に聞いた。
「いえ、違います」と乞食は首を振った。
「ふうん。じゃあ、どこの人」
「どこといって別に決まってはおらんが、昔は京の都にいた事もあるのう」
「へえ、あんた、京の人なの」
「はい。戦が始まる前の事ですわ」
「ほんと、実はあたしも京から来たのよ」
「ほう、そうですか」
二人がありし日の都の話をしていると、また、誰かが訪ねて来た。
「和尚さん、おるかね」と外で呼んでいた。
春雨が出て行くと、漁師が魚をぶら下げて立っていた。春雨を見て不思議そうな顔をしていた漁師は持って来た魚を見せると、「和尚さんは留守かい。まあ、これを食ってくれや」と春雨に魚を渡した。
帰ろうとする漁師に春雨は声を掛けた。
「ねえ、ちょっと。あたしも和尚さんを待ってるんだけど、いつ帰って来るのか知らない」
「さあ、分からんのう。旅に出たとすれば、しばらくは帰って来んじゃろうのう。昨日は、いたんじゃから、当分、戻っては来んじゃろう。駿府のお屋形様の所に行ったのなら、その内、帰って来るじゃろう。絵画きさんもおらんのかい」
「ええ、誰もいないわ」
「そうか、誰もいないとは珍しいのう。必ず、誰かがおるんじゃがの」
「ここに住んでるのは和尚さんだけじゃなかったの」
「いや、色んなお人が出入りしておるのう。和尚さんがいなくても誰かがおるんじゃが‥‥‥まあ、しばらく待っていれば、誰かが戻って来るじゃろう」
そう言うと、漁師は帰って行った。
春雨は漁師の言った事を考えながら、魚をぶら下げて庵の中に戻った。
「御馳走様でした」と乞食坊主は帰ろうとした。
「ねえ、あんた、どこ、行くの」と春雨は聞いた。
「別に当てはございません」
「じゃあ、もう少しいてよ」
「しかし、人様のうちに長居するわけにも‥‥‥」
「いいのよ。ここはあたしのうちじゃないのよ」
「はあ?」と乞食坊主は怪訝な顔をした。
「あたしもあんたと同じで、おなかを減らして、昨夜、ここに来たの。そしたら誰もいなくて、悪いとは思ったんだけど勝手に上がり込んで、勝手に雑炊を作ってたのよ。食べようとした時に、あんたが来たっていうわけ。だから、あんたもここの主人に無断で、ご飯を頂いたっていう事になるのよ」
「何と、わしは知らずに人様の物を無断で食べたと言うのか」
「そういう事ね」
「何とした事じゃ」
「だから、あんたもここの主が戻って来るまで、ここにいて、あたしと一緒に謝ってよ」
「‥‥‥仕方ないのう」
昼過ぎになって、主の早雲が戻って来た。
春雨は乞食坊主と二人で庵の中の掃除をしていた。早雲は勝手に上がり込んでいる二人を見ても何も言わなかったが、綺麗に片付けてある庵の中を見回して、二人にお礼を言い、土産じゃ、と言って二人の前に御馳走を並べた。
春雨が、勝手に上がり込んで、飯まで食べた事を謝ろうとしたら、絵画きと呼ばれている坊さんと浪人者が帰って来て、また、土産だ、と言って御馳走を並べた。早雲たちが話を始めてしまい、春雨は言い出すきっかけを失ってしまった。ようやく、話が一段落すると浪人者が言った。
「早雲殿、ところで、その別嬪(ベッピン)さんはどなたです」
「いや、わしは知らん。おぬしらの知り合いじゃろ」
「いや、わしらは知らん。てっきり、早雲殿の知り合いじゃと思っておったわ」と絵画きは言った。
「あの、申し訳ありません」と春雨は謝った。事の次第を皆に話したが、誰一人として文句も言わず、まあいい、これだけの御馳走があるんじゃ。みんなで食べようと、その話は打ち切りとなった。
早雲は昨日、駿府に出掛けていた。駿府のお屋形様が凱旋(ガイセン)して来たので、そのお祝いに出掛けたのだった。
絵画きの富嶽と多米権兵衛は留守番していたが、小河の長谷川次郎左衛門尉から、今晩、お茶会をやるから来ないかと誘いが来て、次郎左衛門尉の屋敷まで出掛けていた。
お茶会といっても、現代のお茶会とは違って『闘茶(トウチャ)』と呼ばれる、何種類かのお茶を飲み分ける遊びだった。ただ、お茶を飲み分けるだけではなく、お互いに景品を持ち合い、勝った者は景品が貰えるという勝負事だった。そして、そのお茶会の後には、必ず、宴会が付き物で、夜が更けるまで飲んで騒いだ。庶民たちの娯楽として、当時、闘茶は下々の者の間にまで流行っていた。
富嶽と多米の二人には勿論、景品として持って行く物はなかった。しかし、その点は次郎左衛門尉がいつもうまくやってくれた。ちゃんと二人の景品まで用意した上で招待しているのだった。その景品というのも並大低の物ではなかった。高価な品々がずらりと並び、それらの品々を平然とやり取りしていた。もっとも、二人の目当てはそんな高級品ではない。お茶会の後の豪華な宴会が目当てだった。次郎左衛門尉は早雲を招待しに来たのだったが、留守なら仕方がない、お二人だけでもどうぞ、と言うので、喜び勇んで出掛けて行ったのだった。
春雨と乞食坊主の銭泡は、その日から早雲庵に居着いてしまっていた。
春雨は京の四条河原で踊っていた曲舞女(クセマイオンナ)だった。あの頃は春雨も若く、京で一、二を争う程の踊り子だった。在京している武士たちの屋敷に招待されて舞った事も何度もあった。お公家さんの屋敷にも出入りした。誰からもちやほやされて毎日が華やいでいた。
しかし、京の都で戦が始まった。突然の事にとても信じられなかった。どうせ、すぐに終わるだろうと楽観していたが、戦は終わるどころか、益々、大きくなって行き、建ち並ぶ屋敷や寺社は次々に燃えて消えた。春雨の一座も、とうとう京を離れなければならなくなった。
春雨は一座と共にあちこち流れ歩いた。京での華やかな生活が、まるで嘘のような悲惨な旅だった。旅をして回るのは子供の頃から慣れてはいても、一度、覚えてしまった贅沢な暮らしを忘れる事はできなかった。戦はいつまで経っても終わらなかった。そして、いつしか京を出てから七年の歳月が経ち、春雨も年を取って行った。
一座には若い娘も入り、春雨の存在は徐々に影が薄くなって行った。いくら踊りがうまくても若さには勝てなかった。一座と共に駿河の府中まで来て、春雨は舞台に出してもらえず、座頭(ザガシラ)と喧嘩して悪態を付き、飛び出してしまった。飛び出してから後悔しても遅かった。今更、戻るわけにも行かず、かといって、踊りしか知らない春雨には生きる術が分からなかった。
一座は駿河の公演が終わったら京に戻るはずだった。春雨も早く京に帰りたかった。しかし、一座から飛び出した今となっては京に帰ってもしょうがなかった。この年では、どこの一座でも使っては貰えない。笛や鼓でもできれば使ってはくれるが、春雨にはできなかった。若い頃、踊りは若いうちだけだから笛や鼓(ツヅミ)を習っておいた方がいいよ、とよく言われたが、春雨はそんな先の事なんか考えもしなかった。自分の踊りに自信を持っていたし、若い者には負けないと思っていた。今でもそう思っているが、舞台に上がれなければ、どうしようもなかった。
確かに、客たちは若い娘たちの方を喜んだ。客たちに見る目がないんだ、と思っても、客商売の舞台では、客を呼べなければ話にならなかった。一座から捨てられた春雨は、これから、どうしようか、と空きっ腹を抱えて、海を見ながら考えていた。どう考えてみても春雨には踊りしかなかった。結局、謝って、一座に戻ろうと京に向かう一座を追った。そして、一山越えた所で日が暮れかかり、小高い丘の上に建つ早雲庵にたどり着いたのだった。今更、座頭に謝って一座に戻るのもしゃくだった春雨は、何となく居心地のいい早雲庵の住人となってしまった。
一方、乞食坊主の方は早雲庵の建つ丘のすぐ下で寝ていた。朝になって、食べ物の匂いで目が覚め、匂いに誘われるままに早雲庵にやって来たのだった。
頭を丸め、ぼろぼろになった墨染めの衣を着てはいるが、早雲や富嶽と同じように偽坊主だった。この偽坊主も居心地のいい早雲庵が気に入ったとみえて、出て行こうとはしなかった。不思議な事だったが、この乞食坊主は以前、京において早雲と面識があった。しかし、お互いに気づかず、十日程経った後に、お互いに話の内容から、相手が誰なのか分かったのだった。当時、早雲の方は足利義視(ヨシミ)の申次衆(モウシツギシュウ)の武士、乞食坊主の方は『伏見屋』という幕府に出入りしていた羽振りのいい商人だった。
お互いに、変わり果てた相手の姿が信じられなかった。
伏見屋は戦のお陰で、商売の方はうまく行ったが家族を失ってしまった。伏見屋が取り引きに出掛けている留守、屋敷が西軍の足軽に襲われた。伏見屋としても、浪人たちを雇い、厳重に守りを固めていたが足軽の数が多すぎた。東軍との取り引きがうまく行き、喜んで帰って来ると屋敷はすでに燃え落ちていた。
伏見屋は愕然(ガクゼン)となった。そして、その後に取った行動が、今の乞食坊主となる原因だった。伏見屋は家族たちの心配をするよりも隠しておいた財産の心配をした。慌てて、焼け落ちた屋敷内に飛び込むと財産が無事かどうか確かめた。幸いにも隠しておいた財産は無事だった。伏見屋は胸を撫で下ろした。そして、家族の事を思った。家族の者は皆、無残な姿で殺されていた。
伏見屋は家族を失って、初めて、自分は今まで何をして来たのだろうと考えた。
家族のために働いて来たのではなかったのか。
それが、いつの間にか、家族の事は忘れ、銭を儲ける事に取り付かれていた。財産は残ったが、家族がいないのでは意味がなかった。
伏見屋は財産をすべて持って、南都、奈良に向かった。奈良には、茶の湯の師匠、村田珠光(ジュコウ)がいた。伏見屋は珠光の家に世話になりながら、毎日、豪遊して暮らした。珠光のために、珠光が理想とする茶室を作ったり、名物と呼ばれる茶道具を集めたり、銭に糸目を付けずに遊び暮らした。また、珠光の回りには遊び上手が揃っていた。毎日、退屈する事もなく楽しく過ごした。これ以上の贅沢はないと言われる程の贅沢を味わった。そして、財産を使い果すと伏見屋は頭を丸め、銭が泡と消えたので、自ら銭泡(ゼンポウ)と名乗り、墨染め衣を身にまとって奈良から姿を消した。
贅沢の限りを付くし、無一文となったが、伏見屋には後悔はなかった。返って気持ちがよかった。それからの伏見屋は銭を稼ぐ事は一切しなかった。珠光の弟子だという事も口に出さなかった。村田珠光は将軍の茶の湯の師匠だった。その事を口に出せば、大名なら放っては置かなかっただろう。珠光の始めた『佗び茶』は、すでに噂にはなっていたが、それを実際に知っている者は京や奈良の一部の人たちだけだった。地方の大名たちは、その『佗び茶』を知っていると言えば飛び付いて来るだろう。しかし、銭泡となった伏見屋は、お茶の事など一言も喋らず、腹を空かしていても乞食坊主のままでいた。
早雲は伏見屋の話を聞いていた。
「珠光殿も喜んでいた事でしょう」と早雲は聞いた。
早雲は珠光のお茶会に義視と一緒に参加した事があったので、珠光の事は知っていた。
「はい。あの時は実に楽しかった。決して、今が楽しくないと言うわけではないがの。あの時、最高の贅沢を経験したお陰で、返って、今の無一文の生活も楽しく思えるのかもしれんのう」
「もう、商売はなさらないのですか」
「銭はもう必要ないんじゃ。銭が無くても、月があり、山があり、海がある。そして、季節毎に様々に変わる自然を眺めておれば飽きる事はない。腹を空かしておっても何とかなる。死ぬ時が来たら逆らわずに死ぬだけじゃ」
「銭泡殿、ここには好きなだけいて下さい。結構、ここも楽しい所ですよ。わしも、この地に落ち着くつもりはなかったんじゃが、居心地がいいのか、もう、この地に来て、二年半にもなるわ」
「ええ、いい人ばかりですな。そなたの人徳で、いい人ばかりが集まって来るんじゃろうのう」
「人徳なんて、そんなもんじゃないですよ。ただ、気ままに、やりたい事をやっておるだけです」
「お言葉に甘えて、春になるまでお世話になる事にします」
「どうぞ、好きなだけいて下さい」
銭泡と春雨の二人は、そのまま、早雲庵に居続けた。
銭泡の方は問題ないが、春雨の方は問題だった。春雨は別に気にしていなかったが、今まで、女っ気のなかった早雲庵に女が加わるのは回りの方で気にし出した。
年は少し取ってはいても春雨は、誰が見てもいい女だった。そんな女が同じ屋根の下で暮らすとなると、まず、多米が意識し出した。
富嶽がたまりかねて、春雨のための離れを作ろうと言い出した。早雲も最近のみんなの様子が変な事に気づいて同意し、早雲庵の南東に、小さな小屋、春雨庵が建てられた。
春雨は大した女だった。男をあしらう事には慣れていた。多米が言い寄ろうが、村の男たちが変な目付きをしようが一向に気にしなかった。毎日、みんなの食事の面倒を見、早雲庵に訪ねて来る者たちの世話を焼いていた。
春雨は訪ねて来る者たちに、勝手に、早雲和尚の弟子だと名乗っていた。しばらくすると、早雲ではなく春雨に会いに来る者も現れ、早雲庵はいつも賑やかだった。
そして、文明六年の年は暮れ、年は改まって文明七年となった。
2
海のように広い霞ケ浦を挟んで、鹿島神宮と香取神宮が向かい合って建っている。鹿島神宮も香取神宮も、新年を祝う着飾った参拝客で溢れていた。
早雲の弟子、才雲(サイウン)と孫雲(ソンウン)の二人は常陸の国(茨城県北東部)鹿島で新年を迎えていた。
二人は去年の春、早雲の供をして鹿島神宮にやって来て、そのまま、この地に置いて行かれたのだった。
鹿島神宮は対岸にある香取神宮と共に武神を祀り、武術が盛んだった。早雲は駿河のお屋形、今川治部大輔義忠の武運を祈るために、この地にやって来た。早雲がこの地に来たのは二度目だった。前に来たのは駿河に向かう前だった。その時は、ただ参拝しただけだったが、今回は二人の弟子が、せっかく、ここまで来たのだから、どうしても武術修行を見たいと言うので、鹿島の森の奥にある武術道場に行ってみた。飯道山のように山の上ではなかったが、道場の雰囲気は似ていた。修行に励んでいるのは神宮寺の山伏、この辺りの郷士、そして、神宮の神官たちだった。剣術、槍術、棒術、薙刀術に分かれて稽古に励んでいた。
三人が木陰から稽古を眺めていると、棒を持った山伏が近づいて来て睨み、「何か用か」と言って来た。
「有名な鹿島の太刀というものを、この目で見たくなったのでな、少し見せてもらっておる」と早雲は答えた。
「ほう、御坊殿は見ただけで武術というものが分かるとは、なかなかの腕と見えるのう」と山伏は喧嘩を売るような態度だった。
「いや、わしには武術の事など分からんが、ただ、国への土産話にと思って覗いて見ただけじゃ。修行の邪魔になると言うのなら、すまなかった。この大勢の人たちの修行振りを見ただけで、いい土産話ができた。失礼致しました」
早雲は二人を促して、その場から去ろうとした。
「待て、ただ稽古を見ただけではつまらんじゃろ。どうじゃ、実際に鹿島の太刀を見てみる気はないか」
「いえ、結構でございます」と早雲は頭を下げた。
その時、武士が近づいて来て、山伏に声を掛けた。
「こいつらが覗き見をしていたんじゃ。どうせ、香取の回し者じゃろう」と山伏は武士に言った。
「そうか」と武士は早雲たちを見てから、「おぬしは稽古に戻ってくれ。わしが話を付ける」と言った。
山伏は去って行った。残った武士は、「どうも、失礼いたした」と早雲たちに謝った。
「御坊殿はどちらから参ったのですかな」
「駿河です」と早雲は答えた。
「ほう、駿河から、はるばると‥‥‥わざわざ遠くから来てくれたのに、嫌な思いをさせてしまいました。お詫びと言っては何ですが、お茶でも飲んで行って下さい」
早雲たちは武士に案内されて、道場のはずれに建つ小屋に案内された。
その小屋の中では、師範たちが休んでいた。
早雲たちを連れて来た武士の名は塚原土佐守(トサノカミ)といい、この道場内でも、かなり偉い男のようだった。早雲は土佐守とお茶を飲みながら、半時程、世間話をした。
早雲も土佐守も四十歳半ばの同じ位の年頃だった。土佐守の話によると、戦の始まる前、彼は京の都に行った事があり、その行き帰りに駿河の今川氏のお屋形に寄り、大層な御馳走で持て成されたと言う。
もう十年以上も前の事だが、神道流(シントウリュウ)を開いた飯篠長威斎(イイザサチョウイサイ)と数人の弟子たちが京に向かい、将軍義政の御前で武術を披露し、長威斎はそのまま将軍の武術師範として、しばらくの間、京に留まった。その一行の中に土佐守もいた。京に滞在中に長威斎の弟子たちは各地の武将の武術師範となって散って行ったが、土佐守は長威斎のもとを離れず、一年近く、京に滞在して後、長威斎と共に香取に帰って来た。香取に戻ると長威斎は隠居してしまい、土佐守は鹿島に帰って修行者たちの指導に当たり、今に至っていた。
鹿島では鹿島神道流、香取では香取神道流というが、当時、この二つの武術は同じものだった。鹿島神宮にも、香取神宮にも、古くから伝わる武術があり、それらを一つにまとめて『天真正伝(テンシンショウデン)神道流』としたのが飯篠長威斎だった。長威斎は幼い頃より香取の武術を身に付け、さらに、鹿島の武術を吉川呼常より習った。そして、呼常の娘を嫁に貰い、長男の修理亮(シュリノスケ)を香取の地に置き、次男の山城守(ヤマシロノカミ)を鹿島の地に置いて、武術の指導に当たらせていた。塚原土佐守は山城守のもとで武術師範をしていた。
土佐守が長威斎と共に京に来た時、早雲も京にいたが、まだ、足利義視の申次衆になっていなかったので、長威斎一行の噂は耳にしても実際に見る事はできなかった。
早雲がそろそろ帰ろうとした時、思わぬ男と再会した。その男は木剣を引っ提げて、小屋の中に入って来ると、「暑いのう」と言って、浴びるように水を飲んだ。
その水の飲み方に見覚えがあった。見覚えがあったが、すぐには思い出せなかった。しかし、その男が、大原殿と呼ばれた時、早雲は思い出した。
「大原殿」と早雲は笑いながら、その男に声を掛けた
呼ばれた男はキョトンとして、早雲を見たが誰だか分からないようだった。
「久し振りじゃのう。わしじゃ、伊勢新九郎じゃ」
「伊勢新九郎‥‥‥おお、おぬしか。懐かしいのう。しかし、一体、どうしたんじゃ、その格好は」
「おぬしこそ、何でまた、こんな所におるんじゃ」
二人は二十年程前、飯道山で共に修行した仲だった。丁度、風眼坊たち四天王が活躍していた頃だった。当時、新九郎は京の伊勢家に居候していたが、久し振りに訪ねて来た風眼坊と会い、そのまま、飯道山まで行ったのだった。故郷を出る時、新九郎と風眼坊の武術の腕は互角だった。しかし、三年間、会わないうちに風眼坊は見る見る腕を上げ、新九郎には、とても太刀打ちできなかった。元来、負けず嫌いな新九郎は風眼坊に負けるものかと修行を積むために飯道山にやって来た。
一方、大原源五郎は甲賀の郷士の伜で、四天王のお陰で、武術が盛んになり始めていた飯道山に登って来ていた。
二人は一年間、同じ釜の飯を食べながら、飯道山での厳しい修行に耐えて来た仲だった。
早雲は源五郎に歓迎され、彼の屋敷に招待された。彼は今、近江守と名乗り、この辺りの支配者、鹿島氏の家臣となっていた。
源五郎は飯道山を下りてから諸国に修行の旅に出た。この鹿島の地に来た時、塚原土佐守と試合をして見事に負け、長威斎の弟子となった。そして、この地で嫁を貰い、今では三人の子供もあり、大きな屋敷に多くの家来たちに囲まれて暮らしていた。
早雲はのんびりと十日間も大原の屋敷に世話になり、弟子の二人を大原のもとに預けて、駿河に戻って来た。弟子の二人は武術を身に付けたいと言うし、大原は二人位、居候が増えても変わらんから置いて行け、わしが武術をたたき込んでやると言うので、早雲は二人をこき使ってくれと置いて来た。
才雲と孫雲の二人は毎日、朝早くから雑用などをして働き、昼過ぎから屋敷内の道場で、近江守の弟子という岩田勘兵衛から剣術を習った。二人とも武術を習うのは初めてで、まったくの素人だったが真面目に稽古に励んでいるお陰で腕を上げて行った。
鹿島に来て半年が経ち、二人の腕は近江守の目に止まる程となり、今度は塚原土佐守の道場に通う事となった。
ここ鹿島では飯道山のやり方とは違い、武術を習いたい者は、まず、師範のもとで修行を積み、何年かの修行に耐え、腕を上げた者だけが鹿島神宮の道場で修行ができるというやり方だった。したがって、武術道場はあちこちにあり、武士だけでなく百姓や漁師たち、あらゆる身分の者たちが稽古に励んでいた。それらの道場にも階級があり、腕を上げる毎に上級の道場に移り、そこでまた、修行を積み、最後には鹿島神宮の道場で修行を積んだ。鹿島神宮の道場で修行を積めば、師範として道場を開く事ができるが、幼い頃より修行を積んで来た者でも神宮の道場に入るのは難しい事だった。
年末年始と才雲と孫雲は大原の屋敷で忙しく働き、武家の正月というものを初めて経験していた。
3
雪が降っていた。
春雨は早雲庵の離れ、春雨庵で、ぼんやりと落ちて来る雪を眺めていた。
どうして、あたしはこんな所にいるんだろう、と考えていた。
確かに、ここにいれば毎日が楽しかった。毎日、色々な人が訪ねて来て、色々な話をしてくれた。ここに来て、初めて、世の中には色々な人がいるんだな、と思った。
春雨は今まで、自分の舞台を見に来てくれる色々な人たちを舞台の上から見て来た。でも、それは、ただ、漠然と見ていたに過ぎなかった。今まで、自分の踊りをみんなが同じように見ているものと思っていた。しかし、人は一人一人、みんな違っていた。たとえ、同じ物を見ても考える事は一人一人が違っていた。そんな事は当たり前の事だが、春雨は気づかなかった。
春雨は自分の踊りに自信を持っていた。その踊りが田舎の連中に分からないのは、見る目のない客の方が悪いのだと思っていた。ここに来て、色々な人たちと話をしてみて、春雨は自分の考えが間違っていたのかもしれないと思うようになっていた。世の中には色々な人間がいる。しかし、その様々な人間が共通に美しいと感じる物があるに違いないと思った。例えば、道端に咲く可憐な花とか、例えば、西の空を真っ赤に染める夕焼けとか、例えば、朝日に輝く富士の山とか、どんなにひねくれている者でも美しいと感じる物があるに違いないと思った。
今までの自分の踊りには、どこか、押し付けがましいところがあったように思えて来た。京の都で、あれだけ評判になった踊りを見せてやる。さあ、よく見るがいい、と言うような押し付けがましいところがなかったとは言えなかった。道端に咲く花にしろ、夕焼けにしろ、富士山にしろ、そんな押し付けがましいところは少しもなかった。
春雨は舞台から離れてみて、初めて、踊りというものの難しさ、深さを知ったような気がした。しかし、今となっては、もう、踊りの事はどうでもよかった。それよりも、踊りを捨ててしまって、これから先、どうやって生きて行けばいいのだろう。
毎日、楽しく過ごしていても、これから、どうしたらいいんだろう、と考えない日はなかった。
銭泡法師のように、今まで好き勝手に生きて来た人なら、将来の事など考えずに、ここで、毎日、楽しく暮らしていればいいだろうが、春雨にはそんな暮らしはできなかった。すでに二十七歳になってしまったとはいえ、人並みな暮らしがしたかった。人並みに夫を持って、子供を産み、家族のために生きたかった。
今までに、そんな男がいなかったわけじゃない。ただ、運がなかっただけだった。若い頃には、命懸けで男に惚れた事もあった。踊りを捨ててまでも、その男と一緒に暮らしたかった。しかし、それは実現しなかった。子供を孕(ハラ)んだ事もあった。しかし、流産してしまった。
春雨がここに落ち着いたのは、はっきり言って早雲に惚れたからだった。一目会った時から、春雨は早雲という男に惹かれた。そして、一緒に暮らしているうちに、益々、惹かれて行った。春雨の気持ちも知らず、当の早雲は春雨にはまったく興味が無さそうだった。
春雨は自分という女に自信を持っていた。男なら誰でも自分の魅力に参ると思っていた。たとえ、僧侶であろうと男に違いなかった。現に富嶽にしろ、銭泡にしろ、隠れては春雨に言い寄って来ていた。早雲もいつか言い寄って来るに違いないと思って待っているのだが、早雲は言い寄っては来なかった。春雨を女と見ていなかった。男女の差別なく皆と同じように春雨にも接していた。そんな目に会うのは初めてだった。腹も立ち、しゃくに思うが、春雨の心は益々、早雲に惹かれて行き、ここから出て行く事は不可能になっていた。
「どうしたんだろ」と春雨は呟いた。「どうして坊主なんかに惚れたんだろ。まあ、いいか。納得するまで、ここにいて、飽きたらどこかに行こう。銭泡さんじゃないけど、世の中、何とかなるもんだわ」
「何が何とかなるんじゃ」と早雲の声がした。
振り返ると、土間に早雲が立っていた。
「しんみりとしていて、そなたらしくないのう」と早雲は笑った。
「あっ、お帰りなさい。やっと帰って来たんですね」春雨は嬉しそうに早雲を迎えた。「早雲様がなかなか帰って来ないので、あたし、淋しかったんですよう」
「何を言うか」
「だって、みんな、どこかに行っちゃうんだもの」
「みんな、どこかに行ったって」
「ええ。権兵衛さんは一昨日から、いなくなっちゃったし、絵画きさんは今朝早く、雪が降ってるのに、どこかに出掛けちゃうし」
「ほう、権兵衛は出て行ったか」
「ええ、あたしに一言も言わずに消えちゃったわ」
「それは、そなたがいじめるから逃げて行ったんじゃろ」
「あたしがいじめるなんて、権兵衛さんがしつこくするからですよ」
「それは、そなたのような女子(オナゴ)と一緒に暮らしておったら、男なら誰でも、ちょっかい出したくなるさ」
「早雲様も?」と春雨は聞いてみた。
「ああ、当然じゃ」と早雲は頷いた。
「ほんと?」
「ほんとじゃとも。ただのう、わしが先頭になって、そなたを追いかけ回しておったら、示しがつかんじゃろうが」
「うまい事、言っちゃって、早雲様の言う事は本当なんだか、冗談なんだか分かりゃしない。あたし、本気にしちゃうから」
「わしは嘘は言わんよ」と早雲は笑った。
「じゃあ、今度、夜這いに来てよ。あたし、待ってるから」
「おう。その内な」
「まったく‥‥‥いい加減な事ばっかり」春雨は膨れた顔をして早雲を睨んだ。
「そなたは、いい女子じゃのう」と早雲はまた、笑った。
「早雲様、絵画きさんは雪の降る中、朝早くから、どこに行ったんですか」
「ああ、富嶽か。また、富士山を描きに行ったんじゃろ」
「何も雪の降る中、行かなくても富士山は消えやしないのに」
「富士山はいつでもあるんじゃが、雪の方は、いつでもあるっていうもんじゃないからのう。この辺りはあまり雪は多くないんじゃ。雪景色を描くには雪が降ってる時に行かないと描けないんじゃろう」
「へえ、絵を描くのも大変なんですね」
「らしいのう。しかし、奴の絵はここに来て見る見る上達して来ておる」
「そうなんですか」
「今川のお屋形様が、いい絵を随分と集めておってのう。時折、見せてもらっておるんじゃ。奴が絵を見る時の目は真剣そのものじゃ。一つの絵を飽きもせずに一日中眺めておる事もあったわ」
「絵を一日中‥‥‥」
「そうじゃ。富嶽も昔は武士じゃった。京で戦が始まった時は、奴も武士として戦に出たらしい。何があったのか詳しくは知らんが、武士をやめて絵を描き始めた。特に、誰かに習ったというわけでもない。わしはたまたま富士山の裾野で富嶽と出会ってのう。意気投合して、ここに連れて来たんじゃ。ここに来てからも、ここにいる時よりも旅に出ておる方が多いと言えるのう。わしも、よく旅に出る方じゃから行き違いになる事も多くてのう。まあ、年末年始位じゃろうのう、みんながここに集まるのは」
「それじゃあ、絵画きさんはしばらくは帰って来ないのですか」
「ああ、一度、出掛けたら、まあ、一月は戻って来んじゃろう」
「そうなんですか‥‥‥早雲様はまだ旅には出ないんでしょう」
「まあ、今のところはの」
「権兵衛さんは、どこに行ったのです」
「さあな。そなたに振られて、やけになって戦にでも行ったんじゃないのか」
「そんな‥‥‥」
「また、そのうち戻って来るさ。もし、戻って来なければ、それでもいいがのう。いつまでも、こんな所でゴロゴロしていてもしょうがないからのう」
「あたしがここに来たから、みんな、ばらばらになっちゃったのかしら」
「そんな事はない。そなたのせいで、みんな色気立って来た事は確かじゃが、ここに来る連中たちは皆、ただ、ここに遊びに来ておるだけじゃ。ちょっと、のんびりしたくなると、ここにやって来る。しかし、ここに長居する事はない。しばらく、ここにおれば分かる事じゃが、色々な連中がここに来て、勝手に寝泊りして行く。旅から帰って来て、知らない人間がいなかった試しはない。いつも、見た事もない奴が我家のごとくに住んでおる‥‥‥それでいいんじゃよ。この早雲庵は誰の物でもないんじゃ」
「そうなんですか。それで、この前、あたしと銭泡さんが勝手に上がり込んでいても、変だとは思わなかったんですね」
「ああ、そういう事じゃ。だから、そなたも遠慮する事はない。行く所がなければ、ずっとここにいても構わん。かえって、いてくれた方がいいかもしれん。留守の間に、どんな奴が訪ねて来たか聞けるからのう。ただ、時折、物騒な奴らもここに来るからのう。そなたの身が心配じゃが‥‥‥」
「あたしの事なら大丈夫です。一座にいた頃から危険な目には慣れてますから。自分の身を守る術(スベ)は心得ています」
「そうか、それなら心配ないのう。まあ、しばらくはここにいて、これからの事を考えればいい」
早雲はそう言うと立ち上がった。出て行こうとしたが、急に振り返ると、「おう、忘れておったわい」と言った。「銭泡殿がお茶を点てると言うんで、そなたを呼びに来たんじゃったわ」
「お茶?」
「ああ、駿府のお屋形様から銘茶を貰って来てのう。そいつの味見じゃ」
「銭泡さんがお茶を点てるんですか」と春雨は不思議そうに聞いた。
「今は、あんな乞食のような格好をしておるが、数年前までは、幕府に出入りしていた商人じゃ。大きな屋敷や蔵をいくつもを持っておってのう、贅沢な暮らし振りじゃったわ」
「へえ、あの銭泡さんが‥‥‥とても、信じられない」
「茶の湯の腕も一流じゃ」
早雲は春雨を連れて、春雨の離れから出た。
「こいつは積もりそうじゃのう」と早雲は早雲庵の屋根の上を眺めた。
「そうですねえ」と春雨は空を見上げた。
「静かな正月じゃのう」
「そうですねえ」
二人は並んで早雲庵に入って行った。
それから四日後の事だった。春雨の身に思わぬ事が起こった。
早雲庵の者たちは誰もが一度、春雨の舞いを見たいと思っていた。そこで、小河の長谷川次郎左衛門尉の屋敷で、春雨の舞いを見るという事が、春雨には内緒で決まっていた。勿論、踊りには唄が付き物だった。長谷川屋敷では一流の囃し方を集め、春雨のための衣装も舞台もすべて用意した。
春雨に取っては夢のような事だった。もう、踊りの事は諦めていた。二度と舞台に立つ事はないと思っていた。
春雨は蝶の様に舞台狭しと舞った。そして、その舞いは喝采(カッサイ)で迎えられた。信じられない事だった。自分の舞いを認めてくれる人たちがいる事を春雨は改めて知った。そして、その後、春雨は駿府のお屋形様の前でも舞った。お屋形様を初め、奥方様や女房たちも皆、春雨の舞いに喝采を贈った。たった二度だけの喝采だったが春雨は嬉しかった。自分を認めてくれる人たちがいる事を知って嬉しかった。
4
早雲は銭泡を連れて小坂の山を越えていた。
山を下りた所に、お屋形様の弟、中原摂津守(セッツノカミ)の屋敷があった。その屋敷には三日前に来ていた。今日、向かっている所はもう少し先だった。
新年の挨拶に、お屋形様のもとに行った時、お屋形様は銭泡が京の伏見屋だと見抜いてしまった。もっとも、早雲が銭泡と会った時とは違い、ぼろを纏ってはいなかったし、頭は剃っていても小綺麗ななりをしていた。
お屋形の義忠は京に行った時、戦の最中だったにしろ、京の文化を取り入れる事に熱心だった。当時はまだ、村田珠光(ジュコウ)も将軍の側にいて武将たちに茶の湯の指導をしていた。義忠も勿論、珠光から茶の湯を習った。当時、義視の側近にいた早雲も義忠と茶の湯を共にした事があった。また、義忠は伏見屋たち町人の茶の湯の会にも顔を出していた。特に、伏見屋は珠光の直々の弟子だと聞いて、よく出入りしては目利き(鑑定)の事などを尋ねていたらしかった。
義忠は駿河に帰って来ても、自分なりに茶の湯の研究は続けていた。続けてはいたが、分からない事も色々とあった。しかし、分からない事があっても教えてくれる者がいなかった。戦が終わって京に行ったら、珠光の弟子を何としてでも、この駿河に連れて来ようと思っていた。そんな時、突然、伏見屋がこの駿河にやって来た。願ってもない事だった。義忠は銭泡を質問責めにして、自分の所持している唐物(カラモノ)や茶道具を銭泡に見せて鑑定してもらい、さっそく、お茶会を開いた。ほんの挨拶に来ただけだった早雲と銭泡は、お屋形から帰してもらえず、六日間も駿府に滞在する羽目となってしまった。
お屋形様も銭泡に付きっきりで茶の湯を習いたかったが、武将たちが次ぎ次ぎに新年の挨拶をしに来るので、そうもいかなかった。暗くなってからでないと自分の時間が持てなかった。
早雲と銭泡は、お屋形様が挨拶に出ている昼間、何をしていたかというと、正月早々から、埃にまみれて蔵の中に入り、今川家代々の蒐集品(シュウシュウヒン)の整理をしていた。埃まみれにはなったが、これがまた、結構、楽しいものだった。
蔵の中からは色々な物が出て来た。今川氏が駿河に本拠地を移して、すでに百年が経ち、蔵の中には今川家代々の歴史が詰まっていた。特に、四十年程前、義忠の祖父、範政が将軍義教を迎えた時、接待に用いた数々の品物が、そっくり出て来た時は驚きだった。四十年前の物とはいえ、それらはすべて、四十年経った今でも一流の物ばかりが揃っていた。
銭泡は六日間で蔵から出て来た蒐集品のすべてを鑑定し、夜になると、お屋形様に茶の湯の指導をした。銭泡と一緒にいた早雲も自然と茶の湯を身に付けて行った。今まで、お茶会には出た事あっても、本気で茶の湯を学ぶ気などなかった早雲も、六日間、銭泡と共にいた事で、改めて、茶の湯の深さというものを知って行った。
銭泡がお屋形様に茶の湯を指導したという事は瞬く間に噂となり、今川家の家臣たちの耳に入って行った。丁度、正月だった事もあって、各地から家臣たちが新年の挨拶に来ていたため、噂が広まるのも早かった。お屋形様の屋敷から戻った五日後には、さっそく、鞠子(丸子)の斎藤氏から茶の湯の指導を頼まれ、次には、お屋形の弟、中原摂津守に招待され、そして、今度は、お屋形様の叔父の小鹿逍遙入道(オジカショウヨウニュウドウ)に招待され、今、早雲は銭泡を連れて小鹿屋敷に向かっていた。
小鹿逍遙入道は今川家の長老だった。お屋形様の父親、範忠には四人の兄弟があり、長男の範豊は家督を継ぐ以前に亡くなり、範忠は次男だった。三男は範満、四男は範頼で、範忠も範満も、すでに亡くなっていた。四男の範頼が小鹿の地に来て小鹿姓を名乗り、今は隠居している逍遙入道だった。
早雲と銭泡は藁科(ワラシナ)川を渡り、しばらく行くと阿部川(安倍川)を渡った。当時は現代の様に、藁科川と阿部川は合流していない。阿部川は賤機山(シズハタヤマ)のすぐ西を流れ、いくつもの支流を生みながら駿河湾へと流れ込んでいた。また、浅間神社と駿府屋形の間を支流の北川が北西に向かって流れていた。その北川の側に建てられたのが北川殿の屋敷だった。
小鹿新五郎範満の屋敷は阿部川を渡り、さらに、阿部川の支流を渡って半里ばかり先の久能山の裾野の小高い丘の上に建っていた。屋敷は三間程の幅のある空濠と一丈余りの土塁に囲まれ、土塁の隅には見張り櫓(ヤグラ)が建っていた。
門番に用向きを告げると、御隠居様の屋敷は南側にあると言って案内してくれた。御隠居屋敷もやはり、濠と土塁に囲まれていたが、見張り櫓はなく門番もいなかった。門をくぐると右側に見事な庭園が見渡せ、離れの座敷が庭園の中に建てられてあった。見るからに風流を楽しんでいるようだった。
案内してくれた門番が帰ると、逍遙入道、自らが出て来て、早雲たちを屋敷の中に案内した。案内された十畳間は庭園に面し、山水四季が描かれた襖に囲まれていた。
早雲は目の前に座っている逍遙入道には前に会った事があった。応仁の乱が始まった頃、お屋形様と一緒に上京して来て、常にお屋形様の側にいたのが、当時、式部大輔(シキブノタイフ)と呼ばれていた逍遙入道だった。早雲がこの地に来て、しばらく、お屋形様の屋敷に世話になっていた時、式部大輔の顔が見えないのでおかしいと思っていたが、まさか、隠居していたとは驚きだった。
「お久し振りです。伊勢殿、そして、伏見屋殿」と入道は言って笑った。
「驚きましたよ。式部殿が隠居なさっておったとは‥‥‥どうして、また、隠居などを」
「早雲殿、これはまた、おかしな事を聞かれる。そなたの方こそ出家なさるとは、わしに取っては驚きじゃ。将軍様の側近くに勤めておりながら潔くやめてしまうとはのう。伏見屋殿もそうじゃ。あれだれの財産を持ちながら店をたたんで、さすらっておられる。お二人共、まだ、わしよりお若いというのに‥‥‥」
「成程、人の事をとやかく言えませんな」と早雲は笑った。
「もう、わしらの時代は終わったんじゃよ」と入道は言った。「早雲殿、わしは、そなたが駿河に来られたというのは噂を聞いて知っておった。わしは初め、幕府の命で、何かを探るために今川家に入り込んで来たのかと思った。頭を丸めて出家しているとはいえ、北川殿の実の兄上じゃ。その立場を利用して、何かをたくらんでいるのではないかと疑っておったんじゃ。しかし、そなたはしばらくして、お屋形様の屋敷から出て行かれた。それでも、わしはそなたの事を信じなかった‥‥‥そなたの噂は時々、聞いた。山西に小さな庵を構えて気楽にやっていると聞いた。一年経ち、二年経ち、ようやく、わしは考え違いをしていた事に気づいたんじゃ‥‥‥わしはそなたが羨ましいわ。まったく好き勝手に生きている。わしも隠居しているとはいえ、そなたのように好きに旅になど出られん。そなたと一度、話がしてみたかったんじゃ。もしかしたら、わしと同じ心境になって出家したのかもしれんと思ってな」
「逍遙殿、わたしが世を捨てたのは、武士の世界がつくづく嫌になったからです」と早雲は言った。
「さようか‥‥‥わしもそうじゃ」と入道は頷いた。
逍遙入道は、幼い頃より家督相続の争いに巻き込まれ、武士というものの非情さを身に染みて味わっていた。
逍遙入道の父親で、お屋形様の祖父に当たる範政は六十歳を過ぎて若い嫁を貰った。そして、生まれたのが千代秋丸と呼ばれた逍遙入道だった。範政は千代秋丸を可愛いがった。千代秋丸が七歳になった時、家督を継ぐはずだった範政の長男範豊が跡継ぎを作らずに亡くなってしまった。範政は幕府に千代秋丸の家督を願い出た。当時、次男の範忠は二十五歳、三男の範満は二十歳で、二人とも将軍の奉公衆として在京していた。
兄の突然の死を聞いた二人は慌てて駿河に帰ろうとしたが、国元からの連絡によると、駿府の屋形はすでに武装した兵に囲まれ、帰る事は難しいだろうとの事だった。まさか、父親が自分たちに対して、そんな事をするとは信じられなかったが、父親が千代秋丸に家督相続を願い出たと聞いて、信じざるを得なかった。
時の将軍義教は父親の願いを許さず、次男の範忠の家督を主張した。義教が千代秋丸の家督を許さなかったのは、ただ、千代秋丸が幼少だったからだけの理由ではなく、千代秋丸の母親が鎌倉の扇谷(オオギガヤツ)上杉氏定の娘だったからだった。その頃、義教は幕府の命に従わない鎌倉公方の持氏と対立していた。今川氏のいる駿河の国は幕府の支配の及ぶ最前線だった。駿河の国と北に接する甲斐の国(山梨県)と東に接する伊豆の国、相模の国は、鎌倉公方の支配下にあった。鎌倉公方と対立関係にあった幕府としては、最前線を守る今川氏が鎌倉方になる事を恐れていたのだった。今川家の家督相続は、今川家だけの問題ではなく、幕府を左右する程、重大な問題だった。
そんな中、範忠は自ら家督相続の資格を放棄して出家してしまった。範忠としては父親に反対してまで自分が家督を継ごうとは思わず、自分が身を引けば事がうまく行くだろうと考えたのだが、かえって、事は複雑になって行った。範忠が出家すると幕府内に力を持つ山名氏が千代秋丸を支持し、山名氏に対抗する細川氏が三男の範満を支持した。
今川家の家督争いは幕府内の勢力争いと変わり、京の都において、今にも戦が始まるかという雰囲気にまでなったが、家督が決定しない内に父親の範政が亡くなり、将軍義教が飽くまでも範忠を主張したので、ようやく、範忠が還俗して家督を継ぐ事に決定した。正式に家督を継いだ範忠は兵を引き連れて帰国し、千代秋丸を支持する国人たちを倒して駿府の屋形に入った。
千代秋丸は国人たちに守られながら駿府を後にした。すべて、千代秋丸の意志ではなかった。千代秋丸は幼い内に父親を亡くし、兄弟たちとも別れて暮らさなければならなかった。千代秋丸が母親と共に駿府に戻ったのは、それから三年後の事だった。駿府に戻って来てからも反範忠派の者たちに担ぎ上げられ、範忠に対抗した時期もあったが、範忠が亡くなり、義忠の代になってからは義忠をよく助け、三年前に二十五歳になった長男の新五郎に家督を譲ると、まだ四十六歳だというのに頭を丸め、さっさと隠居してしまった。自分の役目はすでに終わったとでも言うような、あっさりとした隠居の仕方だった。
俗世間と縁を切った逍遙、早雲、銭泡の三人の坊主頭は小春日和の日差しの中、和やかに話を交わしていた。
夕方になると、元、逍遙の家臣で、今は隠居しているという久保秋月斎、大内南風斎が訪ねて来て、五人で風流なお茶会が始まった。
19.加賀の春
1
雪は降っていたが、越前吉崎の新年は賑やかだった。
各地から、雪の中を大坊主たちが蓮如に新年の挨拶をするために訪れていた。
お雪は蓮如の妻、如勝と共に本坊の台所に入って忙しく働いていた。
去年の十月十四日に富樫幸千代の蓮台寺城が落ち、戦は終わった。高田派の寺院はすべて消え、高田派の門徒も一掃された。戦の後、しばらくは混乱していた加賀の国も十一月に入って雪が積もり出し、厳しい冬がやって来ると自然と治まって行った。戦目当てに加賀に流れ込んで来た浪人や浮浪人たちも雪と寒さには勝てず、加賀の国から去って行った。
まるで、何もなかったかのように、例年のように雪に覆われた北国の冬だった。
戦が終わると、お雪は風眼坊と一緒に松岡寺に行き、負傷者の治療に当たった。毎日、朝から晩まで治療をしても負傷者の数は減らなかった。治療に当たったのは風眼坊たちだけでなく、時宗の僧侶たちも何人かいたが、とても間に合わなかった。
お雪は多屋(タヤ)衆の娘たちを指図して負傷者の看護に当たっていた。精一杯の手当をしていても、毎日、何人かが亡くなって行った。彼らは皆、念仏を唱えながら極楽に行ける事を信じて死んで行ったが、それを見ているのは辛い事だった。
お雪と風眼坊は松岡寺の後、本蓮寺でも負傷者の治療をして、十二月の末に、ようやく、吉崎に戻って来た。お雪は休む暇もなく、年末年始の用意に追われたが、疲れた様子など少しもなく、毎日、生き生きとしていた。風眼坊の方は蓮崇の多屋で、のんびりと年末年始を送っていた。
正月の五日、慶覚坊が吉崎にやって来た。風眼坊は久し振りに慶覚坊に会った。戦が始まる去年の六月の講以来、半年も会っていなかった。
「医者になったそうじゃのう」と慶覚坊は風眼坊の顔を見るなり言った。
「戦に出て、暴れる事ができんかったからのう。戦の後始末をやっておったわ」
「おぬしのお陰で助かったわ。なかなかの名医じゃそうだのう。それに、例の娘が、よく、怪我人たちの面倒を見ておったそうじゃないか」
「ああ、よくやってくれたよ。わしも驚いておる位じゃ」
「観音様だそうじゃのう」と言いながら慶覚坊は雪を払い、笠と蓑(ミノ)をはずした。
「誰が言いだしたのか、本願寺の観音様だそうじゃ。本願寺の教えの中に観音様など、おらんのにのう」
「いや、観音様も阿弥陀如来様の化身として、ちゃんと本願寺にもおる」
「ほう、阿弥陀如来様の化身か」
「すべての仏様や神様は阿弥陀如来様の化身というわけじゃ」と言うと慶覚坊は部屋に上がって来た。
「蓮誓殿はお元気かな」と風眼坊は聞いた。
「ああ。相変わらずじゃ」
「高田派門徒も消え、富樫幸千代もどこかに逃げてしまい。ようやく、加賀の国も安泰じゃのう」
「だといいんじゃがな。そうも行かんらしい」
「何か、問題でもあるのか」
「ああ。風眼坊、酒はないのか」
「あるが、やるか」
「いや、ちょっと喉が渇いたのでな。一杯、くれんか」
風眼坊は部屋にあった酒をお椀に注いで慶覚坊に渡した。
慶覚坊は一息に飲み干した。
「うまいのう。よく冷えておって喉に染みわたるわ」
「確かにのう。ところで問題というのは何じゃ」
「ああ、戦に勝った門徒たちがのう、守護を侮っておるんじゃよ」
「富樫次郎をか」
「ああ。本願寺のお陰で守護になれたくせに威張るな、という風にな」
「まあ、確かにそうじゃのう。次郎は戦らしい戦はせんかったからのう。しかし、守護を敵に回しても勝ち目はないぞ。第一、この前のような大義名分がない。蓮如殿が絶対に許さんじゃろう」
「その通りじゃ。上人様は口が裂けても、守護を倒せとは言わん。上人様が命じなければ、この前のように門徒たちは一つにはまとまらん」
「次郎の方は本願寺とやる気なのか」
「分からん。次郎は戦の前に、加賀の本願寺門徒を保護すると約束した。しかし、幸千代が大勢の門徒らに攻め滅ぼされたのを目の当りに見ておる。このまま、門徒たちを放っておいては、今度は自分の身が危ないと思うのは当然の事じゃろう。今、蓮崇殿が湯涌谷の者を使って野々市に探りを入れておるが、多分、次郎は約束など破る事じゃろう」
「蓮崇殿はもう動き出しておるのか‥‥‥」
「ああ、本人は御山で客の接待をしておるが、裏では、ちゃんと敵の動きを探っておる」
「やるもんじゃのう。もし、次郎が本願寺を攻めて来たらどうするつもりなんじゃ」
慶覚坊は首を振った。「どうしようもない。上人様が命じない限り、反撃する事はできん。しかし、門徒たちも、ただ、やられておるだけでは済むまい。特に、国人門徒たちは上人様が争い事を禁じても、やらないわけには行かんじゃろう。今度、また戦が始まってしまえば、もう、上人様の力でもどうする事もできなくなるじゃろう」
「そうなったら、どうなるんじゃ。蓮如殿は国人門徒たちを破門にするのか」
「それもできまい。この前の戦で活躍したのは奴らじゃ。奴らのお陰で戦に勝てたという事は誰もが知っておる。それなのに、上人様が奴らを破門にしてしまえば、他の門徒たちにも影響する。その事は上人様が一番よく知っておる。破門という事はありえんじゃろう」
「うーむ、難しいのう」
「野々市の側に善福寺があるんじゃが、そこの住職の順慶(ジュンキョウ)殿は、この間の戦で活躍した定善坊(ジョウゼンボウ)殿の兄上なんじゃよ。定善坊殿は蓮台寺城攻めの時に、少人数を率いて搦手(カラメテ)から攻めて討ち死にしたんじゃ。あの時の戦の功労者といえる男じゃ。すでに、門徒たちの間では英雄に祭り上げられておる。その兄上が野々市の一番近くにおるというのは危険じゃ。また、戦が始まるとすれば、多分、善福寺が中心になるに違いない」
「善福寺の順慶殿か‥‥‥」
「まあ、正月そうそう戦の話はやめておこう。ところで、おぬし、これからどうするつもりなんじゃ」
「そうじゃのう、どうするかのう。実は播磨に行こうと思っておったんじゃがのう」
「播磨? 播磨に何かあるのか」
「ああ、わしの伜が今、播磨におるんじゃ」
「おぬし、播磨にも女を作ったのか」
「違う、播磨におるのは伜だけじゃ」
「ほう、伜だけか。おぬしに、そんな大きな伜がおったのか」
「おお、今年、二十歳になったはずじゃ」
「なに、二十歳か。わしの伜より大きいのう。おぬし、いつの間に、そんな伜を仕込んでおったんじゃ。わしの知っておる女子(オナゴ)か」
「いや、おぬしの知らん女じゃ。熊野の山の中の女でな。わしが飯道山に行く前から、知っておった女子じゃ」
「ほう、そんな女子がおったとはのう。全然、気が付かなかったわ。しかし、熊野で生まれた伜が、どうして播磨なんぞにおる」
「わしが知らんうちに伜にも色々あったらしくてな。二年前、わしは伜を飯道山に送ったんじゃ。この間、甲賀に行った時、久し振りに伜の顔でも見るかと思って飯道山に登ったら、すでにおらんかったというわけじゃ」
「ほう。飯道山に入れたのか。どうじゃ、今の飯道山は相変わらず盛んなのか」
「盛んなんてもんじゃない。毎年、溢れる程の修行者が山に登って来る。わしらがいた頃は来る者は誰でも教えておったが、今では多すぎて、正月の十四日の受付に間に合わなければ入る事はできんのじゃ」
「受付なんてあるのか」
「ああ、それも毎年、五百人近くも集まってのう」
「なに、五百人!」慶覚坊は目を丸くして驚いた。
「ああ、その五百人を一ケ月間の山歩きによって百人位に振り落として、一年間、教えておるんじゃ」
「そうか、そんなにも集まるのか‥‥‥受付は正月の十四日と言ったか」
「ああ、そうじゃ。最近は甲賀や伊賀だけでなく、遠くからも修行者が集まるらしい」
「そうか‥‥‥今、誰か、わしらの知っておる奴がおるのか、あの山に」
「高林坊が総師範をやっておるわ」
「高林坊が? 奴はまだおったのか」
「いや、一度は山を下りて葛城山に帰っておったらしいが、親爺に呼ばれて戻ったらしい」
「親爺か‥‥‥懐かしいのう。親爺はまだ達者か」
「ああ、相変わらず口だけは達者じゃ。年じゃからのう、体の方は昔のようには動かんらしいがの」
「そうか、懐かしいのう‥‥‥わしも伜を飯道山に送るかのう」
「十郎か、うむ、奴はなかなか素質があるから、飯道山で一年、修行すれば見違えるように強くなるかもしれんのう。修行に出せ。まだ、間に合うぞ」
「そうじゃのう。一年間、修行させてみるか」
「そうせい。どうやら、加賀はまだまだ荒れそうだしの。強いに越した事はないわ」
「ところで、おぬしの伜の方は播磨で何をしておるんじゃ」
「それが、よく分からんのじゃ。赤松家を知っておるか」
「ああ、赤松家といえば、応仁の戦が始まる前は北加賀の守護じゃ」
「おお、そうじゃったの。その赤松家の武将になったというんじゃ」
「おぬしの伜がか」
「ああ。話せば長くなるんじゃがの、武士になった事は確からしい。それで、伜の武者振りを見に行こうと思っておったんじゃがのう。もう少しここにいて、様子を見る事にしようかのう。また、戦でも始まれば蓮如殿を守らなけりゃならんからのう」
「そうか。播磨に行くのもいいが、いっその事、医者として、ここに落ち着いたらどうじゃ。この地も住んでしまえば都じゃぞ」
「ああ、分かっておる。話は変わるが、おぬし、伊勢新九郎を覚えておるか」
「ああ、おぬしと同郷の奴じゃろう。覚えておるわ。わしは奴と弓矢の賭けをして、好きな女子を諦めたんじゃ」
「おお、そんな事もあったのう。そう言えば、おぬしと新九郎は、なぜか、女子の好みが似ておったのう。年中、女子の事で喧嘩しておったのう」
「そうじゃ。憎らしい事に弓術と馬術だけは、どうしても奴には勝てなかったわ」
「ああ。奴の弓術と馬術は天下一品じゃ。ガキの頃からうまかったからの」
「奴は今、何をやっておるんじゃ」
風眼坊は慶覚坊の頭を見て、急に笑いだした。
「どうしたんじゃ」
「いや、なに、新九郎の奴もおぬしのように頭を丸めた事を思い出してな。女子だけじゃなく、やる事も似ておると思ってのう」
「ほう、奴も坊主になったのか」
「坊主といっても、奴は本願寺とは関係ないがの。武士が嫌になったらしい。奴の妹というのが駿河の今川に嫁に行ってな、奴も駿河に下向したらしい。駿河の地で何をやっておるのか知らんが気楽に暮らしておるらしい。わしは一度、行こうと思っておる」
「駿河か‥‥‥新九郎は駿河におるのか」
「ああ」
「そうか、懐かしいのう。飯道山か‥‥‥あの頃は、みんな、若かったのう。わしは伜を飯道山に送る事に決めたわ‥‥‥それじゃあ、わしは帰るわ」
「もう帰るのか」
「ああ。今回はただ、上人様に新年の挨拶をしに来ただけじゃ。山田の方も何かと忙しいのでな。おぬしも、また遊びに来いよ。おぬしの荷物、まだ、あそこにあるがどうする」
「荷物か‥‥‥当分、山伏に戻れそうもないからのう。もう少し預かっておいてくれ」
「ああ。分かった」
慶覚坊は帰って行った。
加賀の守護職、富樫次郎政親の本拠地、野々市(ノノイチ)の守護所にも雪は降っていた。
正月そうそう広間の一室では、次郎の重臣たちが顔を突き合わせて評定(ヒョウジョウ)を重ねていた。去年の十月、宿敵、幸千代を蓮台寺城に倒し、正式に加賀の国の守護職(シュゴシキ)に就いた次郎だったが、守護として、この国をまとめて行くのは難しい事だった。
加賀の国には幕府の直轄地である御領所や、幕府奉公衆の領地、京や奈良の大寺院の荘園、公家の荘園などがあちこちに散らばっていた。応仁の乱が始まって以来、西軍の幸千代に占領されていたため、それらの荘園の年貢は本所(ホンジョ、領主)のもとには、ほとんど届かなかった。次郎が幸千代を追い出して守護職に就いた途端、野々市の守護所には本所からの使いの者が年貢を送らせるようにしてくれ、と殺到して来た。次郎としては彼らの願いをかなえてやりたいのは山々だったが、実行する事は不可能に近かった。
荘園の代官となっている国人たちの多くは本願寺の門徒となっていた。門徒たちは守護の言う事など聴く耳を持たなかった。去年の一揆に見事な勝利を納めたため、門徒たちは力を合わせればどんな事でもできる、という事を身を持って知った。門徒たちから見れば、次郎など門徒たちのお陰で守護になったに過ぎない。守護にしてやったのだから、おとなしくしていろ、さもないと、幸千代のようにこの国から追い出してやるぞ、と言葉に出してまでは言わないが、守護の命に従うような事はなかった。
せっかく加賀一国の守護となった次郎だったが、守護としての使命は果せず、面目は丸潰れだった。いくら、次郎が戦の前に、蓮如と本願寺の事を保護すると約束したとしても、このまま、本願寺の門徒を放っておくわけには行かなかった。このまま好き勝手な事をさせておいたら、まさに、幸千代の二の舞いに成りかねない。本願寺門徒の組織が、今以上に強化されないうちに潰しておかなければならなかった。
「吉崎に攻め込むか」と槻橋(ツキハシ)近江守が言った。
「いや、それはまずい」と山川(ヤマゴウ)三河守が反対した。「吉崎を襲えば、門徒たちは一丸となって、ここに攻め込んで来るじゃろう。今、あれだけの大軍を相手にする程の力は、わしらにはない」
「しかし、一気に吉崎を攻めて、蓮如を殺してしまえばいい。そうすれば、門徒たちも一つにまとまる事はあるまい」
「いや、それは違う。本願寺は武士と違って、お屋形を倒せば勝てるというものではない。門徒たちの中でも国人たちは本気で門徒となっているわけではない。本願寺の組織を利用して、己の領土を拡大しようとたくらんでおるんじゃ。もし、わしらが吉崎を襲撃して、蓮如を殺せば、国人門徒たちは蓮如の弔い合戦と称して、堂々と、ここに攻め寄せて来るじゃろう。敵に大義名分を与えるようなものじゃ」
「しかし‥‥‥」
「三河守殿の言う事は最もな事じゃ」と槻橋豊前守(ブゼンノカミ)が言った。「確かに、あれだけの大軍に囲まれたら幸千代殿の二の舞いじゃ」
槻橋豊前守は近江守の父親であった。幼少の次郎を助け、応仁の乱の時は守護代として国元を守っていた。今は守護代の地位を息子の近江守に譲り、一応は隠居の形を取ってはいるが、のんびり隠居などしている時勢ではないので、次郎の側に仕えていた。
山川三河守は槻橋近江守の北加賀守護代に対して、南加賀の守護代だった。元々は、次郎の大叔父の富樫五郎泰高の守護代だったが、五郎が富樫家を一つにまとめるために次郎に家督を譲ったので、次郎に仕え、幸千代を追い出した後、改めて南加賀の守護代となっていた。
「三河守殿、そなたの考えはいかがじゃ」と槻橋豊前守が聞いた。
「はい。わしが思うには門徒たちを一つにまとめてはいかんと思っております。ばらばらにしておいたまま、一つづつ倒して行くのです」
「うむ、一つづつか‥‥‥」
「蓮如は幕府には逆らいません。その証拠に、前回の戦の時、松岡寺が高田派門徒に襲われ、自分の息子が危ないというのに動きませんでした。門徒たちが高田派と戦う事を許しませんでした。お屋形様(次郎)が頼みに行っても無駄でした。ところが、幕府の奉書が届いた途端に、手の平を返すように門徒たちに戦を命じました。蓮如は幕府の言う事には、絶対に逆らわないでしょう」
「うむ。それで」
「幕府を利用して、本願寺の門徒たちを倒して行くのです。まず、幕府の命において、年貢を無事に本所に送らなければ、実力行使に出るという触れを出し、従わない者たちを片っ端から倒して行くのです。蓮如は幕府の命とあれば逆らう事はないでしょう。わしらが国人門徒たちを攻めたとしても、門徒たちに年貢を払えとは言うでしょうが、わしらと戦えとは絶対に言わんでしょう」
「成程、三河守の言うのは最もな事じゃ。確かに、蓮如は幕府には逆らうまい」
「その手で、有力な門徒たちを倒して行くのです。国人門徒たちがいなくなれば、後は人数が多かろうと烏合(ウゴウ)の衆に違いありません。力で押える事もできるでしょう。ただ、本願寺の軍師とも言える下間蓮崇(シモツマレンソウ)は何とかしなければなりません」
「蓮崇か‥‥‥奴は曲者じゃ」と本折越前守が言った。
「蓮崇というのは越前の一乗谷にいた頃、よく来ていたあの坊主か」と豊前守が聞いた。
「そうです」と三河守は頷いた。
「あの坊主が曲者のようには見えんがのう」
「なかなかの男です。蓮崇は今、吉崎において一番の力を持っております。蓮如にも信頼され、なかなか羽振りもいいようです。それに、この前の蓮台寺城総攻撃の作戦を練ったのが、あの蓮崇です」
「なに、あの奇抜な松明(タイマツ)作戦をか」
「はい」
「うーむ。あれを奴がのう」
「あの戦の最中、大量な武器の調達もしております。敵にしておくのは勿体ない程の男です」
「生かしておくわけには行かんのう」と本折越前守は言った。
「できれば、寝返らせたい男じゃがのう」と三河守は言う。
「甘いわ。奴は根っからの本願寺門徒じゃ。寝返る事などあるまい」
「いや、ところが、以外にも、奴は武士というものに憧れているところがあるらしい」
「なに?」
「奴が朝倉殿の猶子(ユウシ)となっておるのは皆、存じておろうが、それだけではない。奴の本拠地は湯涌谷にあるんじゃが、湯涌谷にある奴の屋敷は、本願寺の道場というより武家屋敷そのものじゃ。本願寺には、蓮如が坊主も門徒も皆、同朋(ドウボウ)じゃと教えているため、他の宗派のように坊主たちに位はない。蓮崇は蓮如の執事という立場にあるが、他の坊主たちよりも偉いというわけではない。当然、本願寺の寺にしろ、道場にしろ、上段の間というものはない。たとえ、蓮如上人であろうとも門徒たちと同じ高さの床に坐り説教をする。ところが、湯涌谷の蓮崇の屋敷には上段の間があるんじゃ。奴はきっと、湯涌谷では蓮如の教えに背き、上段の間から門徒たちを説教しているに違いない。蓮崇は蓮如に忠実でいながら、心の中では自分が偉いというところを人に見せたいに違いない。うまくやれば、奴は寝返るかもしれん、とわしは思う」
「何か、策はあるのか」と豊前守は聞いた。
「奴を罠(ワナ)にかけて、本願寺から破門させようと思っております」
「破門か‥‥‥そう、うまく行くかのう」
「うまく行かなければ消すまでです。蓮崇一人位消す事など、いつでもできます」
「そうじゃのう。まあ、蓮崇の事はそなたに任せるとして、本願寺の有力門徒というのは、調べがついたのか」
「はい」と近江守が返事をして、河北(カホク)郡と石川郡の本願寺有力門徒の名前を挙げた。その後、三河守が、能美(ノミ)郡と江沼郡の有力門徒を挙げた。
河北郡の有力門徒は、二俣本泉寺、鳥越弘願寺(グガンジ)、英田(アガタ)広済寺、木越(キゴシ)光徳寺、磯部聖安寺の五ケ寺。河北郡の門徒のほとんどをこの五ケ寺が押さえ、河北郡には、これといって目立つ国人門徒はいなかった。その中の木越光徳寺乗誓(ジョウセイ)の妻は槻橋近江守の姉だった。近江守の父、豊前守は当時から、一勢力を持っていた光徳寺を味方に付けようと娘を嫁に出したわけだったが、まさか、こんな形で敵対する事になろうとは思ってもいなかった。
石川郡の有力門徒は、宮腰迎西寺(ミヤノコシギョウサイジ)、吉藤(ヨシフジ)専光寺、大桑善福寺、松任(マットウ)本誓寺の四ケ寺と、国人門徒として手取川流域の安吉(ヤスヨシ)源左衛門、湯涌谷(ユワクダニ)の石黒孫左衛門、木目谷(キメダニ)の高橋新左衛門の三人が力を持っていた。
特に、安吉源左衛門は手取川流域に広い土地を持ち、また、手取川で運送業を営む河原者たちまで支配下に置き、かなりの勢力を持っていた。そして、その源左衛門は山川三河守の妹の婿でもあった。元々、源左衛門は北加賀の守護となった富樫次郎成春(シゲハル)の被官だった。ところが、成春は長禄二年(一四五八年)に守護職を解任された。源左衛門は成春と行動を共にしなかった。源左衛門はたちまち南加賀の守護、富樫五郎泰高に鞍替えし、成春に代わって守護となった赤松氏に協力した。
源左衛門の支配する土地が手取川を挟んで両側にあるため、北加賀でも南加賀でも、自分の都合のいい方を選んだのだった。その頃、源左衛門は五郎泰高の守護代だった山川近江守の妹を嫁に貰った。近江守としては、手取川を押える源左衛門をしっかりと味方につなぎ止めて置きたかったのだった。その後、次郎政親と幸千代が争い始めた時には、また寝返って幸千代方となった。幸千代方にいたといっても自分が不利になる戦はしなかった。加賀の国の混乱をいい事に、着実に自分の勢力を広げて行った。そして、蓮如が吉崎に来て本願寺が栄えると、迷う事なく門徒となって、益々、勢力を広げたのであった。
次に能美郡の有力門徒は、波佐谷(ハサダニ)松岡寺、波倉(ナミクラ)本蓮寺、鵜川(ウカワ)浄徳寺、大杉円光寺の四ケ寺と、国人門徒として、板津(小松市)の蛭川(ヒルカワ)新七郎、山上(辰口町)の中川三郎左衛門、大杉谷川の宇津呂備前守。
江沼郡では、山田光教寺門徒の洲崎(スノザキ)藤右衛門(慶覚坊)、弓波(イナミ)勝光寺門徒の庄(ショウ)四郎五郎、河崎専称寺門徒の黒瀬藤兵衛、黒崎称名寺門徒の黒崎源五郎、荻生(オギウ)願成寺(ガンショウジ)門徒の熊坂願生坊、柴山潟の舟乗りたちを率いる柴山八郎左衛門。
それに、越前の藤島超勝寺と和田本覚寺が加わり、以上が本願寺の有力門徒といえた。
「とりあえず、雪が溶けるまではどうにもならん。今の内に本願寺方の出方をよく調べる事じゃな。本願寺の門徒すべてが、わしらに敵対しているわけではあるまい。どうしても倒さなければならん奴だけ倒せばいい。無益な争いは避けるべきじゃ」
槻橋豊前守がそう言うと、評定はお開きとなった。それぞれ、自分の守る城へと帰って行った。
守護所の隣に建つ屋敷の奥の間では、富樫家の当主、次郎政親が女を抱きながら、つまらなそうに酒を飲んでいた。
ここ、野々市の守護所は代々、富樫家の本拠地だった。しかし、当主が常にここにいたわけではない。当主は京の将軍の側にいる事が多く、この守護所には守護代が入って国元の事を取り仕切っていた。
次郎は京の屋敷で生まれた。父、成春は北加賀の守護職に就いていた。しかし、次郎が四歳になった時、父親は荘園を横領した罪によって守護職を解任された。翌年、弟の幸千代が生まれた。次郎は幸千代と共に京の富樫屋敷において成長した。
父親、成春は守護職を解任されたが、細川勝元と対抗していた山名宗全と手を結んで加賀の国に赴き、新たに北加賀の守護職に就いた赤松氏が北加賀に入部するのを妨害していた。成春は北加賀の国人衆を率いて抵抗を重ねたが、結局は越中の国に追いやられ、亡命中に亡くなってしまった。まだ、三十歳の若さで、当時、次郎は八歳だった。
成春が亡くなった事により、宗全は成春の嫡男、次郎を担ぎあげて赤松氏に対抗した。ところが、二年後、勝元は南加賀の守護、五郎泰高を隠居させ、次郎をその跡継ぎにしてしまった。勝元としては、分裂したままの富樫家を一つにまとめ、加賀の国を南北共に自らの勢力範囲としたかったのだった。富樫家も一本にまとまり、加賀の国も安定したかのように見えたが、宗全は簡単に引き下がらず、次郎の弟、幸千代を北加賀に送り込み、また富樫家を分裂させてしまった。そして、応仁の乱となり、赤松氏が播磨に戻って北加賀から消えると、幸千代は北加賀を占領し、勢いに乗って南加賀までも侵入して来た。
当時、次郎は東軍の将として京にいて西軍と戦っていた。国元の危機を知っても、近江の六角氏、越前の斯波氏が西軍に就いているため、加賀に入るのは難しかった。
文明三年(一四七一年)になって越前の朝倉氏が東軍に寝返ったため、次郎はようやく、加賀に入部した。次郎、十七歳の夏、生まれて初めて領国の加賀に入ったのだった。しかし、すんなりと入れたわけではなかった。すでに、南加賀の中心地、軽海(カルミ)の守護所は幸千代軍に占領され、次郎の守護代、槻橋豊前守は白山山麓の山之内庄に立て籠もっていた。次郎は守護代の豊前守と共に軽海を攻めて幸千代を追い出し、何とか、守護所に入る事はできた。
京の屋敷は戦によって焼け落ち、ようやく、守護所内の屋敷に落ち着く事ができた次郎だったが、僅か、一年余りの滞在で、幸千代に攻められ、その屋敷から追い出されて、山之内庄の別宮(ベツグウ)城に立て籠もる事となった。そして、山の中の暮らしにも何とか慣れて来たと思ったら、また、幸千代に攻められて、今度は朝倉の本拠地である越前一乗谷に落ち着いた。
一乗谷では新しい屋敷まで作ってもらい、戦の事も忘れ、毎日、楽しく暮らしていた。次郎としては、もう加賀なんかに戻らずに、ずっと、ここで暮らしたいと思っていたのに、やはり、ここも一年程、滞在しただけで、今度は北加賀の野々市の守護所へと移動して来た。野々市は富樫氏の本拠地には違いなかったが、次郎には馴染めなかった。どうせ、この地にも一年程いたら、また、どこかに行く事になるのだろうと次郎は思っていた。
次郎は薄暗い奥の間で、火鉢(ヒバチ)を抱くようにして、左右に美女二人をはべらして酒を飲んでいた。二人の美女はつまらなそうにしている次郎の機嫌を取ろうとニコニコしながら、次郎の巨体にもたれていた。
守護所内に建てられた、この屋敷はやたらと広いが造りは古く、住み心地はよくなかった。まして、冬になって雪が降り始めると寒くて溜まらなかった。朝倉弾正左衛門尉が造ってくれた一乗谷の屋敷とは比べ物にならない程、お粗末な建物だった。せっかく、加賀の国の守護職に就いたのに、こんな屋敷に住んでいるのは情けなかった。国を一つにまとめるには、まず、国内の国人たちを『あっ!』と言わせる程、贅沢な屋敷を造らなければならないと思った。次郎は守護代の槻橋近江守に新屋敷を造るように命じたが、雪が溶けるまではどうにもならなかった。
この屋敷は、次郎が入るまでは幸千代の守護代、小杉但馬守が住んでいた。但馬守は本願寺門徒に攻められると、ろくに戦もしないで、兵をまとめて南加賀の蓮台寺城へと引き上げて行った。但馬守としては、この守護所において、せめて一月でも戦い続け、河北郡の門徒たちをこの場に引き付けておきたかった。しかし、肝心の兵糧米が底をついていた。
一昨年の状況では、ここが戦場になる可能性は極めて薄かった。次郎は越前にいるし、戦場となるのは南加賀だった。そこで、余分な兵糧米はすべて蓮台寺城に送ってあった。ところが、本願寺が戦に参加すると北加賀も戦場と化し、本願寺門徒たちに攻められ、寺院を焼かれた高田派門徒や幸千代方の郷士たちが皆、この守護所に逃げ込んで来た。蔵にあった兵糧米は、あっという間に減って行き、本願寺門徒がここを攻めて来た時には、ほとんど空になっていた。但馬守は仕方なく、守護所を捨てて蓮台寺城へと向かった。
逃げるに当たって守護所に火を掛けなかったのは、蓮台寺城において戦に勝利し、また戻って来る事を確信していたからだった。ところが、但馬守は蓮台寺城から逃げ出す事はできたが発見されて切腹、二度とこの地の土は踏めなかった。但馬守が無傷のまま守護所を残してくれたお陰で、次郎はかつて、父親の成春も来た事のある、ここに入る事ができた。それでも、次郎は不満だった。
不満は屋敷の事だけではなかった。京の都のように賑やかな一乗谷に一年近くもいたので、ここ、野々市での暮らしはまったく面白くなかった。一応、野々市も加賀の中心といえる都だったが、何もかもが一乗谷より遅れていた。まず、娯楽というものが少なかった。一乗谷のように公家もいないし、一流の芸人もいない。絵を描きたくても絵師はいないし、剣術を習いたくても兵法者(ヒョウホウモノ)はいない。曲舞(クセマイ)を見たくても芸能一座はいないし、鷹狩りをしたくても鷹はいない。お茶会をしたくてもお茶はないし、連歌会をしたくても連歌師もいない。ない物だらけだった。
そのない物だらけの中、お雪がいないのが一番辛い事だった。お雪さえいれば他の物などなくても我慢する事はできた。現に山之内庄のような山の中で一年間もやって行けたのは側にお雪がいたからだった。そのお雪はどこに行ったのか、急に消えてしまった。
次郎がお雪と初めて会ったのは軽海の守護所にいた時だった。
桜が満開に咲き誇る頃、笛の音に誘われて、次郎は八幡神社の境内に入った。お雪は桜の花の下で笛を吹いていた。一目見た途端、次郎はお雪の虜になった。しかし、その日は声を掛ける事もなく、ただ、お雪が笛を吹いているのを遠くから眺めているだけだった。次の日、次郎はまた、お雪が八幡神社に来て笛を吹く事を期待して行ってみたが、お雪は現れなかった。次の日も、次の日も、お雪は現れない。次郎は初めて、お雪を見た時、一緒にいた供の者にお雪を捜させた。町中を捜させたがお雪の姿は見つからなかった。
もしかしたら、あれは幻だったのかと諦めかけていた頃、再び、あの時の笛の音を耳にした。笛の音はまた、八幡神社の方から聞こえて来た。次郎は飛ぶような速さで神社に駈けつけた。側まで行き、お雪の笛を聞き、そして、声を掛けた。
それから、一月後、お雪は次郎の屋敷に入って側室となった。
次郎は、お雪のために新しい屋敷を建てようとしたが、その屋敷が完成しないうちに幸千代に攻められ、山之内庄へと逃げた。山之内庄で一年近く、お雪と共に過ごし、一乗谷でも一年近く、共に過ごした。
次郎の回りには正妻を初め、常に何人もの女がいたが、お雪は他の女とはまったく違っていた。口数が少なく、滅多に笑う事もない。自分に媚びる女たちの中で、決して媚びる事のないお雪の存在は異彩だった。
次郎は何に関しても飽きっぽく、女にしてもそうだった。新しい女にはすぐ夢中になって飛び付き、最初のうちは常に側に置くが、一月もしない内に、必ず、違う女に目が移る。お雪の場合も初めはそうだった。普通の女は大低、飽きた後は捨てられるだけだったが、お雪の場合は違った。笛が吹けるという事もあったが、ただの肉体としてだけの女ではなく、お雪は次郎のいい話相手としての存在が大きかった。
幼い頃より殿様として育てられているため、回りにいる連中は皆、自分に媚びる奴ばかりだった。そんな中で、お雪は絶対に次郎に媚びる事なく、思った事を率直に口に出した。初めの頃は生意気な女だと何度も腹を立てた次郎だったが、だんだんとお雪の存在はなくてはならないものとなって行った。
お雪は自分でも笛を吹いているため、芸事もよく理解し、次郎が舞いの稽古をしたり、絵を描いたりしても、ちゃんとした意見を言ってくれた。他の女たちは、ただ誉めるだけだったが、お雪は色々と批判してくれた。時にはきつい事を言って次郎を怒らせる事もあるが、後になって考えてみるとお雪の言う事は大低、正しかった。あんな女は滅多にいない。それなのに、突然、姿を隠してしまった。
次郎は平泉寺の山伏を使って捜させたが、どこに行ったのか、まったく分からなかった。お雪がいてくれれば、こんな所にいても楽しいのだが、他の女が何人いても面白くも何ともなかった。
次郎は酒盃(サカヅキ)の酒を飲み干すと右隣にいる女の前に差し出した。女は色っぽい仕草で酒を注いだ。
「つまらんのう」と次郎はこぼした。「何ぞ、面白い事はないのか」
「お殿様、双六(スゴロク)でもなさりますか」と左側の女が次郎の膝を撫でながら言った。
「つまらん」
「それでは‥‥‥」
「もう、いい。それより、お前らも飲め。飲んで酔え」
「ささ(酒)など、そんな、飲めません」
「いいから、飲め」
次郎は酒の入った酒盃を左側の女の口元に運んで、無理やり飲ませた。
「お殿様、そんな、ご無理な‥‥‥」と言いながらも女は酒を一息に飲み干した。
次郎は右側の女にも飲ませ、「そうじゃ、飲み比べじゃ。どっちが強いか、やってみろ」と言った。
「そんな事、お殿様、とても‥‥‥」
「嫌じゃと申すか」と次郎は二人の女を見比べた。
「いえ、決して、そのような‥‥‥」
「はい、お殿様の申すように‥‥‥」
お雪だったら絶対に断っただろうに、と思いながら次郎は二人を見ていた。
二人は交互に酒を飲み始めた。
「ただ、飲むだけじゃつまらん」と次郎はお膳の上に置いてある箸を一本取ると、それを立てて、「いいか、この箸が倒れた方の者が酒を飲め」と言った。
「そんな‥‥‥」
「嫌か」
二人の女は黙って、次郎の言うがままだった。
「酒を飲まん方もただ見ておるだけではつまらん。酒を飲まん方は一枚づつ、着物を脱いでいけ」
二人の女はまた、「そんな‥‥‥」と言ったが嫌とは言わなかった。
二人の女は寒い中、着物を一枚づつ脱ぎながら酒を飲んで行った。
次郎がわざと箸を傾けたりして、いかさまをしても、女たちは文句も言わず、次郎の思うままだった。次郎の思惑通りに二人の女は酔っ払い、着物をすべて剥がされた。酔わされ、素っ裸にされても、二人の女はなお、次郎に媚びていた。
「つまらん」と次郎は言うと二人の女に見向きもせずに部屋から出て行った。
外は静かに雪が降っていた。
雪の散らつく中、五騎の武士が野々市の城下から鶴来(ツルギ)街道を南に向かっていた。
山川(ヤマゴウ)三河守と供の者たちであった。軽海の守護所に帰るところだったが、途中、義弟の安吉源左衛門の屋敷に寄るつもりでいた。
三河守の山川家は代々、富樫家の守護代を勤める重臣だった。祖父の代より富樫次郎の大叔父である富樫五郎泰高の守護代だった。祖父の山川筑後守(チクゴノカミ)は泰高のために、泰高に敵対する兄の刑部大輔(ギョウブノタイフ)教家を支援していた時の管領(カンレイ)、畠山左衛門督(サエモンノカミ)持国を襲撃しようとして失敗し、切腹して果てた。その後、父の近江守が守護代を継ぎ、父が隠居した後、三河守が跡を継いで、泰高を助けて教家と戦って来た。ところが、泰高が隠居して教家の孫の次郎政親がその跡を継ぐと、三河守は守護代の地位を槻橋(ツキハシ)豊前守に奪われてしまった。三河守は次郎に仕える事となり、ついこの間、幸千代を追い出し、次郎がようやく加賀一国の守護職に就くと、再び、南加賀の守護代に復帰する事ができた。
富樫家が兄弟で家督を争うのは今に始まったわけではなかった。
加賀国内に幕府の御領所や、幕府に関係のある大寺院の荘園が数多くあるため、加賀の守護職の富樫家は常に幕府内の勢力争いに関係せざるを得ない立場にあった。初めて冨樫氏が加賀守護職に就いたのは、次郎政親より六代前の富樫介(トガシノスケ)高家だった。高家は足利尊氏のもとで活躍して、加賀の守護職を手に入れた。その後、三代続くが、三代目の富樫介昌家が亡くなると、守護職は富樫氏に継承されず、時の管領、斯波(シバ)治部大輔義将の弟、伊予守義種に与えられた。幕府内の細川氏と斯波氏の勢力争いの結果、細川右馬頭(ウマノカミ)頼之が敗れたため、富樫氏も失脚する事となった。斯波義将は越前、越中、能登、若狭の守護を兼ね、北陸の地をすべて自分の勢力範囲にするため、弟を加賀の守護に任命したのだった。
富樫氏が再び加賀の守護職を手に入れたのは、それから二十七年後の応永二十一年(一四一四年)だった。斯波伊予守義種が将軍義持の怒りに触れ失脚し、南半国の守護に富樫昌家の甥、富樫介満春が任命され、北半国の守護には富樫家の庶流の兵部大輔満成が任命された。
満成は将軍義持に近侍し、幕府内に勢力を広げて行ったが、四年後、調子に乗り過ぎて失脚し、北加賀の守護職も富樫介満春に与えられ、ようやく、加賀一国の守護となる事ができた。この時より、満春の北加賀の守護代として領国を支配していたのが三河守の祖父、山川筑後守であった。
満春亡き後は、嫡子の持春が十五歳で家督を継ぐが、持春は二十一歳の若さで亡くなってしまった。持春には嫡子がなかったため、当時、奉公衆として将軍義教に近侍していた一歳年下の弟、刑部大輔教家が跡を継ぐ事となった。それから、八年間は富樫家も無事に領国を治めていたが、嘉吉元年(一四四一年)、突然、教家は恐怖の将軍と恐れられていた義教の怒りに触れて、守護の座も剥奪され、蓄電してしまった。
富樫家の重臣たちは慌てて、時の管領、細川右京大夫持之と相談し、当時、出家していた教家の弟を還俗(ゲンゾク)させ、五郎泰高と名乗らせて跡を継がせた。ところが、六日後、将軍義教は赤松性具(ショウグ)入道(満祐)によって暗殺されてしまった。
管領細川持之は混乱した状況を静めるために、今まで、義教によって追放された数多くの者たちの復帰を許した。さっそく、蓄電していた教家は戻って来て、守護職返還を求めた。しかし、持之としても、教家の弟、泰高をわさわざ還俗させてまで守護に任命した手前、教家の願いをすぐに聞き入れるわけには行かなかった。そんな教家に力を貸したのが細川持之と対立する畠山持国だった。
畠山持国も義教に家督を奪われて追放されていた身だったが、上洛するとすぐに畠山家の家督を取り戻した。畠山家の支援を得た教家は実力を持って守護職を取り戻そうと、家臣の本折(モトオリ)但馬守を加賀に討ち入らせた。教家が畠山持国と結んだ事により、細川持之は泰高を応援し、加賀国内で家督相続の争いが始まった。
決着が着かないまま一年が過ぎ、細川持之が亡くなり、畠山持国が管領になると改めて、加賀守護職に教家の嫡男、次郎成春がわずか十歳で任命された。後ろ盾を失った泰高は敗れ、泰高の守護代だった山川筑後守は京に逃げ帰ると管領、畠山持国を襲撃する事を計画した。しかし、事は露見し、京の都で戦にまで発展するところだったが、山川筑後守他四名が切腹する事によって、ようやく騒ぎも治まった。
畠山持国に対抗するため、持之の嫡男、細川勝元は山名持豊(宗全)と手を結んで勢力を強め、文安二年(一四四五年)、管領となった。勝元は泰高を支持し、教家父子の追討を命じた。この時、泰高の守護代として活躍したのが三河守の父親、山川近江守であった。越前守護の斯波氏の力も借り、泰高は教家父子を越中に追い払った。しかし、教家も完敗したわけではなく、畠山持国の支援のもと、たびたび加賀入国を企てていた。
そして、文安四年(一四四七年)の和解案によって、北加賀の守護として富樫次郎成春、南加賀の守護として富樫五郎泰高というふうに決定した。成春の守護代として本折但馬守、泰高の守護代として山川近江守が国内をまとめるために、それぞれの守護所に入った。
当時、三河守は十八歳で、父と共に軽海の守護所に入り、父の補佐をしていた。
やがて、成春の後ろ盾となっていた畠山持国が亡くなり、畠山家が分裂し、幕府内での勢力が弱まると成春は守護職を剥奪され、代わりに細川勝元派の赤松政則に与えられた。
そして、勝元は富樫家を一本にまとめるため、泰高を隠居させ、成春の嫡男、当時、十歳だった次郎政親を家督とした。次郎が家督を継ぐ事によって、父親の跡を継いで守護代となっていた三河守は守護代の地位を奪われ、次郎に近侍していた槻橋豊前守が守護代となった。
三河守は家族を連れて京に赴き、次郎政親及び五郎泰高の近辺に仕える事となった。代々、守護代の地位を継いでいた山川家は、三河守の代で守護代の地位を奪われる事となってしまった。
ようやく、加賀の国は細川勝元の勢力範囲になったかに見えたが、赤松氏の入国を拒む北加賀の国人たちは勝元と敵対している山名宗全と結び、次郎の弟、幸千代を立てて反抗して行った。以前、手を組んでいた勝元と宗全は幕府内の一大勢力だった畠山氏の勢力が弱まった事により、互いに敵対して行くようになって行った。勝元は宗全の勢力を弱めるため、赤松家を再興させ、やがては、赤松氏を宗全の領地となっている播磨の国に潜入させようとたくらんでいる。
幕府内の細川氏と畠山氏の争いが、教家と泰高の兄弟による争いとなり、今度は、細川氏と山名氏の争いが、次郎と幸千代の兄弟の争いとなって行った。常に、幕府内の勢力争いが加賀の国を巡って行なわれていたのであった。
父親も亡くなり、守護代の地位を奪われてから十年が経ち、ようやく、三河守は南加賀の守護代に返り咲く事ができ、本願寺を相手に戦う事となった。本願寺の内部事情を探るためと義弟をもう一度、富樫家の被官にするため、今、久し振りに源左衛門を訪ねているのだった。
山川三河守は安吉源左衛門の屋敷に着くと、広間の奥にある書院の一室に案内された。ここに来たのは二年半振りだった。屋敷は変わっていなかったが、庭の片隅に新しい建物が建ち、そこから念仏が聞こえ、百姓や河原者たちの往来が激しかった。そして、遠侍(トオザムライ)には人相の悪い浪人風の男たちがゴロゴロしていた。
二年半前、三河守は軽海の守護所にいた。源左衛門が本願寺の門徒になったと聞き、信じられず、慌ててやって来たのだった。源左衛門から理由を聞くと、「わしは、もう、武士がつくづく嫌になった。これからは本願寺の坊主となって、下々の者たちと共に念仏を唱えて生きて行く事にする」と言った。
坊主になったといっても髪を剃って出家したわけではなかった。いつもと同じ格好をしている。源左衛門は本願寺の事を詳しく説明して三河守に聞かせたが、三河守には信じられなかった。
「武士という者が信じられん」と源左衛門は言った。「わしら国人は生きて行くために、常に強い者に付いて行かなければならん。誰に何と言われようとも、生きて行くためには強い者に付かなければならんのじゃ。もし、負ければ先祖代々、守って来た、この土地を手放さなくてはならん。わしだけなら構わんが、わしには代々、仕えている家来が大勢おる。奴らを路頭に迷わすわけにはいかんのじゃ。どうして、この国は一つにまとまらんのじゃ。一つの国を北と南に分けて争いを続けるんじゃ。わしは一体、どっちに付いたらいいんじゃ」
当時、手取川の主流は現在よりも北を流れ、丁度、源左衛門の領地である安吉の地を南北に二つに分け、小川町の辺りから日本海に流れ出ていた。さらに、手取川の支流が何本も分かれて流れ、広い石ころだらけの河原が一面に続いている。石川郡の地名は、この手取川の河原から付けられたものだった。そして、この手取川の流れによって加賀の国は北と南の二つに分けられていた。源左衛門の領地は北加賀と南加賀にまたがっていたのだった。
「わしは初め、北加賀の刑部大輔殿(教家)の被官となった。しかし、おぬしと会い、寝返って富樫介殿(泰高)の被官となった。応仁の戦が始まると、また寝返って、幸千代殿の被官となった」
「どうして、寝返ったんじゃ」と、その時、三河守は聞いた。
「おぬしや親父殿が守護代だった頃はよかった。しかし、富樫介殿が隠居して、次郎殿が守護になってから守護代になった槻橋豊前守は、わしは好かん。奴は長坂九郎右衛門を突然、襲撃して殺しやがった。九郎右衛門は殺される前の日、わしに相談しに来たんじゃ。幸千代殿から以前の領地をそのまま与えるから寝返らないかと誘いが来たが、どうしたらいいだろうってな‥‥‥奴の領地は北加賀にある。たまたま、富樫介殿に付いていたため幕府の勝手な命によって北加賀には帰れなくなってしまった。幸千代殿から、そんな誘いを受ければ誰でも迷う。まして、次郎殿は京にいて加賀の国では圧倒的に幸千代殿の方が有利じゃ。迷うなと言う方が無理と言うものじゃ。しかし、九郎右衛門は富樫介殿に恩があると言って寝返りはせんとはっきり言ったのじゃ。ところが、豊前守の奴は九郎右衛門を殺しやがった‥‥‥はっきり言って、わしは軽海の守護所を攻め、豊前守を殺してやろうと思った。しかし、そんな事をしたら家来たちを見捨てる事となってしまうので、わしは諦めて、幸千代殿方に寝返ったんじゃ」
源左衛門の言った長坂九郎右衛門というのは、お雪の父親の事だった。
源左衛門が幸千代方に寝返った後、富樫次郎は加賀に入部して来て、幸千代方を南加賀から追い出した。その時、三河守も加賀に入国して来て、久し振りに源左衛門を訪ねて来た。三年半前の事だった。その時、源左衛門は幸千代に寝返った事は口に出さなかった。ただ、懐かしく昔話をしただけだった。
「どうして、本願寺の門徒になったんじゃ」と三河守は聞いた。
「武士が嫌になったからじゃ」と源左衛門は言った。
「もう、わしは北に機嫌を取ったり、南に機嫌を取ったりするのが嫌になったのじゃ。わしは、この手取川の流域に北加賀でも南加賀でもない、浄土を築く事に決めたんじゃ」
二年半前、三河守は源左衛門から本願寺の教えを色々と聞かされて、その日は別れた。日を改めて源左衛門を説得しに来ようと思ったが、また、幸千代に攻撃され、山之内庄に逃げ込み、さらに、越前の一乗谷まで逃げる事となり、今日まで訪ねて来る事ができなかったのだった。
庭に面した書院の一室で待っていた三河守のもとに、まず、現れたのは妹のお駒だった。一見したところ、どうやら幸せそうにやっているようなので三河守は安心した。
「兄上様、お久しゅうございます」とお駒は頭を下げた。
「やあ、久しいのう。達者なようじゃの」
「新年、おめでとうございます」とお駒はもう一度、頭を下げた。
「おお、そうじゃ。おめでとう。御亭主殿は相変わらずか」
「はい、お陰様で‥‥‥今、主人は門徒さんたちと念仏を上げておりますので、もう少し、お待ち下さい」
「念仏か‥‥‥」
「はい。主人は本願寺の門徒になってからというもの、何となく、人が変わったような気がします」
「人が変わった?」
「はい。なぜか、以前のように怒りっぽくなくなりました」
「ほう、穏やかになったと申すか」
「はい。武士だった頃は色々と気を使っていたようですが、武士をやめてからは、小さな事に一々、こだわらなくなりました」
「武士をやめた?」
「はい」
「武士をやめて、今は何なんじゃ」
「今は、本願寺の道場のお坊様です」
「お坊様か‥‥‥わしには今でも信じられんわ」
三河守は妹としばらく、妹の子供の事などを話していた。
源左衛門が現れたのは、四半時(シハントキ、三十分)程、経ってからだった。
源左衛門の格好は妹の言う通り、武士の格好ではなかった。かといって坊主でもない。それは河原者の格好だった。毛皮の袖無しを着て革袴(カワバカマ)をはいていた。無精髭も伸ばしっ放しで、見るからに河原者の親玉という感じだった。
お駒は源左衛門が来ると下がって行った。
三河守と源左衛門はお互いに挨拶を済ますと、ただ向かいあって坐ったまま、お互いを見ていた。
しばらく、沈黙が続いた。
三河守と源左衛門は同い年だった。二人共、すでに四十六歳になっていた。人から、とやかく言われたからといって、生き方を変えられるような年ではなかった。初めて会った二十代の時とは二人とも考えが変わっていた。三河守は目の前の源左衛門を見て、富樫次郎の被官になってもらう事は諦めていた。
「今回、ここに来たのは本願寺の門徒としてのおぬしに会いに来たのじゃ」と三河守は言った。
「さようでござるか」と源左衛門は伸びた髭を撫でながら言った。
「今回、わしは南加賀の守護代となり、軽海に入る事となった」
「なに、おぬしが守護代に」
「そうじゃ。ようやく、復帰できたというわけじゃ」
「槻橋豊前守はどうした」
「隠居した。隠居して、伜の近江守が北加賀の守護代となった」
「伜か‥‥‥伜が北加賀の守護代か‥‥‥」
「ああ、そうじゃ‥‥‥わしはのう、何とか本願寺とうまくやって行きたいと思っておるんじゃ」
「槻橋近江守は、そうは思っておらんじゃろう」
「ああ。確かに奴は主戦派じゃ。しかし、今は争い事をしておる時ではない。加賀の国は何年もの間、戦いに明け暮れ、皆、疲れ切っておる。今は争う時期ではなく、守護と本願寺が協力して、この国を建て直さなければならん時期じゃ、とわしは思う。この国は幕府との結び付きが強すぎる。いつも、幕府内での勢力争いが、この地で行なわれておる。それは、いつも、この国に隙があるからじゃ。この先、守護と本願寺が争いを始めたら、また幕府は介入して来るじゃろう。幕府が介入して来れば、いくら、わしらが戦をやめようと思ってもやめる事はできん。言ってみれば、次郎殿も幸千代殿も右京大夫殿(細川勝元)と宗全入道殿(山名)の勢力争いに利用されただけじゃと言える。二人共、戦の原因を作っておきながら、すでに、この世におらん。未だに東軍だの西軍だのと言っておるが、二人の亡霊に踊らされておるようなものじゃ」
「おぬしが軽海に入ったのなら、うまく行くかも知れんのう」と源左衛門は言った。
「蓮如殿のお考えは、どうなんじゃ」と三河守は聞いた。
「上人様は、守護の命には服せ、とおっしゃる」
「やはり、そうか」
「ただ、百姓たちは以前とは違う。頭ごなしに命じれば、多分、反抗して来るじゃろう。この間の戦で門徒たちは力を合わせれば何でもできるという事を自覚しておる。そんな事は二度とないとは思うが、もし、上人様が守護を倒せと命じれば、幸千代殿のように次郎殿も門徒たちに敗れる事となろう」
「分かっておる。その事を皆、恐れておるんじゃ」
「武力を持って百姓たちを押えようとするな。必ず、仕返しを食う事となるぞ」
「おぬし、威しておるのか」
「いや。まあ、おぬしの守護代振りを拝見させてもらうわ」
「協力はしてくれんのか」
「まず、おぬしのやり方を見てからじゃ」
「ふん。相変わらずじゃのう」
「まあ、堅い事はこれ位にして、久し振りじゃ。今日はゆっくりして行ってくれ。今日は、守護代としてではなく兄上として歓迎する。お駒の奴も積もる話がある事じゃろうからのう」
源左衛門はそう言うと、三河守を居間の方に案内した。
「ああ。相変わらずじゃ」
「高田派門徒も消え、富樫幸千代もどこかに逃げてしまい。ようやく、加賀の国も安泰じゃのう」
「だといいんじゃがな。そうも行かんらしい」
「何か、問題でもあるのか」
「ああ。風眼坊、酒はないのか」
「あるが、やるか」
「いや、ちょっと喉が渇いたのでな。一杯、くれんか」
風眼坊は部屋にあった酒をお椀に注いで慶覚坊に渡した。
慶覚坊は一息に飲み干した。
「うまいのう。よく冷えておって喉に染みわたるわ」
「確かにのう。ところで問題というのは何じゃ」
「ああ、戦に勝った門徒たちがのう、守護を侮っておるんじゃよ」
「富樫次郎をか」
「ああ。本願寺のお陰で守護になれたくせに威張るな、という風にな」
「まあ、確かにそうじゃのう。次郎は戦らしい戦はせんかったからのう。しかし、守護を敵に回しても勝ち目はないぞ。第一、この前のような大義名分がない。蓮如殿が絶対に許さんじゃろう」
「その通りじゃ。上人様は口が裂けても、守護を倒せとは言わん。上人様が命じなければ、この前のように門徒たちは一つにはまとまらん」
「次郎の方は本願寺とやる気なのか」
「分からん。次郎は戦の前に、加賀の本願寺門徒を保護すると約束した。しかし、幸千代が大勢の門徒らに攻め滅ぼされたのを目の当りに見ておる。このまま、門徒たちを放っておいては、今度は自分の身が危ないと思うのは当然の事じゃろう。今、蓮崇殿が湯涌谷の者を使って野々市に探りを入れておるが、多分、次郎は約束など破る事じゃろう」
「蓮崇殿はもう動き出しておるのか‥‥‥」
「ああ、本人は御山で客の接待をしておるが、裏では、ちゃんと敵の動きを探っておる」
「やるもんじゃのう。もし、次郎が本願寺を攻めて来たらどうするつもりなんじゃ」
慶覚坊は首を振った。「どうしようもない。上人様が命じない限り、反撃する事はできん。しかし、門徒たちも、ただ、やられておるだけでは済むまい。特に、国人門徒たちは上人様が争い事を禁じても、やらないわけには行かんじゃろう。今度、また戦が始まってしまえば、もう、上人様の力でもどうする事もできなくなるじゃろう」
「そうなったら、どうなるんじゃ。蓮如殿は国人門徒たちを破門にするのか」
「それもできまい。この前の戦で活躍したのは奴らじゃ。奴らのお陰で戦に勝てたという事は誰もが知っておる。それなのに、上人様が奴らを破門にしてしまえば、他の門徒たちにも影響する。その事は上人様が一番よく知っておる。破門という事はありえんじゃろう」
「うーむ、難しいのう」
「野々市の側に善福寺があるんじゃが、そこの住職の順慶(ジュンキョウ)殿は、この間の戦で活躍した定善坊(ジョウゼンボウ)殿の兄上なんじゃよ。定善坊殿は蓮台寺城攻めの時に、少人数を率いて搦手(カラメテ)から攻めて討ち死にしたんじゃ。あの時の戦の功労者といえる男じゃ。すでに、門徒たちの間では英雄に祭り上げられておる。その兄上が野々市の一番近くにおるというのは危険じゃ。また、戦が始まるとすれば、多分、善福寺が中心になるに違いない」
「善福寺の順慶殿か‥‥‥」
「まあ、正月そうそう戦の話はやめておこう。ところで、おぬし、これからどうするつもりなんじゃ」
「そうじゃのう、どうするかのう。実は播磨に行こうと思っておったんじゃがのう」
「播磨? 播磨に何かあるのか」
「ああ、わしの伜が今、播磨におるんじゃ」
「おぬし、播磨にも女を作ったのか」
「違う、播磨におるのは伜だけじゃ」
「ほう、伜だけか。おぬしに、そんな大きな伜がおったのか」
「おお、今年、二十歳になったはずじゃ」
「なに、二十歳か。わしの伜より大きいのう。おぬし、いつの間に、そんな伜を仕込んでおったんじゃ。わしの知っておる女子(オナゴ)か」
「いや、おぬしの知らん女じゃ。熊野の山の中の女でな。わしが飯道山に行く前から、知っておった女子じゃ」
「ほう、そんな女子がおったとはのう。全然、気が付かなかったわ。しかし、熊野で生まれた伜が、どうして播磨なんぞにおる」
「わしが知らんうちに伜にも色々あったらしくてな。二年前、わしは伜を飯道山に送ったんじゃ。この間、甲賀に行った時、久し振りに伜の顔でも見るかと思って飯道山に登ったら、すでにおらんかったというわけじゃ」
「ほう。飯道山に入れたのか。どうじゃ、今の飯道山は相変わらず盛んなのか」
「盛んなんてもんじゃない。毎年、溢れる程の修行者が山に登って来る。わしらがいた頃は来る者は誰でも教えておったが、今では多すぎて、正月の十四日の受付に間に合わなければ入る事はできんのじゃ」
「受付なんてあるのか」
「ああ、それも毎年、五百人近くも集まってのう」
「なに、五百人!」慶覚坊は目を丸くして驚いた。
「ああ、その五百人を一ケ月間の山歩きによって百人位に振り落として、一年間、教えておるんじゃ」
「そうか、そんなにも集まるのか‥‥‥受付は正月の十四日と言ったか」
「ああ、そうじゃ。最近は甲賀や伊賀だけでなく、遠くからも修行者が集まるらしい」
「そうか‥‥‥今、誰か、わしらの知っておる奴がおるのか、あの山に」
「高林坊が総師範をやっておるわ」
「高林坊が? 奴はまだおったのか」
「いや、一度は山を下りて葛城山に帰っておったらしいが、親爺に呼ばれて戻ったらしい」
「親爺か‥‥‥懐かしいのう。親爺はまだ達者か」
「ああ、相変わらず口だけは達者じゃ。年じゃからのう、体の方は昔のようには動かんらしいがの」
「そうか、懐かしいのう‥‥‥わしも伜を飯道山に送るかのう」
「十郎か、うむ、奴はなかなか素質があるから、飯道山で一年、修行すれば見違えるように強くなるかもしれんのう。修行に出せ。まだ、間に合うぞ」
「そうじゃのう。一年間、修行させてみるか」
「そうせい。どうやら、加賀はまだまだ荒れそうだしの。強いに越した事はないわ」
「ところで、おぬしの伜の方は播磨で何をしておるんじゃ」
「それが、よく分からんのじゃ。赤松家を知っておるか」
「ああ、赤松家といえば、応仁の戦が始まる前は北加賀の守護じゃ」
「おお、そうじゃったの。その赤松家の武将になったというんじゃ」
「おぬしの伜がか」
「ああ。話せば長くなるんじゃがの、武士になった事は確からしい。それで、伜の武者振りを見に行こうと思っておったんじゃがのう。もう少しここにいて、様子を見る事にしようかのう。また、戦でも始まれば蓮如殿を守らなけりゃならんからのう」
「そうか。播磨に行くのもいいが、いっその事、医者として、ここに落ち着いたらどうじゃ。この地も住んでしまえば都じゃぞ」
「ああ、分かっておる。話は変わるが、おぬし、伊勢新九郎を覚えておるか」
「ああ、おぬしと同郷の奴じゃろう。覚えておるわ。わしは奴と弓矢の賭けをして、好きな女子を諦めたんじゃ」
「おお、そんな事もあったのう。そう言えば、おぬしと新九郎は、なぜか、女子の好みが似ておったのう。年中、女子の事で喧嘩しておったのう」
「そうじゃ。憎らしい事に弓術と馬術だけは、どうしても奴には勝てなかったわ」
「ああ。奴の弓術と馬術は天下一品じゃ。ガキの頃からうまかったからの」
「奴は今、何をやっておるんじゃ」
風眼坊は慶覚坊の頭を見て、急に笑いだした。
「どうしたんじゃ」
「いや、なに、新九郎の奴もおぬしのように頭を丸めた事を思い出してな。女子だけじゃなく、やる事も似ておると思ってのう」
「ほう、奴も坊主になったのか」
「坊主といっても、奴は本願寺とは関係ないがの。武士が嫌になったらしい。奴の妹というのが駿河の今川に嫁に行ってな、奴も駿河に下向したらしい。駿河の地で何をやっておるのか知らんが気楽に暮らしておるらしい。わしは一度、行こうと思っておる」
「駿河か‥‥‥新九郎は駿河におるのか」
「ああ」
「そうか、懐かしいのう。飯道山か‥‥‥あの頃は、みんな、若かったのう。わしは伜を飯道山に送る事に決めたわ‥‥‥それじゃあ、わしは帰るわ」
「もう帰るのか」
「ああ。今回はただ、上人様に新年の挨拶をしに来ただけじゃ。山田の方も何かと忙しいのでな。おぬしも、また遊びに来いよ。おぬしの荷物、まだ、あそこにあるがどうする」
「荷物か‥‥‥当分、山伏に戻れそうもないからのう。もう少し預かっておいてくれ」
「ああ。分かった」
慶覚坊は帰って行った。
2
加賀の守護職、富樫次郎政親の本拠地、野々市(ノノイチ)の守護所にも雪は降っていた。
正月そうそう広間の一室では、次郎の重臣たちが顔を突き合わせて評定(ヒョウジョウ)を重ねていた。去年の十月、宿敵、幸千代を蓮台寺城に倒し、正式に加賀の国の守護職(シュゴシキ)に就いた次郎だったが、守護として、この国をまとめて行くのは難しい事だった。
加賀の国には幕府の直轄地である御領所や、幕府奉公衆の領地、京や奈良の大寺院の荘園、公家の荘園などがあちこちに散らばっていた。応仁の乱が始まって以来、西軍の幸千代に占領されていたため、それらの荘園の年貢は本所(ホンジョ、領主)のもとには、ほとんど届かなかった。次郎が幸千代を追い出して守護職に就いた途端、野々市の守護所には本所からの使いの者が年貢を送らせるようにしてくれ、と殺到して来た。次郎としては彼らの願いをかなえてやりたいのは山々だったが、実行する事は不可能に近かった。
荘園の代官となっている国人たちの多くは本願寺の門徒となっていた。門徒たちは守護の言う事など聴く耳を持たなかった。去年の一揆に見事な勝利を納めたため、門徒たちは力を合わせればどんな事でもできる、という事を身を持って知った。門徒たちから見れば、次郎など門徒たちのお陰で守護になったに過ぎない。守護にしてやったのだから、おとなしくしていろ、さもないと、幸千代のようにこの国から追い出してやるぞ、と言葉に出してまでは言わないが、守護の命に従うような事はなかった。
せっかく加賀一国の守護となった次郎だったが、守護としての使命は果せず、面目は丸潰れだった。いくら、次郎が戦の前に、蓮如と本願寺の事を保護すると約束したとしても、このまま、本願寺の門徒を放っておくわけには行かなかった。このまま好き勝手な事をさせておいたら、まさに、幸千代の二の舞いに成りかねない。本願寺門徒の組織が、今以上に強化されないうちに潰しておかなければならなかった。
「吉崎に攻め込むか」と槻橋(ツキハシ)近江守が言った。
「いや、それはまずい」と山川(ヤマゴウ)三河守が反対した。「吉崎を襲えば、門徒たちは一丸となって、ここに攻め込んで来るじゃろう。今、あれだけの大軍を相手にする程の力は、わしらにはない」
「しかし、一気に吉崎を攻めて、蓮如を殺してしまえばいい。そうすれば、門徒たちも一つにまとまる事はあるまい」
「いや、それは違う。本願寺は武士と違って、お屋形を倒せば勝てるというものではない。門徒たちの中でも国人たちは本気で門徒となっているわけではない。本願寺の組織を利用して、己の領土を拡大しようとたくらんでおるんじゃ。もし、わしらが吉崎を襲撃して、蓮如を殺せば、国人門徒たちは蓮如の弔い合戦と称して、堂々と、ここに攻め寄せて来るじゃろう。敵に大義名分を与えるようなものじゃ」
「しかし‥‥‥」
「三河守殿の言う事は最もな事じゃ」と槻橋豊前守(ブゼンノカミ)が言った。「確かに、あれだけの大軍に囲まれたら幸千代殿の二の舞いじゃ」
槻橋豊前守は近江守の父親であった。幼少の次郎を助け、応仁の乱の時は守護代として国元を守っていた。今は守護代の地位を息子の近江守に譲り、一応は隠居の形を取ってはいるが、のんびり隠居などしている時勢ではないので、次郎の側に仕えていた。
山川三河守は槻橋近江守の北加賀守護代に対して、南加賀の守護代だった。元々は、次郎の大叔父の富樫五郎泰高の守護代だったが、五郎が富樫家を一つにまとめるために次郎に家督を譲ったので、次郎に仕え、幸千代を追い出した後、改めて南加賀の守護代となっていた。
「三河守殿、そなたの考えはいかがじゃ」と槻橋豊前守が聞いた。
「はい。わしが思うには門徒たちを一つにまとめてはいかんと思っております。ばらばらにしておいたまま、一つづつ倒して行くのです」
「うむ、一つづつか‥‥‥」
「蓮如は幕府には逆らいません。その証拠に、前回の戦の時、松岡寺が高田派門徒に襲われ、自分の息子が危ないというのに動きませんでした。門徒たちが高田派と戦う事を許しませんでした。お屋形様(次郎)が頼みに行っても無駄でした。ところが、幕府の奉書が届いた途端に、手の平を返すように門徒たちに戦を命じました。蓮如は幕府の言う事には、絶対に逆らわないでしょう」
「うむ。それで」
「幕府を利用して、本願寺の門徒たちを倒して行くのです。まず、幕府の命において、年貢を無事に本所に送らなければ、実力行使に出るという触れを出し、従わない者たちを片っ端から倒して行くのです。蓮如は幕府の命とあれば逆らう事はないでしょう。わしらが国人門徒たちを攻めたとしても、門徒たちに年貢を払えとは言うでしょうが、わしらと戦えとは絶対に言わんでしょう」
「成程、三河守の言うのは最もな事じゃ。確かに、蓮如は幕府には逆らうまい」
「その手で、有力な門徒たちを倒して行くのです。国人門徒たちがいなくなれば、後は人数が多かろうと烏合(ウゴウ)の衆に違いありません。力で押える事もできるでしょう。ただ、本願寺の軍師とも言える下間蓮崇(シモツマレンソウ)は何とかしなければなりません」
「蓮崇か‥‥‥奴は曲者じゃ」と本折越前守が言った。
「蓮崇というのは越前の一乗谷にいた頃、よく来ていたあの坊主か」と豊前守が聞いた。
「そうです」と三河守は頷いた。
「あの坊主が曲者のようには見えんがのう」
「なかなかの男です。蓮崇は今、吉崎において一番の力を持っております。蓮如にも信頼され、なかなか羽振りもいいようです。それに、この前の蓮台寺城総攻撃の作戦を練ったのが、あの蓮崇です」
「なに、あの奇抜な松明(タイマツ)作戦をか」
「はい」
「うーむ。あれを奴がのう」
「あの戦の最中、大量な武器の調達もしております。敵にしておくのは勿体ない程の男です」
「生かしておくわけには行かんのう」と本折越前守は言った。
「できれば、寝返らせたい男じゃがのう」と三河守は言う。
「甘いわ。奴は根っからの本願寺門徒じゃ。寝返る事などあるまい」
「いや、ところが、以外にも、奴は武士というものに憧れているところがあるらしい」
「なに?」
「奴が朝倉殿の猶子(ユウシ)となっておるのは皆、存じておろうが、それだけではない。奴の本拠地は湯涌谷にあるんじゃが、湯涌谷にある奴の屋敷は、本願寺の道場というより武家屋敷そのものじゃ。本願寺には、蓮如が坊主も門徒も皆、同朋(ドウボウ)じゃと教えているため、他の宗派のように坊主たちに位はない。蓮崇は蓮如の執事という立場にあるが、他の坊主たちよりも偉いというわけではない。当然、本願寺の寺にしろ、道場にしろ、上段の間というものはない。たとえ、蓮如上人であろうとも門徒たちと同じ高さの床に坐り説教をする。ところが、湯涌谷の蓮崇の屋敷には上段の間があるんじゃ。奴はきっと、湯涌谷では蓮如の教えに背き、上段の間から門徒たちを説教しているに違いない。蓮崇は蓮如に忠実でいながら、心の中では自分が偉いというところを人に見せたいに違いない。うまくやれば、奴は寝返るかもしれん、とわしは思う」
「何か、策はあるのか」と豊前守は聞いた。
「奴を罠(ワナ)にかけて、本願寺から破門させようと思っております」
「破門か‥‥‥そう、うまく行くかのう」
「うまく行かなければ消すまでです。蓮崇一人位消す事など、いつでもできます」
「そうじゃのう。まあ、蓮崇の事はそなたに任せるとして、本願寺の有力門徒というのは、調べがついたのか」
「はい」と近江守が返事をして、河北(カホク)郡と石川郡の本願寺有力門徒の名前を挙げた。その後、三河守が、能美(ノミ)郡と江沼郡の有力門徒を挙げた。
河北郡の有力門徒は、二俣本泉寺、鳥越弘願寺(グガンジ)、英田(アガタ)広済寺、木越(キゴシ)光徳寺、磯部聖安寺の五ケ寺。河北郡の門徒のほとんどをこの五ケ寺が押さえ、河北郡には、これといって目立つ国人門徒はいなかった。その中の木越光徳寺乗誓(ジョウセイ)の妻は槻橋近江守の姉だった。近江守の父、豊前守は当時から、一勢力を持っていた光徳寺を味方に付けようと娘を嫁に出したわけだったが、まさか、こんな形で敵対する事になろうとは思ってもいなかった。
石川郡の有力門徒は、宮腰迎西寺(ミヤノコシギョウサイジ)、吉藤(ヨシフジ)専光寺、大桑善福寺、松任(マットウ)本誓寺の四ケ寺と、国人門徒として手取川流域の安吉(ヤスヨシ)源左衛門、湯涌谷(ユワクダニ)の石黒孫左衛門、木目谷(キメダニ)の高橋新左衛門の三人が力を持っていた。
特に、安吉源左衛門は手取川流域に広い土地を持ち、また、手取川で運送業を営む河原者たちまで支配下に置き、かなりの勢力を持っていた。そして、その源左衛門は山川三河守の妹の婿でもあった。元々、源左衛門は北加賀の守護となった富樫次郎成春(シゲハル)の被官だった。ところが、成春は長禄二年(一四五八年)に守護職を解任された。源左衛門は成春と行動を共にしなかった。源左衛門はたちまち南加賀の守護、富樫五郎泰高に鞍替えし、成春に代わって守護となった赤松氏に協力した。
源左衛門の支配する土地が手取川を挟んで両側にあるため、北加賀でも南加賀でも、自分の都合のいい方を選んだのだった。その頃、源左衛門は五郎泰高の守護代だった山川近江守の妹を嫁に貰った。近江守としては、手取川を押える源左衛門をしっかりと味方につなぎ止めて置きたかったのだった。その後、次郎政親と幸千代が争い始めた時には、また寝返って幸千代方となった。幸千代方にいたといっても自分が不利になる戦はしなかった。加賀の国の混乱をいい事に、着実に自分の勢力を広げて行った。そして、蓮如が吉崎に来て本願寺が栄えると、迷う事なく門徒となって、益々、勢力を広げたのであった。
次に能美郡の有力門徒は、波佐谷(ハサダニ)松岡寺、波倉(ナミクラ)本蓮寺、鵜川(ウカワ)浄徳寺、大杉円光寺の四ケ寺と、国人門徒として、板津(小松市)の蛭川(ヒルカワ)新七郎、山上(辰口町)の中川三郎左衛門、大杉谷川の宇津呂備前守。
江沼郡では、山田光教寺門徒の洲崎(スノザキ)藤右衛門(慶覚坊)、弓波(イナミ)勝光寺門徒の庄(ショウ)四郎五郎、河崎専称寺門徒の黒瀬藤兵衛、黒崎称名寺門徒の黒崎源五郎、荻生(オギウ)願成寺(ガンショウジ)門徒の熊坂願生坊、柴山潟の舟乗りたちを率いる柴山八郎左衛門。
それに、越前の藤島超勝寺と和田本覚寺が加わり、以上が本願寺の有力門徒といえた。
「とりあえず、雪が溶けるまではどうにもならん。今の内に本願寺方の出方をよく調べる事じゃな。本願寺の門徒すべてが、わしらに敵対しているわけではあるまい。どうしても倒さなければならん奴だけ倒せばいい。無益な争いは避けるべきじゃ」
槻橋豊前守がそう言うと、評定はお開きとなった。それぞれ、自分の守る城へと帰って行った。
3
守護所の隣に建つ屋敷の奥の間では、富樫家の当主、次郎政親が女を抱きながら、つまらなそうに酒を飲んでいた。
ここ、野々市の守護所は代々、富樫家の本拠地だった。しかし、当主が常にここにいたわけではない。当主は京の将軍の側にいる事が多く、この守護所には守護代が入って国元の事を取り仕切っていた。
次郎は京の屋敷で生まれた。父、成春は北加賀の守護職に就いていた。しかし、次郎が四歳になった時、父親は荘園を横領した罪によって守護職を解任された。翌年、弟の幸千代が生まれた。次郎は幸千代と共に京の富樫屋敷において成長した。
父親、成春は守護職を解任されたが、細川勝元と対抗していた山名宗全と手を結んで加賀の国に赴き、新たに北加賀の守護職に就いた赤松氏が北加賀に入部するのを妨害していた。成春は北加賀の国人衆を率いて抵抗を重ねたが、結局は越中の国に追いやられ、亡命中に亡くなってしまった。まだ、三十歳の若さで、当時、次郎は八歳だった。
成春が亡くなった事により、宗全は成春の嫡男、次郎を担ぎあげて赤松氏に対抗した。ところが、二年後、勝元は南加賀の守護、五郎泰高を隠居させ、次郎をその跡継ぎにしてしまった。勝元としては、分裂したままの富樫家を一つにまとめ、加賀の国を南北共に自らの勢力範囲としたかったのだった。富樫家も一本にまとまり、加賀の国も安定したかのように見えたが、宗全は簡単に引き下がらず、次郎の弟、幸千代を北加賀に送り込み、また富樫家を分裂させてしまった。そして、応仁の乱となり、赤松氏が播磨に戻って北加賀から消えると、幸千代は北加賀を占領し、勢いに乗って南加賀までも侵入して来た。
当時、次郎は東軍の将として京にいて西軍と戦っていた。国元の危機を知っても、近江の六角氏、越前の斯波氏が西軍に就いているため、加賀に入るのは難しかった。
文明三年(一四七一年)になって越前の朝倉氏が東軍に寝返ったため、次郎はようやく、加賀に入部した。次郎、十七歳の夏、生まれて初めて領国の加賀に入ったのだった。しかし、すんなりと入れたわけではなかった。すでに、南加賀の中心地、軽海(カルミ)の守護所は幸千代軍に占領され、次郎の守護代、槻橋豊前守は白山山麓の山之内庄に立て籠もっていた。次郎は守護代の豊前守と共に軽海を攻めて幸千代を追い出し、何とか、守護所に入る事はできた。
京の屋敷は戦によって焼け落ち、ようやく、守護所内の屋敷に落ち着く事ができた次郎だったが、僅か、一年余りの滞在で、幸千代に攻められ、その屋敷から追い出されて、山之内庄の別宮(ベツグウ)城に立て籠もる事となった。そして、山の中の暮らしにも何とか慣れて来たと思ったら、また、幸千代に攻められて、今度は朝倉の本拠地である越前一乗谷に落ち着いた。
一乗谷では新しい屋敷まで作ってもらい、戦の事も忘れ、毎日、楽しく暮らしていた。次郎としては、もう加賀なんかに戻らずに、ずっと、ここで暮らしたいと思っていたのに、やはり、ここも一年程、滞在しただけで、今度は北加賀の野々市の守護所へと移動して来た。野々市は富樫氏の本拠地には違いなかったが、次郎には馴染めなかった。どうせ、この地にも一年程いたら、また、どこかに行く事になるのだろうと次郎は思っていた。
次郎は薄暗い奥の間で、火鉢(ヒバチ)を抱くようにして、左右に美女二人をはべらして酒を飲んでいた。二人の美女はつまらなそうにしている次郎の機嫌を取ろうとニコニコしながら、次郎の巨体にもたれていた。
守護所内に建てられた、この屋敷はやたらと広いが造りは古く、住み心地はよくなかった。まして、冬になって雪が降り始めると寒くて溜まらなかった。朝倉弾正左衛門尉が造ってくれた一乗谷の屋敷とは比べ物にならない程、お粗末な建物だった。せっかく、加賀の国の守護職に就いたのに、こんな屋敷に住んでいるのは情けなかった。国を一つにまとめるには、まず、国内の国人たちを『あっ!』と言わせる程、贅沢な屋敷を造らなければならないと思った。次郎は守護代の槻橋近江守に新屋敷を造るように命じたが、雪が溶けるまではどうにもならなかった。
この屋敷は、次郎が入るまでは幸千代の守護代、小杉但馬守が住んでいた。但馬守は本願寺門徒に攻められると、ろくに戦もしないで、兵をまとめて南加賀の蓮台寺城へと引き上げて行った。但馬守としては、この守護所において、せめて一月でも戦い続け、河北郡の門徒たちをこの場に引き付けておきたかった。しかし、肝心の兵糧米が底をついていた。
一昨年の状況では、ここが戦場になる可能性は極めて薄かった。次郎は越前にいるし、戦場となるのは南加賀だった。そこで、余分な兵糧米はすべて蓮台寺城に送ってあった。ところが、本願寺が戦に参加すると北加賀も戦場と化し、本願寺門徒たちに攻められ、寺院を焼かれた高田派門徒や幸千代方の郷士たちが皆、この守護所に逃げ込んで来た。蔵にあった兵糧米は、あっという間に減って行き、本願寺門徒がここを攻めて来た時には、ほとんど空になっていた。但馬守は仕方なく、守護所を捨てて蓮台寺城へと向かった。
逃げるに当たって守護所に火を掛けなかったのは、蓮台寺城において戦に勝利し、また戻って来る事を確信していたからだった。ところが、但馬守は蓮台寺城から逃げ出す事はできたが発見されて切腹、二度とこの地の土は踏めなかった。但馬守が無傷のまま守護所を残してくれたお陰で、次郎はかつて、父親の成春も来た事のある、ここに入る事ができた。それでも、次郎は不満だった。
不満は屋敷の事だけではなかった。京の都のように賑やかな一乗谷に一年近くもいたので、ここ、野々市での暮らしはまったく面白くなかった。一応、野々市も加賀の中心といえる都だったが、何もかもが一乗谷より遅れていた。まず、娯楽というものが少なかった。一乗谷のように公家もいないし、一流の芸人もいない。絵を描きたくても絵師はいないし、剣術を習いたくても兵法者(ヒョウホウモノ)はいない。曲舞(クセマイ)を見たくても芸能一座はいないし、鷹狩りをしたくても鷹はいない。お茶会をしたくてもお茶はないし、連歌会をしたくても連歌師もいない。ない物だらけだった。
そのない物だらけの中、お雪がいないのが一番辛い事だった。お雪さえいれば他の物などなくても我慢する事はできた。現に山之内庄のような山の中で一年間もやって行けたのは側にお雪がいたからだった。そのお雪はどこに行ったのか、急に消えてしまった。
次郎がお雪と初めて会ったのは軽海の守護所にいた時だった。
桜が満開に咲き誇る頃、笛の音に誘われて、次郎は八幡神社の境内に入った。お雪は桜の花の下で笛を吹いていた。一目見た途端、次郎はお雪の虜になった。しかし、その日は声を掛ける事もなく、ただ、お雪が笛を吹いているのを遠くから眺めているだけだった。次の日、次郎はまた、お雪が八幡神社に来て笛を吹く事を期待して行ってみたが、お雪は現れなかった。次の日も、次の日も、お雪は現れない。次郎は初めて、お雪を見た時、一緒にいた供の者にお雪を捜させた。町中を捜させたがお雪の姿は見つからなかった。
もしかしたら、あれは幻だったのかと諦めかけていた頃、再び、あの時の笛の音を耳にした。笛の音はまた、八幡神社の方から聞こえて来た。次郎は飛ぶような速さで神社に駈けつけた。側まで行き、お雪の笛を聞き、そして、声を掛けた。
それから、一月後、お雪は次郎の屋敷に入って側室となった。
次郎は、お雪のために新しい屋敷を建てようとしたが、その屋敷が完成しないうちに幸千代に攻められ、山之内庄へと逃げた。山之内庄で一年近く、お雪と共に過ごし、一乗谷でも一年近く、共に過ごした。
次郎の回りには正妻を初め、常に何人もの女がいたが、お雪は他の女とはまったく違っていた。口数が少なく、滅多に笑う事もない。自分に媚びる女たちの中で、決して媚びる事のないお雪の存在は異彩だった。
次郎は何に関しても飽きっぽく、女にしてもそうだった。新しい女にはすぐ夢中になって飛び付き、最初のうちは常に側に置くが、一月もしない内に、必ず、違う女に目が移る。お雪の場合も初めはそうだった。普通の女は大低、飽きた後は捨てられるだけだったが、お雪の場合は違った。笛が吹けるという事もあったが、ただの肉体としてだけの女ではなく、お雪は次郎のいい話相手としての存在が大きかった。
幼い頃より殿様として育てられているため、回りにいる連中は皆、自分に媚びる奴ばかりだった。そんな中で、お雪は絶対に次郎に媚びる事なく、思った事を率直に口に出した。初めの頃は生意気な女だと何度も腹を立てた次郎だったが、だんだんとお雪の存在はなくてはならないものとなって行った。
お雪は自分でも笛を吹いているため、芸事もよく理解し、次郎が舞いの稽古をしたり、絵を描いたりしても、ちゃんとした意見を言ってくれた。他の女たちは、ただ誉めるだけだったが、お雪は色々と批判してくれた。時にはきつい事を言って次郎を怒らせる事もあるが、後になって考えてみるとお雪の言う事は大低、正しかった。あんな女は滅多にいない。それなのに、突然、姿を隠してしまった。
次郎は平泉寺の山伏を使って捜させたが、どこに行ったのか、まったく分からなかった。お雪がいてくれれば、こんな所にいても楽しいのだが、他の女が何人いても面白くも何ともなかった。
次郎は酒盃(サカヅキ)の酒を飲み干すと右隣にいる女の前に差し出した。女は色っぽい仕草で酒を注いだ。
「つまらんのう」と次郎はこぼした。「何ぞ、面白い事はないのか」
「お殿様、双六(スゴロク)でもなさりますか」と左側の女が次郎の膝を撫でながら言った。
「つまらん」
「それでは‥‥‥」
「もう、いい。それより、お前らも飲め。飲んで酔え」
「ささ(酒)など、そんな、飲めません」
「いいから、飲め」
次郎は酒の入った酒盃を左側の女の口元に運んで、無理やり飲ませた。
「お殿様、そんな、ご無理な‥‥‥」と言いながらも女は酒を一息に飲み干した。
次郎は右側の女にも飲ませ、「そうじゃ、飲み比べじゃ。どっちが強いか、やってみろ」と言った。
「そんな事、お殿様、とても‥‥‥」
「嫌じゃと申すか」と次郎は二人の女を見比べた。
「いえ、決して、そのような‥‥‥」
「はい、お殿様の申すように‥‥‥」
お雪だったら絶対に断っただろうに、と思いながら次郎は二人を見ていた。
二人は交互に酒を飲み始めた。
「ただ、飲むだけじゃつまらん」と次郎はお膳の上に置いてある箸を一本取ると、それを立てて、「いいか、この箸が倒れた方の者が酒を飲め」と言った。
「そんな‥‥‥」
「嫌か」
二人の女は黙って、次郎の言うがままだった。
「酒を飲まん方もただ見ておるだけではつまらん。酒を飲まん方は一枚づつ、着物を脱いでいけ」
二人の女はまた、「そんな‥‥‥」と言ったが嫌とは言わなかった。
二人の女は寒い中、着物を一枚づつ脱ぎながら酒を飲んで行った。
次郎がわざと箸を傾けたりして、いかさまをしても、女たちは文句も言わず、次郎の思うままだった。次郎の思惑通りに二人の女は酔っ払い、着物をすべて剥がされた。酔わされ、素っ裸にされても、二人の女はなお、次郎に媚びていた。
「つまらん」と次郎は言うと二人の女に見向きもせずに部屋から出て行った。
外は静かに雪が降っていた。
4
雪の散らつく中、五騎の武士が野々市の城下から鶴来(ツルギ)街道を南に向かっていた。
山川(ヤマゴウ)三河守と供の者たちであった。軽海の守護所に帰るところだったが、途中、義弟の安吉源左衛門の屋敷に寄るつもりでいた。
三河守の山川家は代々、富樫家の守護代を勤める重臣だった。祖父の代より富樫次郎の大叔父である富樫五郎泰高の守護代だった。祖父の山川筑後守(チクゴノカミ)は泰高のために、泰高に敵対する兄の刑部大輔(ギョウブノタイフ)教家を支援していた時の管領(カンレイ)、畠山左衛門督(サエモンノカミ)持国を襲撃しようとして失敗し、切腹して果てた。その後、父の近江守が守護代を継ぎ、父が隠居した後、三河守が跡を継いで、泰高を助けて教家と戦って来た。ところが、泰高が隠居して教家の孫の次郎政親がその跡を継ぐと、三河守は守護代の地位を槻橋(ツキハシ)豊前守に奪われてしまった。三河守は次郎に仕える事となり、ついこの間、幸千代を追い出し、次郎がようやく加賀一国の守護職に就くと、再び、南加賀の守護代に復帰する事ができた。
富樫家が兄弟で家督を争うのは今に始まったわけではなかった。
加賀国内に幕府の御領所や、幕府に関係のある大寺院の荘園が数多くあるため、加賀の守護職の富樫家は常に幕府内の勢力争いに関係せざるを得ない立場にあった。初めて冨樫氏が加賀守護職に就いたのは、次郎政親より六代前の富樫介(トガシノスケ)高家だった。高家は足利尊氏のもとで活躍して、加賀の守護職を手に入れた。その後、三代続くが、三代目の富樫介昌家が亡くなると、守護職は富樫氏に継承されず、時の管領、斯波(シバ)治部大輔義将の弟、伊予守義種に与えられた。幕府内の細川氏と斯波氏の勢力争いの結果、細川右馬頭(ウマノカミ)頼之が敗れたため、富樫氏も失脚する事となった。斯波義将は越前、越中、能登、若狭の守護を兼ね、北陸の地をすべて自分の勢力範囲にするため、弟を加賀の守護に任命したのだった。
富樫氏が再び加賀の守護職を手に入れたのは、それから二十七年後の応永二十一年(一四一四年)だった。斯波伊予守義種が将軍義持の怒りに触れ失脚し、南半国の守護に富樫昌家の甥、富樫介満春が任命され、北半国の守護には富樫家の庶流の兵部大輔満成が任命された。
満成は将軍義持に近侍し、幕府内に勢力を広げて行ったが、四年後、調子に乗り過ぎて失脚し、北加賀の守護職も富樫介満春に与えられ、ようやく、加賀一国の守護となる事ができた。この時より、満春の北加賀の守護代として領国を支配していたのが三河守の祖父、山川筑後守であった。
満春亡き後は、嫡子の持春が十五歳で家督を継ぐが、持春は二十一歳の若さで亡くなってしまった。持春には嫡子がなかったため、当時、奉公衆として将軍義教に近侍していた一歳年下の弟、刑部大輔教家が跡を継ぐ事となった。それから、八年間は富樫家も無事に領国を治めていたが、嘉吉元年(一四四一年)、突然、教家は恐怖の将軍と恐れられていた義教の怒りに触れて、守護の座も剥奪され、蓄電してしまった。
富樫家の重臣たちは慌てて、時の管領、細川右京大夫持之と相談し、当時、出家していた教家の弟を還俗(ゲンゾク)させ、五郎泰高と名乗らせて跡を継がせた。ところが、六日後、将軍義教は赤松性具(ショウグ)入道(満祐)によって暗殺されてしまった。
管領細川持之は混乱した状況を静めるために、今まで、義教によって追放された数多くの者たちの復帰を許した。さっそく、蓄電していた教家は戻って来て、守護職返還を求めた。しかし、持之としても、教家の弟、泰高をわさわざ還俗させてまで守護に任命した手前、教家の願いをすぐに聞き入れるわけには行かなかった。そんな教家に力を貸したのが細川持之と対立する畠山持国だった。
畠山持国も義教に家督を奪われて追放されていた身だったが、上洛するとすぐに畠山家の家督を取り戻した。畠山家の支援を得た教家は実力を持って守護職を取り戻そうと、家臣の本折(モトオリ)但馬守を加賀に討ち入らせた。教家が畠山持国と結んだ事により、細川持之は泰高を応援し、加賀国内で家督相続の争いが始まった。
決着が着かないまま一年が過ぎ、細川持之が亡くなり、畠山持国が管領になると改めて、加賀守護職に教家の嫡男、次郎成春がわずか十歳で任命された。後ろ盾を失った泰高は敗れ、泰高の守護代だった山川筑後守は京に逃げ帰ると管領、畠山持国を襲撃する事を計画した。しかし、事は露見し、京の都で戦にまで発展するところだったが、山川筑後守他四名が切腹する事によって、ようやく騒ぎも治まった。
畠山持国に対抗するため、持之の嫡男、細川勝元は山名持豊(宗全)と手を結んで勢力を強め、文安二年(一四四五年)、管領となった。勝元は泰高を支持し、教家父子の追討を命じた。この時、泰高の守護代として活躍したのが三河守の父親、山川近江守であった。越前守護の斯波氏の力も借り、泰高は教家父子を越中に追い払った。しかし、教家も完敗したわけではなく、畠山持国の支援のもと、たびたび加賀入国を企てていた。
そして、文安四年(一四四七年)の和解案によって、北加賀の守護として富樫次郎成春、南加賀の守護として富樫五郎泰高というふうに決定した。成春の守護代として本折但馬守、泰高の守護代として山川近江守が国内をまとめるために、それぞれの守護所に入った。
当時、三河守は十八歳で、父と共に軽海の守護所に入り、父の補佐をしていた。
やがて、成春の後ろ盾となっていた畠山持国が亡くなり、畠山家が分裂し、幕府内での勢力が弱まると成春は守護職を剥奪され、代わりに細川勝元派の赤松政則に与えられた。
そして、勝元は富樫家を一本にまとめるため、泰高を隠居させ、成春の嫡男、当時、十歳だった次郎政親を家督とした。次郎が家督を継ぐ事によって、父親の跡を継いで守護代となっていた三河守は守護代の地位を奪われ、次郎に近侍していた槻橋豊前守が守護代となった。
三河守は家族を連れて京に赴き、次郎政親及び五郎泰高の近辺に仕える事となった。代々、守護代の地位を継いでいた山川家は、三河守の代で守護代の地位を奪われる事となってしまった。
ようやく、加賀の国は細川勝元の勢力範囲になったかに見えたが、赤松氏の入国を拒む北加賀の国人たちは勝元と敵対している山名宗全と結び、次郎の弟、幸千代を立てて反抗して行った。以前、手を組んでいた勝元と宗全は幕府内の一大勢力だった畠山氏の勢力が弱まった事により、互いに敵対して行くようになって行った。勝元は宗全の勢力を弱めるため、赤松家を再興させ、やがては、赤松氏を宗全の領地となっている播磨の国に潜入させようとたくらんでいる。
幕府内の細川氏と畠山氏の争いが、教家と泰高の兄弟による争いとなり、今度は、細川氏と山名氏の争いが、次郎と幸千代の兄弟の争いとなって行った。常に、幕府内の勢力争いが加賀の国を巡って行なわれていたのであった。
父親も亡くなり、守護代の地位を奪われてから十年が経ち、ようやく、三河守は南加賀の守護代に返り咲く事ができ、本願寺を相手に戦う事となった。本願寺の内部事情を探るためと義弟をもう一度、富樫家の被官にするため、今、久し振りに源左衛門を訪ねているのだった。
山川三河守は安吉源左衛門の屋敷に着くと、広間の奥にある書院の一室に案内された。ここに来たのは二年半振りだった。屋敷は変わっていなかったが、庭の片隅に新しい建物が建ち、そこから念仏が聞こえ、百姓や河原者たちの往来が激しかった。そして、遠侍(トオザムライ)には人相の悪い浪人風の男たちがゴロゴロしていた。
二年半前、三河守は軽海の守護所にいた。源左衛門が本願寺の門徒になったと聞き、信じられず、慌ててやって来たのだった。源左衛門から理由を聞くと、「わしは、もう、武士がつくづく嫌になった。これからは本願寺の坊主となって、下々の者たちと共に念仏を唱えて生きて行く事にする」と言った。
坊主になったといっても髪を剃って出家したわけではなかった。いつもと同じ格好をしている。源左衛門は本願寺の事を詳しく説明して三河守に聞かせたが、三河守には信じられなかった。
「武士という者が信じられん」と源左衛門は言った。「わしら国人は生きて行くために、常に強い者に付いて行かなければならん。誰に何と言われようとも、生きて行くためには強い者に付かなければならんのじゃ。もし、負ければ先祖代々、守って来た、この土地を手放さなくてはならん。わしだけなら構わんが、わしには代々、仕えている家来が大勢おる。奴らを路頭に迷わすわけにはいかんのじゃ。どうして、この国は一つにまとまらんのじゃ。一つの国を北と南に分けて争いを続けるんじゃ。わしは一体、どっちに付いたらいいんじゃ」
当時、手取川の主流は現在よりも北を流れ、丁度、源左衛門の領地である安吉の地を南北に二つに分け、小川町の辺りから日本海に流れ出ていた。さらに、手取川の支流が何本も分かれて流れ、広い石ころだらけの河原が一面に続いている。石川郡の地名は、この手取川の河原から付けられたものだった。そして、この手取川の流れによって加賀の国は北と南の二つに分けられていた。源左衛門の領地は北加賀と南加賀にまたがっていたのだった。
「わしは初め、北加賀の刑部大輔殿(教家)の被官となった。しかし、おぬしと会い、寝返って富樫介殿(泰高)の被官となった。応仁の戦が始まると、また寝返って、幸千代殿の被官となった」
「どうして、寝返ったんじゃ」と、その時、三河守は聞いた。
「おぬしや親父殿が守護代だった頃はよかった。しかし、富樫介殿が隠居して、次郎殿が守護になってから守護代になった槻橋豊前守は、わしは好かん。奴は長坂九郎右衛門を突然、襲撃して殺しやがった。九郎右衛門は殺される前の日、わしに相談しに来たんじゃ。幸千代殿から以前の領地をそのまま与えるから寝返らないかと誘いが来たが、どうしたらいいだろうってな‥‥‥奴の領地は北加賀にある。たまたま、富樫介殿に付いていたため幕府の勝手な命によって北加賀には帰れなくなってしまった。幸千代殿から、そんな誘いを受ければ誰でも迷う。まして、次郎殿は京にいて加賀の国では圧倒的に幸千代殿の方が有利じゃ。迷うなと言う方が無理と言うものじゃ。しかし、九郎右衛門は富樫介殿に恩があると言って寝返りはせんとはっきり言ったのじゃ。ところが、豊前守の奴は九郎右衛門を殺しやがった‥‥‥はっきり言って、わしは軽海の守護所を攻め、豊前守を殺してやろうと思った。しかし、そんな事をしたら家来たちを見捨てる事となってしまうので、わしは諦めて、幸千代殿方に寝返ったんじゃ」
源左衛門の言った長坂九郎右衛門というのは、お雪の父親の事だった。
源左衛門が幸千代方に寝返った後、富樫次郎は加賀に入部して来て、幸千代方を南加賀から追い出した。その時、三河守も加賀に入国して来て、久し振りに源左衛門を訪ねて来た。三年半前の事だった。その時、源左衛門は幸千代に寝返った事は口に出さなかった。ただ、懐かしく昔話をしただけだった。
「どうして、本願寺の門徒になったんじゃ」と三河守は聞いた。
「武士が嫌になったからじゃ」と源左衛門は言った。
「もう、わしは北に機嫌を取ったり、南に機嫌を取ったりするのが嫌になったのじゃ。わしは、この手取川の流域に北加賀でも南加賀でもない、浄土を築く事に決めたんじゃ」
二年半前、三河守は源左衛門から本願寺の教えを色々と聞かされて、その日は別れた。日を改めて源左衛門を説得しに来ようと思ったが、また、幸千代に攻撃され、山之内庄に逃げ込み、さらに、越前の一乗谷まで逃げる事となり、今日まで訪ねて来る事ができなかったのだった。
庭に面した書院の一室で待っていた三河守のもとに、まず、現れたのは妹のお駒だった。一見したところ、どうやら幸せそうにやっているようなので三河守は安心した。
「兄上様、お久しゅうございます」とお駒は頭を下げた。
「やあ、久しいのう。達者なようじゃの」
「新年、おめでとうございます」とお駒はもう一度、頭を下げた。
「おお、そうじゃ。おめでとう。御亭主殿は相変わらずか」
「はい、お陰様で‥‥‥今、主人は門徒さんたちと念仏を上げておりますので、もう少し、お待ち下さい」
「念仏か‥‥‥」
「はい。主人は本願寺の門徒になってからというもの、何となく、人が変わったような気がします」
「人が変わった?」
「はい。なぜか、以前のように怒りっぽくなくなりました」
「ほう、穏やかになったと申すか」
「はい。武士だった頃は色々と気を使っていたようですが、武士をやめてからは、小さな事に一々、こだわらなくなりました」
「武士をやめた?」
「はい」
「武士をやめて、今は何なんじゃ」
「今は、本願寺の道場のお坊様です」
「お坊様か‥‥‥わしには今でも信じられんわ」
三河守は妹としばらく、妹の子供の事などを話していた。
源左衛門が現れたのは、四半時(シハントキ、三十分)程、経ってからだった。
源左衛門の格好は妹の言う通り、武士の格好ではなかった。かといって坊主でもない。それは河原者の格好だった。毛皮の袖無しを着て革袴(カワバカマ)をはいていた。無精髭も伸ばしっ放しで、見るからに河原者の親玉という感じだった。
お駒は源左衛門が来ると下がって行った。
三河守と源左衛門はお互いに挨拶を済ますと、ただ向かいあって坐ったまま、お互いを見ていた。
しばらく、沈黙が続いた。
三河守と源左衛門は同い年だった。二人共、すでに四十六歳になっていた。人から、とやかく言われたからといって、生き方を変えられるような年ではなかった。初めて会った二十代の時とは二人とも考えが変わっていた。三河守は目の前の源左衛門を見て、富樫次郎の被官になってもらう事は諦めていた。
「今回、ここに来たのは本願寺の門徒としてのおぬしに会いに来たのじゃ」と三河守は言った。
「さようでござるか」と源左衛門は伸びた髭を撫でながら言った。
「今回、わしは南加賀の守護代となり、軽海に入る事となった」
「なに、おぬしが守護代に」
「そうじゃ。ようやく、復帰できたというわけじゃ」
「槻橋豊前守はどうした」
「隠居した。隠居して、伜の近江守が北加賀の守護代となった」
「伜か‥‥‥伜が北加賀の守護代か‥‥‥」
「ああ、そうじゃ‥‥‥わしはのう、何とか本願寺とうまくやって行きたいと思っておるんじゃ」
「槻橋近江守は、そうは思っておらんじゃろう」
「ああ。確かに奴は主戦派じゃ。しかし、今は争い事をしておる時ではない。加賀の国は何年もの間、戦いに明け暮れ、皆、疲れ切っておる。今は争う時期ではなく、守護と本願寺が協力して、この国を建て直さなければならん時期じゃ、とわしは思う。この国は幕府との結び付きが強すぎる。いつも、幕府内での勢力争いが、この地で行なわれておる。それは、いつも、この国に隙があるからじゃ。この先、守護と本願寺が争いを始めたら、また幕府は介入して来るじゃろう。幕府が介入して来れば、いくら、わしらが戦をやめようと思ってもやめる事はできん。言ってみれば、次郎殿も幸千代殿も右京大夫殿(細川勝元)と宗全入道殿(山名)の勢力争いに利用されただけじゃと言える。二人共、戦の原因を作っておきながら、すでに、この世におらん。未だに東軍だの西軍だのと言っておるが、二人の亡霊に踊らされておるようなものじゃ」
「おぬしが軽海に入ったのなら、うまく行くかも知れんのう」と源左衛門は言った。
「蓮如殿のお考えは、どうなんじゃ」と三河守は聞いた。
「上人様は、守護の命には服せ、とおっしゃる」
「やはり、そうか」
「ただ、百姓たちは以前とは違う。頭ごなしに命じれば、多分、反抗して来るじゃろう。この間の戦で門徒たちは力を合わせれば何でもできるという事を自覚しておる。そんな事は二度とないとは思うが、もし、上人様が守護を倒せと命じれば、幸千代殿のように次郎殿も門徒たちに敗れる事となろう」
「分かっておる。その事を皆、恐れておるんじゃ」
「武力を持って百姓たちを押えようとするな。必ず、仕返しを食う事となるぞ」
「おぬし、威しておるのか」
「いや。まあ、おぬしの守護代振りを拝見させてもらうわ」
「協力はしてくれんのか」
「まず、おぬしのやり方を見てからじゃ」
「ふん。相変わらずじゃのう」
「まあ、堅い事はこれ位にして、久し振りじゃ。今日はゆっくりして行ってくれ。今日は、守護代としてではなく兄上として歓迎する。お駒の奴も積もる話がある事じゃろうからのう」
源左衛門はそう言うと、三河守を居間の方に案内した。
20.雪溶け1
1
梅の花が咲いていた。
数人の門徒たちが梅の花を眺めながら世間話をしている。門徒たちの顔も自然とほころんでいた。
ようやく長い冬も終わりを告げ、雪溶けの季節が近づいて来た。
冬の間、二十五日の講と二十八日の報恩講の日以外は比較的、静かだった吉崎御坊も、雪溶けと共に参詣者の数も徐々に増えて行き、賑やかになって行った。
長い冬の間、蓮如はどこにも出掛けず、ほとんど書斎に籠もったままだった。
講の時には新しく書いた御文を発表したが、それ以外は御文も書かず、ほとんど毎日、親鸞聖人(シンランショウニン)の著した『教行信証(キョウギョウシンショウ)』を書写していた。
蓮如は親鸞聖人の教えを改めて読む事によって、今更になって、去年、門徒たちを戦に追いやった事を後悔していた。後悔はしていたが、あの時、どんな態度を取ったらよかったのか、答えは出なかった。もし、親鸞聖人だったら、あの時、どんな態度を取ったのだろうか。
本願寺の法主(ホッス)になって以来、ただ、ひたすら、親鸞聖人の教えを広めるために生きて来た。異端(イタン)を退け、正しい教えを広める事が自分の役目だと信じて疑わなかった。
考え方が少し狭かったのかもしれん、と蓮如は思った。
正しい教えを広めるため、高田派の教えは悪いと言ったために、高田派と対立するようになって行った。確かに高田派の教えは悪いに違いないが、悪いと言われた高田派門徒の気持ちなど少しも考えなかった。もう少し、相手の立場になって考えて行動していたら、こんな結果にはならなかったかもしれない。高田派の坊主たちをどうにもならない所まで追い込んでしまったのは、自分の考えが狭すぎたからに違いない。すべての者たちを救うという阿弥陀如来様のように、もっと大きな心を持たなくてはいかんと反省した。
風眼坊舜香は吉崎の門前町に家を借りて、町医者を開業していた。
蓮崇(レンソウ)の多屋を出て、ここに移って来たのは正月の十日の事だった。風眼坊は、もうしばらく様子を見るため、この地にいる事に決め、いつまでも蓮崇の多屋の世話になっているわけにもいかないので、蓮崇に空家はないかと相談した。
一応、捜してみるが、多分、空家などないだろう。雪が溶けたら新しい家を建ててやると蓮崇は言ったが、次の日、幸運にも丁度いい空家が見つかった。太物屋(フトモノヤ、絹以外の織物を扱う店)の番頭が家族と共に住んでいて、戦の後、野々市(ノノイチ)に新しく店を出すために引っ越して行ったという。持主はその太物屋で、風眼坊が医者だと聞くと、喜んでお貸ししましょうと言ってくれた。
蓮如がこの地に来て、この地が栄えてから建てた物なので当然、まだ新しく、部屋も四つあり、台所の土間も広く、広い縁側もあって、ちょっとした庭まで付いていた。風眼坊が一人で暮らすには広すぎると感じる程の家だった。
引っ越しして来た晩、蓮崇と慶聞坊(キョウモンボウ)が酒をぶら下げて、お祝いにやって来た。引っ越しといっても、荷物などほとんど無く、藁布団(ワラブトン)と暖房のための薪(タキギ)位のものだった。
「なかなか、いい所ですね」と慶聞坊が部屋の中を見回しながら言った。
「しかし、何となく、照れ臭いのう」と風眼坊は頭を掻いた。
「何がです」と蓮崇が聞いた。
「わしは今まで、ずっと山伏じゃった。自分の家を持つなんて事は思ってもおらなかった。もっとも、この家は借りもんじゃが、家を借りるなんて思った事もない。いつも、山の中で寝たり、宿坊に泊まったりしておった。女子(オナゴ)の所に世話になっておった事もあったが、早い話が、いつも、人様の家に厄介(ヤッカイ)になっておったというわけじゃ。山伏じゃから、それが当然だと思っておった。まさか、わしがうちを借りるなんて、何となく、おかしな気分じゃ」
「いいじゃありませんか。時には町人の気分を味わってみるのもいいかもしれませんよ」と慶聞坊は縁側から庭を眺めながら言った。
「このまま、ずっと、ここに腰を落着けてくれれば、もっといいがのう」と蓮崇は言った。
「まあ、当分は、成り行きに任せてみよう」
三人は囲炉裏(イロリ)を囲んで、酒を飲み始めた。
「風眼坊殿、これからここで一人暮らしとなると、飯の支度やら何かと大変じゃありませんか」と慶聞坊は心配した。
「なに、年中、旅をしておるから飯を作る事なら慣れておる。大丈夫じゃ」
「しかし、医者をやって行くにしても一人では大変でしょう。誰か、下女(ゲジョ)でも雇った方がいいですよ」
「慶聞坊殿、心配いらん。そこのところはわしに任せろ」
「蓮崇殿、下女の心配などいらんよ」と風眼坊は手を振った。
「分かっております。任せて下さい」
「何をたくらんでおるんじゃ」
「いや、ただ、飯なら、わしの所から、時折、運ばせるという事ですよ」
「ああ、そうか。それじゃあ。わしの所からも運ばせますよ」と慶聞坊も言った。
「そんな心配なんかいらんよ。どうせ運んでくれるのなら、飯より、これの方がいいわ」と風眼坊は酒盃(サカヅキ)を上げて笑った。
「そうじゃのう。風眼坊殿には酒の方がいいのう」と蓮崇も笑った。
「ところで、蓮崇殿、野々市の方はどんな具合じゃ」
「ええ。今のところは、まだ動いてはおりません。ただ、新しい守護所を作るようです」
「新しい守護所?」
「城ですね。今の守護所は守るのに適しておりませんからね。野々市の東にある山の上に新しく城を作って、その裾野に富樫次郎の屋敷を作るようです」
「城作りか‥‥‥いよいよ、本願寺を敵に回す事に決めたのかのう」
「かもしれません。ただ、どういう出方で来るのか、まだ、分かりませんね」
「また、戦になるのでしょうか」と慶聞坊が聞いた。
「守護方の出方次第じゃな。本願寺方から守護に仕掛ける者はおらんじゃろうからな」
「もし、仕掛けて来たらどうします」
「戦うわけにはいかんから、逃げるしかないのう」
「黙って、逃げるのですか」
「上人様が戦う事を許さんからのう。仕方ない」
「もし、攻められたら門徒たちもたまりませんね」
「ああ。しかし、守護方は上人様が戦を許さない事を知っておる。これ幸いに門徒たちを攻めて来るじゃろう」
「どうするんです」
「そこのところを、今、色々と考えておるんじゃ。何とかして門徒たちの身を守る事はできんものかと」
「大義名分(タイギメイブン)じゃな」と風眼坊は言った。
「そうです。上人様を動かす事のできる大義名分です」
「敵には大義名分はあるんですか」と慶聞坊は聞いた。
「あるんじゃ。荘園を横領しとらん国人はおらんからのう。当然、門徒となっておる国人たちも荘園を横領しておるんじゃ」
「それは、守護側におる国人たちだって同じでしょ」
「ああ、同じじゃ。早い話が、今、守護大名となっておる者たちは皆、荘園を横領して勢力を強めて来たんじゃが、自分たちの事は棚に上げて、荘園を横領したという大義名分を掲げて国人門徒を攻めるに違いない」
守護職(シュゴシキ)とは幕府から任命され、その国の管理をするのが任務だった。決して、その国が領国となるのではなく、ただの任地に過ぎなかった。初期の頃は任地替えも度々、行なわれていたが、やがて、世襲(セシュウ)されるようになるに連れて、その国において勢力を持つようになって行った。
荘園は元来、守護不入の地で、荘園領主の送った代官(荘官)によって支配されていた。ただ、守護は段銭(タンセン)、棟別銭(ムネベチセン)と呼ばれる田畑や家に掛かる税を取り立てる権利を持っていた。その税は、本来、幕府から命ぜられ、天皇の御所の造営修理、伊勢神宮の式年造替(シキネンゾウタイ)や天皇の即位の儀式に使われるものだったが、次第に、守護自体の収入源となって行った。その税は荘園内の土地や家にも掛かかり、守護は税を取り立てるために守護不入の地に入ろうとした。しかし、隠し田畑のある荘園は守護の入る事を拒み、多額の礼銭を払った。
守護が任地に勢力を持って行くのと同様に、荘園の代官として荘園を支配していた武士たちも、その土地に根を張って勢力を持ち、国人と化して行った。国人と化した代官が荘園領主の言う事を聞かなくなると、領主は、その国の守護に年貢を取り立ててくれるように頼まざるを得なかった。年貢の取り立てを請け負った守護は、堂々と守護不入の土地だった荘園に入って行き、隠してあった田畑からも税を取り、やがては武力を以て横領して行くようになって行く。そして、お互いに荘園を横領する事によって勢力を広げて来た守護大名と国人たちは被官関係となって行った。
荘園領主である公家や寺社たちは荘園の横領を幕府に訴え、幕府は守護に、横領した者を罰せよ、と命ずるが、横領を取り締まる側の守護が荘園を横領しているのだから、力を持たない領主たちは泣き寝入りするより他なかった。
応仁の乱以後、力を持たない者たちの荘園はすべて、守護を初め、力のある国人たちに横領され、残っていた荘園は幕府に関係ある者たちの荘園か、勢力を持っている寺社や幕府に保護された禅寺の荘園くらいのものだった。
「大義名分か‥‥‥」と風眼坊は唸った。
「上人様は、守護の命には従えとおっしゃる。本所(ホンジョ、領主)には、必ず、年貢を払えとおっしゃる。しかし、そんな事、百姓たちには分からん。百姓たちは毎年、必ず、年貢は絞り取られておる。ただ、その年貢が本所のもとに届かないのは、百姓たちを支配しておる国人たちが横領しておるからじゃ。しかも、年貢を横領した国人たちは、自分が横領したとは言わないで、守護のせいにしておる。確かに、戦続きで守護は厳しい守護役(ヤク)を取り立てておる。百姓たちから見たらたまったものではない。本願寺の坊主となった国人たちに煽(アオ)られれば、百姓たちはすぐにでも守護に反抗して行くじゃろう。上人様が押えようとしても、押える事はとてもできんじゃろう」
「また、戦になるのですね」と慶聞坊は言った。
「それは確かじゃ。ただ、大義名分がないと門徒たちが一つにまとまらん。一つにまとまらなければ本願寺は負ける」と蓮崇は厳しい顔付きで言った。
「いっその事、思い切って幸千代(コウチヨ)を担ぎ上げたらどうじゃ」と風眼坊は言った。
「はい。わしも、その事は考えました。しかし、幸千代の側に額(ヌカ)熊夜叉が付いております。幸千代だけなら飾りになりますが、熊夜叉は危険です。たとえ、次郎を倒しても、熊夜叉がいる限り同じ事の繰り返しになります」
「熊夜叉か‥‥‥」
幸千代はあの戦の後、加賀を抜け出して京に逃げ、西軍の大内氏の陣中にいて、加賀の情勢を窺っていた。
「本願寺と切り放して考えれば、上人様の考えに従わなくても済むわけでしょう」と慶聞坊が言った。
「それはそうじゃが、一旦、門徒となった者を本願寺と切り放す事はできまい」
「でも、上人様はいつも言っておられます、信仰の世界では阿弥陀如来のもとでは皆、平等だが、実生活においては世間の決まりを守れと。生きるか死ぬかというのは信仰の問題と言うより実生活の問題です。実生活において、決まりを守っておったにも拘わらず、その生活を脅(オビヤ)かす者がおるとすれば、生活を守るために戦わなくてはなりません。それは、信仰上の問題ではないと思います」
「うむ。確かにそうじゃ」と蓮崇は唸った。「人間は信仰だけで生きておるわけではないからのう。信仰抜きで戦えばいいんじゃが」
「しかし、門徒は門徒じゃ」と風眼坊は言った。「門徒が一揆を起こせば、信仰抜きとは言えんぞ」
「いや、一揆には国人一揆というのもある」と蓮崇は言った。「本願寺の坊主を抜きにして、国人一揆という形にすればいいんじゃ」
「しかし、その国人というのは本願寺の坊主じゃろ」
「それはそうじゃが、多分、守護方も本願寺の寺院を攻める事はないじゃろう。攻める理由がないからのう。攻めるとすれば国人門徒たちじゃ。そこで、こっちも本願寺の寺院たちには見て見ぬ振りをしてもらうんじゃ。本願寺の寺院が動かなければ、守護と国人の争いという事になる。上人様に迷惑を掛ける事にはならんじゃろ」
「そう、うまく行くといいが‥‥‥」
「いや、うまくやるんじゃ。それ以外に門徒たちを救う道はない」
「わしもそう思います」と慶聞坊も言った。
しかし、風眼坊は何となく不安を感じていた。本願寺において国人門徒たちは指導者的立場にあったが、国人たちだけで守護の富樫を相手にして勝てるとは思えなかった。守護を倒すつもりだったら、この前のように本願寺が一丸にならなければ難しいだろうと思った。
次の日の朝早く、風眼坊の新居に闖入者(チンニュウシャ)がやって来た。
前の晩、遅くまで飲んでいたし、早起きしても別にする事もない。どうせ、自分一人しかいないのだから、久し振りにゆっくり寝ていようと風眼坊は思っていた。ところが、朝早くからたたき起こされた。
闖入者は、お雪だった。
お雪は荷物を抱えてやって来ると、さっさと板戸を全開にしてしまった。
部屋の中は急に明るくなり、外から冷たい空気が入り込んで来た。
「お早うございます、先生。いい天気ですよ」と言って、お雪は風眼坊の枕元に坐り込んだ。
「何じゃ、朝っぱらから」と風眼坊は布団を被り、寝ぼけた声で言った。
「あたし、今日から、ここに住む事になりました。よろしくお願いします」
「何じゃと」と風眼坊は布団から顔を出した。
「あたし、御山を追い出されたんです。先生、ここに置いて下さい」
「なに、追い出された」と風眼坊は起き上がると目をこすり、お雪を見つめた。「何があったんじゃ」
「何もありません。蓮崇様から、門徒でない者を御山に置くわけにはいかん、と言われまた」
「まだ、門徒になっていなかったのか」
「はい」
「どうして」
「先生が門徒にならないからです」
「何で、わしが関係あるんじゃ」
「あたしは先生の弟子です。先生が門徒にならないのに、あたしが門徒になるわけにはいきません」
「あれは蓮如殿と旅をしておった時の話じゃ。今は弟子ではない」
「いいえ。先生がここで町医者を始めたという事は、まだ、あたしも弟子です。先生の仕事を助けます」
「助けてくれるのはありがたいが、ここに置くわけにはいかん」
「どうしてです」
「どうしてだと‥‥‥わしも男だからじゃ」
「あたしは女です」
「そんな事は分かっておる」
「あたし、決めたんです。お医者様になって怪我人や病気の人を助けるって。先生と一緒に旅して分かったんです。あたしがやるべき事はこれだって。あたしを一人前のお医者様にして下さい。お願いします」
「そなたが、そう決めたのなら教えてやろう。しかし、ここで一緒に暮らすのは、まずいんじゃないかのう」
「どうしてです」
「そなたはまだ若い。これからじゃ。好きな男ができて嫁に行く事もあろう。わしと一緒に暮らしておったら、あらぬ噂が立ち、嫁に行けなくなるぞ」
「そんな事、構いません。あたしが好きなのは先生です」
「何じゃと」
「あたし、先生が好きなんです。ずっと側にいるって決めたんです」
「ちょっと待て。ちょっと顔を洗って来るから、待ってろ」
風眼坊は布団から出ると、お雪から逃げるように裏にある井戸に向かった。
確かに、お雪の言うように、いい天気だった。積もった雪が日差しを浴びて眩しかった。
朝っぱらから脅かしやがる‥‥‥まったく、はっきり、物を言う女だ。まあ、お雪がはっきりと物を言う女だと思ったのは、今に始まったわけではない。初めて会った時から、そう思っていた。しかし、朝っぱらから、あんな事を面と向かって言われるとは思ってもいなかった。さすがに、風眼坊でも戸惑ってしまっていた。
冷たい水で顔を洗って、さっぱりすると風眼坊はお雪の待つ部屋へと戻った。すでに、布団はたたんであった。
お雪は風眼坊を見るとニッコリと笑った。
「あたし、ここにいてもいいのですね」
「仕方ないのう。ただし、わしの娘という事にしろ」
「娘ですか」
「そうじゃ。年が違い過ぎるからの」
「上人様と裏方(ウラカタ)様も親子のように年が離れています。それでも立派に夫婦です」
「それはそうじゃが、わしには妻も子もおるんじゃよ」
「構いません。遠い所にいるんでしょ。ここではあたしが先生の奥さんです」
「勝手に決めるな」
「先生はあたしの事、嫌いなんですか」
「嫌いではない」
「好きですか」
「まあ、好きじゃのう」
「よかった。嫌われてたらどうしようかと思った。先生と一緒に暮らせるなんて夢みたい。あたし、生まれて初めて幸せになれたのね」
お雪はうっとりとした目付きで風眼坊を見つめていた。
風眼坊は何も言えなかった。ただ、お雪が幸せだと言うのなら、それでもいいのかもしれないと思った。幼い頃、家族を失い、それ以後、自分というものを捨て、ひたすら仇討ちに生きて来た。幸せなんていう言葉なんか、まったく縁がなかったのかもしれない。そのお雪が、風眼坊と一緒にいて幸せだと感じるのなら、それでいいのだろう。風眼坊にしてみれば、お雪と一緒に暮らす事に文句などあるはずはなかった。自分の娘を嫁に出した後、娘のような若い女と一緒に暮らすなんて、風眼坊の方こそ夢のような事だった。
まさか、初日から患者が訪ねて来るとは思ってもいなかったが、蓮崇と慶聞坊が門徒たちに宣伝しているとみえて、五人の年寄りが体の具合が悪いと言って訪ねて来た。風眼坊は患者たちから話を聞き、症状に合う薬を与えた。
代物(ダイモツ、代金)の方は、まだ、決めていなかったが五文(モン)程貰う事にした。五文と言えば、米にして約五合、塩なら一升程、買う事ができた。当時、人夫(ニンプ)の賃金として一日二十文位、職人の賃金として一日五十文前後だった。初日に二十五文もの収入があったとは、なかなか幸先がよかった。毎日、十人程の患者を診て、五十文もの収入があれば、薬を仕入れても、二人位、楽に食べて行く事ができた。
風眼坊とお雪が一緒に暮らし始めて、二ケ月が過ぎた。
誰もが羨む程、仲睦まじい夫婦だった。そして、町医者の方もうまく行っていた。患者が来ない日はないと言っていい程、毎日、怪我人や病人が訪ねて来ていた。また、寝たきりの病人がいると聞けば、雪の積もった山の中でも気安く飛んで行った。
長かった冬もようやく終わり、積もっていた雪も溶け、夜の冷え込みも緩くなって行った。
患者もいなくなった夕方、風眼坊は縁側で、乾燥させた薬草を薬研(ヤゲン)を使って砕き、粉薬を作っていた。
お雪は台所で夕飯の支度をしている。
以外にも、お雪の作る料理はうまかった。次郎の側室(ソクシツ)だったので、料理なんか、まったく知らないだろうと思っていたのに、家族を亡くしてから、叔母と二人であちこちを点々としたため、その頃より叔母と一緒に食事の支度はしていたと言う。そして、御山(オヤマ)にいた時も、蓮如の妻、如勝より色々な料理を教わったらしかった。
風眼坊も御山にいた時、御馳走になった事があり、大層、立派な料理だった。初めて、その料理を出された時、蓮如は毎日、こんな贅沢をしているのか、と思ったが、それは違った。蓮如の食事は実に質素なものだった。立派な料理は遠くから来た門徒たちを持て成すためのものだった。蓮如は本当に門徒たちを大切にしていた。
日の暮れる頃、血相を変えた慶聞坊が風眼坊の家に飛び込んで来た。慶聞坊は門から入って来ると、そのまま土間の方に行こうとしたが、縁側にいる風眼坊を見つけると、「風眼坊殿」と叫びながら縁側の方にやって来た。
「大変な事が起こりました」と息を切らせながら言った。
「どうした、蓮如殿に何かあったのか」と風眼坊は聞いた。
「いえ、違います。戦です。戦がまた始まったのです」
「何じゃと」と風眼坊は手を止め、慶聞坊を見上げた。
「一体、どこで、戦が始まったんじゃ」
「石川郡です」
「まあ、坐って、落ち着いて話せ」
慶聞坊は頷いて、縁側に腰を下ろすと、「大変な事になったもんじゃ」と呟いた。
風眼坊は薬研と薬草を片付けながら、「いつ、始まったんじゃ」と聞いた。
「一昨日(オトトイ)です。木目谷の道場が富樫勢に攻められ、湯涌谷(ユワクダニ)まで逃げたそうです」
「富樫勢は急に攻めて来たのか」
「そうらしいです」
「蓮崇殿は現場に行ったのか」
「いえ、慶覚坊(キョウガクボウ)殿に連絡して、慶覚坊殿に行ってもらう、と言っておりました」
「慶覚坊にか‥‥‥蓮崇殿はまだ動かんのか」
「今、頼善(ライゼン)殿が留守なので、蓮崇殿が御山からいなくなるわけにはいかないのです」
「蓮如殿はまだ知らんのじゃな」
「はい。まだ知りません。しかし、そのうち、本泉寺などから知らせが入る事でしょう」
「おぬしはどうする」
「わたしも動けません」
「じゃろうのう‥‥‥雪溶けと共に敵は動き出したか‥‥‥」
「はい‥‥‥」
「その木目谷の道場主というのは国人門徒なのか」
「そうです。高橋新左衛門という国人です」
「やはりのう。荘園横領を大義名分にして、攻めて来たんじゃな」
「はい。しかし、無茶な事を言って来たようです」
「無茶な事?」
「横領した荘園を本所に返し、しかも、去年の年貢を本所に払え、と言って来たんです」
「なに、去年の年貢?」
「はい。しかし、そんなものはすでにありません。去年、年貢米のほとんどを幸千代に徴収され、残っていた年貢米も本願寺のために使ってしまったはずです」
「成程のう。それで、その高橋とやらは敗れてどうしたんじゃ」
「湯涌谷に逃げ込んだらしいのですけど、それから、先、どうなったのかは分かりません。そのうち、また、新しい情報が入るとは思いますが」
「そうか‥‥‥」
「あら、慶聞坊様」とお雪が台所の方から声を掛けた。「お久し振りです。どうぞ、今晩は、ゆっくりしていって下さいね」
「お内儀(ナイギ)、そうもいかんのです」と慶聞坊は言うと立ち上がった。「そろそろ、戻ります」
「そうか。いや、わしも行こう。久し振りに蓮如殿に会いたくなったのでな」
風眼坊はお雪に一言、声を掛けると、慶聞坊と共に御山に登った。
一揆が再燃した。
それは、守護富樫勢の一方的な攻撃で始まった。
北加賀守護代の槻橋近江守(ツキハシオオミノカミ)はおよそ一千の兵を引き連れ、高橋新左衛門の道場及び、屋敷を不意に襲撃した。あまりにも急の襲撃だったため、新左衛門は立ち向かう事もできず、浅野川に沿って谷の中へと逃げ込み、湯涌谷の国人門徒、石黒孫左衛門を頼った。槻橋近江守は見せしめのためにと、百姓たちにも容赦なく攻撃したため、新左衛門を初め、門徒たち二千人余りが湯涌谷へと逃げ込んだ。
槻橋近江守は木目谷から新左衛門を追い出すと、そのまま、その地に陣を敷き、湯涌谷を睨んでいた。
守護富樫次郎は、今年の初め、守護として加賀国内の荘園や家臣たちの領地を確認すると共に、横領されている荘園については元の領主に戻すようにと命じた。
当然、高橋新左衛門のもとにも、その命令は来たが新左衛門は無視した。守護自身が石清水(イワシミズ)八幡宮や伏見稲荷社の荘園を横領していながら、そんな勝手な命令を出しても、誰も従うはずはなかった。新左衛門にしても、富樫が守護として幕府や荘園領主の手前、一応、形だけの命令を下したものだと思った。命令に従わなくても、まさか、攻めて来る事など絶対にあり得ないと高をくくっていた。
高橋新左衛門が横領していた荘園は大桑庄の一部と若松庄の一部だった。大桑庄の荘園領主は公家の甘露寺親長(カンロジチカナガ)、若松庄の荘園領主は同じく公家の烏丸資任(カラスマスケトウ)だった。現地にいない荘園領主から見れば、それは確かに横領という事になろうが、実際、新左衛門は武力を持って、それらの荘園を手にしたわけではなかった。
荘園といっても、昔のように守護不入の地などと言ってはいられなかった。侵略されずに荘園を保ち続けて行くには、常に在地の権力と手を結ばなければならなかった。特に加賀の国のように守護がころころと変わるような所では、荘園を守るため、荘官(代官)自身も武力を持ち、回りの状況に対処して行かなければならない。その中で、武力を持たない公家たちの荘園は守護や地頭、あるいは力を持ち出した国人たちに侵略されて行った。残った荘園は幕府と何らかの関係のある公家や寺社、そして、自らも武力を持つ大寺院のものだった。それらの荘園も応仁の乱以降、幕府の力が弱まって来るに連れて侵略されていった。長い間、荘園を守っていた荘官たちにとって、領主から独立する機会が訪れたと言ってもよかった。今まで、幕府や守護を恐れて領主に反抗する事ができなかった荘官たちは、預かっていた荘園、すべてを自分のものにしようと考えた。いかに時の流れと言え、それだけでは彼らは独立する事はできない。独立するには後ろ盾となる者を必要とした。
そこに現れたのが本願寺だった。
守護は当てにならなかった。守護に保護を求めても、その守護はすぐに変わってしまう。守護が変わる毎に、多額の礼銭を持って挨拶に行かなければならない。また、下手に守護に近づき過ぎれば、新しい守護に痛い目に会う事もある。荘官たちは、そんな守護を頼るよりも本願寺を頼る事にした。有力な国人たちが次々に門徒となって行くのを見ていた彼らは、自らもその道を選び、門徒となって行った。
大桑庄と若松庄においてもそうだった。二つの荘園の荘官は、まず、大桑善福寺の門徒となった。しかし、善福寺は武力を持っていない。そこで、善福寺の門徒であり、武力も持つ国人の高橋新左衛門の配下という形となった。
以前、高橋新左衛門とそれらの荘園の荘官は争いを繰り返していた。隙あらば侵略しようとする新左衛門に対して、頑強に荘園を守り通して来た。その二人が戦う事なく、自分の配下になるという事は、いかに時の流れとはいえ、新左衛門にとって笑いの止まらない程、愉快な出来事だった。
高橋新左衛門は浅野川を押えて勢力を広げて行った国人だった。祖先は浅野川の上流にある医王山海蔵寺の山伏だったと言う。その山伏が浅野川の輸送権を手に入れて山を下り、木目谷に腰を落ち着け、浅野川の川の民を支配して行った。
浅野川は医王山と加賀側の里を結ぶ重要な水路であり、途中には山崎の窪市(クボイチ)という大きな市もあり、河口は河北潟を経て宮腰(ミヤノコシ)の湊につながっていた。山内にある数多くの寺院で消費される物資のほとんどは、この浅野川によって運ばれ、また、山内で作られた薬や櫛や扇などは商品として、山崎窪市を初め、さらに遠く、京の都までも運ばれて行った。
新左衛門の父親は五郎左衛門といい、すでに亡くなっていたが、五郎左衛門は浅野川の川の民を支配するだけでなく、浅野川流域の土地をも支配しようと試みた。しかし、それは難しい事だった。五郎左衛門の頃の時代になると加賀国内での争いが絶えず、浅野川流域の国人たちも互いに争い、弱い者は滅ぼされ、強い者だけが残り、五郎左衛門がその中に割り込む隙はなかった。
五郎左衛門は土地を手に入れる事は諦め、浅野川の輸送権、すべてを支配しようとした。浅野川の水路を利用しているのは医王山だけではない、当然、川の流域にいる国人たちや寺社も利用していた。
当時、川というのは無縁の地とされ、武士の支配対象にはならなかった。五郎左衛門はその川を支配しようとした。その川で生活する者たちをすべて支配しようとした。
川の民は古くは聖徳太子の信仰を持っていたが、遊行聖(ユギョウヒジリ)の布教によって時宗の徒になる者が多かった。浅野川の流域にも幾つかの時宗の道場ができ、川の民のほとんどが時宗の徒となって行った。
五郎左衛門はその時宗を利用した。自ら、時宗の徒となって川の民を支配する事に成功した。天台宗である医王山は、五郎左衛門が時宗の徒になった事に腹を立てたが、銭を積む事によって解決した。すでに、五郎左衛門は医王山の後ろ盾が無くても、浅野川を支配する事ができる程に成長していた。そして、新左衛門の代になって時宗から本願寺に鞍替えをして、さらに勢力を強めて行った。
守護から荘園を横領したと言われても、新左衛門にはそんな事をした覚えはなかった。配下に荘園の荘官はいるが、その荘園を横取りした覚えはない。まして、その荘園の年貢米を奪い取った覚えもなかった。その年貢米を奪い取って行ったのは守護の方だった。戦のためと言いながら各荘園からしぼれるだけ取って行った。去年の年貢米を領主に払えと命ずるが、去年の年貢米のほとんどは幸千代に力づくで奪われ、残っていたものは本願寺の兵糧米となって消えていた。
新左衛門は守護の命を無視した。
無視をしても、守護となった富樫次郎が本願寺の門徒に刃向かうはずはないと過信していた。新左衛門から見れば、富樫次郎など本願寺によって守護になったようなものだった。本願寺の門徒に刃向かうような事があれば、幸千代のように法敵として退治すればいいと考えていた。門徒たちは幸千代を倒した時のように武器を持って集まり、あっという間に、次郎など倒してしまうだろうと簡単に考えていた。
門徒たちは自分の立場で物を考え、蓮如の立場というものを考えなかった。本願寺門徒に敵対する者は皆、法敵だと考え、上人様も同じように考えるに違いないと信じていた。彼らは信仰と現実社会を同じものとしてとらえていた。
しかし、上人である蓮如から見ると、門徒に敵対するだけでは法敵とはならなかった。蓮如の考えでは、現実社会においては社会の決まりに従い、毎日毎日を過ごし、その生活の中において本願寺の教えを信じ、阿弥陀如来に感謝して念仏を唱えよ。そうすれば必ず、極楽浄土に往生できると説いていた。
そこに、蓮如と門徒たちの間に考え方の違いがあった。
人は誰でも確信という物を欲しがる。それは信仰の世界においても同じだった。念仏を唱え、極楽に行けると坊主に言われても、何かの確信が欲しかった。そして、蓮如が嫌っていた異端の教えが流行る事となった。人々は極楽往生の確信を得るために、坊主たちに多額の志しを与え、その志しの多寡(タカ)によって往生は決められた。門徒たちは、これだけ多くの志しを収めたのだから往生は確実だと思い、坊主はその事を保証した。また、名帳(メイチョウ)に自分の名が記入される事によって、その確信を得た。その教えは貧しい者たちには縁のない教えだった。そこに蓮如が現れ、貧しい者たちの間にまで教えを広めた。教えはどんどん広まって行った。しかし、貧しい者たちでも確信が欲しいと思う気持ちは同じだった。念仏を唱えれば救われる。そう言われても、その証(アカシ)が欲しかった。
誰もがそう感じていた時、一揆が起こった。
本願寺の門徒として法敵を退治する、と言う名目のもと、門徒たちは一揆に参加した。初めは誰もが不安を感じながら一揆に参加していた。法敵とはいえ相手は守護であった。代々、加賀の国を支配していた富樫家であった。守護に立ち向かう事など、今まで考えてもみなかった下層階級の者たちが一揆に参加していた。同じ門徒と呼ばれる仲間が続々と武器を持って集まる事によって不安は吹き飛び、一種の集団心理によって、力を合わせれば何でもできると思うようになって行った。ただ、お互いに門徒であるというだけで、今まで知らなかった連中たちとも近親感がわき、一つにまとまる事を可能とした。そして、守護である富樫幸千代を門徒の力によって倒した。そこに初めて、確信というものを門徒たちは持った。その確信は、死んだ後、極楽に往生するというものではなく、今、現在を門徒たちの力によって変える事ができるという確信だった。
守護を相手に戦う事など、考える以前に絶対に不可能だった事が、門徒たちが力を合わせる事によって可能となった。門徒の誰もが、蓮台寺城を取り巻く門徒の数を見て圧倒されていた。自分たちの仲間はこんなにもいる。こんなにもいれば何でもできる。そして、実際にできた。その事を身を以て体験した門徒たちに怖い物はなかった。守護の富樫次郎が何を言おうと平気だった。もし、門徒たちが次郎に襲われる事になったとしても、きっと、また、大勢の門徒たちが助けに来てくれる。そう確信していた。
突然の守護勢の襲撃に敗れた新左衛門は大勢の門徒たちと一緒に浅野川の上流、湯涌谷に逃げ、湯涌谷において合戦の準備を始めた。新左衛門にしろ、湯涌谷の国人門徒、石黒孫左衛門にしろ、一気に富樫次郎を滅ぼすつもりでいた。各地の門徒に連絡を取り、幸千代の時と同じように次郎を攻め滅ぼすつもりでいた。
新左衛門も孫左衛門も江沼郡の門徒たちとは違い、この間の戦の時、蓮如がどれ程、辛い立場に立って苦しんでいたのかを知らなかった。二人共、蓮如の教えは御文を通して充分に理解していた。蓮如が争い事を好まない事も知っていたし、社会の決まりを守れ、という事も知っていた。その教えを知っていたから松岡寺(ショウコウジ)が危機に陥った時も動かなかった。しかし、蓮如は『法敵を倒せ』と命令した。彼らはどれだけの苦悩の後で、蓮如がその命令を出さなければならなかったか、という事を知らなかった。蓮如が『法敵を倒せ』という事を命じた事によって、彼らは本願寺門徒に敵対する者は、すべて法敵で、それらは退治しなければならないと勘違いした。今回の場合、彼らから見れば、富樫次郎は本願寺門徒に害を及ぼす、法敵に他ならなかった。
新左衛門は湯涌谷において、浅野川の川の民を自由に操りながら着々と戦の準備を進めていた。
「なかなか、いい所ですね」と慶聞坊が部屋の中を見回しながら言った。
「しかし、何となく、照れ臭いのう」と風眼坊は頭を掻いた。
「何がです」と蓮崇が聞いた。
「わしは今まで、ずっと山伏じゃった。自分の家を持つなんて事は思ってもおらなかった。もっとも、この家は借りもんじゃが、家を借りるなんて思った事もない。いつも、山の中で寝たり、宿坊に泊まったりしておった。女子(オナゴ)の所に世話になっておった事もあったが、早い話が、いつも、人様の家に厄介(ヤッカイ)になっておったというわけじゃ。山伏じゃから、それが当然だと思っておった。まさか、わしがうちを借りるなんて、何となく、おかしな気分じゃ」
「いいじゃありませんか。時には町人の気分を味わってみるのもいいかもしれませんよ」と慶聞坊は縁側から庭を眺めながら言った。
「このまま、ずっと、ここに腰を落着けてくれれば、もっといいがのう」と蓮崇は言った。
「まあ、当分は、成り行きに任せてみよう」
三人は囲炉裏(イロリ)を囲んで、酒を飲み始めた。
「風眼坊殿、これからここで一人暮らしとなると、飯の支度やら何かと大変じゃありませんか」と慶聞坊は心配した。
「なに、年中、旅をしておるから飯を作る事なら慣れておる。大丈夫じゃ」
「しかし、医者をやって行くにしても一人では大変でしょう。誰か、下女(ゲジョ)でも雇った方がいいですよ」
「慶聞坊殿、心配いらん。そこのところはわしに任せろ」
「蓮崇殿、下女の心配などいらんよ」と風眼坊は手を振った。
「分かっております。任せて下さい」
「何をたくらんでおるんじゃ」
「いや、ただ、飯なら、わしの所から、時折、運ばせるという事ですよ」
「ああ、そうか。それじゃあ。わしの所からも運ばせますよ」と慶聞坊も言った。
「そんな心配なんかいらんよ。どうせ運んでくれるのなら、飯より、これの方がいいわ」と風眼坊は酒盃(サカヅキ)を上げて笑った。
「そうじゃのう。風眼坊殿には酒の方がいいのう」と蓮崇も笑った。
「ところで、蓮崇殿、野々市の方はどんな具合じゃ」
「ええ。今のところは、まだ動いてはおりません。ただ、新しい守護所を作るようです」
「新しい守護所?」
「城ですね。今の守護所は守るのに適しておりませんからね。野々市の東にある山の上に新しく城を作って、その裾野に富樫次郎の屋敷を作るようです」
「城作りか‥‥‥いよいよ、本願寺を敵に回す事に決めたのかのう」
「かもしれません。ただ、どういう出方で来るのか、まだ、分かりませんね」
「また、戦になるのでしょうか」と慶聞坊が聞いた。
「守護方の出方次第じゃな。本願寺方から守護に仕掛ける者はおらんじゃろうからな」
「もし、仕掛けて来たらどうします」
「戦うわけにはいかんから、逃げるしかないのう」
「黙って、逃げるのですか」
「上人様が戦う事を許さんからのう。仕方ない」
「もし、攻められたら門徒たちもたまりませんね」
「ああ。しかし、守護方は上人様が戦を許さない事を知っておる。これ幸いに門徒たちを攻めて来るじゃろう」
「どうするんです」
「そこのところを、今、色々と考えておるんじゃ。何とかして門徒たちの身を守る事はできんものかと」
「大義名分(タイギメイブン)じゃな」と風眼坊は言った。
「そうです。上人様を動かす事のできる大義名分です」
「敵には大義名分はあるんですか」と慶聞坊は聞いた。
「あるんじゃ。荘園を横領しとらん国人はおらんからのう。当然、門徒となっておる国人たちも荘園を横領しておるんじゃ」
「それは、守護側におる国人たちだって同じでしょ」
「ああ、同じじゃ。早い話が、今、守護大名となっておる者たちは皆、荘園を横領して勢力を強めて来たんじゃが、自分たちの事は棚に上げて、荘園を横領したという大義名分を掲げて国人門徒を攻めるに違いない」
守護職(シュゴシキ)とは幕府から任命され、その国の管理をするのが任務だった。決して、その国が領国となるのではなく、ただの任地に過ぎなかった。初期の頃は任地替えも度々、行なわれていたが、やがて、世襲(セシュウ)されるようになるに連れて、その国において勢力を持つようになって行った。
荘園は元来、守護不入の地で、荘園領主の送った代官(荘官)によって支配されていた。ただ、守護は段銭(タンセン)、棟別銭(ムネベチセン)と呼ばれる田畑や家に掛かる税を取り立てる権利を持っていた。その税は、本来、幕府から命ぜられ、天皇の御所の造営修理、伊勢神宮の式年造替(シキネンゾウタイ)や天皇の即位の儀式に使われるものだったが、次第に、守護自体の収入源となって行った。その税は荘園内の土地や家にも掛かかり、守護は税を取り立てるために守護不入の地に入ろうとした。しかし、隠し田畑のある荘園は守護の入る事を拒み、多額の礼銭を払った。
守護が任地に勢力を持って行くのと同様に、荘園の代官として荘園を支配していた武士たちも、その土地に根を張って勢力を持ち、国人と化して行った。国人と化した代官が荘園領主の言う事を聞かなくなると、領主は、その国の守護に年貢を取り立ててくれるように頼まざるを得なかった。年貢の取り立てを請け負った守護は、堂々と守護不入の土地だった荘園に入って行き、隠してあった田畑からも税を取り、やがては武力を以て横領して行くようになって行く。そして、お互いに荘園を横領する事によって勢力を広げて来た守護大名と国人たちは被官関係となって行った。
荘園領主である公家や寺社たちは荘園の横領を幕府に訴え、幕府は守護に、横領した者を罰せよ、と命ずるが、横領を取り締まる側の守護が荘園を横領しているのだから、力を持たない領主たちは泣き寝入りするより他なかった。
応仁の乱以後、力を持たない者たちの荘園はすべて、守護を初め、力のある国人たちに横領され、残っていた荘園は幕府に関係ある者たちの荘園か、勢力を持っている寺社や幕府に保護された禅寺の荘園くらいのものだった。
「大義名分か‥‥‥」と風眼坊は唸った。
「上人様は、守護の命には従えとおっしゃる。本所(ホンジョ、領主)には、必ず、年貢を払えとおっしゃる。しかし、そんな事、百姓たちには分からん。百姓たちは毎年、必ず、年貢は絞り取られておる。ただ、その年貢が本所のもとに届かないのは、百姓たちを支配しておる国人たちが横領しておるからじゃ。しかも、年貢を横領した国人たちは、自分が横領したとは言わないで、守護のせいにしておる。確かに、戦続きで守護は厳しい守護役(ヤク)を取り立てておる。百姓たちから見たらたまったものではない。本願寺の坊主となった国人たちに煽(アオ)られれば、百姓たちはすぐにでも守護に反抗して行くじゃろう。上人様が押えようとしても、押える事はとてもできんじゃろう」
「また、戦になるのですね」と慶聞坊は言った。
「それは確かじゃ。ただ、大義名分がないと門徒たちが一つにまとまらん。一つにまとまらなければ本願寺は負ける」と蓮崇は厳しい顔付きで言った。
「いっその事、思い切って幸千代(コウチヨ)を担ぎ上げたらどうじゃ」と風眼坊は言った。
「はい。わしも、その事は考えました。しかし、幸千代の側に額(ヌカ)熊夜叉が付いております。幸千代だけなら飾りになりますが、熊夜叉は危険です。たとえ、次郎を倒しても、熊夜叉がいる限り同じ事の繰り返しになります」
「熊夜叉か‥‥‥」
幸千代はあの戦の後、加賀を抜け出して京に逃げ、西軍の大内氏の陣中にいて、加賀の情勢を窺っていた。
「本願寺と切り放して考えれば、上人様の考えに従わなくても済むわけでしょう」と慶聞坊が言った。
「それはそうじゃが、一旦、門徒となった者を本願寺と切り放す事はできまい」
「でも、上人様はいつも言っておられます、信仰の世界では阿弥陀如来のもとでは皆、平等だが、実生活においては世間の決まりを守れと。生きるか死ぬかというのは信仰の問題と言うより実生活の問題です。実生活において、決まりを守っておったにも拘わらず、その生活を脅(オビヤ)かす者がおるとすれば、生活を守るために戦わなくてはなりません。それは、信仰上の問題ではないと思います」
「うむ。確かにそうじゃ」と蓮崇は唸った。「人間は信仰だけで生きておるわけではないからのう。信仰抜きで戦えばいいんじゃが」
「しかし、門徒は門徒じゃ」と風眼坊は言った。「門徒が一揆を起こせば、信仰抜きとは言えんぞ」
「いや、一揆には国人一揆というのもある」と蓮崇は言った。「本願寺の坊主を抜きにして、国人一揆という形にすればいいんじゃ」
「しかし、その国人というのは本願寺の坊主じゃろ」
「それはそうじゃが、多分、守護方も本願寺の寺院を攻める事はないじゃろう。攻める理由がないからのう。攻めるとすれば国人門徒たちじゃ。そこで、こっちも本願寺の寺院たちには見て見ぬ振りをしてもらうんじゃ。本願寺の寺院が動かなければ、守護と国人の争いという事になる。上人様に迷惑を掛ける事にはならんじゃろ」
「そう、うまく行くといいが‥‥‥」
「いや、うまくやるんじゃ。それ以外に門徒たちを救う道はない」
「わしもそう思います」と慶聞坊も言った。
しかし、風眼坊は何となく不安を感じていた。本願寺において国人門徒たちは指導者的立場にあったが、国人たちだけで守護の富樫を相手にして勝てるとは思えなかった。守護を倒すつもりだったら、この前のように本願寺が一丸にならなければ難しいだろうと思った。
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次の日の朝早く、風眼坊の新居に闖入者(チンニュウシャ)がやって来た。
前の晩、遅くまで飲んでいたし、早起きしても別にする事もない。どうせ、自分一人しかいないのだから、久し振りにゆっくり寝ていようと風眼坊は思っていた。ところが、朝早くからたたき起こされた。
闖入者は、お雪だった。
お雪は荷物を抱えてやって来ると、さっさと板戸を全開にしてしまった。
部屋の中は急に明るくなり、外から冷たい空気が入り込んで来た。
「お早うございます、先生。いい天気ですよ」と言って、お雪は風眼坊の枕元に坐り込んだ。
「何じゃ、朝っぱらから」と風眼坊は布団を被り、寝ぼけた声で言った。
「あたし、今日から、ここに住む事になりました。よろしくお願いします」
「何じゃと」と風眼坊は布団から顔を出した。
「あたし、御山を追い出されたんです。先生、ここに置いて下さい」
「なに、追い出された」と風眼坊は起き上がると目をこすり、お雪を見つめた。「何があったんじゃ」
「何もありません。蓮崇様から、門徒でない者を御山に置くわけにはいかん、と言われまた」
「まだ、門徒になっていなかったのか」
「はい」
「どうして」
「先生が門徒にならないからです」
「何で、わしが関係あるんじゃ」
「あたしは先生の弟子です。先生が門徒にならないのに、あたしが門徒になるわけにはいきません」
「あれは蓮如殿と旅をしておった時の話じゃ。今は弟子ではない」
「いいえ。先生がここで町医者を始めたという事は、まだ、あたしも弟子です。先生の仕事を助けます」
「助けてくれるのはありがたいが、ここに置くわけにはいかん」
「どうしてです」
「どうしてだと‥‥‥わしも男だからじゃ」
「あたしは女です」
「そんな事は分かっておる」
「あたし、決めたんです。お医者様になって怪我人や病気の人を助けるって。先生と一緒に旅して分かったんです。あたしがやるべき事はこれだって。あたしを一人前のお医者様にして下さい。お願いします」
「そなたが、そう決めたのなら教えてやろう。しかし、ここで一緒に暮らすのは、まずいんじゃないかのう」
「どうしてです」
「そなたはまだ若い。これからじゃ。好きな男ができて嫁に行く事もあろう。わしと一緒に暮らしておったら、あらぬ噂が立ち、嫁に行けなくなるぞ」
「そんな事、構いません。あたしが好きなのは先生です」
「何じゃと」
「あたし、先生が好きなんです。ずっと側にいるって決めたんです」
「ちょっと待て。ちょっと顔を洗って来るから、待ってろ」
風眼坊は布団から出ると、お雪から逃げるように裏にある井戸に向かった。
確かに、お雪の言うように、いい天気だった。積もった雪が日差しを浴びて眩しかった。
朝っぱらから脅かしやがる‥‥‥まったく、はっきり、物を言う女だ。まあ、お雪がはっきりと物を言う女だと思ったのは、今に始まったわけではない。初めて会った時から、そう思っていた。しかし、朝っぱらから、あんな事を面と向かって言われるとは思ってもいなかった。さすがに、風眼坊でも戸惑ってしまっていた。
冷たい水で顔を洗って、さっぱりすると風眼坊はお雪の待つ部屋へと戻った。すでに、布団はたたんであった。
お雪は風眼坊を見るとニッコリと笑った。
「あたし、ここにいてもいいのですね」
「仕方ないのう。ただし、わしの娘という事にしろ」
「娘ですか」
「そうじゃ。年が違い過ぎるからの」
「上人様と裏方(ウラカタ)様も親子のように年が離れています。それでも立派に夫婦です」
「それはそうじゃが、わしには妻も子もおるんじゃよ」
「構いません。遠い所にいるんでしょ。ここではあたしが先生の奥さんです」
「勝手に決めるな」
「先生はあたしの事、嫌いなんですか」
「嫌いではない」
「好きですか」
「まあ、好きじゃのう」
「よかった。嫌われてたらどうしようかと思った。先生と一緒に暮らせるなんて夢みたい。あたし、生まれて初めて幸せになれたのね」
お雪はうっとりとした目付きで風眼坊を見つめていた。
風眼坊は何も言えなかった。ただ、お雪が幸せだと言うのなら、それでもいいのかもしれないと思った。幼い頃、家族を失い、それ以後、自分というものを捨て、ひたすら仇討ちに生きて来た。幸せなんていう言葉なんか、まったく縁がなかったのかもしれない。そのお雪が、風眼坊と一緒にいて幸せだと感じるのなら、それでいいのだろう。風眼坊にしてみれば、お雪と一緒に暮らす事に文句などあるはずはなかった。自分の娘を嫁に出した後、娘のような若い女と一緒に暮らすなんて、風眼坊の方こそ夢のような事だった。
まさか、初日から患者が訪ねて来るとは思ってもいなかったが、蓮崇と慶聞坊が門徒たちに宣伝しているとみえて、五人の年寄りが体の具合が悪いと言って訪ねて来た。風眼坊は患者たちから話を聞き、症状に合う薬を与えた。
代物(ダイモツ、代金)の方は、まだ、決めていなかったが五文(モン)程貰う事にした。五文と言えば、米にして約五合、塩なら一升程、買う事ができた。当時、人夫(ニンプ)の賃金として一日二十文位、職人の賃金として一日五十文前後だった。初日に二十五文もの収入があったとは、なかなか幸先がよかった。毎日、十人程の患者を診て、五十文もの収入があれば、薬を仕入れても、二人位、楽に食べて行く事ができた。
風眼坊とお雪が一緒に暮らし始めて、二ケ月が過ぎた。
誰もが羨む程、仲睦まじい夫婦だった。そして、町医者の方もうまく行っていた。患者が来ない日はないと言っていい程、毎日、怪我人や病人が訪ねて来ていた。また、寝たきりの病人がいると聞けば、雪の積もった山の中でも気安く飛んで行った。
長かった冬もようやく終わり、積もっていた雪も溶け、夜の冷え込みも緩くなって行った。
患者もいなくなった夕方、風眼坊は縁側で、乾燥させた薬草を薬研(ヤゲン)を使って砕き、粉薬を作っていた。
お雪は台所で夕飯の支度をしている。
以外にも、お雪の作る料理はうまかった。次郎の側室(ソクシツ)だったので、料理なんか、まったく知らないだろうと思っていたのに、家族を亡くしてから、叔母と二人であちこちを点々としたため、その頃より叔母と一緒に食事の支度はしていたと言う。そして、御山(オヤマ)にいた時も、蓮如の妻、如勝より色々な料理を教わったらしかった。
風眼坊も御山にいた時、御馳走になった事があり、大層、立派な料理だった。初めて、その料理を出された時、蓮如は毎日、こんな贅沢をしているのか、と思ったが、それは違った。蓮如の食事は実に質素なものだった。立派な料理は遠くから来た門徒たちを持て成すためのものだった。蓮如は本当に門徒たちを大切にしていた。
日の暮れる頃、血相を変えた慶聞坊が風眼坊の家に飛び込んで来た。慶聞坊は門から入って来ると、そのまま土間の方に行こうとしたが、縁側にいる風眼坊を見つけると、「風眼坊殿」と叫びながら縁側の方にやって来た。
「大変な事が起こりました」と息を切らせながら言った。
「どうした、蓮如殿に何かあったのか」と風眼坊は聞いた。
「いえ、違います。戦です。戦がまた始まったのです」
「何じゃと」と風眼坊は手を止め、慶聞坊を見上げた。
「一体、どこで、戦が始まったんじゃ」
「石川郡です」
「まあ、坐って、落ち着いて話せ」
慶聞坊は頷いて、縁側に腰を下ろすと、「大変な事になったもんじゃ」と呟いた。
風眼坊は薬研と薬草を片付けながら、「いつ、始まったんじゃ」と聞いた。
「一昨日(オトトイ)です。木目谷の道場が富樫勢に攻められ、湯涌谷(ユワクダニ)まで逃げたそうです」
「富樫勢は急に攻めて来たのか」
「そうらしいです」
「蓮崇殿は現場に行ったのか」
「いえ、慶覚坊(キョウガクボウ)殿に連絡して、慶覚坊殿に行ってもらう、と言っておりました」
「慶覚坊にか‥‥‥蓮崇殿はまだ動かんのか」
「今、頼善(ライゼン)殿が留守なので、蓮崇殿が御山からいなくなるわけにはいかないのです」
「蓮如殿はまだ知らんのじゃな」
「はい。まだ知りません。しかし、そのうち、本泉寺などから知らせが入る事でしょう」
「おぬしはどうする」
「わたしも動けません」
「じゃろうのう‥‥‥雪溶けと共に敵は動き出したか‥‥‥」
「はい‥‥‥」
「その木目谷の道場主というのは国人門徒なのか」
「そうです。高橋新左衛門という国人です」
「やはりのう。荘園横領を大義名分にして、攻めて来たんじゃな」
「はい。しかし、無茶な事を言って来たようです」
「無茶な事?」
「横領した荘園を本所に返し、しかも、去年の年貢を本所に払え、と言って来たんです」
「なに、去年の年貢?」
「はい。しかし、そんなものはすでにありません。去年、年貢米のほとんどを幸千代に徴収され、残っていた年貢米も本願寺のために使ってしまったはずです」
「成程のう。それで、その高橋とやらは敗れてどうしたんじゃ」
「湯涌谷に逃げ込んだらしいのですけど、それから、先、どうなったのかは分かりません。そのうち、また、新しい情報が入るとは思いますが」
「そうか‥‥‥」
「あら、慶聞坊様」とお雪が台所の方から声を掛けた。「お久し振りです。どうぞ、今晩は、ゆっくりしていって下さいね」
「お内儀(ナイギ)、そうもいかんのです」と慶聞坊は言うと立ち上がった。「そろそろ、戻ります」
「そうか。いや、わしも行こう。久し振りに蓮如殿に会いたくなったのでな」
風眼坊はお雪に一言、声を掛けると、慶聞坊と共に御山に登った。
3
一揆が再燃した。
それは、守護富樫勢の一方的な攻撃で始まった。
北加賀守護代の槻橋近江守(ツキハシオオミノカミ)はおよそ一千の兵を引き連れ、高橋新左衛門の道場及び、屋敷を不意に襲撃した。あまりにも急の襲撃だったため、新左衛門は立ち向かう事もできず、浅野川に沿って谷の中へと逃げ込み、湯涌谷の国人門徒、石黒孫左衛門を頼った。槻橋近江守は見せしめのためにと、百姓たちにも容赦なく攻撃したため、新左衛門を初め、門徒たち二千人余りが湯涌谷へと逃げ込んだ。
槻橋近江守は木目谷から新左衛門を追い出すと、そのまま、その地に陣を敷き、湯涌谷を睨んでいた。
守護富樫次郎は、今年の初め、守護として加賀国内の荘園や家臣たちの領地を確認すると共に、横領されている荘園については元の領主に戻すようにと命じた。
当然、高橋新左衛門のもとにも、その命令は来たが新左衛門は無視した。守護自身が石清水(イワシミズ)八幡宮や伏見稲荷社の荘園を横領していながら、そんな勝手な命令を出しても、誰も従うはずはなかった。新左衛門にしても、富樫が守護として幕府や荘園領主の手前、一応、形だけの命令を下したものだと思った。命令に従わなくても、まさか、攻めて来る事など絶対にあり得ないと高をくくっていた。
高橋新左衛門が横領していた荘園は大桑庄の一部と若松庄の一部だった。大桑庄の荘園領主は公家の甘露寺親長(カンロジチカナガ)、若松庄の荘園領主は同じく公家の烏丸資任(カラスマスケトウ)だった。現地にいない荘園領主から見れば、それは確かに横領という事になろうが、実際、新左衛門は武力を持って、それらの荘園を手にしたわけではなかった。
荘園といっても、昔のように守護不入の地などと言ってはいられなかった。侵略されずに荘園を保ち続けて行くには、常に在地の権力と手を結ばなければならなかった。特に加賀の国のように守護がころころと変わるような所では、荘園を守るため、荘官(代官)自身も武力を持ち、回りの状況に対処して行かなければならない。その中で、武力を持たない公家たちの荘園は守護や地頭、あるいは力を持ち出した国人たちに侵略されて行った。残った荘園は幕府と何らかの関係のある公家や寺社、そして、自らも武力を持つ大寺院のものだった。それらの荘園も応仁の乱以降、幕府の力が弱まって来るに連れて侵略されていった。長い間、荘園を守っていた荘官たちにとって、領主から独立する機会が訪れたと言ってもよかった。今まで、幕府や守護を恐れて領主に反抗する事ができなかった荘官たちは、預かっていた荘園、すべてを自分のものにしようと考えた。いかに時の流れと言え、それだけでは彼らは独立する事はできない。独立するには後ろ盾となる者を必要とした。
そこに現れたのが本願寺だった。
守護は当てにならなかった。守護に保護を求めても、その守護はすぐに変わってしまう。守護が変わる毎に、多額の礼銭を持って挨拶に行かなければならない。また、下手に守護に近づき過ぎれば、新しい守護に痛い目に会う事もある。荘官たちは、そんな守護を頼るよりも本願寺を頼る事にした。有力な国人たちが次々に門徒となって行くのを見ていた彼らは、自らもその道を選び、門徒となって行った。
大桑庄と若松庄においてもそうだった。二つの荘園の荘官は、まず、大桑善福寺の門徒となった。しかし、善福寺は武力を持っていない。そこで、善福寺の門徒であり、武力も持つ国人の高橋新左衛門の配下という形となった。
以前、高橋新左衛門とそれらの荘園の荘官は争いを繰り返していた。隙あらば侵略しようとする新左衛門に対して、頑強に荘園を守り通して来た。その二人が戦う事なく、自分の配下になるという事は、いかに時の流れとはいえ、新左衛門にとって笑いの止まらない程、愉快な出来事だった。
高橋新左衛門は浅野川を押えて勢力を広げて行った国人だった。祖先は浅野川の上流にある医王山海蔵寺の山伏だったと言う。その山伏が浅野川の輸送権を手に入れて山を下り、木目谷に腰を落ち着け、浅野川の川の民を支配して行った。
浅野川は医王山と加賀側の里を結ぶ重要な水路であり、途中には山崎の窪市(クボイチ)という大きな市もあり、河口は河北潟を経て宮腰(ミヤノコシ)の湊につながっていた。山内にある数多くの寺院で消費される物資のほとんどは、この浅野川によって運ばれ、また、山内で作られた薬や櫛や扇などは商品として、山崎窪市を初め、さらに遠く、京の都までも運ばれて行った。
新左衛門の父親は五郎左衛門といい、すでに亡くなっていたが、五郎左衛門は浅野川の川の民を支配するだけでなく、浅野川流域の土地をも支配しようと試みた。しかし、それは難しい事だった。五郎左衛門の頃の時代になると加賀国内での争いが絶えず、浅野川流域の国人たちも互いに争い、弱い者は滅ぼされ、強い者だけが残り、五郎左衛門がその中に割り込む隙はなかった。
五郎左衛門は土地を手に入れる事は諦め、浅野川の輸送権、すべてを支配しようとした。浅野川の水路を利用しているのは医王山だけではない、当然、川の流域にいる国人たちや寺社も利用していた。
当時、川というのは無縁の地とされ、武士の支配対象にはならなかった。五郎左衛門はその川を支配しようとした。その川で生活する者たちをすべて支配しようとした。
川の民は古くは聖徳太子の信仰を持っていたが、遊行聖(ユギョウヒジリ)の布教によって時宗の徒になる者が多かった。浅野川の流域にも幾つかの時宗の道場ができ、川の民のほとんどが時宗の徒となって行った。
五郎左衛門はその時宗を利用した。自ら、時宗の徒となって川の民を支配する事に成功した。天台宗である医王山は、五郎左衛門が時宗の徒になった事に腹を立てたが、銭を積む事によって解決した。すでに、五郎左衛門は医王山の後ろ盾が無くても、浅野川を支配する事ができる程に成長していた。そして、新左衛門の代になって時宗から本願寺に鞍替えをして、さらに勢力を強めて行った。
守護から荘園を横領したと言われても、新左衛門にはそんな事をした覚えはなかった。配下に荘園の荘官はいるが、その荘園を横取りした覚えはない。まして、その荘園の年貢米を奪い取った覚えもなかった。その年貢米を奪い取って行ったのは守護の方だった。戦のためと言いながら各荘園からしぼれるだけ取って行った。去年の年貢米を領主に払えと命ずるが、去年の年貢米のほとんどは幸千代に力づくで奪われ、残っていたものは本願寺の兵糧米となって消えていた。
新左衛門は守護の命を無視した。
無視をしても、守護となった富樫次郎が本願寺の門徒に刃向かうはずはないと過信していた。新左衛門から見れば、富樫次郎など本願寺によって守護になったようなものだった。本願寺の門徒に刃向かうような事があれば、幸千代のように法敵として退治すればいいと考えていた。門徒たちは幸千代を倒した時のように武器を持って集まり、あっという間に、次郎など倒してしまうだろうと簡単に考えていた。
門徒たちは自分の立場で物を考え、蓮如の立場というものを考えなかった。本願寺門徒に敵対する者は皆、法敵だと考え、上人様も同じように考えるに違いないと信じていた。彼らは信仰と現実社会を同じものとしてとらえていた。
しかし、上人である蓮如から見ると、門徒に敵対するだけでは法敵とはならなかった。蓮如の考えでは、現実社会においては社会の決まりに従い、毎日毎日を過ごし、その生活の中において本願寺の教えを信じ、阿弥陀如来に感謝して念仏を唱えよ。そうすれば必ず、極楽浄土に往生できると説いていた。
そこに、蓮如と門徒たちの間に考え方の違いがあった。
人は誰でも確信という物を欲しがる。それは信仰の世界においても同じだった。念仏を唱え、極楽に行けると坊主に言われても、何かの確信が欲しかった。そして、蓮如が嫌っていた異端の教えが流行る事となった。人々は極楽往生の確信を得るために、坊主たちに多額の志しを与え、その志しの多寡(タカ)によって往生は決められた。門徒たちは、これだけ多くの志しを収めたのだから往生は確実だと思い、坊主はその事を保証した。また、名帳(メイチョウ)に自分の名が記入される事によって、その確信を得た。その教えは貧しい者たちには縁のない教えだった。そこに蓮如が現れ、貧しい者たちの間にまで教えを広めた。教えはどんどん広まって行った。しかし、貧しい者たちでも確信が欲しいと思う気持ちは同じだった。念仏を唱えれば救われる。そう言われても、その証(アカシ)が欲しかった。
誰もがそう感じていた時、一揆が起こった。
本願寺の門徒として法敵を退治する、と言う名目のもと、門徒たちは一揆に参加した。初めは誰もが不安を感じながら一揆に参加していた。法敵とはいえ相手は守護であった。代々、加賀の国を支配していた富樫家であった。守護に立ち向かう事など、今まで考えてもみなかった下層階級の者たちが一揆に参加していた。同じ門徒と呼ばれる仲間が続々と武器を持って集まる事によって不安は吹き飛び、一種の集団心理によって、力を合わせれば何でもできると思うようになって行った。ただ、お互いに門徒であるというだけで、今まで知らなかった連中たちとも近親感がわき、一つにまとまる事を可能とした。そして、守護である富樫幸千代を門徒の力によって倒した。そこに初めて、確信というものを門徒たちは持った。その確信は、死んだ後、極楽に往生するというものではなく、今、現在を門徒たちの力によって変える事ができるという確信だった。
守護を相手に戦う事など、考える以前に絶対に不可能だった事が、門徒たちが力を合わせる事によって可能となった。門徒の誰もが、蓮台寺城を取り巻く門徒の数を見て圧倒されていた。自分たちの仲間はこんなにもいる。こんなにもいれば何でもできる。そして、実際にできた。その事を身を以て体験した門徒たちに怖い物はなかった。守護の富樫次郎が何を言おうと平気だった。もし、門徒たちが次郎に襲われる事になったとしても、きっと、また、大勢の門徒たちが助けに来てくれる。そう確信していた。
突然の守護勢の襲撃に敗れた新左衛門は大勢の門徒たちと一緒に浅野川の上流、湯涌谷に逃げ、湯涌谷において合戦の準備を始めた。新左衛門にしろ、湯涌谷の国人門徒、石黒孫左衛門にしろ、一気に富樫次郎を滅ぼすつもりでいた。各地の門徒に連絡を取り、幸千代の時と同じように次郎を攻め滅ぼすつもりでいた。
新左衛門も孫左衛門も江沼郡の門徒たちとは違い、この間の戦の時、蓮如がどれ程、辛い立場に立って苦しんでいたのかを知らなかった。二人共、蓮如の教えは御文を通して充分に理解していた。蓮如が争い事を好まない事も知っていたし、社会の決まりを守れ、という事も知っていた。その教えを知っていたから松岡寺(ショウコウジ)が危機に陥った時も動かなかった。しかし、蓮如は『法敵を倒せ』と命令した。彼らはどれだけの苦悩の後で、蓮如がその命令を出さなければならなかったか、という事を知らなかった。蓮如が『法敵を倒せ』という事を命じた事によって、彼らは本願寺門徒に敵対する者は、すべて法敵で、それらは退治しなければならないと勘違いした。今回の場合、彼らから見れば、富樫次郎は本願寺門徒に害を及ぼす、法敵に他ならなかった。
新左衛門は湯涌谷において、浅野川の川の民を自由に操りながら着々と戦の準備を進めていた。
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