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10.太郎坊移香
1
枯葉を相手に太郎の修行は続いていた。
毎日、刀を振り回しながら、跳びはねていた。
何とか、四枚目まではできるようになったが、最後の一枚は難しかった。立木を相手に、風眼坊から教わった三つの技の稽古も怠りなくやっていた。
冬はもうすぐ終わろうとしている。
太郎と風眼坊は木剣を構えていた。
風眼坊は八相に構えた。太郎がよくする構えであった。
太郎は中段に構えた。そして、風眼坊の目と肩を見ながら進み出て、風眼坊の左腕を狙い打つために木剣を上げた。
風眼坊は太郎の動きに合わせ、右足を大きく踏み込み、腰を落とし、構えていた剣を右側に回し、下からすくい上げるように太郎の左上腕を打った。
「よし、次だ」と風眼坊は木剣を目の高さに水平に構えた。
右手で柄を持ち、左手は剣先から五寸程の所を手の平にのせるように構えていた。まるで、剣を捧げ持っているかのようだった。
太郎は中段に構え、水平に構えられた風眼坊の木剣を見つめた。
狙う所は胸から下しかなかった。
太郎は中段から、上段の構えに変えた。
上段のまま風眼坊に近づくと、上段から風眼坊の右腹を狙って木剣を横に払った。
風眼坊は柄を握っている右手を軸に、左手を下に下ろし、剣を垂直にして太郎の剣を受け止めた。
太郎はすかさず、受け止められた剣を上段に上げ、風眼坊の左腕を狙って打ち下ろした。
風眼坊は元の構えに戻り、太郎の剣を受け、右側にすり落とすと左足を深く踏み込み、左手は剣の先の方を押えたままで、太郎の喉元を突く、寸前に剣を止めた。
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「まあ、こんなもんじゃな」と剣を引きながら風眼坊は言った。「あとは自分で工夫する事だ」
太郎は頷き、お礼を言った後、「師匠、ここから離れるんですか」と不安な面持ちで聞いた。
「ああ、そろそろな」
「いつです」
「気が向いた時じゃ」
「俺も連れて行って下さい」
「剣なんていうもんは人から教わるもんじゃない。自分で工夫するもんだ。今のお前なら、あとは一人でもできる」
「師匠はどこに行くんです」
「当てはない。また、しばらくは旅が続くじゃろう‥‥‥」
「俺も連れて行って下さい。俺も世の中が見たいんです」
「お前は水軍の大将になるんじゃろう。これからは水軍の勉強でもしろ」
「大将になるために、もっと世の中の事が知りたいのです。ぜひ、俺も連れて行って下さい」太郎は必死になって頼んだ。
風眼坊は木剣を突いて、海を眺めていた。「ここは戦乱に巻き込みたくないのう」
風眼坊自身、これから、どこに行くという当てはなかった。
京の戦が終われば、何かやるべき事が見つかるだろうと思っている。しかし、戦はまだ終わっていない。もうしばらく、ここに居てもいいのだが、長年の旅の癖で一ケ所にあまり落ち着いていられない。とにかく、一度、吉野に帰ってから大峯山にでも入ろうかと思っていた。
「お願いします。連れて行って下さい」太郎は風眼坊の横にひざまづき、風眼坊を見上げて言った。
「ああ」と風眼坊は曖昧に頷いた。「ただし、父親にちゃんと許可を得て来い」
太郎は稽古が終わると家に戻り、祖父だけに訳を話し、許しを得、旅支度をすると陰ながら、祖母と母、そして、二人の弟と妹に別れを告げ、夜になると家を飛び出して山に向かった。
もしかしたら、もう、風眼坊はいないかもしれないと思いながら、急いで夜の山道を登った。
風眼坊は寝ていた。
太郎は安心して小屋の中で横になった。
「どうした」と風眼坊が聞いた。
「旅の支度をして参りました。いつでも出掛けられます」
「気の早い奴じゃ‥‥‥親父の許しを得て来たか」
「はい」と太郎は嘘をついた。
「ふん。嘘つけ、お前の親父は今、熊野に行ってるはずじゃ」
「熊野?」
「ああ、新宮に用があるらしい。昨日、会った時、出掛ける所じゃった」
「父上とは、よく会っていたんですか」
「ああ、なぜか気が合っての‥‥‥何回か一緒に飲んだ」
「そうだったんですか‥‥‥」
「今日はもう寝ろ」
「俺を連れて行ってくれますね」
「ああ」と風眼坊は言うと、あくびをして寝返りをうった。
朝飯を済ますと風眼坊は城下に下りて行った。
太郎も付いて行くと言ったが、ちゃんと戻って来るから待っていろ、わしにも別れを告げる女子(オナゴ)がいるんじゃ、と言って出掛けて行った。
太郎は一人で剣の稽古をして待っていた。
風眼坊が帰って来たのは次の日の朝、日がかなり昇ってからだった。
「さて、行くとするかの」
太郎は山の上から城下を見下ろした。
今、改築工事をしている五ケ所城の詰の丸が見えた。真新しい瓦屋根がまぶしかった。
海の方に目を移すと田曽浦の辺りに関船が二艘、浮かんでいる。
父上はもう、帰って来ているのだろうか、と、ふと思った。
また、しばらく、ここともお別れだな‥‥‥
太郎は水平線を見つめた。
「いい所じゃった」と風眼坊がしみじみと言った。
風眼坊も太郎の隣に立って海を見ていた。
「いい女子もいたしのう‥‥‥お前の親父殿に会えたのも良かった」
「父上に?」
「ああ、人と人との出会いというものは不思議なもんじゃ‥‥‥会いたいと思う奴には、なかなか会えなかったり、会うはずのない人間と出会ったり‥‥‥ここで、お前と会わなかったら、お前の親父、水軍の大将と会うなんて事はなかったじゃろう。わしは今まで、山ばかり歩いて来て海の事など考えてもみなかった。ここで、お前の親父に会って、世間を見る目が広くなって来たわ‥‥‥お前の親父とはこれからも何回か会う事になるじゃろう‥‥‥本当に気が合う奴っていうのは、なかなかいないもんじゃが、お前の親父とはほんとに気が合った。いい奴じゃ」
太郎は改めて風眼坊を見た。今まで気がつかなかったが、風眼坊と父親とは丁度、同じ位の年齢だった。
二人は山を下りた。
北へと向かっていた。
太郎が毎朝、水を汲んでいた沢に出た。太郎はここに来るたびに、小春の事を思い出していた。
今頃、幸せに暮らしているだろうか。
やはり、木地師の所に嫁に行ったのだろうか。
小春の家の前まで来ると、小春の父親が息子と二人で丸太をくりぬいて舟を作っていた。
「とっつぁん、元気か」と風眼坊は小春の父親に声を掛けた。
小春の父親は顔を上げると、「へい、お陰様で」と言い、風眼坊と一緒にいる太郎を見て、軽く頭を下げた。
「六兵衛殿は、今、家におるかの」と風眼坊は聞いた。
「へい、いると思いますだ」
「そうか、子供の目は治ったか」
「へい、お陰様で、もう、すっかりと」
「そいつは良かった、それじゃあな」
小春の父親に見送られて、風眼坊と太郎はそこを去った。
「知り合いなんですか」と太郎は不思議そうに聞いた。
「まあな、あのとっつぁんの子供の目を治してやったんじゃ」
「そうだったんですか」
「奴らも可哀想な奴らよ。奴らは土地を持っとらんからの、木を細工して色々な物を作っているが、それが売れなければ食っていけん。京の戦騒ぎで物価がどんどん上がっている。物価が上がれば、みんな、食うのが精一杯じゃ。とっつぁんの作った物は売れなくなる。仕方なく、娘を手放さなくてはならなかったそうじゃ」
「娘を手放す?」
「ああ、宇治の遊女屋に売ったそうじゃ」
「え?‥‥‥」太郎は自分の耳を疑った。
小春が遊女屋へ‥‥‥
嫁に行ったんじゃなくて、遊女屋へ‥‥‥
急に、目の前が真っ暗になったように感じられた。
「小春が遊女屋へ行ったっていうのは本当ですか」
太郎は風眼坊の錫杖をつかみ、風眼坊の足を止めて、聞いた。
「可哀想じゃのう‥‥‥お前、その娘、知ってたのか」
「はい‥‥‥」
「惚れてたのか」
「‥‥‥」
「忘れるんじゃな‥‥‥身分が違いすぎる」
「‥‥‥身分‥‥‥身分とは一体、何なんです」
「人が人を支配するために人が作ったものじゃ。一番上に天皇がいる。次に将軍じゃ。将軍の下に武士がいる。武士にだって色々な身分があるじゃろ。国を支配する守護職(シュゴシキ)、その下に地頭、その下に国人だの、郷士だの。そして、武士の下には百姓、百姓の下には山の民や川の民などがいる‥‥‥今、この仕組みが壊れようとしている。力のある者がのし上がって来ようとしている。しかし、身分というものがなくなる事はないじゃろう。上に立つ者が人々を支配していくためには、どうしても身分というものを決めなくてはならんのじゃ。俗世間から離れているはずの坊主の世界にもそれはある。支配する者がいる限り、身分というものは消えんじゃろう‥‥‥」
「五ケ所浦にある遊女屋にいる女たちも小春と同じように売られて来た娘なんですか」
「そうじゃ。誰が好き好んであんな世界に入る。一度、あの世界に入ったら抜け出す事は難しい」
風眼坊はまた、歩き始めた。
太郎は呆然と立っていた。
太郎は京に行く途中、行き会った娘たちの事を思い出していた。人相の悪い男たちに囲まれて、哀しそうに歩いていた。小春もあんな風に連れて行かれたのだろうか‥‥‥
「何してる、早く来い」と風眼坊が言った。
「俺は小春を助けます」と太郎は言った。
「やめとけ、かえって不幸になる」
「どうしてです」
「お前はいいが、その娘は苦しむ」
「どうしてです」
「どうしてかな、それは自分で答えを出せ。それにはまず、お前が武士だという事を忘れなくてはならん」
「武士でなかったら何なんです」
「ただの人間じゃ。さっき、お前があのとっつぁんに会った時、どう思った」
「どうって?」
「俺は武士だ。あのとっつぁんより身分が高いんだ。俺の方が偉いんだ。そう思わなかったか」
「‥‥‥」確かに、風眼坊の言う通りだった。身分が何だと思いながらも、心の中ではいつも、自分は水軍の大将の伜だ、そこいらの奴らとは違うんだと思っていた。
「まず、お前自身が身分という枠から飛び出さなくてはならん。お前は武士の子として、今まで育てられて来た。急に見方を変えろと言っても無理じゃろう。徐々に変えて行くんじゃな‥‥‥そう、深刻な顔をするな。もっと、気を楽に持て」
二人はまた、山の中に入った。
太郎は小春の事を思いながら、風眼坊の後を追っていた。
風眼坊は山の中の細い道をどんどん進んで行った。
太郎も山歩きは慣れているが、風眼坊は山の中をまるで平地のように、平気な顔をして歩いていた。こんな所に道なんかあったのかと思うような山奥でも細い道が続き、風眼坊は迷わず、その道をたどって行った。
「師匠、この道は何の道ですか」
「不思議じゃろう。この道は山人の道じゃよ。普通の人間はまったく知らんが、山がある限り、こういう道は必ずあるんじゃよ。街道が表の道なら、これは裏の道じゃ。世の中にはな、表があれば、必ず、裏があるという事をまず、覚えておけ」
山を抜け出ると、ちょっとした平地に出た。細い川が流れ、川のほとりに二軒の家が建っていた。
「あの家が、この辺りの山を仕切っている六兵衛の家だ」と風眼坊はその家に向かって行った。「奴は、この辺りの事なら何でも知っている」
六兵衛と呼ばれる男は痩せて、腰の曲がった老人だった。どう見ても、この辺りを仕切っている程の男には見えない。どこにでもいるような田舎の爺さんだった。
六兵衛は一人、木の屑の中に座り込んで、小さな阿弥陀如来の木像を彫っていた。回りには大小様々の観音様、お地蔵さん、恵比寿様などの木像が並んでいた。
風眼坊が顔を出すと、「風眼坊殿か、そろそろ、ここのお山も飽きてきたと見えますな」と老人は笑いながら言った。その顔は、いかにも嬉しそうだった。
「そろそろ陽気も良くなったんでな、吉野に花見にでも行こうと思っておる」
「そりゃ、また、結構な事で‥‥‥」
六兵衛は風眼坊と一緒にいる場違いな侍姿の太郎を見たが、別に何も言わなかった。
「ところで、六兵衛殿、何か変わった事でも起きてませんか」
「そうよのう、まだまだ、この辺りは平和じゃ。宇治と山田で神人(ジニン)共のちょっとした、いざこざがあったがの、何とか治まったらしい。それと、多気の御所が何やら動き出してるらしいのう」
多気の御所とは伊勢の国司、北畠教具の事である。
教具は去年の夏、守護代の世保(ヨヤス)政康を攻め、神戸(カンベ)城で切腹させ、伊勢の国をほぼ支配下に納めていた。
愛洲一族は南北朝時代からの付き合いで北畠氏と同盟を結んでいた。同盟とはいえ、北畠氏と愛洲氏では家格も違うし勢力も違う。愛洲氏は北畠氏の被官という形にならざるを得なかった。
「世話になったな」と言うと風眼坊は紙包みを老人に渡した。
「おお、こりゃ助かる。最近の若いもんは怪我ばかりしとるのでな」
「六兵衛殿も達者でな」
「わしゃ、まだまだ元気じゃよ」
二人は老人に別れを告げた。
風眼坊は足が速かった。
太郎は息を切らせながら、やっとの思いで風眼坊の後を付いて行った。
歩く所は山の中の細い道ばかりだった。
時々だが、山から出て街道にぶつかる事もあった。人並みに街道を歩く事ができるのは、まるで極楽のようだった。しかし、その極楽も長くは続かない。また、山の中に入って行く。薄暗い曲がりくねった細い道を登ったり下りたり、それはまさに裏の道だった。
こんな所は人が通る道じゃない。鬼か天狗の通る道だ。太郎は風眼坊の後ろ姿を恨みながら歩いていた。
「師匠、ちょっと待って下さい。速すぎますよ」
「お前が遅いんじゃ。もう少しで山の上に出る。我慢しろ」
やっとの思いで、這うように太郎は登った。
風眼坊は山の頂上から回りを眺めていた。
太郎は頂上に着くと回りを見るどころではなかった。倒れるように横になった。
「師匠、師匠は一日、どの位、歩くんです」
「さあな、二十里(約八十キロ)は歩けるじゃろう」
「山の中を?」
「ああ」
太郎の方は汗をびっしょりかき、息を切らせてハァハァ言っているが、風眼坊の方は汗もかかず、普段とまったく変わっていなかった。
「太郎、お前、本気で強くなりたいか」
「はい、なりたいです」
「今のままじゃ、無理じゃな」
「何でもします。お願いです。教えて下さい」
「まず、基本からやらなけりゃ駄目じゃ」
「基本?」
「山歩きじゃよ。わしと同じ速さで歩けなけりゃ、まず、無理じゃ」
「どうしたら、そんな速く、歩けるようになるんですか」
「訓練しかない‥‥‥お前を面白い所に連れて行ってやろう」
「どこです」
「付いて来ればわかる」と風眼坊はニヤリと笑った。
太郎はやっと汗がひくと立ち上がり、回りを見下ろした。下の方に川が流れているのが見えた。その川に沿って道が続いている。
「ここはどこです」
「まだ、五ケ所浦からたいして離れていない。あそこに見える川は宮川だ。山田の方に流れている。それで、あの道は熊野街道だ。熊野と伊勢をつないでいる」
風眼坊は川と反対側に目を移した。
太郎も反対側を見た。反対側は山がいくつも連なっているだけだった。
「今日は見えんが、天気がいいと山の向こうに海が見える。この山をこっち側に下りると、丁度、一之瀬城の辺りに出る」
「へえ、あそこに‥‥‥」
一之瀬城も愛洲一族の城であった。
南北朝時代の初め頃、愛洲氏は北畠氏を助け、南朝方で活躍して勢力を広げ、五ケ所浦を本拠地として、ここ一之瀬と伊勢神宮の近くの玉丸(田丸)とに分家して、それぞれ栄えていた。一之瀬城はその頃、後醍醐天皇の皇子、宗良親王(ムネナガシンノウ)を迎えた事もあった。
当時に比べれば、少しさびれた感はあるが、伊勢神宮と熊野を結ぶ陸路を押え、その城より南の海岸線に点在している竃方(カマガタ)を支配していた。竃方で取れた塩はすべて、一之瀬の城下に集められ、あちこちへと取り引きされて行った。
太郎も小さい頃、一度、行った事があった。その一之瀬城に太郎と同じ位の娘がいて、一緒に遊んだ記憶がかすかに残っている。あの子ももう、いい娘さんになってるだろう。もう、嫁に行ったのかもしれない‥‥‥
「おい、行くぞ、のんびりしてると日が暮れる」
「今日はどこまで、行くんですか」
「三瀬谷じゃ。そこに知り合いがいる」
「あと、どの位です」
「そう、辛そうな顔をするな。この山を下りたら、すぐじゃ」
「そうですか‥‥‥行きましょう」
膝をガクガクさせながら、やっと山を下りると川が流れていた。
「これが宮川ですか」と太郎は聞いた。
「残念だが違うな。宮川はあの山の向こうじゃ」
風眼坊は目の前に連なっている山を指した。たいして高くない山々だが、今の太郎には目の前にそびえる程、高い山に感じられた。
「あの山を越えたらすぐじゃ。元気を出せ」
「はあ‥‥‥」
元気が出るわけなかった。もう、くたくたで足はフラフラしている。太郎は山の中で拾った木の枝を杖にして、かろうじて歩いていた。
三瀬谷の宿坊に泊まり、朝早くから、また山の中に入って行った。
太郎の足は言う事を聞かなかった。動かすたびに足が痛かった。それでも、風眼坊には何も言わず、黙々と風眼坊の後を付いて行った。
山の中で初めて人と出会った。二人連れの乞食だった。彼らは風眼坊と太郎の前をのろのろと歩いていたが、二人に気づくと山の中に消えてしまった。あれ、どこに行ったんだろう、と太郎は茂みの中を覗いてみた。しかし、彼らの姿はどこにも見えなかった。
「どこに行ったんです」と太郎は風眼坊に聞いた。
「どこにも行きはせん。隠れてるだけじゃ」
「どうして」
「姿を見られたくないからじゃろう」
「どうして」
「奴らは『かったい』じゃ」
「かったい? かったいがどうして、こんな山の中にいるんです」
「じゃから、人に見られないためじゃ。奴らは街道を歩く事ができん。それで、山の中を歩いておるんじゃ。わかったか」
「はい‥‥‥でも、こんな山の中を歩いてどうするんです。一体、どこに行くつもりなんです」
「熊野じゃ。この道はずっと熊野まで続いておるんじゃ。奴らは熊野権現にすがって、病を治して貰おうと熊野に向かっておるんじゃ」
「この道が、ずっと熊野まで‥‥‥」
こんな山の中の細い道がずっと熊野まで続いているとは、太郎にはとても信じられなかった。
「それじゃあ、こっちはどこまで続いてるんです」太郎は今、来た道の方を指した。
「鎌倉じゃ。そして、それから、ずっと奥の陸奥(ムツ)の国まで続いている」
太郎には、ますます信じられなかった。
『かったい』とは癩病(ハンセン病)患者の事である。彼らだけが通る道というのが、普通の人の知らない山の中に熊野を中心にして各国に伸びていた。
その他に、山の中には木地師、鍛冶師、杣人、狩人など山の民たちが通る道、山伏や修行僧、巫女の通る道などがあり、表の街道と同じように山の中を網の目のように張り巡らされてあった。しかし、その道は普通の人が見ただけではわからず、彼らだけの道だった。
太郎は今、かったいの道を杖を突きながら、やっとの思いで歩いていた。
一山、越えると街道に出た。道行く人々がのんきそうに歩いている。太郎は杖を突き、足を引きずり、汗びっしょりになり、必死の思いで歩いていた。
風眼坊は今度は山に入らなかった。街道をどんどん歩いて行く。
「ここを真っすぐ行けば、吉野だ」と風眼坊が太郎を振り返った。
「もう山には入らないんですか」
「入りたいか」
「いえ、いいです」
風眼坊は太郎の情けない姿を見ながら、おかしそうに笑った。
「当分、山には入らん」
太郎は、ほっとした。
二人は宇治、山田(伊勢神宮)と吉野を結ぶ、伊勢街道を吉野に向かって歩いた。
その日は伊勢と大和の国境近くの波瀬という所の神社に泊まった。
次の日になると、太郎の足も大分、良くなった。痛みも取れている。
風眼坊は街道を真っすぐに吉野へは向かわなかった。また、山の中に入って行った。
「どこに行くんです。吉野じゃないんですか」
「お前をいい所に連れて行くと言ったじゃろう。それは吉野じゃない」
「どこです」
「近江(オウミ)じゃ。近江の山の中じゃ。お前が気に入りそうな所がある」
波瀬から山の中を北上して峠を越えると大和の国(奈良県)に入った。山また山である。太郎は薄暗い細い道を風眼坊の後をただ、ひたすら付いて行った。しばらく行くと街道に出た。
「この道を右に行けば伊勢に戻って多気に行く。北畠氏の本拠地、多気の御所じゃ。賑やかな所じゃ。山の中じゃがな、まるで、戦前の京のように栄えておる。左に行けば南都、奈良じゃ」
風眼坊はそう説明すると進路を左に取った。二里程、街道に沿って歩き、また、山の中に入った。目の前に、屏風のようにそそり立つ岩山がせまっていた。
「あの山を越えるんですか」と太郎は恐る恐る聞いた。
「そうだ、いい山じゃろう」
風眼坊は気楽に答えて、楽しそうに山を眺めた。
あの凄い岩をよじ登るのか、もうどうにでもなれと太郎はやけくそ気味になっていたが、岩場は通らなかった。かなり、きつい山道だったが岩場を避けるように道は続いていた。
山頂に着くと眺めが良かった。この辺りでも一番高い山のようだった。東から北にかけて、岩山が続いているのが見えた。所々に奇妙な変わった形をした岩が飛び出している。
この山の隣に同じ位の高さの山があり、尾根続きにつながっていた。細い道も尾根続きにつながっている。道と言っても、ただ、見ただけではよくわからないが、風眼坊に連れられて山の中ばかり歩いて来たお陰で、太郎にもその山の道がだんだんとわかってきた。
二人は尾根づたいに道を進んで行った。下り道が多くなり、歩くのも、それ程、辛くなかった。尾根道は沢で遮られていた。
「伊賀に入ったぞ」と風眼坊は言った。
二人は沢の流れに沿って歩いた。歩くにつれて、沢の回りに奇怪な形をした岩々が、そそり立って来た。滝もかなりあった。沢は深くはないが、流れはかなり速い。細い道は、その沢を中心に右に行ったり、左に行ったり、曲がりくねっている。沢を渡る時は、水の中に入らなければならなかった。春とはいえ、水は凍るように冷たかった。
沢の両側に岩壁がせまっている所では、岩に張り付くようにして通らなければならなかった。もし、落ちたら速い流れに流され、先に滝でもあれば死ぬかもしれない。
かなり高い滝も二、三あった。そんな所は山の中を迂回したり、滝のそばの岩場を岩に抱き付くようにして下りて行った。
また、急に深い淵になり、水の流れがゆっくりしている所もあった。水は綺麗に澄んでいて下の方まで良く見える。夏だったら泳いで渡れるが今はまだ寒い。岩に張り付きながら渡って行った。
「ここは赤目の滝と言ってな、修験者の行場じゃ。面白い所じゃろう」と風眼坊は言った。
確かに面白いと言えば面白いが、太郎は凄い所だと思った。太郎の育った五ケ所浦の山々に、こんな岩だらけの所はない。しかも、その岩の中に沢が流れていて滝がいくつもある。山の神秘さというものに、太郎は益々、引かれて行った。
沢から少し離れ、山の中をしばらく歩くと急に視界が開け、目の前に大きな滝が白いしぶきを上げて落ちていた。
「不動の滝じゃ」と風眼坊は言うと、両手で印を結び真言(シンゴン)を唱え始めた。
お前もやれと言うので、太郎は意味が全くわからないまま風眼坊の真似をした。
「ノウマクサンマンダ、バーザラダ、センダマカロシャダ、ソワタヤ、ウンタラター、カンマン」
「どういう意味です」と太郎は聞いた。
「意味か」と風眼坊は太郎を見て笑った。「お前が強くなるための呪文じゃよ」
そこから、少し行くと小さな庵が建っていた。
「おい、栄意坊(エイイボウ)、いるか」と風眼坊が庵に向かって言った。
返事はなかった。
風眼坊は庵の中を覗いた。「留守のようじゃな。まあ、いい。待ってるか」
風眼坊は庵の中に入って行った。太郎も中に入った。
中には筵(ムシロ)が敷いてあった。隅の方に山伏が背負う笈と法螺貝が置いてあり、壁に錫杖が立て掛けられてあった。
風眼坊は草鞋を脱いで上がりこむと座りこんだ。
「お前も上がれ」
太郎も草鞋を脱ぐと足や袴に付いた泥を落とし、筵の上に上がった。
風眼坊は隅に置いてあった瓶子(ヘイジ)を手に取り、蓋を取って中を覗くと匂いを嗅いだ。
「酒がある。飲みながら待っていよう」
「いいんですか。そんな勝手な事をして」
「いいんじゃ。奴とわしは兄弟みたいなもんじゃ」
風眼坊はお椀を見つけると酒を注ぎ、一口飲んだ。
「うまい。山歩きの後の酒は格別じゃな。お前も飲め」
二人は酒を飲みながら、栄意坊を待っていた。
一時(二時間)程して、酒が空になる頃、栄意坊行信は戻って来た。
栄意坊は髭だらけの男だった。山伏の格好はしているが、すでにボロボロになっていて、ボロ布をまとっているようなものだった。
小屋に入って来て、風眼坊の顔を見ると、まず、「オー!」と吠えた。
「風眼坊か、久し振りじゃのう」と髭だらけの顔の中で目だけが笑っていた。
栄意坊は右手に短い槍を持ち、左手に竹の籠をかかえていた。
「今朝な、お不動さんからお告げがあったんじゃ。来客ありとな。それも珍客来たりとな。そこで、ほれ、魚を取って来たんじゃよ」
栄意坊は籠の中を見せた。五、六匹の大きな魚が入っていた。
「おぬし、相変わらずじゃな」と風眼坊は栄意坊の胸を小突いた。
「ハハハハハ」庵が壊れそうな程、大きな声で栄意坊は笑った。
「魚はありがたいがの、こいつがなくなったわ」と風眼坊は空の瓶子を栄意坊に見せた。
「なに、酒がない。ウーム、そいつは困ったの‥‥‥延寿院に行けば、酒などいくらでもあるが、あそこはあまり行きたくねえ」
栄意坊は取ってきた魚を土間に置くと腰を下ろした。魚はまだ生きていて、籠の中で跳ねていた。
「どうした、また、喧嘩でもしたのか」と風眼坊は栄意坊に聞いた。
「いや、そうじゃねえがな、あそこはどうも抹香(マッコウ)臭くていかん」
「まあ、おぬしにはこの草庵の方が似合っとるよ」
「何を言うか、そりゃお互い様じゃ‥‥‥そうじゃ、おぬし、弥五郎を覚えとるか」
「弥五郎‥‥‥百地(モモチ)の弥五郎か」
「そうじゃ。奴がこの近くにおるんじゃよ」
「ほう。百地の小僧がこの辺りにか」
「まあ、あの頃は小僧じゃったが、今はもう、かあちゃんを貰ってガキまでおるよ」
「何してるんじゃ」
「表向きは百姓をやってるが裏の方も盛んらしい。若いのを五、六人使ってる」
「ほう。百地の小僧がな、偉くなったもんじゃの」
「よし、奴の所に行こう」と栄意坊はまた、大笑いした。
百地の小僧と風眼坊が呼んでいた百地弥五郎は三十歳前後の、がっしりとした体格の物静かな男だった。
弥五郎の家は栄意坊の庵から一里程の所に、山に囲まれて隠れるように建っていた。かなり、大きな農家だった。
風眼坊、栄意坊、太郎、そして、弥五郎は囲炉裏を囲みながら、栄意坊が持って来た魚を焼き、酒を飲んでいた。
太郎は三人が話している昔話を、物珍しそうに聞いていた。それによると、十五年位前、三人は同じ山で修行していたらしかった。『大峯山』『飯道山(ハンドウサン)』と言う山の名前が、三人の口から何度も出て来た。
『大峯山』は太郎も知っていたが、『飯道山』と言うのは聞いた事もない山だった。
「ところで、親爺は健在か」と風眼坊が聞いた。
「まだ、頑張ってますよ」と弥五郎が焼魚をかじりながら、頷いた。「相変わらず口は達者です。でも、もう年だ。体の方が動かんのでしょう。今は高林坊(コウリンボウ)殿が親爺の代わりをやってます」
「なに、高林坊が」と風眼坊は驚いた。「あいつ、まだ、あの山にいたのか」
「一度、葛城(カツラギ)に帰ったんですけどね、親爺に呼ばれて戻って来たんです」
「高林坊か‥‥‥」と栄意坊が懐かしそうに言った。「うむ、奴は強かったからのう。棒を持たせたら敵なしじゃ」
「棒の高林坊と言えば有名じゃったからのう」と風眼坊も懐かしそうだった。
「何を言うか」と栄意坊は風眼坊の方を向いた。「おぬしだって有名じゃろうが、剣の風眼坊ってな。おぬしに勝てる奴は誰もおらんかったぞ」
「泣く子も黙る、槍の栄意坊という強いのもいたのう」と風眼坊は酒を飲みながら、栄意坊を横目で見た。
「それから、手裏剣の得意な小僧もいたっけ」と栄意坊が笑いながら弥五郎を見た。
「あの頃は、ほんと、みんな、凄かった。わしは、みんなが怖かったですよ。飯道山の四天王、剣の風眼、槍の栄意、棒の高林、薙刀の火乱。あの頃は凄かったですね。わしは、とても四人にはかなわない。そこで、手裏剣を始めたんです」
「懐かしいのう」と栄意坊はしみじみと言った。
「おい、火乱坊(カランボウ)の奴は何してるんじゃ」と風眼坊がどちらともなく聞いた。
「わしは、この間、会ったぞ」と栄意坊が言った。「この間と言っても、もう二年程前じゃがの、戦が始まる前に京で会った。あの時は無礙光宗(ムゲコウシュウ)とかに首を突っ込んで、叡山(エイザン)相手に薙刀を振り回してるとか言っとったぞ」
「無礙光宗?」何じゃそれは、という顔をして風眼坊は栄意坊を見た。
「おう、何でも浄土真宗のうちの本願寺派だそうじゃ。蓮如(レンニョ)とかいう坊主が布教を広めているらしい。奴も物好きよのう」
「南無阿弥陀仏か」
「そうじゃ。南無阿弥陀仏って言いながら、叡山の法師共をたたっ斬ってるんじゃ」
「それじゃあ、叡山の法師共は法蓮華経ってわめきながら斬られてるのか」
「そうじゃろうのう。気の毒じゃが相手が悪い。南無三(ナムサン)と叫びながら斬られてるんじゃろのう」
「へえ、火乱坊殿は相変わらず、薙刀を振り回していますか」と弥五郎が笑った。
「奴らしいわい」と風眼坊も笑う。
風眼坊は弥五郎が注いでくれる酒を盃に受けた。
「それより、あの頃、いい女子(オナゴ)がおったろうが」と風眼坊は話題を変えた。
「いい女子じゃと?」と栄意坊は弥五郎の酒を受けながら、怪訝そうに風眼坊を見た。
「ああ。女だてらに小太刀(コダチ)をよく使うのが‥‥‥あれは、いい女子じゃったぞ」
「わしゃ、知らんぞ」と栄意坊は今度は弥五郎の方を見た。
「そうか、あれはおぬしが山を下りてからか」と風眼坊は酒を飲んだ。
「山に女子がおったのかい」と栄意坊は変な顔をして風眼坊を見ていた。
「山に女子がおるわけねえじゃろ。里じゃ。松恵尼(ショウケイニ)がおる尼寺で修行しておった」
「おお、松恵尼なら知っとる。あれもいい女子じゃった。尼にしておくには勿体なかったのう‥‥‥すると、その女子というのも尼か」
「違う。剣の修行をしていただけじゃ。のう、弥五郎、いい女子じゃったのう」
「はあ」
「何をとぼけておる。お前が一番、騒いでおったんじゃぞ」風眼坊は弥五郎の肩をたたいた。
「まあ‥‥‥」と言いながら、弥五郎は囲炉裏の中に薪を数本くべた。
「どうしてるおるかの、今頃」風眼坊は目を細めて酒をすすった。
「もう、いい年じゃろ。尼になっていなけりゃ、二、三人子供がおるって」栄意坊は焼魚に食らい付いていた。
「実は、その女子‥‥‥」と弥五郎が小声で言った。
「お前、その女子の事、知ってるのか」風眼坊も焼魚に手を伸ばしながら聞いた。
「はい‥‥‥実は、わしの女房です」
「何じゃと‥‥‥」風眼坊は焼魚を持って、口を開けたまま、弥五郎を見つめた。
「はい、すみません」と弥五郎は頭を下げた。
「それじゃあ、いい女子というのはお前の女房の事か」と栄意坊は目を丸くした。「成程、確かに、いい女子だわい。風眼坊が騒ぐのも無理ない‥‥‥ハハハ、面白いのう。小僧にしてやられたか」
「お前もやるのう」と風眼坊はまた、弥五郎の肩をたたいた。「自慢の手裏剣で、あの小太刀をものにしたか‥‥‥どうした女房は。勿体つけんで、ここに出せ」
「はあ、それが、ちょっと今、里に帰ってるんです」
「また、ガキが生まれるんじゃな」と栄意坊は弥五郎をつついた。
「ええ、まあ‥‥‥」と弥五郎は照れた。
「そうか、そいつはめでたいのう‥‥‥そうじゃったのか、まあ、お前なら似合いの夫婦じゃろ。良かったのう。ところで何人目の子供が生まれるんじゃ」
「三人目です」
「なに、三人目じゃと、あの娘に三人も子供がおるのか‥‥‥わしらも年を取るわけじゃのう」
「そうじゃのう。わしらももうすぐ四十じゃ。月日の経つのは早いわ」栄意坊は急にしんみりとして、囲炉裏の火を見つめた。
「確かに早いですね。わしも山を下りてから、もう十年が経ちました」弥五郎は囲炉裏に薪をくべた。
「おい、太郎」と栄意坊が急に呼んだ。「みんな、いい奴じゃろう。おぬしは幸せだぞ。いい師匠を持ったのう‥‥‥強くなれよ」
「はい」と太郎は三人を見比べながら頷いた。
京への旅をしてからというもの、太郎の生き方は少しづつ変わって来ていた。
風眼坊舜香、栄意坊行信、百地弥五郎、太郎の前にいる三人は武士の世界では見る事のできない人たちだった。どこが、どう違うのかと言われてもよくわからないが、確かに違っていた。
太郎は三人の顔を見比べながら、三人の話を聞いていた。太郎の知らない事ばかりだったが聞いていて面白かった。
太郎は山伏に変身した。
「今日から、お前を正式にわしの弟子にする」と風眼坊は真面目な顔をして言った。「わしの弟子になったからには武士は捨てろ。山伏になれ」
急にそんな事を言われて、太郎はまごついたが、風眼坊は考える隙を与えなかった。強制的に山伏にされてしまった。
「今日から、お前の名は愛洲太郎左衛門ではない。太郎坊イ香じゃ」
「太郎坊イコウ?」
「そうじゃ、忘れるな」
「イコウとは、どう書くんです」
「好きなように書け。わしの舜香の香と、わしの一番初めの弟子じゃから、イロハのイを付けただけじゃ。イ香、どうじゃ、いい名じゃろう」
太郎坊イ香‥‥‥太郎坊はいいけど、イロハのイ香とは、何か変な名前だった。
山伏となった太郎坊イ香は風眼坊舜香と栄意坊行信と共に、錫杖を突きながら弥五郎の家を出て、近江の国(滋賀県)、甲賀の飯道山へと向かった。
「太郎坊、なかなか似合っとるぞ」栄意坊は太郎の山伏姿を見て笑った。
栄意坊自身もボロボロの衣から真新しい衣装に着替え、伸び放題の髭を整えていた。乞食同然だった栄意坊も、貫録のある山伏に変身していた。
「お前、本当に付いて来るのか」と風眼坊は栄意坊に聞いた。
「ああ。久し振りに高林坊の棒をたたきたくなったんでな」
「相変わらず、気楽な奴じゃのう」
「お互い様じゃ」栄意坊は景気よく笑った。
三人の山伏は山の中から名張街道に出ると北に向かった。
伊賀の国はほとんどが東大寺の荘園になっていた。しかし、伊賀の郷族たちは東大寺の支配に対して、結束して反抗していた。外部の侵入に対しては団結して戦うが、内部での抗争も絶えなかった。豪族たちは皆、砦を構え、回りを窺い、隙を見ては自領を増やすために争っていた。
伊賀の国は険しい山々に囲まれ、国内にも低い山々が連なっている。盆地と言えば上野と名張の二ケ所しかない。こんな所で大小様々、百近くの国人や郷士たちがひしめき合って争っている。当然のように武術が発達して行った。そして、それは独特の武術であった。
平野での集団の戦と違い、狭い山間部では個人個人の技術を必要とした。山の中を素早く移動し、敵の隙を見て戦うやり方は山伏の兵法(ヒョウホウ)がもっとも適していた。彼らは山伏から武術を習い、技を磨いていった。武術を教える山伏の道場は伊賀の各地にあったが、その中心となっていたのは上野にある四十九院であった。
風眼坊、栄意坊、太郎坊の三人は昼頃、上野に入った。木津川を渡ると四十九院はすぐだった。
「寄って行くか」と栄意坊は四十九院のこんもりとした森を見ながら言った。
「誰か、知ってる奴はいるか」と風眼坊も森の方を見ながら聞いた。
「よくは知らんが、北之坊がいるらしい」
「あいつか‥‥‥」
「どうする。一暴れして行くか」と栄意坊は笑った。
「わざわざ、問題を起こす事もあるまい」と風眼坊は首を振った。
「ふん。おぬしも最近、おとなしくなったのう」
「触らぬ神に祟りなしじゃ」
「ハ、ハ、ハ」
三人は四十九院を素通りして北に向かった。
伊賀盆地を抜け、山に入り、桜峠を越え、近江の国、甲賀に入った。
ここ、甲賀も伊賀と性格的に似ていた。甲賀も険しい山々に囲まれた山国で、郷士たちの団結は固かった。一応、近江の守護、六角氏の支配のもとにあったが、領内の事には一切、干渉しないという取り決めがあった。その代わり、いざという時には甲賀の武士団は六角氏に協力をするという事になっていた。そして、甲賀でも山伏兵法は盛んだった。
その中心をなしていたのが飯道山である。飯道山は修験道の祖、役の小角(エンノオヅヌ)の開基とされ、飯道権現を祀り、紀州の熊野とも深いつながりを持っていた。山上には五十近くの僧坊が建ち並び、一大武術道場として栄えていた。
この当時、本地垂迹説(ホンジスイジャクセツ)により神と仏は一緒に祀られていた。飯道権現は阿弥陀如来の仮の姿とされ、山上には飯道神社、飯道寺があり、飯道寺の僧侶が別当として、神社の社務も司っていた。
信楽(シガラキ)焼きで有名な信楽の庄を通り、三人が飯道山の門前町に着いた時には、日はすでに暮れようとしていた。
門前町には遠くから来たらしい参拝客や山伏たち、大きな荷物を積んだ荷車などが行き交い、賑わっていた。参道の両脇には丁度、桜の花が満開に咲き、参拝客相手の宿坊や旅籠屋(ハタゴヤ)、土産屋、お茶屋などが並んでいる。
三人は大鳥居の所まで来ると立ち止まった。
「懐かしいのう」と風眼坊は鳥居の先に続く参道の方を見ながら言った。
「ここは、変わらんのう」と栄意坊は風眼坊とは逆に町の方を見渡しながら言った。「おい、ちょっと一杯、やって行かんか」
「うむ。それもいいが、どうせなら、高林坊も一緒の方がいいじゃろう」
「それもそうじゃの。まずは、奴に会ってからか」
大鳥居をくぐり、寺院や宿坊の建ち並ぶ参道を進むと、また、鳥居があり、そこから、石段が薄暗い山の奥の方に続いていた。
「何度、この道を登ったり下りたりした事かのう」と風眼坊が石段を見上げながら言った。
「そうじゃのう。懐かしいのう」と栄意坊も感慨深げに石段を見上げていた。
太郎はこの山の中に一体、何があるのだろうと思いながら、薄暗い石段を見上げていた。遠くから見た所、それ程、高い山ではなかった。ゴツゴツした岩山でもなく、五ケ所浦の山々に似ていた。
三人は石段を登った。かなり急な登りだったが、風眼坊も栄意坊も走るように登って行った。太郎は二人の後を死に物狂いで追いかけて登った。
赤い鳥居をくぐると、そこが山の上だとは信じられない程、所せましと僧坊が建ち並んでいた。
太郎は驚いた。
山の上に寺があり、その寺で武術の修行をしていると言うのは風眼坊たちの話から想像していた。しかし、山の上にこんなにも多くの建物が建っているとは想像すらできない事だった。
あちこちの木の間から掛声が聞こえて来る。木剣のぶつかり合う音など、もう、辺りは暗くなって来ているのに、祭りさながらの賑やかさだった。
「やってるのう」と栄意坊が嬉しそうに言った。
「まずは、高林坊に会うか」と風眼坊も嬉しそうだった。
「おお。あいつ、びっくりするぜ。まさか、おぬしとわしが一緒に訪ねて来るとは夢にも思うまい」
「太郎坊、お前はここで修行するんじゃ」と風眼坊が突然、言った。
「一年間、みっちり、しぼられろ。強くなるぞ」と栄意坊も言った。
「ここで、一年?」と太郎は師の風眼坊を見た。
「そうじゃ。ここの修行はきついぞ。強い奴らが揃っておるからな」
太郎は一年も、こんな所で修行するなんて思ってもみなかった。
せいぜい一ケ月位、この山で修行して、その後、風眼坊と一緒に色々な所を旅をして回るんだと自分で決めていた。
こんな所で一年も修行するなんて‥‥‥
とにかく、風眼坊の弟子になった以上、師の言う事は聞かなければならない。とりあえず、ここがどんな所だか見て、気に入らなかったら飛び出せばいいと太郎は覚悟を決めた。
三人は本堂に向かって、建ち並ぶ僧坊の間を歩いて行った。
太郎は頷き、お礼を言った後、「師匠、ここから離れるんですか」と不安な面持ちで聞いた。
「ああ、そろそろな」
「いつです」
「気が向いた時じゃ」
「俺も連れて行って下さい」
「剣なんていうもんは人から教わるもんじゃない。自分で工夫するもんだ。今のお前なら、あとは一人でもできる」
「師匠はどこに行くんです」
「当てはない。また、しばらくは旅が続くじゃろう‥‥‥」
「俺も連れて行って下さい。俺も世の中が見たいんです」
「お前は水軍の大将になるんじゃろう。これからは水軍の勉強でもしろ」
「大将になるために、もっと世の中の事が知りたいのです。ぜひ、俺も連れて行って下さい」太郎は必死になって頼んだ。
風眼坊は木剣を突いて、海を眺めていた。「ここは戦乱に巻き込みたくないのう」
風眼坊自身、これから、どこに行くという当てはなかった。
京の戦が終われば、何かやるべき事が見つかるだろうと思っている。しかし、戦はまだ終わっていない。もうしばらく、ここに居てもいいのだが、長年の旅の癖で一ケ所にあまり落ち着いていられない。とにかく、一度、吉野に帰ってから大峯山にでも入ろうかと思っていた。
「お願いします。連れて行って下さい」太郎は風眼坊の横にひざまづき、風眼坊を見上げて言った。
「ああ」と風眼坊は曖昧に頷いた。「ただし、父親にちゃんと許可を得て来い」
太郎は稽古が終わると家に戻り、祖父だけに訳を話し、許しを得、旅支度をすると陰ながら、祖母と母、そして、二人の弟と妹に別れを告げ、夜になると家を飛び出して山に向かった。
もしかしたら、もう、風眼坊はいないかもしれないと思いながら、急いで夜の山道を登った。
風眼坊は寝ていた。
太郎は安心して小屋の中で横になった。
「どうした」と風眼坊が聞いた。
「旅の支度をして参りました。いつでも出掛けられます」
「気の早い奴じゃ‥‥‥親父の許しを得て来たか」
「はい」と太郎は嘘をついた。
「ふん。嘘つけ、お前の親父は今、熊野に行ってるはずじゃ」
「熊野?」
「ああ、新宮に用があるらしい。昨日、会った時、出掛ける所じゃった」
「父上とは、よく会っていたんですか」
「ああ、なぜか気が合っての‥‥‥何回か一緒に飲んだ」
「そうだったんですか‥‥‥」
「今日はもう寝ろ」
「俺を連れて行ってくれますね」
「ああ」と風眼坊は言うと、あくびをして寝返りをうった。
2
朝飯を済ますと風眼坊は城下に下りて行った。
太郎も付いて行くと言ったが、ちゃんと戻って来るから待っていろ、わしにも別れを告げる女子(オナゴ)がいるんじゃ、と言って出掛けて行った。
太郎は一人で剣の稽古をして待っていた。
風眼坊が帰って来たのは次の日の朝、日がかなり昇ってからだった。
「さて、行くとするかの」
太郎は山の上から城下を見下ろした。
今、改築工事をしている五ケ所城の詰の丸が見えた。真新しい瓦屋根がまぶしかった。
海の方に目を移すと田曽浦の辺りに関船が二艘、浮かんでいる。
父上はもう、帰って来ているのだろうか、と、ふと思った。
また、しばらく、ここともお別れだな‥‥‥
太郎は水平線を見つめた。
「いい所じゃった」と風眼坊がしみじみと言った。
風眼坊も太郎の隣に立って海を見ていた。
「いい女子もいたしのう‥‥‥お前の親父殿に会えたのも良かった」
「父上に?」
「ああ、人と人との出会いというものは不思議なもんじゃ‥‥‥会いたいと思う奴には、なかなか会えなかったり、会うはずのない人間と出会ったり‥‥‥ここで、お前と会わなかったら、お前の親父、水軍の大将と会うなんて事はなかったじゃろう。わしは今まで、山ばかり歩いて来て海の事など考えてもみなかった。ここで、お前の親父に会って、世間を見る目が広くなって来たわ‥‥‥お前の親父とはこれからも何回か会う事になるじゃろう‥‥‥本当に気が合う奴っていうのは、なかなかいないもんじゃが、お前の親父とはほんとに気が合った。いい奴じゃ」
太郎は改めて風眼坊を見た。今まで気がつかなかったが、風眼坊と父親とは丁度、同じ位の年齢だった。
二人は山を下りた。
北へと向かっていた。
太郎が毎朝、水を汲んでいた沢に出た。太郎はここに来るたびに、小春の事を思い出していた。
今頃、幸せに暮らしているだろうか。
やはり、木地師の所に嫁に行ったのだろうか。
小春の家の前まで来ると、小春の父親が息子と二人で丸太をくりぬいて舟を作っていた。
「とっつぁん、元気か」と風眼坊は小春の父親に声を掛けた。
小春の父親は顔を上げると、「へい、お陰様で」と言い、風眼坊と一緒にいる太郎を見て、軽く頭を下げた。
「六兵衛殿は、今、家におるかの」と風眼坊は聞いた。
「へい、いると思いますだ」
「そうか、子供の目は治ったか」
「へい、お陰様で、もう、すっかりと」
「そいつは良かった、それじゃあな」
小春の父親に見送られて、風眼坊と太郎はそこを去った。
「知り合いなんですか」と太郎は不思議そうに聞いた。
「まあな、あのとっつぁんの子供の目を治してやったんじゃ」
「そうだったんですか」
「奴らも可哀想な奴らよ。奴らは土地を持っとらんからの、木を細工して色々な物を作っているが、それが売れなければ食っていけん。京の戦騒ぎで物価がどんどん上がっている。物価が上がれば、みんな、食うのが精一杯じゃ。とっつぁんの作った物は売れなくなる。仕方なく、娘を手放さなくてはならなかったそうじゃ」
「娘を手放す?」
「ああ、宇治の遊女屋に売ったそうじゃ」
「え?‥‥‥」太郎は自分の耳を疑った。
小春が遊女屋へ‥‥‥
嫁に行ったんじゃなくて、遊女屋へ‥‥‥
急に、目の前が真っ暗になったように感じられた。
「小春が遊女屋へ行ったっていうのは本当ですか」
太郎は風眼坊の錫杖をつかみ、風眼坊の足を止めて、聞いた。
「可哀想じゃのう‥‥‥お前、その娘、知ってたのか」
「はい‥‥‥」
「惚れてたのか」
「‥‥‥」
「忘れるんじゃな‥‥‥身分が違いすぎる」
「‥‥‥身分‥‥‥身分とは一体、何なんです」
「人が人を支配するために人が作ったものじゃ。一番上に天皇がいる。次に将軍じゃ。将軍の下に武士がいる。武士にだって色々な身分があるじゃろ。国を支配する守護職(シュゴシキ)、その下に地頭、その下に国人だの、郷士だの。そして、武士の下には百姓、百姓の下には山の民や川の民などがいる‥‥‥今、この仕組みが壊れようとしている。力のある者がのし上がって来ようとしている。しかし、身分というものがなくなる事はないじゃろう。上に立つ者が人々を支配していくためには、どうしても身分というものを決めなくてはならんのじゃ。俗世間から離れているはずの坊主の世界にもそれはある。支配する者がいる限り、身分というものは消えんじゃろう‥‥‥」
「五ケ所浦にある遊女屋にいる女たちも小春と同じように売られて来た娘なんですか」
「そうじゃ。誰が好き好んであんな世界に入る。一度、あの世界に入ったら抜け出す事は難しい」
風眼坊はまた、歩き始めた。
太郎は呆然と立っていた。
太郎は京に行く途中、行き会った娘たちの事を思い出していた。人相の悪い男たちに囲まれて、哀しそうに歩いていた。小春もあんな風に連れて行かれたのだろうか‥‥‥
「何してる、早く来い」と風眼坊が言った。
「俺は小春を助けます」と太郎は言った。
「やめとけ、かえって不幸になる」
「どうしてです」
「お前はいいが、その娘は苦しむ」
「どうしてです」
「どうしてかな、それは自分で答えを出せ。それにはまず、お前が武士だという事を忘れなくてはならん」
「武士でなかったら何なんです」
「ただの人間じゃ。さっき、お前があのとっつぁんに会った時、どう思った」
「どうって?」
「俺は武士だ。あのとっつぁんより身分が高いんだ。俺の方が偉いんだ。そう思わなかったか」
「‥‥‥」確かに、風眼坊の言う通りだった。身分が何だと思いながらも、心の中ではいつも、自分は水軍の大将の伜だ、そこいらの奴らとは違うんだと思っていた。
「まず、お前自身が身分という枠から飛び出さなくてはならん。お前は武士の子として、今まで育てられて来た。急に見方を変えろと言っても無理じゃろう。徐々に変えて行くんじゃな‥‥‥そう、深刻な顔をするな。もっと、気を楽に持て」
二人はまた、山の中に入った。
太郎は小春の事を思いながら、風眼坊の後を追っていた。
風眼坊は山の中の細い道をどんどん進んで行った。
太郎も山歩きは慣れているが、風眼坊は山の中をまるで平地のように、平気な顔をして歩いていた。こんな所に道なんかあったのかと思うような山奥でも細い道が続き、風眼坊は迷わず、その道をたどって行った。
「師匠、この道は何の道ですか」
「不思議じゃろう。この道は山人の道じゃよ。普通の人間はまったく知らんが、山がある限り、こういう道は必ずあるんじゃよ。街道が表の道なら、これは裏の道じゃ。世の中にはな、表があれば、必ず、裏があるという事をまず、覚えておけ」
山を抜け出ると、ちょっとした平地に出た。細い川が流れ、川のほとりに二軒の家が建っていた。
「あの家が、この辺りの山を仕切っている六兵衛の家だ」と風眼坊はその家に向かって行った。「奴は、この辺りの事なら何でも知っている」
六兵衛と呼ばれる男は痩せて、腰の曲がった老人だった。どう見ても、この辺りを仕切っている程の男には見えない。どこにでもいるような田舎の爺さんだった。
六兵衛は一人、木の屑の中に座り込んで、小さな阿弥陀如来の木像を彫っていた。回りには大小様々の観音様、お地蔵さん、恵比寿様などの木像が並んでいた。
風眼坊が顔を出すと、「風眼坊殿か、そろそろ、ここのお山も飽きてきたと見えますな」と老人は笑いながら言った。その顔は、いかにも嬉しそうだった。
「そろそろ陽気も良くなったんでな、吉野に花見にでも行こうと思っておる」
「そりゃ、また、結構な事で‥‥‥」
六兵衛は風眼坊と一緒にいる場違いな侍姿の太郎を見たが、別に何も言わなかった。
「ところで、六兵衛殿、何か変わった事でも起きてませんか」
「そうよのう、まだまだ、この辺りは平和じゃ。宇治と山田で神人(ジニン)共のちょっとした、いざこざがあったがの、何とか治まったらしい。それと、多気の御所が何やら動き出してるらしいのう」
多気の御所とは伊勢の国司、北畠教具の事である。
教具は去年の夏、守護代の世保(ヨヤス)政康を攻め、神戸(カンベ)城で切腹させ、伊勢の国をほぼ支配下に納めていた。
愛洲一族は南北朝時代からの付き合いで北畠氏と同盟を結んでいた。同盟とはいえ、北畠氏と愛洲氏では家格も違うし勢力も違う。愛洲氏は北畠氏の被官という形にならざるを得なかった。
「世話になったな」と言うと風眼坊は紙包みを老人に渡した。
「おお、こりゃ助かる。最近の若いもんは怪我ばかりしとるのでな」
「六兵衛殿も達者でな」
「わしゃ、まだまだ元気じゃよ」
二人は老人に別れを告げた。
3
風眼坊は足が速かった。
太郎は息を切らせながら、やっとの思いで風眼坊の後を付いて行った。
歩く所は山の中の細い道ばかりだった。
時々だが、山から出て街道にぶつかる事もあった。人並みに街道を歩く事ができるのは、まるで極楽のようだった。しかし、その極楽も長くは続かない。また、山の中に入って行く。薄暗い曲がりくねった細い道を登ったり下りたり、それはまさに裏の道だった。
こんな所は人が通る道じゃない。鬼か天狗の通る道だ。太郎は風眼坊の後ろ姿を恨みながら歩いていた。
「師匠、ちょっと待って下さい。速すぎますよ」
「お前が遅いんじゃ。もう少しで山の上に出る。我慢しろ」
やっとの思いで、這うように太郎は登った。
風眼坊は山の頂上から回りを眺めていた。
太郎は頂上に着くと回りを見るどころではなかった。倒れるように横になった。
「師匠、師匠は一日、どの位、歩くんです」
「さあな、二十里(約八十キロ)は歩けるじゃろう」
「山の中を?」
「ああ」
太郎の方は汗をびっしょりかき、息を切らせてハァハァ言っているが、風眼坊の方は汗もかかず、普段とまったく変わっていなかった。
「太郎、お前、本気で強くなりたいか」
「はい、なりたいです」
「今のままじゃ、無理じゃな」
「何でもします。お願いです。教えて下さい」
「まず、基本からやらなけりゃ駄目じゃ」
「基本?」
「山歩きじゃよ。わしと同じ速さで歩けなけりゃ、まず、無理じゃ」
「どうしたら、そんな速く、歩けるようになるんですか」
「訓練しかない‥‥‥お前を面白い所に連れて行ってやろう」
「どこです」
「付いて来ればわかる」と風眼坊はニヤリと笑った。
太郎はやっと汗がひくと立ち上がり、回りを見下ろした。下の方に川が流れているのが見えた。その川に沿って道が続いている。
「ここはどこです」
「まだ、五ケ所浦からたいして離れていない。あそこに見える川は宮川だ。山田の方に流れている。それで、あの道は熊野街道だ。熊野と伊勢をつないでいる」
風眼坊は川と反対側に目を移した。
太郎も反対側を見た。反対側は山がいくつも連なっているだけだった。
「今日は見えんが、天気がいいと山の向こうに海が見える。この山をこっち側に下りると、丁度、一之瀬城の辺りに出る」
「へえ、あそこに‥‥‥」
一之瀬城も愛洲一族の城であった。
南北朝時代の初め頃、愛洲氏は北畠氏を助け、南朝方で活躍して勢力を広げ、五ケ所浦を本拠地として、ここ一之瀬と伊勢神宮の近くの玉丸(田丸)とに分家して、それぞれ栄えていた。一之瀬城はその頃、後醍醐天皇の皇子、宗良親王(ムネナガシンノウ)を迎えた事もあった。
当時に比べれば、少しさびれた感はあるが、伊勢神宮と熊野を結ぶ陸路を押え、その城より南の海岸線に点在している竃方(カマガタ)を支配していた。竃方で取れた塩はすべて、一之瀬の城下に集められ、あちこちへと取り引きされて行った。
太郎も小さい頃、一度、行った事があった。その一之瀬城に太郎と同じ位の娘がいて、一緒に遊んだ記憶がかすかに残っている。あの子ももう、いい娘さんになってるだろう。もう、嫁に行ったのかもしれない‥‥‥
「おい、行くぞ、のんびりしてると日が暮れる」
「今日はどこまで、行くんですか」
「三瀬谷じゃ。そこに知り合いがいる」
「あと、どの位です」
「そう、辛そうな顔をするな。この山を下りたら、すぐじゃ」
「そうですか‥‥‥行きましょう」
膝をガクガクさせながら、やっと山を下りると川が流れていた。
「これが宮川ですか」と太郎は聞いた。
「残念だが違うな。宮川はあの山の向こうじゃ」
風眼坊は目の前に連なっている山を指した。たいして高くない山々だが、今の太郎には目の前にそびえる程、高い山に感じられた。
「あの山を越えたらすぐじゃ。元気を出せ」
「はあ‥‥‥」
元気が出るわけなかった。もう、くたくたで足はフラフラしている。太郎は山の中で拾った木の枝を杖にして、かろうじて歩いていた。
4
三瀬谷の宿坊に泊まり、朝早くから、また山の中に入って行った。
太郎の足は言う事を聞かなかった。動かすたびに足が痛かった。それでも、風眼坊には何も言わず、黙々と風眼坊の後を付いて行った。
山の中で初めて人と出会った。二人連れの乞食だった。彼らは風眼坊と太郎の前をのろのろと歩いていたが、二人に気づくと山の中に消えてしまった。あれ、どこに行ったんだろう、と太郎は茂みの中を覗いてみた。しかし、彼らの姿はどこにも見えなかった。
「どこに行ったんです」と太郎は風眼坊に聞いた。
「どこにも行きはせん。隠れてるだけじゃ」
「どうして」
「姿を見られたくないからじゃろう」
「どうして」
「奴らは『かったい』じゃ」
「かったい? かったいがどうして、こんな山の中にいるんです」
「じゃから、人に見られないためじゃ。奴らは街道を歩く事ができん。それで、山の中を歩いておるんじゃ。わかったか」
「はい‥‥‥でも、こんな山の中を歩いてどうするんです。一体、どこに行くつもりなんです」
「熊野じゃ。この道はずっと熊野まで続いておるんじゃ。奴らは熊野権現にすがって、病を治して貰おうと熊野に向かっておるんじゃ」
「この道が、ずっと熊野まで‥‥‥」
こんな山の中の細い道がずっと熊野まで続いているとは、太郎にはとても信じられなかった。
「それじゃあ、こっちはどこまで続いてるんです」太郎は今、来た道の方を指した。
「鎌倉じゃ。そして、それから、ずっと奥の陸奥(ムツ)の国まで続いている」
太郎には、ますます信じられなかった。
『かったい』とは癩病(ハンセン病)患者の事である。彼らだけが通る道というのが、普通の人の知らない山の中に熊野を中心にして各国に伸びていた。
その他に、山の中には木地師、鍛冶師、杣人、狩人など山の民たちが通る道、山伏や修行僧、巫女の通る道などがあり、表の街道と同じように山の中を網の目のように張り巡らされてあった。しかし、その道は普通の人が見ただけではわからず、彼らだけの道だった。
太郎は今、かったいの道を杖を突きながら、やっとの思いで歩いていた。
一山、越えると街道に出た。道行く人々がのんきそうに歩いている。太郎は杖を突き、足を引きずり、汗びっしょりになり、必死の思いで歩いていた。
風眼坊は今度は山に入らなかった。街道をどんどん歩いて行く。
「ここを真っすぐ行けば、吉野だ」と風眼坊が太郎を振り返った。
「もう山には入らないんですか」
「入りたいか」
「いえ、いいです」
風眼坊は太郎の情けない姿を見ながら、おかしそうに笑った。
「当分、山には入らん」
太郎は、ほっとした。
二人は宇治、山田(伊勢神宮)と吉野を結ぶ、伊勢街道を吉野に向かって歩いた。
その日は伊勢と大和の国境近くの波瀬という所の神社に泊まった。
次の日になると、太郎の足も大分、良くなった。痛みも取れている。
風眼坊は街道を真っすぐに吉野へは向かわなかった。また、山の中に入って行った。
「どこに行くんです。吉野じゃないんですか」
「お前をいい所に連れて行くと言ったじゃろう。それは吉野じゃない」
「どこです」
「近江(オウミ)じゃ。近江の山の中じゃ。お前が気に入りそうな所がある」
波瀬から山の中を北上して峠を越えると大和の国(奈良県)に入った。山また山である。太郎は薄暗い細い道を風眼坊の後をただ、ひたすら付いて行った。しばらく行くと街道に出た。
「この道を右に行けば伊勢に戻って多気に行く。北畠氏の本拠地、多気の御所じゃ。賑やかな所じゃ。山の中じゃがな、まるで、戦前の京のように栄えておる。左に行けば南都、奈良じゃ」
風眼坊はそう説明すると進路を左に取った。二里程、街道に沿って歩き、また、山の中に入った。目の前に、屏風のようにそそり立つ岩山がせまっていた。
「あの山を越えるんですか」と太郎は恐る恐る聞いた。
「そうだ、いい山じゃろう」
風眼坊は気楽に答えて、楽しそうに山を眺めた。
あの凄い岩をよじ登るのか、もうどうにでもなれと太郎はやけくそ気味になっていたが、岩場は通らなかった。かなり、きつい山道だったが岩場を避けるように道は続いていた。
山頂に着くと眺めが良かった。この辺りでも一番高い山のようだった。東から北にかけて、岩山が続いているのが見えた。所々に奇妙な変わった形をした岩が飛び出している。
この山の隣に同じ位の高さの山があり、尾根続きにつながっていた。細い道も尾根続きにつながっている。道と言っても、ただ、見ただけではよくわからないが、風眼坊に連れられて山の中ばかり歩いて来たお陰で、太郎にもその山の道がだんだんとわかってきた。
二人は尾根づたいに道を進んで行った。下り道が多くなり、歩くのも、それ程、辛くなかった。尾根道は沢で遮られていた。
「伊賀に入ったぞ」と風眼坊は言った。
二人は沢の流れに沿って歩いた。歩くにつれて、沢の回りに奇怪な形をした岩々が、そそり立って来た。滝もかなりあった。沢は深くはないが、流れはかなり速い。細い道は、その沢を中心に右に行ったり、左に行ったり、曲がりくねっている。沢を渡る時は、水の中に入らなければならなかった。春とはいえ、水は凍るように冷たかった。
沢の両側に岩壁がせまっている所では、岩に張り付くようにして通らなければならなかった。もし、落ちたら速い流れに流され、先に滝でもあれば死ぬかもしれない。
かなり高い滝も二、三あった。そんな所は山の中を迂回したり、滝のそばの岩場を岩に抱き付くようにして下りて行った。
また、急に深い淵になり、水の流れがゆっくりしている所もあった。水は綺麗に澄んでいて下の方まで良く見える。夏だったら泳いで渡れるが今はまだ寒い。岩に張り付きながら渡って行った。
「ここは赤目の滝と言ってな、修験者の行場じゃ。面白い所じゃろう」と風眼坊は言った。
確かに面白いと言えば面白いが、太郎は凄い所だと思った。太郎の育った五ケ所浦の山々に、こんな岩だらけの所はない。しかも、その岩の中に沢が流れていて滝がいくつもある。山の神秘さというものに、太郎は益々、引かれて行った。
沢から少し離れ、山の中をしばらく歩くと急に視界が開け、目の前に大きな滝が白いしぶきを上げて落ちていた。
「不動の滝じゃ」と風眼坊は言うと、両手で印を結び真言(シンゴン)を唱え始めた。
お前もやれと言うので、太郎は意味が全くわからないまま風眼坊の真似をした。
「ノウマクサンマンダ、バーザラダ、センダマカロシャダ、ソワタヤ、ウンタラター、カンマン」
「どういう意味です」と太郎は聞いた。
「意味か」と風眼坊は太郎を見て笑った。「お前が強くなるための呪文じゃよ」
そこから、少し行くと小さな庵が建っていた。
「おい、栄意坊(エイイボウ)、いるか」と風眼坊が庵に向かって言った。
返事はなかった。
風眼坊は庵の中を覗いた。「留守のようじゃな。まあ、いい。待ってるか」
風眼坊は庵の中に入って行った。太郎も中に入った。
中には筵(ムシロ)が敷いてあった。隅の方に山伏が背負う笈と法螺貝が置いてあり、壁に錫杖が立て掛けられてあった。
風眼坊は草鞋を脱いで上がりこむと座りこんだ。
「お前も上がれ」
太郎も草鞋を脱ぐと足や袴に付いた泥を落とし、筵の上に上がった。
風眼坊は隅に置いてあった瓶子(ヘイジ)を手に取り、蓋を取って中を覗くと匂いを嗅いだ。
「酒がある。飲みながら待っていよう」
「いいんですか。そんな勝手な事をして」
「いいんじゃ。奴とわしは兄弟みたいなもんじゃ」
風眼坊はお椀を見つけると酒を注ぎ、一口飲んだ。
「うまい。山歩きの後の酒は格別じゃな。お前も飲め」
二人は酒を飲みながら、栄意坊を待っていた。
一時(二時間)程して、酒が空になる頃、栄意坊行信は戻って来た。
栄意坊は髭だらけの男だった。山伏の格好はしているが、すでにボロボロになっていて、ボロ布をまとっているようなものだった。
小屋に入って来て、風眼坊の顔を見ると、まず、「オー!」と吠えた。
「風眼坊か、久し振りじゃのう」と髭だらけの顔の中で目だけが笑っていた。
栄意坊は右手に短い槍を持ち、左手に竹の籠をかかえていた。
「今朝な、お不動さんからお告げがあったんじゃ。来客ありとな。それも珍客来たりとな。そこで、ほれ、魚を取って来たんじゃよ」
栄意坊は籠の中を見せた。五、六匹の大きな魚が入っていた。
「おぬし、相変わらずじゃな」と風眼坊は栄意坊の胸を小突いた。
「ハハハハハ」庵が壊れそうな程、大きな声で栄意坊は笑った。
「魚はありがたいがの、こいつがなくなったわ」と風眼坊は空の瓶子を栄意坊に見せた。
「なに、酒がない。ウーム、そいつは困ったの‥‥‥延寿院に行けば、酒などいくらでもあるが、あそこはあまり行きたくねえ」
栄意坊は取ってきた魚を土間に置くと腰を下ろした。魚はまだ生きていて、籠の中で跳ねていた。
「どうした、また、喧嘩でもしたのか」と風眼坊は栄意坊に聞いた。
「いや、そうじゃねえがな、あそこはどうも抹香(マッコウ)臭くていかん」
「まあ、おぬしにはこの草庵の方が似合っとるよ」
「何を言うか、そりゃお互い様じゃ‥‥‥そうじゃ、おぬし、弥五郎を覚えとるか」
「弥五郎‥‥‥百地(モモチ)の弥五郎か」
「そうじゃ。奴がこの近くにおるんじゃよ」
「ほう。百地の小僧がこの辺りにか」
「まあ、あの頃は小僧じゃったが、今はもう、かあちゃんを貰ってガキまでおるよ」
「何してるんじゃ」
「表向きは百姓をやってるが裏の方も盛んらしい。若いのを五、六人使ってる」
「ほう。百地の小僧がな、偉くなったもんじゃの」
「よし、奴の所に行こう」と栄意坊はまた、大笑いした。
5
百地の小僧と風眼坊が呼んでいた百地弥五郎は三十歳前後の、がっしりとした体格の物静かな男だった。
弥五郎の家は栄意坊の庵から一里程の所に、山に囲まれて隠れるように建っていた。かなり、大きな農家だった。
風眼坊、栄意坊、太郎、そして、弥五郎は囲炉裏を囲みながら、栄意坊が持って来た魚を焼き、酒を飲んでいた。
太郎は三人が話している昔話を、物珍しそうに聞いていた。それによると、十五年位前、三人は同じ山で修行していたらしかった。『大峯山』『飯道山(ハンドウサン)』と言う山の名前が、三人の口から何度も出て来た。
『大峯山』は太郎も知っていたが、『飯道山』と言うのは聞いた事もない山だった。
「ところで、親爺は健在か」と風眼坊が聞いた。
「まだ、頑張ってますよ」と弥五郎が焼魚をかじりながら、頷いた。「相変わらず口は達者です。でも、もう年だ。体の方が動かんのでしょう。今は高林坊(コウリンボウ)殿が親爺の代わりをやってます」
「なに、高林坊が」と風眼坊は驚いた。「あいつ、まだ、あの山にいたのか」
「一度、葛城(カツラギ)に帰ったんですけどね、親爺に呼ばれて戻って来たんです」
「高林坊か‥‥‥」と栄意坊が懐かしそうに言った。「うむ、奴は強かったからのう。棒を持たせたら敵なしじゃ」
「棒の高林坊と言えば有名じゃったからのう」と風眼坊も懐かしそうだった。
「何を言うか」と栄意坊は風眼坊の方を向いた。「おぬしだって有名じゃろうが、剣の風眼坊ってな。おぬしに勝てる奴は誰もおらんかったぞ」
「泣く子も黙る、槍の栄意坊という強いのもいたのう」と風眼坊は酒を飲みながら、栄意坊を横目で見た。
「それから、手裏剣の得意な小僧もいたっけ」と栄意坊が笑いながら弥五郎を見た。
「あの頃は、ほんと、みんな、凄かった。わしは、みんなが怖かったですよ。飯道山の四天王、剣の風眼、槍の栄意、棒の高林、薙刀の火乱。あの頃は凄かったですね。わしは、とても四人にはかなわない。そこで、手裏剣を始めたんです」
「懐かしいのう」と栄意坊はしみじみと言った。
「おい、火乱坊(カランボウ)の奴は何してるんじゃ」と風眼坊がどちらともなく聞いた。
「わしは、この間、会ったぞ」と栄意坊が言った。「この間と言っても、もう二年程前じゃがの、戦が始まる前に京で会った。あの時は無礙光宗(ムゲコウシュウ)とかに首を突っ込んで、叡山(エイザン)相手に薙刀を振り回してるとか言っとったぞ」
「無礙光宗?」何じゃそれは、という顔をして風眼坊は栄意坊を見た。
「おう、何でも浄土真宗のうちの本願寺派だそうじゃ。蓮如(レンニョ)とかいう坊主が布教を広めているらしい。奴も物好きよのう」
「南無阿弥陀仏か」
「そうじゃ。南無阿弥陀仏って言いながら、叡山の法師共をたたっ斬ってるんじゃ」
「それじゃあ、叡山の法師共は法蓮華経ってわめきながら斬られてるのか」
「そうじゃろうのう。気の毒じゃが相手が悪い。南無三(ナムサン)と叫びながら斬られてるんじゃろのう」
「へえ、火乱坊殿は相変わらず、薙刀を振り回していますか」と弥五郎が笑った。
「奴らしいわい」と風眼坊も笑う。
風眼坊は弥五郎が注いでくれる酒を盃に受けた。
「それより、あの頃、いい女子(オナゴ)がおったろうが」と風眼坊は話題を変えた。
「いい女子じゃと?」と栄意坊は弥五郎の酒を受けながら、怪訝そうに風眼坊を見た。
「ああ。女だてらに小太刀(コダチ)をよく使うのが‥‥‥あれは、いい女子じゃったぞ」
「わしゃ、知らんぞ」と栄意坊は今度は弥五郎の方を見た。
「そうか、あれはおぬしが山を下りてからか」と風眼坊は酒を飲んだ。
「山に女子がおったのかい」と栄意坊は変な顔をして風眼坊を見ていた。
「山に女子がおるわけねえじゃろ。里じゃ。松恵尼(ショウケイニ)がおる尼寺で修行しておった」
「おお、松恵尼なら知っとる。あれもいい女子じゃった。尼にしておくには勿体なかったのう‥‥‥すると、その女子というのも尼か」
「違う。剣の修行をしていただけじゃ。のう、弥五郎、いい女子じゃったのう」
「はあ」
「何をとぼけておる。お前が一番、騒いでおったんじゃぞ」風眼坊は弥五郎の肩をたたいた。
「まあ‥‥‥」と言いながら、弥五郎は囲炉裏の中に薪を数本くべた。
「どうしてるおるかの、今頃」風眼坊は目を細めて酒をすすった。
「もう、いい年じゃろ。尼になっていなけりゃ、二、三人子供がおるって」栄意坊は焼魚に食らい付いていた。
「実は、その女子‥‥‥」と弥五郎が小声で言った。
「お前、その女子の事、知ってるのか」風眼坊も焼魚に手を伸ばしながら聞いた。
「はい‥‥‥実は、わしの女房です」
「何じゃと‥‥‥」風眼坊は焼魚を持って、口を開けたまま、弥五郎を見つめた。
「はい、すみません」と弥五郎は頭を下げた。
「それじゃあ、いい女子というのはお前の女房の事か」と栄意坊は目を丸くした。「成程、確かに、いい女子だわい。風眼坊が騒ぐのも無理ない‥‥‥ハハハ、面白いのう。小僧にしてやられたか」
「お前もやるのう」と風眼坊はまた、弥五郎の肩をたたいた。「自慢の手裏剣で、あの小太刀をものにしたか‥‥‥どうした女房は。勿体つけんで、ここに出せ」
「はあ、それが、ちょっと今、里に帰ってるんです」
「また、ガキが生まれるんじゃな」と栄意坊は弥五郎をつついた。
「ええ、まあ‥‥‥」と弥五郎は照れた。
「そうか、そいつはめでたいのう‥‥‥そうじゃったのか、まあ、お前なら似合いの夫婦じゃろ。良かったのう。ところで何人目の子供が生まれるんじゃ」
「三人目です」
「なに、三人目じゃと、あの娘に三人も子供がおるのか‥‥‥わしらも年を取るわけじゃのう」
「そうじゃのう。わしらももうすぐ四十じゃ。月日の経つのは早いわ」栄意坊は急にしんみりとして、囲炉裏の火を見つめた。
「確かに早いですね。わしも山を下りてから、もう十年が経ちました」弥五郎は囲炉裏に薪をくべた。
「おい、太郎」と栄意坊が急に呼んだ。「みんな、いい奴じゃろう。おぬしは幸せだぞ。いい師匠を持ったのう‥‥‥強くなれよ」
「はい」と太郎は三人を見比べながら頷いた。
京への旅をしてからというもの、太郎の生き方は少しづつ変わって来ていた。
風眼坊舜香、栄意坊行信、百地弥五郎、太郎の前にいる三人は武士の世界では見る事のできない人たちだった。どこが、どう違うのかと言われてもよくわからないが、確かに違っていた。
太郎は三人の顔を見比べながら、三人の話を聞いていた。太郎の知らない事ばかりだったが聞いていて面白かった。
6
太郎は山伏に変身した。
「今日から、お前を正式にわしの弟子にする」と風眼坊は真面目な顔をして言った。「わしの弟子になったからには武士は捨てろ。山伏になれ」
急にそんな事を言われて、太郎はまごついたが、風眼坊は考える隙を与えなかった。強制的に山伏にされてしまった。
「今日から、お前の名は愛洲太郎左衛門ではない。太郎坊イ香じゃ」
「太郎坊イコウ?」
「そうじゃ、忘れるな」
「イコウとは、どう書くんです」
「好きなように書け。わしの舜香の香と、わしの一番初めの弟子じゃから、イロハのイを付けただけじゃ。イ香、どうじゃ、いい名じゃろう」
太郎坊イ香‥‥‥太郎坊はいいけど、イロハのイ香とは、何か変な名前だった。
山伏となった太郎坊イ香は風眼坊舜香と栄意坊行信と共に、錫杖を突きながら弥五郎の家を出て、近江の国(滋賀県)、甲賀の飯道山へと向かった。
「太郎坊、なかなか似合っとるぞ」栄意坊は太郎の山伏姿を見て笑った。
栄意坊自身もボロボロの衣から真新しい衣装に着替え、伸び放題の髭を整えていた。乞食同然だった栄意坊も、貫録のある山伏に変身していた。
「お前、本当に付いて来るのか」と風眼坊は栄意坊に聞いた。
「ああ。久し振りに高林坊の棒をたたきたくなったんでな」
「相変わらず、気楽な奴じゃのう」
「お互い様じゃ」栄意坊は景気よく笑った。
三人の山伏は山の中から名張街道に出ると北に向かった。
伊賀の国はほとんどが東大寺の荘園になっていた。しかし、伊賀の郷族たちは東大寺の支配に対して、結束して反抗していた。外部の侵入に対しては団結して戦うが、内部での抗争も絶えなかった。豪族たちは皆、砦を構え、回りを窺い、隙を見ては自領を増やすために争っていた。
伊賀の国は険しい山々に囲まれ、国内にも低い山々が連なっている。盆地と言えば上野と名張の二ケ所しかない。こんな所で大小様々、百近くの国人や郷士たちがひしめき合って争っている。当然のように武術が発達して行った。そして、それは独特の武術であった。
平野での集団の戦と違い、狭い山間部では個人個人の技術を必要とした。山の中を素早く移動し、敵の隙を見て戦うやり方は山伏の兵法(ヒョウホウ)がもっとも適していた。彼らは山伏から武術を習い、技を磨いていった。武術を教える山伏の道場は伊賀の各地にあったが、その中心となっていたのは上野にある四十九院であった。
風眼坊、栄意坊、太郎坊の三人は昼頃、上野に入った。木津川を渡ると四十九院はすぐだった。
「寄って行くか」と栄意坊は四十九院のこんもりとした森を見ながら言った。
「誰か、知ってる奴はいるか」と風眼坊も森の方を見ながら聞いた。
「よくは知らんが、北之坊がいるらしい」
「あいつか‥‥‥」
「どうする。一暴れして行くか」と栄意坊は笑った。
「わざわざ、問題を起こす事もあるまい」と風眼坊は首を振った。
「ふん。おぬしも最近、おとなしくなったのう」
「触らぬ神に祟りなしじゃ」
「ハ、ハ、ハ」
三人は四十九院を素通りして北に向かった。
伊賀盆地を抜け、山に入り、桜峠を越え、近江の国、甲賀に入った。
ここ、甲賀も伊賀と性格的に似ていた。甲賀も険しい山々に囲まれた山国で、郷士たちの団結は固かった。一応、近江の守護、六角氏の支配のもとにあったが、領内の事には一切、干渉しないという取り決めがあった。その代わり、いざという時には甲賀の武士団は六角氏に協力をするという事になっていた。そして、甲賀でも山伏兵法は盛んだった。
その中心をなしていたのが飯道山である。飯道山は修験道の祖、役の小角(エンノオヅヌ)の開基とされ、飯道権現を祀り、紀州の熊野とも深いつながりを持っていた。山上には五十近くの僧坊が建ち並び、一大武術道場として栄えていた。
この当時、本地垂迹説(ホンジスイジャクセツ)により神と仏は一緒に祀られていた。飯道権現は阿弥陀如来の仮の姿とされ、山上には飯道神社、飯道寺があり、飯道寺の僧侶が別当として、神社の社務も司っていた。
信楽(シガラキ)焼きで有名な信楽の庄を通り、三人が飯道山の門前町に着いた時には、日はすでに暮れようとしていた。
門前町には遠くから来たらしい参拝客や山伏たち、大きな荷物を積んだ荷車などが行き交い、賑わっていた。参道の両脇には丁度、桜の花が満開に咲き、参拝客相手の宿坊や旅籠屋(ハタゴヤ)、土産屋、お茶屋などが並んでいる。
三人は大鳥居の所まで来ると立ち止まった。
「懐かしいのう」と風眼坊は鳥居の先に続く参道の方を見ながら言った。
「ここは、変わらんのう」と栄意坊は風眼坊とは逆に町の方を見渡しながら言った。「おい、ちょっと一杯、やって行かんか」
「うむ。それもいいが、どうせなら、高林坊も一緒の方がいいじゃろう」
「それもそうじゃの。まずは、奴に会ってからか」
大鳥居をくぐり、寺院や宿坊の建ち並ぶ参道を進むと、また、鳥居があり、そこから、石段が薄暗い山の奥の方に続いていた。
「何度、この道を登ったり下りたりした事かのう」と風眼坊が石段を見上げながら言った。
「そうじゃのう。懐かしいのう」と栄意坊も感慨深げに石段を見上げていた。
太郎はこの山の中に一体、何があるのだろうと思いながら、薄暗い石段を見上げていた。遠くから見た所、それ程、高い山ではなかった。ゴツゴツした岩山でもなく、五ケ所浦の山々に似ていた。
三人は石段を登った。かなり急な登りだったが、風眼坊も栄意坊も走るように登って行った。太郎は二人の後を死に物狂いで追いかけて登った。
赤い鳥居をくぐると、そこが山の上だとは信じられない程、所せましと僧坊が建ち並んでいた。
太郎は驚いた。
山の上に寺があり、その寺で武術の修行をしていると言うのは風眼坊たちの話から想像していた。しかし、山の上にこんなにも多くの建物が建っているとは想像すらできない事だった。
あちこちの木の間から掛声が聞こえて来る。木剣のぶつかり合う音など、もう、辺りは暗くなって来ているのに、祭りさながらの賑やかさだった。
「やってるのう」と栄意坊が嬉しそうに言った。
「まずは、高林坊に会うか」と風眼坊も嬉しそうだった。
「おお。あいつ、びっくりするぜ。まさか、おぬしとわしが一緒に訪ねて来るとは夢にも思うまい」
「太郎坊、お前はここで修行するんじゃ」と風眼坊が突然、言った。
「一年間、みっちり、しぼられろ。強くなるぞ」と栄意坊も言った。
「ここで、一年?」と太郎は師の風眼坊を見た。
「そうじゃ。ここの修行はきついぞ。強い奴らが揃っておるからな」
太郎は一年も、こんな所で修行するなんて思ってもみなかった。
せいぜい一ケ月位、この山で修行して、その後、風眼坊と一緒に色々な所を旅をして回るんだと自分で決めていた。
こんな所で一年も修行するなんて‥‥‥
とにかく、風眼坊の弟子になった以上、師の言う事は聞かなければならない。とりあえず、ここがどんな所だか見て、気に入らなかったら飛び出せばいいと太郎は覚悟を決めた。
三人は本堂に向かって、建ち並ぶ僧坊の間を歩いて行った。
11.飯道山
1
太郎の飯道山での修行が始まった。
吉祥院の中の修徳坊、そこが太郎の寝起きする宿坊となった。
次の朝、太郎は西光坊元内という先達に連れられて行場に連れて行かれた。
下から山を見上げた時は岩山のようには見えなかったのに、山頂の近くには、かなり大きく奇妙な形をした岩々がそそり立っていた。
行場はちょうど本堂の裏あたりにあった。
『西の覗き』『平等岩』『蟻の塔渡り』『胎内くぐり』『不動登り岩』『鐘掛け岩』などの行場があり、絶壁の上から逆さ吊りにされたり、絶壁をよじ登ったり、岩壁に張り付くように横に進んだりする行だったが、赤目の滝の行場を経験した太郎には何でもなかった。
一番高い岩の上に立てば琵琶湖まで見えると西光坊は言った。生憎、今日は霧が巻いていて何も見えなかった。
行が終わると西光坊は山内の案内をしてくれた。
飯道寺の本堂、観音堂、飯道神社、修験道の開祖、役の小角(エンノオヅヌ)を祀る行者堂、武術の守り本尊である摩利支天(マリシテン)を祀るお堂、その他の寺院や宿坊を見て回った。
武術の道場にも案内されたが、まだ、誰もいなかった。
午前中はそれぞれ作業をやり、武術の稽古は午後からだと言う。
武術は、剣、槍、棒、薙刀の四つの部門に分かれている。自分の好きなものを選ぶ事ができた。太郎は勿論、剣術を選んだ。
この山で武術の稽古に励んでいるのは山伏ばかりではなく、甲賀はもとより伊賀の郷士たちも多くいるとの事だった。皆、太郎と同じ位の若い連中ばかりだと言う。
一通り、案内が終わると、「今日はこれで終わりだ。のんびりと休んでおけ」と西光坊は言った。「明日からは休む暇もない位、厳しいからな」
西光坊は不動院に太郎を連れて行った。
不動院には風眼坊と栄意坊、それと、高林坊が楽しそうに話をしていた。
「おお、太郎坊」と栄意坊が手を上げた。「どうじゃな、ここで一年間、やれそうか」
「はい、頑張ります」
「ほう。これが、おぬしの弟子か」と高林坊が太郎を見ながら言った。「なかなか、いい面構えをしとる‥‥‥しっかりやれよ」
「はい」と太郎は頷いた。
高林坊は見るからに山伏と言った感じだった。風眼坊や栄意坊よりひと回りも体が大きく、目もギョロッと大きく、口も大きかった。棒を振り回すまでもなく、普通の人間なら睨まれただけで逃げ出してしまいそうだった。
「太郎」と今度は風眼坊が言った。「今日はもう、いいのか」
「はい、明日から始めるそうです」
「そうか、今晩、三人で飲むんだがお前も来い。一年間は酒も飲めなくなるからのう」
「ハハハ、酒も女も当分の間、お預けじゃ」と栄意坊は笑った。
夕べ、みんなで飲みに行くはずだったのに高林坊が外出中でいなかった。
太郎は入山の手続きをして修徳坊に入り、疲れていたせいか、そのまま寝てしまった。
風眼坊と栄意坊は高林坊の帰りを待っていたが、高林坊が帰って来たのは今朝になってからだった。
「誰じゃ、昼間っから馬鹿笑いしておる奴は」と言いながら、一人の老山伏が入って来た。
「あっ、親爺!」と風眼坊が叫んだ。
「久し振りじゃのう」と栄意坊はうなった。
「何じゃ、お前らか、まだ、ぬけぬけと生きておったか」
「何を言うか、親爺こそ‥‥‥相変わらず威勢がいいのう」と栄意坊は笑った。
「三馬鹿が揃いおったか、あと一人、馬鹿がおったのう」
「火乱坊じゃ」と高林坊が言った。
「お前ら四馬鹿は、今でも、この山の語り草になっとるぞ。しかし、あの頃はひどかったのう。四人の馬鹿どもは、わしの言う事など一言も聞かん。好き勝手な事ばかりやっていやがった‥‥‥わしもあの頃は、まだまだ若かったしの‥‥‥今ではこのお山もおとなしいもんじゃよ、ふん」
「あの頃の親爺は、おっかなかったぜ」と栄意坊が髭を撫でた。
「何を言うか‥‥‥それより、いい若えもんが、こんな所で茶なんかすすってねえで、みんなに手本でも見せてやったらどうじゃ」
「おお、そうじゃ」と栄意坊が手を打った。「わしは久し振りに、おぬしの棒とやりたくて、わざわざ、やって来たんじゃ」
「そうじゃな‥‥‥よし、久し振りにやるかのう」
「おう」
かつての四天王と呼ばれた風眼坊、栄意坊、高林坊の三人が模範試合をやると言うので、山の中は大騒ぎになっていた。
試合は剣、槍、棒の各部門から一番強い者を代表として一人出し、それぞれが風眼坊、栄意坊、高林坊を相手にする。その後、風眼坊と栄意坊と高林坊の三人が交替で戦うというふうに決まった。
試合場には全山の修行者が集まって来ていた。わざわざ、この試合を見るために山に登って来る者も続々といた。中には僧坊の屋根や木に登って、試合場を見下ろしている者も何人かいる。
太郎はこの人の波を見て驚いていた。よくわからないが千人近くの人間が集まって来ている。この山にそれ程の人が修行していたのか‥‥‥
凄い所に来たもんだ‥‥‥
法螺貝が鳴り、太鼓の音が響き渡った。
辺りが急に静かになり、親爺と呼ばれている老山伏が正装して登場した。
第一試合、甲賀の郷士、望月彦四郎と風眼坊舜香。
木剣を腰にはさんだ二人が登場し、三間程、離れて立ち、まず、老山伏に合掌し、相手に向かって合掌した。
老山伏の「始め」の合図でお互いに構えた。
風眼坊は中段、彦四郎も中段に構え、二人共、そのまま、近づいて行く。
二間程、近づくと、彦四郎は中段から八相の構えに移った。
風眼坊は剣先を右斜め下の下段に移した。
お互いに、その姿勢で相手を見つめたまま動かない。
観衆は固唾を呑んで、見守っていた。
やがて、彦四郎が「エーイ」と掛声をかけ、八相の構えのまま進み出た。
風眼坊も「ヤー」と彦四郎に合わせ、進み出る。
彦四郎は八相の構えから、風眼坊の左肩めがけて剣を打ち下ろした。
風眼坊は体を沈めると、彦四郎の剣を迎えるように下段から剣を上げ、彦四郎の両腕を下から打ち、そのまま、彦四郎の剣を左横に押えた。
「それまで!」
第二試合、甲賀郷士、高山右近二郎と栄意坊行信。
九尺の木槍を持った二人は、互いに合掌をして構えた。
右近二郎も栄意坊も、槍先を少し上げた中段に構えている。
右近二郎が少しづつ左の方に進むと、栄意坊も、それに合わせて左に進んで行った。
二つの槍先を中心に二人は回転をし、二人の場所が入れ代わった時、右近二郎の方から進み出て、栄意坊の胸元めがけて槍を突き出した。
栄意坊はその槍を下に払い落とし、構えを下段に変えた。
槍の柄の後ろの方を持った右腕を高く上げ、槍先を地面すれすれまで下げ、右近二郎の出方を待っていた。
右近二郎は払い落とされた槍の先を左側に引くと、栄意坊の槍を横から払うように突き出した。
栄意坊は右近二郎の突き出した槍を巻き落とすと、そのまま、大きく踏み込み、右近二郎の胸元を軽く突いた。
第三試合、岩之坊真安と高林坊道継、山伏同士での棒術の試合となった。
合掌がすむと二人は、六尺棒を構えた。
岩之坊は棒を胸の高さに水平に構え、高林坊は下段に構えた。
お互いに近づき、一間程、離れた所まで来ると止まり、睨み合った。
掛声と共に岩之坊は水平に構えていた棒を高林坊の右横腹をめがけて、左片手で横に払った。
高林坊は下段の棒を縦にして、それを受け止めた。
岩之坊は受け止められた棒をすぐに振り上げると、振り上げた棒の先を右手でつかみ、左手の中を棒をすべらせ、高林坊の胸を突いて来た。
高林坊はそれを右に避け、岩之坊の両腕めがけて棒を打ち下ろした。
岩之坊はそれを受け止めると払い落とし、また、高林坊の胸を突いて来た。
高林坊は今度は、それを左に打ち落とした。
次に岩之坊は高林坊の右腕を狙って、棒を打ち下ろして来た。
高林坊は岩之坊の棒を巻き落とし、棒を回転させ、岩之坊の肩を狙って打ち落とした。
岩之坊は高林坊の棒を下から、すくい上げるように受け流し、高林坊の頭めがけて棒を打ち下ろした。
高林坊はそれを左横にかわすと、岩之坊の両腕を押えるように棒を打ち下ろした。
太郎は棒術というものを見るのは初めてだった。
使い方によって、ただの棒が剣にもなり、槍にもなり、薙刀にもなるという事を、太郎はこの試合で知った。しかも、棒には刃と柄の区別がない。どちら側も武器となった。
自分もぜひ、この棒術というものを身に付けてみたいと思った。そして、この棒術が水軍の船の上での戦でも大いに役に立つように思えた。
その後、風眼坊舜香と栄意坊行信で剣と槍の試合、風眼坊と高林坊道継で剣と棒の試合、栄意坊と高林坊で槍と棒の試合が行なわれた。
剣と槍は剣が勝ち、剣と棒は棒が勝ち、槍と棒は槍が勝った。
太郎は最初から最後まで、固唾を呑んで見守っていた。
五ケ月近く、風眼坊に剣を習い、自分ながらも強くなったと多少、自信を持っていたが、まだまだ上には上がいる。本当に強くなるには、もっと厳しい修行を積まなくては駄目だと実感した。
朝霧で光る山の中の細い道を太郎は西光坊元内と共に歩いていた。
首から法螺貝を下げ、腰に小刀を差し、予備の草鞋をぶら下げ、尻に曳敷(ヒッシキ)という毛皮を付け、弁当を背負い、金剛杖を突いていた。
太郎は一睡もしていなかった。
夜明け近くまで飲んで、騒いで、語り合って、風眼坊舜香と栄意坊行信は帰って行った。
「太郎坊、強くなれよ」と栄意坊は髭だらけの顔で笑った。
「一年後にまた来るからな」と風眼坊は太郎の肩をたたいた。
太郎は二人に強く頷くと高林坊道継と共に、夜が明ける前に山に戻った。
宿坊に着くと皆、もう、起き始めていた。
太郎は皆と一緒に宿坊の掃除をして『法華経』の読経をし、朝食を済ませた。
太郎が属しているのは天台宗系の山伏だった。飯道山には天台宗系の山伏と真言宗系の山伏が共に修行していたが、天台宗系の山伏の方が圧倒的に多かった。
朝食を済ませ、皆と一緒に午前中の作業に行こうとした時、西光坊元内が来て、「お前はまだ、作業はしなくてもいい」と言った。「まず、足腰を鍛える事だ」
近江の国、甲賀にはあまり高い山はないが、飯道山クラスの六百メートル前後の山がいくつも連なっていた。そして、それらの山々には、それぞれ山伏が入っていて修行の道場となっていた。
修験道の本場、大峯山では熊野から吉野までを結ぶ山々を修行して歩く道を『奥駈け』と称していた。飯道山でもそれを真似て、『奥駈け』と称する山道があった。
飯道山から西に阿星(アボシ)山、金勝(コンゼ)山、竜王山、太神(タナガミ)山へと続く六里半(約二十六キロ)の道のりだった。
阿星山は山頂の阿星寺を中心に、山内に多くの伽藍、僧坊が建ち並び、北麓の表参道入り口には東寺(長寿寺)、西寺(常樂寺)を中心に、『阿星山三千坊』と言われる程、僧坊が建ち並んで栄えていた。
金勝山の山頂には、俗に観音寺と呼ばれる大菩提寺(金勝寺、コンショウジ)があり、僧坊が建ち並び、北麓には金勝寺の鎮守、大野神社を中心に『金勝寺二十五別院』が甍(イラカ)を並べている。
竜王山は奇岩、怪石が立ち並び、金勝寺の奥の院、狛坂(コマサカ)寺を中心に僧坊が並んでいる。
そして、最後の太神山は山頂近くの成就院不動寺を中心に、多くの僧坊が並び、山岳信仰の霊場として栄えていた。
太郎は西光坊に連れられて、まず、飯道山の山頂に登った。飯道寺のある所が山頂だと思っていたが、本当の山頂はもう少し登った所だった。
山頂には飯道権現と修験道の祖、役の小角を祀る祠があり、西光坊と共に真言を唱えた。
山頂から北を見ると、山々の向こうに青く琵琶湖が見えた。
西光坊は西の方の山を錫杖で示し、「あれが太神山だ。あそこまで行く」と言った。
太神山はいくつもの山が連なった向こうに見えた。
「今日はあそこまで行って泊まり、明日、また戻って来る。よく道を覚えておけ」
飯道山を北に下りて、また登ると地蔵菩薩を祀った山に出た。そこで、また、真言を唱えて山を下りた。細い道の回りには小さな石のお地蔵さんが、いくつも並んでいた。
次の山には虚空蔵菩薩(コクウゾウボサツ)が祀ってあった。
そこから一里程で阿星山に着く。阿星山に近づくにつれて、怪石、奇岩が増えてきた。
阿星山はこの辺りで一番高い山で山頂近くに阿星寺があったが、飯道山程、僧坊は建ち並んでいなかった。樹木の中にひっそりと本堂が建っている。
静かだった。
この山では武術の修行はやっていないようだった。山伏の姿もあまり見えない。
西光坊に聞くと、この山にも山伏は数多くいるが、ほとんどが里の方に下りているとの事だった。
阿星寺の本尊、釈迦如来(シャカニョライ)に参拝し、山頂の祠を拝み、金勝山に向かった。
金勝山の観音寺は広かった。僧坊がずらりと並んでいる。
本堂の千手観音を拝み、山頂に向かった。
尾根づたいに竜王山に向かい、山頂の八大竜王を拝んだ。
竜王山を過ぎると、太郎の目の前に異様な山が迫って来た。それは、岩だらけの山だった。岩だらけと言っても、尖った岩がいくつも立ちはだかっているのではなく、丸い石ころが、いくつも積み重なっているような不思議な山だった。
「あの山は何ですか」と太郎は西光坊に聞いた。
「あれは五百羅漢じゃ」と西光坊は言った。「あの岩、ひとつひとつが羅漢さんじゃ」
「あそこを通って行くんですか」
「ああ、あの中を通って行く」
太郎は今まで見た事もない、奇妙な山を見つめていた。
二人は岩がゴロゴロしている細い道を歩き、金勝山の奥の院、狛坂寺に向かった。
狛坂寺で岩に彫られた阿弥陀如来を拝み、弥勒菩薩(ミロクボサツ)を祀る山を下りると、岩に囲まれた沢に出て、小さな滝が落ちていた。
観音の滝と言い、側に十一面観音を祀った祠が建っていた。
その滝から一里ちょっと急な坂を登ると薬師如来を祀る山があり、その山を下りて、また登ると最後の太神山だった。
山頂には宿坊が建ち並び、不動寺の本堂には大きな不動明王が祀られていた。
寺の裏にそびえる岩をよじ登ると山頂に出て、役の行者を祀る祠の前で真言を唱えると、奥駈けの行は終わりだった。
山頂からの眺めは素晴らしかった。琵琶湖が青く光り、今まで歩いて来た竜王山、金勝山、阿星山、飯道山の山々がずっと見渡せた。
日はまだ、高い。
「どうだ、疲れたか」と西光坊は琵琶湖の方を眺めながら言った。
「いいえ」と太郎は答えた。
実際、それ程、辛くはなかった。昨夜は一睡もしていなかったが、変化に富む山道を歩くのは楽しかった。
「うむ」と西光坊は満足そうに頷いた。「こんなもんで疲れてたんじゃ話にならん。明日は飯道山に帰る。次の日からは一人だ。一人でここまで来て泊まり、また帰る。その次からはここには泊まらんぞ。朝、飯道山を出て、ここまで来て、そして、また帰るんだ」
「え! 一日で往復ですか」
「そうだ。それを百日間行う」
「百日間?」太郎は目を丸くして、西光坊を見つめた。
「そうだ」と西光坊は当然の事のように頷いた。「まず、第一の関門だ。これができなければ、あの山で修行する資格はないというわけだ。百日間、この山道を歩けば自然と体ができてくる。それからだ、剣を握るのはな」
「それでは、あの山で修行している人たちは皆、百日間、ここを歩いたのですか」
「そうとも言えんな‥‥‥普通は一月だ」と西光坊は言うと岩の上に腰を下ろした。
「お前は特別なんだよ。毎年、正月になると、この辺りの若い者が山に修行に来る。その数は毎年、増えてくる。今年は百人程いた。一年間、武術を習いに来るんだが、一ケ月の山歩きに耐えられなくて山を下りて行く奴もかなりいる。百人のうち、一ケ月後に残ったのは半分の五十人程だった‥‥‥だが、お前は特別じゃ。風眼坊殿に頼まれてな。お前も風眼坊殿の弟子なら百日間、歩き通すんだな」
「百日間‥‥‥」
どうして、こんな所を百日間も歩かなければならないのだろうか。
百日間と言えば三ケ月以上もある。三ケ月以上も毎日、毎日、同じ道を歩くなんて馬鹿じゃないのか、と太郎は思った。しかし、師匠がやれと言ったのならやらなければならない。もし、途中でやめたら負け犬だと思われる。負け犬だと笑われたくなかった。
「風眼坊殿はここを百日間、歩いたのですか」と太郎は聞いてみた。
「百日なんてもんじゃないな。千日位、歩いているんじゃないか。風眼坊殿は何度も百日行をやってるよ。あの人がここで修行していた頃は、みんなが毎年、一回は必ず、百日行をやっていたらしい。最近はみんな、怠けちまって百日行をする奴なんて、ほとんどいなくなっちまった。わしらが最後じゃないか。わしらより若い連中は百日行なんて知らんだろう。お前が久し振りに、その百日行をやるわけだ‥‥‥それにしても、お前は大した人を師匠に持ったもんだな。わしも一度、風眼坊殿と一緒に歩いた事があったが、なにしろ速い。まるで山の中を飛んでるようだ。まるで天狗だな。大した人だよ‥‥‥まあ、それだけ、お前に見込みがあるんだろ。師匠に負けないように頑張れよ」
「はい」と太郎は力強く頷いた。
師匠の風眼坊は毎年、百日行をやっていた‥‥‥
この道を千日も歩いていた‥‥‥
師匠がやっていたのなら、俺もやらなければならない。
琵琶湖を見つめながら太郎は、「やるぞ!」と気合を入れた。
愛洲太郎左衛門久忠は山伏、太郎坊移香になりきり、毎日、山の中を歩き回っていた。
山の中を往復十三里(約五十キロ)歩くのは、かなり辛かった。
初めのうちは朝早く出掛けても、帰り道の途中で日が暮れ、真っ暗な山道を歩き、やっとの思いで宿坊にたどり着く事ができた。
ただ、目の前の細い道だけを見て、歩くだけが精一杯だった。
十日目頃から、ようやく足も慣れ、一ケ月も続けると回りの景色を見る余裕も出て来た。
雨の日も風の日も、毎日、休まずに歩いた。一日でも休めば、初めからやり直すか、この山を下りて行くか、どちらかだ、と西光坊は言った。師匠のように強くなるには、どんな事があっても歩き通さなければならなかった。
その日の天気によって、毎日、歩いている道でも色々な変化があった。山の色は変わり、光の具合で形までも変わって見える事もあった。そして、山の中には色々な生き物が生活していた。小さな虫、色々な種類の鳥、リス、ウサギ、猿、イタチ、たぬき、きつね、亀、そして、鹿も時々見かけた。色々な花を咲かせ、実を結ぶ草木も色々とあった。また、山独特の霊気のような物を強く感じる事もあった。山は単なる山でなく、山自体が一つの生き物のように感じられた。
季節もいつしか、春から夏に変わっていた。
下界の事など一切、考えずに、ただ、山の中を歩き回っていた。
今年の梅雨はあまり雨が降らず、山歩きには丁度よかったが、六月の初め頃、梅雨の雨が一遍に降ったかと思われる程、山はもの凄く荒れた。強風が吹き、大粒の雨が降り続いた。太郎は滝にでも打たれるように山の中を歩いていた。
豪雨は二日間続いた。
強い雨と風で、前がまったく見えなかった。道に迷い、雨に濡れながら薄暗い山の中をさまよい歩いていた。何度も風に吹き飛ばされそうになり、木にしがみつきながら、やっとの思いで歩いた。それでも、太郎は「何くそ!」と歩き通した。
ずぶ濡れになりながら、太郎が阿星山の山頂に立った時だった。不思議な事に急に雨がやみ、風もやんだ。
辺りは急に静かになった。
太郎は山頂の祠の前にしゃがみ、真言を唱えていた。
霧が深くたちこめ何も見えない。自分だけが小島にポツンといるような錯覚を覚えた。
西の方の雲の間から、わずかに光が差し込んできた。それは何とも言えず、この世のものとは思えないような風景だった。
太郎は立ち上がり空を見上げた。西の方を見て、そして、飯道山の方、東の方を見た時だった。太郎はそこに不思議な物を見た。
そこには、この山の本尊、お釈迦様の姿がはっきりと見えた。
太郎は思わず合掌をした。そして、我知らず『法華経』を唱えていた。
お釈迦様はしばらく、太郎を見守っていたが、やがて、遠のいて行った。
その時の光景は太郎の心に深く焼き付いていった。
もう一つ、太郎の心に焼き付いた事があった。それは一人の老山伏だった。
初めて会ったのは阿星山から金勝山に行く途中の岩に囲まれた山道だった。
その老山伏は高い岩に腰掛けて太郎を見ていた。太郎は阿星山の修験者だろうと思い、一応、挨拶をして通り過ぎた。その時は別に何とも思わず、すぐに忘れてしまった。
その後、会ったのは一ケ月程たった頃の事だった。前と同じ岩の上に座って、やはり、太郎を見ていた。また、太郎は挨拶をして通り過ぎた。そして、金勝山を通り、竜王山を通り、狛坂寺に行く途中の岩の上に、その老山伏が座って太郎を見ているのに出会った。
馬鹿に速いな、抜道でもあるのだろうか、と太郎は思ったが、合掌して通り過ぎた。そして、次に太神山に向かう途中の岩の上に座り込んで、老山伏は太郎が登って来るのを待っていた。
老山伏は太郎を見ると笑った。きつねにでも化かされているのかと思った。太郎は老山伏に声を掛けた。老山伏は返事をしないまま岩陰に消えた。
太郎は老山伏の後を追いかけようと思ったが、とても、行けるような所ではなかった。今、太郎が立っている所とその岩の間は深い崖になっていて飛び付く事もできない程、離れていた。登る道は別にあるのだろうと諦めた。
帰り道、老山伏が座っていた岩を調べてみたが、どちらの岩も、そう簡単に登れる岩ではなかった。道から見ると簡単に登れそうに見えるが、実際、登ろうと思って、その岩の下まで行ってみると垂直の岩壁にぶつかり、下から見上げるだけでも凄い岩だった。
こんな岩を平気で登り、てっぺんに座り込んで、のんきそうに笑っているとは、あの老山伏は一体、何者なのだろうか。太郎は興味を引かれて行った。
飯道寺に戻り、先達の山伏たちに聞いてみても誰も知らなかった。そんな老山伏など見た事もないという。それはきっと、天狗に違いないと笑いながら言う先輩もいた。
その後、あの老山伏には会わなかった。太郎も、あれは、もしかしたら、天狗だったのかもしれないと本気で思ったりもした。
いよいよ、山歩き、最後の日だった。いつもの岩の上に老山伏は座っていた。太郎は老山伏に合掌して、頭を下げると、「聖人様」と声を掛けた。
老山伏は笑いながら、太郎を見た。
「いよいよ、今日で百日目じゃな」と老山伏はかすれた声で言った。
「え、どうして知ってるんです」
老山伏は笑っているだけで答えなかった。そして、太郎がちょっと目をはなした隙に消えていた。また先回りして、どこかで待っているのだろうと思い、歩き続けた。しかし、老山伏はどこにもいなかった。
太郎の百日間の奥駈け修行は無事に終わった。
「おお、太郎坊」と栄意坊が手を上げた。「どうじゃな、ここで一年間、やれそうか」
「はい、頑張ります」
「ほう。これが、おぬしの弟子か」と高林坊が太郎を見ながら言った。「なかなか、いい面構えをしとる‥‥‥しっかりやれよ」
「はい」と太郎は頷いた。
高林坊は見るからに山伏と言った感じだった。風眼坊や栄意坊よりひと回りも体が大きく、目もギョロッと大きく、口も大きかった。棒を振り回すまでもなく、普通の人間なら睨まれただけで逃げ出してしまいそうだった。
「太郎」と今度は風眼坊が言った。「今日はもう、いいのか」
「はい、明日から始めるそうです」
「そうか、今晩、三人で飲むんだがお前も来い。一年間は酒も飲めなくなるからのう」
「ハハハ、酒も女も当分の間、お預けじゃ」と栄意坊は笑った。
夕べ、みんなで飲みに行くはずだったのに高林坊が外出中でいなかった。
太郎は入山の手続きをして修徳坊に入り、疲れていたせいか、そのまま寝てしまった。
風眼坊と栄意坊は高林坊の帰りを待っていたが、高林坊が帰って来たのは今朝になってからだった。
「誰じゃ、昼間っから馬鹿笑いしておる奴は」と言いながら、一人の老山伏が入って来た。
「あっ、親爺!」と風眼坊が叫んだ。
「久し振りじゃのう」と栄意坊はうなった。
「何じゃ、お前らか、まだ、ぬけぬけと生きておったか」
「何を言うか、親爺こそ‥‥‥相変わらず威勢がいいのう」と栄意坊は笑った。
「三馬鹿が揃いおったか、あと一人、馬鹿がおったのう」
「火乱坊じゃ」と高林坊が言った。
「お前ら四馬鹿は、今でも、この山の語り草になっとるぞ。しかし、あの頃はひどかったのう。四人の馬鹿どもは、わしの言う事など一言も聞かん。好き勝手な事ばかりやっていやがった‥‥‥わしもあの頃は、まだまだ若かったしの‥‥‥今ではこのお山もおとなしいもんじゃよ、ふん」
「あの頃の親爺は、おっかなかったぜ」と栄意坊が髭を撫でた。
「何を言うか‥‥‥それより、いい若えもんが、こんな所で茶なんかすすってねえで、みんなに手本でも見せてやったらどうじゃ」
「おお、そうじゃ」と栄意坊が手を打った。「わしは久し振りに、おぬしの棒とやりたくて、わざわざ、やって来たんじゃ」
「そうじゃな‥‥‥よし、久し振りにやるかのう」
「おう」
かつての四天王と呼ばれた風眼坊、栄意坊、高林坊の三人が模範試合をやると言うので、山の中は大騒ぎになっていた。
試合は剣、槍、棒の各部門から一番強い者を代表として一人出し、それぞれが風眼坊、栄意坊、高林坊を相手にする。その後、風眼坊と栄意坊と高林坊の三人が交替で戦うというふうに決まった。
試合場には全山の修行者が集まって来ていた。わざわざ、この試合を見るために山に登って来る者も続々といた。中には僧坊の屋根や木に登って、試合場を見下ろしている者も何人かいる。
太郎はこの人の波を見て驚いていた。よくわからないが千人近くの人間が集まって来ている。この山にそれ程の人が修行していたのか‥‥‥
凄い所に来たもんだ‥‥‥
法螺貝が鳴り、太鼓の音が響き渡った。
辺りが急に静かになり、親爺と呼ばれている老山伏が正装して登場した。
第一試合、甲賀の郷士、望月彦四郎と風眼坊舜香。
木剣を腰にはさんだ二人が登場し、三間程、離れて立ち、まず、老山伏に合掌し、相手に向かって合掌した。
老山伏の「始め」の合図でお互いに構えた。
風眼坊は中段、彦四郎も中段に構え、二人共、そのまま、近づいて行く。
二間程、近づくと、彦四郎は中段から八相の構えに移った。
風眼坊は剣先を右斜め下の下段に移した。
お互いに、その姿勢で相手を見つめたまま動かない。
観衆は固唾を呑んで、見守っていた。
やがて、彦四郎が「エーイ」と掛声をかけ、八相の構えのまま進み出た。
風眼坊も「ヤー」と彦四郎に合わせ、進み出る。
彦四郎は八相の構えから、風眼坊の左肩めがけて剣を打ち下ろした。
風眼坊は体を沈めると、彦四郎の剣を迎えるように下段から剣を上げ、彦四郎の両腕を下から打ち、そのまま、彦四郎の剣を左横に押えた。
「それまで!」
第二試合、甲賀郷士、高山右近二郎と栄意坊行信。
九尺の木槍を持った二人は、互いに合掌をして構えた。
右近二郎も栄意坊も、槍先を少し上げた中段に構えている。
右近二郎が少しづつ左の方に進むと、栄意坊も、それに合わせて左に進んで行った。
二つの槍先を中心に二人は回転をし、二人の場所が入れ代わった時、右近二郎の方から進み出て、栄意坊の胸元めがけて槍を突き出した。
栄意坊はその槍を下に払い落とし、構えを下段に変えた。
槍の柄の後ろの方を持った右腕を高く上げ、槍先を地面すれすれまで下げ、右近二郎の出方を待っていた。
右近二郎は払い落とされた槍の先を左側に引くと、栄意坊の槍を横から払うように突き出した。
栄意坊は右近二郎の突き出した槍を巻き落とすと、そのまま、大きく踏み込み、右近二郎の胸元を軽く突いた。
第三試合、岩之坊真安と高林坊道継、山伏同士での棒術の試合となった。
合掌がすむと二人は、六尺棒を構えた。
岩之坊は棒を胸の高さに水平に構え、高林坊は下段に構えた。
お互いに近づき、一間程、離れた所まで来ると止まり、睨み合った。
掛声と共に岩之坊は水平に構えていた棒を高林坊の右横腹をめがけて、左片手で横に払った。
高林坊は下段の棒を縦にして、それを受け止めた。
岩之坊は受け止められた棒をすぐに振り上げると、振り上げた棒の先を右手でつかみ、左手の中を棒をすべらせ、高林坊の胸を突いて来た。
高林坊はそれを右に避け、岩之坊の両腕めがけて棒を打ち下ろした。
岩之坊はそれを受け止めると払い落とし、また、高林坊の胸を突いて来た。
高林坊は今度は、それを左に打ち落とした。
次に岩之坊は高林坊の右腕を狙って、棒を打ち下ろして来た。
高林坊は岩之坊の棒を巻き落とし、棒を回転させ、岩之坊の肩を狙って打ち落とした。
岩之坊は高林坊の棒を下から、すくい上げるように受け流し、高林坊の頭めがけて棒を打ち下ろした。
高林坊はそれを左横にかわすと、岩之坊の両腕を押えるように棒を打ち下ろした。
太郎は棒術というものを見るのは初めてだった。
使い方によって、ただの棒が剣にもなり、槍にもなり、薙刀にもなるという事を、太郎はこの試合で知った。しかも、棒には刃と柄の区別がない。どちら側も武器となった。
自分もぜひ、この棒術というものを身に付けてみたいと思った。そして、この棒術が水軍の船の上での戦でも大いに役に立つように思えた。
その後、風眼坊舜香と栄意坊行信で剣と槍の試合、風眼坊と高林坊道継で剣と棒の試合、栄意坊と高林坊で槍と棒の試合が行なわれた。
剣と槍は剣が勝ち、剣と棒は棒が勝ち、槍と棒は槍が勝った。
太郎は最初から最後まで、固唾を呑んで見守っていた。
五ケ月近く、風眼坊に剣を習い、自分ながらも強くなったと多少、自信を持っていたが、まだまだ上には上がいる。本当に強くなるには、もっと厳しい修行を積まなくては駄目だと実感した。
2
朝霧で光る山の中の細い道を太郎は西光坊元内と共に歩いていた。
首から法螺貝を下げ、腰に小刀を差し、予備の草鞋をぶら下げ、尻に曳敷(ヒッシキ)という毛皮を付け、弁当を背負い、金剛杖を突いていた。
太郎は一睡もしていなかった。
夜明け近くまで飲んで、騒いで、語り合って、風眼坊舜香と栄意坊行信は帰って行った。
「太郎坊、強くなれよ」と栄意坊は髭だらけの顔で笑った。
「一年後にまた来るからな」と風眼坊は太郎の肩をたたいた。
太郎は二人に強く頷くと高林坊道継と共に、夜が明ける前に山に戻った。
宿坊に着くと皆、もう、起き始めていた。
太郎は皆と一緒に宿坊の掃除をして『法華経』の読経をし、朝食を済ませた。
太郎が属しているのは天台宗系の山伏だった。飯道山には天台宗系の山伏と真言宗系の山伏が共に修行していたが、天台宗系の山伏の方が圧倒的に多かった。
朝食を済ませ、皆と一緒に午前中の作業に行こうとした時、西光坊元内が来て、「お前はまだ、作業はしなくてもいい」と言った。「まず、足腰を鍛える事だ」
近江の国、甲賀にはあまり高い山はないが、飯道山クラスの六百メートル前後の山がいくつも連なっていた。そして、それらの山々には、それぞれ山伏が入っていて修行の道場となっていた。
修験道の本場、大峯山では熊野から吉野までを結ぶ山々を修行して歩く道を『奥駈け』と称していた。飯道山でもそれを真似て、『奥駈け』と称する山道があった。
飯道山から西に阿星(アボシ)山、金勝(コンゼ)山、竜王山、太神(タナガミ)山へと続く六里半(約二十六キロ)の道のりだった。
阿星山は山頂の阿星寺を中心に、山内に多くの伽藍、僧坊が建ち並び、北麓の表参道入り口には東寺(長寿寺)、西寺(常樂寺)を中心に、『阿星山三千坊』と言われる程、僧坊が建ち並んで栄えていた。
金勝山の山頂には、俗に観音寺と呼ばれる大菩提寺(金勝寺、コンショウジ)があり、僧坊が建ち並び、北麓には金勝寺の鎮守、大野神社を中心に『金勝寺二十五別院』が甍(イラカ)を並べている。
竜王山は奇岩、怪石が立ち並び、金勝寺の奥の院、狛坂(コマサカ)寺を中心に僧坊が並んでいる。
そして、最後の太神山は山頂近くの成就院不動寺を中心に、多くの僧坊が並び、山岳信仰の霊場として栄えていた。
太郎は西光坊に連れられて、まず、飯道山の山頂に登った。飯道寺のある所が山頂だと思っていたが、本当の山頂はもう少し登った所だった。
山頂には飯道権現と修験道の祖、役の小角を祀る祠があり、西光坊と共に真言を唱えた。
山頂から北を見ると、山々の向こうに青く琵琶湖が見えた。
西光坊は西の方の山を錫杖で示し、「あれが太神山だ。あそこまで行く」と言った。
太神山はいくつもの山が連なった向こうに見えた。
「今日はあそこまで行って泊まり、明日、また戻って来る。よく道を覚えておけ」
飯道山を北に下りて、また登ると地蔵菩薩を祀った山に出た。そこで、また、真言を唱えて山を下りた。細い道の回りには小さな石のお地蔵さんが、いくつも並んでいた。
次の山には虚空蔵菩薩(コクウゾウボサツ)が祀ってあった。
そこから一里程で阿星山に着く。阿星山に近づくにつれて、怪石、奇岩が増えてきた。
阿星山はこの辺りで一番高い山で山頂近くに阿星寺があったが、飯道山程、僧坊は建ち並んでいなかった。樹木の中にひっそりと本堂が建っている。
静かだった。
この山では武術の修行はやっていないようだった。山伏の姿もあまり見えない。
西光坊に聞くと、この山にも山伏は数多くいるが、ほとんどが里の方に下りているとの事だった。
阿星寺の本尊、釈迦如来(シャカニョライ)に参拝し、山頂の祠を拝み、金勝山に向かった。
金勝山の観音寺は広かった。僧坊がずらりと並んでいる。
本堂の千手観音を拝み、山頂に向かった。
尾根づたいに竜王山に向かい、山頂の八大竜王を拝んだ。
竜王山を過ぎると、太郎の目の前に異様な山が迫って来た。それは、岩だらけの山だった。岩だらけと言っても、尖った岩がいくつも立ちはだかっているのではなく、丸い石ころが、いくつも積み重なっているような不思議な山だった。
「あの山は何ですか」と太郎は西光坊に聞いた。
「あれは五百羅漢じゃ」と西光坊は言った。「あの岩、ひとつひとつが羅漢さんじゃ」
「あそこを通って行くんですか」
「ああ、あの中を通って行く」
太郎は今まで見た事もない、奇妙な山を見つめていた。
二人は岩がゴロゴロしている細い道を歩き、金勝山の奥の院、狛坂寺に向かった。
狛坂寺で岩に彫られた阿弥陀如来を拝み、弥勒菩薩(ミロクボサツ)を祀る山を下りると、岩に囲まれた沢に出て、小さな滝が落ちていた。
観音の滝と言い、側に十一面観音を祀った祠が建っていた。
その滝から一里ちょっと急な坂を登ると薬師如来を祀る山があり、その山を下りて、また登ると最後の太神山だった。
山頂には宿坊が建ち並び、不動寺の本堂には大きな不動明王が祀られていた。
寺の裏にそびえる岩をよじ登ると山頂に出て、役の行者を祀る祠の前で真言を唱えると、奥駈けの行は終わりだった。
山頂からの眺めは素晴らしかった。琵琶湖が青く光り、今まで歩いて来た竜王山、金勝山、阿星山、飯道山の山々がずっと見渡せた。
日はまだ、高い。
「どうだ、疲れたか」と西光坊は琵琶湖の方を眺めながら言った。
「いいえ」と太郎は答えた。
実際、それ程、辛くはなかった。昨夜は一睡もしていなかったが、変化に富む山道を歩くのは楽しかった。
「うむ」と西光坊は満足そうに頷いた。「こんなもんで疲れてたんじゃ話にならん。明日は飯道山に帰る。次の日からは一人だ。一人でここまで来て泊まり、また帰る。その次からはここには泊まらんぞ。朝、飯道山を出て、ここまで来て、そして、また帰るんだ」
「え! 一日で往復ですか」
「そうだ。それを百日間行う」
「百日間?」太郎は目を丸くして、西光坊を見つめた。
「そうだ」と西光坊は当然の事のように頷いた。「まず、第一の関門だ。これができなければ、あの山で修行する資格はないというわけだ。百日間、この山道を歩けば自然と体ができてくる。それからだ、剣を握るのはな」
「それでは、あの山で修行している人たちは皆、百日間、ここを歩いたのですか」
「そうとも言えんな‥‥‥普通は一月だ」と西光坊は言うと岩の上に腰を下ろした。
「お前は特別なんだよ。毎年、正月になると、この辺りの若い者が山に修行に来る。その数は毎年、増えてくる。今年は百人程いた。一年間、武術を習いに来るんだが、一ケ月の山歩きに耐えられなくて山を下りて行く奴もかなりいる。百人のうち、一ケ月後に残ったのは半分の五十人程だった‥‥‥だが、お前は特別じゃ。風眼坊殿に頼まれてな。お前も風眼坊殿の弟子なら百日間、歩き通すんだな」
「百日間‥‥‥」
どうして、こんな所を百日間も歩かなければならないのだろうか。
百日間と言えば三ケ月以上もある。三ケ月以上も毎日、毎日、同じ道を歩くなんて馬鹿じゃないのか、と太郎は思った。しかし、師匠がやれと言ったのならやらなければならない。もし、途中でやめたら負け犬だと思われる。負け犬だと笑われたくなかった。
「風眼坊殿はここを百日間、歩いたのですか」と太郎は聞いてみた。
「百日なんてもんじゃないな。千日位、歩いているんじゃないか。風眼坊殿は何度も百日行をやってるよ。あの人がここで修行していた頃は、みんなが毎年、一回は必ず、百日行をやっていたらしい。最近はみんな、怠けちまって百日行をする奴なんて、ほとんどいなくなっちまった。わしらが最後じゃないか。わしらより若い連中は百日行なんて知らんだろう。お前が久し振りに、その百日行をやるわけだ‥‥‥それにしても、お前は大した人を師匠に持ったもんだな。わしも一度、風眼坊殿と一緒に歩いた事があったが、なにしろ速い。まるで山の中を飛んでるようだ。まるで天狗だな。大した人だよ‥‥‥まあ、それだけ、お前に見込みがあるんだろ。師匠に負けないように頑張れよ」
「はい」と太郎は力強く頷いた。
師匠の風眼坊は毎年、百日行をやっていた‥‥‥
この道を千日も歩いていた‥‥‥
師匠がやっていたのなら、俺もやらなければならない。
琵琶湖を見つめながら太郎は、「やるぞ!」と気合を入れた。
3
愛洲太郎左衛門久忠は山伏、太郎坊移香になりきり、毎日、山の中を歩き回っていた。
山の中を往復十三里(約五十キロ)歩くのは、かなり辛かった。
初めのうちは朝早く出掛けても、帰り道の途中で日が暮れ、真っ暗な山道を歩き、やっとの思いで宿坊にたどり着く事ができた。
ただ、目の前の細い道だけを見て、歩くだけが精一杯だった。
十日目頃から、ようやく足も慣れ、一ケ月も続けると回りの景色を見る余裕も出て来た。
雨の日も風の日も、毎日、休まずに歩いた。一日でも休めば、初めからやり直すか、この山を下りて行くか、どちらかだ、と西光坊は言った。師匠のように強くなるには、どんな事があっても歩き通さなければならなかった。
その日の天気によって、毎日、歩いている道でも色々な変化があった。山の色は変わり、光の具合で形までも変わって見える事もあった。そして、山の中には色々な生き物が生活していた。小さな虫、色々な種類の鳥、リス、ウサギ、猿、イタチ、たぬき、きつね、亀、そして、鹿も時々見かけた。色々な花を咲かせ、実を結ぶ草木も色々とあった。また、山独特の霊気のような物を強く感じる事もあった。山は単なる山でなく、山自体が一つの生き物のように感じられた。
季節もいつしか、春から夏に変わっていた。
下界の事など一切、考えずに、ただ、山の中を歩き回っていた。
今年の梅雨はあまり雨が降らず、山歩きには丁度よかったが、六月の初め頃、梅雨の雨が一遍に降ったかと思われる程、山はもの凄く荒れた。強風が吹き、大粒の雨が降り続いた。太郎は滝にでも打たれるように山の中を歩いていた。
豪雨は二日間続いた。
強い雨と風で、前がまったく見えなかった。道に迷い、雨に濡れながら薄暗い山の中をさまよい歩いていた。何度も風に吹き飛ばされそうになり、木にしがみつきながら、やっとの思いで歩いた。それでも、太郎は「何くそ!」と歩き通した。
ずぶ濡れになりながら、太郎が阿星山の山頂に立った時だった。不思議な事に急に雨がやみ、風もやんだ。
辺りは急に静かになった。
太郎は山頂の祠の前にしゃがみ、真言を唱えていた。
霧が深くたちこめ何も見えない。自分だけが小島にポツンといるような錯覚を覚えた。
西の方の雲の間から、わずかに光が差し込んできた。それは何とも言えず、この世のものとは思えないような風景だった。
太郎は立ち上がり空を見上げた。西の方を見て、そして、飯道山の方、東の方を見た時だった。太郎はそこに不思議な物を見た。
そこには、この山の本尊、お釈迦様の姿がはっきりと見えた。
太郎は思わず合掌をした。そして、我知らず『法華経』を唱えていた。
お釈迦様はしばらく、太郎を見守っていたが、やがて、遠のいて行った。
その時の光景は太郎の心に深く焼き付いていった。
もう一つ、太郎の心に焼き付いた事があった。それは一人の老山伏だった。
初めて会ったのは阿星山から金勝山に行く途中の岩に囲まれた山道だった。
その老山伏は高い岩に腰掛けて太郎を見ていた。太郎は阿星山の修験者だろうと思い、一応、挨拶をして通り過ぎた。その時は別に何とも思わず、すぐに忘れてしまった。
その後、会ったのは一ケ月程たった頃の事だった。前と同じ岩の上に座って、やはり、太郎を見ていた。また、太郎は挨拶をして通り過ぎた。そして、金勝山を通り、竜王山を通り、狛坂寺に行く途中の岩の上に、その老山伏が座って太郎を見ているのに出会った。
馬鹿に速いな、抜道でもあるのだろうか、と太郎は思ったが、合掌して通り過ぎた。そして、次に太神山に向かう途中の岩の上に座り込んで、老山伏は太郎が登って来るのを待っていた。
老山伏は太郎を見ると笑った。きつねにでも化かされているのかと思った。太郎は老山伏に声を掛けた。老山伏は返事をしないまま岩陰に消えた。
太郎は老山伏の後を追いかけようと思ったが、とても、行けるような所ではなかった。今、太郎が立っている所とその岩の間は深い崖になっていて飛び付く事もできない程、離れていた。登る道は別にあるのだろうと諦めた。
帰り道、老山伏が座っていた岩を調べてみたが、どちらの岩も、そう簡単に登れる岩ではなかった。道から見ると簡単に登れそうに見えるが、実際、登ろうと思って、その岩の下まで行ってみると垂直の岩壁にぶつかり、下から見上げるだけでも凄い岩だった。
こんな岩を平気で登り、てっぺんに座り込んで、のんきそうに笑っているとは、あの老山伏は一体、何者なのだろうか。太郎は興味を引かれて行った。
飯道寺に戻り、先達の山伏たちに聞いてみても誰も知らなかった。そんな老山伏など見た事もないという。それはきっと、天狗に違いないと笑いながら言う先輩もいた。
その後、あの老山伏には会わなかった。太郎も、あれは、もしかしたら、天狗だったのかもしれないと本気で思ったりもした。
いよいよ、山歩き、最後の日だった。いつもの岩の上に老山伏は座っていた。太郎は老山伏に合掌して、頭を下げると、「聖人様」と声を掛けた。
老山伏は笑いながら、太郎を見た。
「いよいよ、今日で百日目じゃな」と老山伏はかすれた声で言った。
「え、どうして知ってるんです」
老山伏は笑っているだけで答えなかった。そして、太郎がちょっと目をはなした隙に消えていた。また先回りして、どこかで待っているのだろうと思い、歩き続けた。しかし、老山伏はどこにもいなかった。
太郎の百日間の奥駈け修行は無事に終わった。
12.金比羅坊
1
蝉が喧しく鳴いていた。
朝から、暑い一日だった。
百日間の長かったような、短かったような山歩きも終わり、今日からいよいよ、剣術の修行ができると太郎は楽しみにしていた。しかし、そう、うまくは行かなかった。朝食が済むと西光坊元内が待っていた。
いやな予感がした。
剣を握る前に、また何かをさせられるのか、また百日間も何かの行をさせられるんじゃないだろうな、と太郎は思った。
「ついて来い」と西光坊に言われ、ついて行った所は本堂から大分離れた、竹藪の中にひっそりと建つ智積院という僧坊だった。
「これも風眼坊殿のやり方だ。まあ、頑張れ」と西光坊は言った。
太郎は智積院で、天台宗の教理をみっちりとたたき込まれる事になった。
太郎は今まで、宗教などに興味を持った事はなかった。山を歩くのが好きだったし、剣の修行をするために、何の抵抗もなく山伏になる事はできた。でも、本格的な山伏になるつもりはない。あくまでも自分は武士で、山伏の姿は剣を習うための仮の姿にすぎないと思っている。
師匠は俺を本当の山伏にするつもりなのだろうか‥‥‥
近江の国では天台宗は盛んだった。比叡山延暦寺、長等山園城寺(三井寺)を初め、琵琶湖の東には湖東三山と呼ばれる、竜応山西明寺、松峰山金剛輪寺(松尾寺)、釈迦山百済寺があり、太郎が山歩きしていた阿星寺、金勝寺、太神不動寺なども皆、天台宗だった。
とにかく、この山にいる一年間は師匠の言われる通り何でもやろうと思い、太郎は偉そうな坊主のやる、やたら難しくて訳のわからない講義をおとなしく聴いていた。
共に講義を聴いているのは太郎以外、山伏は一人もいない。皆、頭を丸めた本物の僧侶たちだった。年は太郎と同じ位だが、青白い顔をしていて、なよなよしかった。
ここが武術修行の本場、飯道山の山の中か、と疑いたくなる程、別の世界のように感じられた。
講義は正午で終わった。講義を聴いていた連中は、ぞろぞろと帰って行った。
太郎は、これからどうしていいのかわからずに座ったままでいた。
「何をしいてる。もう終わりじゃぞ」と偉そうな坊主が声を掛けた。
「はあ」と太郎は回りを見回した。西光坊が迎えに来ていないか、と思ったが姿は見当たらなかった。
「太郎坊とか言ったな‥‥‥どうして、わしの講義を聴く」
「わかりません。師匠が決めた事です」
「師匠? 誰じゃ」
「風眼坊殿です」
「ほう、風眼坊か」
「御存じですか」
「知っておる‥‥‥まあ、しっかりやれ」と僧侶は出て行った。
しっかりやれか‥‥‥
坊主になるわけでもあるまいし、こんなもん、しっかりやったってしょうがない。それよりも剣術だ。俺は剣術をやりに来たのだ。
太郎は修徳坊に戻ると昼食を取り、木剣を持って剣術の道場に向かった。
すでに稽古は始まっていた。うっそうと生い茂る樹木に囲まれた平地で、五十人近くの山伏や近隣から修行に来ている郷士たちが稽古に励んでいた。
よし、久し振りにやるぞ、と太郎は道場の中に入って行った。
「こらっ!」と誰かが大声で怒鳴った。
太郎が声の方を振り向くと、赤ら顔の大男が太郎を睨んで立っていた。
「おい、お前は誰じゃ」
「太郎坊移香ですが‥‥‥」
「ほう、お前が太郎坊か‥‥‥」と大男は太郎をジロジロと眺めた。
「風眼坊殿の弟子らしいが、ここではそんなものは通用せん。容赦はせんぞ。木剣を振るなど、まだ早いわい。ちょっと来い」
太郎は大男の後をついて行った。大男は道場の隅に建っている小屋に入ると鉄の棒を持って出て来た。
「見てろ」と言うと、その棒を軽々と振り回した。
「まず、これが自由に使えるようになるまで、こいつの素振りじゃ」
大男は鉄の棒を太郎めがけて投げ付けた。太郎は飛び上がり、それを避けた。
「そいつを千回、振れ」
太郎は鉄の棒を手に取った。三貫(約十一キログラム)近くはありそうに思えた。
太郎はその鉄の棒を持って構えた。構えるだけでも辛かった。そして、振り上げると腰がふらついた。振り下ろせば重さと勢いで地面を強く打った。
「馬鹿もん! 刀の使い方も知らんのか。地面など斬ってどうする」
何だと! と太郎は大男を睨んだ。
「何だ、その面は。やりたくねえんなら、さっさと山を下りるんだな」
くそ! と太郎は鉄棒を振り上げた。
「よし、千回だぞ」
大男はそう言うと、立木を相手に稽古している者たちの方に行った。
太郎は鉄棒を振り続けた。手の皮は剥けて血だらけになっていった。
日は暮れ、稽古の時間は終わった。
皆が、ぞろぞろと帰って行った。
赤ら顔の大男が近づいて来て、「何回だ」と聞いた。
「六百三十四回」と太郎は息を切らせながら答えた。
「千回だぞ、千回終わるまで、やめてはいかん」そう言うと大男も帰って行った。
両手の感覚はすでになかった。気力で振り上げ、気力で振り下ろしていた。
「ひでえ事しやがる」と誰かが言った。
三人の男が太郎の素振りを見ていた。
「おめえ、余程、金比羅坊(コンピラボウ)に憎まれているらしいな」と別の男が言った。
「あの大男、金比羅坊って言うのか」と太郎は聞いた。
「そうだ、一番、威張っていやがる。気に入らねえ奴さ」
「だが、強え。俺たちじゃ、とても歯が立たねえ」
「あんな奴の言う事なんか、一々聞く事ねえ。もう、やめたらどうだい」
「いや、あともう少しだ。俺はやる。今、やめたら、あの金比羅坊に負けた事になる」
「ふん、おめえも頑固だな。まあ、頑張れや」
三人は帰って行った。
太郎が千回、振り終わったのは、もう、夜もかなり更けた頃だった。
千回目を振り下ろすと太郎はそのまま倒れ、気を失った。
太郎の鉄棒振りは十日間続いた。
午前中の講義が済むと昼飯を流し込み、すぐに道場に来て、鉄棒を振り始め、皆が稽古をやめて帰った後も、一人で振り続けていた。
鉄棒振りが終わると、ようやく、皆の仲間に入れてもらえ、木剣を持ち、立木打ちを始めた。
太郎と一緒に立木を相手に稽古しているのは、どれも皆、剣の振り方をやっと覚えたばかりの初心者たちだった。上級者たちは二人づつ組んで木剣の打ち合いをしている。太郎は早く、そっちの方に入りたかった。
立木を打ちながら太郎は皆を観察していた。見た所、自分より強そうなのは、五人位しかいないようだった。
まず、剣術師範の勝泉坊善栄。勝泉坊の腕は、まだ見た事がないが、全身から漂う雰囲気は太郎の師匠、風眼坊に似た威厳があった。
師範の下に師範代が三人いる。中之坊円学、浄光坊智明、そして、金比羅坊勝盛だった。中之坊と浄光坊は確かに強そうだが、金比羅坊は馬鹿力はあるが、たいした事はないと太郎は見ていた。
あとは、太郎が山に入ったその日、師の風眼坊と試合をした望月彦四郎、同じく甲賀の郷士、鳥居兵内、この五人以外は皆、たいした事ないと太郎は思った。
今、望月彦四郎と鳥居兵内が打ち合いをしていた。太郎は立木を打ちながら、それを見ていた。
「おい、真面目にやれ!」と金比羅坊の声と共に、太郎の背中に激痛が走った。
金比羅坊の持っている竹の棒に打たれたのだった。
「お前、やる気があるのか」と金比羅坊はもう一度、太郎をたたこうとした。
太郎はそれを木剣で受け止めた。
「いい度胸だな」と金比羅坊はニヤニヤしながら太郎を見ていた。
太郎も負けずと金比羅坊を睨んでいる。
金比羅坊はニヤニヤしたまま、膝で太郎の腹を蹴り上げた。
太郎は起き上がると木剣を構えた。
「小僧、わしとやる気か‥‥‥ふん、見せしめに思い知らせてやる」
立木をたたいていた連中は皆、二人の成り行きを見守っていた。
太郎は金比羅坊に打ちかかった。
金比羅坊の頭めがけて思い切り木剣を打ち下ろした‥‥‥が、太郎の木剣は空を斬り、金比羅坊の竹の棒に腹をしたたかに打たれた。
今度こそはともう一度、打ち込んだが、木剣は跳ね飛ばされ、背中を思い切りたたかれた。
「わしに逆らった罰じゃ。お前の好きな鉄棒を千回、振れ」
くそ! 今に見ていろ、金比羅坊の奴め!
日の暮れた山の中で太郎は一人、鉄棒振りをやっていた。
「太郎坊、おめえも変わった奴だな」と芥川左京亮(サキョウノスケ)がニヤニヤしながら言った。
「金比羅坊とやり合って勝てると思ったのか」と服部藤十郎が汗を拭きながら聞いた。
「勝てるわけねえだろ」と三雲源太が言う。
「おめえも馬鹿だな」と芥川左京亮が笑った。
「うるさい、俺は奴をやっつける」と太郎は鉄棒を振りながら言った。
「一人じゃ、あの馬鹿力を相手にするのは無理だ」と服部藤十郎は言った。
「いや、俺は絶対、一人で奴をやっつける」
太郎は鉄棒を思い切り、地面にたたきつけた。
この三人とはなぜか、気があった。三雲、芥川は甲賀の郷士の伜で、服部は伊賀の郷士の伜、皆、太郎と同い年だった。彼ら三人は今年の一月に一年間の修行をするために、山に登って来た連中だった。
「あと何回だ」と三雲が聞いた。
「今、五百六十五だ」
「よくやるな。そんな物、千回も振ったら腕が動かなくなるぜ」
「お前らだって、やったんだろ」
「やるわけねえだろ。そんな馬鹿な事、やってるのはおめえだけだ」と服部が言った。
「何だと! お前ら、これを千回やらなかったのか」
「ああ、俺たちは皆、百回だった」と芥川は言う。
「百回‥‥‥たったの百回か」
「ああ‥‥‥千回もやってるのはおめえだけだよ」
「くそ! 金比羅坊の奴め!」
太郎は鉄の棒を放り投げた。
「やめるのか」と三雲が聞いた。
「馬鹿らしい、もう、やめた」
四人は月明かりの中、修行者たちの宿坊に向かっていた。
太郎は彼らとは違う宿坊だったが、夕食だけは太郎のいる修徳坊と時間がずれるため、修行者たちの宿坊で食べる事になっていた。
『コン』と、どこかで木を打つ音がした。
「ほう、おめえだけじゃなかったらしいな。こんな遅くまで稽古をしてるのは」と服部が薙刀の道場の方を見た。
「誰だ」と太郎は興味深そうに聞いた。
「知らんよ‥‥‥天狗じゃねえのか」と三雲はさっさと行く。
「見に行こうぜ」と太郎が三人に言った。
「おめえも、物好きだな」と芥川は笑った。
四人は木の音のする方に近づいて行った。
木の陰に隠れて様子を窺うと、若い男が一人、立木を相手に剣の工夫をしていた。
「あいつは望月じゃねえのか」と三雲が小声で言った。
「望月って、あの望月彦四郎か」と太郎は聞いた。
「違う。俺たちと一緒に入った望月だ」と芥川が言った。
「あんな奴、いたのか」
「ちょっと生意気な奴だ。めったに口も聞かねえ。何を考えてるんだか、まったくわからねえ奴だ」
「ふうん、あんな奴がいたのか‥‥‥少しは、できるようだな」
太郎は望月の動きを見つめた。
「まあ、少しはな」と三雲は言って、立ち去った。
「腹減った。行こうぜ。あんな奴の棒振りなんか、見ててもしょうがねえ」と服部も去って行った。
芥川も帰って行ったが、太郎はその場を離れず望月の剣を見ていた。
「おい、太郎坊」と芥川が呼んだ。
「ああ」と太郎は答えると、ようやく、そこから立ち去った。
太郎はしばらくの間は、おとなしく金比羅坊の言う事を聞いていた。しかし、心の中では、いつか、金比羅坊をやっつけてやると燃えていた。どうしたら、奴に勝つ事ができるか、太郎はいつも考えながら立木を打っていた。
「やめい!」と金比羅坊が立木を打っている皆に言った。「毎日、同じ事ばかりしていたのでは面白くなかろう。今日はみんなに特別な稽古をさせてやる」
金比羅坊はそう言うと、手に持っていた丸太の切れ端を二本、放り投げた。側にいた者から木剣を借りると金比羅坊は丸太の上に乗り、「よく見ていろ」と木剣で立木を打ち始めた。
金比羅坊が打つたびに立木は揺れ、地面まで揺れているようだった。丸太から降りると、「やってみろ」と木剣を返した。
木剣を渡された者が丸太に乗った。腰がふらついていたが何とか立ち直ると木剣を構え、立木を打った。しかし、その反動に耐えられなくて、その男は丸太から落ちて転んでしまった。見ている者たちはどっと笑った。
「丸太はあそこに積んである。丸太の上で、まともに打てるようになるまで稽古しろ」
各自、丸太を取りに行き、立木のそばに置くと、それに乗り、立木を打ち始めた。バランスを崩し、転ぶ者が何人もいた。
太郎には丸太の上で剣を振る事など何でもない事だった。揺れる小舟の上で鍛えてある。いくら、丸太が回転するとはいえ、波で揺れる小舟の上よりは、ずっと簡単だった。
「ほう、うまいもんじゃのう」と金比羅坊が近づいて来て言った。「それじゃあ、面白くなかろう。丸太を縦にしてやれ」
「縦にする?」
「そうじゃ」と金比羅坊は太郎が乗っていた二本の丸太を立てた。直径四寸、高さは二尺近くあった。
「やってみろ」
太郎は二本の丸太の上に上がった。立木を打った。バランスを崩して転んだ。
「よし」と金比羅坊は笑いながら、去って行った。
太郎は金比羅坊の後ろ姿を睨みながら、思い切り立木を打った。
丸太を立て、その上で立木を打つのは思ったより難しかった。立木を軽く打てば、何とかなるが、力いっぱい打つとどうしても反動でバランスを崩した。
稽古の時間が終わった後も、太郎は一人残り、稽古を続けていた。何としても憎らしい金比羅坊を倒したかった。太郎はこの山にいる一年間を無駄にしたくはなかった。この山にいるうちに剣だけでなく、槍も薙刀も棒も、そして、手裏剣もすべて、自分のものにしたいと思っていた。それにはまず、金比羅坊を倒す事が第一の課題だった。少しの時間も無駄にはできなかった。
太郎が一人で剣を振っていると人影が近づいて来た。また、いつもの、あの三人だろうと思って無視していたが、例の三人ではなかった。いつかの夜、一人で稽古をしていた望月三郎だった。望月はしばらく、太郎の動きを見ていた。
「何か用か」と太郎は木剣を振るのをやめて聞いた。
望月は頷いた。「一人でやるより二人でやった方が、お互いにいいだろうと思ってな」
今度は太郎が頷いた。
二人は木剣を構えて、向き合った。太郎は今まで、望月三郎の事など問題にしていなかったが、以外にも三郎は強かった。二人の腕は互角と言えた。
二人は一時(二時間)余り、打ち合いをした。
望月三郎も太郎と同じように子供の頃から剣を習っていた。彼の父親も昔、この山で修行をし、かなりの腕を持っていた。三郎は幼い頃から父親に剣を教えられた。しかし、去年の夏、父親は何者かによって闇討ちに合い、殺された。三郎には誰の仕業によるものかわかっていた。わかっていたがどうする事もできなかった。
父親が死んで、まもなく、父親の弟、三郎にとっては叔父にあたる望月又五郎が攻めて来た。二人の兄は討ち死にし、三郎は母と妹を連れて、かろうじて逃げる事ができた。三郎は母と妹を母の実家に預け、一人、山に登って来た。望月又五郎を倒し、土地を取り戻すために、この山で修行している。
「その、又五郎というのは強いのか」と太郎は聞いた。
「強い。奴も親父と一緒にこの山で修行した。奴は薙刀が得意だ」
「薙刀か‥‥‥剣で相手するのは難しいな」
「ああ」と三郎は厳しい顔で頷いた。「そのうち薙刀も習うつもりだ」
「父親を殺ったのは又五郎か」
「違う。奴の手下だ。凄腕が三人いる」
「そいつらを、お前一人で倒す気なのか」
「ああ、一人でやる。仇討ちだ」
「お前も大変だな‥‥‥」
三郎は苦笑してから、「太郎坊、お前はどうして、剣の修行をしている」と聞いた。
「俺か‥‥‥俺はただ、強くなりたいからだ」
「なぜ」
「わからん‥‥‥わからんが、強くならなければならないんだ」
「強くならなければならない‥‥‥か」
「ああ‥‥‥」
太郎は講義を聞きながら気持ち良く居眠りをしていた。夜遅くまで剣の稽古をしていて、朝が早い。この講義の時間はゆっくり休むのに丁度、良かった。
化法の四教とは何ん。一つには三蔵教、二つには通教、三つには別教、四つには円教である‥‥‥などと言われても、太郎には何が何だか、さっぱりわからない。回りの坊主たちはわかっているのか、わかっていないのか知らないが、真面目な面をして何やら書きながら聴いている。
何で、こんな所に俺を入れたのだろうか、師匠の考えが太郎にはわからなかった。
太郎が気持ち良く寝ていると隣の僧が肘で突いて起こした。
太郎が顔を上げると、その僧は、「寝ててもいいが鼾はかくな」と小声で言った。
その僧の名は応如といい、太郎より年は一つ下だが頭はもの凄く良かった。伊賀の生まれで、今までずっと里の寺にいたが、太郎より少し前にこの山に登って来た。この山で修行するといっても、応如は武術をやりに来たのではなかった。書を習いに来たのだった。この山の中に弘景という書の大家が草庵を結んで住んでいた。応如は山に登ると、すぐに弘景を訪ねて行って書の教えを請うたが断られた。
「書は心じゃ。まず、学問を身に付けろ」と言われ、ここで講義を聴いている。山に登って、もう半年にもなるが、一向に弘景は応如に書を教えようとはしなかった。
「面白いか」と太郎は応如に聞いた。
「面白いわけ、ねえだろ」と応如は正面を向いたまま答えた。
「五停心とは、第一に不浄観、第二に慈悲観、第三に因縁観、第四に界分別観、第五に数息観、第一の不浄観とは‥‥‥」と講師は、訳のわからない事を言っていた。
「おい、応如、この天台宗っていう難しいものは、一体、誰が作ったんだ」
「この間の講義でやったろ、聞いてなかったのか」
「全然、知らん」
「天台智顗(チギ)という僧だ」
「ふうん、それで天台宗っていうのか」
「まあ、そうだが、天台っていうのは山の名前だ。智顗という僧がその天台山で修行して開いたから天台宗っていうんだ」
「それで、その天台山っていうは、どこにあるんだ」
「日本じゃない。明(ミン)の国だ。明のどこかの山奥にあるんだ」
「明の国か‥‥‥遠いのか」
「そこの二人、外に出ろ!」と講師が怒鳴った。
二人は外に出た。
外は天気が良くて、風が涼しくて気持ち良かった。
二人は体を伸ばすと草の上に座り込んだ。
「さっきの話だが、明の国というのはどんな国だ」と太郎は応如に聞いた。
「とにかく広い国らしい。都も京なんか問題にならない位、大きいらしい」
「へえ‥‥‥明の国か‥‥‥やっぱり、船で行くのか」
「まあ、そうだろうな。海の向こうだからな。だけど、行くのは難しいらしい。伝教大師(最澄)の頃も、何艘も船を連ねて行ったらしいけど、途中で難破して、無事に向こうに着いたのは一艘か二艘だったらしい」
「ふうん‥‥‥その伝教大師っていうのは何者だ」
「お前、何も知らんのか。伝教大師っていうのは日本における天台宗の祖だよ。伝教大師が明の国(当時は唐の国)の天台山に行って修行して天台宗を日本に持って来たんだ」
「へえ、伝教大師っていうのは天台山に行ったのか‥‥‥偉い坊さんだったんだな」
「当たり前だろ」と言うと応如は草の上に横になった。
「その天台山ってどんな山かな」と太郎は聞いた。
「さあな。どうせ、凄い山なんだろう。岩だらけで登るのも難しい山なんだろう」
「うん、そうだろうな。大峯山みたいな山かな」
「大峯山? あの山伏の山か」
「ああ」
「大峯山の事はよく知らんけど、凄い山だと思うよ」
「うん‥‥‥伝教大師っていう人は山伏だったのか」
「いや、正式な僧侶だよ。だけど、若い頃は山伏のように山に籠もって修行をしていたらしい。だから、天台宗の本山は比叡山の山の中にあるんだよ」
「そうか‥‥‥それで、ここもこんな山の中に寺があるんだな」
「いや、この山はもっと古いよ。伝教大師が生まれる前からある。昔、聖武天皇が都を、そこの信楽に移そうとした事があるんだ。その時、都の鬼門を守るために、この山に寺を建てたのが始まりなんだ。でも、天台宗が広まって、山伏たちがこの山に入って来るようになってから、この山が栄えたのは確かだよ」
「へえ、お前、物知りなんだな」と太郎は改めて、応如を見直した。
「その位の事は知っていろよ、この山にいるのなら」
「そうか‥‥‥成程。なあ、明の国に行ってみないか」
「お前、馬鹿じゃないのか。行けるわけないだろ」
「行けるかもしれんさ。俺はその天台山っていうのに登ってみたくなった」
「俺だって行ってみたいさ。向こうは書の本場だからな。しかし、行けるわけない」
「偉くなりゃいいのさ。お前は書で偉くなれ。俺は剣で偉くなる」
「明か‥‥‥」
「そうさ」と太郎も草の上に寝転がった。
とにかく、この山にいる一年間は師匠の言われる通り何でもやろうと思い、太郎は偉そうな坊主のやる、やたら難しくて訳のわからない講義をおとなしく聴いていた。
共に講義を聴いているのは太郎以外、山伏は一人もいない。皆、頭を丸めた本物の僧侶たちだった。年は太郎と同じ位だが、青白い顔をしていて、なよなよしかった。
ここが武術修行の本場、飯道山の山の中か、と疑いたくなる程、別の世界のように感じられた。
講義は正午で終わった。講義を聴いていた連中は、ぞろぞろと帰って行った。
太郎は、これからどうしていいのかわからずに座ったままでいた。
「何をしいてる。もう終わりじゃぞ」と偉そうな坊主が声を掛けた。
「はあ」と太郎は回りを見回した。西光坊が迎えに来ていないか、と思ったが姿は見当たらなかった。
「太郎坊とか言ったな‥‥‥どうして、わしの講義を聴く」
「わかりません。師匠が決めた事です」
「師匠? 誰じゃ」
「風眼坊殿です」
「ほう、風眼坊か」
「御存じですか」
「知っておる‥‥‥まあ、しっかりやれ」と僧侶は出て行った。
しっかりやれか‥‥‥
坊主になるわけでもあるまいし、こんなもん、しっかりやったってしょうがない。それよりも剣術だ。俺は剣術をやりに来たのだ。
太郎は修徳坊に戻ると昼食を取り、木剣を持って剣術の道場に向かった。
すでに稽古は始まっていた。うっそうと生い茂る樹木に囲まれた平地で、五十人近くの山伏や近隣から修行に来ている郷士たちが稽古に励んでいた。
よし、久し振りにやるぞ、と太郎は道場の中に入って行った。
「こらっ!」と誰かが大声で怒鳴った。
太郎が声の方を振り向くと、赤ら顔の大男が太郎を睨んで立っていた。
「おい、お前は誰じゃ」
「太郎坊移香ですが‥‥‥」
「ほう、お前が太郎坊か‥‥‥」と大男は太郎をジロジロと眺めた。
「風眼坊殿の弟子らしいが、ここではそんなものは通用せん。容赦はせんぞ。木剣を振るなど、まだ早いわい。ちょっと来い」
太郎は大男の後をついて行った。大男は道場の隅に建っている小屋に入ると鉄の棒を持って出て来た。
「見てろ」と言うと、その棒を軽々と振り回した。
「まず、これが自由に使えるようになるまで、こいつの素振りじゃ」
大男は鉄の棒を太郎めがけて投げ付けた。太郎は飛び上がり、それを避けた。
「そいつを千回、振れ」
太郎は鉄の棒を手に取った。三貫(約十一キログラム)近くはありそうに思えた。
太郎はその鉄の棒を持って構えた。構えるだけでも辛かった。そして、振り上げると腰がふらついた。振り下ろせば重さと勢いで地面を強く打った。
「馬鹿もん! 刀の使い方も知らんのか。地面など斬ってどうする」
何だと! と太郎は大男を睨んだ。
「何だ、その面は。やりたくねえんなら、さっさと山を下りるんだな」
くそ! と太郎は鉄棒を振り上げた。
「よし、千回だぞ」
大男はそう言うと、立木を相手に稽古している者たちの方に行った。
太郎は鉄棒を振り続けた。手の皮は剥けて血だらけになっていった。
日は暮れ、稽古の時間は終わった。
皆が、ぞろぞろと帰って行った。
赤ら顔の大男が近づいて来て、「何回だ」と聞いた。
「六百三十四回」と太郎は息を切らせながら答えた。
「千回だぞ、千回終わるまで、やめてはいかん」そう言うと大男も帰って行った。
両手の感覚はすでになかった。気力で振り上げ、気力で振り下ろしていた。
「ひでえ事しやがる」と誰かが言った。
三人の男が太郎の素振りを見ていた。
「おめえ、余程、金比羅坊(コンピラボウ)に憎まれているらしいな」と別の男が言った。
「あの大男、金比羅坊って言うのか」と太郎は聞いた。
「そうだ、一番、威張っていやがる。気に入らねえ奴さ」
「だが、強え。俺たちじゃ、とても歯が立たねえ」
「あんな奴の言う事なんか、一々聞く事ねえ。もう、やめたらどうだい」
「いや、あともう少しだ。俺はやる。今、やめたら、あの金比羅坊に負けた事になる」
「ふん、おめえも頑固だな。まあ、頑張れや」
三人は帰って行った。
太郎が千回、振り終わったのは、もう、夜もかなり更けた頃だった。
千回目を振り下ろすと太郎はそのまま倒れ、気を失った。
2
太郎の鉄棒振りは十日間続いた。
午前中の講義が済むと昼飯を流し込み、すぐに道場に来て、鉄棒を振り始め、皆が稽古をやめて帰った後も、一人で振り続けていた。
鉄棒振りが終わると、ようやく、皆の仲間に入れてもらえ、木剣を持ち、立木打ちを始めた。
太郎と一緒に立木を相手に稽古しているのは、どれも皆、剣の振り方をやっと覚えたばかりの初心者たちだった。上級者たちは二人づつ組んで木剣の打ち合いをしている。太郎は早く、そっちの方に入りたかった。
立木を打ちながら太郎は皆を観察していた。見た所、自分より強そうなのは、五人位しかいないようだった。
まず、剣術師範の勝泉坊善栄。勝泉坊の腕は、まだ見た事がないが、全身から漂う雰囲気は太郎の師匠、風眼坊に似た威厳があった。
師範の下に師範代が三人いる。中之坊円学、浄光坊智明、そして、金比羅坊勝盛だった。中之坊と浄光坊は確かに強そうだが、金比羅坊は馬鹿力はあるが、たいした事はないと太郎は見ていた。
あとは、太郎が山に入ったその日、師の風眼坊と試合をした望月彦四郎、同じく甲賀の郷士、鳥居兵内、この五人以外は皆、たいした事ないと太郎は思った。
今、望月彦四郎と鳥居兵内が打ち合いをしていた。太郎は立木を打ちながら、それを見ていた。
「おい、真面目にやれ!」と金比羅坊の声と共に、太郎の背中に激痛が走った。
金比羅坊の持っている竹の棒に打たれたのだった。
「お前、やる気があるのか」と金比羅坊はもう一度、太郎をたたこうとした。
太郎はそれを木剣で受け止めた。
「いい度胸だな」と金比羅坊はニヤニヤしながら太郎を見ていた。
太郎も負けずと金比羅坊を睨んでいる。
金比羅坊はニヤニヤしたまま、膝で太郎の腹を蹴り上げた。
太郎は起き上がると木剣を構えた。
「小僧、わしとやる気か‥‥‥ふん、見せしめに思い知らせてやる」
立木をたたいていた連中は皆、二人の成り行きを見守っていた。
太郎は金比羅坊に打ちかかった。
金比羅坊の頭めがけて思い切り木剣を打ち下ろした‥‥‥が、太郎の木剣は空を斬り、金比羅坊の竹の棒に腹をしたたかに打たれた。
今度こそはともう一度、打ち込んだが、木剣は跳ね飛ばされ、背中を思い切りたたかれた。
「わしに逆らった罰じゃ。お前の好きな鉄棒を千回、振れ」
くそ! 今に見ていろ、金比羅坊の奴め!
日の暮れた山の中で太郎は一人、鉄棒振りをやっていた。
「太郎坊、おめえも変わった奴だな」と芥川左京亮(サキョウノスケ)がニヤニヤしながら言った。
「金比羅坊とやり合って勝てると思ったのか」と服部藤十郎が汗を拭きながら聞いた。
「勝てるわけねえだろ」と三雲源太が言う。
「おめえも馬鹿だな」と芥川左京亮が笑った。
「うるさい、俺は奴をやっつける」と太郎は鉄棒を振りながら言った。
「一人じゃ、あの馬鹿力を相手にするのは無理だ」と服部藤十郎は言った。
「いや、俺は絶対、一人で奴をやっつける」
太郎は鉄棒を思い切り、地面にたたきつけた。
この三人とはなぜか、気があった。三雲、芥川は甲賀の郷士の伜で、服部は伊賀の郷士の伜、皆、太郎と同い年だった。彼ら三人は今年の一月に一年間の修行をするために、山に登って来た連中だった。
「あと何回だ」と三雲が聞いた。
「今、五百六十五だ」
「よくやるな。そんな物、千回も振ったら腕が動かなくなるぜ」
「お前らだって、やったんだろ」
「やるわけねえだろ。そんな馬鹿な事、やってるのはおめえだけだ」と服部が言った。
「何だと! お前ら、これを千回やらなかったのか」
「ああ、俺たちは皆、百回だった」と芥川は言う。
「百回‥‥‥たったの百回か」
「ああ‥‥‥千回もやってるのはおめえだけだよ」
「くそ! 金比羅坊の奴め!」
太郎は鉄の棒を放り投げた。
「やめるのか」と三雲が聞いた。
「馬鹿らしい、もう、やめた」
四人は月明かりの中、修行者たちの宿坊に向かっていた。
太郎は彼らとは違う宿坊だったが、夕食だけは太郎のいる修徳坊と時間がずれるため、修行者たちの宿坊で食べる事になっていた。
『コン』と、どこかで木を打つ音がした。
「ほう、おめえだけじゃなかったらしいな。こんな遅くまで稽古をしてるのは」と服部が薙刀の道場の方を見た。
「誰だ」と太郎は興味深そうに聞いた。
「知らんよ‥‥‥天狗じゃねえのか」と三雲はさっさと行く。
「見に行こうぜ」と太郎が三人に言った。
「おめえも、物好きだな」と芥川は笑った。
四人は木の音のする方に近づいて行った。
木の陰に隠れて様子を窺うと、若い男が一人、立木を相手に剣の工夫をしていた。
「あいつは望月じゃねえのか」と三雲が小声で言った。
「望月って、あの望月彦四郎か」と太郎は聞いた。
「違う。俺たちと一緒に入った望月だ」と芥川が言った。
「あんな奴、いたのか」
「ちょっと生意気な奴だ。めったに口も聞かねえ。何を考えてるんだか、まったくわからねえ奴だ」
「ふうん、あんな奴がいたのか‥‥‥少しは、できるようだな」
太郎は望月の動きを見つめた。
「まあ、少しはな」と三雲は言って、立ち去った。
「腹減った。行こうぜ。あんな奴の棒振りなんか、見ててもしょうがねえ」と服部も去って行った。
芥川も帰って行ったが、太郎はその場を離れず望月の剣を見ていた。
「おい、太郎坊」と芥川が呼んだ。
「ああ」と太郎は答えると、ようやく、そこから立ち去った。
3
太郎はしばらくの間は、おとなしく金比羅坊の言う事を聞いていた。しかし、心の中では、いつか、金比羅坊をやっつけてやると燃えていた。どうしたら、奴に勝つ事ができるか、太郎はいつも考えながら立木を打っていた。
「やめい!」と金比羅坊が立木を打っている皆に言った。「毎日、同じ事ばかりしていたのでは面白くなかろう。今日はみんなに特別な稽古をさせてやる」
金比羅坊はそう言うと、手に持っていた丸太の切れ端を二本、放り投げた。側にいた者から木剣を借りると金比羅坊は丸太の上に乗り、「よく見ていろ」と木剣で立木を打ち始めた。
金比羅坊が打つたびに立木は揺れ、地面まで揺れているようだった。丸太から降りると、「やってみろ」と木剣を返した。
木剣を渡された者が丸太に乗った。腰がふらついていたが何とか立ち直ると木剣を構え、立木を打った。しかし、その反動に耐えられなくて、その男は丸太から落ちて転んでしまった。見ている者たちはどっと笑った。
「丸太はあそこに積んである。丸太の上で、まともに打てるようになるまで稽古しろ」
各自、丸太を取りに行き、立木のそばに置くと、それに乗り、立木を打ち始めた。バランスを崩し、転ぶ者が何人もいた。
太郎には丸太の上で剣を振る事など何でもない事だった。揺れる小舟の上で鍛えてある。いくら、丸太が回転するとはいえ、波で揺れる小舟の上よりは、ずっと簡単だった。
「ほう、うまいもんじゃのう」と金比羅坊が近づいて来て言った。「それじゃあ、面白くなかろう。丸太を縦にしてやれ」
「縦にする?」
「そうじゃ」と金比羅坊は太郎が乗っていた二本の丸太を立てた。直径四寸、高さは二尺近くあった。
「やってみろ」
太郎は二本の丸太の上に上がった。立木を打った。バランスを崩して転んだ。
「よし」と金比羅坊は笑いながら、去って行った。
太郎は金比羅坊の後ろ姿を睨みながら、思い切り立木を打った。
丸太を立て、その上で立木を打つのは思ったより難しかった。立木を軽く打てば、何とかなるが、力いっぱい打つとどうしても反動でバランスを崩した。
稽古の時間が終わった後も、太郎は一人残り、稽古を続けていた。何としても憎らしい金比羅坊を倒したかった。太郎はこの山にいる一年間を無駄にしたくはなかった。この山にいるうちに剣だけでなく、槍も薙刀も棒も、そして、手裏剣もすべて、自分のものにしたいと思っていた。それにはまず、金比羅坊を倒す事が第一の課題だった。少しの時間も無駄にはできなかった。
太郎が一人で剣を振っていると人影が近づいて来た。また、いつもの、あの三人だろうと思って無視していたが、例の三人ではなかった。いつかの夜、一人で稽古をしていた望月三郎だった。望月はしばらく、太郎の動きを見ていた。
「何か用か」と太郎は木剣を振るのをやめて聞いた。
望月は頷いた。「一人でやるより二人でやった方が、お互いにいいだろうと思ってな」
今度は太郎が頷いた。
二人は木剣を構えて、向き合った。太郎は今まで、望月三郎の事など問題にしていなかったが、以外にも三郎は強かった。二人の腕は互角と言えた。
二人は一時(二時間)余り、打ち合いをした。
望月三郎も太郎と同じように子供の頃から剣を習っていた。彼の父親も昔、この山で修行をし、かなりの腕を持っていた。三郎は幼い頃から父親に剣を教えられた。しかし、去年の夏、父親は何者かによって闇討ちに合い、殺された。三郎には誰の仕業によるものかわかっていた。わかっていたがどうする事もできなかった。
父親が死んで、まもなく、父親の弟、三郎にとっては叔父にあたる望月又五郎が攻めて来た。二人の兄は討ち死にし、三郎は母と妹を連れて、かろうじて逃げる事ができた。三郎は母と妹を母の実家に預け、一人、山に登って来た。望月又五郎を倒し、土地を取り戻すために、この山で修行している。
「その、又五郎というのは強いのか」と太郎は聞いた。
「強い。奴も親父と一緒にこの山で修行した。奴は薙刀が得意だ」
「薙刀か‥‥‥剣で相手するのは難しいな」
「ああ」と三郎は厳しい顔で頷いた。「そのうち薙刀も習うつもりだ」
「父親を殺ったのは又五郎か」
「違う。奴の手下だ。凄腕が三人いる」
「そいつらを、お前一人で倒す気なのか」
「ああ、一人でやる。仇討ちだ」
「お前も大変だな‥‥‥」
三郎は苦笑してから、「太郎坊、お前はどうして、剣の修行をしている」と聞いた。
「俺か‥‥‥俺はただ、強くなりたいからだ」
「なぜ」
「わからん‥‥‥わからんが、強くならなければならないんだ」
「強くならなければならない‥‥‥か」
「ああ‥‥‥」
4
太郎は講義を聞きながら気持ち良く居眠りをしていた。夜遅くまで剣の稽古をしていて、朝が早い。この講義の時間はゆっくり休むのに丁度、良かった。
化法の四教とは何ん。一つには三蔵教、二つには通教、三つには別教、四つには円教である‥‥‥などと言われても、太郎には何が何だか、さっぱりわからない。回りの坊主たちはわかっているのか、わかっていないのか知らないが、真面目な面をして何やら書きながら聴いている。
何で、こんな所に俺を入れたのだろうか、師匠の考えが太郎にはわからなかった。
太郎が気持ち良く寝ていると隣の僧が肘で突いて起こした。
太郎が顔を上げると、その僧は、「寝ててもいいが鼾はかくな」と小声で言った。
その僧の名は応如といい、太郎より年は一つ下だが頭はもの凄く良かった。伊賀の生まれで、今までずっと里の寺にいたが、太郎より少し前にこの山に登って来た。この山で修行するといっても、応如は武術をやりに来たのではなかった。書を習いに来たのだった。この山の中に弘景という書の大家が草庵を結んで住んでいた。応如は山に登ると、すぐに弘景を訪ねて行って書の教えを請うたが断られた。
「書は心じゃ。まず、学問を身に付けろ」と言われ、ここで講義を聴いている。山に登って、もう半年にもなるが、一向に弘景は応如に書を教えようとはしなかった。
「面白いか」と太郎は応如に聞いた。
「面白いわけ、ねえだろ」と応如は正面を向いたまま答えた。
「五停心とは、第一に不浄観、第二に慈悲観、第三に因縁観、第四に界分別観、第五に数息観、第一の不浄観とは‥‥‥」と講師は、訳のわからない事を言っていた。
「おい、応如、この天台宗っていう難しいものは、一体、誰が作ったんだ」
「この間の講義でやったろ、聞いてなかったのか」
「全然、知らん」
「天台智顗(チギ)という僧だ」
「ふうん、それで天台宗っていうのか」
「まあ、そうだが、天台っていうのは山の名前だ。智顗という僧がその天台山で修行して開いたから天台宗っていうんだ」
「それで、その天台山っていうは、どこにあるんだ」
「日本じゃない。明(ミン)の国だ。明のどこかの山奥にあるんだ」
「明の国か‥‥‥遠いのか」
「そこの二人、外に出ろ!」と講師が怒鳴った。
二人は外に出た。
外は天気が良くて、風が涼しくて気持ち良かった。
二人は体を伸ばすと草の上に座り込んだ。
「さっきの話だが、明の国というのはどんな国だ」と太郎は応如に聞いた。
「とにかく広い国らしい。都も京なんか問題にならない位、大きいらしい」
「へえ‥‥‥明の国か‥‥‥やっぱり、船で行くのか」
「まあ、そうだろうな。海の向こうだからな。だけど、行くのは難しいらしい。伝教大師(最澄)の頃も、何艘も船を連ねて行ったらしいけど、途中で難破して、無事に向こうに着いたのは一艘か二艘だったらしい」
「ふうん‥‥‥その伝教大師っていうのは何者だ」
「お前、何も知らんのか。伝教大師っていうのは日本における天台宗の祖だよ。伝教大師が明の国(当時は唐の国)の天台山に行って修行して天台宗を日本に持って来たんだ」
「へえ、伝教大師っていうのは天台山に行ったのか‥‥‥偉い坊さんだったんだな」
「当たり前だろ」と言うと応如は草の上に横になった。
「その天台山ってどんな山かな」と太郎は聞いた。
「さあな。どうせ、凄い山なんだろう。岩だらけで登るのも難しい山なんだろう」
「うん、そうだろうな。大峯山みたいな山かな」
「大峯山? あの山伏の山か」
「ああ」
「大峯山の事はよく知らんけど、凄い山だと思うよ」
「うん‥‥‥伝教大師っていう人は山伏だったのか」
「いや、正式な僧侶だよ。だけど、若い頃は山伏のように山に籠もって修行をしていたらしい。だから、天台宗の本山は比叡山の山の中にあるんだよ」
「そうか‥‥‥それで、ここもこんな山の中に寺があるんだな」
「いや、この山はもっと古いよ。伝教大師が生まれる前からある。昔、聖武天皇が都を、そこの信楽に移そうとした事があるんだ。その時、都の鬼門を守るために、この山に寺を建てたのが始まりなんだ。でも、天台宗が広まって、山伏たちがこの山に入って来るようになってから、この山が栄えたのは確かだよ」
「へえ、お前、物知りなんだな」と太郎は改めて、応如を見直した。
「その位の事は知っていろよ、この山にいるのなら」
「そうか‥‥‥成程。なあ、明の国に行ってみないか」
「お前、馬鹿じゃないのか。行けるわけないだろ」
「行けるかもしれんさ。俺はその天台山っていうのに登ってみたくなった」
「俺だって行ってみたいさ。向こうは書の本場だからな。しかし、行けるわけない」
「偉くなりゃいいのさ。お前は書で偉くなれ。俺は剣で偉くなる」
「明か‥‥‥」
「そうさ」と太郎も草の上に寝転がった。
13.天狗騒動
1
暑かった。
日が暮れたというのに少しも涼しくならない。じっとしていても汗が流れ出た。
稽古が終わった後、五人は木陰に隠れ、相談していた。太郎と望月三郎、そして、芥川左京亮、三雲源太、服部藤十郎の五人だった。
「本当にやるのか」と芥川が難しい顔をして言った。
「やる」と太郎は皆の顔を見回した。
「大丈夫か。本当に明日の朝までに戻れるのか」と服部は不安げだった。
「大丈夫だ。竜法師まで二里はない。半時(一時間)もあれば行ける。ちょっと偵察して、帰って来るだけだ」と望月は自信を持って言った。
「行きたくなければ行かなくてもいい」と太郎はもう一度、皆の顔を見回した。
「俺は行くぜ。面白そうじゃねえか」と三雲は言った。
「そうだな、もう山も飽きて来たしな。たまには里に下りるのもいいだろう」と芥川。
「じゃあ、抜け出すか」と服部も頷いた。
「よし、決まった」と太郎は低い声で言った。「それじゃあ、夜のお勤めが終わったら行者堂の裏の大杉の下に集合だ」
四人は頷くと修行者の宿坊に帰って行った。
満月が出ている。
昼間の騒がしさが嘘のように山の中は静まり返っていた。
五人は物陰に隠れながら寺の境内を抜けると山道を下りて行った。太郎が登って来た道とは反対側である。この道を下りて行くと杣川に出る。望月と三雲と芥川の三人はこちら側から山に登って来たのだった。
杣川を一里程、上れば望月家のある竜法師だった。
こちら側の山の下にも、いくつもの僧坊が建ち並んでいたが、やはり、太郎が登って来た方が賑やかに栄えていた。
五人の人影は僧坊の中を縫うように走り抜け、杣川の河原に出た。
「懐かしいのう」三雲が回りを眺めながら言った。「俺のうちは、この川沿いに行けばすぐなんだ」と川の流れて行く方をじっと見つめた。
「母ちゃんに会いたくなったのか」と服部がからかった。
「うるせえ」
五人は三雲の家とは逆の方に向かって河原を歩き出した。
辺りは静まり返り、川のせせらぎしか聞こえて来ない。深川の村まで来ると河原から上がった。竜法師はもう目の前だった。
「どこだ」と服部が聞いた。
「あの森の向こうだ」と望月が指さした。
しばらく歩くと神社があった。
「ここから先はちょっとあぶない」と望月は足を止めた。
五人は身を低くして、たんぼの中の畦道に入った。
望月家の屋敷は高い塀に囲まれ、濠まで巡らされてあった。表の門は固く閉ざされ、塀の中の四隅には見張り櫓が立っている。櫓の中に人影が見えるが動く様子はない。どうやら眠っているようだった。
五人は物陰に隠れ、望月屋敷を観察していた。
「あれが、おめえのうちだったのか」と三雲が言った。
望月は屋敷をじっと見つめながら頷いた。「しかし、あんな櫓は前にはなかった。後で作ったものだろう」
「あの濠には水が入っているのか」と太郎は望月に聞いた。
「いや、前は入っていなかった。しかし、鉄菱(テツビシ)が撒いてある」
「鉄菱?」
「菱の実を知ってるだろう。あれを鉄で作った物だ。知らずに、あの濠に降りれば足の裏に穴があくのさ」
「へえ、そんな武器があるのか」と太郎は感心した。
「それじゃあ、中に入るのはあの表門しかないのか」と芥川が聞いた。
「ない。裏にも入り口はあるが濠に橋が架かっていない。中から橋を架けるようになっているんだ」
「すると、やはり、あの塀を乗り越すしかないか‥‥‥」と太郎。
「乗り越すにしてもかなりあるぜ。一丈(約三メートル)はあるだろう」と服部。
「濠の深さはどれ位だ」と芥川。
「やはり、一丈位はある」
「すると、濠の下からだと二丈はあるな」
「無理だな」と三雲が首を振った。「二丈も登れるわけがねえ。しかも、下には鉄菱が撒いてあり、上には見張りがいる」
「それをこれから訓練するんだ」と太郎は塀を見つめながら言った。「山に行けば二丈以上もある木がいくらでもある」
「俺たちは猿になるわけか」と服部が太郎を見た。
「そう言う事だ。あの屋敷を攻めるには、まず、あの四隅にいる見張りを倒さなくてはならん。上から弓でも射られたら面倒だからな。俺たち四人であの四人の見張りをやっつけ、その後、望月が表門から攻めるんだ」
「成程」と三雲は手を打って感心した。「おめえ、山伏のくせに、よく、そんな事、知ってるな」
太郎は苦笑した。五ケ所浦にいる時、祖父から教わった水軍の兵法(ヒョウホウ)だった。まさか、こんな所で兵法が役に立つとは思ってもいなかった。
「一応、一回りしてみるか」と望月は皆の顔を見た。
五人は物陰に隠れながら望月家を一回りして、神社まで戻ると作戦を練った。
皆、あの望月屋敷を攻め落とす事に乗り気になっていた。
「まず、望月に家の見取り図を書いてもらうんだな」と芥川が言った。
「わかった」と望月は頷いた。
「あとは兵力だな。どれ位の兵がいるかだ」と太郎は言った。
「夜中じゃ、ちょっと調べられんな」と服部が首を振る。
「それは、杉谷に頼もう」と望月は言った。「ここから、すぐ側に住んでいる。ガキの頃からの仲間だ。奴ならやってくれる」
「うん、それがいいな」と芥川が太郎を見る。
「あとは、俺たちがもっと強くなる事だ」と太郎は四人の顔を見回した。
「これからは木登りの訓練だな」と三雲が近くの木を見上げた。
「それと、手裏剣も練習した方がいい」と太郎は言った。「敵の方が多いからな」
「飛び道具か‥‥‥」と望月は拳を握り締めて頷いた。
「これからは特訓だぜ」と服部は刀の柄をたたいた。
「それで、いつやるんだ」と三雲が望月の顔を見た。
「今のままじゃ、とても無理だ。又五郎の薙刀は手ごわい」
「薙刀を使うのか‥‥‥やりづらいな」と芥川は顔をしかめた。
「お山の中陽坊と、どっちが強い」と服部は聞いた。
「わからんが、中陽坊を倒す事ができなけりゃ、まず、無理だろう」
「そりゃ難しいぞ。そいつはおめえに任せるよ」
「手ごわいのは、そいつだけじゃない。あと三人いる」
「お前ら、今年一杯で山を下りるんだろ」と太郎は聞いた。
「ああ、そうだ」と芥川が言うと、三雲と服部が頷いた。
「それまでに、やらなくちゃな」
「それじゃあ、年末にやるか」と芥川は言った。「奴らをやっつけて、めでたく正月を迎えるのさ」
「そいつはいい」と服部も賛成した。「そうすれば、望月も正月をあのうちで迎えられるわけだ」
「どうだ」と太郎は望月に聞いた。
望月は頷いた。「年末なら、かえって、奴らも油断してるかもしれん」
「決まりだな」と三雲が拳を上げた。「そうと決まれば忙しいぞ。あと四ケ月とちょっとしかねえ」
「四ケ月もありゃ充分さ」と服部が三雲の拳を握った。
「いい正月を迎えようぜ」太郎は皆の顔を見ながら言った。
「おう!」
夜が明ける前に五人は無事、山に戻って来た。
太郎は修徳坊に戻り、望月、芥川、服部、三雲の四人は修行者の宿坊に戻った。そして、皆と一緒に朝のお勤めを済ませ、朝飯に行く時だった。
四人は金比羅坊に呼ばれた。金比羅坊は太郎の腕を強くつかんでいた。
金比羅坊は五人を食堂(ジキドウ)の前に建つ蔵の前に並ばせると、ニヤニヤしながら五人の顔を見渡した。
「なぜ、呼ばれたかわかるな」
五人は答えなかった。
「夜中に、このお山を下りるのは構わん」と金比羅坊はやけに静かな声で言った。
「誰も止めはせん。お山の修行は辛いもんだ。お山がいやになり里が恋しくなる。帰りたくなれば、いつでも帰ればいい。だが、そいつは一生、落伍者という烙印(ラクイン)を押される事になる。お前らはお山を下りた。それだけなら誰も文句は言わん。ところが、また、とぼけて戻って来た。これは具合が悪い。非常に具合が悪い‥‥‥こういう事を放っておくと誰もが、夜、お山を抜け出し、また、知らん顔をして戻って来る事になる。それではお山の示しがつかん。芥川、三雲、服部、お前らは、あと四ケ月と少しだろう。どうして、我慢できなかったんじゃ‥‥‥まあ、やってしまった事はしょうがない。毎年、お前らみたいのが何人かいる。わしは、そういう奴らが好きじゃよ。お山で、おとなしく一年を過ごしている奴より、そういう奴の方が骨がある。よく、やってくれた。今年は皆、おとなし過ぎてつまらんと思っていたが、とうとう、お前ら五人が出た‥‥‥それでだ、今日は、お前ら骨のある五人に是非とも頼みがあるんじゃ。鐘撞き堂を直していたのを知っておるじゃろう。鐘撞き堂もようやく完成した。しかし、何かが足りない。何が足りない、おい、言ってみろ!」
「鐘です」と望月が答えた。
「そうじゃ、鐘じゃ、鐘撞き堂に鐘がないというのは、何とも様にならない。御本尊様のいない本堂のようなものじゃ。その鐘をお前らに運んでもらいたいのじゃ」
「どこにあるんです」と太郎は聞いた。
「里じゃよ。お前らの好きな里にある。それをただ、鐘撞き堂まで持って来ればいいだけじゃ。簡単じゃろ」
「重さはどの位です」と三雲が聞いた。
「たかが、五百貫(約二トン)じゃ。五人でやれば簡単じゃ。それじゃあ、すぐ、やってもらおうか」
「五百貫! そんなの無理だ」と三雲が情けない顔をした。
「無理じゃと‥‥‥無理でもやれ! やるまではお山に戻る事はならん」
「あの、朝飯は?」と服部が小声で聞いた。
「何だ、お前ら、まだだったのか、そいつは残念じゃのう‥‥‥今日は飯抜きじゃ。さっさと鐘を持って来い!」
鐘は信楽側の里にあった。こちら側の方が杣川側よりも距離は短いが、かなり急な坂である。五人は朝飯も食わず、一睡もせずに鐘と格闘しなければならなかった。
黒々とした鐘は大鳥居の側に置いてあった。見るからに重そうだった。五人で押した位では、びくともしなかった。
「これをどうやって、上まで持って行くんだよ」と三雲が鐘を押しながら言った。
「そんな事、知るか」と芥川は鐘を憎らしげに蹴飛ばした。足が痛いだけだった。
五人は鐘を睨んでは山の方を見ながら、どうしたらいいものか考えた。
ここから二の鳥居まで、なだらかな坂が九町(約一キロ)程続き、二の鳥居からは急な坂が六町(約六百五十メートル)程続いている。二の鳥居まで何とか運べたとしても、そこから先はどう考えても不可能な事だった。
「腹、減ったなあ」と服部が腹を押さえて座り込んだ。
「太い綱が必要だな」と望月が鐘をたたきながら言った。
「綱を付けて引っ張るのか」と太郎は鐘の回りを一回りしてみた。
「それしかないだろう」
「うん。とにかく、やってみるしかないな‥‥‥そこらの寺で綱を借りて来るわ」と太郎は出掛けた。
太郎は近くにあった寺の門をくぐった。境内には人影は見えなかった。太郎が本堂の方に歩いて行くと途中で声を掛けられた。
「何か、御用ですか」
女の声だった。
太郎が振り向くと、若い女が薙刀を持って立っていた。長い髪を後ろで束ね、白い鉢巻を巻き、白い袴をはいていた。
太郎は久し振りに女という物を見たような気がした。その娘は綺麗だった。眩しすぎるようだった。
「何か、御用でしょうか」と娘は太郎を眺めながら、また聞いた。
「は、はい」と太郎は、やっと答えた。
娘の大きく澄んだ目に見つめられると、なぜか、ボーッとしてしまった。
「あの、太い綱を借りたいのですが‥‥‥」
「太い綱?」と娘は怪訝な表情をした。
「はい。鐘を山に運ぶのです」
「ああ、あの鐘ですか。御苦労様です。聞いて来ますので、ちょっとお待ち下さい」
娘は去って行った。
太郎は、ボーッとしたまま娘の後姿を見送った。
しばらくすると、娘は尼僧を伴って戻って来た。
「私は松恵尼(ショウケイニ)と申します」と尼僧は軽く頭を下げた。
「はい、私は太郎坊移香と言います」太郎は自己紹介して頭を下げた。
「太郎坊移香?」と松恵尼は改めて太郎を見た。そして、なぜか笑い、頷いた。
「お話は楓(カエデ)から聞きました。申し訳ありませんが、ここには太い綱はありません」
「そうですか、どうも‥‥‥ここは尼寺だったのですか」
「そうですよ、御存じなかったのですか」
「はい。山ばかりいて、里の事はあまり知りませんので‥‥‥」
「多分、お隣の般若院(ハンニャイン)にあると思います」
「そうですか‥‥‥」
楓という娘は太郎を見てクスクス笑っていた。
「それでは失礼します」と松恵尼は去って行った。
「お隣に行ってご覧なさい」と楓は言った。
「はい」と太郎は楓の姿に見とれていた。「あの、あなたも尼さんですか」
「いいえ、私は違います。これのお稽古をしています」と薙刀を振って見せた。
「女だてらに?」
「女でも身を守るために必要です。太郎坊様はお山で天狗様になる修行をなさってるんですか」そう言いながら楓は笑った。
「天狗様?」と太郎は聞いた。
「だって、太郎坊って天狗様の名前でしょ」
「知らんぞ、そんな事」
「八日市に太郎坊宮があります。そこに太郎坊っていう天狗様が住んでいるって聞いています。本当は京の愛宕山(アタゴヤマ)に住んでいるらしいけど、時々、そこにも来るらしいわ。そして、京の鞍馬山(クラマヤマ)には、次郎坊っていう天狗様がいるそうです」
「へえ、そうなのか、知らなかった」
「ねえ、太郎坊様はお山で何をなさってるんです」
「私は剣の修行をしている」
「強いの?」
「あなたよりは強いでしょう」
「私も以外に強いのよ。あなたの事は前から聞いていたわ」
「俺の事を?」
「ええ、三月にお山に入って来て百日行をなさいました。そして、今は剣の修行をなさっている」
「どうして、知ってるんだ」
「お山の事はすぐ、噂に流れます。私、太郎坊様は天狗様みたいに怖い感じの人だと思ってたけど、全然、違うのね」
「俺は天狗じゃない」
楓はフフフと笑った。
太郎も笑った。突然、太郎の腹がグゥ~と大きく鳴った。
「どうしたの」と楓は笑いながら聞いた。
「何でもない」と太郎は腹を押えた。
「おなかが減ってるんじゃないの。お山ではご飯も食べられないの」
「今朝は忙しかったから忘れたんだ」
「ふうん」
「楓殿、頼みがあるんですけど」
楓はまた、笑った。
「楓殿はおかしいわよ、楓でいいわ。頼みって?」
「何か、食べる物が欲しい」
「いいわよ」
「五人分です」
「え? 五人分ね、何とかしてみるわ、待ってて」と楓は去って行った。
太郎が太い綱を肩にかつぎ、楓が作ってくれた握り飯を持って帰ると、四人は皆、木陰でいい気持ちになって眠っていた。
「おい、飯だ!」と太郎はみんなを起こした。
五人は貪るように握り飯をたいらげた。
「さて、飯も食ったし、やるか」と望月は立ち上がった。
太郎はボーッとしていた。楓の事を思っていた。
「太郎坊、どうしたんだ」と服部が肩をたたいた。
「あ、いや、ちょっと飯を食ったら眠くなって来た。さて、やるか」
太い綱を鐘のてっぺんの輪に通して縛り付けた。
三人で綱を引っ張り、二人で鐘を倒した。鐘は地響きを立てて倒れた。三人で引っ張り、二人で押してみたが鐘はびくとも動かなかった。今度は五人で引っ張ってみた。鐘は少しも動かなかった。
「おい、とても、五人だけじゃ無理だぜ」と三雲は引っ張っていた綱を放り投げた。
「無理でも、やらなけりゃならんだろう」と望月は言った。
「よし、もう一度だ」と太郎はみんなを励ました。
掛声を出して思い切り引っ張ると、鐘はやっと、ほんのわずかばかり移動した。
「やっぱり、無理だぜ」と芥川が息を切らせながら言った。「平地でやっと、これだけだ。山道なんか全然、動かんだろ。逆に下に落ちて行くわ」
「畜生!」と服部が汗を拭った。「金比羅坊の奴め、くだらん事をやらせやがって」
「どうする」と望月が太郎に聞いた。
「どうするか‥‥‥」
いい考えも浮かばず、五人は鐘の回りに座り込んだ。
今日も暑くなり始めて来ていた。
「どうして、山を下りたのがばれたのかなあ」と三雲が愚痴った。
「そんな事、知るか」服部はかたわらの草をむしると投げつけた。
望月は腕組みをして考え込んでいる。
太郎はボーッとして、また、楓の事を思っていた。
「あれだけの人間がいれば、こんなのすぐに上げられるのになあ」と芥川がポツリと言った。
一つの寺の前に村人たちが何人も集まってガヤガヤやっていた。
「何だ、あれは」と望月は聞いた。
「雨乞いの祈祷でも、するんだろう」と芥川が言った。
今年は梅雨が短く、六月の初めに大雨が降ってから後、日照りが続き、三ケ月近くも雨が一滴も降らなかった。人々は、雨を待ち望み、あちこちで雨乞いの祈祷が行なわれた。
「雨乞いか‥‥‥ちょっと、見て来よう」と望月は太郎を誘って人込みの方に行った。
人込みを割って中を見ると、山伏が護摩壇(ゴマダン)の前で神懸かり的な祈祷をやっていた。村人たちも真剣な面持ちで祈っている。見渡す限り百人以上はいるようだ。確かに、これだけの人がいれば、あんな鐘を山に運ぶのはわけないだろう。
太郎はしばらく祈祷を見ていたが、「これだ!」と叫ぶと、望月を引っ張って人込みの外に出た。
鐘の所に戻ると太郎は皆を連れて般若院に向かった。般若院に着くと金比羅坊の名前を出し、皆に山伏の格好をさせ、ありったけの綱を持たせて鐘の所に行かせた。
太郎は花養院に行くと、楓から太郎坊という天狗の事を詳しく聞いた。
「何をするの」と楓は不思議そうに聞いた。
「雨乞いをする」と太郎は言って、ニヤッと笑った。
「雨乞い? そんな事できるの」
「わからん、でも、やらなきゃならん」
太郎は寺々を回って、天狗の面を見つけ出すと鐘の所に戻った。
「太郎坊、一体、何をやるつもりなんだ」と望月は聞いた。
「まあ、見てろ。まず、この綱を鐘に付ける」
五人は綱をつなぎ合わせて長くし、鐘のてっぺんに二本の綱を縛り付けた。
「誰か、法螺貝、吹ける奴はいないか」と太郎は皆の顔を見回した。
「吹けるぞ」と三雲と服部が答えた。
「よし、思い切り吹いてくれ。そして、望月と芥川はあそこに行って、これから天狗様が雨乞いの儀式をやると言って来てくれ」
「天狗様?」と望月が怪訝な顔をした。
「ああ、俺が太郎坊っていう天狗になる。奴らを集めて、奴らにこれを運ばせるんだ」
「雨が降らなかったら、どうするんだ」と服部が聞いた。
「その時はその時よ。とにかく、鐘を山に上げる事だ」
「やってみるか、一か八かだ」
三雲と服部が法螺貝を吹いた。
望月と芥川は村人たちの方に行った。
天狗の面をかぶった太郎は鐘の上に腰掛け、村人が集まって来るのを待った。
何だ、何だと村人たちはぞくぞくと集まって来た。かなりの人数が集まると太郎は鐘の上に立ち上がり、「わしは愛宕山の天狗、太郎坊じゃ」と迫力のある声で言った。
「このお山の飯道権現様に呼ばれて、やって来た。飯道権現様が言うには、雨が降らんのはお山に鐘がないからじゃ、ぜひとも、お山に鐘を上げ、鐘を鳴らして、お山に住む魑魅魍魎(チミモウリョウ)を退治してくれとの事じゃ。この鐘をお山に上げ、一撞きすれば雨は必ず降る」
太郎はそう言うと太刀を抜き、鐘の上で飛び上がりながら振り回し、太刀を納めると天を見上げ、印を結び、真言を唱えた。最後にヤァー!と気合を掛けると空中で回転しながら鐘から飛び降り、また、鐘の上に飛び乗った。
「皆の衆、天狗様のお告げじゃ。この鐘を運べば雨は必ず降るぞ」と望月が村人たちを見渡しながら大声で言った。
天狗様じゃ、天狗様じゃと村人たちは綱に飛び付いて行った。
「よーし、運べ!」と太郎が叫ぶと、鐘は嘘のように簡単に動き始めた。
太郎は鐘の上に乗ったまま、錫杖を振り回し、掛声を掛けた。望月と芥川も鐘の両脇で掛声を掛け、三雲と服部は法螺貝を吹き鳴らした。
参道を引きずられて行く鐘を見て、村人たちがぞくぞくと集まって来た。男たちは綱を引き、女たちは掛声を掛けた。
女たちの中に楓の姿もあった。楓も鐘の上で跳ねている太郎を見上げながら、掛声を掛けていた。
二の鳥居をくぐると、そこから先は女人禁制になっているので、女たちはそこから鐘が山に登って行くのを見送った。
急な登り坂になっても鐘は面白いように登って行った。鐘は右に揺れたり、左に揺れたり、飛び上がったりしていたが、太郎は落ちる事もなく、その鐘の上を跳びはねながら掛声を掛けていた。まさに、それは天狗の舞いだった。
村人たちの掛声は山の中に響き渡った。山の中からも一体、何の騒ぎだと山伏たちがぞくぞくと下りて来た。中には村人たちと一緒になって騒ぐ山伏もいた。
鐘は無事に、百人以上の村人たちの力で山の上まで運ばれ、できたばかりの鐘撞き堂に納まった。
鐘撞き堂の回りは人で埋まっていた。みんな、「やった、やった」と騒いでいる。
太郎は鐘撞き堂の上に立ち、空を見上げた。雨が降りそうな気配はまったくなかった。日がかんかんと照っていた。
太郎は鐘の真下に座り込んだ。両手に印を結ぶと祈り始めた。太郎は生まれて初めて本気で神に祈った。飯道権現、熊野権現、不動明王、天照大神(アマテラスオオミカミ)、八幡大明神など、太郎は知っている限りの神や仏に祈った。
辺りは急に静かになった。皆が太郎を見つめていた。太郎坊という天狗を見つめていた。
太郎は何も考えずに、ただ、ひたすら祈った。自分の回りに集まっている人々の事も忘れた。山奥にたった一人でいるような錯覚を覚えた。
太郎の脳裏に、いつか、阿星山の頂上で見た、釈迦如来の姿が浮かんだ。太郎はあの釈迦如来にひたすら祈った。どれ位、祈っていただろう。太郎は釈迦如来が微笑したように思えた。
太郎は静かに立ち上がると、空を見上げ、回りを見回した。村人たちは太郎にすがるような目をして見つめていた。
太郎はもう一度、祈ると、ゆっくりと撞木(シュモク)の綱を握り、軽く後ろに引き、勢いをつけ、もう一度、思い切り後ろに引き、鐘を撞いた。
鐘の音は山の中に響きわたった。
人々は一斉に天を見上げた。
雨は降らなかった。
村人たちがガヤガヤし始めた。
太郎は天を見上げたままだった。
望月が近づいて来て、「どうする」と囁いた。
太郎は答えなかった。
辺りが急に暗くなり始めた。雲が物凄い速さで動いていた。
ポタッと太郎の天狗の面に雨が一粒、当たった。
「雨じゃ!」と誰かが叫んだ。
「雨じゃ!」とまた、別の者が叫んだ。
ザーッと雨は急に降って来た。
乾いていた樹木に雨は勢いよく降り付けた。
天を仰いでいた人々の顔にも容赦なく降り付けた。
「やったぞ、雨じゃ、雨じゃ!」
村人たちは皆、小躍りして喜んでいた。
望月も芥川も三雲も服部も皆、飛び上がって喜んだ。
太郎は天狗の面をしたまま雨の中で喜ぶ村人たちを見下ろし、天に向かって釈迦如来に感謝した。
「大した奴だな」と誰かが言った。
見ると金比羅坊が側に立って太郎を見ていた。
「無事、鐘を上げる事ができました」と太郎は言った。
金比羅坊は大きく頷いた。
「最後の仕上げだ」と金比羅坊は言った。
「最後の仕上げ?」
「いつまでも、天狗様がここにいてもしょうがないだろう。用は済んだんだ。皆に気づかれないように消えろ」
太郎は頷くと、誰にも気付かれないように森の中に消えて行った。
騒ぎが治まると金比羅坊は、「天狗様は空に飛んで行かれた。愛宕山にお帰りになられたのじゃろう」と大声で言った。
雨に打たれながら、村人たちは天に向かってお礼を言った。
昼間の騒がしさが嘘のように山の中は静まり返っていた。
五人は物陰に隠れながら寺の境内を抜けると山道を下りて行った。太郎が登って来た道とは反対側である。この道を下りて行くと杣川に出る。望月と三雲と芥川の三人はこちら側から山に登って来たのだった。
杣川を一里程、上れば望月家のある竜法師だった。
こちら側の山の下にも、いくつもの僧坊が建ち並んでいたが、やはり、太郎が登って来た方が賑やかに栄えていた。
五人の人影は僧坊の中を縫うように走り抜け、杣川の河原に出た。
「懐かしいのう」三雲が回りを眺めながら言った。「俺のうちは、この川沿いに行けばすぐなんだ」と川の流れて行く方をじっと見つめた。
「母ちゃんに会いたくなったのか」と服部がからかった。
「うるせえ」
五人は三雲の家とは逆の方に向かって河原を歩き出した。
辺りは静まり返り、川のせせらぎしか聞こえて来ない。深川の村まで来ると河原から上がった。竜法師はもう目の前だった。
「どこだ」と服部が聞いた。
「あの森の向こうだ」と望月が指さした。
しばらく歩くと神社があった。
「ここから先はちょっとあぶない」と望月は足を止めた。
五人は身を低くして、たんぼの中の畦道に入った。
望月家の屋敷は高い塀に囲まれ、濠まで巡らされてあった。表の門は固く閉ざされ、塀の中の四隅には見張り櫓が立っている。櫓の中に人影が見えるが動く様子はない。どうやら眠っているようだった。
五人は物陰に隠れ、望月屋敷を観察していた。
「あれが、おめえのうちだったのか」と三雲が言った。
望月は屋敷をじっと見つめながら頷いた。「しかし、あんな櫓は前にはなかった。後で作ったものだろう」
「あの濠には水が入っているのか」と太郎は望月に聞いた。
「いや、前は入っていなかった。しかし、鉄菱(テツビシ)が撒いてある」
「鉄菱?」
「菱の実を知ってるだろう。あれを鉄で作った物だ。知らずに、あの濠に降りれば足の裏に穴があくのさ」
「へえ、そんな武器があるのか」と太郎は感心した。
「それじゃあ、中に入るのはあの表門しかないのか」と芥川が聞いた。
「ない。裏にも入り口はあるが濠に橋が架かっていない。中から橋を架けるようになっているんだ」
「すると、やはり、あの塀を乗り越すしかないか‥‥‥」と太郎。
「乗り越すにしてもかなりあるぜ。一丈(約三メートル)はあるだろう」と服部。
「濠の深さはどれ位だ」と芥川。
「やはり、一丈位はある」
「すると、濠の下からだと二丈はあるな」
「無理だな」と三雲が首を振った。「二丈も登れるわけがねえ。しかも、下には鉄菱が撒いてあり、上には見張りがいる」
「それをこれから訓練するんだ」と太郎は塀を見つめながら言った。「山に行けば二丈以上もある木がいくらでもある」
「俺たちは猿になるわけか」と服部が太郎を見た。
「そう言う事だ。あの屋敷を攻めるには、まず、あの四隅にいる見張りを倒さなくてはならん。上から弓でも射られたら面倒だからな。俺たち四人であの四人の見張りをやっつけ、その後、望月が表門から攻めるんだ」
「成程」と三雲は手を打って感心した。「おめえ、山伏のくせに、よく、そんな事、知ってるな」
太郎は苦笑した。五ケ所浦にいる時、祖父から教わった水軍の兵法(ヒョウホウ)だった。まさか、こんな所で兵法が役に立つとは思ってもいなかった。
「一応、一回りしてみるか」と望月は皆の顔を見た。
五人は物陰に隠れながら望月家を一回りして、神社まで戻ると作戦を練った。
皆、あの望月屋敷を攻め落とす事に乗り気になっていた。
「まず、望月に家の見取り図を書いてもらうんだな」と芥川が言った。
「わかった」と望月は頷いた。
「あとは兵力だな。どれ位の兵がいるかだ」と太郎は言った。
「夜中じゃ、ちょっと調べられんな」と服部が首を振る。
「それは、杉谷に頼もう」と望月は言った。「ここから、すぐ側に住んでいる。ガキの頃からの仲間だ。奴ならやってくれる」
「うん、それがいいな」と芥川が太郎を見る。
「あとは、俺たちがもっと強くなる事だ」と太郎は四人の顔を見回した。
「これからは木登りの訓練だな」と三雲が近くの木を見上げた。
「それと、手裏剣も練習した方がいい」と太郎は言った。「敵の方が多いからな」
「飛び道具か‥‥‥」と望月は拳を握り締めて頷いた。
「これからは特訓だぜ」と服部は刀の柄をたたいた。
「それで、いつやるんだ」と三雲が望月の顔を見た。
「今のままじゃ、とても無理だ。又五郎の薙刀は手ごわい」
「薙刀を使うのか‥‥‥やりづらいな」と芥川は顔をしかめた。
「お山の中陽坊と、どっちが強い」と服部は聞いた。
「わからんが、中陽坊を倒す事ができなけりゃ、まず、無理だろう」
「そりゃ難しいぞ。そいつはおめえに任せるよ」
「手ごわいのは、そいつだけじゃない。あと三人いる」
「お前ら、今年一杯で山を下りるんだろ」と太郎は聞いた。
「ああ、そうだ」と芥川が言うと、三雲と服部が頷いた。
「それまでに、やらなくちゃな」
「それじゃあ、年末にやるか」と芥川は言った。「奴らをやっつけて、めでたく正月を迎えるのさ」
「そいつはいい」と服部も賛成した。「そうすれば、望月も正月をあのうちで迎えられるわけだ」
「どうだ」と太郎は望月に聞いた。
望月は頷いた。「年末なら、かえって、奴らも油断してるかもしれん」
「決まりだな」と三雲が拳を上げた。「そうと決まれば忙しいぞ。あと四ケ月とちょっとしかねえ」
「四ケ月もありゃ充分さ」と服部が三雲の拳を握った。
「いい正月を迎えようぜ」太郎は皆の顔を見ながら言った。
「おう!」
2
夜が明ける前に五人は無事、山に戻って来た。
太郎は修徳坊に戻り、望月、芥川、服部、三雲の四人は修行者の宿坊に戻った。そして、皆と一緒に朝のお勤めを済ませ、朝飯に行く時だった。
四人は金比羅坊に呼ばれた。金比羅坊は太郎の腕を強くつかんでいた。
金比羅坊は五人を食堂(ジキドウ)の前に建つ蔵の前に並ばせると、ニヤニヤしながら五人の顔を見渡した。
「なぜ、呼ばれたかわかるな」
五人は答えなかった。
「夜中に、このお山を下りるのは構わん」と金比羅坊はやけに静かな声で言った。
「誰も止めはせん。お山の修行は辛いもんだ。お山がいやになり里が恋しくなる。帰りたくなれば、いつでも帰ればいい。だが、そいつは一生、落伍者という烙印(ラクイン)を押される事になる。お前らはお山を下りた。それだけなら誰も文句は言わん。ところが、また、とぼけて戻って来た。これは具合が悪い。非常に具合が悪い‥‥‥こういう事を放っておくと誰もが、夜、お山を抜け出し、また、知らん顔をして戻って来る事になる。それではお山の示しがつかん。芥川、三雲、服部、お前らは、あと四ケ月と少しだろう。どうして、我慢できなかったんじゃ‥‥‥まあ、やってしまった事はしょうがない。毎年、お前らみたいのが何人かいる。わしは、そういう奴らが好きじゃよ。お山で、おとなしく一年を過ごしている奴より、そういう奴の方が骨がある。よく、やってくれた。今年は皆、おとなし過ぎてつまらんと思っていたが、とうとう、お前ら五人が出た‥‥‥それでだ、今日は、お前ら骨のある五人に是非とも頼みがあるんじゃ。鐘撞き堂を直していたのを知っておるじゃろう。鐘撞き堂もようやく完成した。しかし、何かが足りない。何が足りない、おい、言ってみろ!」
「鐘です」と望月が答えた。
「そうじゃ、鐘じゃ、鐘撞き堂に鐘がないというのは、何とも様にならない。御本尊様のいない本堂のようなものじゃ。その鐘をお前らに運んでもらいたいのじゃ」
「どこにあるんです」と太郎は聞いた。
「里じゃよ。お前らの好きな里にある。それをただ、鐘撞き堂まで持って来ればいいだけじゃ。簡単じゃろ」
「重さはどの位です」と三雲が聞いた。
「たかが、五百貫(約二トン)じゃ。五人でやれば簡単じゃ。それじゃあ、すぐ、やってもらおうか」
「五百貫! そんなの無理だ」と三雲が情けない顔をした。
「無理じゃと‥‥‥無理でもやれ! やるまではお山に戻る事はならん」
「あの、朝飯は?」と服部が小声で聞いた。
「何だ、お前ら、まだだったのか、そいつは残念じゃのう‥‥‥今日は飯抜きじゃ。さっさと鐘を持って来い!」
鐘は信楽側の里にあった。こちら側の方が杣川側よりも距離は短いが、かなり急な坂である。五人は朝飯も食わず、一睡もせずに鐘と格闘しなければならなかった。
黒々とした鐘は大鳥居の側に置いてあった。見るからに重そうだった。五人で押した位では、びくともしなかった。
「これをどうやって、上まで持って行くんだよ」と三雲が鐘を押しながら言った。
「そんな事、知るか」と芥川は鐘を憎らしげに蹴飛ばした。足が痛いだけだった。
五人は鐘を睨んでは山の方を見ながら、どうしたらいいものか考えた。
ここから二の鳥居まで、なだらかな坂が九町(約一キロ)程続き、二の鳥居からは急な坂が六町(約六百五十メートル)程続いている。二の鳥居まで何とか運べたとしても、そこから先はどう考えても不可能な事だった。
「腹、減ったなあ」と服部が腹を押さえて座り込んだ。
「太い綱が必要だな」と望月が鐘をたたきながら言った。
「綱を付けて引っ張るのか」と太郎は鐘の回りを一回りしてみた。
「それしかないだろう」
「うん。とにかく、やってみるしかないな‥‥‥そこらの寺で綱を借りて来るわ」と太郎は出掛けた。
太郎は近くにあった寺の門をくぐった。境内には人影は見えなかった。太郎が本堂の方に歩いて行くと途中で声を掛けられた。
「何か、御用ですか」
女の声だった。
太郎が振り向くと、若い女が薙刀を持って立っていた。長い髪を後ろで束ね、白い鉢巻を巻き、白い袴をはいていた。
太郎は久し振りに女という物を見たような気がした。その娘は綺麗だった。眩しすぎるようだった。
「何か、御用でしょうか」と娘は太郎を眺めながら、また聞いた。
「は、はい」と太郎は、やっと答えた。
娘の大きく澄んだ目に見つめられると、なぜか、ボーッとしてしまった。
「あの、太い綱を借りたいのですが‥‥‥」
「太い綱?」と娘は怪訝な表情をした。
「はい。鐘を山に運ぶのです」
「ああ、あの鐘ですか。御苦労様です。聞いて来ますので、ちょっとお待ち下さい」
娘は去って行った。
太郎は、ボーッとしたまま娘の後姿を見送った。
しばらくすると、娘は尼僧を伴って戻って来た。
「私は松恵尼(ショウケイニ)と申します」と尼僧は軽く頭を下げた。
「はい、私は太郎坊移香と言います」太郎は自己紹介して頭を下げた。
「太郎坊移香?」と松恵尼は改めて太郎を見た。そして、なぜか笑い、頷いた。
「お話は楓(カエデ)から聞きました。申し訳ありませんが、ここには太い綱はありません」
「そうですか、どうも‥‥‥ここは尼寺だったのですか」
「そうですよ、御存じなかったのですか」
「はい。山ばかりいて、里の事はあまり知りませんので‥‥‥」
「多分、お隣の般若院(ハンニャイン)にあると思います」
「そうですか‥‥‥」
楓という娘は太郎を見てクスクス笑っていた。
「それでは失礼します」と松恵尼は去って行った。
「お隣に行ってご覧なさい」と楓は言った。
「はい」と太郎は楓の姿に見とれていた。「あの、あなたも尼さんですか」
「いいえ、私は違います。これのお稽古をしています」と薙刀を振って見せた。
「女だてらに?」
「女でも身を守るために必要です。太郎坊様はお山で天狗様になる修行をなさってるんですか」そう言いながら楓は笑った。
「天狗様?」と太郎は聞いた。
「だって、太郎坊って天狗様の名前でしょ」
「知らんぞ、そんな事」
「八日市に太郎坊宮があります。そこに太郎坊っていう天狗様が住んでいるって聞いています。本当は京の愛宕山(アタゴヤマ)に住んでいるらしいけど、時々、そこにも来るらしいわ。そして、京の鞍馬山(クラマヤマ)には、次郎坊っていう天狗様がいるそうです」
「へえ、そうなのか、知らなかった」
「ねえ、太郎坊様はお山で何をなさってるんです」
「私は剣の修行をしている」
「強いの?」
「あなたよりは強いでしょう」
「私も以外に強いのよ。あなたの事は前から聞いていたわ」
「俺の事を?」
「ええ、三月にお山に入って来て百日行をなさいました。そして、今は剣の修行をなさっている」
「どうして、知ってるんだ」
「お山の事はすぐ、噂に流れます。私、太郎坊様は天狗様みたいに怖い感じの人だと思ってたけど、全然、違うのね」
「俺は天狗じゃない」
楓はフフフと笑った。
太郎も笑った。突然、太郎の腹がグゥ~と大きく鳴った。
「どうしたの」と楓は笑いながら聞いた。
「何でもない」と太郎は腹を押えた。
「おなかが減ってるんじゃないの。お山ではご飯も食べられないの」
「今朝は忙しかったから忘れたんだ」
「ふうん」
「楓殿、頼みがあるんですけど」
楓はまた、笑った。
「楓殿はおかしいわよ、楓でいいわ。頼みって?」
「何か、食べる物が欲しい」
「いいわよ」
「五人分です」
「え? 五人分ね、何とかしてみるわ、待ってて」と楓は去って行った。
太郎が太い綱を肩にかつぎ、楓が作ってくれた握り飯を持って帰ると、四人は皆、木陰でいい気持ちになって眠っていた。
「おい、飯だ!」と太郎はみんなを起こした。
五人は貪るように握り飯をたいらげた。
「さて、飯も食ったし、やるか」と望月は立ち上がった。
太郎はボーッとしていた。楓の事を思っていた。
「太郎坊、どうしたんだ」と服部が肩をたたいた。
「あ、いや、ちょっと飯を食ったら眠くなって来た。さて、やるか」
太い綱を鐘のてっぺんの輪に通して縛り付けた。
三人で綱を引っ張り、二人で鐘を倒した。鐘は地響きを立てて倒れた。三人で引っ張り、二人で押してみたが鐘はびくとも動かなかった。今度は五人で引っ張ってみた。鐘は少しも動かなかった。
「おい、とても、五人だけじゃ無理だぜ」と三雲は引っ張っていた綱を放り投げた。
「無理でも、やらなけりゃならんだろう」と望月は言った。
「よし、もう一度だ」と太郎はみんなを励ました。
掛声を出して思い切り引っ張ると、鐘はやっと、ほんのわずかばかり移動した。
「やっぱり、無理だぜ」と芥川が息を切らせながら言った。「平地でやっと、これだけだ。山道なんか全然、動かんだろ。逆に下に落ちて行くわ」
「畜生!」と服部が汗を拭った。「金比羅坊の奴め、くだらん事をやらせやがって」
「どうする」と望月が太郎に聞いた。
「どうするか‥‥‥」
いい考えも浮かばず、五人は鐘の回りに座り込んだ。
今日も暑くなり始めて来ていた。
「どうして、山を下りたのがばれたのかなあ」と三雲が愚痴った。
「そんな事、知るか」服部はかたわらの草をむしると投げつけた。
望月は腕組みをして考え込んでいる。
太郎はボーッとして、また、楓の事を思っていた。
「あれだけの人間がいれば、こんなのすぐに上げられるのになあ」と芥川がポツリと言った。
一つの寺の前に村人たちが何人も集まってガヤガヤやっていた。
「何だ、あれは」と望月は聞いた。
「雨乞いの祈祷でも、するんだろう」と芥川が言った。
今年は梅雨が短く、六月の初めに大雨が降ってから後、日照りが続き、三ケ月近くも雨が一滴も降らなかった。人々は、雨を待ち望み、あちこちで雨乞いの祈祷が行なわれた。
「雨乞いか‥‥‥ちょっと、見て来よう」と望月は太郎を誘って人込みの方に行った。
人込みを割って中を見ると、山伏が護摩壇(ゴマダン)の前で神懸かり的な祈祷をやっていた。村人たちも真剣な面持ちで祈っている。見渡す限り百人以上はいるようだ。確かに、これだけの人がいれば、あんな鐘を山に運ぶのはわけないだろう。
太郎はしばらく祈祷を見ていたが、「これだ!」と叫ぶと、望月を引っ張って人込みの外に出た。
鐘の所に戻ると太郎は皆を連れて般若院に向かった。般若院に着くと金比羅坊の名前を出し、皆に山伏の格好をさせ、ありったけの綱を持たせて鐘の所に行かせた。
太郎は花養院に行くと、楓から太郎坊という天狗の事を詳しく聞いた。
「何をするの」と楓は不思議そうに聞いた。
「雨乞いをする」と太郎は言って、ニヤッと笑った。
「雨乞い? そんな事できるの」
「わからん、でも、やらなきゃならん」
太郎は寺々を回って、天狗の面を見つけ出すと鐘の所に戻った。
「太郎坊、一体、何をやるつもりなんだ」と望月は聞いた。
「まあ、見てろ。まず、この綱を鐘に付ける」
五人は綱をつなぎ合わせて長くし、鐘のてっぺんに二本の綱を縛り付けた。
「誰か、法螺貝、吹ける奴はいないか」と太郎は皆の顔を見回した。
「吹けるぞ」と三雲と服部が答えた。
「よし、思い切り吹いてくれ。そして、望月と芥川はあそこに行って、これから天狗様が雨乞いの儀式をやると言って来てくれ」
「天狗様?」と望月が怪訝な顔をした。
「ああ、俺が太郎坊っていう天狗になる。奴らを集めて、奴らにこれを運ばせるんだ」
「雨が降らなかったら、どうするんだ」と服部が聞いた。
「その時はその時よ。とにかく、鐘を山に上げる事だ」
「やってみるか、一か八かだ」
三雲と服部が法螺貝を吹いた。
望月と芥川は村人たちの方に行った。
天狗の面をかぶった太郎は鐘の上に腰掛け、村人が集まって来るのを待った。
何だ、何だと村人たちはぞくぞくと集まって来た。かなりの人数が集まると太郎は鐘の上に立ち上がり、「わしは愛宕山の天狗、太郎坊じゃ」と迫力のある声で言った。
「このお山の飯道権現様に呼ばれて、やって来た。飯道権現様が言うには、雨が降らんのはお山に鐘がないからじゃ、ぜひとも、お山に鐘を上げ、鐘を鳴らして、お山に住む魑魅魍魎(チミモウリョウ)を退治してくれとの事じゃ。この鐘をお山に上げ、一撞きすれば雨は必ず降る」
太郎はそう言うと太刀を抜き、鐘の上で飛び上がりながら振り回し、太刀を納めると天を見上げ、印を結び、真言を唱えた。最後にヤァー!と気合を掛けると空中で回転しながら鐘から飛び降り、また、鐘の上に飛び乗った。
「皆の衆、天狗様のお告げじゃ。この鐘を運べば雨は必ず降るぞ」と望月が村人たちを見渡しながら大声で言った。
天狗様じゃ、天狗様じゃと村人たちは綱に飛び付いて行った。
「よーし、運べ!」と太郎が叫ぶと、鐘は嘘のように簡単に動き始めた。
太郎は鐘の上に乗ったまま、錫杖を振り回し、掛声を掛けた。望月と芥川も鐘の両脇で掛声を掛け、三雲と服部は法螺貝を吹き鳴らした。
参道を引きずられて行く鐘を見て、村人たちがぞくぞくと集まって来た。男たちは綱を引き、女たちは掛声を掛けた。
女たちの中に楓の姿もあった。楓も鐘の上で跳ねている太郎を見上げながら、掛声を掛けていた。
二の鳥居をくぐると、そこから先は女人禁制になっているので、女たちはそこから鐘が山に登って行くのを見送った。
急な登り坂になっても鐘は面白いように登って行った。鐘は右に揺れたり、左に揺れたり、飛び上がったりしていたが、太郎は落ちる事もなく、その鐘の上を跳びはねながら掛声を掛けていた。まさに、それは天狗の舞いだった。
村人たちの掛声は山の中に響き渡った。山の中からも一体、何の騒ぎだと山伏たちがぞくぞくと下りて来た。中には村人たちと一緒になって騒ぐ山伏もいた。
鐘は無事に、百人以上の村人たちの力で山の上まで運ばれ、できたばかりの鐘撞き堂に納まった。
鐘撞き堂の回りは人で埋まっていた。みんな、「やった、やった」と騒いでいる。
太郎は鐘撞き堂の上に立ち、空を見上げた。雨が降りそうな気配はまったくなかった。日がかんかんと照っていた。
太郎は鐘の真下に座り込んだ。両手に印を結ぶと祈り始めた。太郎は生まれて初めて本気で神に祈った。飯道権現、熊野権現、不動明王、天照大神(アマテラスオオミカミ)、八幡大明神など、太郎は知っている限りの神や仏に祈った。
辺りは急に静かになった。皆が太郎を見つめていた。太郎坊という天狗を見つめていた。
太郎は何も考えずに、ただ、ひたすら祈った。自分の回りに集まっている人々の事も忘れた。山奥にたった一人でいるような錯覚を覚えた。
太郎の脳裏に、いつか、阿星山の頂上で見た、釈迦如来の姿が浮かんだ。太郎はあの釈迦如来にひたすら祈った。どれ位、祈っていただろう。太郎は釈迦如来が微笑したように思えた。
太郎は静かに立ち上がると、空を見上げ、回りを見回した。村人たちは太郎にすがるような目をして見つめていた。
太郎はもう一度、祈ると、ゆっくりと撞木(シュモク)の綱を握り、軽く後ろに引き、勢いをつけ、もう一度、思い切り後ろに引き、鐘を撞いた。
鐘の音は山の中に響きわたった。
人々は一斉に天を見上げた。
雨は降らなかった。
村人たちがガヤガヤし始めた。
太郎は天を見上げたままだった。
望月が近づいて来て、「どうする」と囁いた。
太郎は答えなかった。
辺りが急に暗くなり始めた。雲が物凄い速さで動いていた。
ポタッと太郎の天狗の面に雨が一粒、当たった。
「雨じゃ!」と誰かが叫んだ。
「雨じゃ!」とまた、別の者が叫んだ。
ザーッと雨は急に降って来た。
乾いていた樹木に雨は勢いよく降り付けた。
天を仰いでいた人々の顔にも容赦なく降り付けた。
「やったぞ、雨じゃ、雨じゃ!」
村人たちは皆、小躍りして喜んでいた。
望月も芥川も三雲も服部も皆、飛び上がって喜んだ。
太郎は天狗の面をしたまま雨の中で喜ぶ村人たちを見下ろし、天に向かって釈迦如来に感謝した。
「大した奴だな」と誰かが言った。
見ると金比羅坊が側に立って太郎を見ていた。
「無事、鐘を上げる事ができました」と太郎は言った。
金比羅坊は大きく頷いた。
「最後の仕上げだ」と金比羅坊は言った。
「最後の仕上げ?」
「いつまでも、天狗様がここにいてもしょうがないだろう。用は済んだんだ。皆に気づかれないように消えろ」
太郎は頷くと、誰にも気付かれないように森の中に消えて行った。
騒ぎが治まると金比羅坊は、「天狗様は空に飛んで行かれた。愛宕山にお帰りになられたのじゃろう」と大声で言った。
雨に打たれながら、村人たちは天に向かってお礼を言った。
14.陰の五人衆
1
九月十五日の盛大な飯道山の祭りも終わり、秋も深まって冬が近づいて来ていた。
五人の特訓は続いていた。
木登りは五人とも、すでに身に付けていた。特殊な鉤(カギ)を縄の先に付け、それを投げて木の枝に引っかけ、縄を伝わって登って行く。初めのうちは、鉤を投げても枝に引っかけるのがうまくいかなかったが、毎日の訓練で皆、うまくできるようになった。
望月家の見取り図も皆の頭の中に入っている。望月三郎の友、杉谷与次郎のお陰で、兵力もおおよそわかった。手ごわいのは望月が言った通り四人だけだった。薙刀を使う望月又五郎、槍を使う池田甚内、剣を使う山崎新十郎と高畑与七郎、その他に雑魚(ザコ)が十四人いるとの事だった。
望月三郎が薙刀の望月又五郎、芥川が槍の池田甚内、三雲が剣の山崎新十郎、服部が剣の高畑与七郎を、それぞれ相手にする事に決まった。太郎は雑魚十四人を受け持つ事になった。
望月三郎は薙刀組に移り、芥川は槍組に移り、それぞれ研究していた。太郎は大勢を相手にするため飛び道具の手裏剣の稽古を始めた。どうしたわけか、金比羅坊が五人を何かと助けてくれた。
ある日の夜、五人が木登りの練習をしている所を金比羅坊に見つかった。
「また、お前らか。今度は何をやるつもりだ」
「ただ、剣術の稽古をしているだけです」と太郎は言った。
「ほう、猿の真似をするのが剣術の稽古か」
「身を軽くするためです」
「まあ、いいだろう」と金比羅坊は機嫌よさそうに笑った。「お前らが何をするのか知らんが、まあ、わしにできる事があったら助けてやるぞ」
太郎は金比羅坊に手裏剣の名手、橋爪坊道因を紹介してもらった。
そして、夜になると金比羅坊は薙刀を持って、槍の円行坊義天と一緒に稽古を付けにやって来てくれた。五人の腕はみるみる上達していった。
太郎はまず、手裏剣の基本の技を身に付けると、次には、どんな体勢から投げても百発百中になるように訓練した。早打ちの稽古もした。勿論、手裏剣だけでなく、剣の修行の方も怠りなかった。まだ、三人の師範代に勝つ事はできないが、師匠の風眼坊と模範試合をした望月彦四郎とは互角の腕になっていた。三雲と服部も太郎程ではないが、同期の者たちに比べるとずば抜けて強くなっていた。
稽古を終えると太郎は、「どうだ」と望月に尋ねた。「又五郎に勝てそうか」
「まだまだだ」と望月は首を振った。「どうも薙刀というのはやりづらい」
「お前も薙刀にしたらどうだ」
「駄目だ、使いづらくて。剣の方がやりやすい」
「お前の方はどうだ」と太郎は芥川に聞いた。
「俺の方はもう少しだ‥‥‥まあ、何とかなるだろう。お前の手裏剣はどうなんだ」
「俺の方ももう少しだ。あと、早打ちができれば完成だ」
「おい、お前ら」と金比羅坊が口を挟んだ。「そろそろ、わしにも教えろ。一体、何をしでかすつもりなんだ」
「何もしません。ただ、強くなりたいだけです」と望月は答えた。
「あと一月ちょっとで、お山を下りなくちゃならないんで、今のうちに、みっちり鍛えてるんですよ」と三雲が言った。
「ふん、好きにしろ。何もお前ら、無理にお山を下りなくてもいいんだぞ。いたければ、いたいだけいればいい」
金比羅坊は円行坊と去って行った。
「あいつには喋ってもいいんじゃねえのか」と芥川が金比羅坊の後ろ姿を見ながら言った。「それ程、悪い奴じゃねえようだぜ」
「いや、喋らん方がいい」と望月はきっぱりと言った。「これは、あくまでも俺の仇討ちだ。それに、このお山が拘わって来るとなると後で面倒な事になる」
「そうか、それもそうだな」と芥川は納得した。「このお山は常に中立でなけりゃいけねえな」
「そうだ」と三雲も頷いた。「お山を下りて、お互いに敵同志になろうとも、このお山では誰もが修行できなけりゃならねえ」
「すると、太郎坊が一緒なのはまずいんじゃねえのか」と服部が太郎を見た。
「俺は大丈夫だ。お山を下りる時は武士の姿になるし名前も出さん。手拭いで顔を隠したっていい。お前たちだって隠しておいた方がいいんじゃねえのか」
「そうだな」と三雲、芥川、服部の三人は顔を見合わせた。
「表に立つのは望月だけだ。他の者は望月の陰になるんだ。名前も名乗らん。働くだけ働いて、後はさっさと消える‥‥‥もし、成功したとしても表に名前が出るのは望月だけだ。俺たちは成功しても、失敗して殺されたとしても名前は残らん。望月の陰になりきるんだ。できるか」太郎はそう言って、三人の顔を見回した。
「面白え」と服部が言った。「俺たちは望月の陰か」
「陰か‥‥‥」と芥川もうなった。
「望月三郎と陰の四人衆か‥‥‥面白え、やってやろうじゃねえか」と三雲は拳を突き上げた。
「みんな、すまん」と望月は頭を下げた。
「何を言ってる。仲間じゃねえか」と服部は望月の肩をたたいた。
「やるぞ!」
「おう!」
『法華経』の講義を聞きながら、太郎は鼾をかいて寝ていた。
「太郎坊!」と講師が怒鳴った。
太郎が寝ぼけた顔を上げると講師は「出て行け」というように指で示した。
太郎は素直に外に出た。
「やる気がないなら、もう二度と、ここへは来るな」と太郎は何度も怒鳴られた。それでも、太郎は懲りもせずに毎日、ここへ来た。来たからといって、まともに最後まで講義を聴いている事などめったにない。居眠りをして追い出されるか、さもなければ、そっと内緒で逃げて出る。
初めの頃、智積院を追い出されると太郎は裏山の日だまりに行って昼寝をしていた。
今日も太郎はそこに向かった。しかし、そこで昼寝はしない。さらに奥の方に入って行った。山の中に入ると太郎は足を速めて山を下り始めた。山を下りるといっても堂々と参道を下りて行くわけではない。一年間の修行の間は山を下りる事は禁じられていた。また、金比羅坊にでも見つかったら何をさせられるかわかったものではなかった。
太郎は山の中を自分だけの道を作り、里まで下りて行った。山を下りると沢に出た。後は沢沿いに歩けば里に出る。太郎は通い慣れた道を素早く駈け下り、里の道に出ると錫杖を突きながらのんびりと歩いた。
山に入ってから、すでに八ケ月が過ぎ、太郎も山伏としての貫禄が付いて来ていた。体格も一回り大きくなり、心の方も成長していた。行き交う村人たちは皆、『聖人様』と言って挨拶をして行く。太郎は彼らに片手拝みをして挨拶を受ける。まんざら悪い気もしない。
目的の花養院に着くと太郎は腰の刀を鞘ごと抜き、塀に立て掛け、刀の鍔(ツバ)に足を載せると塀の中を窺った。この刀の鍔は普通の刀の鍔より少し大きい。太郎がこの時のために考えて、大きい物と取り替えたのだった。
初めの頃は堂々と門から入って行ったのだが、あまりちょくちょく来るので松恵尼に見つかり怒られた。それ以来、太郎は門から入るのはやめ、塀から覗いて楓を呼ぶ事にした。
塀から覗くと、すぐそこで娘たちが薙刀の稽古をしていた。皆、この辺りの娘たちで、二十人近くの娘が稽古をしている。
松恵尼が薙刀の名手で、古くからこの寺で娘たちに薙刀を教えていた。松恵尼の正体ははっきりわからない。由緒ある武士の娘とも、また、後家とも言われていた。この寺に落ち着いてから、もう二十年近くも経っている。もう四十歳に近いはずなのだが、とても、そんな歳には見えない。二十代と言っても通る程、若く見えた。
最近、松恵尼はほとんど娘たちの稽古には顔を出さない。楓が松恵尼に代わって娘たちに教えていた。
太郎が塀から覗いているのを最初に気がついたのは美代という十二、三歳の娘だった。
美代は楓に教えた。
楓は太郎をチラッと見ると顔を赤らめて、「消えろ」と合図をした。
太郎は塀から顔を引っ込め、刀から飛び降りて楓が来るのを待った。
しばらくすると楓は稽古用の木の薙刀を抱え、怒った顔をして太郎の所に来た。
「塀から顔を出すのは、もう、やめて下さい」と楓は言った。「みっともないわよ」
「しょうがないだろ、門から入れば怒られる」
「しょうがないけど、恥ずかしいわよ」
塀の向こうから、クスクスと笑っている声が聞こえてきた。
楓は薙刀を塀に立て掛けると、太郎の刀の鍔に飛び乗り、塀から中を覗き、「真面目にお稽古しなさい」ときつく言った。
あまり勢いよく飛び乗ったので立て掛けてあった刀が傾き、楓はバランスを崩し、キャーと悲鳴を上げながら刀から落ちた。
太郎は素早く楓を抱きとめた。
「急に重たい女が乗ったので刀がたまげたんだ」太郎は楓を抱きながら笑った。
「何ですって!」
塀の中の娘たちは大声を出して笑っていた。
「静かにしなさい」と楓は塀の中に叫んだ。
「それ程、重くないな」と太郎は言った。「きっと、いい女子(オナゴ)が乗ったので、たまげたんだろう」
「ありがとう。でも、降ろしてくれません」楓は顔を赤らめた。
「いやだ、このまま、お山までさらって行く」と太郎は笑った。
「ねえ、降ろして。誰かに見られたら、どうします」
「見られたっていい」と言いながらも太郎は楓を降ろした。
太郎と楓は小川のほとりを歩いていた。
枯れたすすきの穂がそよ風に揺れていた。
「ちょくちょく、お山を下りて来て、大丈夫なの」楓は心配そうに聞いた。
「大丈夫さ、誰も知らない。お前の方は大丈夫なのか、尼さんに怒られないのか」
「怒られる。でも、平気。あたし、今まで、ずっと真面目だったし」
「今は真面目じゃないのか」
「今だって真面目よ。それに、松恵尼様も太郎坊様の事はよく知っているし」
「俺の事を知ってる?」と太郎は立ち止まった。
「ええ、あなたのお師匠さんの風眼坊様と松恵尼様は古くからの知り合いなの。あたしがまだ小さい頃から風眼坊様はよく花養院に来てたわ。あなたを連れて来た時も風眼坊様は寄ったのよ。その時、あなたの事を言っていた。もし、縁があって、あなたに会うような事があったら、あなたの事をよろしく頼むって松恵尼様に言ってたわ」
楓は小川の流れを見ながら、しゃがみ込んだ。
太郎も楓の横に座った。
「そうだったのか‥‥‥師匠は俺の事、何と言ってた」
「馬鹿な小僧を一人、拾って来たって言ってたわ」と楓は笑った。
「馬鹿な小僧だと?」
「ええ。でも、剣の才能はある。鍛えれば大物になるかもしれんとも言ってた」
「俺が大物に?」
「あたしもそう思う。あなた、ちょっと馬鹿みたいな所あるけど、大物かもしれないって」
「俺が馬鹿だって?」
「そうよ。だって、尼寺の中をあんな所から覗くなんて普通じゃないでしょ。もう、二度としないでよ」
「わかった‥‥‥今度から、わからないように忍び込むよ」
「それじゃあ泥棒じゃない」
「そうだ、泥棒だな。お前を盗みに行くんだから」
「あたしはそう簡単に盗めないわよ」と楓は薙刀で太郎を斬る真似をした。
「お山を下りる時は盗んで行くさ」と太郎は楓の薙刀を受ける真似をした。
「いつ、下りるの」
「一年という約束だから、来年の三月」
「そう‥‥‥もうすぐね」
「うん、もうすぐだ」
太郎は小川に小石を投げた。
「あなたのお師匠さんね、あたしたちの事、予想してたのよ」と楓が言った。
「何だって」と太郎は楓の顔を見た。
「久し振りにあたしを見てね、あのチビが、もう、こんなに大きくなったのかってね、これはまずいな。絶対に、太郎坊にあたしを見せちゃいかんだって、お寺の奥に隠して置けって松恵尼様に言ったのよ」
「ハハハ、俺が急にやって来たから隠す暇もなかったわけだ」
「そうね‥‥‥あたしもびっくりしたわ。突然、現れるんだもの。帰ったと思ったら、また戻って来て、天狗様の話をしてくれだなんて‥‥‥あたし、頭がちょっとおかしいんじゃないかと思ったわ。そしたら、今度は天狗様に化けて、鐘に乗っかって、お山に登って行く。おまけに雨まで降らせて‥‥‥まったく、あなたは変わってるわ。やる事が何でも突飛なのよ‥‥‥」
「もう少ししたら、また、突飛な事をやる」
「え? 今度は何やるの」
「大した事じゃない」と太郎はまた、小石を投げた。
「あまり無茶しないでよ」
「心配か」
「心配よ。この間だって雨が降らなかったら、どうしようって、あたし、お山の方を見ながら、一生懸命、祈ってたんだから」
「きっと、お前の祈りが通じたんだな‥‥‥雨が降ったのは」
「そんな事ないけど‥‥‥」
「俺はそろそろ帰る。ばれると二度と下りられなくなるかもしれんからな。また来る」
太郎は立ち上がった。
「うん‥‥‥」と楓は太郎を見上げて笑った。
二人は花養院の方に戻って行った。
太郎は急に立ち止まり、楓の名前を呼ぶと、楓に向かって小石を弾いた。
楓はとっさに薙刀で小石を払った。
太郎の姿を捜したが、もう、どこにもいなかった。
楓は首を傾げて、「まるで、ほんとの天狗様みたい‥‥‥」と呟いた。
今日は十二月二十五日、稽古仕舞いの日だった。
年末から年始にかけて山は忙しくなる。正月の十五日までは武術の稽古は休みになっていた。
芥川、三雲、服部ら、一年間の修行で山に来た者たちは、いよいよ、今日で終わりである。長く辛かった一年間の修行もようやく終え、明日には晴れて山を下りられるのだった。
剣術の組では無事に一年間の修行に耐えて残ったのは、わずか十一人だけだった。初めの山歩きで半分は振り落とされ、剣術の組に入ったのは二十人近くいたが、厳しい修行に耐えられなくて途中で山を下りて行ったり、怪我をして山を下りて行った者たちも何人かいた。長かった一年だったが、いよいよ、今日で終わりだった。
「今年の稽古も本日をもって終了となる」と師範の勝泉坊善栄が修行者を集めて言った。
「今日は一年の最後を飾るために試合を行なう。今までの修行の成果を充分に発揮してもらいたい。負けた者はなお修行に励み、勝った者も決して驕らず、さらに強くなるよう修行に励んでもらいたい。また、お山を下りる者たちも一年間の修行は終わったと安心などしてはいけない。お山を下りてからが本当の修行だと思い、お山での修行の事を忘れず、なお、一層の努力で剣の修行に励んでもらいたい。今日の試合はおおよそ互角の力のある者同士を組ませた。それでは、試合の組み合わせを発表する」
師範の話が終わると試合の組み合わせが貼り出された。
三雲源太は岩木坊円外と、服部藤十郎は流蔵坊善月と試合をやり、太郎の相手は、何と金比羅坊だった。試合数は全部で二十試合、三雲は十五番目、服部は十六番目、太郎と金比羅坊は一番最後、師範、師範代で試合に出るのは金比羅坊、ただ一人だった。
「おい、大丈夫か」と三雲が心配して太郎に聞いた。
「何とかなるだろう」と太郎は勝泉坊と打ち合わせをしている金比羅坊を見た。
はっきり言って勝つ自信はなかった。しかし、この山に来てから太郎は剣の事しか考えず、やるだけの事はやって来た。自分の実力がどれ程なのか試すのに金比羅坊が相手なら不足はないと思った。
「あまり無理するなよ。おめえが怪我でもしたら、明日の計画は終わりだぜ」と服部が小声で言った。
「わかってる。みんな、怪我だけはしないようにしようぜ」
「おい、見ろよ。俺たち三人だけだぜ、十試合以後にやるのは」と三雲が貼り出された組み合わせを眺めながら言った。「一年組の奴らは皆、十試合より前だ‥‥‥まさか、一年で、こんなに強くなれたとは自分ながら驚くぜ」
「そうだな」と服部ももう一度、組み合わせを見た。「太郎坊が入って来るまでは、俺たちも遊び半分でやってたからな‥‥‥うまく、おめえに乗せられたみてえだな」
「そんな事はない。みんなで夜遅くまでやった成果さ」
太郎は何度もよじ登った樹木を見上げた。
「よく、やったよな‥‥‥」と三雲も樹木を見上げ、しみじみと言った。
「いよいよ、明日が仕上げだ‥‥‥うまく、やろうぜ」服部は力強く、拳を上げた。
三雲源太は岩木坊と鍔ぜり合いをやり、岩木坊を突き飛ばし、岩木坊が胴を払って来るのをかわして、敵の伸びきった両小手を上から打ち勝った。
服部藤十郎と流蔵坊の試合は長引いたが、最後に流蔵坊の上段からの木剣を服部は横に受け流し、敵の右小手を打ち勝った。
十九試合めは望月彦四郎が鳥居兵内に勝ち、いよいよ最後の試合、太郎坊と金比羅坊の番がやってきた。
お互いに合掌が済むと剣を構えた。
金比羅坊は左足を前に出し、木剣を胸の前に剣先を右上に斜めに構え、太郎は左足を前に出し、木剣は顔の右横に垂直に立てる『八相の構え』に構えた。
三間(ケン)の間をおいて、二人はその構えのまま動かなかった。
太郎は不思議な位、静かに落ち着いていた。この山に来てから、太郎はいつの日か、目の前にいる金比羅坊をやっつけてやると剣の修行に励んで来た。何度もひどい目に合わされ、憎らしくてたまらない金比羅坊だった。しかし、今、太郎の心の中は、そんな恨みや気負いなど、まったく消え、静かに澄んでいた。
試合を見ている者たちは物音一つ立てずに、二人に釘付けになっていた。
太郎はゆっくりと木剣を移動させた。八相の構えから左拳を中心に剣先を徐々に後ろに倒して行った。
太郎の剣が水平になった時、大きな掛声と共に金比羅坊は太郎に近づいて来た。
太郎も金比羅坊に合わせるように近づき、二人の木剣が素早く回転した。
二人の動きが止まった時、金比羅坊の木剣は太郎の横にかわされており、太郎の木剣は金比羅坊の両小手の上、紙一重の所で止まっていた。
「それまで!」と勝泉坊が言った。
二人は木剣を引き、互いに合掌した。
「やった!」と三雲が叫んだ。
皆が二人に拍手を贈った。
「とうとう、お前に追い越されたな」と金比羅坊は太郎に近づくと言った。
「追い越すなんて‥‥‥」
「いや、お前はもっと強くなれる‥‥‥風眼坊殿が言った通りじゃ」
「師匠が‥‥‥」
「おう。わしも風眼坊殿に剣を習った。お前とは兄弟弟子というわけだな。わしは風眼坊殿からお前を鍛えてくれと頼まれたんじゃ。どんな事をしてもいい。もし、それに耐えられなくてお山を下りるようだったら、わしの目が狂っていたという事じゃ。しかし、どんな事にも耐え、お山に残っているようだったら、おぬしもいつか、あいつに負けるかもしれんぞと風眼坊殿は言った。まったく、その通りになったわけじゃ‥‥‥よくやった。だが、まだまだ上には上がいるっていう事を覚えておけ。風眼坊殿はわしなんか、とても及ばん位に強い。お前が今の調子で修行を積んでいけば、きっと、師匠より強くなるだろう‥‥‥まあ、これからも頑張れよ」
金比羅坊は太郎の肩をたたくと笑った。
「はい‥‥‥」
太郎は金比羅坊の顔を見ていた。その顔の中には今まで憎らしいと思っていた金比羅坊はいなかった。今までの憎らしい仕打ちは皆、自分のためだったのかと思うと胸がジーンとしてきた。
太郎は金比羅坊に合掌すると、「ありがとうございました」と礼を言った。
「改まって何をする。照れるじゃねえか。これからも、よろしく頼むぜ。太郎坊殿」
金比羅坊は豪快に笑った。
その日の深夜、太郎坊、望月三郎、芥川左京亮、三雲源太、服部藤十郎の五人は、ひそかに山を抜け出した。
山の上では雪が散らついて来ていたが、里の方は降っていなかった。
白い息を吐きながら、五つの影は素早く山を下りて行った。
杣川まで来ると三雲は、「ちょっと、待ってろ」と言って闇の中に消えた。
四人は河原で待っていた。
空は曇っていて月も星も出ていない。今にも雪が降りそうだ。望月家を襲うには、おあつらえ向きの空模様だった。
「どこに行ったんだ、奴は」と芥川が言った。
「母ちゃんに会いにでも行ったんじゃねえのか」と服部が言った。
「水盃でも交わしに行ったのか」と芥川は笑った。
「今頃、母ちゃんのおっぱいを吸ってるのさ」と服部も笑った。
「どうせ、まだ、早いんだ。奴が来るまで待とう」と太郎は川の流れを見ながら言った。
太郎は久し振りに侍の格好をしていた。飯道山の山伏がこの襲撃に関係してはうまくないので、楓に頼んで古着を捜してもらったのだった。
「お~い」と誰かが遠くで叫んだ。
「誰だ」と望月は闇の中をすかし見た。
「ばれたか」と芥川も闇を探った。
「あれは金比羅坊だぜ」と服部が言った。「やばいぜ、逃げるか」
「いや」と太郎は制した。「お前らはもう一年の修行は終わったんだ。逃げる必要はない。望月にしたって、うまく行けば、もうお山に戻らなくてもよくなる。問題は俺だけだ。俺なら何とかなる」
金比羅坊は走り込んで来ると息を切らせながら、「おい、お前ら」と言った。「わしも仲間に入れろ。何をやるのか知らんが、わしも入れてくれ」
望月は太郎の方を見た。
芥川も服部も、「どうする」というような顔で太郎を見た。
「わしは今日からお前らの師ではない。ただの仲間じゃ。おい、太郎坊、わしも仲間に入れてくれんか」
「どうする」と太郎は望月に聞いた。
「うん。まあ、多い方がそりゃ助かるが‥‥‥」
「仲間に入れてもいいんじゃないのか」と芥川は言った。
「自慢じゃないが、わしの馬鹿力は何かと役に立つぞ」と金比羅坊は自分の腕をたたいた。
「そうだな」と太郎。「金比羅坊殿にも力を貸してもらおうか」
そうしようという事に決まり、望月は金比羅坊にこれからの計画を教えた。
「仇討ちか‥‥‥それにしても五人だけでやるとはのう。お前らも大した奴らじゃのう」
「金比羅坊殿」と太郎は言った。「ちょっと、その格好ではまずいんですよ」
「なぜじゃ」
「お山が望月の仇討ちに加わるのはまずいんですよ」と芥川が説明した。
「おう、そうじゃな‥‥‥よし、ちょっと待ってろ。着替えて来る」
「着替えるって、どこで」と服部が聞いた。
「やぼな事を聞くな。女子の所じゃわい。待ってろよ」と金比羅坊は走り去った。
「必ず、待ってろよ。すぐ戻る」と闇の中から、念を押した。
金比羅坊が消えると、芥川は大きく溜息をついた。「どうなってんだ」
「まさか、金比羅坊が来るとはなあ」望月も驚いていた。
「まあ、いいじゃないか、奴は役に立つ」と太郎は言った。「奴は望月と一緒に門から入ってもらおう。奴の馬鹿力で門を開けてもらうんだ」
「そいつはいいや。うん、丁度いい」と望月は頷いた。「俺もどうやってあの門を開けるか考えていたんだ」
「奴の馬鹿力なら、絶対、開けられる」と芥川は笑いながら言った。
「いいとこ、あるな」と望月は言った。
「ああ。最初は憎らしい奴だと思っていたけどな」と服部が言った。
「根はいい奴だよ」と太郎は言った。
三雲が風呂敷包みを抱え、息を切らせて戻って来た。
「おめえ、どこ、行ってたんだ」と芥川が三雲の袖をつかんだ。
「ちょっとな。いいもんがあるんだ、見てくれ」三雲は抱えていた風呂敷包みを開いた。
中には黒い着物が入っていた。
「何だ、こりゃ」と服部は着物を持ち上げた。
「俺たちの舞台衣装さ」と三雲は着物を広げて見せた。「みんなでこれを着るんだ。決まるぜ。上から下まで黒づくめ、陰の五人衆よ」
「どうしたんだ、こんなの」と望月が聞いた。
「ちょっと、姉御に頼んで作ってもらったんだ。俺たちの晴れ舞台だ。ちゃんと決めなくちゃな」
五人は三雲が持って来た着物を身に着けてみた。
黒い単衣(ヒトエ)に栽着袴(タッツケバカマ)、黒い脚半(キャハン)を足に巻き、黒い頭巾(ズキン)まで付いていた。
「こいつは、なかなか、いいじゃねえか」と芥川は黒装束に身を固めて跳びはねた。「こいつで顔を隠せば誰だかわからん。三雲、おめえ、なかなか頭いいな」
「それ程でもねえよ。この前、太郎坊が望月三郎と陰の四人衆って言ったろ。あの言葉が気にいってな。どうせ、陰になるなら徹底して陰になった方がいいって考えたんだ。これで、まさしく陰だぜ」
「うん。こいつはいい」と服部も頭巾をかぶりながら言った。
「だけど、お前、姉御に喋ったんじゃねえだろうな」と芥川が三雲を横目で睨んだ。
「喋るわけねえだろ」
「こんな物作らせて変に思わなかったか」
「大丈夫さ。お山を下りる最後の日に、仲間たちとこれを着て一年間の修行の成果を披露するんだって言ったんだ」
「成程な。これを着て、最後にお山で一暴れするわけか」
「それも面白えな」と服部は宙返りをした。
「さて、行くか」と黒づくめの三雲は言った。
「ちょっと、待て」と望月が止めた。「金比羅坊が来る」
「金比羅坊?」
「ああ、どういうわけか、あいつが仲間に入った」
服部が成り行きを説明した。
「どうなってんだ」と三雲は太郎を見た。
「さあな。俺にもわからんが、もうじき来るはずだ」
「へえ、面白えもんだな」
「お~い」と叫びながら金比羅坊は戻って来た。
山伏から侍姿に変わっていたが、見慣れないせいか、何となくおかしかった。
黒づくめの同じ格好をした五人を見ながら、「どうしたんだ、その格好は」と聞いた。
「我ら、陰の五人衆」と三雲は舞台さながらに見得を切った。
「陰の五人衆?‥‥‥ほう、わしも仲間に入れろ」
「もう、ない。それに、金比羅坊殿に着られるような大きな物はないわい」
「金比羅坊殿、顔を見られたらまずいでしょう。これで顔を隠した方がいい」と望月は金比羅坊に頭巾を渡した。
「おお、そうか」と金比羅坊は頭巾をかぶって顔を隠した。「どうじゃ、似合うか」
似合うか、と聞かれても、はっきり似合うとは言えない。侍姿の金比羅坊が黒頭巾をかぶった姿は、どう見ても山賊か強盗だった。
五人は遠慮しながら笑った。
金比羅坊は一人で納得して、「そうか、似合うか」と大笑いした。
「よし、準備はできた。行こう」太郎が言うと、皆、笑うのをやめ、杣川沿いに目的地に向かった。
望月家の近くの神社まで来ると、六人は夜が明けるのを待ち、もう一度、計画の検討をした。
決行は夜明け前の明るくなりかかった頃。この時が一番、敵の気が緩んでいる。
まず、太郎、芥川、服部、三雲の四人が塀の四隅にある見張り櫓に登り、見張りの者を倒し、倒したら、それぞれ口笛で鳥の声を真似て合図する。
四人全員が見張り櫓に登ったら、太郎が刀を振って門の前で待機している望月と金比羅坊に合図をする。そしたら、望月と金比羅坊は門を破って中に入って行く。
四隅を占拠した四人は敵の弓矢で飛び出して来る敵をやっつけ、矢が尽きたら下に降りて、それぞれ、目当ての相手と戦い、倒す。
「見張り櫓に登ったら、まず、敵の口をふさぎ、敵の首を斬る事。俺たち四人はなるべく、声は出さない事。あくまでも陰になりきる事」と太郎は言った。
六人は皆、自分のやるべき事を納得すると横になり、夜が明けるのを待った。
「太郎坊」と金比羅坊が太郎の横で声を掛けた。「おぬしは不思議な男じゃのう」
太郎は金比羅坊を見た。
金比羅坊は星一つない夜空を見上げていた。
「初めて会った時、この小童(コワッパ)がと思っとったが‥‥‥面白い男じゃ‥‥‥風眼坊殿が弟子にするだけの事はある‥‥‥」
太郎も冬の夜空を見上げながら、金比羅坊の話を聞いていた。
「わしはのう」と金比羅坊は言った。「これでも昔は武士じゃった‥‥‥戦にも何度も出てのう‥‥‥兜首を取って名を上げたかった‥‥‥わしは戦場で矢傷を負って倒れている所を風眼坊殿に助けられたんじゃ‥‥‥風眼坊殿の手当てのお陰でわしは助かった。もし、風眼坊殿に助けられなかったら、わしは死んでいたかもしれんのう‥‥‥」
太郎は黙って金比羅坊の横顔を見ていた。
金比羅坊は空を見上げたまま、その後は喋らなかった。
やがて、東の空が明るくなり始めて来た。
「そろそろ、やるか」と三雲が言った。
「ああ」と太郎は起き上がった。
「望月、いよいよ、やるぜ」と太郎は望月に声を掛けた。
望月は頷くと皆の顔を見回した。
皆、望月の方を見て、頷いた。
「よし、行くぞ」と太郎は言った。
「おう!」と金比羅坊が吠えた。
なぜか、おかしかった。三雲が噴き出すように笑うと皆、一斉に笑い出した。
金比羅坊まで一緒になって笑い、皆の緊張がほぐれた。
六人は小川づたいに望月家に向かった。
「ここで、皆、着物を濡らして行こう」と太郎は立ち止まった。
「えっ?」と三雲が言った。「どうして、濡らすんだ」
「濡らしておいた方が、もし、斬られても傷が軽くてすむ」
「本当か」と今度は服部が聞いた。
「本当じゃ」と金比羅坊が頷いた。「まじないだと思って濡らして行け」
太郎は小川の水を手ですくい着物を濡らした。
「冷てえな。着物が凍っちまうぜ」と文句を言いながらも、皆、太郎にしたがった。
望月家は固く門を閉ざし、静まり返っていた。
六人は飯道権現に成功を祈ると、それぞれ散って行った。
太郎は表の左隅の見張り櫓を受け持っていた。まず、空濠の中に板切れを二枚放り投げた。板切れはあらかじめ望月の幼なじみの杉谷に用意してもらい、神社に隠してあった。その板切れの上に飛び降り鉄菱を避け、鉤の付いた縄を見張り櫓の柱、目がけて投げ付けた。鉤が音を立てたが上から矢は降って来なかった。鉤はうまく引っ掛かり、太郎は縄を頼りに塀をよじ登った。
見張り櫓の中を覗くと、着膨れした見張りの男が弓を抱きながら熟睡していた。太郎は素早く、見張り櫓に飛び移ると小刀を抜き、男の口を押えて首を掻き斬った。驚く程の血が噴き出し、男は声を出す間もなく息絶えた。
太郎は死んだ男から弓と矢を取ると身を潜め、塀の中を見下ろした。
太郎のいる見張り櫓のすぐ下に大きな蔵があり、門の脇で槍を持った男が一人、壁にもたれて居眠りをしているのが見えた。男の側には消えかかった篝火(カガリビ)が燃えている。門の向こう側には廐(ウマヤ)があり井戸があった。庭には居眠りしている門番以外に人影はなく、静まり返っていた。
太郎と反対側、門の右側の見張り櫓から芥川が弓を上げて合図をしていた。左を見ると三雲は血の付いた刀を振っていた。
太郎は芥川と三雲に手まねで服部の事を聞いた。
二人共、大丈夫だというふうな合図をした。どうやら、成功したらしい。口笛を吹く必要はなかった。
太郎は刀を大きく振って、望月と金比羅坊に合図を送ろうと思ったが計画を変更した。
太郎は見張り櫓の梯子を素早く降りた。足音を忍ばせ、門の脇で眠りこけている男に近寄ると刀を抜き、男の首を斬り落とした。首のなくなった体が血を噴き出しながら、ゆっくりと横に倒れた。
太郎は門のかんぬきを外すと門を開き、外で待っている望月と金比羅坊に合図をした。二人は木陰から現れると門に向かって走り込んで来た。
すでに、もう、辺りはすっかり明るくなっていた。
太郎は望月に、「あとは頼んだぞ」と言い、金比羅坊に頷くと、また、見張り櫓の上に戻り、弓を構えて身を潜めた。
望月は太郎が見張り櫓に戻るのを確認すると、左手で刀の鍔を押え、右手で柄を握り、静まり返った屋敷に向かって進み出た。
金比羅坊は望月の後ろを守るように門の中央に仁王立ちになって、首なしの門番から奪った槍を構えていた。
予定通りだと太郎の倒す雑魚はあと十人だった。太郎のいる見張り櫓の横に離れの屋敷があり、どうやら、そこが侍たちの部屋のようだった。
太郎はその屋敷から出て来る侍に、弓の狙いを定めて待機した。
「望月又五郎!」と望月三郎は大声で叫んだ。
しばらくして、屋敷の中から物音や人の声が聞こえて来た。
「又五郎、出て来い!」と望月はもう一度、叫んだ。
「何じゃ」と槍をかついだ男が太郎の狙っていた離れの中から威勢よく出て来たが、太郎と芥川の弓矢に射られ、悲鳴を上げると音を立てて倒れた。
二人目の男も見張り櫓からの矢に射られ死んで行った。
三人目の男は、やられている二人の姿を見て、「曲者(クセモノ)じゃ!」と叫んだ。
屋敷の中の物音や人の声が激しくなってきた。
「又五郎、出て来い!」と望月は叫んだ。
「誰じゃ、わしの名を呼ぶのは」
胴丸を身に着け、望月家の家紋、九曜星の紋を付けた兜をかぶり、薙刀を手にした望月又五郎が槍の池田甚内、剣の山崎新十郎、高畑与七郎を従え、屋敷の中央から姿を見せた。
「我は亡き出雲守(イズモノカミ)長春が一子、三郎長時なり、父の仇を討ちに参った」
望月三郎はゆっくりと刀を抜くと、切っ先を望月又五郎に向けて腰を落とし中段に構えた。
「小童め、まだ、生きておったか。たった二人で来るとはいい度胸だ」
その時、太郎の射た矢が又五郎の顔を掠めた。芥川の矢は山崎新十郎の太刀によって払い落とされた。
「二人ではないわい」と金比羅坊がニヤリと笑った。「この家の回りはすでに包囲してある。観念して、さっさと首を斬られい」
「何を小癪な‥‥‥者ども、出会え!」と又五郎は薙刀を上げた。
胴丸に身を固めた兵が楯に隠れながら離れから四人、裏の方から五人出て来た。予想していたよりも敵の数は多いようだった。
太郎と芥川は見張り櫓の上から手当り次第に矢を放ったが、ほとんど楯に遮られ、効果はなかった。後ろの見張り櫓にいた三雲と服部は、すでに見張り櫓から降りて屋敷の陰に隠れ、後ろから敵を狙った。不意を突かれ二人の敵が倒れた。
太郎と芥川も見張り櫓から降りると、太郎は走り回りながら雑魚どもを手裏剣で打ち、芥川は刀を抜いて目指す槍の池田甚内にかかって行った。
望月三郎は望月又五郎と戦っていた。
三雲と服部も山崎と高畑を相手にしている。
金比羅坊は片っ端から近づいて来る者を叩き斬っていた。
太郎は素早く移動しながら手裏剣を投げている。投げれば必ず、敵の顔に当たった。太郎の手裏剣の餌食となった者は皆、顔を真っ赤にして戦意をなくし、わめいていた。そして、金比羅坊に斬られて行った。
太郎の手裏剣が最後の一本になった時、もう、倒す相手はいなくなっていた。
望月三郎は見事に望月又五郎を倒し、芥川は池田を、三雲は山崎を、服部は高畑を倒し、金比羅坊は太刀を振り上げたまま下ろすべき所を捜していた。
廐の方では馬が騒いで暴れている。
「何じゃ、もう、終わりか‥‥‥」金比羅坊は気が抜けたように太刀を下ろした。
「わりと、あっけなかったな」と三雲は刀の血を振った。
「そうだな、相手が弱すぎるぜ」と芥川は倒した池田甚内の槍を蹴飛ばした。
服部は倒れている敵を一人一人、止めを差していた。
望月三郎と太郎は屋敷の中に入って行った。
すでに裏口が開かれ、家の者たちは皆、逃げていた。
「ちょっと、まずかったな」と太郎は望月を見た。「後ろを固めるのを忘れた」
「まあ、仕方ねえさ。女、子供を斬ったってしょうがない」
望月は家の中を懐かしそうに眺めていた。
「しかし、その女、子供が怖いぜ。いつか、お前に仕返しに来るだろう」
「その時はその時さ‥‥‥とにかく仇は討った‥‥‥」
望月はやっと取り戻した自分の家を見て回った。
太郎は望月を家の中に残したまま外に出た。
闘いに熱中していて気がつかなかったが、いつの間にか雪が散らついていた。
「みんな、怪我はねえか」と太郎は声を掛けた。
「ピンピンしてるぜ。まだまだ、やれらあ」庭石に腰掛けていた三雲が答えた。
芥川が腕を斬られ、服部が脚を斬られたが、二人共、かすり傷で大した傷ではなかった。金比羅坊は怪我一つなく、まだ、充分、力が余っているようだった。
「うまく、行ったな」と太郎は言った。「さて、これからがまた大変だぜ」
「これから、まだ、何かあるのか」と服部が不思議そうな顔をした。
「後片付けだ。こんな血だらけの所に望月のおふくろを呼べるわけねえだろう」と太郎より先に芥川が答えた。
「俺たちがやるのか」と三雲は庭に転がっている無残な死体を見ながら言った。
「他に誰がいる」と太郎が皆を見渡した。
「みんな、一年間、お山で修行をしたんだろ。仏様は大切にしなきゃいかんぞ」と金比羅坊は立ち上がった。
「最後の修行だ。やろうぜ」と芥川も立ち上がった。
いつの間にか、太郎の後ろに来ていた望月が、「すまんな、みんな」と頭を下げた。
「気にすんなよ。俺たちは好きでやったんだからな」と芥川は言った。
「そうだ、気にするな」と服部も言った。
仏様を裏の竹籔に埋め、皆でお経を唱え、庭の血を清め、屋敷の中を綺麗に整え終える頃には、近隣の豪族たちや、昔、望月三郎の父、出雲守に仕えていた侍などが馳せ集まって来ていた。
太郎と金比羅坊は後の事を皆に任せ、雪の降る中、山に帰って行った。
「おぬし、不思議な奴じゃのう」金比羅坊は帰り道、太郎を見ながら、しみじみと言った。
「あれだけの働きをしながら、自分の名を表に出さんとはのう」
「俺は陰ですよ」と太郎は言いながら、裏口から逃げて行った女、子供の事を考えていた。
やがて、子供が成長し、飯道山で武術を習い、望月と同じように父の仇と言って、望月を狙うのではないだろうか‥‥‥
しかも、同じ望月家同士で‥‥‥
かと言って、太郎に逃げ惑う女、子供が斬れるか、と問われたら、斬れると言いきる自信はなかった。
太郎は初めて、武士というものの非情さを知った。
「まだまだだ」と望月は首を振った。「どうも薙刀というのはやりづらい」
「お前も薙刀にしたらどうだ」
「駄目だ、使いづらくて。剣の方がやりやすい」
「お前の方はどうだ」と太郎は芥川に聞いた。
「俺の方はもう少しだ‥‥‥まあ、何とかなるだろう。お前の手裏剣はどうなんだ」
「俺の方ももう少しだ。あと、早打ちができれば完成だ」
「おい、お前ら」と金比羅坊が口を挟んだ。「そろそろ、わしにも教えろ。一体、何をしでかすつもりなんだ」
「何もしません。ただ、強くなりたいだけです」と望月は答えた。
「あと一月ちょっとで、お山を下りなくちゃならないんで、今のうちに、みっちり鍛えてるんですよ」と三雲が言った。
「ふん、好きにしろ。何もお前ら、無理にお山を下りなくてもいいんだぞ。いたければ、いたいだけいればいい」
金比羅坊は円行坊と去って行った。
「あいつには喋ってもいいんじゃねえのか」と芥川が金比羅坊の後ろ姿を見ながら言った。「それ程、悪い奴じゃねえようだぜ」
「いや、喋らん方がいい」と望月はきっぱりと言った。「これは、あくまでも俺の仇討ちだ。それに、このお山が拘わって来るとなると後で面倒な事になる」
「そうか、それもそうだな」と芥川は納得した。「このお山は常に中立でなけりゃいけねえな」
「そうだ」と三雲も頷いた。「お山を下りて、お互いに敵同志になろうとも、このお山では誰もが修行できなけりゃならねえ」
「すると、太郎坊が一緒なのはまずいんじゃねえのか」と服部が太郎を見た。
「俺は大丈夫だ。お山を下りる時は武士の姿になるし名前も出さん。手拭いで顔を隠したっていい。お前たちだって隠しておいた方がいいんじゃねえのか」
「そうだな」と三雲、芥川、服部の三人は顔を見合わせた。
「表に立つのは望月だけだ。他の者は望月の陰になるんだ。名前も名乗らん。働くだけ働いて、後はさっさと消える‥‥‥もし、成功したとしても表に名前が出るのは望月だけだ。俺たちは成功しても、失敗して殺されたとしても名前は残らん。望月の陰になりきるんだ。できるか」太郎はそう言って、三人の顔を見回した。
「面白え」と服部が言った。「俺たちは望月の陰か」
「陰か‥‥‥」と芥川もうなった。
「望月三郎と陰の四人衆か‥‥‥面白え、やってやろうじゃねえか」と三雲は拳を突き上げた。
「みんな、すまん」と望月は頭を下げた。
「何を言ってる。仲間じゃねえか」と服部は望月の肩をたたいた。
「やるぞ!」
「おう!」
2
『法華経』の講義を聞きながら、太郎は鼾をかいて寝ていた。
「太郎坊!」と講師が怒鳴った。
太郎が寝ぼけた顔を上げると講師は「出て行け」というように指で示した。
太郎は素直に外に出た。
「やる気がないなら、もう二度と、ここへは来るな」と太郎は何度も怒鳴られた。それでも、太郎は懲りもせずに毎日、ここへ来た。来たからといって、まともに最後まで講義を聴いている事などめったにない。居眠りをして追い出されるか、さもなければ、そっと内緒で逃げて出る。
初めの頃、智積院を追い出されると太郎は裏山の日だまりに行って昼寝をしていた。
今日も太郎はそこに向かった。しかし、そこで昼寝はしない。さらに奥の方に入って行った。山の中に入ると太郎は足を速めて山を下り始めた。山を下りるといっても堂々と参道を下りて行くわけではない。一年間の修行の間は山を下りる事は禁じられていた。また、金比羅坊にでも見つかったら何をさせられるかわかったものではなかった。
太郎は山の中を自分だけの道を作り、里まで下りて行った。山を下りると沢に出た。後は沢沿いに歩けば里に出る。太郎は通い慣れた道を素早く駈け下り、里の道に出ると錫杖を突きながらのんびりと歩いた。
山に入ってから、すでに八ケ月が過ぎ、太郎も山伏としての貫禄が付いて来ていた。体格も一回り大きくなり、心の方も成長していた。行き交う村人たちは皆、『聖人様』と言って挨拶をして行く。太郎は彼らに片手拝みをして挨拶を受ける。まんざら悪い気もしない。
目的の花養院に着くと太郎は腰の刀を鞘ごと抜き、塀に立て掛け、刀の鍔(ツバ)に足を載せると塀の中を窺った。この刀の鍔は普通の刀の鍔より少し大きい。太郎がこの時のために考えて、大きい物と取り替えたのだった。
初めの頃は堂々と門から入って行ったのだが、あまりちょくちょく来るので松恵尼に見つかり怒られた。それ以来、太郎は門から入るのはやめ、塀から覗いて楓を呼ぶ事にした。
塀から覗くと、すぐそこで娘たちが薙刀の稽古をしていた。皆、この辺りの娘たちで、二十人近くの娘が稽古をしている。
松恵尼が薙刀の名手で、古くからこの寺で娘たちに薙刀を教えていた。松恵尼の正体ははっきりわからない。由緒ある武士の娘とも、また、後家とも言われていた。この寺に落ち着いてから、もう二十年近くも経っている。もう四十歳に近いはずなのだが、とても、そんな歳には見えない。二十代と言っても通る程、若く見えた。
最近、松恵尼はほとんど娘たちの稽古には顔を出さない。楓が松恵尼に代わって娘たちに教えていた。
太郎が塀から覗いているのを最初に気がついたのは美代という十二、三歳の娘だった。
美代は楓に教えた。
楓は太郎をチラッと見ると顔を赤らめて、「消えろ」と合図をした。
太郎は塀から顔を引っ込め、刀から飛び降りて楓が来るのを待った。
しばらくすると楓は稽古用の木の薙刀を抱え、怒った顔をして太郎の所に来た。
「塀から顔を出すのは、もう、やめて下さい」と楓は言った。「みっともないわよ」
「しょうがないだろ、門から入れば怒られる」
「しょうがないけど、恥ずかしいわよ」
塀の向こうから、クスクスと笑っている声が聞こえてきた。
楓は薙刀を塀に立て掛けると、太郎の刀の鍔に飛び乗り、塀から中を覗き、「真面目にお稽古しなさい」ときつく言った。
あまり勢いよく飛び乗ったので立て掛けてあった刀が傾き、楓はバランスを崩し、キャーと悲鳴を上げながら刀から落ちた。
太郎は素早く楓を抱きとめた。
「急に重たい女が乗ったので刀がたまげたんだ」太郎は楓を抱きながら笑った。
「何ですって!」
塀の中の娘たちは大声を出して笑っていた。
「静かにしなさい」と楓は塀の中に叫んだ。
「それ程、重くないな」と太郎は言った。「きっと、いい女子(オナゴ)が乗ったので、たまげたんだろう」
「ありがとう。でも、降ろしてくれません」楓は顔を赤らめた。
「いやだ、このまま、お山までさらって行く」と太郎は笑った。
「ねえ、降ろして。誰かに見られたら、どうします」
「見られたっていい」と言いながらも太郎は楓を降ろした。
太郎と楓は小川のほとりを歩いていた。
枯れたすすきの穂がそよ風に揺れていた。
「ちょくちょく、お山を下りて来て、大丈夫なの」楓は心配そうに聞いた。
「大丈夫さ、誰も知らない。お前の方は大丈夫なのか、尼さんに怒られないのか」
「怒られる。でも、平気。あたし、今まで、ずっと真面目だったし」
「今は真面目じゃないのか」
「今だって真面目よ。それに、松恵尼様も太郎坊様の事はよく知っているし」
「俺の事を知ってる?」と太郎は立ち止まった。
「ええ、あなたのお師匠さんの風眼坊様と松恵尼様は古くからの知り合いなの。あたしがまだ小さい頃から風眼坊様はよく花養院に来てたわ。あなたを連れて来た時も風眼坊様は寄ったのよ。その時、あなたの事を言っていた。もし、縁があって、あなたに会うような事があったら、あなたの事をよろしく頼むって松恵尼様に言ってたわ」
楓は小川の流れを見ながら、しゃがみ込んだ。
太郎も楓の横に座った。
「そうだったのか‥‥‥師匠は俺の事、何と言ってた」
「馬鹿な小僧を一人、拾って来たって言ってたわ」と楓は笑った。
「馬鹿な小僧だと?」
「ええ。でも、剣の才能はある。鍛えれば大物になるかもしれんとも言ってた」
「俺が大物に?」
「あたしもそう思う。あなた、ちょっと馬鹿みたいな所あるけど、大物かもしれないって」
「俺が馬鹿だって?」
「そうよ。だって、尼寺の中をあんな所から覗くなんて普通じゃないでしょ。もう、二度としないでよ」
「わかった‥‥‥今度から、わからないように忍び込むよ」
「それじゃあ泥棒じゃない」
「そうだ、泥棒だな。お前を盗みに行くんだから」
「あたしはそう簡単に盗めないわよ」と楓は薙刀で太郎を斬る真似をした。
「お山を下りる時は盗んで行くさ」と太郎は楓の薙刀を受ける真似をした。
「いつ、下りるの」
「一年という約束だから、来年の三月」
「そう‥‥‥もうすぐね」
「うん、もうすぐだ」
太郎は小川に小石を投げた。
「あなたのお師匠さんね、あたしたちの事、予想してたのよ」と楓が言った。
「何だって」と太郎は楓の顔を見た。
「久し振りにあたしを見てね、あのチビが、もう、こんなに大きくなったのかってね、これはまずいな。絶対に、太郎坊にあたしを見せちゃいかんだって、お寺の奥に隠して置けって松恵尼様に言ったのよ」
「ハハハ、俺が急にやって来たから隠す暇もなかったわけだ」
「そうね‥‥‥あたしもびっくりしたわ。突然、現れるんだもの。帰ったと思ったら、また戻って来て、天狗様の話をしてくれだなんて‥‥‥あたし、頭がちょっとおかしいんじゃないかと思ったわ。そしたら、今度は天狗様に化けて、鐘に乗っかって、お山に登って行く。おまけに雨まで降らせて‥‥‥まったく、あなたは変わってるわ。やる事が何でも突飛なのよ‥‥‥」
「もう少ししたら、また、突飛な事をやる」
「え? 今度は何やるの」
「大した事じゃない」と太郎はまた、小石を投げた。
「あまり無茶しないでよ」
「心配か」
「心配よ。この間だって雨が降らなかったら、どうしようって、あたし、お山の方を見ながら、一生懸命、祈ってたんだから」
「きっと、お前の祈りが通じたんだな‥‥‥雨が降ったのは」
「そんな事ないけど‥‥‥」
「俺はそろそろ帰る。ばれると二度と下りられなくなるかもしれんからな。また来る」
太郎は立ち上がった。
「うん‥‥‥」と楓は太郎を見上げて笑った。
二人は花養院の方に戻って行った。
太郎は急に立ち止まり、楓の名前を呼ぶと、楓に向かって小石を弾いた。
楓はとっさに薙刀で小石を払った。
太郎の姿を捜したが、もう、どこにもいなかった。
楓は首を傾げて、「まるで、ほんとの天狗様みたい‥‥‥」と呟いた。
3
今日は十二月二十五日、稽古仕舞いの日だった。
年末から年始にかけて山は忙しくなる。正月の十五日までは武術の稽古は休みになっていた。
芥川、三雲、服部ら、一年間の修行で山に来た者たちは、いよいよ、今日で終わりである。長く辛かった一年間の修行もようやく終え、明日には晴れて山を下りられるのだった。
剣術の組では無事に一年間の修行に耐えて残ったのは、わずか十一人だけだった。初めの山歩きで半分は振り落とされ、剣術の組に入ったのは二十人近くいたが、厳しい修行に耐えられなくて途中で山を下りて行ったり、怪我をして山を下りて行った者たちも何人かいた。長かった一年だったが、いよいよ、今日で終わりだった。
「今年の稽古も本日をもって終了となる」と師範の勝泉坊善栄が修行者を集めて言った。
「今日は一年の最後を飾るために試合を行なう。今までの修行の成果を充分に発揮してもらいたい。負けた者はなお修行に励み、勝った者も決して驕らず、さらに強くなるよう修行に励んでもらいたい。また、お山を下りる者たちも一年間の修行は終わったと安心などしてはいけない。お山を下りてからが本当の修行だと思い、お山での修行の事を忘れず、なお、一層の努力で剣の修行に励んでもらいたい。今日の試合はおおよそ互角の力のある者同士を組ませた。それでは、試合の組み合わせを発表する」
師範の話が終わると試合の組み合わせが貼り出された。
三雲源太は岩木坊円外と、服部藤十郎は流蔵坊善月と試合をやり、太郎の相手は、何と金比羅坊だった。試合数は全部で二十試合、三雲は十五番目、服部は十六番目、太郎と金比羅坊は一番最後、師範、師範代で試合に出るのは金比羅坊、ただ一人だった。
「おい、大丈夫か」と三雲が心配して太郎に聞いた。
「何とかなるだろう」と太郎は勝泉坊と打ち合わせをしている金比羅坊を見た。
はっきり言って勝つ自信はなかった。しかし、この山に来てから太郎は剣の事しか考えず、やるだけの事はやって来た。自分の実力がどれ程なのか試すのに金比羅坊が相手なら不足はないと思った。
「あまり無理するなよ。おめえが怪我でもしたら、明日の計画は終わりだぜ」と服部が小声で言った。
「わかってる。みんな、怪我だけはしないようにしようぜ」
「おい、見ろよ。俺たち三人だけだぜ、十試合以後にやるのは」と三雲が貼り出された組み合わせを眺めながら言った。「一年組の奴らは皆、十試合より前だ‥‥‥まさか、一年で、こんなに強くなれたとは自分ながら驚くぜ」
「そうだな」と服部ももう一度、組み合わせを見た。「太郎坊が入って来るまでは、俺たちも遊び半分でやってたからな‥‥‥うまく、おめえに乗せられたみてえだな」
「そんな事はない。みんなで夜遅くまでやった成果さ」
太郎は何度もよじ登った樹木を見上げた。
「よく、やったよな‥‥‥」と三雲も樹木を見上げ、しみじみと言った。
「いよいよ、明日が仕上げだ‥‥‥うまく、やろうぜ」服部は力強く、拳を上げた。
三雲源太は岩木坊と鍔ぜり合いをやり、岩木坊を突き飛ばし、岩木坊が胴を払って来るのをかわして、敵の伸びきった両小手を上から打ち勝った。
服部藤十郎と流蔵坊の試合は長引いたが、最後に流蔵坊の上段からの木剣を服部は横に受け流し、敵の右小手を打ち勝った。
十九試合めは望月彦四郎が鳥居兵内に勝ち、いよいよ最後の試合、太郎坊と金比羅坊の番がやってきた。
お互いに合掌が済むと剣を構えた。
金比羅坊は左足を前に出し、木剣を胸の前に剣先を右上に斜めに構え、太郎は左足を前に出し、木剣は顔の右横に垂直に立てる『八相の構え』に構えた。
三間(ケン)の間をおいて、二人はその構えのまま動かなかった。
太郎は不思議な位、静かに落ち着いていた。この山に来てから、太郎はいつの日か、目の前にいる金比羅坊をやっつけてやると剣の修行に励んで来た。何度もひどい目に合わされ、憎らしくてたまらない金比羅坊だった。しかし、今、太郎の心の中は、そんな恨みや気負いなど、まったく消え、静かに澄んでいた。
試合を見ている者たちは物音一つ立てずに、二人に釘付けになっていた。
太郎はゆっくりと木剣を移動させた。八相の構えから左拳を中心に剣先を徐々に後ろに倒して行った。
太郎の剣が水平になった時、大きな掛声と共に金比羅坊は太郎に近づいて来た。
太郎も金比羅坊に合わせるように近づき、二人の木剣が素早く回転した。
二人の動きが止まった時、金比羅坊の木剣は太郎の横にかわされており、太郎の木剣は金比羅坊の両小手の上、紙一重の所で止まっていた。
「それまで!」と勝泉坊が言った。
二人は木剣を引き、互いに合掌した。
「やった!」と三雲が叫んだ。
皆が二人に拍手を贈った。
「とうとう、お前に追い越されたな」と金比羅坊は太郎に近づくと言った。
「追い越すなんて‥‥‥」
「いや、お前はもっと強くなれる‥‥‥風眼坊殿が言った通りじゃ」
「師匠が‥‥‥」
「おう。わしも風眼坊殿に剣を習った。お前とは兄弟弟子というわけだな。わしは風眼坊殿からお前を鍛えてくれと頼まれたんじゃ。どんな事をしてもいい。もし、それに耐えられなくてお山を下りるようだったら、わしの目が狂っていたという事じゃ。しかし、どんな事にも耐え、お山に残っているようだったら、おぬしもいつか、あいつに負けるかもしれんぞと風眼坊殿は言った。まったく、その通りになったわけじゃ‥‥‥よくやった。だが、まだまだ上には上がいるっていう事を覚えておけ。風眼坊殿はわしなんか、とても及ばん位に強い。お前が今の調子で修行を積んでいけば、きっと、師匠より強くなるだろう‥‥‥まあ、これからも頑張れよ」
金比羅坊は太郎の肩をたたくと笑った。
「はい‥‥‥」
太郎は金比羅坊の顔を見ていた。その顔の中には今まで憎らしいと思っていた金比羅坊はいなかった。今までの憎らしい仕打ちは皆、自分のためだったのかと思うと胸がジーンとしてきた。
太郎は金比羅坊に合掌すると、「ありがとうございました」と礼を言った。
「改まって何をする。照れるじゃねえか。これからも、よろしく頼むぜ。太郎坊殿」
金比羅坊は豪快に笑った。
4
その日の深夜、太郎坊、望月三郎、芥川左京亮、三雲源太、服部藤十郎の五人は、ひそかに山を抜け出した。
山の上では雪が散らついて来ていたが、里の方は降っていなかった。
白い息を吐きながら、五つの影は素早く山を下りて行った。
杣川まで来ると三雲は、「ちょっと、待ってろ」と言って闇の中に消えた。
四人は河原で待っていた。
空は曇っていて月も星も出ていない。今にも雪が降りそうだ。望月家を襲うには、おあつらえ向きの空模様だった。
「どこに行ったんだ、奴は」と芥川が言った。
「母ちゃんに会いにでも行ったんじゃねえのか」と服部が言った。
「水盃でも交わしに行ったのか」と芥川は笑った。
「今頃、母ちゃんのおっぱいを吸ってるのさ」と服部も笑った。
「どうせ、まだ、早いんだ。奴が来るまで待とう」と太郎は川の流れを見ながら言った。
太郎は久し振りに侍の格好をしていた。飯道山の山伏がこの襲撃に関係してはうまくないので、楓に頼んで古着を捜してもらったのだった。
「お~い」と誰かが遠くで叫んだ。
「誰だ」と望月は闇の中をすかし見た。
「ばれたか」と芥川も闇を探った。
「あれは金比羅坊だぜ」と服部が言った。「やばいぜ、逃げるか」
「いや」と太郎は制した。「お前らはもう一年の修行は終わったんだ。逃げる必要はない。望月にしたって、うまく行けば、もうお山に戻らなくてもよくなる。問題は俺だけだ。俺なら何とかなる」
金比羅坊は走り込んで来ると息を切らせながら、「おい、お前ら」と言った。「わしも仲間に入れろ。何をやるのか知らんが、わしも入れてくれ」
望月は太郎の方を見た。
芥川も服部も、「どうする」というような顔で太郎を見た。
「わしは今日からお前らの師ではない。ただの仲間じゃ。おい、太郎坊、わしも仲間に入れてくれんか」
「どうする」と太郎は望月に聞いた。
「うん。まあ、多い方がそりゃ助かるが‥‥‥」
「仲間に入れてもいいんじゃないのか」と芥川は言った。
「自慢じゃないが、わしの馬鹿力は何かと役に立つぞ」と金比羅坊は自分の腕をたたいた。
「そうだな」と太郎。「金比羅坊殿にも力を貸してもらおうか」
そうしようという事に決まり、望月は金比羅坊にこれからの計画を教えた。
「仇討ちか‥‥‥それにしても五人だけでやるとはのう。お前らも大した奴らじゃのう」
「金比羅坊殿」と太郎は言った。「ちょっと、その格好ではまずいんですよ」
「なぜじゃ」
「お山が望月の仇討ちに加わるのはまずいんですよ」と芥川が説明した。
「おう、そうじゃな‥‥‥よし、ちょっと待ってろ。着替えて来る」
「着替えるって、どこで」と服部が聞いた。
「やぼな事を聞くな。女子の所じゃわい。待ってろよ」と金比羅坊は走り去った。
「必ず、待ってろよ。すぐ戻る」と闇の中から、念を押した。
金比羅坊が消えると、芥川は大きく溜息をついた。「どうなってんだ」
「まさか、金比羅坊が来るとはなあ」望月も驚いていた。
「まあ、いいじゃないか、奴は役に立つ」と太郎は言った。「奴は望月と一緒に門から入ってもらおう。奴の馬鹿力で門を開けてもらうんだ」
「そいつはいいや。うん、丁度いい」と望月は頷いた。「俺もどうやってあの門を開けるか考えていたんだ」
「奴の馬鹿力なら、絶対、開けられる」と芥川は笑いながら言った。
「いいとこ、あるな」と望月は言った。
「ああ。最初は憎らしい奴だと思っていたけどな」と服部が言った。
「根はいい奴だよ」と太郎は言った。
三雲が風呂敷包みを抱え、息を切らせて戻って来た。
「おめえ、どこ、行ってたんだ」と芥川が三雲の袖をつかんだ。
「ちょっとな。いいもんがあるんだ、見てくれ」三雲は抱えていた風呂敷包みを開いた。
中には黒い着物が入っていた。
「何だ、こりゃ」と服部は着物を持ち上げた。
「俺たちの舞台衣装さ」と三雲は着物を広げて見せた。「みんなでこれを着るんだ。決まるぜ。上から下まで黒づくめ、陰の五人衆よ」
「どうしたんだ、こんなの」と望月が聞いた。
「ちょっと、姉御に頼んで作ってもらったんだ。俺たちの晴れ舞台だ。ちゃんと決めなくちゃな」
五人は三雲が持って来た着物を身に着けてみた。
黒い単衣(ヒトエ)に栽着袴(タッツケバカマ)、黒い脚半(キャハン)を足に巻き、黒い頭巾(ズキン)まで付いていた。
「こいつは、なかなか、いいじゃねえか」と芥川は黒装束に身を固めて跳びはねた。「こいつで顔を隠せば誰だかわからん。三雲、おめえ、なかなか頭いいな」
「それ程でもねえよ。この前、太郎坊が望月三郎と陰の四人衆って言ったろ。あの言葉が気にいってな。どうせ、陰になるなら徹底して陰になった方がいいって考えたんだ。これで、まさしく陰だぜ」
「うん。こいつはいい」と服部も頭巾をかぶりながら言った。
「だけど、お前、姉御に喋ったんじゃねえだろうな」と芥川が三雲を横目で睨んだ。
「喋るわけねえだろ」
「こんな物作らせて変に思わなかったか」
「大丈夫さ。お山を下りる最後の日に、仲間たちとこれを着て一年間の修行の成果を披露するんだって言ったんだ」
「成程な。これを着て、最後にお山で一暴れするわけか」
「それも面白えな」と服部は宙返りをした。
「さて、行くか」と黒づくめの三雲は言った。
「ちょっと、待て」と望月が止めた。「金比羅坊が来る」
「金比羅坊?」
「ああ、どういうわけか、あいつが仲間に入った」
服部が成り行きを説明した。
「どうなってんだ」と三雲は太郎を見た。
「さあな。俺にもわからんが、もうじき来るはずだ」
「へえ、面白えもんだな」
「お~い」と叫びながら金比羅坊は戻って来た。
山伏から侍姿に変わっていたが、見慣れないせいか、何となくおかしかった。
黒づくめの同じ格好をした五人を見ながら、「どうしたんだ、その格好は」と聞いた。
「我ら、陰の五人衆」と三雲は舞台さながらに見得を切った。
「陰の五人衆?‥‥‥ほう、わしも仲間に入れろ」
「もう、ない。それに、金比羅坊殿に着られるような大きな物はないわい」
「金比羅坊殿、顔を見られたらまずいでしょう。これで顔を隠した方がいい」と望月は金比羅坊に頭巾を渡した。
「おお、そうか」と金比羅坊は頭巾をかぶって顔を隠した。「どうじゃ、似合うか」
似合うか、と聞かれても、はっきり似合うとは言えない。侍姿の金比羅坊が黒頭巾をかぶった姿は、どう見ても山賊か強盗だった。
五人は遠慮しながら笑った。
金比羅坊は一人で納得して、「そうか、似合うか」と大笑いした。
「よし、準備はできた。行こう」太郎が言うと、皆、笑うのをやめ、杣川沿いに目的地に向かった。
望月家の近くの神社まで来ると、六人は夜が明けるのを待ち、もう一度、計画の検討をした。
決行は夜明け前の明るくなりかかった頃。この時が一番、敵の気が緩んでいる。
まず、太郎、芥川、服部、三雲の四人が塀の四隅にある見張り櫓に登り、見張りの者を倒し、倒したら、それぞれ口笛で鳥の声を真似て合図する。
四人全員が見張り櫓に登ったら、太郎が刀を振って門の前で待機している望月と金比羅坊に合図をする。そしたら、望月と金比羅坊は門を破って中に入って行く。
四隅を占拠した四人は敵の弓矢で飛び出して来る敵をやっつけ、矢が尽きたら下に降りて、それぞれ、目当ての相手と戦い、倒す。
「見張り櫓に登ったら、まず、敵の口をふさぎ、敵の首を斬る事。俺たち四人はなるべく、声は出さない事。あくまでも陰になりきる事」と太郎は言った。
六人は皆、自分のやるべき事を納得すると横になり、夜が明けるのを待った。
「太郎坊」と金比羅坊が太郎の横で声を掛けた。「おぬしは不思議な男じゃのう」
太郎は金比羅坊を見た。
金比羅坊は星一つない夜空を見上げていた。
「初めて会った時、この小童(コワッパ)がと思っとったが‥‥‥面白い男じゃ‥‥‥風眼坊殿が弟子にするだけの事はある‥‥‥」
太郎も冬の夜空を見上げながら、金比羅坊の話を聞いていた。
「わしはのう」と金比羅坊は言った。「これでも昔は武士じゃった‥‥‥戦にも何度も出てのう‥‥‥兜首を取って名を上げたかった‥‥‥わしは戦場で矢傷を負って倒れている所を風眼坊殿に助けられたんじゃ‥‥‥風眼坊殿の手当てのお陰でわしは助かった。もし、風眼坊殿に助けられなかったら、わしは死んでいたかもしれんのう‥‥‥」
太郎は黙って金比羅坊の横顔を見ていた。
金比羅坊は空を見上げたまま、その後は喋らなかった。
やがて、東の空が明るくなり始めて来た。
「そろそろ、やるか」と三雲が言った。
「ああ」と太郎は起き上がった。
「望月、いよいよ、やるぜ」と太郎は望月に声を掛けた。
望月は頷くと皆の顔を見回した。
皆、望月の方を見て、頷いた。
「よし、行くぞ」と太郎は言った。
「おう!」と金比羅坊が吠えた。
なぜか、おかしかった。三雲が噴き出すように笑うと皆、一斉に笑い出した。
金比羅坊まで一緒になって笑い、皆の緊張がほぐれた。
六人は小川づたいに望月家に向かった。
「ここで、皆、着物を濡らして行こう」と太郎は立ち止まった。
「えっ?」と三雲が言った。「どうして、濡らすんだ」
「濡らしておいた方が、もし、斬られても傷が軽くてすむ」
「本当か」と今度は服部が聞いた。
「本当じゃ」と金比羅坊が頷いた。「まじないだと思って濡らして行け」
太郎は小川の水を手ですくい着物を濡らした。
「冷てえな。着物が凍っちまうぜ」と文句を言いながらも、皆、太郎にしたがった。
望月家は固く門を閉ざし、静まり返っていた。
六人は飯道権現に成功を祈ると、それぞれ散って行った。
太郎は表の左隅の見張り櫓を受け持っていた。まず、空濠の中に板切れを二枚放り投げた。板切れはあらかじめ望月の幼なじみの杉谷に用意してもらい、神社に隠してあった。その板切れの上に飛び降り鉄菱を避け、鉤の付いた縄を見張り櫓の柱、目がけて投げ付けた。鉤が音を立てたが上から矢は降って来なかった。鉤はうまく引っ掛かり、太郎は縄を頼りに塀をよじ登った。
見張り櫓の中を覗くと、着膨れした見張りの男が弓を抱きながら熟睡していた。太郎は素早く、見張り櫓に飛び移ると小刀を抜き、男の口を押えて首を掻き斬った。驚く程の血が噴き出し、男は声を出す間もなく息絶えた。
太郎は死んだ男から弓と矢を取ると身を潜め、塀の中を見下ろした。
太郎のいる見張り櫓のすぐ下に大きな蔵があり、門の脇で槍を持った男が一人、壁にもたれて居眠りをしているのが見えた。男の側には消えかかった篝火(カガリビ)が燃えている。門の向こう側には廐(ウマヤ)があり井戸があった。庭には居眠りしている門番以外に人影はなく、静まり返っていた。
太郎と反対側、門の右側の見張り櫓から芥川が弓を上げて合図をしていた。左を見ると三雲は血の付いた刀を振っていた。
太郎は芥川と三雲に手まねで服部の事を聞いた。
二人共、大丈夫だというふうな合図をした。どうやら、成功したらしい。口笛を吹く必要はなかった。
太郎は刀を大きく振って、望月と金比羅坊に合図を送ろうと思ったが計画を変更した。
太郎は見張り櫓の梯子を素早く降りた。足音を忍ばせ、門の脇で眠りこけている男に近寄ると刀を抜き、男の首を斬り落とした。首のなくなった体が血を噴き出しながら、ゆっくりと横に倒れた。
太郎は門のかんぬきを外すと門を開き、外で待っている望月と金比羅坊に合図をした。二人は木陰から現れると門に向かって走り込んで来た。
すでに、もう、辺りはすっかり明るくなっていた。
太郎は望月に、「あとは頼んだぞ」と言い、金比羅坊に頷くと、また、見張り櫓の上に戻り、弓を構えて身を潜めた。
望月は太郎が見張り櫓に戻るのを確認すると、左手で刀の鍔を押え、右手で柄を握り、静まり返った屋敷に向かって進み出た。
金比羅坊は望月の後ろを守るように門の中央に仁王立ちになって、首なしの門番から奪った槍を構えていた。
予定通りだと太郎の倒す雑魚はあと十人だった。太郎のいる見張り櫓の横に離れの屋敷があり、どうやら、そこが侍たちの部屋のようだった。
太郎はその屋敷から出て来る侍に、弓の狙いを定めて待機した。
「望月又五郎!」と望月三郎は大声で叫んだ。
しばらくして、屋敷の中から物音や人の声が聞こえて来た。
「又五郎、出て来い!」と望月はもう一度、叫んだ。
「何じゃ」と槍をかついだ男が太郎の狙っていた離れの中から威勢よく出て来たが、太郎と芥川の弓矢に射られ、悲鳴を上げると音を立てて倒れた。
二人目の男も見張り櫓からの矢に射られ死んで行った。
三人目の男は、やられている二人の姿を見て、「曲者(クセモノ)じゃ!」と叫んだ。
屋敷の中の物音や人の声が激しくなってきた。
「又五郎、出て来い!」と望月は叫んだ。
「誰じゃ、わしの名を呼ぶのは」
胴丸を身に着け、望月家の家紋、九曜星の紋を付けた兜をかぶり、薙刀を手にした望月又五郎が槍の池田甚内、剣の山崎新十郎、高畑与七郎を従え、屋敷の中央から姿を見せた。
「我は亡き出雲守(イズモノカミ)長春が一子、三郎長時なり、父の仇を討ちに参った」
望月三郎はゆっくりと刀を抜くと、切っ先を望月又五郎に向けて腰を落とし中段に構えた。
「小童め、まだ、生きておったか。たった二人で来るとはいい度胸だ」
その時、太郎の射た矢が又五郎の顔を掠めた。芥川の矢は山崎新十郎の太刀によって払い落とされた。
「二人ではないわい」と金比羅坊がニヤリと笑った。「この家の回りはすでに包囲してある。観念して、さっさと首を斬られい」
「何を小癪な‥‥‥者ども、出会え!」と又五郎は薙刀を上げた。
胴丸に身を固めた兵が楯に隠れながら離れから四人、裏の方から五人出て来た。予想していたよりも敵の数は多いようだった。
太郎と芥川は見張り櫓の上から手当り次第に矢を放ったが、ほとんど楯に遮られ、効果はなかった。後ろの見張り櫓にいた三雲と服部は、すでに見張り櫓から降りて屋敷の陰に隠れ、後ろから敵を狙った。不意を突かれ二人の敵が倒れた。
太郎と芥川も見張り櫓から降りると、太郎は走り回りながら雑魚どもを手裏剣で打ち、芥川は刀を抜いて目指す槍の池田甚内にかかって行った。
望月三郎は望月又五郎と戦っていた。
三雲と服部も山崎と高畑を相手にしている。
金比羅坊は片っ端から近づいて来る者を叩き斬っていた。
太郎は素早く移動しながら手裏剣を投げている。投げれば必ず、敵の顔に当たった。太郎の手裏剣の餌食となった者は皆、顔を真っ赤にして戦意をなくし、わめいていた。そして、金比羅坊に斬られて行った。
太郎の手裏剣が最後の一本になった時、もう、倒す相手はいなくなっていた。
望月三郎は見事に望月又五郎を倒し、芥川は池田を、三雲は山崎を、服部は高畑を倒し、金比羅坊は太刀を振り上げたまま下ろすべき所を捜していた。
廐の方では馬が騒いで暴れている。
「何じゃ、もう、終わりか‥‥‥」金比羅坊は気が抜けたように太刀を下ろした。
「わりと、あっけなかったな」と三雲は刀の血を振った。
「そうだな、相手が弱すぎるぜ」と芥川は倒した池田甚内の槍を蹴飛ばした。
服部は倒れている敵を一人一人、止めを差していた。
望月三郎と太郎は屋敷の中に入って行った。
すでに裏口が開かれ、家の者たちは皆、逃げていた。
「ちょっと、まずかったな」と太郎は望月を見た。「後ろを固めるのを忘れた」
「まあ、仕方ねえさ。女、子供を斬ったってしょうがない」
望月は家の中を懐かしそうに眺めていた。
「しかし、その女、子供が怖いぜ。いつか、お前に仕返しに来るだろう」
「その時はその時さ‥‥‥とにかく仇は討った‥‥‥」
望月はやっと取り戻した自分の家を見て回った。
太郎は望月を家の中に残したまま外に出た。
闘いに熱中していて気がつかなかったが、いつの間にか雪が散らついていた。
「みんな、怪我はねえか」と太郎は声を掛けた。
「ピンピンしてるぜ。まだまだ、やれらあ」庭石に腰掛けていた三雲が答えた。
芥川が腕を斬られ、服部が脚を斬られたが、二人共、かすり傷で大した傷ではなかった。金比羅坊は怪我一つなく、まだ、充分、力が余っているようだった。
「うまく、行ったな」と太郎は言った。「さて、これからがまた大変だぜ」
「これから、まだ、何かあるのか」と服部が不思議そうな顔をした。
「後片付けだ。こんな血だらけの所に望月のおふくろを呼べるわけねえだろう」と太郎より先に芥川が答えた。
「俺たちがやるのか」と三雲は庭に転がっている無残な死体を見ながら言った。
「他に誰がいる」と太郎が皆を見渡した。
「みんな、一年間、お山で修行をしたんだろ。仏様は大切にしなきゃいかんぞ」と金比羅坊は立ち上がった。
「最後の修行だ。やろうぜ」と芥川も立ち上がった。
いつの間にか、太郎の後ろに来ていた望月が、「すまんな、みんな」と頭を下げた。
「気にすんなよ。俺たちは好きでやったんだからな」と芥川は言った。
「そうだ、気にするな」と服部も言った。
仏様を裏の竹籔に埋め、皆でお経を唱え、庭の血を清め、屋敷の中を綺麗に整え終える頃には、近隣の豪族たちや、昔、望月三郎の父、出雲守に仕えていた侍などが馳せ集まって来ていた。
太郎と金比羅坊は後の事を皆に任せ、雪の降る中、山に帰って行った。
「おぬし、不思議な奴じゃのう」金比羅坊は帰り道、太郎を見ながら、しみじみと言った。
「あれだけの働きをしながら、自分の名を表に出さんとはのう」
「俺は陰ですよ」と太郎は言いながら、裏口から逃げて行った女、子供の事を考えていた。
やがて、子供が成長し、飯道山で武術を習い、望月と同じように父の仇と言って、望月を狙うのではないだろうか‥‥‥
しかも、同じ望月家同士で‥‥‥
かと言って、太郎に逃げ惑う女、子供が斬れるか、と問われたら、斬れると言いきる自信はなかった。
太郎は初めて、武士というものの非情さを知った。
15.高林坊
1
年が改まり文明二年(一四七〇年)、太郎は十九歳になった。
年末年始は忙しかった。
信者たちが続々と山に登って来て、山の中の樹木よりも人の方が多いと思える程だった。
太郎も信者たちの接待をさせられ、雪の積もった山の中を走り回っていた。剣の修行をしているよりもかえって疲れた。三箇日が過ぎると信者の数も減ってはいったが、それでも山に登って来る者は絶えなかった。
ようやく、山も静かになり始めた七日の日、太郎はこっそりと山を抜け出した。
目指す所は勿論、楓である。
去年、望月又五郎を襲う前に会ったきり十日以上も会っていない。太郎は会いたくて会いたくてしょうがなかった。山では修行のためには女は近づけてはならないと教えるが、太郎にとって楓の存在は剣の修行以上に大きかった。楓に会うとかえって剣の修行の励みにもなった。
太郎は楓に会うために山の中を駈け下りた。
年が明けて初めての対面である。いつか、塀の外から覗くのはやめてくれと楓に言われてから、太郎はそっと寺の中に忍び込む事にしていた。そして、木の陰や庭石の陰に隠れ、小石を投げて楓にだけにわかるように合図をする。今日は楓を驚かしてやろうと企んでいた。
太郎は花養院の裏の塀を乗り越えると、持って来た鉤付き縄を利用して寺の本堂の屋根に登った。天狗の面をかぶって屋根の一番上に座り込むと下を見下ろした。
予想に反して、境内には誰もいなかった。楓たちも薙刀の稽古をしていない。
太郎は回りに建ち並ぶ寺の屋根を見回し、遠くに見える山々を見渡した。山々は皆、雪をかぶって白く輝いていた。去年の夏の山歩きの事が懐かしく思い出された。
今日は冷たい風もなく、天気がよく暖かかった。楓が自分の姿を見つけてくれるまで、屋根の上で、ちょっと昼寝をする事にした。
本当に眠ってしまうつもりはなかったが、疲れていたせいと、暖かくて気持ちが良かったせいか、つい、うとうとと眠ってしまった。
目が覚めると、寺の境内には村人たちが集まり、太郎を見上げて騒いでいた。
松恵尼もいた。楓もいた。
太郎はあぐらをかき、人々を見下ろしながら、さて、これから、どうするか、と考えた。
今更、天狗の面を取るわけにはいかないし、天狗のまま消えなくてはならない。さて、どうしたものか。
何か投げる物はないかと太郎は屋根の上を見渡した。
何もなかった。仕方がないので、尻の下に敷いている曳敷(ヒッシキ)と呼ばれる毛皮をはずし、下から太郎を見ている人たちにわざと目に付くように掲げて見せた。
太郎はそれを天に向けて放り投げると懐から手裏剣を出し、宙に浮いている毛皮に向かって投げ付けた。手裏剣は毛皮に当たると毛皮ごと飛んで行った。まるで、ムササビが飛んでいるかのように見えた。村人たちは飛んで行く毛皮に目を取られ、視線をもとの天狗の所に戻した時には、すでに天狗の姿はなかった。
太郎は素早く屋根から飛び降りると天狗の面をはずし、本堂の裏を回って、何気なく境内に入り、騒いでいる村人たちに混じって一緒に屋根を見上げた。
楓だけが太郎に気がついていた。太郎は楓に合図を送ると、さりげなく花養院の門を出た。楓は松恵尼に何事か囁くと太郎の後を追って外に出て来た。
「どんな気分」と楓は太郎に近づくと笑いながら言った。「屋根の上で昼寝をするのは?」
「最高さ」と太郎も笑った。
「馬鹿みたい」
「久し振りに会ったのに、その言いぐさはないだろ」
「ごめん‥‥‥だって」と楓は太郎の顔を見て、また、笑った。「また、抜け出して来たんでしょ」
「まあな」
「怒られたって、知らないから」
「気にすんな。それより、元気だったかい」
「うん、あたしは大丈夫よ。元気、元気」
「正月は忙しかった?」
「うん、とても忙しかったわ‥‥‥でも、懐かしい人が来たわ。栄意坊様よ。あなたも知ってるでしょ」
「ああ、栄意坊殿ね、師匠の事、何か、言ってなかった」
「風眼坊様は今、備中(岡山県西部)にいるんですって」
「備中?」
備中と言われても、太郎には備中がどこなのか、見当もつかなかった。
「風眼坊様の故郷なんですって、そこで、一揆の騒ぎが起こって、風眼坊様も何かをやってるらしいわ」
「何かって」
「知らない‥‥‥あなたのお師匠様の事だから、どうせ、変わった事でもして、みんなを驚かしてるんじゃないの」
「かもな‥‥‥それで、栄意坊殿はどうした」
「帰ったわ。しばらく、赤目に帰って、のんびりするかって言ってたわ。去年の四月、あなたをここに連れて来てから、風眼坊様と栄意坊様は二人して、ずっと、西の方まで旅してたんですって。お酒を飲みながらの珍道中だったんですって。船に乗って四国まで渡って、石鎚山っていう凄いお山に登ったって言ってたわ。でも、あなたのお師匠様も桜の咲く頃には、ここに戻って来るらしいわ」
「ふうん‥‥‥桜の花ねえ‥‥‥」
「それより、あなた、陰の五人衆って知ってる?」
太郎はビクッとして立ち止まり、楓を見た。「陰の五人衆? 何だい、それ」
「とぼけたって駄目よ。今、その噂で持ち切りよ。望月三郎様とその陰の五人衆が望月又五郎様を一瞬のうちに倒し、所領を取り戻したって‥‥‥陰の五人衆は皆、黒装束に身を固めて、まるで、陰のようにお屋敷に忍び込んで、あっという間に又五郎様の一族を攻め滅ぼしたんだって‥‥‥そしてね、その陰の五人衆の中には天狗太郎という飯道山の天狗様がいたっていう噂もあるわ。一体、誰なんでしょうね、その天狗太郎っていうのは‥‥」
楓は太郎の顔を横目で見つめた。
「さあね、俺はそんな天狗なんか見た事ないね」
「そりゃそうでしょうね‥‥‥きっと、鏡の中を覗きこめば見る事ができるわ」
太郎は楓を見ながら声をあげて笑った。
正月も十五日になり、今年も一年間の修行をするために、若者たちが続々と山に登って来た。世の中が物騒になって来たせいか、今年は例年より多く、二百人近くの若者たちが集まって来ていた。
太郎は剣術の組から棒術の組に変更する事にした。
去年、山に登って来た時、高林坊道継と岩之坊真安の模範試合を見て以来、棒術に興味を持ち、どうしても山にいる間に身に付けておきたいと思っていた。
午前中は今まで通り講義を聴き、午後は棒術の稽古をするという毎日が、また始まった。
山に登って来た若者たちは午前中に受付をし、午後は先達山伏に連れられて行場を巡り、その後、山内をぞろぞろと歩き廻っていた。
彼らは『天狗太郎』と『陰の五人衆』の噂を信じ、自分たちもあんな技を習いたいと山に登って来ていた。しかし、実際には、山に『天狗太郎』と呼ばれる者はいないし、『陰の五人衆』について知っている者もいなかった。それでも彼らは信じていた。きっと、この山のどこかに天狗太郎はいる。陰の五人衆もどこかに隠れている。陰というからにはそう簡単に姿を現さないだろう。一年間、ここで修行をしていれば、いつか、必ず会えるだろうと‥‥‥
太郎は講義が終わると棒術の道場に向かった。
『太郎坊移香』の名も山の中で有名になって行った。
山に登って来た途端に百日間の山歩きの行ををやり、一年も経たないうちに、剣術の実力一と言われていた金比羅坊を倒した。そして、鐘を鐘撞き堂に運び上げた天狗も、実は、太郎坊だったという事が金比羅坊によって、山の者たち皆に知れ渡って行った。それに、『天狗太郎と陰の五人衆』の噂についても、はっきりとした確証はないが、もしかしたら、太郎坊の仕業ではないかと思っている者も何人かいた。
道場に入ると太郎は高林坊道継に挨拶をした。
「太郎坊か‥‥‥剣術の道場では、大分、暴れたらしいな」と高林坊は笑いながら言った。
「若いうちは何でも身に付ける事ができる。棒を習うのもいいじゃろう。剣にしろ棒にしろ修行に変わりはない。だが、ただ強くなりゃいいというものでもないぞ。心の修行も大事じゃからな」
「心の修行?」
「今の世は乱れとる。京ではまだ戦をやっておるし、この辺りでも争いは絶えん。若い連中は皆、その争いに勝ち抜くために、このお山に武術を習いにやって来る。人を殺す術をじゃ‥‥‥のう、太郎坊、不動明王様が剣を持っておるが、あれは何を斬るためのものかわかるか」
「不動明王の剣?」
「ああ、あの剣の意味がわからなければ、いくら強くなったとしても、それは畜生と同じだ‥‥‥まあ、頑張るんじゃな」
「はい‥‥‥」
「ところで、お前、いつまで、このお山におるんじゃ」
「一年という事ですから三月までです」
「三月か‥‥‥もうすぐじゃな。まあ、本物の修行というのはどこでもできる。心掛け次第じゃ。このお山にいるうちは剣だけではなく、棒でも、槍でも、薙刀でも、何でも身に付けておいた方がいいだろう。どうじゃ、今日はお前の剣を見せてくれんか。明日から若い者たちの山歩きが始まる。今年はやけに多い。わしらも色々と忙しくなる。どうじゃ、やってみんか」
「はい、お願いします」
「よし、手加減はせんぞ。昔は風眼坊の剣とよくやり合った。お互いにそれで腕を磨き合っていたんじゃが、最近は教えるばかりで自分の修行がおろそかになっておる。こんな事じゃいかんのじゃがな」と高林坊は笑った。
棒術の修行をしている二十数人の山伏たちの見守る中で、太郎と高林坊の試合が始められた。
高林坊は右手で六尺の棒を持ち、自分の目の前に垂直に杖を突くように構えた。
太郎は木剣を中段、清眼に構え、垂直に立つ棒を見つめた。棒は剣と違い、柄と刃の区別がない。垂直に立っている棒の上も下も剣の刃になる事ができる。太郎は油断なく、六尺棒の上から下まで見つめていた。
高林坊は棒を突いたまま、じっと太郎を見ている。その目は太郎を睨んでいるわけではなく、ぼんやりと風景でも眺めているかのように静かだったが、何か圧倒されるものがあった。じわじわと追い詰められているように感じた。目の前に自然に立っている高林坊の姿がだんだんと大きくなり、目の前に立ちはだかる岩壁のように思えて来た。
太郎は剣を振りかぶると高林坊に近づき、右足を大きく踏み込み、高林坊の右手首を狙って剣を振り下ろした。
高林坊は棒を引き、太郎の剣をはずすと、引いた棒を回転させ、太郎の打ち下ろした両拳めがけて棒を打ち下ろした。
太郎は木剣を上げ、その棒を受け止めた。
高林坊は大きく踏み込むと、受け止められた棒の先を太郎の顔、目がけて突いて来た。
太郎は腰を落とし、それを横に払う。
高林坊は棒を大きく引くと、今度は、棒の反対側を後ろから大きく振りかぶり、太郎の頭上に振り下ろした。
太郎は体を左に開き、木剣で受け止める。
高林坊はもう一度、棒を引き、後ろから振りかぶって太郎の両腕を狙う。
太郎は高林坊の棒を受け流すと、高林坊の右手首を狙って剣を打った。
高林坊はそれを巻き落とし、そのまま、太郎の腹を突いて来た。
太郎は右にかわした。
高林坊は棒を引いた。
太郎は踏み込み、高林坊の右手首を狙う。
高林坊は下から棒を振り上げ、太郎の両拳を打ち、そのまま、太郎の喉元まで棒を詰め寄せた。
「参りました」と太郎は木剣を下ろした。
高林坊も棒を引いた。
「成程のう」と高林坊は唸った。「お前は恐ろしい奴じゃのう‥‥‥わしは金比羅坊がお前に負けたと聞いた時は信じられんかった。何かの間違いじゃろうと思っておったが‥‥‥うーむ、確かに強いのう‥‥‥これからも励めよ」
「はい‥‥‥」
太郎は完全に自分の負けだと思っていた。打ち合う前から、それはわかっていた。技以前に、人間の大きさが高林坊と太郎では全然、違っていた。まだまだ、修行が足らんと改めて、自分に言い聞かせた。
太郎はまた、独り稽古を始めた。
棒術の稽古が終わると剣術の道場に行き、また、鉄の棒を夜遅くまで振り回した。
山を下りるまでに、高林坊の棒術に、太郎は剣術で勝ちたかった。
鉄の棒を振りながらも、太郎の前に高林坊の姿がちらついて離れなかった。
高林坊の姿はどんどん大きくなり、仁王のように太郎の前に立ちふさがった。太郎は、その幻を打ち払おうとするかのように鉄の棒を振り回した。
太郎にはわからなかった。
あの高林坊の大きさは、一体、どこから来るものなのだろうか。
強く睨んでいる目なら、こちらも睨み返せばいい。しかし、高林坊の目は睨んではいなかった。何を見てるのかわからない、ボヤッとした目だった。こちらが睨んでも、軽くかわされるだけでなく、逆に、太郎自身が何か目に見えない大きな力に包み込まれて行くような感じがして来る目だった。
一体、あの目は何なのだろうか‥‥‥
「お~い」と誰かが闇の中から声を掛けて来た。
闇を透かして見ると金比羅坊が近づいて来るのが見えた。
「今度は、何をやらかすつもりだ」金比羅坊は太郎に近づくとニヤニヤしながら聞いた。
「何もしません」と太郎は首を振った。
「何もせんのか‥‥‥まあ、いい」と金比羅坊は近くの切り株に腰を下ろした。「今日な、ちょっと用があって里に下りたんじゃ。ついでだからな、望月の所に寄って来た」
「望月、うまく、やってましたか」
「おう、家臣も新しく入れて賑やかにやっておった。芥川、服部、三雲、あの三人も、まだ、いやがったよ」
「まだ、いた?」
「ああ、正月もうちに帰らずに、ずっと、いたそうじゃ」
「へえ、あいつら、一体、何やってんだ」
「女子よ。望月の妹っていうのが、あいつの妹とは思えん程、いい女子でな、三人して、何とかものにしようと思って頑張ってるらしいわ‥‥‥今、噂で持ち切りの『陰の五人衆』も女子には形無しじゃ。コノミ殿、コノミ殿ってな、三人揃って追いかけ回しておったわ。見ていて、おかしくてたまらんかったぞい」
金比羅坊は大笑いした。「まあ、わしも人の事は言えんがな‥‥‥太郎坊、おぬしにも女子がおるらしいのう」
「え?」
「とぼけても無駄じゃ。花養院に、よく天狗が現れるそうじゃのう。どうやら、その天狗殿は楓殿が目当てらしいともっぱらの評判じゃ」
「金比羅坊殿は楓を御存じなんですか」
「知らんでかい。昔から花養院には美人がいるって有名じゃ。松恵尼殿を初め、いつも、美人が揃っておった。今は楓殿じゃ。何人の男が山を抜け出し、楓殿に会いに行ったかわからんわい。しかし、みんな、楓殿の石つぶてにやられて逃げ戻って来たわ」
「石つぶて?」
「ほう‥‥‥おぬしにはつぶてを投げなかったとみえるのう‥‥‥楓殿の石つぶてといったら有名じゃ。百発百中じゃ。わざわざ、楓殿の石つぶてに当たりに行く馬鹿者もおったわい。おぬしも気を付けた方がいいぞ。今の所はうまくやってるらしいが、つぶてに当てられんようにな、ハハハ‥‥‥」
「金比羅坊殿」と太郎も切り株に腰を下ろした。
「何じゃ」
「高林坊殿と打ち合った事はありますか」
「ああ、一度ある。完全にわしの負けじゃった‥‥‥おぬし、今度は高林坊殿に勝つつもりか」
「はい、勝ちたい。でも、どうやったら勝てるのかわかりません」
「うむ、そりゃ難しいのう。何しろ、高林坊殿はこのお山で一番、強いからのう‥‥確かに、高林坊殿に勝てば、おぬしは一番になる‥‥‥しかし、今まで、高林坊殿に勝つ事ができたのは風眼坊殿だけじゃ。こりゃ難しい事じゃわい」
「この前の試合では、師匠は高林坊殿の棒に負けました。逆に栄意坊殿の槍は高林坊殿に勝ちました」
「ああ、あの時か。あれは模範試合じゃ、本当の実力ではない。一番強いのは何といっても風眼坊殿じゃ。しかし、あの時、風眼坊殿が二人に勝ってしまったら、あとあと剣の修行をしている者たちが自惚れるんじゃ。槍や棒より剣が一番強いと言ってな‥‥同じお山の中で争い合っていたら修行にならんからのう。ああいう、うまい具合にしたわけじゃよ」
「そうだったんですか‥‥‥金比羅坊殿は高林坊殿と立ち会った時、高林坊殿の姿が大きく見えませんでしたか」
「いや‥‥‥おぬしにはそう見えたのか」
「はい、山のように大きく見えました‥‥‥」
「そうか‥‥‥それはのう、おぬしが強くなったから、そう見えるんじゃ」
「強くなったから?」
「そうじゃ、自分が強くなったから相手の強さがわかるんじゃ‥‥‥どうやら、おぬしは益々、強くなって行くようじゃのう‥‥‥残念ながら、わしにはそういう経験がないんで、どうやったらいいのかわからんが、昔、わしは風眼坊殿から聞いた事がある。剣の修行というのは、初めのうちは、やればやる程、強くなれる。ところが、ある程度まで行くと、必ず、壁にぶつかる。その壁にぶつかると剣が自由に使えなくなる。しかし、その壁を乗り越えんと本当に強くはなれん。また、その壁が大きく強い程、乗り越えた後、その人間は成長する。太郎坊、今、おぬしは高林坊殿という大きな壁にぶち当たっておるんじゃ。何とか工夫して、ぶち破れ。おぬしなら、できるぞ」
「‥‥‥」
「それと、心(シン)、体(タイ)、業(ギョウ)の三つが揃って、初めて強くなれるとも言っておった」
「心、体、業‥‥‥」
「心(ココロ)と体(カラダ)と業(ワザ)じゃ‥‥‥わしが言えるのは、こんなもんじゃ。壁を突き破るには、やはり、自分で苦労するしかないじゃろう‥‥‥わしはいつでも、おぬしの相手ならしてやるぞ。遠慮なく言って来い」
金比羅坊は太郎を一人残して去って行った。
「心、体、業か‥‥‥」と太郎は一人、呟いた。
高林坊が心の修行も大事だぞ、と言った事を太郎は思い出した。
不動明王の剣‥‥‥とも言っていた。
太郎は冷たく、冷えきった鉄の棒を振りながら考え込んでいた。
『法華経』の講義をやっていた。
太郎は講師の方に目は向けてはいるが聴いてはいなかった。太郎の前に立ち塞がる高林坊という壁は、益々、大きくなるばかりで打ち破る事はできなかった。
「太郎坊」と隣の応如が声を掛けてきた。
「はあ?」と太郎は顔を横に向けた。
「どうしたんだ。最近、元気ないじゃないか」
応如は今年になって、ようやく、弘景から書を習う事を許され、午前中は今まで通り、この講義を聴いていたが、午後になると弘景の草庵に通っていた。
「お前らしくないぞ。何か、気になる事でもあるのか」
「ああ、壁にぶつかっている」と太郎は言った。
「壁?」
「お前、書をやっていて壁にぶつかった事はないか」
「壁ねえ‥‥‥ないねえ」
「そうか‥‥‥」
「剣術の事か」
「ああ‥‥‥なあ、お前の師匠っていうのはどんな人なんだ」
「一言で言えば変人だな‥‥‥変わった人だ‥‥‥でも、いい字を書く。とにかく、凄い字を書く‥‥‥俺から見たら雲の上の人のようだ」
「ふうん、そんなに偉いのか」
「まあ、偉いんだろうな」
講義が終わると太郎は応如と一緒に弘景の草庵に向かった。
草庵は僧院が建ち並んでいる所から少し下った、日当たりのいい静かな平地に建っていた。小さな草庵だった。
草庵の中に弘景はいなかった。
「畑の方にいるんだよ」と応如は言った。
「畑?」
「ああ、師匠は毎日、畑仕事をしている」
太郎は応如の後を付いて行った。
樹木の中を抜けて行くと、そこに小さな畑があり、野良着を着た一人の老人が穴を掘って木の根を抜こうとしていた。日陰の所々には雪が積もっていたが、日当たりのいい畑には雪はなかった。
「師匠、戻りました」と応如は老人に声を掛けた。
老人は顔を上げると、「おお、丁度いい、ちょっと手伝え」と言った。
「はい」と応如は返事をすると、老人の所に行き、穴を掘り始めた。
太郎もただ見ているわけにもいかず、手伝う事にした。三人がかりでやっても、回りを掘り起こして根を引き抜くのは一苦労だった。
太郎は今まで、こんな事をやった事はない。
土の中に、木の根というのが、こんなにも張り巡らされているとは思ってもいなかった。木が立っているのは毎日のように見ている。しかし、目に見えない土の中に、こんなにも深く、そして、四方八方に太い根を張っていたとは知らなかった。考えてみれば、あれだけの太い木が風雨にも負けずに立っているには、太い根を土中に張らなければならないというのは当然の事だ。当然の事だが、こうやって根を引き抜いてみなければ、ずっと気が付かないでいたかもしれなかった。
やっと、太い根を引き抜く事ができた。
「さて、今度はあれだ」と弘景老人は休む暇もなく、次の根の方に向かった。
太郎は応如の顔を覗き込んで聞いた。「お前、毎日、こんな事やってたのか」
「こんな事は毎日、やってはいないが、まあ、毎日、野良仕事はしているよ」
「書の稽古はしないのか」
「ああ‥‥‥これが書の稽古なんだそうだ」
「これがか」
「書を書くのは人間だ。まず、人間を作らなけりゃ、いい字は書けないんだそうだ」
「へえ、まず、人間をね‥‥‥」
「何をやっとる。さっさと仕事をせんか」老人は、すでに穴を掘っていた。
「はい」と二人は駈け寄り、穴を掘り始めた。
三人は日が暮れるまで、根を引き抜いていた。太郎もいつの間にか、根を掘り出す事に熱中していた。剣の事も忘れ、土の中に隠れている太い根を掘り出していた。
「今日は、これ位にするか」と弘景老人は手に付いた土を払いながら言った。
太郎は掘り出されて、地上にさらされた太くゴツゴツした根を広げている木の塊を見ていた。
「どうじゃな、剣の修行も大変じゃろうが、根を掘り出すのも一苦労じゃろう」と老人は太郎に言った。
「はい‥‥‥でも、どうして、わたしが剣の修行をしている事を」
「ハハハ‥‥‥その位、手を見ればわかる」
草庵に戻り、太郎は帰ろうとしたが弘景老人に引き留められ、夕食を御馳走になる事になった。応如は一人で食事の支度をしている。太郎も手伝おうと思ったが、「おぬしは客人じゃ。まあ、ゆっくりして行きなされ」と言われたので、弘景に伴われて板の間に上がった。
弘景は中央にある囲炉裏に薪を並べると、火を起こして火を点けた。
「太郎坊殿と言われたな」と弘景は言った。
「はい」と太郎は頷いた。
「どうじゃな、剣の修行の方は」
「はあ‥‥‥」
「わしは剣の事は知らんがの‥‥‥さっき、掘り返した木の根を見たじゃろう。あれがなければ、木というのは立っておる事はできんのじゃよ‥‥‥書で言えばな、表面だけを見て、いくら、その字を真似て書こうと思っても、それだけではいかん。まあ、いい手本を見て、それを真似ていれば、ある程度まではうまくなるじゃろう。だがな、そういう字というのは根がないんじゃ。いくら、銘木でも根がなけりゃ立っている事はできん‥‥‥まず、しっかりした根を張らなけりゃいかんのじゃ。それは剣にも言えるんじゃないかの」
太郎は囲炉裏の中の火を見つめながら、弘景の話を聞いていた。
「今のおぬしを見ると心が曇っておるな‥‥‥そういう時は何もかも忘れてみるのもいいもんじゃぞ」
太郎は夕食を御馳走になると帰って行った。
松恵尼もいた。楓もいた。
太郎はあぐらをかき、人々を見下ろしながら、さて、これから、どうするか、と考えた。
今更、天狗の面を取るわけにはいかないし、天狗のまま消えなくてはならない。さて、どうしたものか。
何か投げる物はないかと太郎は屋根の上を見渡した。
何もなかった。仕方がないので、尻の下に敷いている曳敷(ヒッシキ)と呼ばれる毛皮をはずし、下から太郎を見ている人たちにわざと目に付くように掲げて見せた。
太郎はそれを天に向けて放り投げると懐から手裏剣を出し、宙に浮いている毛皮に向かって投げ付けた。手裏剣は毛皮に当たると毛皮ごと飛んで行った。まるで、ムササビが飛んでいるかのように見えた。村人たちは飛んで行く毛皮に目を取られ、視線をもとの天狗の所に戻した時には、すでに天狗の姿はなかった。
太郎は素早く屋根から飛び降りると天狗の面をはずし、本堂の裏を回って、何気なく境内に入り、騒いでいる村人たちに混じって一緒に屋根を見上げた。
楓だけが太郎に気がついていた。太郎は楓に合図を送ると、さりげなく花養院の門を出た。楓は松恵尼に何事か囁くと太郎の後を追って外に出て来た。
「どんな気分」と楓は太郎に近づくと笑いながら言った。「屋根の上で昼寝をするのは?」
「最高さ」と太郎も笑った。
「馬鹿みたい」
「久し振りに会ったのに、その言いぐさはないだろ」
「ごめん‥‥‥だって」と楓は太郎の顔を見て、また、笑った。「また、抜け出して来たんでしょ」
「まあな」
「怒られたって、知らないから」
「気にすんな。それより、元気だったかい」
「うん、あたしは大丈夫よ。元気、元気」
「正月は忙しかった?」
「うん、とても忙しかったわ‥‥‥でも、懐かしい人が来たわ。栄意坊様よ。あなたも知ってるでしょ」
「ああ、栄意坊殿ね、師匠の事、何か、言ってなかった」
「風眼坊様は今、備中(岡山県西部)にいるんですって」
「備中?」
備中と言われても、太郎には備中がどこなのか、見当もつかなかった。
「風眼坊様の故郷なんですって、そこで、一揆の騒ぎが起こって、風眼坊様も何かをやってるらしいわ」
「何かって」
「知らない‥‥‥あなたのお師匠様の事だから、どうせ、変わった事でもして、みんなを驚かしてるんじゃないの」
「かもな‥‥‥それで、栄意坊殿はどうした」
「帰ったわ。しばらく、赤目に帰って、のんびりするかって言ってたわ。去年の四月、あなたをここに連れて来てから、風眼坊様と栄意坊様は二人して、ずっと、西の方まで旅してたんですって。お酒を飲みながらの珍道中だったんですって。船に乗って四国まで渡って、石鎚山っていう凄いお山に登ったって言ってたわ。でも、あなたのお師匠様も桜の咲く頃には、ここに戻って来るらしいわ」
「ふうん‥‥‥桜の花ねえ‥‥‥」
「それより、あなた、陰の五人衆って知ってる?」
太郎はビクッとして立ち止まり、楓を見た。「陰の五人衆? 何だい、それ」
「とぼけたって駄目よ。今、その噂で持ち切りよ。望月三郎様とその陰の五人衆が望月又五郎様を一瞬のうちに倒し、所領を取り戻したって‥‥‥陰の五人衆は皆、黒装束に身を固めて、まるで、陰のようにお屋敷に忍び込んで、あっという間に又五郎様の一族を攻め滅ぼしたんだって‥‥‥そしてね、その陰の五人衆の中には天狗太郎という飯道山の天狗様がいたっていう噂もあるわ。一体、誰なんでしょうね、その天狗太郎っていうのは‥‥」
楓は太郎の顔を横目で見つめた。
「さあね、俺はそんな天狗なんか見た事ないね」
「そりゃそうでしょうね‥‥‥きっと、鏡の中を覗きこめば見る事ができるわ」
太郎は楓を見ながら声をあげて笑った。
2
正月も十五日になり、今年も一年間の修行をするために、若者たちが続々と山に登って来た。世の中が物騒になって来たせいか、今年は例年より多く、二百人近くの若者たちが集まって来ていた。
太郎は剣術の組から棒術の組に変更する事にした。
去年、山に登って来た時、高林坊道継と岩之坊真安の模範試合を見て以来、棒術に興味を持ち、どうしても山にいる間に身に付けておきたいと思っていた。
午前中は今まで通り講義を聴き、午後は棒術の稽古をするという毎日が、また始まった。
山に登って来た若者たちは午前中に受付をし、午後は先達山伏に連れられて行場を巡り、その後、山内をぞろぞろと歩き廻っていた。
彼らは『天狗太郎』と『陰の五人衆』の噂を信じ、自分たちもあんな技を習いたいと山に登って来ていた。しかし、実際には、山に『天狗太郎』と呼ばれる者はいないし、『陰の五人衆』について知っている者もいなかった。それでも彼らは信じていた。きっと、この山のどこかに天狗太郎はいる。陰の五人衆もどこかに隠れている。陰というからにはそう簡単に姿を現さないだろう。一年間、ここで修行をしていれば、いつか、必ず会えるだろうと‥‥‥
太郎は講義が終わると棒術の道場に向かった。
『太郎坊移香』の名も山の中で有名になって行った。
山に登って来た途端に百日間の山歩きの行ををやり、一年も経たないうちに、剣術の実力一と言われていた金比羅坊を倒した。そして、鐘を鐘撞き堂に運び上げた天狗も、実は、太郎坊だったという事が金比羅坊によって、山の者たち皆に知れ渡って行った。それに、『天狗太郎と陰の五人衆』の噂についても、はっきりとした確証はないが、もしかしたら、太郎坊の仕業ではないかと思っている者も何人かいた。
道場に入ると太郎は高林坊道継に挨拶をした。
「太郎坊か‥‥‥剣術の道場では、大分、暴れたらしいな」と高林坊は笑いながら言った。
「若いうちは何でも身に付ける事ができる。棒を習うのもいいじゃろう。剣にしろ棒にしろ修行に変わりはない。だが、ただ強くなりゃいいというものでもないぞ。心の修行も大事じゃからな」
「心の修行?」
「今の世は乱れとる。京ではまだ戦をやっておるし、この辺りでも争いは絶えん。若い連中は皆、その争いに勝ち抜くために、このお山に武術を習いにやって来る。人を殺す術をじゃ‥‥‥のう、太郎坊、不動明王様が剣を持っておるが、あれは何を斬るためのものかわかるか」
「不動明王の剣?」
「ああ、あの剣の意味がわからなければ、いくら強くなったとしても、それは畜生と同じだ‥‥‥まあ、頑張るんじゃな」
「はい‥‥‥」
「ところで、お前、いつまで、このお山におるんじゃ」
「一年という事ですから三月までです」
「三月か‥‥‥もうすぐじゃな。まあ、本物の修行というのはどこでもできる。心掛け次第じゃ。このお山にいるうちは剣だけではなく、棒でも、槍でも、薙刀でも、何でも身に付けておいた方がいいだろう。どうじゃ、今日はお前の剣を見せてくれんか。明日から若い者たちの山歩きが始まる。今年はやけに多い。わしらも色々と忙しくなる。どうじゃ、やってみんか」
「はい、お願いします」
「よし、手加減はせんぞ。昔は風眼坊の剣とよくやり合った。お互いにそれで腕を磨き合っていたんじゃが、最近は教えるばかりで自分の修行がおろそかになっておる。こんな事じゃいかんのじゃがな」と高林坊は笑った。
棒術の修行をしている二十数人の山伏たちの見守る中で、太郎と高林坊の試合が始められた。
高林坊は右手で六尺の棒を持ち、自分の目の前に垂直に杖を突くように構えた。
太郎は木剣を中段、清眼に構え、垂直に立つ棒を見つめた。棒は剣と違い、柄と刃の区別がない。垂直に立っている棒の上も下も剣の刃になる事ができる。太郎は油断なく、六尺棒の上から下まで見つめていた。
高林坊は棒を突いたまま、じっと太郎を見ている。その目は太郎を睨んでいるわけではなく、ぼんやりと風景でも眺めているかのように静かだったが、何か圧倒されるものがあった。じわじわと追い詰められているように感じた。目の前に自然に立っている高林坊の姿がだんだんと大きくなり、目の前に立ちはだかる岩壁のように思えて来た。
太郎は剣を振りかぶると高林坊に近づき、右足を大きく踏み込み、高林坊の右手首を狙って剣を振り下ろした。
高林坊は棒を引き、太郎の剣をはずすと、引いた棒を回転させ、太郎の打ち下ろした両拳めがけて棒を打ち下ろした。
太郎は木剣を上げ、その棒を受け止めた。
高林坊は大きく踏み込むと、受け止められた棒の先を太郎の顔、目がけて突いて来た。
太郎は腰を落とし、それを横に払う。
高林坊は棒を大きく引くと、今度は、棒の反対側を後ろから大きく振りかぶり、太郎の頭上に振り下ろした。
太郎は体を左に開き、木剣で受け止める。
高林坊はもう一度、棒を引き、後ろから振りかぶって太郎の両腕を狙う。
太郎は高林坊の棒を受け流すと、高林坊の右手首を狙って剣を打った。
高林坊はそれを巻き落とし、そのまま、太郎の腹を突いて来た。
太郎は右にかわした。
高林坊は棒を引いた。
太郎は踏み込み、高林坊の右手首を狙う。
高林坊は下から棒を振り上げ、太郎の両拳を打ち、そのまま、太郎の喉元まで棒を詰め寄せた。
「参りました」と太郎は木剣を下ろした。
高林坊も棒を引いた。
「成程のう」と高林坊は唸った。「お前は恐ろしい奴じゃのう‥‥‥わしは金比羅坊がお前に負けたと聞いた時は信じられんかった。何かの間違いじゃろうと思っておったが‥‥‥うーむ、確かに強いのう‥‥‥これからも励めよ」
「はい‥‥‥」
太郎は完全に自分の負けだと思っていた。打ち合う前から、それはわかっていた。技以前に、人間の大きさが高林坊と太郎では全然、違っていた。まだまだ、修行が足らんと改めて、自分に言い聞かせた。
3
太郎はまた、独り稽古を始めた。
棒術の稽古が終わると剣術の道場に行き、また、鉄の棒を夜遅くまで振り回した。
山を下りるまでに、高林坊の棒術に、太郎は剣術で勝ちたかった。
鉄の棒を振りながらも、太郎の前に高林坊の姿がちらついて離れなかった。
高林坊の姿はどんどん大きくなり、仁王のように太郎の前に立ちふさがった。太郎は、その幻を打ち払おうとするかのように鉄の棒を振り回した。
太郎にはわからなかった。
あの高林坊の大きさは、一体、どこから来るものなのだろうか。
強く睨んでいる目なら、こちらも睨み返せばいい。しかし、高林坊の目は睨んではいなかった。何を見てるのかわからない、ボヤッとした目だった。こちらが睨んでも、軽くかわされるだけでなく、逆に、太郎自身が何か目に見えない大きな力に包み込まれて行くような感じがして来る目だった。
一体、あの目は何なのだろうか‥‥‥
「お~い」と誰かが闇の中から声を掛けて来た。
闇を透かして見ると金比羅坊が近づいて来るのが見えた。
「今度は、何をやらかすつもりだ」金比羅坊は太郎に近づくとニヤニヤしながら聞いた。
「何もしません」と太郎は首を振った。
「何もせんのか‥‥‥まあ、いい」と金比羅坊は近くの切り株に腰を下ろした。「今日な、ちょっと用があって里に下りたんじゃ。ついでだからな、望月の所に寄って来た」
「望月、うまく、やってましたか」
「おう、家臣も新しく入れて賑やかにやっておった。芥川、服部、三雲、あの三人も、まだ、いやがったよ」
「まだ、いた?」
「ああ、正月もうちに帰らずに、ずっと、いたそうじゃ」
「へえ、あいつら、一体、何やってんだ」
「女子よ。望月の妹っていうのが、あいつの妹とは思えん程、いい女子でな、三人して、何とかものにしようと思って頑張ってるらしいわ‥‥‥今、噂で持ち切りの『陰の五人衆』も女子には形無しじゃ。コノミ殿、コノミ殿ってな、三人揃って追いかけ回しておったわ。見ていて、おかしくてたまらんかったぞい」
金比羅坊は大笑いした。「まあ、わしも人の事は言えんがな‥‥‥太郎坊、おぬしにも女子がおるらしいのう」
「え?」
「とぼけても無駄じゃ。花養院に、よく天狗が現れるそうじゃのう。どうやら、その天狗殿は楓殿が目当てらしいともっぱらの評判じゃ」
「金比羅坊殿は楓を御存じなんですか」
「知らんでかい。昔から花養院には美人がいるって有名じゃ。松恵尼殿を初め、いつも、美人が揃っておった。今は楓殿じゃ。何人の男が山を抜け出し、楓殿に会いに行ったかわからんわい。しかし、みんな、楓殿の石つぶてにやられて逃げ戻って来たわ」
「石つぶて?」
「ほう‥‥‥おぬしにはつぶてを投げなかったとみえるのう‥‥‥楓殿の石つぶてといったら有名じゃ。百発百中じゃ。わざわざ、楓殿の石つぶてに当たりに行く馬鹿者もおったわい。おぬしも気を付けた方がいいぞ。今の所はうまくやってるらしいが、つぶてに当てられんようにな、ハハハ‥‥‥」
「金比羅坊殿」と太郎も切り株に腰を下ろした。
「何じゃ」
「高林坊殿と打ち合った事はありますか」
「ああ、一度ある。完全にわしの負けじゃった‥‥‥おぬし、今度は高林坊殿に勝つつもりか」
「はい、勝ちたい。でも、どうやったら勝てるのかわかりません」
「うむ、そりゃ難しいのう。何しろ、高林坊殿はこのお山で一番、強いからのう‥‥確かに、高林坊殿に勝てば、おぬしは一番になる‥‥‥しかし、今まで、高林坊殿に勝つ事ができたのは風眼坊殿だけじゃ。こりゃ難しい事じゃわい」
「この前の試合では、師匠は高林坊殿の棒に負けました。逆に栄意坊殿の槍は高林坊殿に勝ちました」
「ああ、あの時か。あれは模範試合じゃ、本当の実力ではない。一番強いのは何といっても風眼坊殿じゃ。しかし、あの時、風眼坊殿が二人に勝ってしまったら、あとあと剣の修行をしている者たちが自惚れるんじゃ。槍や棒より剣が一番強いと言ってな‥‥同じお山の中で争い合っていたら修行にならんからのう。ああいう、うまい具合にしたわけじゃよ」
「そうだったんですか‥‥‥金比羅坊殿は高林坊殿と立ち会った時、高林坊殿の姿が大きく見えませんでしたか」
「いや‥‥‥おぬしにはそう見えたのか」
「はい、山のように大きく見えました‥‥‥」
「そうか‥‥‥それはのう、おぬしが強くなったから、そう見えるんじゃ」
「強くなったから?」
「そうじゃ、自分が強くなったから相手の強さがわかるんじゃ‥‥‥どうやら、おぬしは益々、強くなって行くようじゃのう‥‥‥残念ながら、わしにはそういう経験がないんで、どうやったらいいのかわからんが、昔、わしは風眼坊殿から聞いた事がある。剣の修行というのは、初めのうちは、やればやる程、強くなれる。ところが、ある程度まで行くと、必ず、壁にぶつかる。その壁にぶつかると剣が自由に使えなくなる。しかし、その壁を乗り越えんと本当に強くはなれん。また、その壁が大きく強い程、乗り越えた後、その人間は成長する。太郎坊、今、おぬしは高林坊殿という大きな壁にぶち当たっておるんじゃ。何とか工夫して、ぶち破れ。おぬしなら、できるぞ」
「‥‥‥」
「それと、心(シン)、体(タイ)、業(ギョウ)の三つが揃って、初めて強くなれるとも言っておった」
「心、体、業‥‥‥」
「心(ココロ)と体(カラダ)と業(ワザ)じゃ‥‥‥わしが言えるのは、こんなもんじゃ。壁を突き破るには、やはり、自分で苦労するしかないじゃろう‥‥‥わしはいつでも、おぬしの相手ならしてやるぞ。遠慮なく言って来い」
金比羅坊は太郎を一人残して去って行った。
「心、体、業か‥‥‥」と太郎は一人、呟いた。
高林坊が心の修行も大事だぞ、と言った事を太郎は思い出した。
不動明王の剣‥‥‥とも言っていた。
太郎は冷たく、冷えきった鉄の棒を振りながら考え込んでいた。
4
『法華経』の講義をやっていた。
太郎は講師の方に目は向けてはいるが聴いてはいなかった。太郎の前に立ち塞がる高林坊という壁は、益々、大きくなるばかりで打ち破る事はできなかった。
「太郎坊」と隣の応如が声を掛けてきた。
「はあ?」と太郎は顔を横に向けた。
「どうしたんだ。最近、元気ないじゃないか」
応如は今年になって、ようやく、弘景から書を習う事を許され、午前中は今まで通り、この講義を聴いていたが、午後になると弘景の草庵に通っていた。
「お前らしくないぞ。何か、気になる事でもあるのか」
「ああ、壁にぶつかっている」と太郎は言った。
「壁?」
「お前、書をやっていて壁にぶつかった事はないか」
「壁ねえ‥‥‥ないねえ」
「そうか‥‥‥」
「剣術の事か」
「ああ‥‥‥なあ、お前の師匠っていうのはどんな人なんだ」
「一言で言えば変人だな‥‥‥変わった人だ‥‥‥でも、いい字を書く。とにかく、凄い字を書く‥‥‥俺から見たら雲の上の人のようだ」
「ふうん、そんなに偉いのか」
「まあ、偉いんだろうな」
講義が終わると太郎は応如と一緒に弘景の草庵に向かった。
草庵は僧院が建ち並んでいる所から少し下った、日当たりのいい静かな平地に建っていた。小さな草庵だった。
草庵の中に弘景はいなかった。
「畑の方にいるんだよ」と応如は言った。
「畑?」
「ああ、師匠は毎日、畑仕事をしている」
太郎は応如の後を付いて行った。
樹木の中を抜けて行くと、そこに小さな畑があり、野良着を着た一人の老人が穴を掘って木の根を抜こうとしていた。日陰の所々には雪が積もっていたが、日当たりのいい畑には雪はなかった。
「師匠、戻りました」と応如は老人に声を掛けた。
老人は顔を上げると、「おお、丁度いい、ちょっと手伝え」と言った。
「はい」と応如は返事をすると、老人の所に行き、穴を掘り始めた。
太郎もただ見ているわけにもいかず、手伝う事にした。三人がかりでやっても、回りを掘り起こして根を引き抜くのは一苦労だった。
太郎は今まで、こんな事をやった事はない。
土の中に、木の根というのが、こんなにも張り巡らされているとは思ってもいなかった。木が立っているのは毎日のように見ている。しかし、目に見えない土の中に、こんなにも深く、そして、四方八方に太い根を張っていたとは知らなかった。考えてみれば、あれだけの太い木が風雨にも負けずに立っているには、太い根を土中に張らなければならないというのは当然の事だ。当然の事だが、こうやって根を引き抜いてみなければ、ずっと気が付かないでいたかもしれなかった。
やっと、太い根を引き抜く事ができた。
「さて、今度はあれだ」と弘景老人は休む暇もなく、次の根の方に向かった。
太郎は応如の顔を覗き込んで聞いた。「お前、毎日、こんな事やってたのか」
「こんな事は毎日、やってはいないが、まあ、毎日、野良仕事はしているよ」
「書の稽古はしないのか」
「ああ‥‥‥これが書の稽古なんだそうだ」
「これがか」
「書を書くのは人間だ。まず、人間を作らなけりゃ、いい字は書けないんだそうだ」
「へえ、まず、人間をね‥‥‥」
「何をやっとる。さっさと仕事をせんか」老人は、すでに穴を掘っていた。
「はい」と二人は駈け寄り、穴を掘り始めた。
三人は日が暮れるまで、根を引き抜いていた。太郎もいつの間にか、根を掘り出す事に熱中していた。剣の事も忘れ、土の中に隠れている太い根を掘り出していた。
「今日は、これ位にするか」と弘景老人は手に付いた土を払いながら言った。
太郎は掘り出されて、地上にさらされた太くゴツゴツした根を広げている木の塊を見ていた。
「どうじゃな、剣の修行も大変じゃろうが、根を掘り出すのも一苦労じゃろう」と老人は太郎に言った。
「はい‥‥‥でも、どうして、わたしが剣の修行をしている事を」
「ハハハ‥‥‥その位、手を見ればわかる」
草庵に戻り、太郎は帰ろうとしたが弘景老人に引き留められ、夕食を御馳走になる事になった。応如は一人で食事の支度をしている。太郎も手伝おうと思ったが、「おぬしは客人じゃ。まあ、ゆっくりして行きなされ」と言われたので、弘景に伴われて板の間に上がった。
弘景は中央にある囲炉裏に薪を並べると、火を起こして火を点けた。
「太郎坊殿と言われたな」と弘景は言った。
「はい」と太郎は頷いた。
「どうじゃな、剣の修行の方は」
「はあ‥‥‥」
「わしは剣の事は知らんがの‥‥‥さっき、掘り返した木の根を見たじゃろう。あれがなければ、木というのは立っておる事はできんのじゃよ‥‥‥書で言えばな、表面だけを見て、いくら、その字を真似て書こうと思っても、それだけではいかん。まあ、いい手本を見て、それを真似ていれば、ある程度まではうまくなるじゃろう。だがな、そういう字というのは根がないんじゃ。いくら、銘木でも根がなけりゃ立っている事はできん‥‥‥まず、しっかりした根を張らなけりゃいかんのじゃ。それは剣にも言えるんじゃないかの」
太郎は囲炉裏の中の火を見つめながら、弘景の話を聞いていた。
「今のおぬしを見ると心が曇っておるな‥‥‥そういう時は何もかも忘れてみるのもいいもんじゃぞ」
太郎は夕食を御馳走になると帰って行った。
16.百日行、再び
1
太郎はまた、百日間の奥駈け行を始めた。
あの日、弘景老人の草庵を去ってから、太郎は道場に行き、剣を振ったが、やはり、うまく行かなかった。
根を張るとは、どういう事なのか‥‥‥
そういう時には、何もかも忘れてみるのもいいもんだと老人は言った。
このまま毎日、こうやって独りで稽古していても、高林坊の壁は乗り越えられないかもしれないと太郎は思った。老人の言ったように、しばらく、剣の事は忘れて、もう一度、山歩きに専念してみるかと思った。今から、百日といえば、山を下りるはずの三月を過ぎてしまう。しかし、このまま、山を下りるわけには行かなかった。
次の日から、太郎は錫杖を突き、できるだけ、剣術の事は考えないように、走るような速さで雪の山道を歩いた。
阿星山から金勝山に行く途中の岩に囲まれた道を通った時、ふと、この前の百日行の時に出会った老山伏の事を思い出した。あれから、毎日、剣の修行に明け暮れ、すっかり、忘れてしまっていた。あの老山伏は、もう、この山にはいないのだろうか‥‥‥
なぜか、もう一度、会いたいような気がした。あの老山伏が、今の太郎の問題を解決してくれるような気がした。
太郎は、いつも、老山伏が座り込んでいた岩に近づき、下から見上げた。あの時は、こんな岩に登れるわけないと思っていたが、よく見てみると、手や足をうまく岩に引っ掛ければ登れるかもしれなかった。
太郎は登ってみる事にした。
切り立った岩をよじ登り、そのてっぺんまで辿り着くと、老山伏を真似て座り込んでみた。思っていたよりも高く、眺めも良く、気持ち良かった。太郎はしばらくの間、岩の上に座り込んで雪をかぶった阿星山を眺めていた。阿星山から、こちらに向かう道が岩の間や木の間から見えた。その道を大勢の人が歩いて来るのが見えた。
何事だ、と太郎は一瞬、思ったが、そういえば、今、飯道山に修行にやって来た若者たちが、一ケ月の間、ここを歩いているという事を思い出した。彼らは先達に連れられて、ぞろぞろとやって来て、太郎の目の前の道を通って行った。
先頭を歩いているのは棒術師範代の西光坊元内だった。西光坊は岩の上でのんきそうに休んでいる太郎を見つけ、声を掛けて来た。
「太郎坊、そんな所で何してる」
「はい、皆さんが大勢、やって来たので踏み潰されないように、ちょっと避けたんです」
「おぬし、また、百日行を始めたらしいな」
「はい」
「まあ、頑張れよ」と言うと、西光坊は先に立って歩いて行った。
後にぞろぞろと付いて行く若い修行者たちは皆、太郎の方を見ながら歩き去って行った。
道は細く狭い。一人づつしか歩けない。二百人近くが通り過ぎるには、かなりの時間が掛かった。一番最後には剣術の師範代、中之坊円学が付き添っていた。
「太郎坊じゃないか」と中之坊は足を止めた。「何してるんじゃ」と西光坊と同じ事を聞いた。
「大蛇が通り過ぎるのを待っているんです」
「大蛇?‥‥‥おう、まさしく、大蛇じゃ。しかし、これでも、いくらか短くなったんだぞ。あと二十日あるんだが、終わる頃にはこの半分になるじゃろ」中之坊はそう言いながら、大蛇の尻尾の後を追って行った。
金勝山の方を見ると、ぞろぞろと黒い蛇が白い雪の中を進んで行くのが見えた。それを見ながら、太郎は大きく手を打つと笑い、岩を降りて行った。
太郎は、あの老山伏と同じ事をやって見ようと思い立った。彼らを途中で追い越し、竜王山と狛坂寺の間の岩の上に座って、皆が来るのを待っていてやろうと思った。
岩を降りると辺りを見回してみた。絶対、どこかに抜け道があるはずだと思ったが、雪に隠れてわからなかった。太郎は道に戻り、皆に気づかれないように後を追った。金勝寺に行く途中から道をはずれ、山の中に入って行った。金勝寺に寄らずに真っすぐ竜王山に向かえば、奴らを追い越せるだろう。雪をかぶった熊笹をかき分け、びっしょりになって山の中を抜けると、思った通り、金勝寺から竜王山へ向かう尾根道に出た。
竜王山の山頂に立つと、黒い大蛇が金勝寺から、こちらに向かって来るのが遠く見えた。太郎は山を下り、目的の岩に向かった。今度の岩は前より高かったが、登るのはそれ程、難しくはなかった。
太郎は岩の上に辿り着くと座り込んだ。
風が出て来た。太郎の着物はびっしょり濡れていた。その濡れている着物に風が当たり、凍るように冷たかった。
一体、俺は何をやってるんだろう、と太郎は思った。
皆を驚かそうと思って、山歩きの行を始めたのではないはずだった。こんな事では駄目だ。こんな事をやっていたのでは、高林坊に勝つ事などできるわけがない‥‥‥
皆が、ぞろぞろと近づいて来た。
太郎は道の方に背を向けて座り直し、目を閉じて、皆が通り過ぎて行くのを待った。
西光坊が声を掛けたが、太郎は答えなかった。
中之坊にも答えなかった。
皆が通り過ぎた後も、太郎は目を閉じたまま、じっと座っていた。
一体、俺は、どうしたらいいんだ。
太郎は岩から降りると、俯きながら山道を歩き出した。
狛坂寺の阿弥陀如来の前で座り込み、無心になって真言を唱えてみたが、答えは得られなかった。阿弥陀如来は、ただ、太郎を見下ろしているだけだった。
次の弥勒菩薩の前でも祈ったが、弥勒菩薩は太郎の事など完全に無視していた。
しょぼしょぼと太郎は山道を下りて行った。
観音の滝は凍っていなかった。白い水しぶきを上げて落ちていた。
太郎は十一面観音の前に座り込んだ。観音様は優しく微笑んでいた。
太郎は滝を見た。見るからに冷たそうだった。
太郎は錫杖と刀と法螺貝を祠の前に置くと、気合を入れて滝壷の中に入って行った。非常に冷たかった。体中を針で刺されたように痛かった。
太郎はもう一度、気合を入れると、滝の下に座り込んだ。氷の中に座り込んでいるようだった。滝の水は容赦なく、太郎の頭を刺すように落ちて来た。
太郎はもう一度、気合を入れ、両手を合わせ、滝の音に負けない程、大声で真言を唱え始めた。真言を唱えているうちに、体がカッカと燃えるように熱を持って来た。頭はボーッとしてきて、何も考えられなくなった。太郎は怒鳴るように、繰り返し、繰り返し、真言を唱えた。
太郎はまったく気づかなかったが、太郎が滝に打たれて無心になっている時、太神山から戻って来た西光坊率いる一行が太郎の姿を見ていた。
西光坊は滝に打たれている太郎を見て、声を掛けるのも忘れ、ポカンとしていた。そして、我に返ると西光坊は太郎に向かって合掌をし、真言を唱えた。西光坊に続く者たちも皆、太郎に合掌をして真言を唱えては去って行った。
太郎は我も忘れ、時も忘れ、滝に打たれ、真言を唱え続けていた。
モヤッとしていた頭の中が急に明るくなり、金色に輝く、観音様の姿が浮かび上がって来た。
「観音様、助けてくれ!」と太郎は心の中で叫んだ。
観音様が笑った。
やがて、それは、大笑いとなった。太郎を馬鹿にしたように観音様は大口を開けて笑っていた。
「やめてくれ!」と太郎は頭を横に振った。
大笑いの観音様は消え、牙を剥き出して怒っている観音様が現れた。
観音様は次々に顔を変え、だんだんと優しい顔になっていった。
そして、最後に、その顔は楓の顔になった。楓は優しく、太郎を見守りながら微笑んでいた。
「楓!」と太郎は心の中で叫んだ。
太郎は目を開けた。
いつの間にか雪が降っていた。
辺りはシーンと静まり返っている。
本当なら滝の音でうるさいはずなのに、不思議と静かに感じられた。
時が止まってしまったかのようだった。
「楓‥‥‥」と太郎は呟いた。
なぜ、急に、楓の姿が現れたのだろう‥‥‥
もしかしたら、楓の身に何か良くない事が‥‥‥
そう思うと、太郎はじっとしていられなかった。
滝から上がると、濡れた体のまま雪の降る中、沢に沿った道を楓のいる花養院へと走り向かった。
寒さや冷たさなど、一向に感じられなかった。
太郎は走り続けた。
途中で、刀や錫杖、法螺貝を滝に忘れてきた事に気づいたが、そんな事はどうでもよかった。とにかく、楓の事が心配で、雪の中、濡れた体で走り続けた。
花養院に着いた時には、すでに日は暮れ、門は閉ざされていた。
太郎は塀に飛び付き、乗り越えると、木陰に隠れながら本堂の裏の方にある楓のいる離れに向かった。窓から中を覗くと、楓は明かりの下で何かを書いていた。
太郎は小声で楓を呼んだ。
楓は顔を上げて窓を見た。
「俺だ」と太郎は言った。
「誰?」と楓は帯の所に手をやった。
「太郎坊だ。石つぶてはいらんよ」
「あなたなの、今頃、何してんのよ」
楓は窓に近づいて来た。
「ちょっと、入れてくれ」
「待ってて」と楓は入口の方に行った。
入口の戸を開けると太郎を素早く中に入れ、外を窺ってから戸を閉めた。
「どうしたの、一体。川にでも落ちたの、びっしょりじゃない」
「そんな事より、お前、大丈夫か」
「何が」
太郎は楓を上から下まで眺めた。
「ねえ、一体、どうしたの」
「良かった。大丈夫だったんだな」と太郎は言うと、ほっとして腰を落とした。
滝に打たれていたら、急に楓が出て来たので、心配になって飛んで来た事を説明した。
「この寒いのに、滝に打たれていたですって」楓は呆れて、ポカンと口を開けていたが、「風邪ひいたら、どうすんのよ」と心配した。
「大丈夫だ。そんな、やわじゃない」と太郎は言ったものの、安心して気が緩んだせいか急に寒くなって来た。
「ほら、みなさい。震えてるじゃない。風邪ひくわ。早く、その濡れたの、脱いでよ」
太郎は楓に言われるまま、濡れた着物を脱いだ。楓は乾いた手拭いと着物を持って来て、太郎に渡した。
「あたしのしかないけど我慢してね」と楓は言いながら目を伏せた。
太郎は体を拭きながら、楓を見て、「どうしたんだ」と聞いた。
「だって‥‥‥急に、裸になるんだもの‥‥‥」
「裸になれって言ったのは、お前だろう」
「それは、濡れてる物、着てたら風邪ひくからよ」と楓は言うと隣の部屋に隠れた。
「今日の楓は、いつもと違うぞ」と太郎は楓の着物を着ながら言った。
「この濡れたの、どうしよう」と太郎は聞いた。
「そこに置いといて、あとで、洗っておくわ」
「うん」と言いながら太郎は楓のいる部屋に上がった。楓は元の所に座っていた。
「どうしよう」と楓は俯きながら言った。
「何を」
「だって、見つかったら大変じゃない」
「何で」
「ここは尼寺でしょう。夜、男の人なんか部屋に入れたりして‥‥‥」
「そうか、お前に迷惑かかるな‥‥‥やっぱり、帰るわ」
「帰るって、その格好で」
「いや、また、あれを着るさ」
「風邪ひくわ」
「大丈夫だよ」と言ったが、太郎は大きなくしゃみをした。
「大丈夫じゃないわ」
「平気さ」と太郎は言ったが、急に寒気がして来た。
「何やってたんだ」と太郎は聞いた。
「仕事よ」
「俺に構わず、続けていいよ」
楓は顔を上げ、太郎を見た。
太郎は震えていた。
「風邪ひいたんじゃないの」
楓は太郎に近づくと、太郎の額に手を当てた。「凄い熱だわ」
「大丈夫だよ、すぐ帰る」と太郎は言って、楓の目を見つめた。
「駄目よ」と楓は言ったが、太郎の目から視線をそらせた。
太郎は楓を抱き寄せた。
「俺は楓が好きだ」と太郎は楓の耳元で囁いた。
楓は顔を上げて、太郎を見つめた。
「あたしもよ‥‥‥でも、駄目。あなたは今、修行中よ‥‥‥あたしの事なんか忘れて、修行しなくちゃ駄目」
「修行は修行。お前はお前だ」
「違うわ‥‥‥それより、凄い熱よ。寝た方がいいわ」
「帰る」と太郎は言った。「俺が、ここで寝るわけにはいかないだろ」
「あなたは病人よ。病人を追い出すわけにはいかないわ。まして、今、外は雪よ。そんな中、帰って行ったら、途中で倒れちゃうわ」
楓は太郎から離れると、隣の部屋に布団を敷き、太郎を無理やり寝かせた。台所に行き、水桶を持って来て、その中で手拭いをしぼると太郎の額の上に載せた。
「ゆっくり、休んでね」
「うん‥‥‥」
太郎は眠った。
目を開けると、楓はまだ、座り込んで何かを書いていた。
「楓」と太郎は力なく声を掛けた。
「どう?」と楓は聞いた。
「まだ、寝ないのか」
「もう少し」
「いつも、こんな遅くまで起きてるのか」
「‥‥‥寝るわ」と楓は明かりを吹き消した。
楓は着物を脱ぐと、太郎の隣に入って来た。
「大丈夫?」と楓は太郎の額に手を当てた。
太郎は楓を抱きしめた。
太郎の熱は、なかなか下がらなかった。
朝になり、楓は目を覚ますと、隣に寝ている太郎を見つめた。そして、額に手をやった。太郎の熱が楓の手に伝わって来た。
太郎は目をあけた。
「もう、朝か‥‥‥」と力のない声で言って、楓を見ると笑った。
太郎は手を伸ばすと楓を抱きしめた。力一杯、抱きしめたが、体中がだるくて力がでなかった。
「迷惑かけて、すまん‥‥‥」声がかすれていて、口の中がやたらと乾いていた。
「迷惑なんかじゃないわ」と楓は太郎を見つめながら言った。
「誰にも見つからないうちに帰る‥‥‥」
「駄目、まだ、熱が下がらない」
「平気さ」と太郎は体を起こそうとしたが、頭は重く、体は言う事を聞かなかった。
「無理をしちゃ駄目‥‥‥ね、ちゃんと治るまで、ここにいて‥‥‥じゃないと、あたし、心配で、心配でしょうがない」
太郎は頷いた。
楓は布団から出ると着替え、水桶の水を替えて手拭いをゆすぐと、太郎の額に載せた。
「寝てなきゃ、駄目よ」
太郎は楓の手を取って、楓を見上げていた。
楓は太郎の手を優しく包んだ。
「行くわ」と楓は言うと、太郎の手を布団の中に入れ、優しく笑うと出て行った。
太郎は楓を見送ると目を閉じた。
何も考える事ができなかった。頭の中はボヤッとしていた。そのボヤッとした中に、楓の優しい顔だけが浮かんでいた。
太郎は眠った。
どの位、眠ったのかわからないが、気がつくと側に楓が座っていて、太郎を見守っていた。
「どう?」と楓は聞いた。
「うん‥‥‥大分、良くなったみたいだ」
「そう、よかった」と楓は笑った。
「今、何時(ナンドキ)?」
「お昼頃よ」
「そうか‥‥‥」
「ねえ、何か、食べる?」
「いい」と太郎は首を振った。「いいのか。ここにいて」
「大丈夫。松恵尼様にあなたの事、話したわ‥‥‥そしたら、今日は休んでいいから、あなたの看病をしっかりやれって‥‥‥」
「俺が、ここにいても大丈夫なのか」
楓は頷いた。
「あたしもその事を聞いたの。そしたら、仏様の世界には男も女もないし、困っている人を助けるのが仏様の教えですって‥‥‥それに、あなたの事は風眼坊様からも頼まれているし、ちゃんと治るまで絶対に閉じ込めて置けって言ったわ」
「閉じ込めて置けか‥‥‥」
「お薬もいただいたわ。あなたのお師匠様が作ったお薬ですって‥‥‥」
「師匠の薬‥‥‥」
「良く効くらしいわよ。それに、松恵尼様が熱を下げるのに、一番いい方法っていうのを教えてくれたわ‥‥‥」
「護摩(ゴマ)を焚いて、祈祷でもするのか」
「ううん」と楓は首を振って、顔を赤らめた。「‥‥‥しっかりと抱き合うんですって‥‥それも、お互いに、全部、着物を脱いで‥‥‥」
「えっ? 松恵尼様がそんな事を言ったのか」
楓は顔を真っ赤にして、頷いた。「それが一番、自然なんだって‥‥‥そうすれば、すぐ、熱は下がる‥‥‥でも、二人は若いから逆に熱が出るかもしれないわねって笑ったわ」
「楓‥‥‥」と太郎は楓の手を取った。
「太郎坊様‥‥‥」と楓も呟いた。
「太郎でいいよ‥‥‥俺の本名は愛洲太郎左衛門久忠って言うんだ」
「愛洲太郎左衛門久忠‥‥‥お侍さんみたいね」
「侍だよ。山伏は仮の姿さ。本当の事を知ってるのは師匠しかいない。それと、お前だ」
「そうだったの‥‥‥」
「山伏の方が良かったかい」
「ううん、どっちでも同じよ。あなたに変わりはないわ‥‥‥それに、あたしもお侍の娘らしいわ。よく、知らないけど‥‥‥」
楓は太郎の額の手拭いを替えた。
「汗が凄いわ。着替えた方がいいわ。それに、何か、食べた方がいいわ」
「うん‥‥‥」
「ちょっと待っててね。おかゆを持って来るわ」
楓は水桶を持って出て行った。
太郎は楓の後姿を見ながら、何となく、心が休まるような気がした。体の調子は良くないが、久し振りに、のんびりと休んでいるような気がした。
二年前、曇天と一緒に京へ旅をして以来、ずっと、剣に熱中してきた。剣の事しか考えていなかった。毎日、朝早くから夜遅くまで剣を振っていた。のんびりと休む事など一度もなかった。今は熱を出して寝てはいるが、楓が側にいてくれるという事で、心は休まっていた。
乾いた着物に着替え、楓が作ってくれたおかゆを少しだけ食べ、師匠が作ったという苦い薬を飲むと太郎は、また、眠りについた。
次に目が覚めた時、もう、部屋の中は暗くなっていた。そして、太郎の横には何も身に付けていない楓が寄り添って寝ていた。
太郎は楓の体を抱き寄せた。柔らかくて、滑らかで気持ち良かった。太郎自身も何も身に付けていなかった。
「恥ずかしいわ」と楓は目を閉じたまま囁いた。
「ずっと、側にいてくれたのか」
楓は頷いた。
「そうか‥‥‥ありがとう‥‥‥」
「寝た方がいいわ‥‥‥」
太郎は楓を強く抱きしめた。
太郎の百日行が再び、始まった。
五日の間、太郎は楓と二人きりで夢のような楽しい日々を過ごした。
三日目には太郎の熱もやっと下がり、食事も取れるようになっていた。
四日目には布団から出て、木剣の素振りを軽く始めた。
五日目になると体の調子は元に戻って来ていたが、楓と別れたくないので、まだ、調子が悪いと言って、楓の部屋でゴロゴロしていた。
六日目の朝、太郎は楓を抱きながら、「また、熱が出て来たみたいだ」と言った。
「そう」と楓は言うと太郎の目をじっと見つめた。「あたしもよ。体中、熱が出てるわ」
「もう少し、休んでいた方がいいかな」と太郎が聞くと、「もう駄目」と楓は強く言った。
「もう駄目よ。あたしだって、あなたとずっと一緒にいたいわ。でも、これ以上、松恵尼様に迷惑かけられない。それに、あなただってちゃんと修行しなくちゃ駄目」
太郎は楓にそう言われても、楓と別れがたく、グズグズしていた。
楓はとうとう薙刀を持ち出して、太郎を追い出した。
「わかったよ、出て行く。俺はまた、百日行をやる」
「えっ、百日行‥‥‥」
「うん、百日間、お前と会えない」
「百日間も‥‥‥」
「ああ。百日間なんて、すぐさ」と太郎は言うと、素早く楓に近づき、楓を抱きしめた。そして、楓の秘所をまさぐり、離れると、薙刀を持ったままポカンと立っている楓を残して去って行った。
太郎は何も考えずに、ただ、歩く事だけに専念した。
楓の事は頭から離れなかったが、錫杖を鳴らしながら山の中を歩き続けた。夜が明ける前から夜遅くまで、ただ、山の中を歩いていた。
距離も延ばした。
今までは太神山の不動寺で折り返していたのを、さらに、太神山から矢筈ケ岳を通り、笹間ケ岳まで足を延ばした。以前は往復十三里(五十二キロ)だったのが、今度は十六里(六十四キロ)となった。のんびり歩いていれば飯道山に戻るのが深夜になってしまう。太郎は飛ぶような速さで山の中を走り回っていた。
やがて、冬が去り、春になった。
山は少しづつ変化して行った。
雪が溶け、草や木が芽を出し、緑が少しづつ増えていった。道端のあちらこちらに小さな花が咲き、山桜が見事に咲き誇った。
やがて、桜の花も散り、山はすっかり緑でおおわれた。
太郎の頭の中から、ようやく、楓の事も高林坊の事も消えてなくなった。
太郎自身、自然と一体化したかのように心は澄み切っていた。
八十五日目の朝を迎え、太郎は朝日を背に受けながら歩いていた。
森の中では色々な鳥たちが飛び回り、鳴いていた。
太郎は口笛で鳥たちに挨拶をした。
毎日、同じ道を歩きながらも、自然は毎日、違う姿を見せてくれた。
自然は生きている。そして、自分も生きている。ただ、生きているという事に喜びを感じ、また、自然という大きな力によって、自分が生かせて貰っているという事に感謝するようになっていた。
今まではただの義務感で、あちこちにある阿弥陀様や地蔵様、観音様に手を合わせ、真言を唱えていたのだったが、最近は感謝の気持ちを込め、心から真言を唱える事ができるようになった。
阿星山のお釈迦様に感謝を込めて祈ると太郎は金勝山に向かった。
天狗が座っていた。
太郎がこの前、座った岩の上に赤い顔をした天狗が座り込み、太郎の方を見ながら笑っている。
太郎は初め、その天狗は一年前に見た老山伏かと思ったが違っていた。体格が全然違う。老山伏は痩せ細っていて小さかったが、今、岩の上に座り込んでいるのはガッシリとした体格の男だった。
「太郎坊」と天狗は低い、かすれた声で言った。
「誰です?」と太郎は聞きながら、考えていた。
俺がこの前、あの岩に登ったのを知っているのは西光坊と中之坊だ。あの二人のうち、どちらかが俺をからかっているのだろうと思った。
「見た通りの天狗じゃ」と天狗は笑いながら言った。「この山にも天狗がいると聞いて、大峯からはるばるやって来たんじゃ」
大峯と聞いて、太郎にはピンと来た。
「師匠ですか」と太郎は聞いた。
天狗は笑いながら面を取った。面の下には懐かしい風眼坊舜香の顔があった。
「久し振りじゃのう」と風眼坊は太郎を見下ろしながら言った。「一年、見んうちにお前も立派になったもんじゃ」
「師匠‥‥‥」
師匠、風眼坊に会ったら、言いたい事や聞きたい事が一杯あったはずなのに、師匠の顔を見たら、太郎は懐かしくて胸が一杯になって何も言う事ができなかった。
「お前の事は色々と聞いたぞ。派手にやってるらしいな」
「いえ、そんな‥‥‥」
「冬の寒い中、七日間も滝に打たれていたそうじゃのう」
「えっ?」と太郎は驚いた。
「みんなが、お前の事を大した奴だ。まさしく、あいつは天狗太郎じゃと言っておる。若い連中は、皆、お前のようになりたいと修行に励んでいるそうじゃ‥‥‥それから、『天狗太郎と陰の五人衆』というのも聞いたぞ。ハハハ」
「七日間の滝打ちの行っていうのは誰が言ったんです」
「誰が? お山中、みんなが知っとるわい」
「そうですか‥‥‥」
不思議だった。どうして、そんな風な事になってしまったのだろうか。
滝に打たれたのはたったの一日だけだった。後は熱にうなされて楓の所にいた。錫杖や刀や法螺貝をあの滝の所に置きっ放しだったので、皆が誤解して、ずっと、あそこで修行していると思ったのだろうか。しかし、不思議だった。最初の日は皆に見られたかもしれないが、後の六日間は見られるはずがない‥‥‥
一体、どうしたのだろう。
皆は俺の幻でも見ていたのだろうか。
「今日で何日目じゃ」と風眼坊が聞いた。
「八十五日目です」
「後、十五日か‥‥‥とにかく、今は、この行をやりとげる事だな。それからじゃ、後の事を考えるのは‥‥‥今日は久し振りにお前と歩くか」
風眼坊は岩の上から消え、太郎の前に現れた。
「楓との事も聞いたぞ」と風眼坊は太郎の肩をたたいて笑った。
「あれはいい女子じゃ、大事にしろよ」と言うと、風眼坊は先に立って歩き出した。
太郎は風眼坊の後を追った。風眼坊は相変わらず歩くのが速かったが、どうにか一緒に歩けるようになっていた。
風眼坊の後ろ姿を見ながら、太郎は一年前、風眼坊に連れられて、五ケ所浦から飯道山に向かう山歩きを思い出した。あの時は悲惨だった。足が棒のようになり、泣きながら風眼坊の後を追っていた。
あれから色々な事があった。五ケ所浦にいたら、一生、経験できないような事ばかりだった。
金勝山の千手観音の前で、風眼坊と太郎は並んで真言を唱えた。
「太郎坊」と風眼坊は金色に輝く千手観音を見上げながら言った。
「はい」と太郎は風眼坊を見た。
「おぬし、あのように手が千本あったとしたら、その手を自由に扱う事ができるか」
「えっ?」と太郎は千手観音を見上げた。
「よく見ろ。あの千本の手は皆、違う物を持っておる。宝剣とか羂索(ケンサク)とか宝珠、鉄斧、弓、槍、錫杖、五色雲とか、皆、役割が違う。必要な時に、必要な手を動かさなければならないわけじゃ。お前にはそれができるか。例えば、その蓮華の花を持っている手、その手を迷わず、前に差し出す事ができるかな」
太郎は千手観音の千本の手を見ながら考えていた。
「それがわかれば、お前の剣も本物になるじゃろう。あと十五日かけて、ゆっくりと考えてみろ」
「はい‥‥‥」
金勝寺を出ると風眼坊と太郎は竜王山、観音の滝と通り、太神山へと向かった。
太神山の不動明王の前で、太郎は風眼坊に聞いた。
「不動明王の持っている剣は一体、何を斬るんです」
風眼坊は太郎を見ながら、「さあな」と言った。「そんな事、わしも知らんのう。お不動さんに聞いてみろ」
風眼坊はとぼけていた。
二人は太神山からさらに進み、愛染(アイゼン)明王を祀る矢筈ケ岳を通り、摩利支天を祀る笹間ケ岳へと来た。
「ここで別れる」と風眼坊は言うと琵琶湖の方に下りて行った。
「今度は、いつ、来てくれますか」と太郎は聞いた。
「お前の行が終わった頃、また来る」
風眼坊は走るように山を下りて行った。
太郎は道を引き返した。
楓は薙刀を持ったまま、ぼうっとしていた。
今日で九十日目、後十日で太郎の百日行は終わりだった。
また、無茶をして熱を出したりしてないかしら。
無事に終わってくれるといいんだけど‥‥‥
楓は太郎の事で頭が一杯だった。
「お師匠様」とアカネという娘が声を掛けた。
アカネは楓の教え子の中で一番年長の十五歳だった。楓は今、十二歳から十五歳までの娘たち、十八人を教えている。皆、近所の郷士の娘たちである。
「お師匠様」とアカネがもう一度、声を掛けた。
楓はようやく、我に返って、アカネの方を向いた。
「終わりましたけど」とアカネは言った。
楓は皆に形の稽古をさせていた。それが終わったとアカネは言った。
「そう」と楓は答えた。
「お師匠様、最近、変ですよ。どうしたんですか」とアカネが心配そうに聞いた。
「何でもないわ」
「お師匠様、最近、太郎坊様、全然、見えませんね。どうしたんでしょう」と美代という女の子が言った。
「今、太郎坊様は忙しいのよ」
「いくら、忙しいったって変よ」とサヤという娘が言った。「もう、三ケ月以上、顔を見せないわ。前は、ちょくちょく来てたのに」
「きっと、お師匠様の石つぶてにやられたのよ。それに懲りて、もう、来ないのよ」とミツという娘は言う。
「それは違うわ。お師匠様は太郎坊様には石つぶては投げないわ。お師匠様だって太郎坊様の事、好きなのよ」と美代は言った。
「だったら、おかしいわ。どうして、来なくなったの」とマキが聞く。
「もしかしたら、もう、お山にいないんじゃない。用があって、どこかに行ってるのよ」とサヤは言った。
「そうね、そうよ、きっと」
「お師匠様が可哀想、太郎坊様、早く帰って来ればいいのに‥‥‥」
娘たちは、みんなして勝手な事ばかり話していた。
「黙りなさい」と楓は言った。
「だって‥‥‥」と美代は悲しそうな顔をして、楓を見上げた。「お師匠様が、あまり、元気ないから、みんなで心配してるのに‥‥‥」
「ありがとう。でも、あたしは大丈夫よ」
「本当に、太郎坊様はどうしたのかしら」
「みんなの言う通り、ちょっと出掛けてるの。でも、あと十日位したら帰って来るわ」
「ほんと?」
「ほんとよ」
「良かった」と娘たちは、また、キャーキャー騒ぎ出した。
「静かにしなさい‥‥‥それでは、今度は二人づつ組になってお稽古しましょう」
娘たちは、また稽古を始めた。
楓は皆の稽古を見て回った。
今日は松恵尼は留守だった。
最近、松恵尼はやたらと、どこかに出掛けていた。どこに行くのかわからない。一日で帰って来る時もあれば、二、三日、留守にする事もある。楓が聞いてもはっきりと教えてくれない。今、京で戦が続いているから、やたらと忙しいと言う。何がどう忙しいのか、楓にはわからないが、確かに松恵尼は忙しそうだった。寝る暇もない位、動き回っていた。
この花養院には松恵尼の他にもう一人、尼さんがいた。春恵尼という三十歳前後の物静かな婦人だった。彼女がここに来て、もう二年位経つ。彼女はほとんど出掛けない。暇さえあれば写経をしていた。戦で家族を亡くし、たった一人になり、出家したのだと言う。
今、春恵尼は客の接待をしていた。最近になって、この寺に訪れる客の数も増えて来た。それも、遠くの方から来る旅の客が多い。僧侶や尼僧もいるが、商人の数も多い。時には、偉そうな侍が来る事もあった。
先程、来たのも侍だった。供を二人連れて、馬に乗って訪ねて来た。急いで来たとみえて、三頭の馬は汗びっしょりだった。
「松恵尼様は留守です」と楓は言ったが、侍は、「構わん、春恵尼殿はいるか」と言った。
初めて見る侍だったが、春恵尼の事を知っていた。楓は春恵尼に会わせた。もう、半時(一時間)以上経つのに、まだ、侍たちは帰らなかった。何やら話し込んでいるらしい。もしかしたら、春恵尼が出家する前の知り合いなのかもしれない、と楓は思った。
稽古を終え、娘たちを帰すと、楓は夕食の支度を始めた。
三人の侍が帰ると入れ違いに松恵尼は帰って来た。
夕食を終え、雑用を済ますと楓は離れの自分の部屋に戻った。
一人になると、また、太郎の事が頭に浮かんで来た。
太郎がこの部屋を去って百日行を始めたその日から、楓は太郎の無事を祈って、毎朝、水垢離(ミズゴリ)を始めた。今は、もう、それ程でもないが、冬の寒い中、水を浴びるのは辛かった。それでも、太郎の事を思いながら毎朝、休まず続けた。
あと十日、あと十日で、二度目の百日行が終わる‥‥‥
どうか、無事でいて下さい。
楓は机の前に座り込んだまま、ぼうっとしていた。
山の緑を糸のような細い雨が濡らしていた。
いよいよ、太郎の百日行は、今日で最後となった。
太郎は、この山歩きの百日行を高林坊の高く厚い壁を打ち破るために始めた。しかし、焦り過ぎた。答えを早く得ようとして、冬の寒い中、凍るような滝に打たれた。
十一面観音に縋り、一心に答えを求めた。身も心も冷えきり、答えが得られないと、観音様よりも生身の人間、それも、暖かく自分を迎え入れてくれる楓を求めた。
太郎は楓に縋った。
楓は優しかった。
太郎は高林坊の事も剣の事もすっかり忘れ、楓と二人だけの平和で楽しい世界に遊んだ。高林坊の事は確かに忘れる事はできたが、それは、ただ、忘れただけで、何の解決にもならなかった。
太郎は再び、百日行を始めた。
初めの一ケ月、太郎は楓に悩まされた。
山歩きをしながら、楓の事が頭から離れなかった。
楓の優しい笑顔、太郎を見つめる素直な目。
「太郎様」と呼びかける楓の声。
そして、柔らかく、滑らかで、温かい楓の身体‥‥‥
「これじゃ、いかん。女の事は忘れろ!」と思っても、いつの間にか、楓の事を思いながら歩いていた。
山歩きなんかやめて、楓の所に行こう、と何度、山を下りかけたかわからない。太郎がその都度、山を下りなかったのは、やはり、楓のお陰だった。楓の所に行こうと山を下りかけると、いつも、優しく微笑みかけている楓の顔が急に冷たくなった。太郎に背を向け、遠くに去って行こうとする。すると、太郎は我に返り、山道に戻った。
二ケ月目に入り、楓の幻が消えると、再び、高林坊が現れた。
仁王立ちした高林坊が太郎を見下ろして笑っている。その笑い声までが太郎を悩ませた。
太郎は高林坊の幻から逃げるように山の中を走り回っていた。寝ても覚めても、高林坊は付いて回った。寝ていれば高林坊の幻に押し潰されそうになり、山を歩けば追いかけて来た。
三ケ月目になると、高林坊と楓が代わる代わるに出て来た。
高林坊は棒を振り上げ、追いかけて来る。楓は山の下の方から手招きをした。太郎はまた、山を下りようとした。すると、今度は、師匠、風眼坊の姿が現れた。風眼坊は太郎を見ながら笑っていた。
「師匠、俺は、どうしたらいいんです」と太郎は叫んだ。
風眼坊はただ、笑っているだけだった。
次に、父、愛洲隼人正宗忠が出て来た。父は槍を持ち、軍船の船首に立ち、太郎の方を見ていた。
「父上!」と太郎は叫ぶと山道に戻った。
中途半端な修行で、父の前に帰る事はできなかった。
太郎はまた、高林坊の幻に追われながら山道を走るように歩いた。
八十日目だった。その日は霧が深かった。
太郎は逃げるように山を歩き、いつものように真言を唱えるべき所に座って真言を唱えていた。
急に、辺りが明るくなり、静かになった。
不思議と太郎を悩ましていた幻も消えた。
太郎は顔を上げた。
そこには不動明王が立っていた。太神山の不動明王だな、と太郎は改めて思った。
太郎は不動明王を見上げた。
不動明王は右手に剣を持ち、左手に羂索を持ち、火焔(カエン)を背負っている。
太郎の脳裏に、突然、閃くものがあった。
不動明王の剣‥‥‥それは、心の迷いを断ち斬る剣である‥‥‥
心の迷い‥‥‥心というのは不思議なものだった。高林坊の幻も、楓の幻も、皆、心の迷いから生じるものだった。
太郎は不動明王に合掌をした。
太郎は新しく生まれ変わったような気がした。今まで身にまとっていた不要な物が、すっかり取れ、身も心も自由になったような気がした。
太郎は本堂の外に出た。
霧がゆっくりと引いて行くのが見えた。そして、毎日、見慣れていた風景が目に映った。しかし、それは、まったく違う風景のように目に入った。
急に、視野が広くなったように感じられた。
太郎は山道を歩いた。
幻は付いて来なかった。
八十五日目に師匠と会い、千手観音の手の事を聞かされた。聞かれた時は、すぐに答える事はできなかったが、やがて、答えは出た。やはり、心に関するものだった。
それは、一つの事に心を囚われてはならないという教えだった。一本の手に心を囚われると、残りの九百九十九本の手がおろそかになって使えなくなる。常に、千本の手に心を止めていなければならない。また、千本の手だけに心を止めてもいけない。心を止めれば、足や顔がおろそかになる。全身、すべてに心を置かなければならない‥‥‥
そう、師匠は俺に教えたかったのだろうと思った。
いよいよ、最後の日、雨は降っているが、太郎は楽しみながら山を歩いていた。しかし、三日前から変なものを感じていた。誰かがどこかから、自分の事をじっと見ているような気がしてならなかった。そう感じると、太郎はすぐに立ち止まり、辺りを見回すが、どこにも誰も見当たらなかった。
修行を積んで幻は退治したはずなのに、また新しい幻が出て来たのか、と太郎は思った。それとも、師匠が俺をからかっているのか、とも思った。師匠なら見つけ出してやろうと思うのだが、捜しても、どこにも誰もいなかった。
今日も金勝山から竜王山に行く途中で、それを感じたが誰もいなかった。そして、帰り道、雨も上がり、すでに日が暮れかかっていた頃、金勝山から阿星山に行く途中で、また感じた。太郎は辺りを見回した。やはり、誰もいなかった。
一体、何なのだろうと太郎は思った。今日で百日行が終わるというのに、これでは、また、やり直さなくてはならない。
太郎は目を閉じ、その場に立ち尽くした。
「ここじゃよ」と声がした。
太郎は目をあけて、声のする方を見た。
老山伏が岩の上に座って笑っていた。
「大分、上達したようじゃのう」と老山伏は言った。
「あなたは、一体、何者です」と太郎は聞いた。
「見た通りの行者じゃ」
「あなただったんですね。三日前から、どこかで私を見ていたのは」
「ハハハ、そうじゃよ。しかし、三日前からではないぞ。お前が百日行を始めた時から、わしはどこかで見ておった。お前が気づかなかっただけじゃ」
「どうしてです。どうして、私を見ていたんです」
「どうしてかのう。おぬしのやる事を見てると面白いんじゃ。行をやめて、女に会いに行こうとしたり、化物に追いかけられているように逃げ回ったり、阿弥陀さんの前で居眠りしたり、わしの真似をして岩の上で座ってみたり、やる事が面白いんじゃよ、おぬしは」
「うるさい」と太郎は怒鳴った。
「そう、怒るな。わしの名は智羅天(チラテン)じゃ。わしは、いつでも、ここにおる。会いたくなったら、いつでも来い。わしのような年寄りでも、少しは、おぬしの役に立つかもしれんぞ」
そう言うと智羅天と名乗る老山伏は岩陰に消えた。
太郎はしばらく、その場に立ったまま、智羅天が座っていた岩をじっと見つめていた。
先頭を歩いているのは棒術師範代の西光坊元内だった。西光坊は岩の上でのんきそうに休んでいる太郎を見つけ、声を掛けて来た。
「太郎坊、そんな所で何してる」
「はい、皆さんが大勢、やって来たので踏み潰されないように、ちょっと避けたんです」
「おぬし、また、百日行を始めたらしいな」
「はい」
「まあ、頑張れよ」と言うと、西光坊は先に立って歩いて行った。
後にぞろぞろと付いて行く若い修行者たちは皆、太郎の方を見ながら歩き去って行った。
道は細く狭い。一人づつしか歩けない。二百人近くが通り過ぎるには、かなりの時間が掛かった。一番最後には剣術の師範代、中之坊円学が付き添っていた。
「太郎坊じゃないか」と中之坊は足を止めた。「何してるんじゃ」と西光坊と同じ事を聞いた。
「大蛇が通り過ぎるのを待っているんです」
「大蛇?‥‥‥おう、まさしく、大蛇じゃ。しかし、これでも、いくらか短くなったんだぞ。あと二十日あるんだが、終わる頃にはこの半分になるじゃろ」中之坊はそう言いながら、大蛇の尻尾の後を追って行った。
金勝山の方を見ると、ぞろぞろと黒い蛇が白い雪の中を進んで行くのが見えた。それを見ながら、太郎は大きく手を打つと笑い、岩を降りて行った。
太郎は、あの老山伏と同じ事をやって見ようと思い立った。彼らを途中で追い越し、竜王山と狛坂寺の間の岩の上に座って、皆が来るのを待っていてやろうと思った。
岩を降りると辺りを見回してみた。絶対、どこかに抜け道があるはずだと思ったが、雪に隠れてわからなかった。太郎は道に戻り、皆に気づかれないように後を追った。金勝寺に行く途中から道をはずれ、山の中に入って行った。金勝寺に寄らずに真っすぐ竜王山に向かえば、奴らを追い越せるだろう。雪をかぶった熊笹をかき分け、びっしょりになって山の中を抜けると、思った通り、金勝寺から竜王山へ向かう尾根道に出た。
竜王山の山頂に立つと、黒い大蛇が金勝寺から、こちらに向かって来るのが遠く見えた。太郎は山を下り、目的の岩に向かった。今度の岩は前より高かったが、登るのはそれ程、難しくはなかった。
太郎は岩の上に辿り着くと座り込んだ。
風が出て来た。太郎の着物はびっしょり濡れていた。その濡れている着物に風が当たり、凍るように冷たかった。
一体、俺は何をやってるんだろう、と太郎は思った。
皆を驚かそうと思って、山歩きの行を始めたのではないはずだった。こんな事では駄目だ。こんな事をやっていたのでは、高林坊に勝つ事などできるわけがない‥‥‥
皆が、ぞろぞろと近づいて来た。
太郎は道の方に背を向けて座り直し、目を閉じて、皆が通り過ぎて行くのを待った。
西光坊が声を掛けたが、太郎は答えなかった。
中之坊にも答えなかった。
皆が通り過ぎた後も、太郎は目を閉じたまま、じっと座っていた。
一体、俺は、どうしたらいいんだ。
太郎は岩から降りると、俯きながら山道を歩き出した。
狛坂寺の阿弥陀如来の前で座り込み、無心になって真言を唱えてみたが、答えは得られなかった。阿弥陀如来は、ただ、太郎を見下ろしているだけだった。
次の弥勒菩薩の前でも祈ったが、弥勒菩薩は太郎の事など完全に無視していた。
しょぼしょぼと太郎は山道を下りて行った。
観音の滝は凍っていなかった。白い水しぶきを上げて落ちていた。
太郎は十一面観音の前に座り込んだ。観音様は優しく微笑んでいた。
太郎は滝を見た。見るからに冷たそうだった。
太郎は錫杖と刀と法螺貝を祠の前に置くと、気合を入れて滝壷の中に入って行った。非常に冷たかった。体中を針で刺されたように痛かった。
太郎はもう一度、気合を入れると、滝の下に座り込んだ。氷の中に座り込んでいるようだった。滝の水は容赦なく、太郎の頭を刺すように落ちて来た。
太郎はもう一度、気合を入れ、両手を合わせ、滝の音に負けない程、大声で真言を唱え始めた。真言を唱えているうちに、体がカッカと燃えるように熱を持って来た。頭はボーッとしてきて、何も考えられなくなった。太郎は怒鳴るように、繰り返し、繰り返し、真言を唱えた。
太郎はまったく気づかなかったが、太郎が滝に打たれて無心になっている時、太神山から戻って来た西光坊率いる一行が太郎の姿を見ていた。
西光坊は滝に打たれている太郎を見て、声を掛けるのも忘れ、ポカンとしていた。そして、我に返ると西光坊は太郎に向かって合掌をし、真言を唱えた。西光坊に続く者たちも皆、太郎に合掌をして真言を唱えては去って行った。
太郎は我も忘れ、時も忘れ、滝に打たれ、真言を唱え続けていた。
モヤッとしていた頭の中が急に明るくなり、金色に輝く、観音様の姿が浮かび上がって来た。
「観音様、助けてくれ!」と太郎は心の中で叫んだ。
観音様が笑った。
やがて、それは、大笑いとなった。太郎を馬鹿にしたように観音様は大口を開けて笑っていた。
「やめてくれ!」と太郎は頭を横に振った。
大笑いの観音様は消え、牙を剥き出して怒っている観音様が現れた。
観音様は次々に顔を変え、だんだんと優しい顔になっていった。
そして、最後に、その顔は楓の顔になった。楓は優しく、太郎を見守りながら微笑んでいた。
「楓!」と太郎は心の中で叫んだ。
太郎は目を開けた。
いつの間にか雪が降っていた。
辺りはシーンと静まり返っている。
本当なら滝の音でうるさいはずなのに、不思議と静かに感じられた。
時が止まってしまったかのようだった。
「楓‥‥‥」と太郎は呟いた。
なぜ、急に、楓の姿が現れたのだろう‥‥‥
もしかしたら、楓の身に何か良くない事が‥‥‥
そう思うと、太郎はじっとしていられなかった。
滝から上がると、濡れた体のまま雪の降る中、沢に沿った道を楓のいる花養院へと走り向かった。
寒さや冷たさなど、一向に感じられなかった。
2
太郎は走り続けた。
途中で、刀や錫杖、法螺貝を滝に忘れてきた事に気づいたが、そんな事はどうでもよかった。とにかく、楓の事が心配で、雪の中、濡れた体で走り続けた。
花養院に着いた時には、すでに日は暮れ、門は閉ざされていた。
太郎は塀に飛び付き、乗り越えると、木陰に隠れながら本堂の裏の方にある楓のいる離れに向かった。窓から中を覗くと、楓は明かりの下で何かを書いていた。
太郎は小声で楓を呼んだ。
楓は顔を上げて窓を見た。
「俺だ」と太郎は言った。
「誰?」と楓は帯の所に手をやった。
「太郎坊だ。石つぶてはいらんよ」
「あなたなの、今頃、何してんのよ」
楓は窓に近づいて来た。
「ちょっと、入れてくれ」
「待ってて」と楓は入口の方に行った。
入口の戸を開けると太郎を素早く中に入れ、外を窺ってから戸を閉めた。
「どうしたの、一体。川にでも落ちたの、びっしょりじゃない」
「そんな事より、お前、大丈夫か」
「何が」
太郎は楓を上から下まで眺めた。
「ねえ、一体、どうしたの」
「良かった。大丈夫だったんだな」と太郎は言うと、ほっとして腰を落とした。
滝に打たれていたら、急に楓が出て来たので、心配になって飛んで来た事を説明した。
「この寒いのに、滝に打たれていたですって」楓は呆れて、ポカンと口を開けていたが、「風邪ひいたら、どうすんのよ」と心配した。
「大丈夫だ。そんな、やわじゃない」と太郎は言ったものの、安心して気が緩んだせいか急に寒くなって来た。
「ほら、みなさい。震えてるじゃない。風邪ひくわ。早く、その濡れたの、脱いでよ」
太郎は楓に言われるまま、濡れた着物を脱いだ。楓は乾いた手拭いと着物を持って来て、太郎に渡した。
「あたしのしかないけど我慢してね」と楓は言いながら目を伏せた。
太郎は体を拭きながら、楓を見て、「どうしたんだ」と聞いた。
「だって‥‥‥急に、裸になるんだもの‥‥‥」
「裸になれって言ったのは、お前だろう」
「それは、濡れてる物、着てたら風邪ひくからよ」と楓は言うと隣の部屋に隠れた。
「今日の楓は、いつもと違うぞ」と太郎は楓の着物を着ながら言った。
「この濡れたの、どうしよう」と太郎は聞いた。
「そこに置いといて、あとで、洗っておくわ」
「うん」と言いながら太郎は楓のいる部屋に上がった。楓は元の所に座っていた。
「どうしよう」と楓は俯きながら言った。
「何を」
「だって、見つかったら大変じゃない」
「何で」
「ここは尼寺でしょう。夜、男の人なんか部屋に入れたりして‥‥‥」
「そうか、お前に迷惑かかるな‥‥‥やっぱり、帰るわ」
「帰るって、その格好で」
「いや、また、あれを着るさ」
「風邪ひくわ」
「大丈夫だよ」と言ったが、太郎は大きなくしゃみをした。
「大丈夫じゃないわ」
「平気さ」と太郎は言ったが、急に寒気がして来た。
「何やってたんだ」と太郎は聞いた。
「仕事よ」
「俺に構わず、続けていいよ」
楓は顔を上げ、太郎を見た。
太郎は震えていた。
「風邪ひいたんじゃないの」
楓は太郎に近づくと、太郎の額に手を当てた。「凄い熱だわ」
「大丈夫だよ、すぐ帰る」と太郎は言って、楓の目を見つめた。
「駄目よ」と楓は言ったが、太郎の目から視線をそらせた。
太郎は楓を抱き寄せた。
「俺は楓が好きだ」と太郎は楓の耳元で囁いた。
楓は顔を上げて、太郎を見つめた。
「あたしもよ‥‥‥でも、駄目。あなたは今、修行中よ‥‥‥あたしの事なんか忘れて、修行しなくちゃ駄目」
「修行は修行。お前はお前だ」
「違うわ‥‥‥それより、凄い熱よ。寝た方がいいわ」
「帰る」と太郎は言った。「俺が、ここで寝るわけにはいかないだろ」
「あなたは病人よ。病人を追い出すわけにはいかないわ。まして、今、外は雪よ。そんな中、帰って行ったら、途中で倒れちゃうわ」
楓は太郎から離れると、隣の部屋に布団を敷き、太郎を無理やり寝かせた。台所に行き、水桶を持って来て、その中で手拭いをしぼると太郎の額の上に載せた。
「ゆっくり、休んでね」
「うん‥‥‥」
太郎は眠った。
目を開けると、楓はまだ、座り込んで何かを書いていた。
「楓」と太郎は力なく声を掛けた。
「どう?」と楓は聞いた。
「まだ、寝ないのか」
「もう少し」
「いつも、こんな遅くまで起きてるのか」
「‥‥‥寝るわ」と楓は明かりを吹き消した。
楓は着物を脱ぐと、太郎の隣に入って来た。
「大丈夫?」と楓は太郎の額に手を当てた。
太郎は楓を抱きしめた。
3
太郎の熱は、なかなか下がらなかった。
朝になり、楓は目を覚ますと、隣に寝ている太郎を見つめた。そして、額に手をやった。太郎の熱が楓の手に伝わって来た。
太郎は目をあけた。
「もう、朝か‥‥‥」と力のない声で言って、楓を見ると笑った。
太郎は手を伸ばすと楓を抱きしめた。力一杯、抱きしめたが、体中がだるくて力がでなかった。
「迷惑かけて、すまん‥‥‥」声がかすれていて、口の中がやたらと乾いていた。
「迷惑なんかじゃないわ」と楓は太郎を見つめながら言った。
「誰にも見つからないうちに帰る‥‥‥」
「駄目、まだ、熱が下がらない」
「平気さ」と太郎は体を起こそうとしたが、頭は重く、体は言う事を聞かなかった。
「無理をしちゃ駄目‥‥‥ね、ちゃんと治るまで、ここにいて‥‥‥じゃないと、あたし、心配で、心配でしょうがない」
太郎は頷いた。
楓は布団から出ると着替え、水桶の水を替えて手拭いをゆすぐと、太郎の額に載せた。
「寝てなきゃ、駄目よ」
太郎は楓の手を取って、楓を見上げていた。
楓は太郎の手を優しく包んだ。
「行くわ」と楓は言うと、太郎の手を布団の中に入れ、優しく笑うと出て行った。
太郎は楓を見送ると目を閉じた。
何も考える事ができなかった。頭の中はボヤッとしていた。そのボヤッとした中に、楓の優しい顔だけが浮かんでいた。
太郎は眠った。
どの位、眠ったのかわからないが、気がつくと側に楓が座っていて、太郎を見守っていた。
「どう?」と楓は聞いた。
「うん‥‥‥大分、良くなったみたいだ」
「そう、よかった」と楓は笑った。
「今、何時(ナンドキ)?」
「お昼頃よ」
「そうか‥‥‥」
「ねえ、何か、食べる?」
「いい」と太郎は首を振った。「いいのか。ここにいて」
「大丈夫。松恵尼様にあなたの事、話したわ‥‥‥そしたら、今日は休んでいいから、あなたの看病をしっかりやれって‥‥‥」
「俺が、ここにいても大丈夫なのか」
楓は頷いた。
「あたしもその事を聞いたの。そしたら、仏様の世界には男も女もないし、困っている人を助けるのが仏様の教えですって‥‥‥それに、あなたの事は風眼坊様からも頼まれているし、ちゃんと治るまで絶対に閉じ込めて置けって言ったわ」
「閉じ込めて置けか‥‥‥」
「お薬もいただいたわ。あなたのお師匠様が作ったお薬ですって‥‥‥」
「師匠の薬‥‥‥」
「良く効くらしいわよ。それに、松恵尼様が熱を下げるのに、一番いい方法っていうのを教えてくれたわ‥‥‥」
「護摩(ゴマ)を焚いて、祈祷でもするのか」
「ううん」と楓は首を振って、顔を赤らめた。「‥‥‥しっかりと抱き合うんですって‥‥それも、お互いに、全部、着物を脱いで‥‥‥」
「えっ? 松恵尼様がそんな事を言ったのか」
楓は顔を真っ赤にして、頷いた。「それが一番、自然なんだって‥‥‥そうすれば、すぐ、熱は下がる‥‥‥でも、二人は若いから逆に熱が出るかもしれないわねって笑ったわ」
「楓‥‥‥」と太郎は楓の手を取った。
「太郎坊様‥‥‥」と楓も呟いた。
「太郎でいいよ‥‥‥俺の本名は愛洲太郎左衛門久忠って言うんだ」
「愛洲太郎左衛門久忠‥‥‥お侍さんみたいね」
「侍だよ。山伏は仮の姿さ。本当の事を知ってるのは師匠しかいない。それと、お前だ」
「そうだったの‥‥‥」
「山伏の方が良かったかい」
「ううん、どっちでも同じよ。あなたに変わりはないわ‥‥‥それに、あたしもお侍の娘らしいわ。よく、知らないけど‥‥‥」
楓は太郎の額の手拭いを替えた。
「汗が凄いわ。着替えた方がいいわ。それに、何か、食べた方がいいわ」
「うん‥‥‥」
「ちょっと待っててね。おかゆを持って来るわ」
楓は水桶を持って出て行った。
太郎は楓の後姿を見ながら、何となく、心が休まるような気がした。体の調子は良くないが、久し振りに、のんびりと休んでいるような気がした。
二年前、曇天と一緒に京へ旅をして以来、ずっと、剣に熱中してきた。剣の事しか考えていなかった。毎日、朝早くから夜遅くまで剣を振っていた。のんびりと休む事など一度もなかった。今は熱を出して寝てはいるが、楓が側にいてくれるという事で、心は休まっていた。
乾いた着物に着替え、楓が作ってくれたおかゆを少しだけ食べ、師匠が作ったという苦い薬を飲むと太郎は、また、眠りについた。
次に目が覚めた時、もう、部屋の中は暗くなっていた。そして、太郎の横には何も身に付けていない楓が寄り添って寝ていた。
太郎は楓の体を抱き寄せた。柔らかくて、滑らかで気持ち良かった。太郎自身も何も身に付けていなかった。
「恥ずかしいわ」と楓は目を閉じたまま囁いた。
「ずっと、側にいてくれたのか」
楓は頷いた。
「そうか‥‥‥ありがとう‥‥‥」
「寝た方がいいわ‥‥‥」
太郎は楓を強く抱きしめた。
4
太郎の百日行が再び、始まった。
五日の間、太郎は楓と二人きりで夢のような楽しい日々を過ごした。
三日目には太郎の熱もやっと下がり、食事も取れるようになっていた。
四日目には布団から出て、木剣の素振りを軽く始めた。
五日目になると体の調子は元に戻って来ていたが、楓と別れたくないので、まだ、調子が悪いと言って、楓の部屋でゴロゴロしていた。
六日目の朝、太郎は楓を抱きながら、「また、熱が出て来たみたいだ」と言った。
「そう」と楓は言うと太郎の目をじっと見つめた。「あたしもよ。体中、熱が出てるわ」
「もう少し、休んでいた方がいいかな」と太郎が聞くと、「もう駄目」と楓は強く言った。
「もう駄目よ。あたしだって、あなたとずっと一緒にいたいわ。でも、これ以上、松恵尼様に迷惑かけられない。それに、あなただってちゃんと修行しなくちゃ駄目」
太郎は楓にそう言われても、楓と別れがたく、グズグズしていた。
楓はとうとう薙刀を持ち出して、太郎を追い出した。
「わかったよ、出て行く。俺はまた、百日行をやる」
「えっ、百日行‥‥‥」
「うん、百日間、お前と会えない」
「百日間も‥‥‥」
「ああ。百日間なんて、すぐさ」と太郎は言うと、素早く楓に近づき、楓を抱きしめた。そして、楓の秘所をまさぐり、離れると、薙刀を持ったままポカンと立っている楓を残して去って行った。
太郎は何も考えずに、ただ、歩く事だけに専念した。
楓の事は頭から離れなかったが、錫杖を鳴らしながら山の中を歩き続けた。夜が明ける前から夜遅くまで、ただ、山の中を歩いていた。
距離も延ばした。
今までは太神山の不動寺で折り返していたのを、さらに、太神山から矢筈ケ岳を通り、笹間ケ岳まで足を延ばした。以前は往復十三里(五十二キロ)だったのが、今度は十六里(六十四キロ)となった。のんびり歩いていれば飯道山に戻るのが深夜になってしまう。太郎は飛ぶような速さで山の中を走り回っていた。
やがて、冬が去り、春になった。
山は少しづつ変化して行った。
雪が溶け、草や木が芽を出し、緑が少しづつ増えていった。道端のあちらこちらに小さな花が咲き、山桜が見事に咲き誇った。
やがて、桜の花も散り、山はすっかり緑でおおわれた。
太郎の頭の中から、ようやく、楓の事も高林坊の事も消えてなくなった。
太郎自身、自然と一体化したかのように心は澄み切っていた。
八十五日目の朝を迎え、太郎は朝日を背に受けながら歩いていた。
森の中では色々な鳥たちが飛び回り、鳴いていた。
太郎は口笛で鳥たちに挨拶をした。
毎日、同じ道を歩きながらも、自然は毎日、違う姿を見せてくれた。
自然は生きている。そして、自分も生きている。ただ、生きているという事に喜びを感じ、また、自然という大きな力によって、自分が生かせて貰っているという事に感謝するようになっていた。
今まではただの義務感で、あちこちにある阿弥陀様や地蔵様、観音様に手を合わせ、真言を唱えていたのだったが、最近は感謝の気持ちを込め、心から真言を唱える事ができるようになった。
阿星山のお釈迦様に感謝を込めて祈ると太郎は金勝山に向かった。
天狗が座っていた。
太郎がこの前、座った岩の上に赤い顔をした天狗が座り込み、太郎の方を見ながら笑っている。
太郎は初め、その天狗は一年前に見た老山伏かと思ったが違っていた。体格が全然違う。老山伏は痩せ細っていて小さかったが、今、岩の上に座り込んでいるのはガッシリとした体格の男だった。
「太郎坊」と天狗は低い、かすれた声で言った。
「誰です?」と太郎は聞きながら、考えていた。
俺がこの前、あの岩に登ったのを知っているのは西光坊と中之坊だ。あの二人のうち、どちらかが俺をからかっているのだろうと思った。
「見た通りの天狗じゃ」と天狗は笑いながら言った。「この山にも天狗がいると聞いて、大峯からはるばるやって来たんじゃ」
大峯と聞いて、太郎にはピンと来た。
「師匠ですか」と太郎は聞いた。
天狗は笑いながら面を取った。面の下には懐かしい風眼坊舜香の顔があった。
「久し振りじゃのう」と風眼坊は太郎を見下ろしながら言った。「一年、見んうちにお前も立派になったもんじゃ」
「師匠‥‥‥」
師匠、風眼坊に会ったら、言いたい事や聞きたい事が一杯あったはずなのに、師匠の顔を見たら、太郎は懐かしくて胸が一杯になって何も言う事ができなかった。
「お前の事は色々と聞いたぞ。派手にやってるらしいな」
「いえ、そんな‥‥‥」
「冬の寒い中、七日間も滝に打たれていたそうじゃのう」
「えっ?」と太郎は驚いた。
「みんなが、お前の事を大した奴だ。まさしく、あいつは天狗太郎じゃと言っておる。若い連中は、皆、お前のようになりたいと修行に励んでいるそうじゃ‥‥‥それから、『天狗太郎と陰の五人衆』というのも聞いたぞ。ハハハ」
「七日間の滝打ちの行っていうのは誰が言ったんです」
「誰が? お山中、みんなが知っとるわい」
「そうですか‥‥‥」
不思議だった。どうして、そんな風な事になってしまったのだろうか。
滝に打たれたのはたったの一日だけだった。後は熱にうなされて楓の所にいた。錫杖や刀や法螺貝をあの滝の所に置きっ放しだったので、皆が誤解して、ずっと、あそこで修行していると思ったのだろうか。しかし、不思議だった。最初の日は皆に見られたかもしれないが、後の六日間は見られるはずがない‥‥‥
一体、どうしたのだろう。
皆は俺の幻でも見ていたのだろうか。
「今日で何日目じゃ」と風眼坊が聞いた。
「八十五日目です」
「後、十五日か‥‥‥とにかく、今は、この行をやりとげる事だな。それからじゃ、後の事を考えるのは‥‥‥今日は久し振りにお前と歩くか」
風眼坊は岩の上から消え、太郎の前に現れた。
「楓との事も聞いたぞ」と風眼坊は太郎の肩をたたいて笑った。
「あれはいい女子じゃ、大事にしろよ」と言うと、風眼坊は先に立って歩き出した。
太郎は風眼坊の後を追った。風眼坊は相変わらず歩くのが速かったが、どうにか一緒に歩けるようになっていた。
風眼坊の後ろ姿を見ながら、太郎は一年前、風眼坊に連れられて、五ケ所浦から飯道山に向かう山歩きを思い出した。あの時は悲惨だった。足が棒のようになり、泣きながら風眼坊の後を追っていた。
あれから色々な事があった。五ケ所浦にいたら、一生、経験できないような事ばかりだった。
金勝山の千手観音の前で、風眼坊と太郎は並んで真言を唱えた。
「太郎坊」と風眼坊は金色に輝く千手観音を見上げながら言った。
「はい」と太郎は風眼坊を見た。
「おぬし、あのように手が千本あったとしたら、その手を自由に扱う事ができるか」
「えっ?」と太郎は千手観音を見上げた。
「よく見ろ。あの千本の手は皆、違う物を持っておる。宝剣とか羂索(ケンサク)とか宝珠、鉄斧、弓、槍、錫杖、五色雲とか、皆、役割が違う。必要な時に、必要な手を動かさなければならないわけじゃ。お前にはそれができるか。例えば、その蓮華の花を持っている手、その手を迷わず、前に差し出す事ができるかな」
太郎は千手観音の千本の手を見ながら考えていた。
「それがわかれば、お前の剣も本物になるじゃろう。あと十五日かけて、ゆっくりと考えてみろ」
「はい‥‥‥」
金勝寺を出ると風眼坊と太郎は竜王山、観音の滝と通り、太神山へと向かった。
太神山の不動明王の前で、太郎は風眼坊に聞いた。
「不動明王の持っている剣は一体、何を斬るんです」
風眼坊は太郎を見ながら、「さあな」と言った。「そんな事、わしも知らんのう。お不動さんに聞いてみろ」
風眼坊はとぼけていた。
二人は太神山からさらに進み、愛染(アイゼン)明王を祀る矢筈ケ岳を通り、摩利支天を祀る笹間ケ岳へと来た。
「ここで別れる」と風眼坊は言うと琵琶湖の方に下りて行った。
「今度は、いつ、来てくれますか」と太郎は聞いた。
「お前の行が終わった頃、また来る」
風眼坊は走るように山を下りて行った。
太郎は道を引き返した。
5
楓は薙刀を持ったまま、ぼうっとしていた。
今日で九十日目、後十日で太郎の百日行は終わりだった。
また、無茶をして熱を出したりしてないかしら。
無事に終わってくれるといいんだけど‥‥‥
楓は太郎の事で頭が一杯だった。
「お師匠様」とアカネという娘が声を掛けた。
アカネは楓の教え子の中で一番年長の十五歳だった。楓は今、十二歳から十五歳までの娘たち、十八人を教えている。皆、近所の郷士の娘たちである。
「お師匠様」とアカネがもう一度、声を掛けた。
楓はようやく、我に返って、アカネの方を向いた。
「終わりましたけど」とアカネは言った。
楓は皆に形の稽古をさせていた。それが終わったとアカネは言った。
「そう」と楓は答えた。
「お師匠様、最近、変ですよ。どうしたんですか」とアカネが心配そうに聞いた。
「何でもないわ」
「お師匠様、最近、太郎坊様、全然、見えませんね。どうしたんでしょう」と美代という女の子が言った。
「今、太郎坊様は忙しいのよ」
「いくら、忙しいったって変よ」とサヤという娘が言った。「もう、三ケ月以上、顔を見せないわ。前は、ちょくちょく来てたのに」
「きっと、お師匠様の石つぶてにやられたのよ。それに懲りて、もう、来ないのよ」とミツという娘は言う。
「それは違うわ。お師匠様は太郎坊様には石つぶては投げないわ。お師匠様だって太郎坊様の事、好きなのよ」と美代は言った。
「だったら、おかしいわ。どうして、来なくなったの」とマキが聞く。
「もしかしたら、もう、お山にいないんじゃない。用があって、どこかに行ってるのよ」とサヤは言った。
「そうね、そうよ、きっと」
「お師匠様が可哀想、太郎坊様、早く帰って来ればいいのに‥‥‥」
娘たちは、みんなして勝手な事ばかり話していた。
「黙りなさい」と楓は言った。
「だって‥‥‥」と美代は悲しそうな顔をして、楓を見上げた。「お師匠様が、あまり、元気ないから、みんなで心配してるのに‥‥‥」
「ありがとう。でも、あたしは大丈夫よ」
「本当に、太郎坊様はどうしたのかしら」
「みんなの言う通り、ちょっと出掛けてるの。でも、あと十日位したら帰って来るわ」
「ほんと?」
「ほんとよ」
「良かった」と娘たちは、また、キャーキャー騒ぎ出した。
「静かにしなさい‥‥‥それでは、今度は二人づつ組になってお稽古しましょう」
娘たちは、また稽古を始めた。
楓は皆の稽古を見て回った。
今日は松恵尼は留守だった。
最近、松恵尼はやたらと、どこかに出掛けていた。どこに行くのかわからない。一日で帰って来る時もあれば、二、三日、留守にする事もある。楓が聞いてもはっきりと教えてくれない。今、京で戦が続いているから、やたらと忙しいと言う。何がどう忙しいのか、楓にはわからないが、確かに松恵尼は忙しそうだった。寝る暇もない位、動き回っていた。
この花養院には松恵尼の他にもう一人、尼さんがいた。春恵尼という三十歳前後の物静かな婦人だった。彼女がここに来て、もう二年位経つ。彼女はほとんど出掛けない。暇さえあれば写経をしていた。戦で家族を亡くし、たった一人になり、出家したのだと言う。
今、春恵尼は客の接待をしていた。最近になって、この寺に訪れる客の数も増えて来た。それも、遠くの方から来る旅の客が多い。僧侶や尼僧もいるが、商人の数も多い。時には、偉そうな侍が来る事もあった。
先程、来たのも侍だった。供を二人連れて、馬に乗って訪ねて来た。急いで来たとみえて、三頭の馬は汗びっしょりだった。
「松恵尼様は留守です」と楓は言ったが、侍は、「構わん、春恵尼殿はいるか」と言った。
初めて見る侍だったが、春恵尼の事を知っていた。楓は春恵尼に会わせた。もう、半時(一時間)以上経つのに、まだ、侍たちは帰らなかった。何やら話し込んでいるらしい。もしかしたら、春恵尼が出家する前の知り合いなのかもしれない、と楓は思った。
稽古を終え、娘たちを帰すと、楓は夕食の支度を始めた。
三人の侍が帰ると入れ違いに松恵尼は帰って来た。
夕食を終え、雑用を済ますと楓は離れの自分の部屋に戻った。
一人になると、また、太郎の事が頭に浮かんで来た。
太郎がこの部屋を去って百日行を始めたその日から、楓は太郎の無事を祈って、毎朝、水垢離(ミズゴリ)を始めた。今は、もう、それ程でもないが、冬の寒い中、水を浴びるのは辛かった。それでも、太郎の事を思いながら毎朝、休まず続けた。
あと十日、あと十日で、二度目の百日行が終わる‥‥‥
どうか、無事でいて下さい。
楓は机の前に座り込んだまま、ぼうっとしていた。
6
山の緑を糸のような細い雨が濡らしていた。
いよいよ、太郎の百日行は、今日で最後となった。
太郎は、この山歩きの百日行を高林坊の高く厚い壁を打ち破るために始めた。しかし、焦り過ぎた。答えを早く得ようとして、冬の寒い中、凍るような滝に打たれた。
十一面観音に縋り、一心に答えを求めた。身も心も冷えきり、答えが得られないと、観音様よりも生身の人間、それも、暖かく自分を迎え入れてくれる楓を求めた。
太郎は楓に縋った。
楓は優しかった。
太郎は高林坊の事も剣の事もすっかり忘れ、楓と二人だけの平和で楽しい世界に遊んだ。高林坊の事は確かに忘れる事はできたが、それは、ただ、忘れただけで、何の解決にもならなかった。
太郎は再び、百日行を始めた。
初めの一ケ月、太郎は楓に悩まされた。
山歩きをしながら、楓の事が頭から離れなかった。
楓の優しい笑顔、太郎を見つめる素直な目。
「太郎様」と呼びかける楓の声。
そして、柔らかく、滑らかで、温かい楓の身体‥‥‥
「これじゃ、いかん。女の事は忘れろ!」と思っても、いつの間にか、楓の事を思いながら歩いていた。
山歩きなんかやめて、楓の所に行こう、と何度、山を下りかけたかわからない。太郎がその都度、山を下りなかったのは、やはり、楓のお陰だった。楓の所に行こうと山を下りかけると、いつも、優しく微笑みかけている楓の顔が急に冷たくなった。太郎に背を向け、遠くに去って行こうとする。すると、太郎は我に返り、山道に戻った。
二ケ月目に入り、楓の幻が消えると、再び、高林坊が現れた。
仁王立ちした高林坊が太郎を見下ろして笑っている。その笑い声までが太郎を悩ませた。
太郎は高林坊の幻から逃げるように山の中を走り回っていた。寝ても覚めても、高林坊は付いて回った。寝ていれば高林坊の幻に押し潰されそうになり、山を歩けば追いかけて来た。
三ケ月目になると、高林坊と楓が代わる代わるに出て来た。
高林坊は棒を振り上げ、追いかけて来る。楓は山の下の方から手招きをした。太郎はまた、山を下りようとした。すると、今度は、師匠、風眼坊の姿が現れた。風眼坊は太郎を見ながら笑っていた。
「師匠、俺は、どうしたらいいんです」と太郎は叫んだ。
風眼坊はただ、笑っているだけだった。
次に、父、愛洲隼人正宗忠が出て来た。父は槍を持ち、軍船の船首に立ち、太郎の方を見ていた。
「父上!」と太郎は叫ぶと山道に戻った。
中途半端な修行で、父の前に帰る事はできなかった。
太郎はまた、高林坊の幻に追われながら山道を走るように歩いた。
八十日目だった。その日は霧が深かった。
太郎は逃げるように山を歩き、いつものように真言を唱えるべき所に座って真言を唱えていた。
急に、辺りが明るくなり、静かになった。
不思議と太郎を悩ましていた幻も消えた。
太郎は顔を上げた。
そこには不動明王が立っていた。太神山の不動明王だな、と太郎は改めて思った。
太郎は不動明王を見上げた。
不動明王は右手に剣を持ち、左手に羂索を持ち、火焔(カエン)を背負っている。
太郎の脳裏に、突然、閃くものがあった。
不動明王の剣‥‥‥それは、心の迷いを断ち斬る剣である‥‥‥
心の迷い‥‥‥心というのは不思議なものだった。高林坊の幻も、楓の幻も、皆、心の迷いから生じるものだった。
太郎は不動明王に合掌をした。
太郎は新しく生まれ変わったような気がした。今まで身にまとっていた不要な物が、すっかり取れ、身も心も自由になったような気がした。
太郎は本堂の外に出た。
霧がゆっくりと引いて行くのが見えた。そして、毎日、見慣れていた風景が目に映った。しかし、それは、まったく違う風景のように目に入った。
急に、視野が広くなったように感じられた。
太郎は山道を歩いた。
幻は付いて来なかった。
八十五日目に師匠と会い、千手観音の手の事を聞かされた。聞かれた時は、すぐに答える事はできなかったが、やがて、答えは出た。やはり、心に関するものだった。
それは、一つの事に心を囚われてはならないという教えだった。一本の手に心を囚われると、残りの九百九十九本の手がおろそかになって使えなくなる。常に、千本の手に心を止めていなければならない。また、千本の手だけに心を止めてもいけない。心を止めれば、足や顔がおろそかになる。全身、すべてに心を置かなければならない‥‥‥
そう、師匠は俺に教えたかったのだろうと思った。
いよいよ、最後の日、雨は降っているが、太郎は楽しみながら山を歩いていた。しかし、三日前から変なものを感じていた。誰かがどこかから、自分の事をじっと見ているような気がしてならなかった。そう感じると、太郎はすぐに立ち止まり、辺りを見回すが、どこにも誰も見当たらなかった。
修行を積んで幻は退治したはずなのに、また新しい幻が出て来たのか、と太郎は思った。それとも、師匠が俺をからかっているのか、とも思った。師匠なら見つけ出してやろうと思うのだが、捜しても、どこにも誰もいなかった。
今日も金勝山から竜王山に行く途中で、それを感じたが誰もいなかった。そして、帰り道、雨も上がり、すでに日が暮れかかっていた頃、金勝山から阿星山に行く途中で、また感じた。太郎は辺りを見回した。やはり、誰もいなかった。
一体、何なのだろうと太郎は思った。今日で百日行が終わるというのに、これでは、また、やり直さなくてはならない。
太郎は目を閉じ、その場に立ち尽くした。
「ここじゃよ」と声がした。
太郎は目をあけて、声のする方を見た。
老山伏が岩の上に座って笑っていた。
「大分、上達したようじゃのう」と老山伏は言った。
「あなたは、一体、何者です」と太郎は聞いた。
「見た通りの行者じゃ」
「あなただったんですね。三日前から、どこかで私を見ていたのは」
「ハハハ、そうじゃよ。しかし、三日前からではないぞ。お前が百日行を始めた時から、わしはどこかで見ておった。お前が気づかなかっただけじゃ」
「どうしてです。どうして、私を見ていたんです」
「どうしてかのう。おぬしのやる事を見てると面白いんじゃ。行をやめて、女に会いに行こうとしたり、化物に追いかけられているように逃げ回ったり、阿弥陀さんの前で居眠りしたり、わしの真似をして岩の上で座ってみたり、やる事が面白いんじゃよ、おぬしは」
「うるさい」と太郎は怒鳴った。
「そう、怒るな。わしの名は智羅天(チラテン)じゃ。わしは、いつでも、ここにおる。会いたくなったら、いつでも来い。わしのような年寄りでも、少しは、おぬしの役に立つかもしれんぞ」
そう言うと智羅天と名乗る老山伏は岩陰に消えた。
太郎はしばらく、その場に立ったまま、智羅天が座っていた岩をじっと見つめていた。
17.太郎と楓
1
百日行が終わると、太郎は自由の身となった。
一応、一年間の修行というのは、すでに終わっていた。これで、大っぴらに山を下りる事もできるようになった。今までも、山を下りたい時は勝手に下りてはいたが、これからは堂々と表参道を歩ける身分となった。
百日行が終わった次の日の朝、太郎は高林坊のもとに行き、立ち合いを願った。高林坊は快く受けてくれた。
二人は、まだ誰もいない道場に行き、高林坊は棒、太郎は木剣をそれぞれ構えた。
太郎は木剣を百日振りに持ったのだったが、違和感はまったくなかった。木剣がまるで、自分の体の一部のように感じられた。
高林坊はこの前と同じように、自分の目の前に杖を突いたような格好に構えた。
太郎は力まず、自然な形で中段に構えた。
以前のように、高林坊の姿が大きく見える事はなかった。
二人はしばらく、構えたまま動かなかった。
森の中で閑古鳥(カッコウ)が鳴いていた。
時が止まってしまったかのように、太郎も高林坊も動く事はなかった。
「これまでじゃな」と高林坊は言うと、構えを解いて六尺棒を引いた。
太郎も木剣を引いた。
「良くやった」と高林坊は笑った。「とうとう、わしを追い越したな。今のお前にかなう奴はいないじゃろう。たった一年で、これ程になるとはのう。大した奴じゃのう、おぬしは‥‥‥それで、これから、どうするつもりじゃ。もう、お山を下りても構わんのだぞ」
「はい‥‥‥もう少し、このお山で修行したいと思っています」
「うむ、それもいいじゃろう。修行に終わりというものはないからの」
その日の夕方、棒術の稽古が終わり、修徳坊に戻ると年寄りが一人、太郎を待っていた。年寄りは言伝を頼まれたと太郎に手紙を渡すと帰って行った。
手紙を開けると、それは師匠、風眼坊からだった。今、花養院にいるから、すぐに来いと書いてあった。
太郎は飛ぶように山を下りて行った。
花養院の門の前に立ち、本堂の屋根を見上げると、屋根の上に師匠、風眼坊舜香が座っていた。
「師匠!」と太郎は屋根に向かって叫ぶと、裏に回って屋根の上に登り始めた。
「いい眺めじゃのう」と風眼坊は夕日を眺めながら言った。
「はい」と太郎も風眼坊の隣に腰掛けた。
「百日行は、うまく、行ったか」と風眼坊は聞いた。
「はい、今朝、高林坊殿と立ち合いました」
「ほう、高林坊とか、それで?」
「お互い、構えただけで終わりました」
「成程な‥‥構えただけで終わったか‥‥‥もし、打ち合っていたら勝てたと思うか」
「いえ、多分、相打ちだったと思います」
「だろうな‥‥‥しかし、大したもんじゃよ。一年間で、これ程、強くなるとは、わしも思ってもみなかったぞ」
「師匠、智羅天という山伏を知ってます?」
「智羅天? 何じゃ、そりゃ」
「阿星山の辺りに住んでいる老山伏です。わたしが百日行をやっている間、ずっと、どこかから見ていたそうです。そして、最後の日、姿を現して智羅天と名乗りました」
「智羅天か‥‥‥そう言えば、京の愛宕山に昔、明の国から渡って来た智羅天永寿とかいう天狗がいたと聞いた事はあるが、まさか、その天狗ではあるまい。一体、どんな奴だ」
「白髪で白い髭を伸ばした老人です。天狗というよりは仙人みたいな人です」
「ほう、仙人か‥‥‥この山には色んなのが住んでおるのう。そのうち、鬼も出て来るかもしれんのう」風眼坊は笑った。
「どうも、気になります」と太郎は真面目な顔で言った。
「そうか‥‥‥気になるなら正体をつかんでみるさ。世の中には色々な奴がおる。色々な奴がおるから面白いんじゃ。その智羅天という老人も、お前の修行の役に立つかもしれん。会って、正体を見極めるんじゃな‥‥‥それより、今夜はお前のお祝いじゃ。二度目の百日行も終わり、一年間の修行も終わった。久し振りに、酒でも飲んで夜を明かそうぜ、太郎坊移香殿」
屋根から降りると風眼坊は、「楓殿を連れて来い」と言った。
「えっ?」
「何が、え、だ。会いたくてしょうがなかったんじゃろう。早く、連れて来い」
「はい。でも、どこに行くんです」
「酒を飲みに行くんじゃ。ここでは、大っぴらに飲めんからな」風眼坊は陽気に笑った。
太郎は楓の離れに行った。
窓から、そっと覗くと楓はいなかった。まだ、仕事が終わっていないようだった。
太郎は庫裏(クリ)の方に向かい、台所を覗いた。春恵尼という尼僧がいたが楓の姿は見えなかった。寺務所の方かな、と思い、庫裏の表の方に向かった。縁側の横を通る時、寺務所にいる楓の姿が見えた。うまい具合に寺務所に松恵尼はいないようだった。
太郎は入り口から入らず、庫裏の裏に回って寺務所の窓から中を覗いた。
楓は机の前に座り、明かりも点けないで、ぼんやりとしていた。
「楓」と太郎は窓から声を掛けた。
楓は振り返り、窓の方を見ると、「太郎様、あなたなの」と言って走り寄って来た。
「良かった。百日行は無事、終わったのね」
「終わったよ、無事に終わった」
「良かった‥‥‥」と楓は言って、微笑んだ。
太郎は楓を見ながら頷いた。
楓の笑顔を見て、改めて、百日行がやっと終わったという実感がこみ上げて来た。そして、苦しかった百日間が楓の笑顔によって報われたような気がした。
二人はいつまでも見つめ合っていた。お互いに話す事はたっぷりあるのに、それは言葉にはならなかった。窓越しに、ただ相手を見つめるだけで、お互い、相手の気持ちがすべてわかり合えた。
今の二人に言葉はいらなかった。
楓の目がだんだんと潤んできた。
楓は顔を隠すようにして、「どうして、そんな所から、顔出すの」と笑った。
「松恵尼様に怒られると思って‥‥‥」
「松恵尼様は今、出掛けていて留守よ」
「いないのか‥‥‥」
「ねえ、あたしの部屋で待ってて、すぐ、行くわ」
「楓」と太郎は呼んだ。
楓は目を拭きながら太郎を見た。
「これから、出掛けなけりゃならないんだ」と太郎は言った。
「出掛ける? 今、すぐ?」
「そう。そこで師匠が待ってるんだ。お前も一緒に行く」
「風眼坊様が? あたしも? どこへ」
「わからん。わからんけど、俺のお祝いをやってくれるんだそうだ。お前も連れて来いって」
「そう‥‥‥じゃあ、ちょっと待ってて、春恵尼様に言って来る」
二人が揃って門の所に行くと風眼坊はいなかった。
「師匠!」と太郎は辺りを見回しながら呼んだ。
「ここじゃ、ここじゃ」と声がした。
風眼坊は松の木の枝の上で横になっていた。
「待ちくたびれたぞ。久し振りに会ったんで嬉しい気持ちはわかるがの、待つ方の身も考えろ」
「すみません」と太郎と楓は揃って謝った。
「まあ、いい。それにしても、楓殿はまた一段と綺麗になったのう。恋する娘は綺麗になると言うが本当じゃのう」
「やだ、風眼坊様ったら‥‥‥」
「さて、行くか。向こうも待ちわびておるじゃろう」
風眼坊は松の木から飛び降りると先に立って歩いて行った。
太郎と楓は並んで風眼坊の後を追った。
「おかしい」と楓は太郎に言った。
「何が」
「あなたとお師匠の風眼坊様、やる事がそっくり。屋根の上に登ったり、木の上に登ったり、二人ともお猿さんみたい」
「おい、何、二人でコソコソやってんだ」風眼坊は背中を向けたまま言った。
「師匠、どこに行くんです」
「もうすぐじゃ」
風眼坊に案内されて行った所はたんぼの中の一軒屋の大きな農家だった。
風眼坊が門をたたくと門が開き、老人が顔を出した。つい先程、山まで来て太郎に風眼坊からの手紙を渡してくれた、あの年寄りだった。
「どうぞ、御主人様がお待ちしております」と老人は言って、三人を門の中に入れた。
手入れの行き届いた庭に紫陽花の花が見事に咲いていた。
「楓殿、ここが誰の家か御存じかな」と風眼坊が聞いた。
「いえ、知りません」
「そうか、まだ、知らなかったか」
三人は老人の案内で客間に通された。
中央の囲炉裏が赤々と燃えていいて、部屋の中は程よく暖まっていた。壁に訳のわからない字の書いてある掛軸が掛かっている。
太郎にはその字を読む事はできなかったが、素晴らしい字だという事はわかった。
「少々、お待ち下さい」と言うと老人は下がって行った。
「師匠、あの男、ただ者ではありませんね」と太郎は言った。
「わかるか」
「はい。百姓のなりはしていますがあれは武士です」
「まあ、そういう事じゃな」
「一体、ここは、どなたの家なのですか」
「そう、焦るな。そのうち、主人が出て来る」
まず、小女たちによって料理が運ばれて来た。それは、山の幸から海の幸まで揃った贅沢な料理だった。
「さすがじゃのう」と風眼坊でさえ豪華な料理に感心していた。「やる事がでかいわい。太郎、これはみんな、お前ら二人のための料理だぞ。どうじゃ、全部、食えるか」
「いえ、とても‥‥‥」
楓は今まで見た事もない凄い料理を目の前にして、おどおどしていた。
一体、ここの主人というのはどんな人なんだろう。
きっと、偉いお人に違いない‥‥‥
「師匠、今、お前ら二人のためと言ったようでしたが」と太郎は聞いた。
「ああ、言ったぞ」と風眼坊は大口を開けて笑った。
太郎と楓は顔を見合わせた。
「お前らの祝言(シュウゲン)じゃ」と風眼坊はポツリと言って、太郎と楓の顔を見た。
「えっ?」と太郎は驚く。
「何か、文句あるのか」
「俺はまだ修行中です。祝言なんて考えた事もありません」
「何が修行じゃ。人間、一生、修行じゃわい。女と一緒になって、できない修行なら、そんな修行、やめちまえ。また、男にとって女というのは一番大切な修行じゃ。楓殿の方はどうじゃな」
「えっ? あたし‥‥‥あたしも祝言なんて、まだ‥‥‥」
「そうか、まだ、二人には早すぎたか‥‥‥じゃあ、やめるか」
「いえ」と太郎は慌てて首を振った。
「どうした」
「やります」
「楓殿は?」
「はい‥‥‥お願いします」と楓は小さな声で俯いたまま言った。
「これで決まった。めでたし、めでたしじゃ。松恵尼殿もこれで安心じゃ。天狗がちょくちょく、寺に入って来て困ると言っておったぞ」
太郎と楓は急におとなしくなり、かしこまって座っていた。
「何を今さら、固くなっておる。楽にせい、楽にせい」
風眼坊は二人を見ながら、嬉しそうに笑っていた。
「どうも、お待たせしました」と、ここの主人が入って来た。
太郎も楓も目をみはって主人を迎えた。予想に反して、この家の主人は美しい女主人であった。
「奈美殿じゃ」と風眼坊は紹介した。
「ホホホ」と笑いながら、奈美は風眼坊の隣に座った。
太郎と楓は、まさか、ここの主人が女だとは思ってもいなかったので、キョトンとしながら奈美を見ていた。
「二人とも、何という顔をしておるんじゃ。今、初めて会ったわけでもあるまいし」
「えっ? 師匠、何、言ってるんです‥‥‥」
「あっ!」と楓が叫んだ。「松恵尼様!」
「やっと、わかったようじゃな」と風眼坊が言って、奈美と顔を見合わせて笑った。
太郎は目の前にいる婦人が松恵尼だと言われても、まだ、ピンと来なかった。尼僧の姿しか見た事なかったし、太郎にとって何となく苦手な存在だった。目の前に座っているのは、どう見ても尼僧には見えず、立派な武将の奥方という感じだった。また、まぶしい程、美しい女性であった。
「松恵尼様、これは、どういう事です」と楓は聞いた。
「ホ、ホ、ホ、これが、わたしのもう一つの姿なのよ」
「一体、どういうわけなんです」と太郎も聞いた。
「それは、そのうちわかるでしょう。とにかく、今日は太郎坊様のお祝い、楽しく過ごしましょう」
「奈美殿、それが、こいつら二人のお祝いになったんじゃ」と風眼坊が笑いながら奈美に告げた。
「えっ、何です」と奈美は風眼坊を見てから、太郎と楓を見た。
「奈美殿に無断で決めたのは悪かったがのう。二人を見ているともう、どうにもならんわい。早いとこ、一緒にしてしまおうと思っての」
「祝言ですか」
「まあ、そういう事じゃ。どうじゃろうかのう」
「そうですねえ‥‥‥」と奈美は太郎と楓の顔を見比べてから笑った。「どうしようもないでしょうね。楓の頭の中には太郎坊殿の事しかないようですしね」
「楓殿、良かったのう、お許しが出たぞ」
「はい」と楓は顔を赤くして、太郎をちらっと見ると目を伏せた。
「あと問題は太郎の方じゃが‥‥‥まあ、自分の事は自分でやるじゃろ、のう、太郎」
「はい、大丈夫です」と太郎は張り切って答えた。
と言うわけで、略式だが、太郎と楓の祝言がひそやかに行なわれた。
式が終わると、「今宵はめでたい。めでたいのう」と風眼坊は太郎に酒を注いだ。
「どうじゃな、太郎、今の気分は」
「はい、何というか‥‥‥雲の上にでも乗ったような‥‥‥」
「ほう、雲の上か‥‥‥」
「太郎坊殿、楓を泣かせるような事をしたら、私が承知しませんぞ」と奈美が怖い顔をして太郎を睨んだ。
「はい、かしこまりました」と太郎は身を固くした。
「さて、太郎、これからの事だがどうするつもりじゃ」風眼坊が奈美の酌を受けながら聞いた。
「はい、もう少し、お山で修行しようと思っています」
「もう、お山にはおぬしにかなう奴はおらんじゃろう」
「でも、せっかくですから、棒、槍、薙刀も身に付けたいと思っています」
「そうか‥‥‥まあ、自分で納得するまでやるのがいいじゃろう」
「それと、師匠、わたしに薬の事を教えて下さい」
「何? お前、薬売りをやるのか」
「はい、やはり、食って行くためには‥‥‥」
「楓殿と一緒になったからには、食い扶持だけは必要というわけじゃな」
「太郎坊殿、それは大丈夫です」と奈美が穏やかな顔をして言った。「当分の間は楓に薙刀を教えてもらいますから、太郎坊殿は心行くまで修行しなさい」
「すみません、お願いします」と太郎は頭を下げた。
「薬の事ならお山に専門家がおる。わしが紹介してやろう」
「お願いします」と太郎は、また、頭を下げた。
「さてと、目の前にこれだけの料理があるんだ。食べて、飲んで、楽しくやろう」
「さあ、皆さん、遠慮しないで召し上がって」
四人は囲炉裏を囲んで、楽しい一時を過ごしていた。
風眼坊は旅の話などを面白おかしく話して、皆を笑わせた。
「そう言えば、この間、京に行った時、珍しい男に会ったぞ」と風眼坊は言った。「奈美殿も知っておるじゃろう、伊勢新九郎じゃよ」
「新九郎殿‥‥‥はい、覚えておりますよ。あなたと同郷のお方でしょ。あの人も変わったお人でしたねえ」
「変わっておると言えば変わっておるかのう。奴も備中の一揆騒ぎの時、故郷に帰っていたそうじゃ。なぜか、備中では会えなかったんじゃが、京でひょっこり会った。その前に会ったのも京じゃったな。もう十年近く前じゃ。十年振りに会ったというのに、奴は全然、変わってなかったぞ」
「フフフ」と奈美は笑った。「人の事なんて言えるんですか。あなただって全然、変わってないでしょ」
「まあ、そう言やそうじゃな。月日の経つのは早いもんじゃ‥‥‥あまりに早過ぎて、変わっている暇もなかったわい‥‥‥そう言う奈美殿が一番、変わっとらんぞ。いつまで経っても若いままじゃ」
「そんな事はありませんわ。それで、新九郎殿は今、何をしてらっしゃるんですか」
「何もしとらんよ。浪人じゃ」
「でも、前は公方様にお仕えしていたとか‥‥‥」
「公方は公方でも今出川殿(足利義視)じゃ。新九郎も愛想を尽かして別れたんじゃろう」
「そうだったんですか」
「ところがな、奴の妹というのが駿河の今川治部大輔(ジブダユウ、義忠)殿の所に嫁いだそうでな、奴も駿河の方にでも行ってみるかと言っておったぞ」
「そうですか‥‥‥新九郎殿の妹さんが今川殿へ‥‥‥」
「師匠、伊勢新九郎殿なら俺も知っています」と太郎は口を挟んだ。
「なに?」と風眼坊は驚いた顔して太郎を見た。
「二年前、俺が友と二人で京に出た時、途中で伊勢殿に会い、京まで一緒に旅をしました」
「そいつは本当なのか」と風眼坊が聞くので、太郎は伊賀越えの峠で出会った時から京に入るまでのいきさつを簡単に説明した。
太郎の話を聞きながら、「まさしく、そいつは新九郎じゃ」と風眼坊は納得した。「それじゃあ、わしと会う前にお前は新九郎に会っていたんじゃな。世の中、広いようで狭いもんじゃのう。太郎が新九郎を知っておったとはのう‥‥‥こいつは驚いた」
風眼坊は新九郎の事を色々と話してくれた。
新九郎も若い頃、飯道山で修行した事があり、剣術の腕も人並み以上だが、特に、弓術と馬術は天下一品の腕を持っている、と風眼坊は言った。
夜も更け、宴も終わり、太郎と楓は隣の部屋に案内されて、二人だけの甘い夜を過ごした。
手紙を開けると、それは師匠、風眼坊からだった。今、花養院にいるから、すぐに来いと書いてあった。
太郎は飛ぶように山を下りて行った。
花養院の門の前に立ち、本堂の屋根を見上げると、屋根の上に師匠、風眼坊舜香が座っていた。
「師匠!」と太郎は屋根に向かって叫ぶと、裏に回って屋根の上に登り始めた。
「いい眺めじゃのう」と風眼坊は夕日を眺めながら言った。
「はい」と太郎も風眼坊の隣に腰掛けた。
「百日行は、うまく、行ったか」と風眼坊は聞いた。
「はい、今朝、高林坊殿と立ち合いました」
「ほう、高林坊とか、それで?」
「お互い、構えただけで終わりました」
「成程な‥‥構えただけで終わったか‥‥‥もし、打ち合っていたら勝てたと思うか」
「いえ、多分、相打ちだったと思います」
「だろうな‥‥‥しかし、大したもんじゃよ。一年間で、これ程、強くなるとは、わしも思ってもみなかったぞ」
「師匠、智羅天という山伏を知ってます?」
「智羅天? 何じゃ、そりゃ」
「阿星山の辺りに住んでいる老山伏です。わたしが百日行をやっている間、ずっと、どこかから見ていたそうです。そして、最後の日、姿を現して智羅天と名乗りました」
「智羅天か‥‥‥そう言えば、京の愛宕山に昔、明の国から渡って来た智羅天永寿とかいう天狗がいたと聞いた事はあるが、まさか、その天狗ではあるまい。一体、どんな奴だ」
「白髪で白い髭を伸ばした老人です。天狗というよりは仙人みたいな人です」
「ほう、仙人か‥‥‥この山には色んなのが住んでおるのう。そのうち、鬼も出て来るかもしれんのう」風眼坊は笑った。
「どうも、気になります」と太郎は真面目な顔で言った。
「そうか‥‥‥気になるなら正体をつかんでみるさ。世の中には色々な奴がおる。色々な奴がおるから面白いんじゃ。その智羅天という老人も、お前の修行の役に立つかもしれん。会って、正体を見極めるんじゃな‥‥‥それより、今夜はお前のお祝いじゃ。二度目の百日行も終わり、一年間の修行も終わった。久し振りに、酒でも飲んで夜を明かそうぜ、太郎坊移香殿」
屋根から降りると風眼坊は、「楓殿を連れて来い」と言った。
「えっ?」
「何が、え、だ。会いたくてしょうがなかったんじゃろう。早く、連れて来い」
「はい。でも、どこに行くんです」
「酒を飲みに行くんじゃ。ここでは、大っぴらに飲めんからな」風眼坊は陽気に笑った。
太郎は楓の離れに行った。
窓から、そっと覗くと楓はいなかった。まだ、仕事が終わっていないようだった。
太郎は庫裏(クリ)の方に向かい、台所を覗いた。春恵尼という尼僧がいたが楓の姿は見えなかった。寺務所の方かな、と思い、庫裏の表の方に向かった。縁側の横を通る時、寺務所にいる楓の姿が見えた。うまい具合に寺務所に松恵尼はいないようだった。
太郎は入り口から入らず、庫裏の裏に回って寺務所の窓から中を覗いた。
楓は机の前に座り、明かりも点けないで、ぼんやりとしていた。
「楓」と太郎は窓から声を掛けた。
楓は振り返り、窓の方を見ると、「太郎様、あなたなの」と言って走り寄って来た。
「良かった。百日行は無事、終わったのね」
「終わったよ、無事に終わった」
「良かった‥‥‥」と楓は言って、微笑んだ。
太郎は楓を見ながら頷いた。
楓の笑顔を見て、改めて、百日行がやっと終わったという実感がこみ上げて来た。そして、苦しかった百日間が楓の笑顔によって報われたような気がした。
二人はいつまでも見つめ合っていた。お互いに話す事はたっぷりあるのに、それは言葉にはならなかった。窓越しに、ただ相手を見つめるだけで、お互い、相手の気持ちがすべてわかり合えた。
今の二人に言葉はいらなかった。
楓の目がだんだんと潤んできた。
楓は顔を隠すようにして、「どうして、そんな所から、顔出すの」と笑った。
「松恵尼様に怒られると思って‥‥‥」
「松恵尼様は今、出掛けていて留守よ」
「いないのか‥‥‥」
「ねえ、あたしの部屋で待ってて、すぐ、行くわ」
「楓」と太郎は呼んだ。
楓は目を拭きながら太郎を見た。
「これから、出掛けなけりゃならないんだ」と太郎は言った。
「出掛ける? 今、すぐ?」
「そう。そこで師匠が待ってるんだ。お前も一緒に行く」
「風眼坊様が? あたしも? どこへ」
「わからん。わからんけど、俺のお祝いをやってくれるんだそうだ。お前も連れて来いって」
「そう‥‥‥じゃあ、ちょっと待ってて、春恵尼様に言って来る」
二人が揃って門の所に行くと風眼坊はいなかった。
「師匠!」と太郎は辺りを見回しながら呼んだ。
「ここじゃ、ここじゃ」と声がした。
風眼坊は松の木の枝の上で横になっていた。
「待ちくたびれたぞ。久し振りに会ったんで嬉しい気持ちはわかるがの、待つ方の身も考えろ」
「すみません」と太郎と楓は揃って謝った。
「まあ、いい。それにしても、楓殿はまた一段と綺麗になったのう。恋する娘は綺麗になると言うが本当じゃのう」
「やだ、風眼坊様ったら‥‥‥」
「さて、行くか。向こうも待ちわびておるじゃろう」
風眼坊は松の木から飛び降りると先に立って歩いて行った。
太郎と楓は並んで風眼坊の後を追った。
「おかしい」と楓は太郎に言った。
「何が」
「あなたとお師匠の風眼坊様、やる事がそっくり。屋根の上に登ったり、木の上に登ったり、二人ともお猿さんみたい」
「おい、何、二人でコソコソやってんだ」風眼坊は背中を向けたまま言った。
「師匠、どこに行くんです」
「もうすぐじゃ」
風眼坊に案内されて行った所はたんぼの中の一軒屋の大きな農家だった。
風眼坊が門をたたくと門が開き、老人が顔を出した。つい先程、山まで来て太郎に風眼坊からの手紙を渡してくれた、あの年寄りだった。
「どうぞ、御主人様がお待ちしております」と老人は言って、三人を門の中に入れた。
手入れの行き届いた庭に紫陽花の花が見事に咲いていた。
「楓殿、ここが誰の家か御存じかな」と風眼坊が聞いた。
「いえ、知りません」
「そうか、まだ、知らなかったか」
三人は老人の案内で客間に通された。
中央の囲炉裏が赤々と燃えていいて、部屋の中は程よく暖まっていた。壁に訳のわからない字の書いてある掛軸が掛かっている。
太郎にはその字を読む事はできなかったが、素晴らしい字だという事はわかった。
「少々、お待ち下さい」と言うと老人は下がって行った。
「師匠、あの男、ただ者ではありませんね」と太郎は言った。
「わかるか」
「はい。百姓のなりはしていますがあれは武士です」
「まあ、そういう事じゃな」
「一体、ここは、どなたの家なのですか」
「そう、焦るな。そのうち、主人が出て来る」
まず、小女たちによって料理が運ばれて来た。それは、山の幸から海の幸まで揃った贅沢な料理だった。
「さすがじゃのう」と風眼坊でさえ豪華な料理に感心していた。「やる事がでかいわい。太郎、これはみんな、お前ら二人のための料理だぞ。どうじゃ、全部、食えるか」
「いえ、とても‥‥‥」
楓は今まで見た事もない凄い料理を目の前にして、おどおどしていた。
一体、ここの主人というのはどんな人なんだろう。
きっと、偉いお人に違いない‥‥‥
「師匠、今、お前ら二人のためと言ったようでしたが」と太郎は聞いた。
「ああ、言ったぞ」と風眼坊は大口を開けて笑った。
太郎と楓は顔を見合わせた。
「お前らの祝言(シュウゲン)じゃ」と風眼坊はポツリと言って、太郎と楓の顔を見た。
「えっ?」と太郎は驚く。
「何か、文句あるのか」
「俺はまだ修行中です。祝言なんて考えた事もありません」
「何が修行じゃ。人間、一生、修行じゃわい。女と一緒になって、できない修行なら、そんな修行、やめちまえ。また、男にとって女というのは一番大切な修行じゃ。楓殿の方はどうじゃな」
「えっ? あたし‥‥‥あたしも祝言なんて、まだ‥‥‥」
「そうか、まだ、二人には早すぎたか‥‥‥じゃあ、やめるか」
「いえ」と太郎は慌てて首を振った。
「どうした」
「やります」
「楓殿は?」
「はい‥‥‥お願いします」と楓は小さな声で俯いたまま言った。
「これで決まった。めでたし、めでたしじゃ。松恵尼殿もこれで安心じゃ。天狗がちょくちょく、寺に入って来て困ると言っておったぞ」
太郎と楓は急におとなしくなり、かしこまって座っていた。
「何を今さら、固くなっておる。楽にせい、楽にせい」
風眼坊は二人を見ながら、嬉しそうに笑っていた。
2
「どうも、お待たせしました」と、ここの主人が入って来た。
太郎も楓も目をみはって主人を迎えた。予想に反して、この家の主人は美しい女主人であった。
「奈美殿じゃ」と風眼坊は紹介した。
「ホホホ」と笑いながら、奈美は風眼坊の隣に座った。
太郎と楓は、まさか、ここの主人が女だとは思ってもいなかったので、キョトンとしながら奈美を見ていた。
「二人とも、何という顔をしておるんじゃ。今、初めて会ったわけでもあるまいし」
「えっ? 師匠、何、言ってるんです‥‥‥」
「あっ!」と楓が叫んだ。「松恵尼様!」
「やっと、わかったようじゃな」と風眼坊が言って、奈美と顔を見合わせて笑った。
太郎は目の前にいる婦人が松恵尼だと言われても、まだ、ピンと来なかった。尼僧の姿しか見た事なかったし、太郎にとって何となく苦手な存在だった。目の前に座っているのは、どう見ても尼僧には見えず、立派な武将の奥方という感じだった。また、まぶしい程、美しい女性であった。
「松恵尼様、これは、どういう事です」と楓は聞いた。
「ホ、ホ、ホ、これが、わたしのもう一つの姿なのよ」
「一体、どういうわけなんです」と太郎も聞いた。
「それは、そのうちわかるでしょう。とにかく、今日は太郎坊様のお祝い、楽しく過ごしましょう」
「奈美殿、それが、こいつら二人のお祝いになったんじゃ」と風眼坊が笑いながら奈美に告げた。
「えっ、何です」と奈美は風眼坊を見てから、太郎と楓を見た。
「奈美殿に無断で決めたのは悪かったがのう。二人を見ているともう、どうにもならんわい。早いとこ、一緒にしてしまおうと思っての」
「祝言ですか」
「まあ、そういう事じゃ。どうじゃろうかのう」
「そうですねえ‥‥‥」と奈美は太郎と楓の顔を見比べてから笑った。「どうしようもないでしょうね。楓の頭の中には太郎坊殿の事しかないようですしね」
「楓殿、良かったのう、お許しが出たぞ」
「はい」と楓は顔を赤くして、太郎をちらっと見ると目を伏せた。
「あと問題は太郎の方じゃが‥‥‥まあ、自分の事は自分でやるじゃろ、のう、太郎」
「はい、大丈夫です」と太郎は張り切って答えた。
と言うわけで、略式だが、太郎と楓の祝言がひそやかに行なわれた。
式が終わると、「今宵はめでたい。めでたいのう」と風眼坊は太郎に酒を注いだ。
「どうじゃな、太郎、今の気分は」
「はい、何というか‥‥‥雲の上にでも乗ったような‥‥‥」
「ほう、雲の上か‥‥‥」
「太郎坊殿、楓を泣かせるような事をしたら、私が承知しませんぞ」と奈美が怖い顔をして太郎を睨んだ。
「はい、かしこまりました」と太郎は身を固くした。
「さて、太郎、これからの事だがどうするつもりじゃ」風眼坊が奈美の酌を受けながら聞いた。
「はい、もう少し、お山で修行しようと思っています」
「もう、お山にはおぬしにかなう奴はおらんじゃろう」
「でも、せっかくですから、棒、槍、薙刀も身に付けたいと思っています」
「そうか‥‥‥まあ、自分で納得するまでやるのがいいじゃろう」
「それと、師匠、わたしに薬の事を教えて下さい」
「何? お前、薬売りをやるのか」
「はい、やはり、食って行くためには‥‥‥」
「楓殿と一緒になったからには、食い扶持だけは必要というわけじゃな」
「太郎坊殿、それは大丈夫です」と奈美が穏やかな顔をして言った。「当分の間は楓に薙刀を教えてもらいますから、太郎坊殿は心行くまで修行しなさい」
「すみません、お願いします」と太郎は頭を下げた。
「薬の事ならお山に専門家がおる。わしが紹介してやろう」
「お願いします」と太郎は、また、頭を下げた。
「さてと、目の前にこれだけの料理があるんだ。食べて、飲んで、楽しくやろう」
「さあ、皆さん、遠慮しないで召し上がって」
四人は囲炉裏を囲んで、楽しい一時を過ごしていた。
風眼坊は旅の話などを面白おかしく話して、皆を笑わせた。
「そう言えば、この間、京に行った時、珍しい男に会ったぞ」と風眼坊は言った。「奈美殿も知っておるじゃろう、伊勢新九郎じゃよ」
「新九郎殿‥‥‥はい、覚えておりますよ。あなたと同郷のお方でしょ。あの人も変わったお人でしたねえ」
「変わっておると言えば変わっておるかのう。奴も備中の一揆騒ぎの時、故郷に帰っていたそうじゃ。なぜか、備中では会えなかったんじゃが、京でひょっこり会った。その前に会ったのも京じゃったな。もう十年近く前じゃ。十年振りに会ったというのに、奴は全然、変わってなかったぞ」
「フフフ」と奈美は笑った。「人の事なんて言えるんですか。あなただって全然、変わってないでしょ」
「まあ、そう言やそうじゃな。月日の経つのは早いもんじゃ‥‥‥あまりに早過ぎて、変わっている暇もなかったわい‥‥‥そう言う奈美殿が一番、変わっとらんぞ。いつまで経っても若いままじゃ」
「そんな事はありませんわ。それで、新九郎殿は今、何をしてらっしゃるんですか」
「何もしとらんよ。浪人じゃ」
「でも、前は公方様にお仕えしていたとか‥‥‥」
「公方は公方でも今出川殿(足利義視)じゃ。新九郎も愛想を尽かして別れたんじゃろう」
「そうだったんですか」
「ところがな、奴の妹というのが駿河の今川治部大輔(ジブダユウ、義忠)殿の所に嫁いだそうでな、奴も駿河の方にでも行ってみるかと言っておったぞ」
「そうですか‥‥‥新九郎殿の妹さんが今川殿へ‥‥‥」
「師匠、伊勢新九郎殿なら俺も知っています」と太郎は口を挟んだ。
「なに?」と風眼坊は驚いた顔して太郎を見た。
「二年前、俺が友と二人で京に出た時、途中で伊勢殿に会い、京まで一緒に旅をしました」
「そいつは本当なのか」と風眼坊が聞くので、太郎は伊賀越えの峠で出会った時から京に入るまでのいきさつを簡単に説明した。
太郎の話を聞きながら、「まさしく、そいつは新九郎じゃ」と風眼坊は納得した。「それじゃあ、わしと会う前にお前は新九郎に会っていたんじゃな。世の中、広いようで狭いもんじゃのう。太郎が新九郎を知っておったとはのう‥‥‥こいつは驚いた」
風眼坊は新九郎の事を色々と話してくれた。
新九郎も若い頃、飯道山で修行した事があり、剣術の腕も人並み以上だが、特に、弓術と馬術は天下一品の腕を持っている、と風眼坊は言った。
夜も更け、宴も終わり、太郎と楓は隣の部屋に案内されて、二人だけの甘い夜を過ごした。
18.智羅天
1
空がどんよりと曇っている。
今にも雨が降りそうだった。
太郎は阿星山と金勝山との間にある岩場の上に座り込み、智羅天が出て来るのを待っていた。心を沈め、目を閉じ、耳を澄ませた。
どこかに隠れているはずだ、と太郎は思っていた。
ほんの一瞬だったが、左の方から誰かが自分を見ているような感じがした。目を開け、左を見ても、岩が連なっているばかりで智羅天の姿はなかった。
太郎はまた目を閉じて、心を澄ませた。
今度は後ろから気配が感じられた。太郎は体を動かさないようにして、岩のかけらを右手で拾うと、素早く振り返って、気配の感じた所に向かって投げ付けた。
岩の陰から智羅天が顔を出し、「待っておったぞ」と言った。
「待っていた?」
「そうじゃ」と智羅天は岩の上に座った。
「なぜ、俺が、ここに来る事がわかる」
「わかる。お前の考えている事など、わしには、すべてわかる」
「嘘だ。わかるわけない」
「本当じゃ。人間、百年以上、生きてみると色んな事がわかって来るものじゃ」
「百年以上?」
「ああ。わしは今年、百十六になった。いや、十七かのう。あまり長く生きてるんで、自分の歳もはっきりわからんが、百歳を過ぎてる事は確かじゃ‥‥‥今、おぬし、また、わしが嘘をついてると思ったじゃろう‥‥‥だが、本当の事じゃ」
「人間、百歳以上も生きられるものなんですか」
「生きられる‥‥‥自然に逆らわずに生きていれば、百でも二百でも生きられる‥‥‥しかし、百歳までも生きているもんじゃない。もう、人間として生きられなくなってしまう。人が何を思っているかがわかってしまうというのは、とても、耐えられるものではないぞ。表面では優しい仏様のような顔をしていても、心の中では鬼のような事を平気で考えている奴ばかりじゃ。とてもじゃないが、そんな奴らの中で暮らせるもんではないわ。山の中に隠れて生きて行くしかないんじゃよ‥‥‥人間と話をしたのも何年振りかのう‥‥‥お前は、わしが一体、何者なのかを見極めるために、わしに会いに来たんじゃろう。一体、人の正体というものは何なんじゃろうかのう‥‥‥わしも昔は戦に何度も出て活躍した事もあった。しかし、それがどうだというんじゃ。昔、あれをした、これをしたと自慢してみても、人間は過去に生きる事はできん。結局、人間というのは、今という瞬間にしか存在する事ができんのじゃ。わしの正体は、今、おぬしの目の前にいる、これがすべてじゃ。ただの白髪爺いじゃよ」
太郎は智羅天という老人を観察しながら話を聞いていた。
「ただのう、わしの命もあと半年しかないんでのう。死ぬ前に、わしの技を誰かに残したいんじゃよ。どうじゃ、おぬし、わしの技を受け継がぬか」
「技?」
「気合の術とでも言ったらいいかのう。おぬしの剣術にも、きっと役に立つものじゃ」
「どうして、俺に」
「おぬしの心が綺麗だからじゃ。武術というものはまず、第一に心じゃ。心が正しくない者に武術を教えても、ただの凶器になるだけじゃ。どうじゃ、この年寄りの最後の頼みを聞いてくれんかの」
太郎は智羅天をじっと見つめてから、「お願いします、教えて下さい」と頼んだ。「でも、あと半年の命というのは本当なんですか」
「本当じゃよ‥‥‥百十七まで生きたとしても、やはり、死ぬというのは辛い事じゃ。また、その死ぬ日まで、はっきりとわかってしまうというのは、なお辛い‥‥‥そうと決まれば、さっそく始めよう。わしの知っている事は、お前にすべて、たたき込んでやる」
太郎は智羅天の後をついて行った。
岩をいくつも乗り越えて行くと、目の前に大きな岩壁が現れた。深い谷底を見下ろしながら、その岩壁に張り付くようにして進むと、急に視界が開け、ちょっとした平地になっていた。そして、平地の先に、また岩壁がそそり立ち、その岩壁の下の方には洞穴があるのか、穴があいていた。
「どうじゃ、いい所じゃろう」と智羅天は言った。「日当たりもいいし、木の実や山菜も豊富じゃ。わしがこの場所を見つけたのは、もう五十年以上も前じゃが、未だに、誰もここの事は知らん。わしが死んだらおぬしにやろう。好きに使え」
ここがわしのうちじゃ、と言って智羅天は洞穴の中に入って行った。
太郎も後に従った。
洞穴に入って、細い廊下のような所をしばらく行くと、明かりが見え、岩壁に彫られた仏像が浮き出るように見えた。その仏像の反対側の明かりの下の岩壁から、水が滲み出ていた。滲み出た水は岩でできた水桶に溜まり、溢れた水が少しづつ外へと流れている。洞穴はかなり奥まで続いているようだが、先は真っ暗で何も見えなかった。
「どんな日照りの時でも、この水は涸れた事がない。冷たくて、うまい水じゃぞ。こういう水を飲んでいれば、わしのように長生きする」と智羅天は言って、笑った。
智羅天は明かりを手に持つと洞穴の中を案内した。洞穴の中は迷路のようになっていた。曲がりくねった細い廊下を抜けると急に広い所に出た。
天井も高く掘られていて、正面の岩壁には如意輪(ニョイリン)観音座像が彫られてあった。
「多分、この岩屋は、これを彫った者たちが住んでおったのじゃろう」と智羅天は観音像の彫られた岩壁を照らした。「なかなか、住みよいぞ」
その広い所を抜けると、また、細い通路に出て、もうひとつ広い部屋があった。先程の部屋よりは広くない。それでも畳を敷いたら五十枚は敷けそうな広さがあった。
こちらの部屋の岩壁には仏様は彫ってなかったが、岩棚の上に、二尺程の木彫りの聖観音像と不動明王像が置いてあった。
「これは、わしが彫ったんじゃよ」と智羅天は言った。
「えっ? 彫り物もやるんですか」
「長い事、生きて来たからのう‥‥‥色々な事をやって来たわい」
その部屋を抜けると、また、曲がりくねった廊下が出口へと続いていた。
出口は入り口よりもちょっと高い位置にあり、綱を伝わって下へ降りるようになっていた。
「どうじゃな、わしのうちは」と智羅天が太郎を振り返って聞いた。
「素晴らしい洞穴です」と太郎は感激していた。「こんな所に、こんな洞穴があったなんて、全然、知りませんでした」
「そうじゃろうのう。普通の奴らは岩を乗り越え、こんな所まで来られるはずはないからな。だが、お前は、やがて、ここを見つけ、来るはずになっておった。まだ、まだ、先の事じゃがな」
「えっ?」
「お前がここに来るのは、後十年位、経ってからじゃ。わしがすでに死んでからじゃ。それじゃあ、つまらんので、ちょっと早めたわけじゃ」
「そんな先に起こる事を変えたりできるんですか」
「できる。それは巡り合わせというものじゃ。もし、お前とわしが会わなかったとしたら、お前はわしの事など全然知らずに、十年位経って、ここに来たじゃろう。しかし、お前はわしに会ってしまった。今までに、あの山道を何百人もの人間が歩いた。だが、わしの存在に気づいたのは、お前が初めてじゃ。そこで、わしはお前の前に姿を現したというわけじゃ」
「もし、俺が、あなたの気配に気づかなかったとしたら、あなたは姿を現さなかったのですか」
「ああ、二度とお前の前に現れなかったじゃろう」
太郎は不思議そうに智羅天の姿を見ていた。
「さあ、始めるか‥‥‥まず、自分の目で確かめんとわからんとみえるからのう」
智羅天は綱を伝わって下に降りると、平地の中程まで歩いて行って、「いいぞ、どこからでも、かかって来い」と両手を広げた。
「智羅天殿、木剣はありませんか」と太郎は聞いた。
「そんな物はない。真剣で構わんぞ」
真剣で来いと言われても、太郎に、それはできなかった。
太郎は辺りを見回し、手頃な木の枝を見つけると刀で斬り落とした。邪魔になる小枝を斬り落とし、刀を腰からはずして木に立て掛けると、その棒切れを中段に構えた。
智羅天の方は手に何も持たず、構えるわけでもなく、ただ、立っているだけだった。
「丸腰の相手はやりにくいと思っておるな‥‥‥そちらが来んのなら、こちらから行くぞ」
智羅天はただ、普通に歩くように太郎に近づいて来た。それは隙だらけだった。
太郎は軽く打ってやろうかと思い、棒切れを振りかぶろうとした。ところが手が動かなかった。
金縛りにでもあったかのように、体の自由がまったく利かなかった。どうしたのだろうと思っているうちに、智羅天は太郎の目の前まで来て、太郎の手首を取った。
手首が痺れ、あっという間に、太郎の体は宙に浮き、投げ飛ばされていた。起き上がろうとしたが、まだ、両手は痺れていた。
一体、何が起こったのか、太郎にはまったくわからなかった。
智羅天を見ると、さっきと同じく、ただ、立っているだけだった。
「どうじゃな」と智羅天は太郎を見下ろして笑った。
「わからん」と太郎は地面に座り込み、両手首をさすりながら言った。
「これが、気合の術というものじゃ‥‥‥もう一度、やってみるか」
太郎は痺れた手首をさすりながら棒切れをつかむと、今度は上段に構えた。そして、太郎の方から仕掛けて行った。ただ、立っているだけの智羅天の頭めがけて、棒を打ち下ろした。
一瞬、棒が智羅天の頭上、五寸あたりで止まったように思えた。
確かに、太郎は智羅天の頭上すれすれで止めるつもりでいたが、何か別の力によって止められたように感じられた。
そして、また、太郎は腕を痺らせ、投げ飛ばされていた。
太郎はしばらく、山の中に籠もって修行をするという許しを得て、飯道山の修徳坊を引き払い、智羅天の岩屋に移って来た。
移って来て、まず、初めにやらされたのは呼吸法であった。真っ暗な岩屋の中に座らされ、心を静め、ゆっくりと口から息を吐いて、鼻から吸うのを繰り返す。
気合の術において、一番、重要なものは『気』であった。
血液が体内を流れているのと同じように『気』もまた、体内を流れている。その体内の『気』を充実させるためには、正しい呼吸法が必要である。体内の『気』が充実し、精神を統一すれば、視覚は八倍になり、聴覚は十四倍、感の鋭さも数十倍になると智羅天は言った。
智羅天と立ち合った時、一瞬、太郎の体が動かなくなったのは『すくみの術』をかけられたからであった。『すくみの術』とは、相手の『気』の流れを止めてしまう技である。この技は、そう簡単にできるものではないが、『気』の修行を積めば、できるようになると言う。
太郎はゆっくりと呼吸をしていた。暗闇の中でも、目が慣れてくると、ぼんやりとだが回りが見えてくるような気がした。
『気』が集まり、『気』が通えば、力は自然と、それに従う。力だけに頼り、『気』を無視すれば、体を壊す事になる。まず、力を抜き、体を楽にして、『気』を練ろ、と智羅天は言った。
天地を形成している、すべての物が『気』によって生じた物である。宇宙にまだ、何もなかった無の状態の時に、一点の『気』が生じ、軽い物は『天』となり、さらに、その『天の気』が集まってまとまり、『太陽』となった。また、『気』の重い物は凝り固まって『地』となり、さらに、『地の気』の中より、おのずから『水』が生じて来た。
『天の気』を『陽気』といい、『地の気』を『陰気』という。
すべての物は『陰』と『陽』によって成り立っている。表が陽で裏が陰、天が陽で地が陰、太陽が陽で月が陰、昼が陽で夜が陰、男が陽で女が陰、生が陽で死が陰、等‥‥‥
『地の気』から生まれた『水』は、やがて『木』を生み、『木』は『火』を生み、『火』は『土』を生む、『土』は『金』を生み、『金』は『水』を生む。
また、『水』は『火』を殺し、『火』は『金』を殺し、『金』は『木』を殺し、『木』は『土』を殺し、『土』は『水』を殺す。
この『木』『火』『土』『金』『水』を五気と言い、この五気の相生、相剋と、『陰』『陽』二気の相剋、交替により、万物自然は変化しながら生きている‥‥‥と智羅天は太郎に自然の仕組みを教えた。よくわからないが、成程、そういうものかと感心しながら、智羅天の難しい話を聞いていた。
太郎はしばらくの間、真っ暗な岩屋の中から出る事を許されなかった。ただ、座って、呼吸だけしろと智羅天は言った。
真っ暗闇である────昼も夜もわからない。
食事の時間になると、智羅天は明かりを点け、太郎に食事を作らせた。食事が終われば、また、明かりを消し、座れと言う。
いくらなんでも、一日中、座ってばかりもいられない。どうせ、真っ暗闇でわからないのだから、そっと、外に出ようと試みるのだが、いつも、岩屋を出ようとすると智羅天に投げ飛ばされた。
太郎には智羅天がどこにいるのかまったくわからなかった。人の気配などまったく感じられないのに、逃げようとすると目の前に必ず、智羅天はいた。太郎には智羅天の姿は見えないが、智羅天には良く見えるらしかった。
二日位までは、太郎も隙を見て外に出ようと試みたが、やがて、諦め、それよりも、智羅天のように闇の中でも目が見えるようになろうと思い、座り込んだまま息を整え、心を落ち着けて目を闇に凝らしていた。
昼も夜もわからず、闇の中だけで暮らすのは苦痛であり、気が狂いそうだった。
まず、鼻が敏感になった。
岩屋の中の饐えたようなカビ臭さが鼻について離れなかった。気にすればする程、臭くて、たまらなかった。
やがて、その臭いにも慣れ、気にならなくなると、次に、耳が敏感になって来た。どんな小さな音でも太郎の耳に響いた。
ある時、外で強い風が吹いているのか、岩屋の中まで、その風が入って来た。
風は岩にぶつかって無気味な音を鳴らした。無気味な音はあちこちから聞こえて来た。その気味の悪い音が、太郎の頭の中をぐるぐると回り始めた。
太郎は気が狂いそうだった。
耳をふさいでみても、頭の中を駈け巡る無気味な音は消えなかった。
太郎は気が狂ったかのように叫びながら岩屋を飛び出そうとして、また、投げ飛ばされた。投げ飛ばされても、太郎は逃げようとした。何度も、何度も投げ飛ばされ、太郎は気を失った。どれだけ気を失っていたのかわからないが、気が付いた時、頭の中の音は消えていた。
太郎はまた、真っ暗闇の中に座り込んだ。どんなに耳が敏感になっても、智羅天の気配だけは、まったくわからなかった。
一体、どこで、何をしているのだろうか。
この岩屋にはいないのだろうか。
そう思っていると、「逃げるなよ」と声を掛けてくる。
声のした方を向いてみるが、そこに智羅天がいるような気配はない。
もしかしたら、俺は魔物にでも化かされているのではないかと思う事もあった。
ある時、変な音が聞こえて来た。
智羅天の寝起きしている如意輪観音像の彫ってある部屋からだった。初めのうちは、智羅天が何かやっているのだろうと気にはしなかったが、やがて、その音は耳につき、頭が混乱してきた。
太郎は立ち上がり、見に行く事にした。智羅天に投げ飛ばされる覚悟をしながら、手探りで壁を伝わり、狭い通路を通って智羅天の部屋に入った。
音は続いていたが、真っ暗で何も見えなかった。
「智羅天殿」と太郎は闇に声を掛けた。
「どうじゃ、なかなか、いいじゃろう」と智羅天の声がした。
なかなか、いいじゃろうと言われても、何も見えない太郎にとって、何がいいのだか、まったくわからなかった。
「何をしてるんですか」と太郎は聞いた。
「まだ、見えんのか」と智羅天は言った。「目で見ようとするから見えんのじゃ。心の目で見よ、心眼を開け」
智羅天は明かりを点けた。
光の中で、太郎の目に入った物は木彫りの地蔵様だった。
智羅天は座り込んで、地蔵様を彫っていたのだった。
しかも、真っ暗闇の中で‥‥‥
太郎は驚きで声も出なかった。
「どうじゃ」と智羅天は地蔵様を右手で持ち、太郎に見せた。「あと、少しで完成じゃ」
「智羅天殿、もしかしたら、俺がいる部屋にある観音様と不動明王様も、こうやって、暗闇の中で彫った物なんですか」
「そうじゃよ」と当然のように言うと智羅天は明かりを吹き消した。
また、闇の中から木を彫る音が聞こえて来た。
太郎は壁を伝わって、元の場所に戻ると座り込んだ。
あんな、神業みたいな事が本当にできるのだろうか‥‥‥
不思議だった‥‥‥
普通だったら、とても信じられない。しかし、現実に智羅天はそれを平気な顔でやっていた。
とんでもない人と出会ったものだ‥‥‥
太郎は改めて、智羅天の凄さを感じ、彼が生きているうちに、彼から、すべてのものを学び取ろうと心に決めた。
六日目の朝、太郎は外に出る事を許された。
外は、まだ暗かった。
五日間、岩屋の中にいたと智羅天に言われたが、太郎にとっては十日以上も暗闇の中に閉じ込められたような気がした。
五日の間、呼吸だけに専念していたお陰で、太郎にも『気』というものが、おぼろげながら、体でわかりかけて来ていた。まず、岩屋の中の気の流れが感じられるようになった。そして、自分の体内の気の流れも、何となく、感じられるようになっていた。
外に出て、太郎がまず感じた事は、空気がうまいという事だった。今まで、空気など、意識して吸った事などなかったが、太郎は何度も深く呼吸をした。
「どうじゃな、『気』というものは有り難いもんじゃろ」と智羅天は言った。
太郎と智羅天は東の方を向かって岩の上に腰を降ろしていた。
すでに、鳥たちは起きていて、あちこちで鳴いていた。
風が出て来て、樹木が揺れた。
太郎は自分が自然という大きなものに包まれている事を体で感じていた。
やがて、空が明るくなって来た。
それは偉大なる光であった。
暗闇の中に閉じ込められていた太郎にとって、その光は悦びであった。心の底から言い知れぬ感動が涌き起こってきた。
太郎はじっとしていられなかった。
太郎は立ち上がり、光に向かって駈け出すと、体を伸ばして体全体に光を浴びた。
鳥が嬉しそうに飛び回っていた。
風が楽しそうに鳴いていた。
樹木や草花も喜んでいた。
石や岩、山々までも光を浴びて嬉しそうだった。
皆、一日の始まりを喜んでいるようだった。
太陽が顔を出した。
太郎には、太陽までも笑っているように感じられた。
太郎自身も自然と口がほころび、笑いたくなっていた。太郎は耐え切れず、声を出して笑い始めた。
智羅天も一緒になって笑っていた。
「どうじゃ、嬉しいじゃろうが‥‥‥なぜ、嬉しいか、わかるか」と笑いながら智羅天は聞いた。
太郎も笑いながら頷いた。
「ただ、ここにいる。自分がここにいて、生きている。それだけじゃ。それだけでも、本来なら嬉しい事なんじゃよ。それに気づかなくてはならん。生きていると言う事は、この大きな自然の中に生かされているという事じゃ。日が昇るのは今日だけの事ではない。毎日、繰り返される事じゃ。これを当たり前の事だと受け取ってはいかん。いつでも、今のような気持ちで生きて行かなければならんのじゃぞ」
太郎は感謝の念を込めて、太陽に向かって合掌していた。そして、改めて、光の中の風景を眺めた。それは、鮮やかな色と色とが、うまく調和して、美しい風景だった。すべてのものが、光を浴びて、生き生きとしていた。
阿弥陀如来様の西方浄土‥‥‥
ふと、太郎の頭の中に浮かんで来た。それは死後の世界にあるのではなくて、今、現在の、この世界の事ではないのだろうか。
しかし、誰もその事には気がつかないで、おのれの欲のために争い事を繰り返し、この浄土を穢土(エド)にしてしまっているのではないだろうか‥‥‥
光の中で、朝食を済ませると、「わしは、ちょっと、奈良まで行って来る」と智羅天は言った。
「奈良へ?」と太郎は聞いた。
「ああ、あのお地蔵さんを置いて来る」
「あのお地蔵さんを売って来るんですか」
「馬鹿もん! 仏様を売るなどと言うと罰が当たるぞ。わしはただ、頼まれたから、お地蔵さんを彫り、それを置いて来るだけじゃ。まあ、向こうは礼金をくれるじゃろうがの。それは、お地蔵さんからの御利益(ゴリヤク)として、わしに与えて下さるものじゃ。遠慮のう貰って来るがの‥‥‥お前は、わしが帰って来るまでに、あの岩を登れるようにしておけ」
智羅天は岩屋のある岩壁を見上げながら言った。
「あれを?」と太郎も見上げた。
高さ二十丈(約六十メートル)はありそうに見える。しかも、垂直にそびえる岩壁だった。
「あれを登るなんて、そんなの無理です」と太郎は言った。
「無理か、無理でないか、やってみなければわかるまい。わしが登れるんじゃから、登れん事はない」智羅天はそう言うと岩屋の中に入って行った。
太郎は岩壁を見上げた。
よく見ると足場はあるように思えた。しかし、途中で足を踏みはずせば下に落ち、死ぬかもしれないという恐怖心はあった。太郎は岩壁を下から眺め、どこをどう登った方がいいのか道を選んでいた。
「それじゃ、わしは行くからの」と智羅天はお地蔵様を背中に背負い、錫杖を突きながら出て来た。
「難しく考える事はない。足を踏みはずしたら下に落ちるだけの事じゃ」
「落ちたら、痛いですよ」と太郎は言った。
「そりゃ、痛いじゃろうのう。痛いと思うなら落ちなけりゃいい」
「‥‥‥そうですね。それで、いつ、戻って来るんです」
「そうじゃのう。久し振りに下界に降りるから、のんびりして来るかの。若い女子でも抱いての」
「若い女子?」
「適度に女子を抱くのも長生きの秘訣じゃ」智羅天は笑うと山を下りて行った。
大きな岩をぴょんぴょん飛び越えながら樹木の中に消えて行った。
「元気なもんだ」と太郎は智羅天の下りて行った方を見ながら言った。
「あの年で若い女子だと‥‥‥何が、わしの命はあと半年だ‥‥‥あと半年で死ぬ者が、あんなに元気なわけないだろう」と太郎は独り、呟いた。
若い女子か‥‥‥
百十七歳になる智羅天にとって、若い女子とは一体、いくつ位の女なのだろうか。
やはり、人並みに十六、七の娘だろうか。
それとも、二十歳前後の年増か。
いや、智羅天にとっては五十や六十の婆さんでも若い女子に見えるのかもしれない。
そんな事はどうでも良かった。智羅天が誰を抱こうと俺には関係ない。それより、俺も楓に会いたい‥‥‥と思った。
太郎は岩壁を見上げた。
よし、早いとこ、あれを登ってしまい、楓に会いに行こうと決めた。
太郎はさっそく、岩に取り付いた。
中程までは楽に登る事はできたが、そこからが大変だった。
かなり高い。下に戻る事もできず、飛び降りる事もできない。力を消耗するので、じっとしている事もできなかった。上に辿り着くまで休む事もできない。
上を見上げても、あと、どの位なのかわからない。下を見れば目が回った。上に向かって登るよりほか、なかった。
左足の足場が崩れて下に落ちて行った。
太郎は息を吐くと、大きく吸い込んだ。そして、上を睨み、また、よじ登った。
俺はなぜ、こんな馬鹿な事をしてるんだろう‥‥‥と太郎は思った。
しかし、馬鹿だろうが、何だろうが、やめるわけには行かなかった。やめる時は死ぬ時だった。まだ、死ぬわけには行かない‥‥‥
太郎は岩にしがみつきながら、よじ登った。
途中に、ちょっとした岩棚があった。
両手を休ませる事ができた。両手は休ませられたが、体を動かす事はできなかった。岩に貼り付いたまま、身動きができなかった。
しばらく休むと、また、太郎は岩にしがみついた。ただ、上だけを睨み、手探りで岩をつかみ、一歩一歩、よじ登って行った。
あともう少し、あともう少しと思いながら、太郎は休まず登った。
やっとの思いで、無事に頂上まで辿り着き、しばらく、頂上で寝そべっていた。
頂上は思っていたより狭かった。
太郎は仰向けに寝そべって空を見上げた。空は青く澄んでいた。
そよ風が涼しくて、いい気持ちだった。
さて、下りて楓の所に行くか、と太郎は立ち上がった。立ち上がると眼下に景色が広がって見えた。
この辺りは、本当に岩ばかりがそそり立っていた。金勝山、太神山も良く見えた。後ろを見れば、阿星山、そして、飯道山も見えた。それらの山々は、今まで見慣れているはずなのに、久し振りに見たような懐かしさをおぼえた。
下りようと思ったが、前も後ろも切り立った崖だった。
一体、どうやって下りたらいいんだ。
登って来た所を下りて行くのは登る以上に難しい。後ろの崖は、上から見たのでは一体、どうなっているのかわからないので下りるわけには行かなかった。
左の方に行ってみた。左もやはり、切り立っていた。途中までは下りようと思えば下りられそうだが、それから先はどうなっているのか、まったくわからない。
右の方に行ってみた。両側が切り立った崖の上が細い道のように続いていた。その道も、だんだんと細くなり、途中で切れていた。しかし、二間程(四メートル弱)先に細い道がつながっているように見える。下を見れば深い谷で、落ちれば必ず死ぬだろうが、二間程なら楽に飛び越せる。
太郎は迷わず飛び越えた。道らしきものはあったが、やはり、それも行き止まりだった。行き止まりだったが、飛び出た岩に縄が結び付けられ、縄は下の方まで伸びていた。
その縄を利用して簡単に下に下りる事ができた。下りた所は岩屋の入り口から大して離れていない所だった。
あのくそ爺いめ、わざわざ、こんな所を登らせやがって‥‥‥と太郎は、自分がやっとの思いで登った岩壁を見上げた。よく、こんな凄い所を登ったもんだと自分自身に呆れた。
そして、智羅天が下りて行った道を通って、太郎は楓に会いに山を下りて行った。
太郎は一晩、楓の所で過ごし、次の日の昼頃、岩屋に戻って来た。智羅天はまだ、帰って来ていなかった。
太郎は岩に掛けてある縄を利用して、また、岩の上まで登り、しばらく、景色を眺めながらボーッとしていた。
夕べ、楓から、望月彦四郎が戦死したと知らされた。太郎が初めて飯道山に登った日、師の風眼坊と模範試合をした、あの望月彦四郎が戦死したと言う。
彦四郎は三年間、飯道山で修行を積み、去年の十二月の最後の稽古が終わると、一年間の修行者たちと一緒に山を下りて行った。
京で始まった戦は決着の着かないまま、あちこちに飛火して、あちこちで戦が行なわれていた。ここ、近江でも同族である六角氏と京極氏が東軍、西軍に分かれて争っている。その争いに甲賀の郷士たちも巻き込まれて、すでに、何十人かが戦死していた。しかし、あの望月彦四郎が戦死したというのは以外だった。あれ程の腕を持っていても、あっけなく戦死してしまうものなのか‥‥‥
彦四郎はまだ二十六歳だったと言う。
山にいて、下界の戦の事など、すっかり忘れていた太郎だったが、身近にいた者の死によって、改めて、戦の恐ろしさを感じていた。
もしかしたら、故郷、五ケ所浦でも戦が始まっているのだろうか。
みんな、無事でいるだろうか。
急に心配になってきて、故郷に帰りたくなってきた‥‥‥
しかし、まだ、帰れない。まだ、まだ、この山でやるべき事が、たっぷり残っていた。
太郎は南の方に向かって、遠く故郷にいる家族たちの無事を一心に祈った。
知らないうちに、もう、日が沈もうとしていた。
智羅天はまだ、帰って来なかった。
太郎は下に下りて、夕食の支度を始めた。一人で夕食を食べ、そして、岩屋の中で眠った。
朝、起きてみると、智羅天はいつの間にか戻っていた。
「のんびり、休んだか」と智羅天は暗闇の中で太郎に声を掛けた。
声を掛けられるまで、太郎には智羅天が側にいた事など、まったく気がつかなかった。
「惚れた女子とも会って来たらしいのう」と智羅天は言った。
「どうして、わかるんです」と太郎は姿は見えないが声のする方に声を掛けた。
「顔に書いてある」
太郎は顔をこすった。
智羅天の笑い声がした。
「書いてあると言っても表面に書いてあるわけじゃない。人の心が読めるようにならなくては一人前の兵法者(ヒョウホウモノ)とは言えんぞ」
人の心どころか、太郎には智羅天の姿さえわからなかった。
「どうやったら、人の心がわかるんです」
「それは修行しかない。さてと、今日からびっしりと、わしのすべてをお前に叩き込むぞ」
「はい、お願いします」
「お前は本草(ホンゾウ)学が学びたくて、山に戻って来たんじゃったな」
「どうして、そんな事までわかるんです」
「修行じゃ。まず、それを教えてやろう」
「知ってるんですか」
「知っておる。薬草の事から人間の体の事まで知っておる」
「人間の体?」
「人間の体が、どういう仕組みになっておるかわかるか」
太郎は首を振った。
「人間の体はこの大自然の仕組みと同じじゃよ。そのうち、教えてやる。それより、もうすぐ、梅雨が来る。その前に草むしりでもしておくか」
智羅天と太郎は、その日から毎日、山の中を走り回り、薬草を採っていた。薬草だけでなく、食用になる草や実も採った。それらは驚く程、種類があった。今までは、どんな物でも、太郎にとってはただの草でしかなかったのに、その中に薬草になる草、食べられる草、毒を持っている草など色々とあった。それらの草の名と特徴を覚え、どんな役に立つかを覚えるだけでも大変な事だった。
やがて、梅雨に入って長雨が続いた。
智羅天と太郎は岩屋に籠もり、毎日、薬を作っていた。
腹痛や頭痛、傷口の消毒、化膿止めの薬は勿論の事、食糧がない時や水がない時でも、何日か持ちこたえるための薬もあった。眠り薬、体が痺れて自由が利かなくなる薬、一粒飲んだだけで簡単に死んでしまう毒薬などもあった。
それから、智羅天が作ったという人間の内部の図も見せてもらった。
「よく見ろ。人間の体の中はこうなっておる。これは骨の仕組みじゃ。こっちは臓腑(ハラワタ)じゃな」と二枚の図を太郎の前に並べた。
「智羅天殿が、これを調べたのですか」
「そうじゃ」
「人の体を切り裂いて?」
「まあ、無縁仏の体をちょっと借りてな」
「死体を?」
「まさか、生きている人間を切り裂くわけにも行くまい‥‥‥心配するな。そいつらは、みんな、わしが冥土に送ってやったわ」
太郎は顔をしかめながら、人体の図を見ていた。
「何です。この腹の所の蛇みたいなのは」
「これが、はらわたじゃ。腹の中には、この蛇みたいな長いのが詰まっておるんじゃよ。どうして、こんな物が腹の中にあるのか、わしにもよくわからんがの。中を裂いてみたら、糞が詰まっておったから、多分、食った物がそこを通って糞になるんじゃろう。何だか、わけのわからん物が人間の体の中には色々詰まっておったわい。特に、頭の中には豆腐のような白くて柔らかいもんが、たっぷり入っておった」
「これですか」と太郎は図の中の頭の所に描いてある丸い物を指さした。
「そうじゃ‥‥‥これは心の臓じゃ」と智羅天は胸の所の丸い物を指さした。
「まあ、一応、人間の体の中はこうなっているという事だけ覚えておればいいじゃろう」
「次はこれじゃ」と智羅天はもう一枚の紙を太郎に見せた。
「こっちは良く覚えておけ」
その図には人の体のあらゆる所に点が打ってあり、それぞれに難しい名前が付いていた。
「何です、この点は」
「ツボじゃよ」
「ツボ?」
「人の体にはツボという不思議な物がある。そのツボは病にも効くし、また、攻撃する時の急所にもなる。ほれ、この手首の所のツボ、これはお前と立ち合った時、わしが使ったツボじゃ。手が痺れたじゃろう。中には死に至らしめるツボや、一月や一年経ってから死ぬようなツボもある。急所の攻め方は後で体術と一緒に教えてやる」
雨が降り続いている間、太郎は智羅天から本草学やツボによる医術をみっちりと叩き込まれた。
長かった梅雨も上がり、暑い夏がやって来た。
太郎は、毎日、智羅天に投げ飛ばされていた。木剣を持つ事は許されなかった。お互いに素手のままやり合っていた。
太郎はツボの痛さを体で教えられた。気絶させられた事も何度もあった。
ここをつかみ、こうやって、こうやれば敵は倒れると智羅天は教えてくれるが、太郎が、それを試みようと思っても、智羅天はその技をやらせてはくれない。敵がその技で来た時は、この技で破れと太郎をまた違う技で投げ付ける。太郎は投げ飛ばされ、体中が痛く、息も乱れるが、智羅天の方は息も乱さず、汗もかかず、ただ、自然に立っているだけだった。
「いいか、気合の術に力はいらんぞ。敵の力をうまく利用して、逆を取ったり、投げたりするんじゃ。もっと、力を抜け」
力を抜けと言われても、投げ飛ばされてばかりいては、腹も立ち、頭に血がのぼり、カッカとしてきて、智羅天に飛び付く。すると、また、投げ飛ばされた。
「怒ってはいかん。怒ると気が乱れる。気だけではなく判断力も鈍る。もっと、気を練らなきゃいかんな」
太郎はまた、五日間、暗闇の中で座らされた。
どうやったら、智羅天に勝つ事ができるか‥‥‥
こうやろう、ああやろうと考えても駄目だ。智羅天はそういう俺の心を読んで、裏をかいてくる。何も考えなければ智羅天にも俺の心はわかるまい。しかし、何も考えずにいて、智羅天に勝つ事ができるか‥‥‥
何も考えなければ、ただ、立っているだけだ。少しでも、何かをやろうと心の中で思えば、それは感づかれてしまう。
太郎は息を吐いたり、吸ったりしながら、無になろうとしていた。
こちらも相手の心が読めればいいのだが、智羅天が何を考えているのか、太郎にはまったくわからなかった。
六日目に外に出ると、今度は、太郎は何も考えずに、ただ、立っているだけでいた。
「ほう、少しは気が据わって来たと見えるのう」と智羅天は言った。
「だが、立っているだけでは敵は倒せんぞ」と智羅天の方から攻めて来た。
太郎は攻めて来る智羅天の力を利用して、投げ飛ばしてやろうと待ち構えたが、結局は同じで、投げ飛ばされるのは太郎の方だった。
散々、智羅天に投げ飛ばされては、太郎は自主的に岩屋に籠もって座り込んだ。
初めの頃は、ただ座って、呼吸をするのは苦痛だったが、今はもう慣れ、心も落ち着くし、体内が綺麗に洗われるような気がして、さわやかな気分になれた。これが座禅というものなのかと太郎は思った。
五ケ所浦にいた時、よく祖父、白峰がやっていた。あの頃の太郎は座禅など、まったく興味がなく、ただ、座っているだけで何がわかるんだと、半ば、馬鹿にしていたものだったが、こうやって、自分でやってみると禅宗というものが武士たちの間で流行るのもわかるような気がした。常に死と隣り合わせに生きて行かなければならない武士にとって、心を落ち着け、気を練る事は重要な事であった。
智羅天は暗闇の中で、今度は弥勒菩薩像を彫っていた。
太郎は智羅天に投げ飛ばされては、岩屋に座り込み、岩屋に座り込んでは、智羅天に投げ飛ばされる毎日が続いた。
そして、夜になると陰陽五行説による、戦の陣法や気象学、方位学、人相、手相、骨相学などを学んで行った。
時はあっと言う間に過ぎ、十一月になっていた。
太郎は相変わらず、智羅天に投げ飛ばされていたが、智羅天が使う技は、ほとんど体で覚える事ができた。指先でツボを押す攻め方、手首を取られた時のはずし方、肩や胸を取られた時のはずし方、後ろから抱えられた時のはずし方などを体で覚えて行った。
「わしの知っている事は、皆、お前に授けた」と智羅天は言った。「後は、お前がわしに勝つ事だけじゃ。どうじゃ、できるかな。わしの命もあと少しとなった」
「あと少しだなんて、とても信じられません」
智羅天は太郎が初めて会った時から、まったく変わっていなかった。自分では百十七歳だと言い、確かに古い事を色々と知っているが、太郎にはどうしても信じられない。顔色も良く、身も軽く、太郎を簡単に投げ飛ばしている。とても、死期がせまっている人間には見えなかった。
「人間には、それぞれ、天が決めた寿命というものがある。それは、どんな事をしても避けられないんじゃよ。また、寿命がある者はどんな危険な目に会っても死ぬ事は絶対にないものじゃ」と智羅天は笑った。
太郎は投げ飛ばされてばかりいたので、投げられる事もうまくなった。投げられる事に逆らわず、素直に投げられた。高く投げ飛ばされた時は空中で体を回転させて、うまく着地する事ができるようになり、低い時には体を丸めて地上を回転して立ち上がった。
太郎と智羅天は木枯らしの吹く中、向かい合って立っていた。
どちらも動こうとはしなかった。お互いに相手を見てはいるが睨み合っているわけではなく、二人とも遠くの山でも眺めているような目付きで、お互いを見ていた。
太郎の方から普通の歩き方で近づいて行った。太郎は右手を伸ばすと智羅天の左肩をつかんだ。
智羅天は右足を半歩踏み出すと、太郎の右手首を右手で下からつかみ、ねじった。
太郎は左手で水月(スイゲツ、みぞおち)に当て身を入れようとしたが、智羅天の左手で受け止められ、そのまま、体をひねるように投げ飛ばされた。
次も、太郎は智羅天の肩を取りに行った。そして、また、投げ飛ばされた。しかし、投げ飛ばされる時、太郎はとっさに智羅天の首の後ろの急所に手刀を入れた。それは、自分でも気が付かないうちに、左手が自然に伸びて、智羅天の首を打っていた。太郎は宙で回転して着地した。
智羅天は太郎に背を向けて立ったまま、「でかしたのう‥‥‥」と言った。
「はい」と太郎は嬉しそうに返事をして智羅天の前に行き、「もう一度、お願いします」と頼んだ。
その時、智羅天の体がグラッと傾き、そのまま、倒れて行った。
「師匠!」太郎は驚いて、倒れた智羅天の側に駈け寄った。
「いよいよ、わしの命も終わりの時が来た‥‥‥」と智羅天は太郎を見つめて、かすれた声で言った。
「師匠‥‥‥今の俺の当て身のせいなんですか」
智羅天は苦しそうな顔をしながら頷いた。「だがのう、この事は、もう、ずっと前から、わかっておった事なんじゃ」
「俺にやられるというのが、ですか」
「そうじゃ‥‥‥わしが死ぬ場面はもう、ずっと前から、わしには見えていた。そして、去年の事じゃ。お前を初めて見た時、こいつじゃなとわかったんじゃ。だから、わしはお前にわしのすべてを教え込んだんじゃ」
「自分を殺すために、俺に技を教えたと言うんですか」
「それは違うぞ。死というものが、たまたま、わしにわかっていただけの事じゃ。もし、そんな事がわかっていなくても、わしはお前にわしの術を教えたじゃろう‥‥‥いいか、人間というのは結果のために生きているわけではない。結果はどうであろうと、今を生きて行かなければならんのじゃ。結果がどうであろうと、やらなければならん事はあるもんじゃ‥‥‥わしは死ぬ前に、わしの術を受け継いでくれる者が欲しかった。わしの願いはかなったんじゃ‥‥‥お前に授けた、わしの術をお前がどう使おうと、それはお前の勝手じゃ。だが、言っておくが、お前は自分で思っている以上に強くなっている。やたらに、当て身や砕きを使ってはいかんぞ。人の生命というものは、いや、人だけではない。生命あるもの、すべての生命を粗末にしてはいかん。たとえ、虫けらでも親や子はいるものだ。虫けらでも死ねばそいつの親や子は悲しむ。この事をよく覚えておけ。これが、わしの最後の教えじゃ‥‥‥それと、わしが彫っていた弥勒菩薩像はお前にやる。それを大和、吉野の喜蔵院に持って行けば、いくらかの礼金をくれるじゃろう。その金で、お前の惚れてる女子と一緒に暮らせ」智羅天はそう言うと笑った。
「師匠‥‥‥」
「それとな、わしの太刀、あれもお前にやる。大事にしてくれ‥‥‥」
智羅天は笑ったままの姿で息を引き取った。
智羅天が亡くなってから、太郎は独り、岩屋に籠もっていた。
暗闇の中に座っていると、智羅天がどこかにいるような錯覚に襲われた。今でも、智羅天が暗闇の中で、仏像を彫っているような気がした。
太郎は智羅天が残していった弥勒菩薩像を明かりの中で丹念に眺めた。その木彫りの像には智羅天の魂が籠もっていた。慈悲あふれるその微笑は、智羅天の最期の微笑に似ていた。
この岩屋の中には、他にも智羅天の彫った聖観音像、不動明王像、阿弥陀如来像、毘沙門天像、弁財天像があった。聖観音像と不動明王像は太郎が座っていた部屋の中にあり、他の像は、それぞれ、迷路のようになっている通路の行き止まりの所に祀ってあった。どれも、皆、見事な仏像だった。大胆さの中に細心さがあり、鋭さの中に温かさがあった。
太郎は智羅天の像を彫ってみようと思った。材料の木はいくらでもあった。智羅天が使っていた小刀やノミもある。
太郎は木を刻み始めた。昼も夜も休まず、食事も取らず、木を彫る事に熱中した。木剣は何本も作ったが、木像を作るのは初めてだった。しかし、右手に持った小刀は不思議と滑らかに木を削って行った。
智羅天の像は三日目に完成した。それは、智羅天が岩の上に座り込んで笑っている姿だった。太郎が初めて智羅天に会った時の姿だった。
太郎は智羅天の像を不動明王像と観音像の間に置き、合掌をして頭を下げると山を下りて行った。
「どうじゃ、いい所じゃろう」と智羅天は言った。「日当たりもいいし、木の実や山菜も豊富じゃ。わしがこの場所を見つけたのは、もう五十年以上も前じゃが、未だに、誰もここの事は知らん。わしが死んだらおぬしにやろう。好きに使え」
ここがわしのうちじゃ、と言って智羅天は洞穴の中に入って行った。
太郎も後に従った。
洞穴に入って、細い廊下のような所をしばらく行くと、明かりが見え、岩壁に彫られた仏像が浮き出るように見えた。その仏像の反対側の明かりの下の岩壁から、水が滲み出ていた。滲み出た水は岩でできた水桶に溜まり、溢れた水が少しづつ外へと流れている。洞穴はかなり奥まで続いているようだが、先は真っ暗で何も見えなかった。
「どんな日照りの時でも、この水は涸れた事がない。冷たくて、うまい水じゃぞ。こういう水を飲んでいれば、わしのように長生きする」と智羅天は言って、笑った。
智羅天は明かりを手に持つと洞穴の中を案内した。洞穴の中は迷路のようになっていた。曲がりくねった細い廊下を抜けると急に広い所に出た。
天井も高く掘られていて、正面の岩壁には如意輪(ニョイリン)観音座像が彫られてあった。
「多分、この岩屋は、これを彫った者たちが住んでおったのじゃろう」と智羅天は観音像の彫られた岩壁を照らした。「なかなか、住みよいぞ」
その広い所を抜けると、また、細い通路に出て、もうひとつ広い部屋があった。先程の部屋よりは広くない。それでも畳を敷いたら五十枚は敷けそうな広さがあった。
こちらの部屋の岩壁には仏様は彫ってなかったが、岩棚の上に、二尺程の木彫りの聖観音像と不動明王像が置いてあった。
「これは、わしが彫ったんじゃよ」と智羅天は言った。
「えっ? 彫り物もやるんですか」
「長い事、生きて来たからのう‥‥‥色々な事をやって来たわい」
その部屋を抜けると、また、曲がりくねった廊下が出口へと続いていた。
出口は入り口よりもちょっと高い位置にあり、綱を伝わって下へ降りるようになっていた。
「どうじゃな、わしのうちは」と智羅天が太郎を振り返って聞いた。
「素晴らしい洞穴です」と太郎は感激していた。「こんな所に、こんな洞穴があったなんて、全然、知りませんでした」
「そうじゃろうのう。普通の奴らは岩を乗り越え、こんな所まで来られるはずはないからな。だが、お前は、やがて、ここを見つけ、来るはずになっておった。まだ、まだ、先の事じゃがな」
「えっ?」
「お前がここに来るのは、後十年位、経ってからじゃ。わしがすでに死んでからじゃ。それじゃあ、つまらんので、ちょっと早めたわけじゃ」
「そんな先に起こる事を変えたりできるんですか」
「できる。それは巡り合わせというものじゃ。もし、お前とわしが会わなかったとしたら、お前はわしの事など全然知らずに、十年位経って、ここに来たじゃろう。しかし、お前はわしに会ってしまった。今までに、あの山道を何百人もの人間が歩いた。だが、わしの存在に気づいたのは、お前が初めてじゃ。そこで、わしはお前の前に姿を現したというわけじゃ」
「もし、俺が、あなたの気配に気づかなかったとしたら、あなたは姿を現さなかったのですか」
「ああ、二度とお前の前に現れなかったじゃろう」
太郎は不思議そうに智羅天の姿を見ていた。
「さあ、始めるか‥‥‥まず、自分の目で確かめんとわからんとみえるからのう」
智羅天は綱を伝わって下に降りると、平地の中程まで歩いて行って、「いいぞ、どこからでも、かかって来い」と両手を広げた。
「智羅天殿、木剣はありませんか」と太郎は聞いた。
「そんな物はない。真剣で構わんぞ」
真剣で来いと言われても、太郎に、それはできなかった。
太郎は辺りを見回し、手頃な木の枝を見つけると刀で斬り落とした。邪魔になる小枝を斬り落とし、刀を腰からはずして木に立て掛けると、その棒切れを中段に構えた。
智羅天の方は手に何も持たず、構えるわけでもなく、ただ、立っているだけだった。
「丸腰の相手はやりにくいと思っておるな‥‥‥そちらが来んのなら、こちらから行くぞ」
智羅天はただ、普通に歩くように太郎に近づいて来た。それは隙だらけだった。
太郎は軽く打ってやろうかと思い、棒切れを振りかぶろうとした。ところが手が動かなかった。
金縛りにでもあったかのように、体の自由がまったく利かなかった。どうしたのだろうと思っているうちに、智羅天は太郎の目の前まで来て、太郎の手首を取った。
手首が痺れ、あっという間に、太郎の体は宙に浮き、投げ飛ばされていた。起き上がろうとしたが、まだ、両手は痺れていた。
一体、何が起こったのか、太郎にはまったくわからなかった。
智羅天を見ると、さっきと同じく、ただ、立っているだけだった。
「どうじゃな」と智羅天は太郎を見下ろして笑った。
「わからん」と太郎は地面に座り込み、両手首をさすりながら言った。
「これが、気合の術というものじゃ‥‥‥もう一度、やってみるか」
太郎は痺れた手首をさすりながら棒切れをつかむと、今度は上段に構えた。そして、太郎の方から仕掛けて行った。ただ、立っているだけの智羅天の頭めがけて、棒を打ち下ろした。
一瞬、棒が智羅天の頭上、五寸あたりで止まったように思えた。
確かに、太郎は智羅天の頭上すれすれで止めるつもりでいたが、何か別の力によって止められたように感じられた。
そして、また、太郎は腕を痺らせ、投げ飛ばされていた。
2
太郎はしばらく、山の中に籠もって修行をするという許しを得て、飯道山の修徳坊を引き払い、智羅天の岩屋に移って来た。
移って来て、まず、初めにやらされたのは呼吸法であった。真っ暗な岩屋の中に座らされ、心を静め、ゆっくりと口から息を吐いて、鼻から吸うのを繰り返す。
気合の術において、一番、重要なものは『気』であった。
血液が体内を流れているのと同じように『気』もまた、体内を流れている。その体内の『気』を充実させるためには、正しい呼吸法が必要である。体内の『気』が充実し、精神を統一すれば、視覚は八倍になり、聴覚は十四倍、感の鋭さも数十倍になると智羅天は言った。
智羅天と立ち合った時、一瞬、太郎の体が動かなくなったのは『すくみの術』をかけられたからであった。『すくみの術』とは、相手の『気』の流れを止めてしまう技である。この技は、そう簡単にできるものではないが、『気』の修行を積めば、できるようになると言う。
太郎はゆっくりと呼吸をしていた。暗闇の中でも、目が慣れてくると、ぼんやりとだが回りが見えてくるような気がした。
『気』が集まり、『気』が通えば、力は自然と、それに従う。力だけに頼り、『気』を無視すれば、体を壊す事になる。まず、力を抜き、体を楽にして、『気』を練ろ、と智羅天は言った。
天地を形成している、すべての物が『気』によって生じた物である。宇宙にまだ、何もなかった無の状態の時に、一点の『気』が生じ、軽い物は『天』となり、さらに、その『天の気』が集まってまとまり、『太陽』となった。また、『気』の重い物は凝り固まって『地』となり、さらに、『地の気』の中より、おのずから『水』が生じて来た。
『天の気』を『陽気』といい、『地の気』を『陰気』という。
すべての物は『陰』と『陽』によって成り立っている。表が陽で裏が陰、天が陽で地が陰、太陽が陽で月が陰、昼が陽で夜が陰、男が陽で女が陰、生が陽で死が陰、等‥‥‥
『地の気』から生まれた『水』は、やがて『木』を生み、『木』は『火』を生み、『火』は『土』を生む、『土』は『金』を生み、『金』は『水』を生む。
また、『水』は『火』を殺し、『火』は『金』を殺し、『金』は『木』を殺し、『木』は『土』を殺し、『土』は『水』を殺す。
この『木』『火』『土』『金』『水』を五気と言い、この五気の相生、相剋と、『陰』『陽』二気の相剋、交替により、万物自然は変化しながら生きている‥‥‥と智羅天は太郎に自然の仕組みを教えた。よくわからないが、成程、そういうものかと感心しながら、智羅天の難しい話を聞いていた。
太郎はしばらくの間、真っ暗な岩屋の中から出る事を許されなかった。ただ、座って、呼吸だけしろと智羅天は言った。
真っ暗闇である────昼も夜もわからない。
食事の時間になると、智羅天は明かりを点け、太郎に食事を作らせた。食事が終われば、また、明かりを消し、座れと言う。
いくらなんでも、一日中、座ってばかりもいられない。どうせ、真っ暗闇でわからないのだから、そっと、外に出ようと試みるのだが、いつも、岩屋を出ようとすると智羅天に投げ飛ばされた。
太郎には智羅天がどこにいるのかまったくわからなかった。人の気配などまったく感じられないのに、逃げようとすると目の前に必ず、智羅天はいた。太郎には智羅天の姿は見えないが、智羅天には良く見えるらしかった。
二日位までは、太郎も隙を見て外に出ようと試みたが、やがて、諦め、それよりも、智羅天のように闇の中でも目が見えるようになろうと思い、座り込んだまま息を整え、心を落ち着けて目を闇に凝らしていた。
昼も夜もわからず、闇の中だけで暮らすのは苦痛であり、気が狂いそうだった。
まず、鼻が敏感になった。
岩屋の中の饐えたようなカビ臭さが鼻について離れなかった。気にすればする程、臭くて、たまらなかった。
やがて、その臭いにも慣れ、気にならなくなると、次に、耳が敏感になって来た。どんな小さな音でも太郎の耳に響いた。
ある時、外で強い風が吹いているのか、岩屋の中まで、その風が入って来た。
風は岩にぶつかって無気味な音を鳴らした。無気味な音はあちこちから聞こえて来た。その気味の悪い音が、太郎の頭の中をぐるぐると回り始めた。
太郎は気が狂いそうだった。
耳をふさいでみても、頭の中を駈け巡る無気味な音は消えなかった。
太郎は気が狂ったかのように叫びながら岩屋を飛び出そうとして、また、投げ飛ばされた。投げ飛ばされても、太郎は逃げようとした。何度も、何度も投げ飛ばされ、太郎は気を失った。どれだけ気を失っていたのかわからないが、気が付いた時、頭の中の音は消えていた。
太郎はまた、真っ暗闇の中に座り込んだ。どんなに耳が敏感になっても、智羅天の気配だけは、まったくわからなかった。
一体、どこで、何をしているのだろうか。
この岩屋にはいないのだろうか。
そう思っていると、「逃げるなよ」と声を掛けてくる。
声のした方を向いてみるが、そこに智羅天がいるような気配はない。
もしかしたら、俺は魔物にでも化かされているのではないかと思う事もあった。
ある時、変な音が聞こえて来た。
智羅天の寝起きしている如意輪観音像の彫ってある部屋からだった。初めのうちは、智羅天が何かやっているのだろうと気にはしなかったが、やがて、その音は耳につき、頭が混乱してきた。
太郎は立ち上がり、見に行く事にした。智羅天に投げ飛ばされる覚悟をしながら、手探りで壁を伝わり、狭い通路を通って智羅天の部屋に入った。
音は続いていたが、真っ暗で何も見えなかった。
「智羅天殿」と太郎は闇に声を掛けた。
「どうじゃ、なかなか、いいじゃろう」と智羅天の声がした。
なかなか、いいじゃろうと言われても、何も見えない太郎にとって、何がいいのだか、まったくわからなかった。
「何をしてるんですか」と太郎は聞いた。
「まだ、見えんのか」と智羅天は言った。「目で見ようとするから見えんのじゃ。心の目で見よ、心眼を開け」
智羅天は明かりを点けた。
光の中で、太郎の目に入った物は木彫りの地蔵様だった。
智羅天は座り込んで、地蔵様を彫っていたのだった。
しかも、真っ暗闇の中で‥‥‥
太郎は驚きで声も出なかった。
「どうじゃ」と智羅天は地蔵様を右手で持ち、太郎に見せた。「あと、少しで完成じゃ」
「智羅天殿、もしかしたら、俺がいる部屋にある観音様と不動明王様も、こうやって、暗闇の中で彫った物なんですか」
「そうじゃよ」と当然のように言うと智羅天は明かりを吹き消した。
また、闇の中から木を彫る音が聞こえて来た。
太郎は壁を伝わって、元の場所に戻ると座り込んだ。
あんな、神業みたいな事が本当にできるのだろうか‥‥‥
不思議だった‥‥‥
普通だったら、とても信じられない。しかし、現実に智羅天はそれを平気な顔でやっていた。
とんでもない人と出会ったものだ‥‥‥
太郎は改めて、智羅天の凄さを感じ、彼が生きているうちに、彼から、すべてのものを学び取ろうと心に決めた。
3
六日目の朝、太郎は外に出る事を許された。
外は、まだ暗かった。
五日間、岩屋の中にいたと智羅天に言われたが、太郎にとっては十日以上も暗闇の中に閉じ込められたような気がした。
五日の間、呼吸だけに専念していたお陰で、太郎にも『気』というものが、おぼろげながら、体でわかりかけて来ていた。まず、岩屋の中の気の流れが感じられるようになった。そして、自分の体内の気の流れも、何となく、感じられるようになっていた。
外に出て、太郎がまず感じた事は、空気がうまいという事だった。今まで、空気など、意識して吸った事などなかったが、太郎は何度も深く呼吸をした。
「どうじゃな、『気』というものは有り難いもんじゃろ」と智羅天は言った。
太郎と智羅天は東の方を向かって岩の上に腰を降ろしていた。
すでに、鳥たちは起きていて、あちこちで鳴いていた。
風が出て来て、樹木が揺れた。
太郎は自分が自然という大きなものに包まれている事を体で感じていた。
やがて、空が明るくなって来た。
それは偉大なる光であった。
暗闇の中に閉じ込められていた太郎にとって、その光は悦びであった。心の底から言い知れぬ感動が涌き起こってきた。
太郎はじっとしていられなかった。
太郎は立ち上がり、光に向かって駈け出すと、体を伸ばして体全体に光を浴びた。
鳥が嬉しそうに飛び回っていた。
風が楽しそうに鳴いていた。
樹木や草花も喜んでいた。
石や岩、山々までも光を浴びて嬉しそうだった。
皆、一日の始まりを喜んでいるようだった。
太陽が顔を出した。
太郎には、太陽までも笑っているように感じられた。
太郎自身も自然と口がほころび、笑いたくなっていた。太郎は耐え切れず、声を出して笑い始めた。
智羅天も一緒になって笑っていた。
「どうじゃ、嬉しいじゃろうが‥‥‥なぜ、嬉しいか、わかるか」と笑いながら智羅天は聞いた。
太郎も笑いながら頷いた。
「ただ、ここにいる。自分がここにいて、生きている。それだけじゃ。それだけでも、本来なら嬉しい事なんじゃよ。それに気づかなくてはならん。生きていると言う事は、この大きな自然の中に生かされているという事じゃ。日が昇るのは今日だけの事ではない。毎日、繰り返される事じゃ。これを当たり前の事だと受け取ってはいかん。いつでも、今のような気持ちで生きて行かなければならんのじゃぞ」
太郎は感謝の念を込めて、太陽に向かって合掌していた。そして、改めて、光の中の風景を眺めた。それは、鮮やかな色と色とが、うまく調和して、美しい風景だった。すべてのものが、光を浴びて、生き生きとしていた。
阿弥陀如来様の西方浄土‥‥‥
ふと、太郎の頭の中に浮かんで来た。それは死後の世界にあるのではなくて、今、現在の、この世界の事ではないのだろうか。
しかし、誰もその事には気がつかないで、おのれの欲のために争い事を繰り返し、この浄土を穢土(エド)にしてしまっているのではないだろうか‥‥‥
光の中で、朝食を済ませると、「わしは、ちょっと、奈良まで行って来る」と智羅天は言った。
「奈良へ?」と太郎は聞いた。
「ああ、あのお地蔵さんを置いて来る」
「あのお地蔵さんを売って来るんですか」
「馬鹿もん! 仏様を売るなどと言うと罰が当たるぞ。わしはただ、頼まれたから、お地蔵さんを彫り、それを置いて来るだけじゃ。まあ、向こうは礼金をくれるじゃろうがの。それは、お地蔵さんからの御利益(ゴリヤク)として、わしに与えて下さるものじゃ。遠慮のう貰って来るがの‥‥‥お前は、わしが帰って来るまでに、あの岩を登れるようにしておけ」
智羅天は岩屋のある岩壁を見上げながら言った。
「あれを?」と太郎も見上げた。
高さ二十丈(約六十メートル)はありそうに見える。しかも、垂直にそびえる岩壁だった。
「あれを登るなんて、そんなの無理です」と太郎は言った。
「無理か、無理でないか、やってみなければわかるまい。わしが登れるんじゃから、登れん事はない」智羅天はそう言うと岩屋の中に入って行った。
太郎は岩壁を見上げた。
よく見ると足場はあるように思えた。しかし、途中で足を踏みはずせば下に落ち、死ぬかもしれないという恐怖心はあった。太郎は岩壁を下から眺め、どこをどう登った方がいいのか道を選んでいた。
「それじゃ、わしは行くからの」と智羅天はお地蔵様を背中に背負い、錫杖を突きながら出て来た。
「難しく考える事はない。足を踏みはずしたら下に落ちるだけの事じゃ」
「落ちたら、痛いですよ」と太郎は言った。
「そりゃ、痛いじゃろうのう。痛いと思うなら落ちなけりゃいい」
「‥‥‥そうですね。それで、いつ、戻って来るんです」
「そうじゃのう。久し振りに下界に降りるから、のんびりして来るかの。若い女子でも抱いての」
「若い女子?」
「適度に女子を抱くのも長生きの秘訣じゃ」智羅天は笑うと山を下りて行った。
大きな岩をぴょんぴょん飛び越えながら樹木の中に消えて行った。
「元気なもんだ」と太郎は智羅天の下りて行った方を見ながら言った。
「あの年で若い女子だと‥‥‥何が、わしの命はあと半年だ‥‥‥あと半年で死ぬ者が、あんなに元気なわけないだろう」と太郎は独り、呟いた。
若い女子か‥‥‥
百十七歳になる智羅天にとって、若い女子とは一体、いくつ位の女なのだろうか。
やはり、人並みに十六、七の娘だろうか。
それとも、二十歳前後の年増か。
いや、智羅天にとっては五十や六十の婆さんでも若い女子に見えるのかもしれない。
そんな事はどうでも良かった。智羅天が誰を抱こうと俺には関係ない。それより、俺も楓に会いたい‥‥‥と思った。
太郎は岩壁を見上げた。
よし、早いとこ、あれを登ってしまい、楓に会いに行こうと決めた。
太郎はさっそく、岩に取り付いた。
中程までは楽に登る事はできたが、そこからが大変だった。
かなり高い。下に戻る事もできず、飛び降りる事もできない。力を消耗するので、じっとしている事もできなかった。上に辿り着くまで休む事もできない。
上を見上げても、あと、どの位なのかわからない。下を見れば目が回った。上に向かって登るよりほか、なかった。
左足の足場が崩れて下に落ちて行った。
太郎は息を吐くと、大きく吸い込んだ。そして、上を睨み、また、よじ登った。
俺はなぜ、こんな馬鹿な事をしてるんだろう‥‥‥と太郎は思った。
しかし、馬鹿だろうが、何だろうが、やめるわけには行かなかった。やめる時は死ぬ時だった。まだ、死ぬわけには行かない‥‥‥
太郎は岩にしがみつきながら、よじ登った。
途中に、ちょっとした岩棚があった。
両手を休ませる事ができた。両手は休ませられたが、体を動かす事はできなかった。岩に貼り付いたまま、身動きができなかった。
しばらく休むと、また、太郎は岩にしがみついた。ただ、上だけを睨み、手探りで岩をつかみ、一歩一歩、よじ登って行った。
あともう少し、あともう少しと思いながら、太郎は休まず登った。
やっとの思いで、無事に頂上まで辿り着き、しばらく、頂上で寝そべっていた。
頂上は思っていたより狭かった。
太郎は仰向けに寝そべって空を見上げた。空は青く澄んでいた。
そよ風が涼しくて、いい気持ちだった。
さて、下りて楓の所に行くか、と太郎は立ち上がった。立ち上がると眼下に景色が広がって見えた。
この辺りは、本当に岩ばかりがそそり立っていた。金勝山、太神山も良く見えた。後ろを見れば、阿星山、そして、飯道山も見えた。それらの山々は、今まで見慣れているはずなのに、久し振りに見たような懐かしさをおぼえた。
下りようと思ったが、前も後ろも切り立った崖だった。
一体、どうやって下りたらいいんだ。
登って来た所を下りて行くのは登る以上に難しい。後ろの崖は、上から見たのでは一体、どうなっているのかわからないので下りるわけには行かなかった。
左の方に行ってみた。左もやはり、切り立っていた。途中までは下りようと思えば下りられそうだが、それから先はどうなっているのか、まったくわからない。
右の方に行ってみた。両側が切り立った崖の上が細い道のように続いていた。その道も、だんだんと細くなり、途中で切れていた。しかし、二間程(四メートル弱)先に細い道がつながっているように見える。下を見れば深い谷で、落ちれば必ず死ぬだろうが、二間程なら楽に飛び越せる。
太郎は迷わず飛び越えた。道らしきものはあったが、やはり、それも行き止まりだった。行き止まりだったが、飛び出た岩に縄が結び付けられ、縄は下の方まで伸びていた。
その縄を利用して簡単に下に下りる事ができた。下りた所は岩屋の入り口から大して離れていない所だった。
あのくそ爺いめ、わざわざ、こんな所を登らせやがって‥‥‥と太郎は、自分がやっとの思いで登った岩壁を見上げた。よく、こんな凄い所を登ったもんだと自分自身に呆れた。
そして、智羅天が下りて行った道を通って、太郎は楓に会いに山を下りて行った。
4
太郎は一晩、楓の所で過ごし、次の日の昼頃、岩屋に戻って来た。智羅天はまだ、帰って来ていなかった。
太郎は岩に掛けてある縄を利用して、また、岩の上まで登り、しばらく、景色を眺めながらボーッとしていた。
夕べ、楓から、望月彦四郎が戦死したと知らされた。太郎が初めて飯道山に登った日、師の風眼坊と模範試合をした、あの望月彦四郎が戦死したと言う。
彦四郎は三年間、飯道山で修行を積み、去年の十二月の最後の稽古が終わると、一年間の修行者たちと一緒に山を下りて行った。
京で始まった戦は決着の着かないまま、あちこちに飛火して、あちこちで戦が行なわれていた。ここ、近江でも同族である六角氏と京極氏が東軍、西軍に分かれて争っている。その争いに甲賀の郷士たちも巻き込まれて、すでに、何十人かが戦死していた。しかし、あの望月彦四郎が戦死したというのは以外だった。あれ程の腕を持っていても、あっけなく戦死してしまうものなのか‥‥‥
彦四郎はまだ二十六歳だったと言う。
山にいて、下界の戦の事など、すっかり忘れていた太郎だったが、身近にいた者の死によって、改めて、戦の恐ろしさを感じていた。
もしかしたら、故郷、五ケ所浦でも戦が始まっているのだろうか。
みんな、無事でいるだろうか。
急に心配になってきて、故郷に帰りたくなってきた‥‥‥
しかし、まだ、帰れない。まだ、まだ、この山でやるべき事が、たっぷり残っていた。
太郎は南の方に向かって、遠く故郷にいる家族たちの無事を一心に祈った。
知らないうちに、もう、日が沈もうとしていた。
智羅天はまだ、帰って来なかった。
太郎は下に下りて、夕食の支度を始めた。一人で夕食を食べ、そして、岩屋の中で眠った。
朝、起きてみると、智羅天はいつの間にか戻っていた。
「のんびり、休んだか」と智羅天は暗闇の中で太郎に声を掛けた。
声を掛けられるまで、太郎には智羅天が側にいた事など、まったく気がつかなかった。
「惚れた女子とも会って来たらしいのう」と智羅天は言った。
「どうして、わかるんです」と太郎は姿は見えないが声のする方に声を掛けた。
「顔に書いてある」
太郎は顔をこすった。
智羅天の笑い声がした。
「書いてあると言っても表面に書いてあるわけじゃない。人の心が読めるようにならなくては一人前の兵法者(ヒョウホウモノ)とは言えんぞ」
人の心どころか、太郎には智羅天の姿さえわからなかった。
「どうやったら、人の心がわかるんです」
「それは修行しかない。さてと、今日からびっしりと、わしのすべてをお前に叩き込むぞ」
「はい、お願いします」
「お前は本草(ホンゾウ)学が学びたくて、山に戻って来たんじゃったな」
「どうして、そんな事までわかるんです」
「修行じゃ。まず、それを教えてやろう」
「知ってるんですか」
「知っておる。薬草の事から人間の体の事まで知っておる」
「人間の体?」
「人間の体が、どういう仕組みになっておるかわかるか」
太郎は首を振った。
「人間の体はこの大自然の仕組みと同じじゃよ。そのうち、教えてやる。それより、もうすぐ、梅雨が来る。その前に草むしりでもしておくか」
智羅天と太郎は、その日から毎日、山の中を走り回り、薬草を採っていた。薬草だけでなく、食用になる草や実も採った。それらは驚く程、種類があった。今までは、どんな物でも、太郎にとってはただの草でしかなかったのに、その中に薬草になる草、食べられる草、毒を持っている草など色々とあった。それらの草の名と特徴を覚え、どんな役に立つかを覚えるだけでも大変な事だった。
やがて、梅雨に入って長雨が続いた。
智羅天と太郎は岩屋に籠もり、毎日、薬を作っていた。
腹痛や頭痛、傷口の消毒、化膿止めの薬は勿論の事、食糧がない時や水がない時でも、何日か持ちこたえるための薬もあった。眠り薬、体が痺れて自由が利かなくなる薬、一粒飲んだだけで簡単に死んでしまう毒薬などもあった。
それから、智羅天が作ったという人間の内部の図も見せてもらった。
「よく見ろ。人間の体の中はこうなっておる。これは骨の仕組みじゃ。こっちは臓腑(ハラワタ)じゃな」と二枚の図を太郎の前に並べた。
「智羅天殿が、これを調べたのですか」
「そうじゃ」
「人の体を切り裂いて?」
「まあ、無縁仏の体をちょっと借りてな」
「死体を?」
「まさか、生きている人間を切り裂くわけにも行くまい‥‥‥心配するな。そいつらは、みんな、わしが冥土に送ってやったわ」
太郎は顔をしかめながら、人体の図を見ていた。
「何です。この腹の所の蛇みたいなのは」
「これが、はらわたじゃ。腹の中には、この蛇みたいな長いのが詰まっておるんじゃよ。どうして、こんな物が腹の中にあるのか、わしにもよくわからんがの。中を裂いてみたら、糞が詰まっておったから、多分、食った物がそこを通って糞になるんじゃろう。何だか、わけのわからん物が人間の体の中には色々詰まっておったわい。特に、頭の中には豆腐のような白くて柔らかいもんが、たっぷり入っておった」
「これですか」と太郎は図の中の頭の所に描いてある丸い物を指さした。
「そうじゃ‥‥‥これは心の臓じゃ」と智羅天は胸の所の丸い物を指さした。
「まあ、一応、人間の体の中はこうなっているという事だけ覚えておればいいじゃろう」
「次はこれじゃ」と智羅天はもう一枚の紙を太郎に見せた。
「こっちは良く覚えておけ」
その図には人の体のあらゆる所に点が打ってあり、それぞれに難しい名前が付いていた。
「何です、この点は」
「ツボじゃよ」
「ツボ?」
「人の体にはツボという不思議な物がある。そのツボは病にも効くし、また、攻撃する時の急所にもなる。ほれ、この手首の所のツボ、これはお前と立ち合った時、わしが使ったツボじゃ。手が痺れたじゃろう。中には死に至らしめるツボや、一月や一年経ってから死ぬようなツボもある。急所の攻め方は後で体術と一緒に教えてやる」
雨が降り続いている間、太郎は智羅天から本草学やツボによる医術をみっちりと叩き込まれた。
5
長かった梅雨も上がり、暑い夏がやって来た。
太郎は、毎日、智羅天に投げ飛ばされていた。木剣を持つ事は許されなかった。お互いに素手のままやり合っていた。
太郎はツボの痛さを体で教えられた。気絶させられた事も何度もあった。
ここをつかみ、こうやって、こうやれば敵は倒れると智羅天は教えてくれるが、太郎が、それを試みようと思っても、智羅天はその技をやらせてはくれない。敵がその技で来た時は、この技で破れと太郎をまた違う技で投げ付ける。太郎は投げ飛ばされ、体中が痛く、息も乱れるが、智羅天の方は息も乱さず、汗もかかず、ただ、自然に立っているだけだった。
「いいか、気合の術に力はいらんぞ。敵の力をうまく利用して、逆を取ったり、投げたりするんじゃ。もっと、力を抜け」
力を抜けと言われても、投げ飛ばされてばかりいては、腹も立ち、頭に血がのぼり、カッカとしてきて、智羅天に飛び付く。すると、また、投げ飛ばされた。
「怒ってはいかん。怒ると気が乱れる。気だけではなく判断力も鈍る。もっと、気を練らなきゃいかんな」
太郎はまた、五日間、暗闇の中で座らされた。
どうやったら、智羅天に勝つ事ができるか‥‥‥
こうやろう、ああやろうと考えても駄目だ。智羅天はそういう俺の心を読んで、裏をかいてくる。何も考えなければ智羅天にも俺の心はわかるまい。しかし、何も考えずにいて、智羅天に勝つ事ができるか‥‥‥
何も考えなければ、ただ、立っているだけだ。少しでも、何かをやろうと心の中で思えば、それは感づかれてしまう。
太郎は息を吐いたり、吸ったりしながら、無になろうとしていた。
こちらも相手の心が読めればいいのだが、智羅天が何を考えているのか、太郎にはまったくわからなかった。
六日目に外に出ると、今度は、太郎は何も考えずに、ただ、立っているだけでいた。
「ほう、少しは気が据わって来たと見えるのう」と智羅天は言った。
「だが、立っているだけでは敵は倒せんぞ」と智羅天の方から攻めて来た。
太郎は攻めて来る智羅天の力を利用して、投げ飛ばしてやろうと待ち構えたが、結局は同じで、投げ飛ばされるのは太郎の方だった。
散々、智羅天に投げ飛ばされては、太郎は自主的に岩屋に籠もって座り込んだ。
初めの頃は、ただ座って、呼吸をするのは苦痛だったが、今はもう慣れ、心も落ち着くし、体内が綺麗に洗われるような気がして、さわやかな気分になれた。これが座禅というものなのかと太郎は思った。
五ケ所浦にいた時、よく祖父、白峰がやっていた。あの頃の太郎は座禅など、まったく興味がなく、ただ、座っているだけで何がわかるんだと、半ば、馬鹿にしていたものだったが、こうやって、自分でやってみると禅宗というものが武士たちの間で流行るのもわかるような気がした。常に死と隣り合わせに生きて行かなければならない武士にとって、心を落ち着け、気を練る事は重要な事であった。
智羅天は暗闇の中で、今度は弥勒菩薩像を彫っていた。
太郎は智羅天に投げ飛ばされては、岩屋に座り込み、岩屋に座り込んでは、智羅天に投げ飛ばされる毎日が続いた。
そして、夜になると陰陽五行説による、戦の陣法や気象学、方位学、人相、手相、骨相学などを学んで行った。
6
時はあっと言う間に過ぎ、十一月になっていた。
太郎は相変わらず、智羅天に投げ飛ばされていたが、智羅天が使う技は、ほとんど体で覚える事ができた。指先でツボを押す攻め方、手首を取られた時のはずし方、肩や胸を取られた時のはずし方、後ろから抱えられた時のはずし方などを体で覚えて行った。
「わしの知っている事は、皆、お前に授けた」と智羅天は言った。「後は、お前がわしに勝つ事だけじゃ。どうじゃ、できるかな。わしの命もあと少しとなった」
「あと少しだなんて、とても信じられません」
智羅天は太郎が初めて会った時から、まったく変わっていなかった。自分では百十七歳だと言い、確かに古い事を色々と知っているが、太郎にはどうしても信じられない。顔色も良く、身も軽く、太郎を簡単に投げ飛ばしている。とても、死期がせまっている人間には見えなかった。
「人間には、それぞれ、天が決めた寿命というものがある。それは、どんな事をしても避けられないんじゃよ。また、寿命がある者はどんな危険な目に会っても死ぬ事は絶対にないものじゃ」と智羅天は笑った。
太郎は投げ飛ばされてばかりいたので、投げられる事もうまくなった。投げられる事に逆らわず、素直に投げられた。高く投げ飛ばされた時は空中で体を回転させて、うまく着地する事ができるようになり、低い時には体を丸めて地上を回転して立ち上がった。
太郎と智羅天は木枯らしの吹く中、向かい合って立っていた。
どちらも動こうとはしなかった。お互いに相手を見てはいるが睨み合っているわけではなく、二人とも遠くの山でも眺めているような目付きで、お互いを見ていた。
太郎の方から普通の歩き方で近づいて行った。太郎は右手を伸ばすと智羅天の左肩をつかんだ。
智羅天は右足を半歩踏み出すと、太郎の右手首を右手で下からつかみ、ねじった。
太郎は左手で水月(スイゲツ、みぞおち)に当て身を入れようとしたが、智羅天の左手で受け止められ、そのまま、体をひねるように投げ飛ばされた。
次も、太郎は智羅天の肩を取りに行った。そして、また、投げ飛ばされた。しかし、投げ飛ばされる時、太郎はとっさに智羅天の首の後ろの急所に手刀を入れた。それは、自分でも気が付かないうちに、左手が自然に伸びて、智羅天の首を打っていた。太郎は宙で回転して着地した。
智羅天は太郎に背を向けて立ったまま、「でかしたのう‥‥‥」と言った。
「はい」と太郎は嬉しそうに返事をして智羅天の前に行き、「もう一度、お願いします」と頼んだ。
その時、智羅天の体がグラッと傾き、そのまま、倒れて行った。
「師匠!」太郎は驚いて、倒れた智羅天の側に駈け寄った。
「いよいよ、わしの命も終わりの時が来た‥‥‥」と智羅天は太郎を見つめて、かすれた声で言った。
「師匠‥‥‥今の俺の当て身のせいなんですか」
智羅天は苦しそうな顔をしながら頷いた。「だがのう、この事は、もう、ずっと前から、わかっておった事なんじゃ」
「俺にやられるというのが、ですか」
「そうじゃ‥‥‥わしが死ぬ場面はもう、ずっと前から、わしには見えていた。そして、去年の事じゃ。お前を初めて見た時、こいつじゃなとわかったんじゃ。だから、わしはお前にわしのすべてを教え込んだんじゃ」
「自分を殺すために、俺に技を教えたと言うんですか」
「それは違うぞ。死というものが、たまたま、わしにわかっていただけの事じゃ。もし、そんな事がわかっていなくても、わしはお前にわしの術を教えたじゃろう‥‥‥いいか、人間というのは結果のために生きているわけではない。結果はどうであろうと、今を生きて行かなければならんのじゃ。結果がどうであろうと、やらなければならん事はあるもんじゃ‥‥‥わしは死ぬ前に、わしの術を受け継いでくれる者が欲しかった。わしの願いはかなったんじゃ‥‥‥お前に授けた、わしの術をお前がどう使おうと、それはお前の勝手じゃ。だが、言っておくが、お前は自分で思っている以上に強くなっている。やたらに、当て身や砕きを使ってはいかんぞ。人の生命というものは、いや、人だけではない。生命あるもの、すべての生命を粗末にしてはいかん。たとえ、虫けらでも親や子はいるものだ。虫けらでも死ねばそいつの親や子は悲しむ。この事をよく覚えておけ。これが、わしの最後の教えじゃ‥‥‥それと、わしが彫っていた弥勒菩薩像はお前にやる。それを大和、吉野の喜蔵院に持って行けば、いくらかの礼金をくれるじゃろう。その金で、お前の惚れてる女子と一緒に暮らせ」智羅天はそう言うと笑った。
「師匠‥‥‥」
「それとな、わしの太刀、あれもお前にやる。大事にしてくれ‥‥‥」
智羅天は笑ったままの姿で息を引き取った。
智羅天が亡くなってから、太郎は独り、岩屋に籠もっていた。
暗闇の中に座っていると、智羅天がどこかにいるような錯覚に襲われた。今でも、智羅天が暗闇の中で、仏像を彫っているような気がした。
太郎は智羅天が残していった弥勒菩薩像を明かりの中で丹念に眺めた。その木彫りの像には智羅天の魂が籠もっていた。慈悲あふれるその微笑は、智羅天の最期の微笑に似ていた。
この岩屋の中には、他にも智羅天の彫った聖観音像、不動明王像、阿弥陀如来像、毘沙門天像、弁財天像があった。聖観音像と不動明王像は太郎が座っていた部屋の中にあり、他の像は、それぞれ、迷路のようになっている通路の行き止まりの所に祀ってあった。どれも、皆、見事な仏像だった。大胆さの中に細心さがあり、鋭さの中に温かさがあった。
太郎は智羅天の像を彫ってみようと思った。材料の木はいくらでもあった。智羅天が使っていた小刀やノミもある。
太郎は木を刻み始めた。昼も夜も休まず、食事も取らず、木を彫る事に熱中した。木剣は何本も作ったが、木像を作るのは初めてだった。しかし、右手に持った小刀は不思議と滑らかに木を削って行った。
智羅天の像は三日目に完成した。それは、智羅天が岩の上に座り込んで笑っている姿だった。太郎が初めて智羅天に会った時の姿だった。
太郎は智羅天の像を不動明王像と観音像の間に置き、合掌をして頭を下げると山を下りて行った。
19.陰の術
1
太郎は智羅天が残した岩屋で寝起きしながら、飯道山に通っていた。
この岩屋はまったく住み良かった。夏は涼しく、冬は暖かい。冬になっても、岩壁から滲み出る、うまい水は凍る事もなく、毎日、流れ出していた。
半年振りに飯道山に戻った太郎は久し振りに金比羅坊に会った。
金比羅坊は目を見張り、「おぬし、どんな修行をしてたのか知らんが、まるで、仙人のようじゃのう」と言った。
「どうして、仙人なんです」と太郎が聞いても、金比羅坊にはうまく答えられなかったが、「おぬしの回りには神気のようなものが漂っているようじゃ」と首を傾げながら言った。
太郎は金比羅坊と高林坊に頼まれて、剣術の師範代をする事になった。
久し振りに道場に向かうと木剣の響きが懐かしく感じられた。去年の今頃は、自分もこうやって稽古に励んでいたのだった。もう、ずっと昔の事のように思えた。
今年もあと一月で終わりだが、今年、一年間の修行者で、今まで残っているのは剣術だけでも二十三人いた。去年と比べれば倍である。入って来る時の人数も多かったが、残っている者も多かった。それだけ、世の中が乱れ、強くなければ生きて行けない世の中になって来ていた。
太郎が道場に入って行くと皆が稽古をやめて太郎の方を見た。そして、仲間と何やらコソコソ話し始めた。『天狗太郎』という声が、あちこちから聞こえて来た。
太郎は師範の勝泉坊善栄、師範代の浄光坊智明、中之坊円学に挨拶をした。
金比羅坊は手を休めて話をしている修行者たちに、「真面目にやれ!」と怒鳴った。
修行者たちは慌てて稽古を続けた。
「太郎坊か」勝泉坊は太郎をじっと見ながら、「大分、修行したとみえるな」と満足そうに頷いた。「まあ、あいつらを鍛えてやってくれ」
「天狗殿がいよいよ、山から出て来たか」と中之坊は笑った。
「お前は知らんだろうが、お前はこの山の名物男だぞ。お前の事をみんなが『天狗太郎』と呼んでおる」と浄光坊は言った。「まさしく、今のお前は天狗のようじゃのう」
太郎は師範代として、若い者たちに稽古をつけてやった。
稽古が終わり、帰ろうとした時、太郎は五人の若者たちにつかまった。
「太郎坊殿」と若者の一人が言った。「わたしは杉谷と言います。望月三郎の幼なじみの杉谷です」
「杉谷‥‥‥ああ、あの時、色々と探ってくれたのは、お前だったのか」
「はい」
「あの時は御苦労だった」と太郎は改めて杉谷を見た。
一年前、望月又五郎を襲った時、敵の内情を探ってくれたのが杉谷だった。彼の情報のお陰で、うまく行ったとも言えた。
「太郎坊殿、俺たちにも『陰の術』を教えて下さい」と杉谷は言った。
「陰の術?」
「はい、敵の屋敷に忍び込む術です」
「ほう‥‥‥陰の術ねえ‥‥‥」
太郎がまったく知らないうちに、『陰の術』などという術の名前までが出来ていた。きっと『陰の五人衆』の使った術だから『陰の術』という名になったのだろう。
「お願いします」と五人が揃って頭を下げた。
『陰の術』と言われても、太郎に教えられる事は木登りと手裏剣くらいだが、教わりたいと言うのなら教えてやってもいいと思った。
次の日から、剣術の稽古が終わった後、太郎は『陰の術』を教えるという事になった。五人だけだと思っていたのに、集まって来たのは二十人近くもいた。
太郎はまず、刀の鍔を利用しての塀の乗り越え方、鉤縄(カギナワ)を利用しての木の登り方、手裏剣の投げ方を教えた。
天狗太郎が『陰の術』を教えているという噂を聞き、習いたいという者が続々とやって来て、その次の日には五十人近くにもなった。五十人も集まって来ると、太郎の方も大変だった。教えるからには『陰の術』というものを完成させなければならなかった。いつまでも、木登りばかりやらせておくわけにも行かない。
太郎は今まで、午前中は岩屋の中で座ったり、木を彫ったりしていたが、これからは、『陰の術』という、太郎の知らないうちに出来てしまった術に取り組まなければならなくなった。石垣を登ったり、岩を登ったり、家の戸をこじ開けたり、穴を開けたりする武器も、太郎は自分で考えた。それらの武器の使い方を教えるだけでなく、智羅天から教わった陣方や方位学、そして、祖父から教わった水軍の兵法など、役に立ちそうなものを選んで彼らに教えて行った。
「まず、敵に勝つには敵をよく知る事だ」と太郎は皆に言った。「敵の陣地や屋敷に忍び込むには、まず、見取り図を作り、見張りの場所、敵の兵力などを調べる。また、敵の内情をよく知っている者にそれとなく近づき、うまく聞き出す。やり方は色々とあるが、とにかく、敵の事をよく知らなければならない。そして、敵の虚を突く事だ」
太郎は味方同志の合図の仕方や、敵の目をごまかして逃げるやり方なども教えた。
わずか一月足らずであったが太郎は知っている限りの事を修行者たちに教えて行った。
年が改まって、文明三年(一四七一年)の正月、太郎は忙しく、山の中を走り回っていた。
山に登って来る信者たちは去年よりも多く、朝から晩まで、参道は人で埋まっていた。
太郎は信者たちの接待役にあたっていた。去年は太郎も修行者で、ただの手伝いとしてやっていたのだが、今年から正式に剣術の師範代の役が付き、先達(センダツ)山伏という資格も貰っていた。信者たちを行場に案内したり、護摩壇の前で祈祷もしなければならない。去年のように途中から抜け出すわけには行かなかった。ようやく、八日頃から信者たちの数も減ってきて、太郎は十一日から四日間、休みを取る事ができた。
十日の夜、仕事もやっと片付くと太郎は妻、楓の待つ里に下りて行った。
花養院の近くに太郎と楓の新居はあった。去年の末、そこが空き家となったので、松恵尼が二人のために借りてくれたのだった。
それは小さな家だったが、子供の頃から尼寺で育った楓にとっては、初めての自分の家である。楓は毎日、掃除をして家の中を綺麗に整えていった。
「お帰りなさいませ」と楓は板の間に手をついて太郎を迎えると嬉しそうに笑った。
「これが、俺たちのうちか‥‥‥」と太郎は初めて見る二人の新居を眺めた。
「どう、あなた」と楓は部屋の中を案内した。
「これが、俺たちのうちか‥‥‥」と太郎は部屋の中を見回しながら満足そうに笑った。
台所と居間と納戸(寝室)だけの小さな家だったが、井戸もあり、風呂もあり、小さな庭も付いていた。居間の隅にある文机(フヅクエ)の上には信楽焼きの花瓶に梅が一枝差してあり、壁には流れるような字で、和歌の書かれた小さな掛軸が飾ってあった。
「どう?」と楓は聞いた。
「最高さ」と太郎は楓を抱き寄せた。
「長い間、御苦労様」と楓は太郎を見つめながら言った。
「楓のお陰さ」と太郎も楓を見つめていた。
楓は酒の用意をして待っていた。
「あなた、新年、おめでとうございます」と楓は言うと太郎に酒を注いだ。
「ああ、そうだ、忘れていた。おめでとう」と太郎は酒を飲み干すと酒盃を楓に渡し、酒を注いでやった。
楓は嬉しそうに酒を飲み干した。
「師範代になられたそうですね」
「まあな、そんな役を貰ってから、色々と忙しくなったよ」
「いいじゃありませんか。里でも、あなたの事は有名よ」
「どう、有名なんだ」
「『陰の術』よ。多分、今年は、あなたから陰の術を習おうと、若い人たちが続々と山に登って行くわ」
「『陰の術』とは良く付けたもんだ‥‥‥今のように世の中が乱れているから、みんなから教えてくれと言われるが、もし、これが平和の世であってみろ。あんな術は盗人(ヌスット)や山賊の術だぞ。教えていながら自分でもいやになって来る時もある」
「それは術のせいじゃないわ。剣術や薙刀だって、使う人の心次第でどうにでもなるわ」
「そうだ、心なんだよ」と太郎は頷いた。「一番、重要なのは心なんだ。俺も去年一年、山で修行して、改めて、心というものの重要さがわかってきた。まだ、まだ、俺も修行せにゃならん」
「頑張って下さい。あたしは、どこまでもあなたに付いて行きます」
「頼むぞ‥‥‥だがな、十四日までの休みのうちは修行はやめだ。修行の事など忘れて、お前と二人だけで楽しく過ごそう」
「はい」と楓も嬉しそうに頷いた。
次の日、珍しい客が二人の新居を訪れた。
望月三郎、三雲源太、芥川左京亮の三人だった。太郎は三人を懐かしそうに迎えた。
「よく、ここがわかったな」と太郎は三人に聞いた。
「陰の術よ」と三雲が自慢げに言った。「おめえが、どこで、何をやっているか調べるなどわけねえ」
「それにしても、おめえも隅に置けんな」と芥川は言った。「山の中で修行ばかりしてると思ってたら、いつの間にか、ちゃんと、女の方にも手を出している」
「おめえ、人の事など言えんぞ」と三雲が芥川の肩をつついた。「手が早えったらありゃしねえ」
芥川左京亮はとうとう望月三郎の妹、コノミの心を捕え、去年の秋、一緒になっていた。
「望月、あれから、うまく、やってるのか」と太郎は聞いた。
「まあな、陰の術のお陰さ」と望月は笑った。
四人は山での修行の事や、その後の事など懐かしく話しながら、楓の作った料理をつまみに酒を酌み交わした。
「服部の奴はどうしてる」と太郎は聞いた。
「奴は伊賀に帰ったよ」と望月は言った。「伊賀の方も色々と小競り合いがあって大変らしい。奴は一応、服部家の総領だからな。いつまでも遊んでられないんだろう」
「本当はコノミ殿にふられて、ガックリきて伊賀に帰ったのさ」と三雲は笑った。
「そう言うお前はどうなんだ。芥川、服部、三雲、三人して、コノミ殿を追いかけ回していたんじゃなかったのか」と太郎は三雲に言った。
「あれ、どうして、そんな事、知ってんだ」
「俺も陰の術を使うんだよ」と太郎は笑った。
「俺はもう、きっぱりと諦めたさ」
「こいつには、もう、他に女がちゃんといるんだよ」と芥川が言った。
「いねえよ、そんなの」と三雲は慌てて否定した。
「三雲、俺たちに隠し事は通じないぜ。白状した方がいいんじゃねえのか」
「参ったなあ、でも、もう少し待ってくれよ。俺だって恥をかきたくねえからな」三雲は困ったような顔をして言った。
そんな三雲を見ながら、「まあいい、まあいい」とみんなして笑った。
「ところで、お前、去年、半年も山に隠れていたそうだが、一体、何をしてたんだ」と望月が太郎に聞いた。
「ちょっとな、仙人にでもなろうと思ってな、山に籠もってみたんだが、やっぱり駄目だったよ」と太郎は笑いながら言った。
「今度は仙人か。天狗が仙人になるのか、こいつはいいや」と芥川は笑った。
太郎は智羅天の事は楓以外、誰にも喋っていなかった。智羅天から教わった気合の術も誰にも見せてはいない。自分の身が危険にさらされた時以外、気合の術は使うまいと心に決めていた。
「なあ、どうやったら仙人になれるんだ」と三雲が真顔で聞いた。
「アホ、太郎坊の話を本気にする奴があるか。仙人なんているわけねえだろ」と芥川は三雲を小突いた。
「じゃあ、一体、何してたんだ」
「滝に打たれたり岩屋の中で座ったり、山の中を走り回って修行してたんだろ」と芥川が言った。
「実はな、薬草の勉強をしてたんだ」と太郎は皆に言った。「薬草に詳しい山伏がいてな。その人について色々と教わってたんだよ」
「薬草? そんな事、習って、どうするんだ。薬売りでもやるんか」と望月が不思議そうに聞く。
「ああ。俺の師匠、知ってるだろう。あの人は薬を売りながら旅をしている。俺も女房を食わして行くには何かをしなくちゃならねえからな」
「そうか‥‥‥おめえも大変だな」と芥川。
「何も薬売りなんかしなくても、お前、今、師範代やってんだろ。食うには困らんのじゃないのか」と望月。
「ああ、今はな。しかし、去年は、まさか俺が師範代をやるなんて考えてもいなかったよ」
「そりゃ、そうだな」
「お前らに、いい薬があるから、やろう」と太郎は隣の部屋から袋を持って来た。
「これは飲み過ぎに効く薬だ」と太郎は黒い丸薬を見せた。「これは腹痛だ。お山で作っている飯道丸よりは効くぞ。お前みたいに、いつも下痢してる奴にはすぐ効く」と太郎は三雲に渡した。
「もう、下痢なんか治ってるよ。あれはお山の食い物が俺の腹に合わなかっただけだ」
「こいつは戦に行った時など食い物がない場合、一日、三粒づつ飲めば、何日でも物を食わずに生きていられる薬だ」
「ほう、そんな便利な物があるのか」と三人は感心しながら太郎の出す丸薬を眺めた。
太郎は色々な薬を皆に見せ、作り方も教えてやった。
太郎と楓は智羅天の墓の前に座って冥福を祈っていた。
太郎は智羅天の岩屋に楓を連れて来た。勿論、道などはなく、いくつも岩を乗り越えなければここには来られないのだが、薙刀の名人で、身の軽い楓なら登れるだろうと思い、また、この岩屋をどうしても楓にだけは見せたかった。
智羅天が死んだ今、この岩屋を知っているのは太郎だけである。しかし、一人だけで知っていても面白くない。楓にも教えて二人だけの隠れ家にしたい、と子供のような考えで、太郎は楓を伴ってここまで登って来た。
「凄い所ね」と楓は岩壁を見上げながら言った。
岩壁には長い氷柱(ツララ)がいくつも張り付いて、光っていた。
「ここは俺たちの別宅だよ。俺たちしか知らない」
太郎は積もった雪の中を楓の手を引きながら、岩屋の中へと連れて行った。
「暖かいだろ」と太郎は手燭(テショク)の明かりを点けながら言った。
「ほんと、暖かい」
太郎は楓を連れて岩屋の中を案内して回った。
「中は広いのね」と楓は感心していた。
岩壁に彫られた如意輪観音像を見せると楓は、「わあ、凄い!」と声を上げて眺めた。
「この岩屋の守り本尊だ」
「凄いわ。一体、誰が彫ったの」
「智羅天殿の話によると、昔、この辺りに金勝(コンゼ)族っていう連中が住んでいたんだそうだ。彼らは遠く明(ミン)の国の方から流れて来た人たちで、奈良にある大仏様も彼らが作ったそうだ。狛坂寺にも阿弥陀如来様が彫ってあるだろう。あれも金勝族が彫ったらしい。その人たちが、昔、ここに住んでいて、この如意輪観音様を守り本尊にしていたんだろう」
「へえ、そうなの。でも、その人たちは一体、どこに行っちゃったの」
「奈良の大仏様を作ってから、有名になって、仏像を作るためにあっちこっちに出掛けて行って、みんな、バラバラになっちゃったんだろう」
「ふうん‥‥‥」
「今、有名な仏師(ブッシ)たちは皆、その流れを汲んでいるのかもしれない。もしかしたら、智羅天殿もその子孫だったのかもしれない」
「成程ね」
「次はこっちだ」と太郎は楓の手を引いて次の部屋に連れて行って、智羅天が彫った木彫りの弥勒菩薩、不動明王、聖観音、そして、太郎が自分で彫った智羅天像を見せた。
「これ、ほんとにあなたが彫ったの」と智羅天像を見ながら楓は驚いていた。「あなた、何でもやるのね」
「これは自分でも不思議に思う。多分、智羅天殿の霊が俺に取り憑いて、これを彫らせたんじゃないかと思うよ。三日間、何も食べず、一睡もせずに彫り続けた。あれは、今、思うと、ちょっと異常だった」
「ふうん‥‥‥でも、凄いわね。ほんとに魂が籠もってるっていう感じ。今にも、このお爺さん、動き出しそう」
「ありがとう」
二人は如意輪観音の部屋で焚火をして、雪で濡れた着物の裾を乾かした。
「俺は三月で、お山を下りようと思っている」と太郎は焚火の炎を見つめながら楓に言った。「多分、三月になったら師匠が来るだろう。そしたら、お山を下りようと思っている。一度、五ケ所浦に帰ろうと思っているんだ。一年の約束で出て来たんだが、すでに、二年になってしまった‥‥‥みんな、心配しているだろう‥‥‥」
楓は太郎の顔を見つめながら話を聞いていた。
「なあ、楓、お前も一緒に来てくれるな」
「当たり前でしょ。どこにでも付いて行くわ。でも‥‥‥」
「でも、何だい」
「あなたは水軍の大将の息子さんでしょ‥‥‥あたしなんか連れて行っても大丈夫なの」
「何、言ってんだよ。お前は俺の女房だぜ。それにお前は立派な武士の娘だよ。お前以上の女はいない。両親だって、ちゃんと、お前の事を認めてくれるさ‥‥‥それより、お前の方は大丈夫なのか」
「大丈夫よ。松恵尼様は許してくれるわ」
「よし、そうと決まれば、あと三ケ月、世話になったお山のために頑張るとするか」
「ねえ、五ケ所浦って、どんな所なの」
「暖かい所だよ。冬だって雪なんて降らないし、海で取れる魚や貝類がうまい。平和な田舎だよ。最近はこの辺りも物騒になって来たけど、五ケ所浦はまだ相変わらず、平和だろう」
「そう‥‥‥あたしは小さい頃から、ずっと、ここにいるだけで、どこにも行った事がないわ。一度、海っていうのを見たかったわ」
「海か‥‥‥懐かしいな。俺も、早く、海が見たくなって来た」
太郎と楓は休みの間、世間から隠れて、暖かい岩屋の中で二人だけの時を過ごした。
今年も、甲賀、伊賀の若者たちが山に登って来た。その数は三百人を越えていた。そのほとんどが、太郎の編み出した『陰の術』を習いたくて登って来た者たちだった。
今年から、陰の術も、太郎を師範として正式に武術教程の中に組み込まれる事になった。ただし、誰にでも教えるわけには行かないので、厳しい修行に耐え、最後まで残った者たちに、最後の一ケ月間、修行させるという事に決まった。
今の所、陰の術の師範は太郎一人しかいない。三月一杯で山を下りるという事は高林坊に告げ、許されたが、十一月の末から一ケ月間は山に戻って来て、陰の術を皆に教えてやってくれと頼まれた。太郎は引き受けた。
恒例の一ケ月間の山歩きが始まった。
毎年の事だが、この山歩きで半分はふるい落とされる。人数が、あまりにも多すぎるので、今回は三百人を三つに分け、第一隊は西光坊元内が率い、第二隊は中之坊円学が率い、第三隊は太郎坊移香が率いる事になった。
初めの六日間は飯道山から太神山までの片道を歩く。
太神山に三百人も収容できる宿坊がないので、各隊を一日づつ、ずらせて歩く事になった。第一隊が太神山に向かって歩き始めた日、第二隊と第三隊は金勝山まで行って戻って来た。二日目は第二隊が太神山に向かい、第三隊はまた、金勝山までの往復、そして、第一隊が戻って来ている三日目は、第三隊が太神山に向かい、第一隊は金勝山までの往復という具合に、六日間は飯道山から太神山までの距離、六里半(約二十六キロ)を歩かせた。
この六日間で三十人近くの落伍者が出た。
七日目からは太神山までの往復十三里(約五十二キロ)を歩く事になる。第一隊が出発してから四半時(シキントキ、三十分)おきに、次の隊が出発して行った。朝、七ツ時(四時)に起き、山門内外の掃除または水汲みをして、洗顔、朝食を取り、読経をして、明け六ツ時(六時)から一番初めの隊が歩き出して行った。
山歩きに慣れない者たちにとって、日が暮れるまでに山道を十三里歩くのは、かなりきつい修行である。しかも、山道には雪が積もっていて歩きづらかった。初めのうちは日暮れまでには帰って来られない。五ツ時(午後八時)を回ってしまう。帰って来て夕食を取るのだが、体が疲れきってしまい、食事も喉を通らず、倒れるように寝てしまう者がほとんどだった。
太郎は百人近くもの若者たちの先頭に立って山を歩いていた。太郎がのんびり歩いているつもりでも、若い者たちにとって付いて行くのは大変な事だった。まだ、片道しか歩いていない六日間で、二十人近くの者が抜けて行った。太郎の隊が一番多かった。
一ケ月の山歩きで半分は落とさなければならないのだが、六日間のうちで二十人近くというのは多すぎた。太郎は七日目から努めて遅く歩くようにし、八日目からは一番最後をのんびりと散歩する事にしていった。飯道山に帰って来るのはいつも、日が暮れて、真っ暗になっていた。八十人も連れて、ゆっくり歩くのは自分の早さで独り歩くより、ずっと疲れる事だった。
太郎が一番最後に付いて、ゆっくり歩いていても、山を下りて行く者の数は減らなかった。それに、今年の冬はやけに寒く、雪の日が多かった。どんなに吹雪いていても山歩きは中止にはならない。吹雪の中を雪に埋もれながらも歩き通した。そんな日の次の朝には、特に山を下りて行く者は多かった。
一ケ月の山歩きが終わり、太郎の第三隊に残った者はわずかの三十二人だった。自分のやり方が間違っていたのかと太郎は思ったが、第一隊、第二隊で残った者の数も第三隊と大して変わってはいなかった。
結局、最後まで残った者は合計で九十五人だった。三百人のうち二百人は山を下りていった。本気で修行をしたいと思って登って来た者より、興味本位の軽い気持ちで『陰の術』という不思議な術を自分も身に付けようと登って来た者が多かったに違いなかった。
残った九十五人のうち、剣術の組に入って来たのは三十六人だった。この中で、最後まで残っているのは十人位だろうと太郎は思った。
武術の稽古は午後からである。午前中はそれぞれ、作業を行なう事になっていた。作業は色々とあった。信者たちに配る魔よけの札を作ったり、護摩を焚く時にくべる札を作ったり、薪を作ったり、信楽焼きで有名な信楽の庄がすぐ側にあるため、山の中にも窯(カマ)があり、陶器も作っているし、飯道丸という腹痛に効く薬も作っていた。その他、参道の修復、時には里に下りて行って、治水の土木工事をやる事もある。それに、この山で使う物は食糧以外は、箸から武器に至るまで、ほとんど自給していた。
太郎は午前中、陰の術の稽古に使う武器を色々と考え、山にいる鍛冶師に頼んで作って貰っていた。手裏剣、鉤縄の鉤、それに、少し大きめな刀の鍔、鉄菱、岩を登る時や、穴を掘ったりする時に使う苦無(クナイ)など、習う者たち全員の手に渡るように充分な数を作らせた。その他、縄ばしごなど自分の手で作れる物は自分で作り、三雲が考え出した黒装束も使い易いように改良して、楓に頼んで作って貰っていた。また、あらゆる屋敷や砦、城などに忍び込む場合を想定して、どんな武器が必要なのかを考え、色々な武器を作って、それを使い易いように改良していった。それだけでなく、それらの武器を使い、夜の闇に紛れ、実際に寺や砦や郷士の家などに忍び込んだりしていた。
午後になると道場に出向いて若い者たちに剣術を教えた。太郎は皆に良くわかるように丁寧に教えた。しかし、太郎は師範代としては年が若過ぎた。体つきも普通である。顔も、どちらかといえば優しい顔をしている。一見しただけでは強いという感じはなかった。
一年間の修行をするために山に入るのは、ほとんどの者が十七、八歳だったが、中には太郎と同じ位な者も何人かいた。彼らにとって自分と同じ年の者に教えられるというのは面白くなかった。しかも、まったくの初心者というのはいない。皆、子供の時から剣槍を習い、さらに、腕を磨くために山に来ている。誰もが自分の腕に多少の自信を持っていた。
初めのうちは、皆、おとなしく稽古をしていたが、そのうちに、杉山八郎を中心にした四人が太郎の言う事を聞かなくなっていた。太郎は別に気にもせず、杉山たちを金比羅坊に任せる事にしたが、なお、杉山たちは太郎に逆らって行った。
金比羅坊が見かねて、「あんな奴ら、やっつけてやったらどうだ」と言うので、太郎も彼らとやり合う事になった。
うまい具合に今日は師範の勝泉坊はいなかった。
金比羅坊が皆の稽古をやめさせ、「今日は、本当の剣術というものを見せてやる」と言った。
「誰でもいい。この太郎坊と試合をやってみたいという奴はおらんか」と金比羅坊は皆の顔を見比べた。
誰も返事をしなかったが、やがて、杉山八郎が太郎を睨みながら前に出て来た。
「よし、まず、お前がやってみろ」と金比羅坊は言って太郎に合図をした。
二人は互いに合掌して木剣を構えた。
杉山は上段、太郎は下段だった。
他の者は、二人を囲むように座って、二人を見つめた。
金比羅坊も中之坊も浄光坊も目を見張って、太郎を見つめていた。去年、長い間、山に籠もって以来、誰も太郎の本当の腕を見た事がなかった。腕が数段上がっている事は誰が見てもわかったが、実際、どれ程、強いのか、誰にもわからなかった。
太郎は下段のまま動かなかった。
杉山は太郎の構えを見ながら、隙だらけだと思った。目を睨んでも太郎の目はぼんやりとしているだけで、どこを見ているのかもわからない。大した事はないと杉山は上段のまま、太郎に近づいて行った。杉山が近づいても太郎は動かなかった。いよいよ、剣が届く距離になっても太郎は動かない。
「こいつ、アホか」と杉山は太郎の頭めがけて木剣を打ち下ろした。。
太郎の頭は砕け、太郎は倒れるはずだった。しかし、杉山の剣は空を切った。太郎はほんの少し、頭を移動しただけであった。
杉山は空振りした剣を下段から振り上げた。太郎は、また、顔をかわした。
次に、杉山は一歩踏み出し、剣を横に払った。太郎は後ろにフワッと飛び、その剣を避ける。
杉山は次から次へと太郎に向かって剣を振ったが、それは、すべて、太郎にかわされて行った。
杉山の剣は太郎に触れる事もできない。まるで、空気を相手に剣を振っているようであった。
見ている方も皆、唖然として太郎の動きを見ていた。
それは、杉山が振る剣の風圧によって、フワッフワッと風に舞う木の葉のように感じられた。
杉山に攻められて後ろがなくなると、太郎はフワッと飛び上がり、杉山の頭上を軽く飛び越えた。それは、まるで、天狗そのものだった。そして、最後には杉山の木剣を空高く弾き飛ばしていた。
太郎が合掌して引き下がっても、皆、茫然としていた。
今、目の前で行なわれた太郎の技は、誰もが現実のものとは思えなかった。
しばらくして、やっと我に帰った金比羅坊が、「それまで!」と言った。
茫然として立ち尽くしていた杉山も我に帰り、木剣を拾うと引き下がって行った。
「次に誰か、やってみたい奴はいるか」と金比羅坊が皆を見回したが、誰も出ては来なかった。
「よし、今日はこれまで!」
「太郎坊殿」と若者の一人が言った。「わたしは杉谷と言います。望月三郎の幼なじみの杉谷です」
「杉谷‥‥‥ああ、あの時、色々と探ってくれたのは、お前だったのか」
「はい」
「あの時は御苦労だった」と太郎は改めて杉谷を見た。
一年前、望月又五郎を襲った時、敵の内情を探ってくれたのが杉谷だった。彼の情報のお陰で、うまく行ったとも言えた。
「太郎坊殿、俺たちにも『陰の術』を教えて下さい」と杉谷は言った。
「陰の術?」
「はい、敵の屋敷に忍び込む術です」
「ほう‥‥‥陰の術ねえ‥‥‥」
太郎がまったく知らないうちに、『陰の術』などという術の名前までが出来ていた。きっと『陰の五人衆』の使った術だから『陰の術』という名になったのだろう。
「お願いします」と五人が揃って頭を下げた。
『陰の術』と言われても、太郎に教えられる事は木登りと手裏剣くらいだが、教わりたいと言うのなら教えてやってもいいと思った。
次の日から、剣術の稽古が終わった後、太郎は『陰の術』を教えるという事になった。五人だけだと思っていたのに、集まって来たのは二十人近くもいた。
太郎はまず、刀の鍔を利用しての塀の乗り越え方、鉤縄(カギナワ)を利用しての木の登り方、手裏剣の投げ方を教えた。
天狗太郎が『陰の術』を教えているという噂を聞き、習いたいという者が続々とやって来て、その次の日には五十人近くにもなった。五十人も集まって来ると、太郎の方も大変だった。教えるからには『陰の術』というものを完成させなければならなかった。いつまでも、木登りばかりやらせておくわけにも行かない。
太郎は今まで、午前中は岩屋の中で座ったり、木を彫ったりしていたが、これからは、『陰の術』という、太郎の知らないうちに出来てしまった術に取り組まなければならなくなった。石垣を登ったり、岩を登ったり、家の戸をこじ開けたり、穴を開けたりする武器も、太郎は自分で考えた。それらの武器の使い方を教えるだけでなく、智羅天から教わった陣方や方位学、そして、祖父から教わった水軍の兵法など、役に立ちそうなものを選んで彼らに教えて行った。
「まず、敵に勝つには敵をよく知る事だ」と太郎は皆に言った。「敵の陣地や屋敷に忍び込むには、まず、見取り図を作り、見張りの場所、敵の兵力などを調べる。また、敵の内情をよく知っている者にそれとなく近づき、うまく聞き出す。やり方は色々とあるが、とにかく、敵の事をよく知らなければならない。そして、敵の虚を突く事だ」
太郎は味方同志の合図の仕方や、敵の目をごまかして逃げるやり方なども教えた。
わずか一月足らずであったが太郎は知っている限りの事を修行者たちに教えて行った。
2
年が改まって、文明三年(一四七一年)の正月、太郎は忙しく、山の中を走り回っていた。
山に登って来る信者たちは去年よりも多く、朝から晩まで、参道は人で埋まっていた。
太郎は信者たちの接待役にあたっていた。去年は太郎も修行者で、ただの手伝いとしてやっていたのだが、今年から正式に剣術の師範代の役が付き、先達(センダツ)山伏という資格も貰っていた。信者たちを行場に案内したり、護摩壇の前で祈祷もしなければならない。去年のように途中から抜け出すわけには行かなかった。ようやく、八日頃から信者たちの数も減ってきて、太郎は十一日から四日間、休みを取る事ができた。
十日の夜、仕事もやっと片付くと太郎は妻、楓の待つ里に下りて行った。
花養院の近くに太郎と楓の新居はあった。去年の末、そこが空き家となったので、松恵尼が二人のために借りてくれたのだった。
それは小さな家だったが、子供の頃から尼寺で育った楓にとっては、初めての自分の家である。楓は毎日、掃除をして家の中を綺麗に整えていった。
「お帰りなさいませ」と楓は板の間に手をついて太郎を迎えると嬉しそうに笑った。
「これが、俺たちのうちか‥‥‥」と太郎は初めて見る二人の新居を眺めた。
「どう、あなた」と楓は部屋の中を案内した。
「これが、俺たちのうちか‥‥‥」と太郎は部屋の中を見回しながら満足そうに笑った。
台所と居間と納戸(寝室)だけの小さな家だったが、井戸もあり、風呂もあり、小さな庭も付いていた。居間の隅にある文机(フヅクエ)の上には信楽焼きの花瓶に梅が一枝差してあり、壁には流れるような字で、和歌の書かれた小さな掛軸が飾ってあった。
「どう?」と楓は聞いた。
「最高さ」と太郎は楓を抱き寄せた。
「長い間、御苦労様」と楓は太郎を見つめながら言った。
「楓のお陰さ」と太郎も楓を見つめていた。
楓は酒の用意をして待っていた。
「あなた、新年、おめでとうございます」と楓は言うと太郎に酒を注いだ。
「ああ、そうだ、忘れていた。おめでとう」と太郎は酒を飲み干すと酒盃を楓に渡し、酒を注いでやった。
楓は嬉しそうに酒を飲み干した。
「師範代になられたそうですね」
「まあな、そんな役を貰ってから、色々と忙しくなったよ」
「いいじゃありませんか。里でも、あなたの事は有名よ」
「どう、有名なんだ」
「『陰の術』よ。多分、今年は、あなたから陰の術を習おうと、若い人たちが続々と山に登って行くわ」
「『陰の術』とは良く付けたもんだ‥‥‥今のように世の中が乱れているから、みんなから教えてくれと言われるが、もし、これが平和の世であってみろ。あんな術は盗人(ヌスット)や山賊の術だぞ。教えていながら自分でもいやになって来る時もある」
「それは術のせいじゃないわ。剣術や薙刀だって、使う人の心次第でどうにでもなるわ」
「そうだ、心なんだよ」と太郎は頷いた。「一番、重要なのは心なんだ。俺も去年一年、山で修行して、改めて、心というものの重要さがわかってきた。まだ、まだ、俺も修行せにゃならん」
「頑張って下さい。あたしは、どこまでもあなたに付いて行きます」
「頼むぞ‥‥‥だがな、十四日までの休みのうちは修行はやめだ。修行の事など忘れて、お前と二人だけで楽しく過ごそう」
「はい」と楓も嬉しそうに頷いた。
次の日、珍しい客が二人の新居を訪れた。
望月三郎、三雲源太、芥川左京亮の三人だった。太郎は三人を懐かしそうに迎えた。
「よく、ここがわかったな」と太郎は三人に聞いた。
「陰の術よ」と三雲が自慢げに言った。「おめえが、どこで、何をやっているか調べるなどわけねえ」
「それにしても、おめえも隅に置けんな」と芥川は言った。「山の中で修行ばかりしてると思ってたら、いつの間にか、ちゃんと、女の方にも手を出している」
「おめえ、人の事など言えんぞ」と三雲が芥川の肩をつついた。「手が早えったらありゃしねえ」
芥川左京亮はとうとう望月三郎の妹、コノミの心を捕え、去年の秋、一緒になっていた。
「望月、あれから、うまく、やってるのか」と太郎は聞いた。
「まあな、陰の術のお陰さ」と望月は笑った。
四人は山での修行の事や、その後の事など懐かしく話しながら、楓の作った料理をつまみに酒を酌み交わした。
「服部の奴はどうしてる」と太郎は聞いた。
「奴は伊賀に帰ったよ」と望月は言った。「伊賀の方も色々と小競り合いがあって大変らしい。奴は一応、服部家の総領だからな。いつまでも遊んでられないんだろう」
「本当はコノミ殿にふられて、ガックリきて伊賀に帰ったのさ」と三雲は笑った。
「そう言うお前はどうなんだ。芥川、服部、三雲、三人して、コノミ殿を追いかけ回していたんじゃなかったのか」と太郎は三雲に言った。
「あれ、どうして、そんな事、知ってんだ」
「俺も陰の術を使うんだよ」と太郎は笑った。
「俺はもう、きっぱりと諦めたさ」
「こいつには、もう、他に女がちゃんといるんだよ」と芥川が言った。
「いねえよ、そんなの」と三雲は慌てて否定した。
「三雲、俺たちに隠し事は通じないぜ。白状した方がいいんじゃねえのか」
「参ったなあ、でも、もう少し待ってくれよ。俺だって恥をかきたくねえからな」三雲は困ったような顔をして言った。
そんな三雲を見ながら、「まあいい、まあいい」とみんなして笑った。
「ところで、お前、去年、半年も山に隠れていたそうだが、一体、何をしてたんだ」と望月が太郎に聞いた。
「ちょっとな、仙人にでもなろうと思ってな、山に籠もってみたんだが、やっぱり駄目だったよ」と太郎は笑いながら言った。
「今度は仙人か。天狗が仙人になるのか、こいつはいいや」と芥川は笑った。
太郎は智羅天の事は楓以外、誰にも喋っていなかった。智羅天から教わった気合の術も誰にも見せてはいない。自分の身が危険にさらされた時以外、気合の術は使うまいと心に決めていた。
「なあ、どうやったら仙人になれるんだ」と三雲が真顔で聞いた。
「アホ、太郎坊の話を本気にする奴があるか。仙人なんているわけねえだろ」と芥川は三雲を小突いた。
「じゃあ、一体、何してたんだ」
「滝に打たれたり岩屋の中で座ったり、山の中を走り回って修行してたんだろ」と芥川が言った。
「実はな、薬草の勉強をしてたんだ」と太郎は皆に言った。「薬草に詳しい山伏がいてな。その人について色々と教わってたんだよ」
「薬草? そんな事、習って、どうするんだ。薬売りでもやるんか」と望月が不思議そうに聞く。
「ああ。俺の師匠、知ってるだろう。あの人は薬を売りながら旅をしている。俺も女房を食わして行くには何かをしなくちゃならねえからな」
「そうか‥‥‥おめえも大変だな」と芥川。
「何も薬売りなんかしなくても、お前、今、師範代やってんだろ。食うには困らんのじゃないのか」と望月。
「ああ、今はな。しかし、去年は、まさか俺が師範代をやるなんて考えてもいなかったよ」
「そりゃ、そうだな」
「お前らに、いい薬があるから、やろう」と太郎は隣の部屋から袋を持って来た。
「これは飲み過ぎに効く薬だ」と太郎は黒い丸薬を見せた。「これは腹痛だ。お山で作っている飯道丸よりは効くぞ。お前みたいに、いつも下痢してる奴にはすぐ効く」と太郎は三雲に渡した。
「もう、下痢なんか治ってるよ。あれはお山の食い物が俺の腹に合わなかっただけだ」
「こいつは戦に行った時など食い物がない場合、一日、三粒づつ飲めば、何日でも物を食わずに生きていられる薬だ」
「ほう、そんな便利な物があるのか」と三人は感心しながら太郎の出す丸薬を眺めた。
太郎は色々な薬を皆に見せ、作り方も教えてやった。
3
太郎と楓は智羅天の墓の前に座って冥福を祈っていた。
太郎は智羅天の岩屋に楓を連れて来た。勿論、道などはなく、いくつも岩を乗り越えなければここには来られないのだが、薙刀の名人で、身の軽い楓なら登れるだろうと思い、また、この岩屋をどうしても楓にだけは見せたかった。
智羅天が死んだ今、この岩屋を知っているのは太郎だけである。しかし、一人だけで知っていても面白くない。楓にも教えて二人だけの隠れ家にしたい、と子供のような考えで、太郎は楓を伴ってここまで登って来た。
「凄い所ね」と楓は岩壁を見上げながら言った。
岩壁には長い氷柱(ツララ)がいくつも張り付いて、光っていた。
「ここは俺たちの別宅だよ。俺たちしか知らない」
太郎は積もった雪の中を楓の手を引きながら、岩屋の中へと連れて行った。
「暖かいだろ」と太郎は手燭(テショク)の明かりを点けながら言った。
「ほんと、暖かい」
太郎は楓を連れて岩屋の中を案内して回った。
「中は広いのね」と楓は感心していた。
岩壁に彫られた如意輪観音像を見せると楓は、「わあ、凄い!」と声を上げて眺めた。
「この岩屋の守り本尊だ」
「凄いわ。一体、誰が彫ったの」
「智羅天殿の話によると、昔、この辺りに金勝(コンゼ)族っていう連中が住んでいたんだそうだ。彼らは遠く明(ミン)の国の方から流れて来た人たちで、奈良にある大仏様も彼らが作ったそうだ。狛坂寺にも阿弥陀如来様が彫ってあるだろう。あれも金勝族が彫ったらしい。その人たちが、昔、ここに住んでいて、この如意輪観音様を守り本尊にしていたんだろう」
「へえ、そうなの。でも、その人たちは一体、どこに行っちゃったの」
「奈良の大仏様を作ってから、有名になって、仏像を作るためにあっちこっちに出掛けて行って、みんな、バラバラになっちゃったんだろう」
「ふうん‥‥‥」
「今、有名な仏師(ブッシ)たちは皆、その流れを汲んでいるのかもしれない。もしかしたら、智羅天殿もその子孫だったのかもしれない」
「成程ね」
「次はこっちだ」と太郎は楓の手を引いて次の部屋に連れて行って、智羅天が彫った木彫りの弥勒菩薩、不動明王、聖観音、そして、太郎が自分で彫った智羅天像を見せた。
「これ、ほんとにあなたが彫ったの」と智羅天像を見ながら楓は驚いていた。「あなた、何でもやるのね」
「これは自分でも不思議に思う。多分、智羅天殿の霊が俺に取り憑いて、これを彫らせたんじゃないかと思うよ。三日間、何も食べず、一睡もせずに彫り続けた。あれは、今、思うと、ちょっと異常だった」
「ふうん‥‥‥でも、凄いわね。ほんとに魂が籠もってるっていう感じ。今にも、このお爺さん、動き出しそう」
「ありがとう」
二人は如意輪観音の部屋で焚火をして、雪で濡れた着物の裾を乾かした。
「俺は三月で、お山を下りようと思っている」と太郎は焚火の炎を見つめながら楓に言った。「多分、三月になったら師匠が来るだろう。そしたら、お山を下りようと思っている。一度、五ケ所浦に帰ろうと思っているんだ。一年の約束で出て来たんだが、すでに、二年になってしまった‥‥‥みんな、心配しているだろう‥‥‥」
楓は太郎の顔を見つめながら話を聞いていた。
「なあ、楓、お前も一緒に来てくれるな」
「当たり前でしょ。どこにでも付いて行くわ。でも‥‥‥」
「でも、何だい」
「あなたは水軍の大将の息子さんでしょ‥‥‥あたしなんか連れて行っても大丈夫なの」
「何、言ってんだよ。お前は俺の女房だぜ。それにお前は立派な武士の娘だよ。お前以上の女はいない。両親だって、ちゃんと、お前の事を認めてくれるさ‥‥‥それより、お前の方は大丈夫なのか」
「大丈夫よ。松恵尼様は許してくれるわ」
「よし、そうと決まれば、あと三ケ月、世話になったお山のために頑張るとするか」
「ねえ、五ケ所浦って、どんな所なの」
「暖かい所だよ。冬だって雪なんて降らないし、海で取れる魚や貝類がうまい。平和な田舎だよ。最近はこの辺りも物騒になって来たけど、五ケ所浦はまだ相変わらず、平和だろう」
「そう‥‥‥あたしは小さい頃から、ずっと、ここにいるだけで、どこにも行った事がないわ。一度、海っていうのを見たかったわ」
「海か‥‥‥懐かしいな。俺も、早く、海が見たくなって来た」
太郎と楓は休みの間、世間から隠れて、暖かい岩屋の中で二人だけの時を過ごした。
4
今年も、甲賀、伊賀の若者たちが山に登って来た。その数は三百人を越えていた。そのほとんどが、太郎の編み出した『陰の術』を習いたくて登って来た者たちだった。
今年から、陰の術も、太郎を師範として正式に武術教程の中に組み込まれる事になった。ただし、誰にでも教えるわけには行かないので、厳しい修行に耐え、最後まで残った者たちに、最後の一ケ月間、修行させるという事に決まった。
今の所、陰の術の師範は太郎一人しかいない。三月一杯で山を下りるという事は高林坊に告げ、許されたが、十一月の末から一ケ月間は山に戻って来て、陰の術を皆に教えてやってくれと頼まれた。太郎は引き受けた。
恒例の一ケ月間の山歩きが始まった。
毎年の事だが、この山歩きで半分はふるい落とされる。人数が、あまりにも多すぎるので、今回は三百人を三つに分け、第一隊は西光坊元内が率い、第二隊は中之坊円学が率い、第三隊は太郎坊移香が率いる事になった。
初めの六日間は飯道山から太神山までの片道を歩く。
太神山に三百人も収容できる宿坊がないので、各隊を一日づつ、ずらせて歩く事になった。第一隊が太神山に向かって歩き始めた日、第二隊と第三隊は金勝山まで行って戻って来た。二日目は第二隊が太神山に向かい、第三隊はまた、金勝山までの往復、そして、第一隊が戻って来ている三日目は、第三隊が太神山に向かい、第一隊は金勝山までの往復という具合に、六日間は飯道山から太神山までの距離、六里半(約二十六キロ)を歩かせた。
この六日間で三十人近くの落伍者が出た。
七日目からは太神山までの往復十三里(約五十二キロ)を歩く事になる。第一隊が出発してから四半時(シキントキ、三十分)おきに、次の隊が出発して行った。朝、七ツ時(四時)に起き、山門内外の掃除または水汲みをして、洗顔、朝食を取り、読経をして、明け六ツ時(六時)から一番初めの隊が歩き出して行った。
山歩きに慣れない者たちにとって、日が暮れるまでに山道を十三里歩くのは、かなりきつい修行である。しかも、山道には雪が積もっていて歩きづらかった。初めのうちは日暮れまでには帰って来られない。五ツ時(午後八時)を回ってしまう。帰って来て夕食を取るのだが、体が疲れきってしまい、食事も喉を通らず、倒れるように寝てしまう者がほとんどだった。
太郎は百人近くもの若者たちの先頭に立って山を歩いていた。太郎がのんびり歩いているつもりでも、若い者たちにとって付いて行くのは大変な事だった。まだ、片道しか歩いていない六日間で、二十人近くの者が抜けて行った。太郎の隊が一番多かった。
一ケ月の山歩きで半分は落とさなければならないのだが、六日間のうちで二十人近くというのは多すぎた。太郎は七日目から努めて遅く歩くようにし、八日目からは一番最後をのんびりと散歩する事にしていった。飯道山に帰って来るのはいつも、日が暮れて、真っ暗になっていた。八十人も連れて、ゆっくり歩くのは自分の早さで独り歩くより、ずっと疲れる事だった。
太郎が一番最後に付いて、ゆっくり歩いていても、山を下りて行く者の数は減らなかった。それに、今年の冬はやけに寒く、雪の日が多かった。どんなに吹雪いていても山歩きは中止にはならない。吹雪の中を雪に埋もれながらも歩き通した。そんな日の次の朝には、特に山を下りて行く者は多かった。
一ケ月の山歩きが終わり、太郎の第三隊に残った者はわずかの三十二人だった。自分のやり方が間違っていたのかと太郎は思ったが、第一隊、第二隊で残った者の数も第三隊と大して変わってはいなかった。
結局、最後まで残った者は合計で九十五人だった。三百人のうち二百人は山を下りていった。本気で修行をしたいと思って登って来た者より、興味本位の軽い気持ちで『陰の術』という不思議な術を自分も身に付けようと登って来た者が多かったに違いなかった。
残った九十五人のうち、剣術の組に入って来たのは三十六人だった。この中で、最後まで残っているのは十人位だろうと太郎は思った。
武術の稽古は午後からである。午前中はそれぞれ、作業を行なう事になっていた。作業は色々とあった。信者たちに配る魔よけの札を作ったり、護摩を焚く時にくべる札を作ったり、薪を作ったり、信楽焼きで有名な信楽の庄がすぐ側にあるため、山の中にも窯(カマ)があり、陶器も作っているし、飯道丸という腹痛に効く薬も作っていた。その他、参道の修復、時には里に下りて行って、治水の土木工事をやる事もある。それに、この山で使う物は食糧以外は、箸から武器に至るまで、ほとんど自給していた。
太郎は午前中、陰の術の稽古に使う武器を色々と考え、山にいる鍛冶師に頼んで作って貰っていた。手裏剣、鉤縄の鉤、それに、少し大きめな刀の鍔、鉄菱、岩を登る時や、穴を掘ったりする時に使う苦無(クナイ)など、習う者たち全員の手に渡るように充分な数を作らせた。その他、縄ばしごなど自分の手で作れる物は自分で作り、三雲が考え出した黒装束も使い易いように改良して、楓に頼んで作って貰っていた。また、あらゆる屋敷や砦、城などに忍び込む場合を想定して、どんな武器が必要なのかを考え、色々な武器を作って、それを使い易いように改良していった。それだけでなく、それらの武器を使い、夜の闇に紛れ、実際に寺や砦や郷士の家などに忍び込んだりしていた。
午後になると道場に出向いて若い者たちに剣術を教えた。太郎は皆に良くわかるように丁寧に教えた。しかし、太郎は師範代としては年が若過ぎた。体つきも普通である。顔も、どちらかといえば優しい顔をしている。一見しただけでは強いという感じはなかった。
一年間の修行をするために山に入るのは、ほとんどの者が十七、八歳だったが、中には太郎と同じ位な者も何人かいた。彼らにとって自分と同じ年の者に教えられるというのは面白くなかった。しかも、まったくの初心者というのはいない。皆、子供の時から剣槍を習い、さらに、腕を磨くために山に来ている。誰もが自分の腕に多少の自信を持っていた。
初めのうちは、皆、おとなしく稽古をしていたが、そのうちに、杉山八郎を中心にした四人が太郎の言う事を聞かなくなっていた。太郎は別に気にもせず、杉山たちを金比羅坊に任せる事にしたが、なお、杉山たちは太郎に逆らって行った。
金比羅坊が見かねて、「あんな奴ら、やっつけてやったらどうだ」と言うので、太郎も彼らとやり合う事になった。
うまい具合に今日は師範の勝泉坊はいなかった。
金比羅坊が皆の稽古をやめさせ、「今日は、本当の剣術というものを見せてやる」と言った。
「誰でもいい。この太郎坊と試合をやってみたいという奴はおらんか」と金比羅坊は皆の顔を見比べた。
誰も返事をしなかったが、やがて、杉山八郎が太郎を睨みながら前に出て来た。
「よし、まず、お前がやってみろ」と金比羅坊は言って太郎に合図をした。
二人は互いに合掌して木剣を構えた。
杉山は上段、太郎は下段だった。
他の者は、二人を囲むように座って、二人を見つめた。
金比羅坊も中之坊も浄光坊も目を見張って、太郎を見つめていた。去年、長い間、山に籠もって以来、誰も太郎の本当の腕を見た事がなかった。腕が数段上がっている事は誰が見てもわかったが、実際、どれ程、強いのか、誰にもわからなかった。
太郎は下段のまま動かなかった。
杉山は太郎の構えを見ながら、隙だらけだと思った。目を睨んでも太郎の目はぼんやりとしているだけで、どこを見ているのかもわからない。大した事はないと杉山は上段のまま、太郎に近づいて行った。杉山が近づいても太郎は動かなかった。いよいよ、剣が届く距離になっても太郎は動かない。
「こいつ、アホか」と杉山は太郎の頭めがけて木剣を打ち下ろした。。
太郎の頭は砕け、太郎は倒れるはずだった。しかし、杉山の剣は空を切った。太郎はほんの少し、頭を移動しただけであった。
杉山は空振りした剣を下段から振り上げた。太郎は、また、顔をかわした。
次に、杉山は一歩踏み出し、剣を横に払った。太郎は後ろにフワッと飛び、その剣を避ける。
杉山は次から次へと太郎に向かって剣を振ったが、それは、すべて、太郎にかわされて行った。
杉山の剣は太郎に触れる事もできない。まるで、空気を相手に剣を振っているようであった。
見ている方も皆、唖然として太郎の動きを見ていた。
それは、杉山が振る剣の風圧によって、フワッフワッと風に舞う木の葉のように感じられた。
杉山に攻められて後ろがなくなると、太郎はフワッと飛び上がり、杉山の頭上を軽く飛び越えた。それは、まるで、天狗そのものだった。そして、最後には杉山の木剣を空高く弾き飛ばしていた。
太郎が合掌して引き下がっても、皆、茫然としていた。
今、目の前で行なわれた太郎の技は、誰もが現実のものとは思えなかった。
しばらくして、やっと我に帰った金比羅坊が、「それまで!」と言った。
茫然として立ち尽くしていた杉山も我に帰り、木剣を拾うと引き下がって行った。
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