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- → (11/21) [PR]
- → (07/19) 序章
- → (07/19) 第一部 1.誕生
- → (07/20) 第一部 2.風眼坊舜香
- → (07/21) 第一部 3.水軍剣法
- → (07/21) 第一部 4.寛正の大飢饉
- → (07/22) 第一部 5.五ケ所浦
- → (07/23) 第一部 6.応仁の乱
- → (07/24) 第一部 7.旅立ち
- → (07/25) 第一部 8.京の都
- → (07/26) 第一部 9.山伏流剣法
静かな海だった。
もうすぐ、満月になろうとする月が南の空にポッカリと浮かんでいる。そして、きらめく星空の下に一艘の船がポツンと浮かんでいた。
ここは熊野灘(ナダ)、志摩半島の南、五ケ所湾の入口、田曽岬のすぐ先であった。
ポツンと浮かんでいる船は『関船(セキブネ)』と呼ばれる中型の軍船で、その見張り櫓(ヤグラ)の上に、一人の男が仁王立ちになっている。総髪(ソウハツ)の頭に革の鉢巻を巻き、腹巻と呼ばれる鎧(ヨロイ)の胴を付け、三尺余りもある長い太刀を佩(ハ)き、十文字槍(ヤリ)を左手に持ち、遠く東の空を睨んでいる。今にも戦が始まるかのような出立ちであった。
海は静かだった。船の上にも、その男以外に人影は見えない。
その男の名を愛洲太郎左衛門宗忠(ムネタダ)と言う。愛洲一族の一人で後の水軍の大将である。
愛洲一族は南北朝以前から南伊勢一帯に勢力を持つ豪族で、南北朝時代には伊勢の国司、北畠氏を助けて南朝方で活躍をした。しかし、時は流れ、今は伊勢の国(三重県)の南端、五ケ所浦でひっそりと暮らしていた。
五ケ所浦は北、東、西と三方を山に囲まれ、南は海に面した狭い所だが交通の要所として賑わっていた。伊勢参り、熊野詣でが庶民にまで広まって、近くの者はもとより、遠くは周防(スオウ)、長門(ナガト、どちらも山口県)や奥州(東北地方)などからも講を組み、先達(センダツ)や御師(オシ)に連れられて参詣にやって来た。
ここ五ケ所浦は熊野と伊勢神宮を結ぶ水路として栄えていた。熊野から来た参宮者は、ここで船を降り、陸路、剣峠を越えて伊勢内宮、外宮へと向かい、伊勢から来た者は、ここから船で熊野へと向かって行った。それらの旅人たちの安全な旅と引き換えに、愛洲氏は彼らから関銭を取っていた。
愛洲太郎左衛門宗忠ひきいる水軍も海の関所の役割を果している。関銭を払えば、その船の安全をはかるが、払わないと、その船は水軍に囲まれ、金品は全て没収、逆らう者は殺され、魚の餌食(エジキ)となって行った。
仁王立ちの宗忠は身動きもせず、東の空を睨んでいる。
「お頭!」と見張り櫓の下から声を掛けた者があった。
「お頭!」
宗忠が黙ったままでいるので、もう一度、声を掛けた。
「何じゃ」宗忠は声の方を向こうともせずに返事をした。
「いつまでも、そんな所に立っておられては冷えますぞ」
「新五か‥‥‥おい、酒はあるか」
「はっ、ここに」と芳野新五郎貞行は手に持った、ひょうたんを高く上げて宗忠に示した。
「おう!」宗忠は気合を掛け、左足を大きく踏み込み、槍で空(クウ)を一突きした。
一突きした後、空を見上げると宗忠は見張り櫓から降りて来た。
「お頭、今日もいい天気になりますな」と新五郎は宗忠の槍を受け取った。
二人は船首の方に行くと甲板に座り込んだ。新五郎は酒をひょうたんから大きなお椀に注いだ。宗忠は新五郎が差し出した酒を一息に飲みほした。
東の空と海が、ようやく明るくなり始めて来ていた。
宝徳四年(一四五二年)、この年は夏に長雨が続き、諸国が洪水に悩まされた。京都より北陸にかけては疱瘡(ホウソウ)が大流行し、小児らが多数死んで行った。民衆は各地で徳政を求めて一揆を起こしている。七月二十五日に享徳元年と改元され、ようやく長雨も終わり、真夏のような暑い日々がやって来た。
「今日も暑くなりそうですな」と新五郎が東の空を見ながら言った。
海鳥が海の上を鳴きながら飛び始めていた。
陸(オカ)の方では海女(アマ)たちが焚火を始めたらしい。五、六人の海女が高い声を上げながら、海の中に入って来た。
「平和じゃのう」と宗忠がポツリと言った。
新五郎も海女たちの方を眺めながら頷(ウナヅ)いた。
海女たちは桶(オケ)を抱え、白く光る海の上を沖に向かって気持ち良さそうに泳いでいる。
宗忠と新五郎はのどかな朝の風景を楽しみながら、酒を飲み交わしていた。
あくびをしながら河合彦次郎吉晴が太刀を引っさげて、やって来た。
「おっ、やってますな」とニヤッと笑う。
「おう、彦次か、お前もやれ」と宗忠は彦次郎の顔を見上げた。
「いいんですか。朝っぱらから」
「なに、祝い酒じゃ」宗忠は酒の入った椀を彦次郎に差し出した。
「おう、そうでした、そうでした」彦次郎は嬉しそうに笑うと座り込み、酒を飲み始めた。
「立派な男の子じゃぞ」と彦次郎は新五郎の肩をたたいた。
「そんな事、決っとるわい」と新五郎は宗忠の方を見て頷いた。
宗忠は二人に横顔を見せたまま、海を見つめていた。
お頭と呼ばれてはいるが宗忠はまだ若かった。新五郎と彦次郎もまた若い。宗忠の父、愛洲隼人正(ハヤトノショウ)重忠は愛洲水軍の総大将として、熊野灘に名を轟かせて活躍をしていた。宗忠は重忠の長男である。やがて、父の跡を継ぐ事になっていた。そして今、宗忠の初めての子が生まれようとしている。もし、その子が男の子なら、彼もまた水軍の大将として生きて行く事になるだろう。
新五郎と彦次郎は酒を酌み交わし、宗忠の子供の話から戦(イクサ)の話、そして女の話へと話題を変え、笑いながら話し合っていた。新五郎の方はつい最近、可愛い嫁を貰ったばかりだが、彦次郎の方はまだ独り者だった。彦次郎は今、惚れた女がいるが、どうもうまくいかんと渋い顔をしてこぼした。新五郎は彦次郎の顔を見て大笑いしている。
「どうした」と宗忠が二人の方を向いて声を掛けた。
新五郎が彦次郎の事を笑いながら説明した。
「お前らしくないな」とポツリと言うと、宗忠はまた海の方に目をやった。
ようやく、朝日が昇って来た。
海が輝きを増した。
「いつ見ても、夜明けというのはいいもんじゃのう」新五郎は目を細めて朝日を眺めた。
「おう」と彦次郎も返事をすると東の海を眺めた。
「朝日もいいが、あれの眺めも最高じゃ」新五郎は彦次郎の膝をたたいて、海女たちの方に目をやった。
「うむ、悪くないな」と彦次郎は満足そうに頷く。「若い女どもを眺めながら飲む酒も、また格別うまいわい」
海女たちは海上に浮かんで来ては、「ヒュー」という音と共に息を吸い込み、白い両足を海上に突き出して、また潜って行った。
二人はそんな海女たちを見比べてはニヤニヤしながら酒を傾けている。
宗忠は遠くを見つめたまま、二人のたわ事も耳に入らないらしかった。
あたりは、すでに明るくなっている。
新五郎も彦次郎もいい気持ちになってくつろいでいた。宗忠だけは沖の方をじっとみつめたまま、ゆっくりと酒を飲んでいる。
「お頭!」と新五郎が突然、叫んだ。「舟がやって来ますぞ」
宗忠も彦次郎も新五郎が指さす方を見つめた。
「おう、確かに舟じゃ」と今度は彦次郎が叫んだ。
「とうとう、生まれたか‥‥‥」宗忠は立ち上がった。「旗は見えるか」
「白です」と新五郎も立ち上がりながら言った。
「本当か、わしにはよう見えんぞ」宗忠は目の上に手をかざして遠くの舟を見つめた。
『小早(コバヤ)』と呼ばれる小船はみるみる近づいて来た。
「確かに白じゃ、男じゃ‥‥男じゃ‥‥」宗忠は嬉しそうに新五郎の肩をたたいた。
「お頭、おめでとうございます」新五郎は風に揺らめく白旗を見つめながら言った。
「よかったのう」と彦次郎は左手に持った太刀を振り上げた。
「兄上、男の子ですぞ!」と『小早』から弟の次郎長忠が叫んだ。
「でかしたぞ!」宗忠は叫ぶと素早く腹巻をはずし、太刀もはずして海の中に飛び込んだ。
「お頭!」新五郎と彦次郎は大将の突然の行動に唖然としている。
「どうする」新五郎は彦次郎の顔を見た。
「当たり前じゃ」と彦次郎は太刀を置くと、宗忠を追って海に飛び込んだ。
新五郎も負けずと飛び込む。
宗忠は『小早』に向かって泳いでいる。お頭に続けと新五郎も彦次郎も泳いでいる。
『関船』の上では、三人が海に飛び込む音に、「何事じゃ」と飛び出して来た者たちが、近づいて来る『小早』の白い旗を見つけ、喜び、騒いでいた。中には調子に乗って海に飛び込む者も何人かいる。
上空では鳶(トビ)が気持ち良さそうに飛んでいた。
愛洲太郎左衛門宗忠の長男は『太郎』と名付けられた。
雲一つない日本晴れの秋空だった。
見晴らしのいい山の頂上に山伏(ヤマブシ)が一人、風に吹かれて座わり込んでいる。
眼下には穏やかな青い海が広がり、東北には富士の山が神々しく、そびえている。
ここは駿河の国(静岡県)久能山。
古くは山中に天台宗補陀落山久能寺が甍(イラカ)を並べて栄えていたが、南北朝の頃、全山が焼かれ、今は荒れ果てていた。
夏の間、伸び放題に伸びていた草が風に吹かれて揺れている。
山伏は海の方に向かって座ってはいても、海を見ているようでもなく、時々、右を向いては手に持った頑丈そうな錫杖(シャクジョウ)を鳴らし、左を向いては、また錫杖を鳴らしていた。
この山伏が持っている錫杖を菩薩(ボサツ)錫杖といい、杖の先に金属製の六つの円環がついている。この六輪は布施、持戒、忍辱(ニンニク)、精進(ショウジン)、禅定(ゼンジョウ)、知慧(チエ)の六波羅密(ロクハラミツ)を示しているという。
山伏が錫杖を振るたびに、その六輪は神秘的な音を風の中に響かせていた。
左の方に目をやれば、関東。そこでも、鎌倉公方(クボウ)の足利成氏(シゲウジ)と関東管領の上杉氏が争いを始め、回りの豪族たちもこれに巻き込まれて、あちこちで戦が始まっていた。
「さて、どうするかのう」と山伏は独り言を言った。
この山伏、名を風眼坊舜香(フウガンボウシュンコウ)といい、大和の国(奈良県)大峯山の修験者(シュゲンジャ)である。
長い髪が風に吹かれて揺れている。兜巾(トキン)の下の彫りの深い顔はまだ若い。頑丈そうな長い太刀を腰に差していた。
四年前、大峯山を出てから、三年余りは近江(オウミ)の国(滋賀県)の飯道山(ハンドウサン)にいた。今年の春に旅に出て、諸国を行脚(アンギャ)している。北陸を経て、関東を一回りして、富士の山に登り、今、久能山にいるわけだが、さて、これからどうするか、それを座り込んで考えているのであった。
「まだまだじゃ」と言うと法螺貝(ホラガイ)を口にあてた。
二、三度、法螺貝を短く鳴らすと、風眼坊は海に向かって思い切り吹き始めた。
風眼坊舜香、一応、僧侶らしい名前だが完全な僧ではなく、半僧半俗、あるいは、非僧非俗であった。彼らは山伏というより、先達(センダツ)、聖(ヒジリ)、聖人(ショウニン)、行者(ギョウジャ)などと呼ばれ、一般庶民の不可能と思われる事を可能にしてくれる、大した人間であると仰望(ギョウボウ)されていた。人の入り込まない山奥に籠もって荒行をして、指で不思議な印(イン)を結び、真言(シンゴン)を唱え、治病や魔よけ、盗賊よけ、雨乞いなどの加持祈祷(カジキトウ)をおこなった。また、魔法じみた事をやり、人々を惑わしたりする者も中にはいたという。
法螺貝を口から離すと風眼坊は立ち上がり、「しばらくは昼寝じゃな」とポツリと言った。「久し振りに、お光の顔でも見ながら、のんびりするか‥‥‥」
風眼坊は富士山を見上げると、錫杖を鳴らしながら山を下りて行った。
愛洲太郎左衛門宗忠の長男、太郎は七歳になっていた。
京都や奈良では土民や馬借らが蜂起し、民家や寺は焼かれ、庶民は逃げ惑っていても、ここ、五ケ所浦はまだまだ平和だった。現世利益(ゲンゼリヤク)と極楽往生を願い、熊野詣で、伊勢参りの旅人たちが行きかっていた。
太郎はそんな平和な町で、のびのびと育っていた。毎日、近所の子供たちと真っ黒になって海で遊んでいる。代々、水軍の家柄だけあって、泳ぎは教わらなくても自然に覚えてしまい、朝から晩まで海に行って遊んでいた。
後の江戸時代の武士とは違い、武士の子は武士らしくなどと言って、枠にはめて育てるという事はまだなく、町の子供たちと一緒になって遊び回っていた。
今年になって、春から祖父の白峰より剣と槍を習い始め、祖母より読み書きを習い始めた。四歳になる次郎丸という弟や昨年、生まれたばかりの澪(ミオ)という妹もできた。
この頃はまだ、後のように剣術の流派などなく、ほとんどが力にまかせて相手を打つというものだった。お互いに鎧(ヨロイ)に身を固めていては、そうやたらと斬れるものではない。しかも、馬上での戦いでは、片手だけで太刀を操らなければならない。三尺余りもある太刀(刃渡りが一メートル近くある太刀)を片手で使うには、力がなければ話にならなかった。
しかし、水軍の剣法は陸の戦とは少し違っていた。まず、重い鎧は身に付けなかった。狭い船内で、しかも、揺れる船上でも活動しやすいように、邪魔になる物は一切省き、軽量の兜と腹巻を身に付けるだけであった。海の戦では陸とは違い、敵の兜首を取ったり、一番槍というものはなく、敵船に近づいたら槍や長柄の太刀で敵を海にたたき落とすというやり方だった。
狭い船上での戦いなので、やたらと振り回す薙刀(ナギナタ)を使う事はなく、もっぱら槍が使われた。槍も普通のとは違い、十文字の槍を使った。十文字と言っても刃が三方に付いているのではなく、横に飛び出ているのには刃は付いていない。ただの鉄の棒になっている。一尺弱の鉄の棒で、それを利用して敵を引っかけ、海にたたき落としたり、刀の鍔(ツバ)のような役割も果たした。
剣の使い方も陸とは違った。足場が不安定なため、しっかりとバランスを取らなくてはならない。しかも、お互い鎧で完全武装しているわけではないので、斬る所はいくらでもある。バランスを崩した事が、命取りになるという事が何度もあった。
鎧に身を固めて使う剣法の事を介者(カイシャ)剣法という。それに対し、鎧をはずして使うのを素肌剣法と言った。
介者剣法では重い鎧を着ているため、動きも自由ではなく、腰を低く構え、斬る所にも制限がある。首を斬るには太刀を兜と鎧の隙間に突き入れなくてはならず、表籠手も鉄板や鎖でおおわれているので内側を狙わなければならない。その他、狙える所は鎧の胴と草摺(クサズリ)を繋ぐ糸の部分、足は佩楯(ハイダテ)の間から内股を突く位であった。戦国時代のこの当時は皆、この介者剣法である。やがて、江戸時代になって戦がなくなり、平和になるに従って、素肌剣法へと発達していく。しかし、水軍の剣法は早いうちから素肌剣法に近いものだったのかもしれない。
太郎は祖父、白峰を相手に木剣を振っていた。
「エーイ!」と太郎は掛声と共に白峰に打ちかかる。
白峰は太郎の木剣を受けると払い落とし、そのまま、太郎の両腕を打つ真似をした。
「もう、お前の両腕はないぞ。どうする」と白峰は太郎に聞いた。
太郎は自分の両腕の上で止まっている白峰の木剣を見つめていたが、「エイ!」と掛声をかけ、白峰の木剣を自分の木剣で打ち上げた。
愛洲白峰‥‥‥かつては、愛洲水軍の大将として、熊野から志摩にかけて名を轟かせていた。『愛洲の隼人(ハヤト)』と言えば海の猛者たちの間で恐れられ、また、尊敬もされていた。
八年前の戦の時、左脚に矢を射られ、射られた場所が悪かったとみえて、それ以来、左脚が自由にならなくなった。歩くにはたいして気にならないが、船上で自由に動き廻る事は難しくなった。それでも、水軍の大将として頑張っていたが、孫の太郎も生まれ、息子の宗忠も一人前になったので『隼人正』の名を宗忠に譲り、二年前から隠居して白峰と号していた。
「お爺ちゃん、もう手が痛いよ」と太郎は木剣を構えたまま白峰を見た。
「太郎、そんな事じゃ大将にはなれんぞ」
白峰は太郎の頭めがけて木剣を打った。
太郎はかろうじて、木剣でそれを受け止めた。
「よし、今日はこれまでにしておくか」
二人は木剣を引き、互いに礼をかわした。
「太郎、剣術は好きか」と白峰は海の方を見ながら言った。
「はい」と太郎も海を見ながら答えた。
「そうか、好きか‥‥‥」
のんびりとした春の海だった。
ちょうど旅人たちを乗せた船が、愛洲水軍に守られながら熊野に向かって出て行くところだった。船旅の無事を願う法螺(ホラ)貝や太鼓の音が港の方から賑やかに聞こえて来た。
「ねえ、お爺ちゃん、もうお船に乗らないの」
「うん、そうだな‥‥‥お前、船に乗りたいのか」
「うん、乗りたい」
「そうか、今度、お父さんに頼んで乗せて貰おう」
「ほんと?」と太郎は白峰の袖を引っ張った。
「ああ、本当だとも」白峰は太郎の肩を抱いた。
「わぁい、お船に乗れる。あの、お父さんが乗っている大きいお船がいいや」
「大きい船でも小さい船でも、何でも乗れるさ」
「ねえ、いつ? いつ乗れるの」
「それは、お父さんに聞いてみないとわからんよ。お父さんもお仕事が忙しいからな」
「早く乗りたいな‥‥‥ねえ、遊びに行っていい?」
「ああ。じゃが、気をつけるんじゃよ。海を甘くみちゃいかんぞ」
「大丈夫だよ」
「お前も海のように大きくなるんだぞ」
「海のように?」
太郎はきょとんとした顔で白峰の横顔を見ていたが、やがて、木剣を白峰に渡すと外に駈け出して行った。
白峰は目を細くして孫の後姿を見送った。
異常気象が続いていた。
長禄三年(一四五九年)、春から夏にかけて雨が全然降らず、日照りが毎日続いた。
秋になると畿内を中心に大暴風が襲来した。賀茂川は大氾濫し、民家を流し、京中の溺死者だけでも相当な数にのぼった。しかも、京都への輸送が麻痺して米価が暴騰し、餓死者も続出した。その結果、京都、大和の土民が徳政を求めて蜂起した。
一揆である。
しかし、それだけでは治まらなかった。
翌年も、春から初夏にかけて雨が一滴も降らず、日照りが続いた。あちこちで農民たちが、わずかな水を求めるために血を流していった。夏になると一転して長雨が続き、異常低温となり、夏だというのに人々は冬の支度をしなければならなかった。そして、秋には、また大暴風が吹き、おまけに蝗(イナゴ)が大発生して田畑は全滅という悲惨な状態となった。山陽山陰地方では夏頃から食糧がまったくなくなり、人が人を食うという餓鬼道(ガキドウ)まで出現していた。
十二月二十一日に年号を長禄から寛正(カンショウ)と改元したが、それは気休めに過ぎなかった。
京の都では、町のあちこちで餓死者が山のように重なりあっていた。村を捨て、都に出て来た者もかなりいたが、京に出て来たとしてもどうなるものでもなかった。町中に乞食(コジキ)があふれていた。
賀茂川では河原も水の中も餓死者の死体で埋まり、水の流れはふさがれ、屍臭が鼻をついた。この時、京都の餓死者は八万二千人にも達したと言われている。
秋になって、ようやく飢饉(キキン)も下火になって行ったが、今度は疫病が流行り、死者の数が減る事はなかった。
幕府はこの大飢饉に何の対策もしなかったばかりでなく、幕府の中心をなす管領(カンレイ)家の一つ、畠山家では、この飢饉の最中にも山城、河内、大和などで家督争いの合戦を繰り返していた。将軍、義政は飢饉など、まったく無関心に日夜、酒宴を開き、寺参りや花の御所の復旧工事、庭園造りなどに熱をあげていた。
この時期、何らかの対策を行ったのは時宗の聖(ヒジリ)たちだけであった。彼らは飢えた人々に粟粥(アワガユ)を炊き出し、施しを始めた。やがて、食糧も尽き果て施しができなくなると、今度は行き倒れた人々や流民(ルミン)小屋で死んで行った人たちの死体を賀茂川の河原に運んで、丁寧に葬ってやっていた。
今日も一日、暑かった。
すべてが乾燥していた。
ここは京の都‥‥‥
しかし、今、これが都と呼べるのだろうか‥‥‥
確かに、人の数は多い‥‥‥
が、まともな人間はほんのわずかであった。人間だけでなく、生命(イノチ)ある物たち、すべてが、かろうじて生きているという有り様だった。
一揆のために焼かれ、無残な姿を残すこの寺の門の回りにも、かろうじて生きている生命たちが集まっていた。皆、骨と皮だけになった乞食たちである。生きているのか、死んでいるのかわからない者たちが、じっと、うづくまっている。
その中に、大峯山の修験者(シュゲンジャ)、風眼坊舜香(フウガンボウシュンコウ)のやつれた姿もあった。頑丈な錫杖(シャクジョウ)だけを場違いのように持ってはいるが、あとは、まったく乞食と同じ格好だった。髪も髭も伸び放題の青白い顔に目だけをぎょろつかせ、あたりを睨んでいる。
風眼坊は痩せ細った体をゆっくりと持ち上げ、錫杖にすがるように立ち上がった。
「兄貴、どこ行くんや」と風眼坊の横で寝そべっていた乞食が情けない声を出した。「どこに行ったかて、食うもんなんかあらへん。余計に腹が減るだけや。寝てた方がましやで」
風眼坊はその声には答えずに歩き始めた。
手に持った錫杖の音までも情けなく、あたりに響き渡った。
あれから風眼坊は大和の国(奈良県)に向かい、しばらくは熊野の山の中の小さな村に住む、お光という女のもとでのんびり暮らしていた。その後、吉野に行ったら、南朝の皇胤(コウイン)というのが突然、現れて吉野の金峯山寺(キンプセンジ)と争いを起こした。風眼坊もその合戦に巻き込まれ、薙刀を振り回して暴れ回っていた。その合戦の片が付くと、葛城山(カツラギサン)に籠もり、下界の一揆騒ぎを高みの見物していた。それに飽きると、また旅に出て、伊賀(三重県北部)、近江(滋賀県)のあたりをブラブラしていたが、飢饉になると、ひょっこりと京にやって来たのだった。
賀茂川まで来ると、風眼坊は四条の橋の上から餓死者の群れを眺めた。
それは異常な風景だった。それらはあまりに多くて、とても人間の屍(シカバネ)とは思えなかった。鼻をつく屍臭さえ気にならなかったら、それらは単なる自然の造形、当たり前のように、そこにある物と錯覚してしまう程、なぜか、違和感を感じさせなかった。
数人の時宗の坊主が小さな木片の卒塔婆(ソトバ)を死者一人一人に配って、念仏を唱えていた。
今日も一日が暮れようとしている。
死者の山に夕日が当たり、地獄絵さながらに真っ赤になった。
とにかく、今日一日は無事に生き延びる事ができた‥‥‥風眼坊は心の中で、そう感じていた。明日の事など考える事もできなかった。
風眼坊は橋の上から無残な屍たちに法華経(ホケキョウ)を唱え始めた。それは無意識の内の行動だった。心の奥底から自然と涌いて出るお経だった。
風眼坊は我も忘れ、法華経の中に入って行った。
どれ位、時が経っただろうか‥‥‥
「小太郎ではないか」
誰か、風眼坊に声を掛ける者があった。
小太郎‥‥‥それは風眼坊が出家する前の名前だった。自分の名前ではあるが、最近、その名前で呼ばれた事はない。懐かしい響きを持っていた。
風眼坊が振り返ると、そこに一人の武士が立っていた。
「やはり、小太郎だな」と、その武士は笑いながら言った。
「新九郎か‥‥‥」風眼坊は武士の姿を上から下まで眺めながら、懐かしそうに笑った。
「どうやら、お前も本物の坊主になったらしいな」新九郎と呼ばれた武士は乞食同然の格好をした風眼坊を皮肉るような口調で言った。
「ふん、お前も立派な武士になったもんじゃな」風眼坊も皮肉っぽく言った。
新九郎は確かに立派な武士らしかった。この時勢にまともすぎる、なりをしていた。
「ふん、つまらんよ」新九郎は吐き捨てるように言うと橋の手摺りに手をつき、川の方に目をやった。
「ひでえ世になったもんじゃな」と風眼坊がポツリと言った。
「ああ‥‥‥みんな、腐っておる」新九郎は眉間にしわを寄せて、目の前の風景を見つめた。
「何年振りかな‥‥‥」と風眼坊が言った。
「さあな‥‥‥」
「国を出てから、もう十二年じゃ」
「十二年も経つのか‥‥‥早いもんじゃな」
二人とも夕日に照らされた死体の山を見つめながら、ポツリ、ポツリ会話をかわしていた。
「今、何やってる」と風眼坊が聞いた。
「くだらん事さ‥‥‥嫌気がさしてきてな‥‥‥そろそろ飛び出そうかと思っている」
「どこへ」
「さあな‥‥‥」
「まだ、早いぜ」
「分かってるさ」新九郎は苦笑すると、「いつから、京にいるんだ」と風眼坊に聞いた。
「ここ、一年はいるな」
「ふん、相変わらず、物好きだな」
「まだ、俺の出番がねえだけさ」
「お前は昔のままだな」
「お前もな」
「いや、最近、俺は自分自身がいやになって来ている」と新九郎は顔を歪めた。
「まだ、あそこにいるのか」と風眼坊は聞いた。
「ああ‥‥‥久し振りだ、飲むか」
「飲む?‥‥‥あるのか」
「あるわけねえ‥‥‥が、ある所にはある」
「ある所にはあるか‥‥‥うむ、久し振りに飲むか」
風眼坊舜香と伊勢新九郎は暮れかかった町の方に歩き出した。
東の空に赤い、おぼろ月が霞んでいた。
秋晴れの空に、ポッカリと白い雲が一つ浮かんでいる。
入り組んだ入江の中、海は穏やかだった。
今、熊野からの商船が入って来たばかりで港は賑わっていた。
人々が忙しそうに動き回っている。船からの積み荷が降ろされ、そして、別の荷物が船の中に運ばれていた。船から降りた客たちはあたりを見回しながら、連れの者と話を交わし、城下町の方へと流れて行った。
五ケ所浦の城主、愛洲伊勢守(イセノカミ)忠行の城は城下町を見下ろす丘陵の上に建っていた。のちに言う本丸に相当する詰の城が丘の頂上にあり、北方と西方は五ケ所川の断崖に接し、東は断層をなし、濠をめぐらし、南が大手門となっている。居館は丘の中腹にあり、城全体を守るように深い外濠がめぐらされてあった。
その城の北には浅間権現を祠る浅間山があり、東には馬山があり、北西にはアカガキリマと呼ばれる山々が連なり、五ケ所浦を守っていた。
城下町は城の大手門に続く大通りと海岸沿いに走る街道、港から五ケ所川に沿って伊勢神宮へと続く街道を中心に栄えていた。城の周辺には武家屋敷が並び、港の周辺には宿坊や蔵が並び、市場もあった。
水軍の大将、愛洲隼人正宗忠の城は五ケ所浦の城下から南に二里程離れた田曽浦にあり、田曽岬の砦から海を睨み、五ケ所浦の入り口を押えていた。太郎もその城で生まれたが、今はそこにはいない。隠居した祖父、白峰と共に五ケ所浦の城下町にある屋敷で暮らしていた。白峰の屋敷は城下の東のはずれにあった。志摩の国へと続く街道に面していて浜辺の側だった。
京ではようやく、寛正の大飢饉は治まった。それでも相変わらず、土一揆がひんぱんに起こり、河内の国(大阪府南東部)では、未だに畠山氏が合戦を繰り返している。
ここ、五ケ所浦で太郎は平和に暮らしていた。
「えい!」
「やあ!」
太郎は同い年の大助と浜辺で剣術の稽古をしていた。
大助は船越城を守る愛洲主水正(モンドノショウ)行成の息子である。太郎が水軍の大将の伜で、大助は陸軍の騎馬武者の大将の伜だった。後の愛洲氏を背負って立つ二人であるが、今はまだ、そんな事は知らない。毎日、仲間たちと一緒に海や野を走り回って遊んでいた。
今も、水軍の子供達と陸軍の子供達が、どっちが強いかという事で言い争いになり、それでは一騎打ちをやろうという事になった。水軍からは太郎、陸軍からは大助が選ばれ、戦さながらに、「我こそは、誰々‥‥‥」と叫び、木の棒を構えている。
他の子供たちは二手に別れ、ワイワイはやしたてながら眺めていた。
太郎は祖父、白峰より剣術、槍術、馬術、弓術を教わり、かなり上達していた。しかし、まだ十一歳の子供である。毎日、武術の稽古はしているが遊びの方が忙しい。まだ、それ程、真剣にやっていたわけではなかった。
太郎と大助はお互いに掛声をかけると剣を構えたまま、相手に近づいて行った。エイエイと何度も打ち合った。やがて、「痛い!」と太郎が叫ぶと、太郎が持っていた棒が空高く舞い上がった。
見ていた子供達はワイワイ叫んだ。
「よし、今度は船の上で勝負だ」と太郎は左手を押えながら言った。
その時、城下の方から槍や薙刀をかつぎ、武装した騎馬武者が五、六人、勢いよく街道を走り去って行った。その後を十人位の兵たちが同じく武装して走って行った。
「何だろう」と太郎は武者たちの去って行く方を見ながら言った。
「盗賊が捕まったんじゃないのか」と大助は言った。
「ああ、そうか」と太郎は頷いた。
最近になって、ここ、五ケ所浦にも得体の知れない人相の良くない食いつめ浪人共が入って来ていた。食いつめ浪人だけでなく、乞食や浮浪者の数も増えて来ている。城下に入る道々の警戒は厳しくなっているが、彼らはどこからか山づたいに入って来て、増える一方だった。
「早く、続きをやろう。どこで、やったって俺の勝ちだ」と大助は腕を組みながら言った。
浜辺にあった小舟に二人は乗ると海に出た。
「よし、この辺でいいだろう」
「よし、やるか」
二人は小舟の上で棒を構えて立った。
太郎は平気で立っているが、大助はバランスを取りながら立っているだけが精一杯で、棒を構える所ではなかった。太郎がちょっとでも舟を揺らすと、大助は舟から落ちそうになった。
「いくぞ!」と太郎は声をかけた。
「ちょっと待て」
大助は小舟のへりに手をかけ、やっと立っていた。うまくバランスを取り、どうにか棒を構えると、「いいぞ」と言ったが、太郎が気合と共に近づいて来ると舟は揺れ、大助はそのまま海に落ちてしまった。
浜辺では見ていた子供達がワイワイ騒いでいる。
大助は海に転んだまま、「負けたよ」と言った。
「これで、あいこだな」
見ていた子供達も海の中に入って来て、今度はみんなで小舟の上で相撲をとろうという事になり遊び始めた。
こんもりとした低い山々が五ケ所浦を囲んでいる。
あちらこちらに色づいた紅葉が目立ち始めて来ていた。
ところどころに白い雲が浮かんでいるが、秋晴れのいい天気だった。
鳶(トビ)が数羽、気持ち良さそうに飛び回っている。
太郎は山を登っていた。
最近は海へは行かず、山の中を歩き回っている。そして、山に登る時はいつも独りだった。
太郎も十四歳になり、いつまでも仲間たちと遊んでいる年ではなかった。やがて、元服(ゲンブク)して父と共に船に乗り、水軍として活躍する事を知っていた。自分も父のように水軍の大将として強い海の男になる事を、いつも夢見ていた。海に出てしまえば、なかなか山にも登れなくなるだろう。
でも、それだけではなかった。樹木や草におおわれた薄暗い細い道を登ったり、岩肌をよじ登ったりして、ようやく山頂にたどり着くと急に視界が開け、町や海を遠くまで見下ろせるのが何とも言えず爽快だった。しかも、海の反対の方を見れば、山々がずっと向こうの方まで連なっている。初めて山頂からそれらの山々を見た時、太郎は本当にびっくりした。
五ケ所浦で遊んでいた頃、海は大きくて、ずっと遥か向こうまで続いている。その事は知っていた。そして、自分もいつか、船に乗って遥か沖の方まで行くのだと思っていた。しかし、五ケ所浦を三方から囲んでいる山々の向こうが一体どうなっているか、など考えた事もなく、ただ漠然と山の向こうに伊勢神宮があり、そのまた、ずっと向こうに京の都があるという事を知っているだけだった。
ところが、山の頂上に登ってみても、お伊勢様どころか、京の都など、まったく見えなかった。見えるのはただ、山、山、山のみだった。どこを見ても山がいくつも連なっている。それは海と同じように、ずっと広く大きかった。
太郎は汗をかきながら山頂にたどり着くと、辺りを見回した。
五ケ所浦の城下町は南東の方に小さく見えた。父の乗っている関船も沖の方にポツンと見える。何艘かの小早が海上を滑るように行き来していた。
太郎はすでに五ケ所浦を囲む山々はほとんど登っていた。
この辺りには大して高い山はない。ほとんどが二百メ-トルから四百メ-トル位の山々だった。一、二時間もあれば、すぐに登る事ができる。しかし、どの山も必ずしも眺めがいいというわけではなかった。むしろ、山頂に木が生い茂り、薄暗く、回りの風景など見る事ができない山の方が多かった。
この当時、山は神霊が宿る神聖な場所とされていた。普通の人々にとって山は近寄るべき所ではなく、まして、誰も登ったりはしない。古くから信仰の対象となってきた山だけが名前もあり、山頂に神を祀るために登山道もついていた。
五ケ所浦にも一つだけ、そんな山があった。
城の丁度、真後ろにある円錐形の山である。大して高い山ではないが、海の方から城下町を見ると中程にポツンと飛び出た、その山は目を引いた。いつ、誰が登ったのかわからないが、山頂に小さな祠(ホコラ)があり浅間権現が祀ってあった。富士山の修験者(シュゲンジャ)がこの五ケ所浦に来た時、この山を小さな富士山と見て、祀ったものだろう。太郎も、その浅間山には一番初めに登った。予想に反して、その山の頂上は木が生い茂っていて眺めは良くなかった。
太郎が今いる山は眺めも良く、山頂あたりが少し広くなっていて日当たりもよく、一番、気に入っていた。
太郎は山頂に座ると汗を拭きながら、隣に見える山を眺めていた。
山頂あたりに岩肌が飛び出していて、何となく面白い山だと思った。ここから見れば、すぐに行けそうな程、近くに見える。
汗がひくと太郎は、その山を目がけて山を下り始めた。
道などはない。
木が生い茂っていて回りも見えない。目指す山の方向を頭に入れ、とにかく、その方角を目指した。しかし、山の中を真っすぐ進む事は大変な事だった。急な所は木を頼りに、それにつかまりながら下りて行った。岩場に出れば、それを迂回しなければならない。伸び放題の草やつる、蜘蛛の巣や虫などに悩まされ、やっとの思いで、どうにか山を下りる事ができた。
そこには沢が流れ、小さな滝が水しぶきを上げていた。
沢は細いが流れは急だった。
沢の向こうは木が生い茂っていて薄暗い。そこを登っていけば目指す山だろうと思うが、はっきりと分からない。
とにかく、喉が渇いたので沢の水を飲む事にした。水は冷たくてうまかった。水を腹一杯、飲むと太郎は空を見上げた。
青空が眩しかった。
‥‥‥静かだった。
沢の上流の方を見ると薄暗く、何となく気味が悪かった。下流の方は大きな岩が立ちはだかっていて先が見えない。
急に心細くなってきた。
その時、後ろでガサガサと音がした。
太郎はビクッとして刀に手をかけた。刀といっても太刀ではない。小刀である。祖父から貰った物で、あまり斬れは良くないが頑丈にできていて、山で木やつるを斬ったりするのには役に立った。
熊か‥‥‥と太郎は思った。
今まで熊に会った事はない。しかし、祖母や母から、山には鬼や熊がいるから行ってはいけないとよく聞かされていた。鬼などはいないと知っているが熊はいるとも知っていた。
太郎はおそるおそる振り返ってみた。
女の子が木切れを背負って、ちょこんと立っていた。
女の子は無邪気な顔で笑っていた。太郎は腹が立っていた。こんな女の子に驚かされた自分に腹を立てていた。
「なんだ、お前は」と太郎はぶっきらぼうに言った。
女の子はそれには答えず、大きな目で太郎をじっと見つめ、「おめえはお侍さんやな」と言った。
「ああ、俺は愛洲の水軍の大将じゃ」太郎は胸を張って答えた。
「嘘や」と女の子は首を振った。「おめえは大将じゃねえ」
「ほんとだ。今はまだ違うけど、もうすぐ、なるんだ」
「ふうん‥‥‥おめえ、えれえんやね」
女の子は感心しながら太郎を見ていた。
太郎も悪い気がしなかった。
女の子の名前は小春といった。
この沢の少し下流の方に住んでいるという。沢の回りで木を拾っていたけど、人の気配がしたので隠れていた。でも、太郎が自分と同じ子供だったので安心して出て来たのだと言った。
太郎は小春の白い顔を珍しそうに見ながら、小春の話を聞いていた。
太郎が知っている女の子は、みんな、日に焼けて黒い顔をしていた。小春のような透けるように白い顔は見た事がなかった。小春は色が白いだけでなく、目がクリッと大きく、鼻筋の通った綺麗な顔立ちをしていた。
太郎は山に登る事などすっかり忘れ、小春に見とれていた。
二人は沢のふちの岩に腰を下ろし、お互いの話に夢中になっていった。
太郎は小春に聞かれて、五ケ所浦の事や海の事を話した。小春は五ケ所浦にも行った事はないし、海も見た事ないと言った。
太郎には不思議に思えた。山を一つ越せば、五ケ所浦だって、海だって、すぐそこにある。小春が生まれてこのかた、この沢の付近しか知らないという事が、太郎にはとても信じられなかった。
「あら、いけない。もう、帰らないと怒られる」と小春は慌てて立ち上がった。
「送って行く」と太郎は言った。今まで、女の子にそんな事を言った事はなく、自分でも不思議だった。
「いいだ」と小春は言って首を横に振った。
「なぜだ」と太郎は聞いた。
「怒られるだ」
「どうしてだ」
「知らん。でも、お侍は何をするか分かんねえから近寄っちゃなんねえと‥‥‥」
「俺は何もしないぞ」
「うん。おめえはいい人や」と小春は木切れを積んだしょいこを背負った。
「重くないのか」
「重いけど、もう慣れただ」と小春は笑った。
太郎も笑った。
小春は歩き出した。
太郎は小春の後ろ姿を見送っていた。
小春は振り返り、「また、会えるだか」と聞いた。
「うん‥‥‥明日、また、ここに来る」と太郎は答えた。
「うん」小春は頷いて笑うと、急いで沢を下りて行った。
チョコチョコと沢を下りて行く小春の後ろ姿を見ながら太郎は笑っていた。
次の日、太郎は小春と一緒に山に登り、小春に海や城下町を見せてやった。
小春は初めて見る海の広さに驚き、城下町の賑やかな家並みや湾に浮かぶ船など、見る物、すべてが珍しく、太郎に色々と聞いては大きな目をさらに大きくして驚いていた。
太郎の言う事を一々感心して聞いている小春を見ているのは楽しかった。
小春は喜んでいた。
太郎は小春から色々な山の花や草の名前を教えて貰った。山の中には色々と食べられる草や実がある事も小春は知っていた。
小春に会う事が太郎の日課となった。毎日、会いに行けるわけではなかったが、家の者に無断で飛び出して行く事も何度かあった。
毎日、毎日がウキウキして楽しかった。
翌年、文正元年(一四六六年)春、桜が満開に咲き誇る頃、太郎は元服した。
名前もただの太郎から、愛洲太郎左衛門久忠という重々しい武将らしい名前に改まった。太郎が生まれた愛洲家では代々、元服した時に熊野の三所権現に詣でるという習わしがあった。
太郎も元服の式が終わると、父親から貰った真新しい腹巻と立派な太刀を身につけ、小姓(コショウ)に槍を持たせて父の船に乗り込んだ。
頭の上に載っている慣れない烏帽子(エボシ)が潮風に揺れた。
今までも『安宅船(アタケブネ)』と呼ばれる、この大型の軍船に乗った事はあるが、沖の方まで出るのは初めてである。目の前に広がる大きな海を目指して、気持ち良く進んで行く軍船の船首に父と一緒に立っていると、自分も今日からは一人前の大人なんだという実感が胸の底から込み上げて来た。
「よく、見ておけ」と父、宗忠が言った。「いいか、このでっかい海が、これからのお前の舞台だ。戦場だ。死ぬも生きるも、泣くも笑うも、すべてが、この海の上だ」
太郎は父親を見た。
父親は目を細めて静かに海を見つめていた。その横顔には水軍の大将としての威厳と力強さがこもっていた。
俺も父親のような海の大将になる‥‥‥と太郎は心の中で強く決心をした。
熊野灘は珍しく荒れていた。
波しぶきを浴びながらも太郎は父と共に揺れる船首に立っていた。穏やかな海よりも荒れている海のほうが、かえって、今日の元服の門出にふさわしいと思った。
船は揺れながら進路を南にとり、紀伊半島を回り、田辺湾に入って行った。
田辺に着くと先達(センダツ)と呼ばれる山伏が待っていた。太郎もその山伏には何度か会った事があった。
五ケ所浦には熊野の先達や伊勢の御師(オンシ)と呼ばれる人たちが数多く出入りしていた。彼らは地方に行って熊野詣でや伊勢参りの宣伝をしたり、参詣者たちの道案内や宿屋の提供などをしていた。太郎を迎えた『無音坊玄海』という先達はよく、祖父、白峰の屋敷に出入りしていた。
熊野詣でと言うのは熊野本宮大社、熊野速玉大社(新宮)、熊野那智大社の『熊野三所権現』を参詣するもので、古くは、ここ熊野は観音の浄土と考えられていた。やがて、阿弥陀信仰が盛んになると阿弥陀の西方浄土に当てられ、貴族たちが現世利益と死後の極楽往生を求めて熊野詣でをするようになった。鎌倉時代になると、その信仰は武家の間に広まり、さらに室町時代では民衆たちの間にも根を下ろして行った。当時、『蟻の熊野詣で』と言われ、お伊勢参りに匹敵し得る程の多数の参拝客を集めていた。
太郎は父と別れ、船を降りると無音坊に連れられて光明院という寺に入り、無音坊から熊野の事について色々と聞かされた。
ここ、光明院は地方から来た参詣客のための宿泊所で宿坊(シュクボウ)と呼ばれ、山伏の装束をした人たちで、ごった返していた。
次の日、太郎も山伏の格好に着替えさせられた。鈴繋(スズカケ)という白い浄衣を着て、結袈裟(ユイゲサ)をかけ、兜巾(トキン)を頭にのせ、脚に脚半を巻き、八目の草鞋を履いた。『いらたか』という念珠を手に持ち、金剛杖を突き、無音坊の後に従った。
田辺から山の中に入り、本宮に向かう道を『中返路(ナカヘジ)』と言い、また別名『小栗街道』とも言った。時宗の遊行上人(ユギョウショウニン)たちが『小栗判官(ホウガン)』という物語を作り、熊野を宣伝して回ったため、そう名付けられた。
『かったい』『がきやみ』、今でいうハンセン氏病(癩病)患者の事であるが、白布で顔や手を包んで柿色の衣を着た彼らが熊野には随分と群がっていた。彼らは人々から嫌われ、一般の人々の中に住む事が許されず、寺社の近辺に隠れてひそかに生きていた。熊野権現は古くから他の寺社と違い、不浄を嫌わずという事で、彼らは救いを求め、皆、ここに集まって来ていた。
『小栗判官』という物語は『かったい』になった判官が土車に乗り、道行く人々の善意によって険しい山々をいくつも越え、本宮の近くの湯の峰という温泉にたどり着き、熊野権現の介抱によって病が治り、健康な体に戻って再生するという物語である。
その『小栗街道』を太郎は無音坊と共に歩いている。道中には『九十九王子』といわれる熊野の若宮が祀ってあり、それを一つ一つ拝んでは進んで行った。太郎も訳がわからないまま、無音坊の教える真言(シンゴン)を唱えては無音坊の後に従った。
本宮、那智、新宮と七日がかりで太郎の熊野詣では終わった。
七日間の山歩きはかなり厳しかったが、太郎はますます山の不思議さ、神秘さに引かれていった。本宮から、さらに奥に入ると大峯という山々があり、その山の中を通り抜けると吉野という所に出る。無音坊はそこを通って、二度、吉野まで行った事があると言った。
「いい所じゃ‥‥‥」と無音坊がしみじみと言ったのを、太郎は後々まで印象深く憶えていた。
新宮に着くと父、宗忠がすでに待っていた。
七日間、山を歩き回っていた太郎にとって、熊野灘の海と父の軍船、そして、海の匂いのする父に会うのは懐かしく思われ、嬉しかった。
その晩、太郎は父たちと一緒に酒を酌み交わして元服を祝った。大人になった気負いもあったせいか、太郎は慣れない酒を飲み過ぎて酔っ払ってしまった。
気がついた時、太郎は布団の中に寝かされていた。
喉がやたらと渇いていた。
起き上がろうと体を動かした時、太郎の手が温かく柔らかい物に触れた。
太郎はビクッとして隣りを見た。
白い顔が目に入った。若い娘が横に寝ていた。
一瞬、小春か‥‥‥と思ったが、そんな事があるはずはないし、娘から匂う甘い香りは小春のものではなかった。
太郎は夕べの事を思い出した。太郎の横に座ってお酌をしてくれた菊という娘だった。
部屋の中を見回してみると、二人だけで誰もいない。
遠くの方から波の音が聞こえて来るだけで、辺りは静まり返っていた。
太郎は菊を揺り起こした。
菊は目をあけると、「どうしたの」と甘えるような声を出した。
「ここはどこだ」と太郎は聞いた。
「ここは極楽よ」と菊は言うと、太郎の首に両腕を絡ませてきた。
「よせ!」と太郎は言ったが、菊は構わず裸の体を擦り寄せ、太郎に絡みついてきた。
太郎は初めて自分も何も身に着けずに寝かされていた事に気づいた。どうして、こうなったのか何も覚えていない。
「太郎左衛門様」と菊は太郎の耳もとで囁いた。「菊は太郎左衛門様が好きでございます。可愛いがって下さいませ」
太郎には菊を払いのけるだけの勇気はなかった。
太郎左衛門‥‥‥聞き慣れない名前だった。しかし、それは新しい自分の名前だった。
ただの太郎から太郎左衛門久忠となった俺は今、何をしているのだろう‥‥‥と思いながらも、もうどうにでもなれと菊の温かく柔らかい体の中に埋もれて行った。
朝、目が覚めると菊の姿はなかった。
頭がやたらと痛かった。
もう、皆、起きているらしく、外がやけに騒がしかった。
夕べの自分を思い出しながら、うとうとしていると、やがて、父が迎えに来た。
太郎は急いで支度をして船に乗り込んだ。
菊にもう一度、会いたいと思ったが、彼女は姿を現さなかった。
「お前も今日からは一人前の男だ」と父が笑いながら言った。
太郎を乗せた軍船は五ケ所浦を目指して進んで行った。
来る時とは違って、海は静かだった。
太郎は艫櫓(トモヤグラ)の上から遠くなって行く熊野の山々を眺めていた。
海猫が船の上を飛び回りながら鳴いていた。
熊野から帰って来ると太郎の生活は変わった。
父と共に船の上で三日間過ごし、祖父のもとで三日間過ごす事になった。祖父のもとでは、今までの様に剣術、槍術、弓術の稽古をやり、加えて、水軍の戦術、戦略などを学んだ。父のもとでは『小早』という小船を使って実技の訓練をした。
毎日が忙しくなり、前のように山登りなどをして遊んでいる時間が少なくなった。それでも、足腰の鍛練と称して祖父の隙をうかがっては山に登り、小春と会っていた。
最近は小春と会っても以前のように、無邪気に話したり笑ったりできなくなっていた。互いに相手を意識し始め、気楽に話もできない。太郎にとって小春の白い顔が、やけに眩しく感じられた。
夏のある日、ちょっとした戦があった。
五ケ所浦より西三十キロ程の所に古和浦という所がある。そこを本拠とする古和一族が竃方(カマガタ)の権利をめぐって反乱を起こした。
竃方というのは製塩を生業にしている人たちの集落で、五ケ所浦から西方の入り組んだ海岸に点在していた。彼らは源平時代の平家の落人で、吉野の山中からこの海岸に逃れて来た。しかし、漁業権はすでに、ここに住んでいる者たちに握られており、耕す土地もなく、仕方なく、浜に竃を作って製塩を始めたのだという。
戦はあっけなく、けりがついた。が、太郎にとっては初陣(ウイジン)だった。
太郎は氏神に祈願をし、父と共に軍船に乗り込むと古和浦へと向かった。
古和浦はのこぎり状の海岸の一番奥まった所にある。古和一族の軍船は、その入り口の所で待ち構えていた。
鐘が鳴り、太鼓の音が響き渡り、掛声と共に弓矢の撃ち合いで合戦は始まった。
「今日の戦は、お前に任せる」と父、宗忠は言うと、酒をぶら下げて関船の屋形の上で寝そべった。
「お前が大将だ。今までに習った事を実際にやってみろ」宗忠は笑うと、寝そべったまま酒を一口飲んだ。
太郎は突然の父の言葉に何と答えたらいいのか、わからなかった。その間にも太郎や父の回りを矢が飛びかっていた。
「父上、そんな所にいては危険です」と太郎は言ったが、宗忠は平気な顔をして笑った。
「構わん、お前の好きにやってみろ」と太郎に背を向け、のんきそうに酒を飲み始めた。
やがて、火矢が飛びかい、接近戦となり、太郎は兵たちの指揮をしながら、自らも槍を持って戦った。
無我夢中だった。
太郎は敵の船に乗り移り、敵の大将を倒した。
河合彦次郎に助けられたにしろ、敵の大将をやっつけた。
戦が終わり、父の前に来た時には返り血を浴びて真っ赤になり、血の臭いが鼻についていた。
父は相変わらず寝そべったまま酒を飲んでいたが、太郎の顔を見つめると、「よく、やった」と力強く言って、笑った。
「はい」と太郎は息をハアハアさせながら、父を見上げた。
宗忠は嬉しそうに頷いた。
久し振りに太郎は山に登っていた。
山頂に立ち、夏空にポッカリと浮かんだ雲を見上げながら、ニヤリと笑うと小春の住む沢の方に下りて行った。
初めの頃は道などなかったが、太郎が何度も行き来しているうちに自然と道ができてしまっている。沢に下りると真っすぐに小春の家に向かった。
小春の父親は木地師(キジシ)と呼ばれる山の民だった。当時、田畑を持たずに山の中だけで生活している山の民と呼ばれる人々がいた。木地師というのは轆轤師(ロクロシ)とも呼ばれ、山中の樹を伐り、轆轤を使ってお椀や木皿やお盆、しゃもじなどを作り、それを売って生計を立てていた。他にも山中には、金(カネ)掘り、杣人(ソマビト)、鍛治師(カジシ)、鋳物師(イモジ)、石切り、塗師(ヌシ)、炭焼き、狩人などの人々が生活している。彼らは山の中を移動して暮らし、平地の者とはほとんど付き合わず、身分の低い者とされていた。
太郎は小春の父に一度だけ会った事があった。太郎が挨拶をしても太郎の方をちらっと見ただけで何も言わず、丸木舟を作っていた。その顔が何となく怒っているように見え、苦手だった。
小春は家の前で赤ん坊をおぶって庭の掃除をしていた。
丸木舟を作るためにアラキドリした丸太が二本、並んで置いてあった。
太郎が近づいて行くのに気づくと小春は笑い、太郎に近づいて来た。
「今日は誰もいないわ」と小春は言った。
この辺りには三家族が固まって暮らしている。彼らが、いつここに来たのかはわからない。小春が生まれる前からここに居るわけだから、少なくとも、もう十五年はここに落ち着いている。かといって彼らが定住した訳ではない。また、いつ、移動して行くかわからなかった。
太郎と小春は沢に沿って歩いていた。
今、男たちは皆、山に入っている。女たちは木で作ったお椀や箸(ハシ)などを持って城下に売りに出かけている。小春は弟のお守りをして留守番だと言う。小春にはもう一人、弟がいるが父の手伝いで山に入っていた。
太郎は小春に戦の話などしながら、半時(ハントキ、一時間)ばかり過ごして帰って行った。
小春は太郎の後姿を見送りながら、太郎が一回り大きくなったように思えた。そして、だんだんと太郎が自分から遠い存在になって行くような気がしていた。
太郎の祖父、白峰の屋敷から東へ十町(約一キロメートル)程の山の中腹に長円寺という臨済禅(リンザイゼン)の山寺がある。その山寺に快晴和尚という変わった坊さんが住んでいた。
古和一族とのいざこざも、ようやく治まり、五ケ所浦に平和が戻って来たある日、太郎は弟の次郎丸を連れて長円寺に遊びに来ていた。
祖父、白峰に言わせると快晴和尚というのは偉い坊さんだと言うが、太郎が見た所、少しも偉いとは思えなかった。禅寺にいるのだから禅坊主なのだろうが、座禅をしている所など見た事もない。暇さえあれば日なたで昼寝をしているか、海辺に行って海女(アマ)たちをからかって遊んでいた。人に会えばニコニコして愛想よく挨拶をするが、それがいつも決まっていた。
「今日もいい天気じゃのう」
晴れの日なら、それでもいいだろう。しかし、雨の日でも風の日でも、台風が来た時でさえ、ニコニコして、そう挨拶をしていた。挨拶された方が何と答えていいか面食らってしまう。
太郎はひそかに馬鹿な和尚だと思いながらも、何となく引かれる所があって、よく遊びに来ていた。偉ぶった所は全然ないし、太郎に対しても子供扱いしたりしないので、和尚と話をするのは面白かった。
「和尚、身分というのは一体何だ」と太郎は寝そべって空を見上げながら聞いた。
日当たりのいい草の上で、和尚と太郎、次郎丸の三人が川の字になって寝そべっていた。
「身分か‥‥‥そりゃ、一体何じゃろのう」と和尚はとぼけた。
「どうして、山にいる人や、家船(エブネ)で暮らしている人は身分が低いんだ」
「そりゃ、難しい問題じゃのう」
「どうして、木地師はあんな山の中に住んで居て、町に出て来ないんだろう」
「難しいのう」
「どうして、身分なんてものがあるんだろう。ねえ、和尚、どうしてだ」
「難しいのう」
次郎丸がクスクス笑った。
太郎は次郎丸の方を見た。
「だって、和尚さん、おかしいよ。さっきから、難しいのう、ばっかりだよ」
「うむ、難しいのう」と和尚はもう一度言った。
次郎丸は腹を抱えて笑っていた。
太郎は空を見上げながら、「どうしてだろう」と呟いた。
「そんなの簡単だ」と声がした。
声の方を向くと、小坊主がニヤニヤしながら立っていた。
曇天(ドンテン)という生意気な小坊主だった。年は太郎と同じ位で、頭の回転が早く、機転がきくので快晴和尚は自分の弟子にしていた。
「お前ら、侍が身分なんてもんを作ったんだ」と曇天は言った。
「まあ、そうとも言えるな」とポケッと空を見たまま、和尚は言った。「世の中の仕組みじゃよ。上の者たちが民衆たちを支配するために身分というものができて行ったんじゃ」
「どうして、山の人たちは身分が低いんだ」と太郎はまた聞いた。
「低くない」と曇天は言った。
「太郎、曇天の言う通りじゃ」と和尚は言った。「人間は皆、同じじゃよ。身分の高い低いなどない。みんながそう言うからといって、それを信じてはいかんぞ。自分の目でちゃんと確かめろ。世の中にはな、矛盾した事がまだまだ、いっぱいある。それらをちゃんと見極める目を持っていなくてはならん。特に、人の上に立つ人間はな」
「和尚は、そんな目を持っているの」と太郎は聞いた。
「わしの目か‥‥‥わしの目も最近、曇って来たからのう。世の中の事がだんだんとわからなくなって来たわい」
「和尚さんも年だからな」と曇天は言うと草の上に座りこんだ。
「いい天気じゃのう」と和尚は決まり文句を言った。
太郎は雲一つない秋空を眩しそうに見つめていた。
確かに、今日はいい天気だった。
「いい天気じゃのう」と次郎丸が和尚の真似をした。
時代は乱世へと向かって行った。
寛正五年(一四六四年)、女の子ばかりで跡継ぎの男の子のいなかった将軍、足利義政は僧となっていた弟の義尋(ギジン)を無理やり還俗(ゲンゾク)させて、義視(ヨシミ)と名乗らせ養子とした。
ところが、翌年、夫人の日野富子が長男義尚(ヨシヒサ)を生んだ。義政としては早く将軍職を義視に譲って、自由の身になって風流を楽しみたかったのに、富子は反対した。絶対に自分が生んだ義尚を将軍にさせたかった。
宝徳元年(一四四九年)、十四歳で元服した義政は征夷大将軍に任命された。正式に八代将軍になったとしても、将軍とは名のみであった。すでに政権は側室の今参局(イママイリノツボネ)、側近の有馬兵部少輔持家、烏丸准大臣資任らに握られ、管領(カンレイ)の細川右京大夫勝元も好き勝手な事をしていた。
二十歳の時、義政は慣例により日野家から富子を正室に迎えた。当然のように、今参局派と日野富子派が争うようになった。
富子を迎えて五年目に富子は男の子を産んだ。今まで、女の子ばかりだったので義政は喜んだ。しかし、つかの間、その子はすぐに死んでしまった。その子が死んだのは、今参局が呪い殺したとの噂が広まり、義政は怒り、今参局を琵琶湖の沖の島に流した。富子はそれでも許せず、義政に今参局を死刑にしてくれとせまり、今参局は琵琶湖に向かう途中で自殺した。
今参局がいなくなると日野富子とその兄、日野権大納言勝光、政所執事(マンドコロシツジ)の伊勢伊勢守貞親が力を持ち、政権を動かすようになった。また、実力者として管領の細川勝元、嘉吉(カキツ)の変で赤松氏追討の功をたて、八ケ国の守護職を持つ山名宗全(ソウゼン)入道もいた。これらの人々に囲まれ、将軍義政は成す術もなく翻弄されていた。
細川勝元は父、持之が死んだ時、まだ十三歳だった。当時、幕府内で力を持っていたのは畠山左衛門督持国だった。勝元は畠山氏に対抗するために、勢力を伸ばしつつあった山名宗全と結び、宗全の娘を嫁に貰い、宗全の力で管領職に就く事もできた。しかし、政敵であった畠山持国が死ぬと、勝元と宗全は対立するようになって行った。
この頃、赤松氏の遺臣らによって赤松家を再興しようという動きがあった。勝元はそれに手を貸す事にした。赤松氏の旧領、播磨(兵庫県南西部)、備前(岡山県南東部)、美作(岡山県北東部)は、山名氏のものとなっていたが、領内にはまだ、赤松氏の残党が隠れ潜み、山名氏に反抗していた。勝元は赤松氏を助け、彼らを扇動する事によって山名氏の勢力を弱める事ができると考えた。
赤松氏は将軍義政の許しを得て、満祐の弟の孫の次郎法師丸(ホッシマル)が当時まだ四歳だったが家督を継ぎ、再興された。山名宗全は怒り、勝元との対立は深まって行った。
また、勝元には後継ぎがなく、宗全の末っ子、七郎豊久を養子としていたが、嫡男の政元が生まれると豊久を勝手に出家させてしまった。宗全は怒り、豊久を環俗させて手元に引き取った。
二人の間の溝はますます深まって行った。
日野富子は男の子が死んだ後に、二人の子供を産むが二人とも女の子だった。
義政はもう男の子はできないだろうと弟の義視を後継ぎにしたのだった。これには細川勝元の策略もあった。勝元としてはこの後、富子が男の子を産んで、益々、日野家が勢力を広げて行くのを抑えたかった。義政としても、うるさい連中に囲まれた不自由な将軍職を早くやめて、自由の身になりたかった。
将来、男の子が生まれても赤ん坊のうちから僧にして将軍には絶対にしない、という誓書まで義政から貰った義視は将軍に成るべき準備を進めていた。
ところが、翌年、富子が男の子を産んだのだった。義尚である。義政も今度こそはと、男の子を可愛いがった。義視との約束があったにしろ、富子がそんな事を承知するはずはなかった。
ここに、将軍職をめぐる義視と義尚との対立が始まった。
細川勝元は義視の後見人となっていた。富子はそれに対抗するために山名宗全を頼った。
義政は義視と富子の間に挟まれ、答えを出さないまま、その問題を細川勝元と山名宗全とに任せてしまった。
それに加え、三管領家のうちの畠山氏、斯波(シバ)氏が、それぞれ相続問題で二つに分かれて争っていた。
幕府首脳部は足利義視を頭に置き、細川右京大夫勝元、畠山左衛門督政長、斯波左兵衛佐義敏、赤松兵部少輔政則という一派と、日野富子の子、足利義尚を頭に置く、山名宗全、畠山右衛門佐義就、斯波治部大輔義廉の一派とに、完全に二つに分かれた。
文正二年(一四六七年)、正月から京の上御霊社を舞台に畠山政長と畠山義就(ヨシナリ)が合戦を始めた。この合戦は一応、中立の立場を守ろうとする将軍義政の命を守り、山名宗全も細川勝元も動かず、義就方の勝利という形で終わった。
その後、二月、三月は京の町も何事も起こらず、不気味に平和だった。
三月五日に応仁と改元され、四月になると、両派はひそかに兵を集め始めた。
五月になり、播磨(兵庫)、伊勢(三重)、尾張(愛知)、遠江(静岡)、越前(福井)など、地方において、細川派が山名派への攻撃を開始した。
京では五月二十四日、細川派が山名派の一色修理大夫義直の屋敷を焼き払い、室町御所の幕府を手中に入れた。そして、二十六日早朝より両軍は上京の地域で正面衝突をした。細川派は勝元邸を本陣とし、山名派は宗全邸を本陣とした。この時の陣の位置から細川派を東軍、山名派は西軍と呼ばれた。
東軍には細川氏、畠山左衛門督政長、斯波左兵衛佐義敏、赤松兵部少輔政則、武田大膳大夫信賢、京極大膳大夫持清、富樫次郎政親ら、西軍には山名氏、畠山右衛門佐義就、畠山左衛門佐義統、斯波治部大輔義廉、六角四郎高頼、一色修理大夫義直、土岐左京大夫成頼という面々が顔を見せていた。
東軍の兵力は十六万一千五百余騎、西軍の兵力は十一万六千余騎だったと言われている。
六月になると、勝元は将軍義政より宗全討伐の命を受ける事に成功し、東軍は官軍となり、足利義視を総大将として陣中に牙旗と呼ばれる将軍の旗を高々と上げた。東軍は勢いに乗って攻めに攻め、西軍は辛うじて、これを支えていた。
七月になると、西軍の大内周防介政弘が北九州と山陽地方の大軍を率いて入洛し、形勢は逆転した。不利になった勝元は形だけでも整えようと、天皇と上皇を室町御所に移した。将軍と天皇を擁した東軍だったが、八月になると形だけでも東軍の総大将だった義視が伊勢の国司、北畠氏を頼って京を飛び出してしまった。敵対する日野富子、日野勝光、伊勢貞親らと共に暮らすのに嫌気がさし、身の危険も感じたからであった。
その後は、あちこちで決戦が行なわれたが決着はつかず、睨み合ったまま年を越した。
この合戦で、多数の寺社、公家や武家の屋敷、民家などが焼き払われ、特に京都北部はまったくの灰燼と化した。
戦が長引くにつれて両軍の軍勢が続々と入京し、物価は上昇し、食糧難となり、あちこちで土倉や酒屋(共に高利貸し業)が襲撃された。
『京中悪党』や『足軽』と呼ばれる傭兵たちが好き勝手に暴れ回っていた。彼らは京都周辺の浮浪者や没落農民たちである。一揆や戦になると傭兵となって働くが、武士としての意識はまったくなく、敵のいる所は避け、いない所を狙っては放火し、自由勝手に略奪を繰り返していた。彼らのお陰で、京の混乱はますます大きくなって行き、応仁の乱と呼ばれる、この戦は東西の決着が着かないまま続いて行った。
京で始まった戦は、ここ愛洲の城下にも影響して来た。とは言っても、戦が始まったわけではない。しかし、いつ、どこから何者かが攻めて来るかもわからないので、戦闘の準備に追われていた。
今回の戦は東軍、西軍に分かれて戦っているが、誰が東軍で、誰が西軍なのか、はっきりとわからなかった。一族の中でも東と西に分かれて戦っている。自分がどちらに付くかという、はっきりした根拠を持っている者は少ない。当面の敵が東に付くなら、こちらは西だというようなもので、利害によって寝返りも頻繁に行なわれた。
愛洲一族は今の所、東でも西でもないが、有力な者から、こちら側に付いてくれと言われたら、自分たちの立場を守るために付かざるえない。また、何者かが攻めて来たら、それを倒すために、敵と反対側に付かざるえない。
水軍も陸軍も各砦に見張りを置き、武士はもとより漁師、農民に至るまで、いざ、事が起こったら、すぐに戦えるように準備におこたりはなかった。
熊野詣でや伊勢参りの参拝客の数も徐々に減って行き、物価はどんどん上昇して行った。
今日の海は荒れていた。
荒れている波の上を何艘もの『小早』が走り回っている。
空も雲ですっかりおおわれ、時おり、雲の隙間から日差しが海に差し込んでいた。
今日は父の所に行く日だった。今頃、父上は待っている事だろうと思った。
城下にある祖父、白峰の屋敷から田曽浦にある父の田曽城まで水路で二里、陸路だと三里程ある。初めの頃は小舟で通っていたが、特に急ぐ用のない限り、太郎は山の中を歩いて行く事にしていた。勿論、山の中に道などないが、道のない所を歩き、自分だけの道を作るのが好きだった。熊野の山歩き以来、太郎は益々、山というものに引かれて行った。
本当なら、今頃、あの辺りだろうな‥‥‥と太郎は田曽浦へと続く山並みを見ていた。
「仕方ないさ‥‥‥」と呟いて、沖の方に目をやった。
やっぱり、ここでも戦が始まるのかな‥‥‥
いや、まだまだ、当分は大丈夫だろう‥‥‥
太郎は立ち上がり、城下の方を眺めた。人影は見当たらなかった。
「来ないかもしれないな」とまた、呟いた。
愛洲源三郎定成と、ここで待ち合わせをしていた。源三郎とは、かつての大助である。彼と二人で、ひそかに京都に行く約束をしていた。
昨日、会った時、源三郎は、「今は時期が悪い」と顔をそむけながら言った。「皆が戦の準備をしている。こんな時に家を飛び出す事なんてできない」
「こんな時だから、京を見ておかなければならないんだ」と太郎は強い口調で言った。
「京は物騒だ」と源三郎は弱音を吐いた。
「怖いのか」と聞くと、「怖くはない。怖くはないが‥‥‥」と源三郎は口ごもった。
「俺は行くぞ。一人でも行く。明日、待ってる」
そう言って、昨日は別れた。
「来ないかもしれない‥‥‥」もう一度、太郎は呟いた。
海からの潮風が強くなって来た。
ふと、太郎は後ろに人の気配を感じて振り返った。
曇天が石段の上から、ニヤニヤしながら太郎を見ていた。
「今時、暇な奴もいるもんだな」と曇天は太郎をからかうように言った。
「うるさい!」と太郎は怒鳴った。
太郎はこの生意気な小坊主が何となく気にいらなかった。
「へっ、情けねえ面をしてやがる」
曇天は石段を降りて来て、太郎の横に腰を下ろした。
「おい、和尚はいるのか」と太郎は聞いた。
「留守だ」と言って、曇天は目を細めて海を眺めた。「ちょっと出掛けて来ると五日前、フラッと出掛けたまま、まだ戻って来ねえ」
「どこ、行ったんだ」
「知らん」
「それでも弟子か」
「俺にも、あの和尚の事はよくわからん。とぼけてるが本当は偉え坊さんかもしれねえ。京で戦が始まったんで、陣中にでも呼ばれたのかもしれん」
「お前は留守番か」
「留守番?」と曇天は鼻で笑った。「こんな寺の留守番したってしょうがねえ。俺も京に出ようと思ってる」
「お前、京へ行くのか」と太郎は曇天の顔を見た。
「こんな田舎にいたってしょうがねえ」と曇天は真面目な顔付きで言った。「和尚が言ってたが、これからは強え者が、どんどん、のし上がって行く時代になるんだそうだ。戦も今までとは違ってきたと言ってた。今までは武士同士の戦だったが、今は百姓たちも武器を持って、武士を相手に戦ってるそうだ」
「それは本当なのか」と太郎は目を輝かせて聞いた。
「俺もよく知らんが、和尚がそう言ってた。京や奈良では百姓たちが今まで支配してた武士を相手に戦をしてるそうだ。そして、今、京でやってる戦は、かなり長引くだろうとも言っていた」
「それじゃあ、ここも、そのうち戦になるのか」
「かもしれん‥‥‥俺は今の京がどうなってるのか見てみてえ。和尚がいつも言ってるように、何でも自分の目で確かめなくちゃいかん」
「そうだ」と太郎も同意した。
「お前は武士だからいい。それに行く行くは水軍の大将だ。俺はこんな山寺で一生を終わりたくはねえ。どうせなら、もっとでかい事がしてえ。今の世の中なら、俺にも何かできるような気がする」
「よし、京へ行こう」と太郎は言った。
「何?」と曇天は太郎の顔を覗き込んだ。
「京に行くんだ」と太郎は力強く言った。
「本気か」
「ああ、本気だ」
「よし」と曇天は太郎を見つめながら頷いた。
「こいつは面白くなって来たぞ」と曇天はニヤリと笑った。「よし、今すぐ、出発だ。ちょっと、待ってろ」
曇天は石段を駈け登ると寺の中に入って行った。
源三郎が来ないので一人で行こうか、それとも、次の機会にした方がいいか、迷っていた太郎だったが、うまい具合に道連れができたので喜んでいた。今まで、まともに話をした事もなかったけど、話してみると曇天もそれほど生意気でもないようだった。
曇天は腰に竹の水筒をぶら下げ、鉄鍋を背中に負い、やけに長い太刀をかつぎ、麻袋を引っ提げて出て来た。
「お釈迦様に留守番を頼んできた。こいつを頼む」曇天は太郎に麻袋を渡した。
「何だ、これは」
「飯だ。食わなきゃ生きていけん」
「そりゃ、そうだ」と太郎は麻袋を背負った。
「おい、お前、本当に京に行くんだな」曇天は念を押した。
「行く」と太郎は拳を握った。
「よし」と笑うと曇天は太刀をかついだまま、しおらしく寺に向かって合掌をした。「さて、行こうぜ」
「おい、坊主が刀なんか持ってていいのか」と太郎は聞いた。
「これか。これは人を斬るんじゃねえ。煩悩(ボンノウ)を断ち切るもんだ」曇天はまた、生意気な事を言った。「ハハハ、俺もまだ、死にたくねえんだ」
「使えるのか」
「試してみるか」
「試す時は、すぐ来るさ」
「その時は頼むぜ、大将」
京を目指して、二人の旅は始まった。
五ケ所浦の城下が見えた。
数人の騎馬武者が城の中に入って行くのが見えた。
五ケ所湾の海は光っていた。
入り組んだ入江の中、何艘もの小早が走り回っている。
五ケ所湾の入り口、田曽岬の辺りに関船が二艘、見えた。父上が乗っている船かも知れないと太郎は思った。
「もう、ここには戻れねえかもしれねえな」と曇天が感慨深げに言った。
太郎と曇天の二人は馬山の頂上にある砦のすぐ下あたりから、城下を見下ろして立っていた。
「そんな事はない。戻れるさ」と太郎は言ったが、これから先の事を考えると心細くなって来ていた。
ここからは祖父の屋敷は見えなかった。祖父にも祖母にも何も言わずに出て来てしまった。今の所は父上の所に行っていると思っているだろうが、行っていない事がわかれば、心配するに違いない。
太郎は北東の山に目をやった。小春にも当分の間、会えなくなる。昨日、しばらくの別れを告げた時、彼女は太郎の目をじっと見つめ、「待っている」と言って笑った。そして、お守りと言って、刀の栗形の所に綺麗な細い紐を結んでくれた。その時、小春の目に涙が光っていた。
太郎はしばらく小春の紐を見ていたが、曇天の方に目を移すと、曇天もぼうっとした顔で城下の方を見ていた。彼にも色々と思い出があるのだろうと思った。
「行くぞ」と太郎はうながした。
「おお」と曇天は頷いた。
馬山の砦の回りを迂回して北側を降りると切原に出る。切原にも愛洲一族の城があった。二人の顔を知っている者がいないとも限らない。そのまま、山中を東に抜ける事にした。半時(一時間)ばかり山中を歩き、白滝と呼ばれる滝に出た。
太郎もこの滝までは何度か来た事があるので知っている。ここまで来れば、もう大丈夫だろうと二人は伊勢に向かう街道に出た。
「京まで、どの位あるのかな」と太郎は独り言のように言った。
「五十里(約二百キロメートル)位だろう」と曇天が答えた。
「五十里か」と太郎は曇天の顔を見た。曇天が京までの距離を知っているとは思ってもいなかった。
「一日、十里歩いたとして、五日は掛かるな」
「お前、行った事あるのか」
「ある」と曇天は頷いた。
「ほんとか」太郎には信じられなかった。
「ガキの頃、京の都でフラフラしていて、松坂の和尚に捕まったんだ」
「京の都で何してたんだ」
「何もしてねえ。ただブラブラしてたんだ」
「お前、京で生まれたのか」
「違う。若狭の国(福井県西部)だ」
「若狭の国? どこにあるんだ」
「京よりずっと向こうだ。向う側にも海があって、俺は向うの海の近くで生まれたんだ」
「へえ。京より向こうにも海があるのか‥‥‥お前の親父は漁師なのか」
「違う。親父は立派な武士だった」
「何だと? お前の親父が武士?」
「そうだ。でも、俺が十歳の時、親父は死んじまった。俺は親父の家来に連れられて家から逃げた。どうして逃げなければならねえのか、俺にはさっぱりわからなかった。夜になって、城下で戦が始まったという事がわかった。俺は山の中の小さな寺に預けられた。親父の家来は迎えに来るから待ってろと言って、出て行ったまま戻って来なかった。戦は二、三日して終わった。俺は寺から抜け出して家に戻った。しかし、家はなかった。俺の家だけじゃなく、その辺り一帯、焼け野原になっていた。俺はどうしたらいいのかわからず、そのまま国を出たんだ‥‥‥行く当てなんか、どこにもなかった。ただ、親父から京の都の話を聞いた事があったんで、京に行けば何とかなるだろうと京に向かった。どうやって、京にたどり着いたのかわからねえが、何とか、たどり着けた。俺は京の都で、物貰いやかっぱらいをして何とか生きていたのさ」
「へえ、そんな事があったのか‥‥‥苦労してるんだな」
「お前とは違うさ」
「母上はどうなったんだ」
「母親は親父より先に死んだよ」
「そうだったのか‥‥‥お前も武士だったとはな」
「お前とは違う。武士といっても漁師に毛が生えたようなもんさ」
「快晴和尚とは京で会ったのか」
「いや。松坂だ」
「松坂って?」
「山田から六里程先だ。俺は京で松坂の和尚に捕まって、和尚の寺に連れて行かれて、無理やり坊主にされたんだ。まあ、飯だけは食えたから、俺も我慢して、そこにいる事にした。その寺に快晴和尚が来たんだ。初めて見た時は汚え坊主だと思った。本当に乞食みてえな格好をしてたよ。その寺の和尚と昔からの知り合いらしくて、よく遊びに来ていた。毎日、ブラブラしていて、知らないうちに、またどこかに行ってしまう。どこが気にいったんかなあ‥‥‥よく、わからんけど俺は和尚の後をついて、ここに来たんだ」
「ふうん‥‥‥」
「お前はどうして、家を出て来たんだ」と曇天が聞いた。
「別に出て来たわけじゃない。ただ、京の都を見てみたいからさ」
「海賊のお前が、陸を見たってしょうがねえだろ」
「関係あるさ‥‥‥」
「ちょっと、待て」と曇天が太郎を制した。「馬が近づいて来る」
「感づかれたかな」と太郎も耳を澄ませた。
二人は茂みの中に身を隠した。
鎧武者を乗せた馬が一頭、城下から剣峠に向かって走って行った。太郎の知らない男だった。しかし、そろそろ、太郎がいなくなった事に気づく頃だった。
この先の剣峠に関所を兼ねた砦がある。多分、そこで、太郎を捕まえようと待ち構えているに違いない。
「まずいな」と太郎は言った。
「どうする」
「こんな所で、捕まったら二度と京には行けなくなる」
「山に入るか」
太郎は頷いた。
二人は、また山の中に入って行った。
太郎は小刀を振り回し、邪魔な小枝やつるを切りながら道を作って進んだ。
「おい、大丈夫か」と太郎の後をついて来る曇天が心配そうに聞いた。
山の中に入ると回りが見えないので、方向もわからず、風景にあまり変化がないので、同じ所をぐるぐる回っているような錯覚を覚える。
「大丈夫だ」と太郎は自信を持って言った。
普段から山の中を歩き回っていた太郎には、方向に関してはある種の感が働き、自信があった。
「こんな事なら、一人で来れば良かった」と曇天は愚痴をこぼした。「俺一人だったら、何も山の中に隠れなくても、堂々と街道を歩ける」
「さあ、それはどうかな。京へ行くまでには、いくつも関所があると聞いている。そんな所をいちいち通って行ったら、いくら銭があっても足りはしない。結局は山の中を歩くしかないのさ」
曇天はブツブツ文句を言いながらも、太郎の後をついて来た。
ようやく、尾根に出ると視界が開け、剣峠の砦が下の方に見えた。
「大したもんだな」と曇天は砦を見ながら言った。「お前は海賊より、山賊の方が似合ってるぜ」
峠の砦では見張り櫓(ヤグラ)の上に一人の武士が、そして、道に二人、槍を持った武士が城下の方を睨んでいた。
「ここを抜ければ、もう、大丈夫だな」と曇天は聞いた。
「わからん。宇治にも、いるかもしれん」
「まあいい。早く行こうぜ。俺は腹が減ってきた」
「そういえば、腹、減ったな」
尾根づたいに歩き、五十鈴川のほとりに出ると街道に戻り、伊勢神宮のある宇治に向かって歩き始めた。
夕暮れ近くにどうにか、宇治にたどり着く事ができた。
宇治の町は相変わらず、お伊勢参りの参拝客で賑わっていた。
太郎は母や祖母に連れられて、二度ばかり来た事があった。いつも利用する馴染みの宿屋はあったが、当然、そこは避け、一般の参拝客に混じって安い宿に泊まった。
「今日は疲れたな」曇天は宿に上がると、足を伸ばしながら言った。
「これからだぜ」と太郎は言ったが、太郎も事実、疲れていた。
二人は腹に飯を詰め込むと、死んだ者のように、ぐっすりと眠りに落ちていった。
次の日、宇治から山田に出て、小畑、明星、櫛田と通って松坂に着いた。
途中、関所がいくつかあったが、うまく回避して何事もなかった。道も昨日とは違って平坦なので、太郎も曇天も物見遊山でもしているような気で、のんびりと旅をしていた。
松坂では曇天が前にいた寺に泊めてもらった。
曇天が、そこの和尚に快晴和尚の事を聞いてみると、四日程前に、ひょっこり訪ねて来たと教えてくれた。
今、多気(タゲ)の御所に、次の将軍様になられるお方が来ている。ちょっと、そいつの面でも拝んで来るかと、また、すぐに出掛けたと言う。
「あいつの事じゃ、どこにいるやら、わしにもわからんわい。本当に多気の御所にでも行って、そのお方と会ったのかもしれんのう」と松坂の和尚は笑った。
「次の将軍様に会うなんて、あの和尚、そんなに偉い人なんですか」と曇天は聞いた。
「さあな、わしゃ、知らんよ。だが、あいつなら、やりそうじゃ」と和尚はまた笑った。
そう言われてみると、太郎も曇天も、あの和尚ならやりかねないと思った。
この辺りは南北朝時代以来の名門、伊勢の国司、北畠氏が支配している。
北畠氏はまだ、京の戦には参加していない。しかし、去年の秋、足利義視が北畠権中納言教具を頼って伊勢に逃げて来た。それをかくまったので、一応、東軍という事になっている。けれども、北畠氏は義視のために兵を動かそうとはしなかった。義視のためには動かなかったが、抜けめなく義視の存在をうまく利用して、領国内の不満分子を二、三片付けて支配力を強めていた。
北畠氏の本拠地は多気にある。四方を山に囲まれた要害の地で、伊勢と吉野を結ぶ伊勢本街道が通っている。国司の居館は『多気御所』と呼ばれ、回りには侍屋敷や民家などが建ち並び、賑やかな市が立ち、『伊勢の国の都』として繁栄している。その都を見下ろす山の上に、代々、北畠氏が本拠とした霧山城があった。
快晴和尚は、その多気にいるかもしれないと言う。しかし、太郎と曇天は、その伊勢本街道を通って南都、奈良に抜ける道を避けた。足利義視が伊勢に来て以来、関所の警戒が厳しくなり、特に国境は出入りが難しくなっていると言う。
二人は北上して伊賀街道を行く事にした。
六軒、木造、久居、五百野、長野と通り、平木まで来た。そこから伊賀越えの峠になる。まだ、日は高いが、このまま進めば山の中で暗くなってしまう。
里の者の話だと、よく山賊が出ると言う。二人は無理をせずに、ここで一夜を明かす事にした。道に沿って長野川が流れている。今夜の寝床はそこだった。
次の朝早く、二人は街道に座り込んでいた。
太郎が出掛けようとした所を曇天が止めた。山賊が出るかもしれないから、二人だけで行くのはまずいと曇天は言った。
「せっかく、ここまで来て、戻るのか」と太郎が聞くと、「そうじゃねえ。誰か、きっと、旅人が来るはずだ。強そうな侍が来たら、そいつと一緒に行った方がいい」と曇天は言う。
太郎も、もし山賊に襲われたら勝つ自信はなかった。一応、曇天の意見に賛成して、道端に座り込み、誰かが通るのを待った。
近所の農民が鍬をかついで通るだけで、旅人はなかなか通らなかった。
「もしも、誰も来なかったらどうするんだ」と太郎はイライラしながら聞いた。
「絶対、誰か来るさ。気楽に待とうぜ。別に急ぐ旅じゃない」
「勝手にしろ!」太郎は道端に寝そべった。
空にはポッカリと雲が浮かんでいた。雀が鳴きながら飛び回っている。
五ケ所浦を出てから、今日で四日目だった。
みんなが心配しているだろうな、と思った。しかし、ここまで来たからには絶対に京の都を自分の目で見なければ帰れなかった。
母親は悲しんでいるだろうか。
次郎丸、お澪、そして、三郎丸は元気でいるだろうか。
父上は怒っているだろうか。
祖父は‥‥‥
祖母は‥‥‥
そして、小春は‥‥‥
「おい、来たぞ」と曇天が太郎の肩をたたいた。「侍だ!」
編み笠をかぶった侍が一人、急ぎ足で、こちらの方に向かって来る。一見した所、それ程、強そうには見えない。
「よし、あの侍と一緒に行こう」と曇天は一人で頷いた。
「大丈夫か」と太郎は不安気に聞いた。
「二人より三人の方がましだろう。それに、一人で山を越えようとしてるんだから、少しは使えるんだろう。俺に任せておけ」
曇天は太刀を太郎に預けると侍に近づいて行き、頭を低くして声を掛けた。
侍は編み笠を少し上げて、ちらっと太郎の方を見ると頷いた。曇天は侍に頭を下げると太郎の方に戻って来た。
「うまくいったぞ、行こう」
二人は侍の後をついて伊賀越えに向かった。
侍は一言も口をきかなかった。
心配していた山賊も現れず、無事に峠を越え伊賀の国に入った。
侍の足は速かった。太郎と曇天は後を追うのがやっとだった。
ようやく、山の中から出て、村が見えて来た。
「おい、どうする」と曇天が小声で太郎に聞いた。「もう、あいつと別れるか。俺は疲れた。もう、休みてえよ」
「別れるにしたって、一応、挨拶した方がいいだろう」と太郎も小声で答えた。
「そうだな」
「お前に任せる」
「俺たちは別に急ぐ旅じゃねえんだ。のんびり行こうぜ」と曇天は先を歩く侍を追いかけた。
曇天が侍の横に並び、声を掛けようとすると、「おい、お前ら、どこまで行くんだ」と侍は初めて口をきいた。
「え、はい、京の都です」と曇天は答えた。
「京に何しに行く?」
「京の町を見にです」
「京は今、戦じゃ。見る物など何もない。どこも焼け野原じゃ」
「お侍さんは、どこまで行かれるんですか」
「わしも京じゃ」
「はあ、そうですか‥‥‥あのう、俺たち、別に急いでるわけじゃないんで、この辺で別れたいんですけど‥‥‥」
「わしも別に急いじゃおらん‥‥‥疲れたのか」
「はい、少々」
「それじゃあ、一休みするか」
三人は木陰を見つけて休憩をした。
今日も暑かった。
侍はそれ程でもないが、太郎と曇天は汗びっしょりだった。
この侍は、七年前の寛正の大飢饉の時、山伏の風眼坊舜香と酒を酌み交わした、あの伊勢新九郎だった。今は足利義視の申次(モウシツギ)衆をやっている。義視の使いで京に向かう途中だった。
新九郎は義視が兄の将軍義政に無理やり還俗させられて以来、ずっと、義視の近くに仕えていた。
―――もう、四年になる。
去年、義視が京を逃げ出すのを助けて、伊勢にやって来た。
伊勢の国司、北畠教具の保護のもと、義視は丹生、松坂、須賀、木造と一ケ所に落ち着かないでウロウロしている。昨日は榊原の温泉でのんびりしていたが、突然、今朝になって、「余は早く、京に戻りたい」と言い出し、新九郎に書状を持たせ、至急、京に行けと命じた。
新九郎は、もうアホらしくなって来ていた。どう見ても義視は将軍の器ではない。ただでさえ乱れている世に、あんな男が将軍になったら取り返しがつかなくなる。また、今の情勢からして、あの男は将軍になれそうもない。あんな男にいつまでもくっついていてもしょうがない。
そろそろ、やめるか‥‥‥
新九郎は伊賀越えの間、ずっと考えていた。
「ほう、おぬし、愛洲の小伜か」
太郎が名前を名乗ると新九郎は太郎の顔を眺めながら、そう言った。
「臨済の小坊主と海賊の小伜か。面白い取り合わせじゃな」
新九郎は急ぎ足をやめていた。
三人は平松、下阿波、広瀬、平田、西明寺と通り、伊賀上野を抜けた。そして、島ヶ原の少し先まで来た時、日が暮れて来た。
「伊勢殿、京まで、あと、どの位ですか」
食事を終え、焚火を囲みながら曇天が新九郎に聞いた。
「ここまで来れば、あと二日で京に着く。しかし、京に入るのは難しいぞ。足軽共がウロウロしているからな」
「足軽?」と曇天は聞いた。
「ああ、お前らのような者だ。京に出て来て、一旗、挙げようという連中共が集まって、好き勝手な事をやっておる。一応、東軍だの西軍だのと言ってはおるが、やってる事は盗賊と同じじゃ」
「俺たちは違う」と太郎は否定した。
「違うか‥‥‥じゃあ、何しに行く」
「世間を見るためです」
「見てどうする」
「わかりません‥‥‥見てから決めます」
「まあ、いいだろう。好きにするがいい。とにかく、足軽共に会ったら命はないものと思っておけ。やつらには卑怯という事は通じんからな。相手が強いと思えば平気で逃げるし、弱いと見れば大勢で寄ってかかる」
「伊勢殿はどうやって、京に入るんですか」と曇天が心配そうに聞いた。
「わしか、わしなら何とかなる」
「お願いです。俺たちも一緒に連れて行って下さい」と曇天は頼んだ。
「京まではな‥‥‥後は知らんぞ」
太郎は、この新九郎という侍は何者なのだろうか、と焚火の向こう側にいる新九郎を見ては考えていた。伊勢という名字からして偉そうだが、目の前にいる新九郎はそうは見えない。年の頃は三十の中頃だろうか。太郎も幕府の側近の伊勢伊勢守というのが力を持っているという事は知っていた。この男もその伊勢氏の一族なのだろうか。
それにしても、そんな侍が供もつけずに、たった一人でこんな所を歩いているのは変な感じがした。
「おい、こりゃ、まずいぞ」と新九郎は言った。「雨が来る」
太郎と曇天は空を見上げた。
確かに、雲行きがおかしかった。
三人は焚火を消し、雨宿りができる所を探した。
朝になっても雨はやまなかった。
新九郎、太郎、曇天の三人は破れ寺で雨宿りをしていた。今にも倒れそうな荒れ果てた小さな山寺だった。
太郎は縁側の柱にもたれ、外の雨を見ている。
新九郎は横になって穴のあいた天井を眺めている。
曇天は目をつぶって座りこんでいる。座禅でもやっているつもりなのだろうが、こっくり、こっくりと舟を漕いでいる。
あちこちで雨漏りがしていた。
「おい、曇天」と新九郎が天井を見ながら言った。
「はっ」と曇天はビクッとして目をあけた。
「お前の師匠は誰だ」
「はい、快晴和尚です」
「快晴和尚‥‥‥聞いた事ないな」
「昼寝ばかりしている偉い和尚さんです」
「偉い和尚か‥‥‥成程、お前も昼寝が好きなようじゃな」
「昼寝してたんじゃありません。考え事をしてたんです」
「ほう、何を考えていた」
「京の戦です。どうして、戦なんかしてるんだろうと」
「それで、わかったのか」新九郎は横になったまま、天井から曇天の方に視線を移して肘枕をした。
「わかりません。もう一年以上になるんでしょう。どうして、そんなに長いこと戦をやらなければならないんです」
「そんな事は誰にもわからんよ。戦をやりたくてやっている奴なんか、ほんの一部しかおらんだろう。あとの者はただ振り回されているだけだ。一度、始まった戦が終わるというのは勝負のけりがつくか、誰か力のある者が仲裁してやめさせるかだ。ところが、今度の戦は大きすぎる。それも一ケ所でやってるわけじゃない。あちこちで同時にやっている。京で西軍が有利になったとしても、地方では東軍が有利になっているという具合だ。勝負のけりなどつくわけない。しかも、本来なら大名たちの争いをうまく裁くのが幕府の仕事だ。それなのに幕府が二つに分かれて争っておるんだから話にならん」
ぼんやりと雨を見ていた太郎も、新九郎の話に聴き入っていた。
「公方(クボウ)様は何をしてるんです」と曇天は聞いた。
「毎日、酒と女に囲まれて遊びほうけておる。目の前で戦をやっていようとおかまいなしじゃ。花の御所に攻めて来る奴は今の所、誰もおらんからな。今の将軍の先々代の義教公は播磨の守護、赤松氏に殺された。大名たちを公平に裁かなかったためだ。それ以来、将軍は意気地無しになった。地方の大名の争い事に口をはさんで殺されるより、政治などに一切、手を出さず、風流に遊んでいた方がいいというわけだ。今の将軍、義政公は将軍とは名ばかりで何の力も持っていない」
「この戦は長引くんですか」と今度は太郎が聞いた。
「長引くだろうな‥‥‥時代の流れというものかもしれん。時代の流れという大きな力に、みんなが振り回されているようだ。この戦が終わった時、何かが変わるような気がする」
「時代が変わる?」と曇天は言った。
「ああ、今までは武士の時代だった。民、百姓は武士の言う事を聞いて、おとなしく暮らしていた。しかし、最近はそうではない。一揆というものが、やたらと起きる。民、百姓、それに地侍が力を持って来ている。守護や地頭などと言ってふんぞり返っていられなくなって来ている。武士共の気づかない所で時代は徐々に変わって来ているんだ‥‥‥」
太郎は新九郎の話を聞きながら、やはり、五ケ所浦から出て来て良かったと思った。新九郎が言っている事は太郎が考えてもみない事だった。五ケ所浦にいたら将軍様の事など雲の上の話で、あれこれと言ったり考えたりするべき事ではなかった。太郎にはまだ政治の事などよくわからないが、父や祖父の話などを聞いていると、あんな小さな五ケ所浦の事だけでも大変なのに、新九郎は平気な顔をして幕府や中央の政治の事を話している。世間は広いものだと、改めて太郎は感じていた。
「時代は変わる‥‥‥」曇天は目を輝かせて呟いた。
今まで何不自由なく暮らして来た太郎にとって、「時代は変わる」と言われても、何がどう変わって行くのか、まったく見当もつかなかった。
「そろそろ、雨も上がりそうだな」と新九郎が言った。「出掛けるか」
山城の国に入り、木津川に沿って西に向かって歩いていた。
右も左も山に囲まれている。
雨は上がったが薄暗かった。
岡崎という村まで来ると、ようやく日が差して来た。かなり大きな村なのに、辺りは静まり返っている。田畑は踏み荒らされ、家々は焼かれていた。
「一揆だ」と新九郎は足を止めた。
「村人たちはみんな、殺されたのか」と曇天が焼け跡を眺めながら言った。
「山に隠れておるんじゃ。そのうち出て来る」
あちこちに殺された農民たちが虫けらのように転がっていた。どの死体も泥まみれだった。
「お前、坊主だろ、念仏くらい唱えてやれ」と新九郎が曇天に言った。
太郎も曇天も、この無残な光景に言葉も出なかった。
「酷いもんだな」と新九郎は言うと片手で仏を拝んだ。
「南無阿弥陀仏」と曇天は呟いた。
太郎はじっと死人を見つめていた。
まだ若い男だった。腹を真っ二つに割られ、はらわたが飛び出している。目を見開き、何かを叫んでいるかのように口をあけ、何かをつかもうとして、つかみきれなかったのか、右手を伸ばしたまま事切れていた。
「こんな事で驚いていたら、とても、京へなんか入れんぞ」と新九郎は言うと歩き出した。
上狛で道は右と左に分かれる。右に行けば京、左に行けば木津川を渡って奈良へと行く。
三人は右に曲がった。その上狛の曲り角で、三人は異様な団体と行き会った。
武装した侍が十人ばかり、列を作って奈良の方から歩いて来た。どの侍の顔も一癖も二癖もありそうな人相の悪いのが揃っている。それだけなら別に異様でもないが、その侍たちに囲まれて、馬に乗った坊主頭の太った男と、その後ろに二十人近くもの青ざめた顔をした若い娘たちが固まっていた。皆、継ぎはぎだらけの粗末な着物を着ている。中には、泣きながら歩いている娘も何人かいた。
その団体が通り過ぎると曇天は新九郎に聞いた。「あれは、一体なんです」
「人買いだ」と新九郎は答えた。
「人買い?」
「ああ、今、京には地方から続々、兵が入って来ている。女子(オナゴ)がいくらいても足らんのだよ」
「すると、あの女たちは‥‥‥」
「兵たちの慰みものだ」
「あの女たちは売られたのですか」と太郎は不思議そうに聞いた。
「そういう事だな」
「親が自分の娘を?」
「だろうな」
「どうして」
「どうしてだと」と新九郎は太郎を見た。
太郎は真剣な顔をして新九郎を見ていた。
「生きるためだ」と新九郎は言った。「いいか、よく覚えておけ。この世にはな、自分の娘を売らなければ、生きて行く事のできないような人間もいるんだ。さっき、殺されていた百姓を見ただろう。奴らだって好き好んで一揆なんか起こしたわけじゃない。すべて、生きるためだ。少しでも、今の世を良くしていこうとしてるんだ。今の世が一体、どうなっているのか、その目でしっかりと見ておくんだな」
新九郎は太郎と曇天に笑いかけると、「行くぞ」と歩き出した。
太郎と曇天の二人はしばらくは何も喋らず、新九郎の後を黙々と歩き続けた。
次の日も夜中に雨が降っていたが、朝方にはやみ、いい天気になった。
三人は京の都を目指して奈良街道を歩いていた。
「もうすぐ、京だな」と新九郎が言った時、どこかで悲鳴が聞こえた。
「何だ」と曇天がキョロキョロした。
「あそこだな」と太郎はこんもりとした森の方を見た。
「助けて!」
今度は、はっきりと女の悲鳴が森の方から聞こえて来た。太郎と曇天は森の方に駈け出した。
小さな祠の前で、四人の足軽がニヤニヤしながら一人の娘を囲んでいた。娘は恐怖のために声も出せず、口をあけたまま震えている。四人の足軽は泥の中を走り回っていたかのように体中に乾いた泥をこびりつかせていた。
「やめろ!」と曇天が叫んだ。
四人の足軽は振り向いた。
「小僧、何か用か」槍をかついだ痩せこけた足軽がニヤニヤしながら言った。
「やめろ!」と今度は太郎が刀に手をかけながら言った。
「面白え、やる気か」髭だらけの足軽が太刀を抜いた。
「へっへっへっ」と壊れた兜をかぶった足軽が笑った。「ガキ共は、おめえにまかすぜ」
三人の足軽は太郎たちを無視して、娘の方に近寄って行った。
太郎は刀を抜くと間をおかず、素早く、髭男の右手首を斬り上げた。髭男は悲鳴をあげ、右手首がついたままの太刀を落とした。
「野郎!」と痩せこけた足軽の槍が太郎を突いてきた。
太郎はその槍をよけると、敵の左手を斬った。
曇天も長い太刀を振り回し戦っていた。
太郎は残る一人に刀を向けた。
「覚えてろ!」と言うと、その足軽は逃げて行った。
曇天の相手も、手を斬られた二人の足軽も、後を追うように逃げて行った。
「おい、忘れ物だぞ」と曇天が髭男の右手を放り投げた。
娘の姿はすでに、どこにも見えなかった。
「大将、やっぱり、強えな」と曇天は太郎の肩をたたいた。
「相手が弱いんだ」と太郎は刀についた血をぬぐった。
道に戻ると、新九郎は一人で先の方を歩いていた。
二人が追い付くと新九郎は、「鬼退治は面白かったか」と言った。
「鬼は退治したけど、宝もどこかに行っちまいましたよ」と曇天が笑いながら答えた。
「そいつは残念だったな‥‥‥これから、あんな連中がうようよ出て来るぞ。桃太郎さんも大忙しだな」
「桃太郎だって」と曇天は太郎を見ながら笑った。
「馬鹿野郎!」と新九郎が怒鳴った。「あんな連中と一々、やり合っていたら命がいくつあっても足りねえぞ。気を付けろ」
巨椋(オグラ)池を左に見ながら、宇治川を渡ると間もなく伏見だった。
伏見の町を抜け、少し行くと、たんぼの中に足軽の死体が転がっていた。
「戦があったようだな」と新九郎は辺りを見回しながら言った。
しばらく行くと辺り一面に死体が転がっていた。皆、泥まみれの死体だった。乾いた泥が体中にこびりついて、皆、泥人形のように表情のない顔に見えた。
「すげえ!」と曇天が転がっている死体を見渡しながら言った。
数人の時宗の僧たちが念仏を唱えながら、穴を掘って死体を埋めている。
「お前も坊主だろう。手伝って来い」新九郎が曇天に言った。
「そんな‥‥‥禅宗ではあんな事はしません」
「何の役にも立たないようなら、禅なんてやめてしまえ」
「そんな‥‥‥」
「伊勢殿」と太郎が声を掛けた。「太刀や槍など、誰も武器を持っていないけど、どうなってるんです」
「金めの物はみんな剥がされるのさ」
「剥いで、どうするんです」
「売るのさ」
「え、死人から取った物を売る?」
「ああ、商人というのは銭のためなら、どんなあくどい事でもする。もっとも、こいつらの武器を剥いで行ったのは商人じゃない。ここらの百姓さ。剥いだ物を商人の所に持って行って、いくらかの銭を貰うというわけだ」
「ひでえな、死んだ者が可哀想だ」と曇天は両手を合わせた。
「死んでしまえば終わりさ。何をされたって文句、言えないからな‥‥‥それより、このまま、進むのはまずいな」
「足軽が出ますか」と太郎は前方を気にしながら聞いた。
「ああ、稲荷山の辺りにたむろしている‥‥‥山にでも入るか」
新九郎は街道からはずれ、草むらの中に入って行った。
太郎も曇天も新九郎の後を追った。
なれや知る都は野辺の夕雲雀(ヒバリ)あがるを見ても落つる涙は‥‥‥
『応仁記』の中で細川家の家臣、飯尾常房が京の都を詠んでいる。
京の都、それは焼け野原に変わってしまっていた。
合戦の勝敗はつかないまま膠着状態に入っている。東軍も西軍も互いに陣地の防御を固めて睨み合っていた。
一年以上も続く合戦で、両軍とも数多くの死傷者を出したわりには、戦果ははかばかしくなかった。
そして、今、この合戦の主役は武士から足軽たちに移っている。彼らは一応、東軍、西軍と分かれているが、やっている事は、ただ、京の町を破壊するだけの事だった。彼らにとって、東軍が勝とうが西軍が勝とうが、そんな事はどうでもよかった。ただ、公然と白昼堂々と放火、略奪、強盗ができる事で喜んで走り回っていた。
合戦そのものは停滞し、京は焼け野原になり荒れ果てていった。
すでに暗くなっていた。
戦火に焼かれた南禅寺の近くにあった空き家で夜を明かすと、新九郎は早々と、どこに行くとも言わずに出掛けて行った。
「縁があったら、また会おう。まあ、無駄死にだけはするなよ」と新九郎は二人に言うと、笑って手を振った。
残された二人は顔を見合わせた。
「俺たち、どうするんだ」と曇天が心細げに言った。
「どうするって、決まってるだろう。京を見に来たんだから、早く、見に行こうぜ」
強気に言っても、心細く思っているのは太郎も同じだった。
京に入るまでは一緒に行動する、というのは最初からの約束だった。それでも、京に入った途端に放り出されるなんて、二人とも思ってもみなかった。新九郎は京に詳しそうだし、少し位は京の町を案内してくれるだろうと、二人とも勝手に思って安心していた。ところが、新九郎は京の事を何も教えずに、さっさとどこかに消えてしまった。
今、京にいるのは確かだが、右も左もわからない。今、自分たちがどの辺にいるのかさえ、さっぱりわからなかった。
「大丈夫かよ」と曇天が心配そうに言った。
「お前、京にいた事あるんだろう」と太郎は曇天に聞いた。
「あるさ。しかし、俺が知ってる京はこんなひでえ所じゃなかったし、ここがどこなのか全然、わからん」
「とにかく、出よう。いつまでも、ここにいるわけにはいかないだろう。外に出れば何か思い出すさ」
二人は恐る恐る、焼け野原に出た。
「これが、京か‥‥‥」
二人の目の前に広がる京の風景は、あまりにも悲惨過ぎた。
夕べは暗くてわからなかったが、焼け落ちた南禅寺の回りには乞食や浮浪者たちが群がっていた。ただの乞食なら、どこの寺にも必ずいるが、ここにいるのは皆、死んでいるのか生きているのかわからない連中ばかりだった。どす黒い顔は目がくぼみ、ほお骨が飛び出し、骨と皮だけの体は腹だけがふくれていた。前に見た事のある地獄絵の中の餓鬼(ガキ)にそっくりだった。また、この風景は地獄絵そのものだった。
二人を見ると乞食たちはもぞもぞと動き出し、言葉にならない声を発し、二人の方に手を差しのべて来た。
太郎と曇天は気味悪くなって、慌てて逃げ出した。
この辺りは南禅寺の門前町として栄えていたのだろうが、今はその影もない。参道の両脇の建物はほとんどが焼け落ちていて、焼け残っている建物も無残に破壊されていた。
二人はまだ、焼け残っている町を目指して南禅寺と反対の方へ歩いて行った。
辺りは、やけに静かだった。
人影も見当たらない。
乞食や浮浪者以外、町の人はみんな逃げてしまったのだろうか。本当に、この京のどこかで戦をやっているのだろうか、と太郎は不思議に思った。
まっすぐ歩いて行くと川に出た。
烏(カラス)が不気味な声で鳴きながら飛び回っていた。
「賀茂川だ」と曇天は辺りを見回した。「わかったぞ。どの辺りにいるのか」
「どっちに行けばいいんだ」と太郎は聞いた。
「あっちだ」と曇天は川向こうの左の方を指さした。「この川を下って行けば四条大橋に出るはずだ。そしたら、橋を渡って向こうに行けば、賑やかな町に出る」
「ほんとか」
「ああ、間違えねえ。任せておけ」
太郎は曇天の指さす方を見ていた。確かに、町があるような気がした。
「行くぞ」と曇天は力強く歩き出した。
二人は賀茂川に沿って、南に向かった。
異様な臭いがした。
賀茂川は広く、草が伸び放題に伸びて川の流れが見えなかった。
「何か変な臭いがしねえか」と曇天が鼻をこすった。
「ああ、どこかで犬でも死んでるんじゃないのか」と太郎は川の中を覗いて見たが、犬の死体らしい物は見えなかった。
「そうだな」と曇天は言って川向こうを眺めた。
「お前がかっぱらいをしてたのは、どの辺りなんだ」と太郎は聞いた。
「橋を渡って、しばらく行くと夷(エビス)さんがあってな、俺は夷さんを寝ぐらにして、その界隈で暴れてたんだ」
「へえ、夷さんていうのは神社か」
「ああ、そうだ。懐かしいなあ。まだ、あればいいけどな‥‥‥四条大橋の下の河原には、色んな芸人たちがいるんだ。賑やかだったなあ。みんな、無事でいるかな、懐かしいなあ」
曇天は一人でニヤニヤしながら思い出に浸っていた。
さっきから感じている異様な匂いはますます強くなっていった。
それは犬の死体などではなく、人間の死体だった。腐った人間の死体が河原の中に、ごろごろしていた。そして、その死体に食らい付いているのが犬と烏だった。
「おい」と太郎は曇天に声を掛けた。
思い出に浸っているどころではなかった。曇天の目の前に信じられない現実があった。
二人とも人間の無残な死体を目の前にして言葉も出なかった。
歩いて行くにしたがって、死体の数は増えて行った。
河原全体が死体捨て場になっていた。それは、まともに見られる風景ではなかった。
「これが京か‥‥‥ひどすぎる」四条の橋を渡りながら曇天は叫んでいた。
太郎も叫びたい気持ちだった。早く、こんなひどい所から逃げ出したかった。河原には芸人の姿などまったくなく、腐った死体の山があるばかりだった。
橋を渡ると町並があった。まだ、焼け残っていた。
その町は、かつては店が並んでいて賑やかだったのだろうが、今は皆、戸を降ろして静まり返っていた。腹をすかした野良犬が一匹、ウロウロしているだけだった。
「誰もいねえんじゃねえか」と曇天は回りを見回しながら言った。
「うん」と太郎は頷いた。「みんな、逃げたんだろうな」
「なあ、腹減らねえか」
「減ったよ」
今日はまだ、朝飯を食べていなかった。新九郎が急にいなくなったのと、京に着いたという興奮で朝飯を食べるのを忘れてしまった。
「京に行ったら、うまい物が食えると思ってたけど、この調子じゃ無理だな」と曇天はすきっ腹を押さえながら言った。
「ああ、店なんて、全部しまっている」太郎の腹もグーグー鳴っていた。
「さっきの河原じゃ、飯、食えねえしな」
「当たり前だ」
「どこか、空き家を探して、飯を食おうぜ。いや、ここまで来たのなら、夷さんに行こう。あそこで飯を食おうぜ」
「近いのか」
「ああ、すぐさ」
二人が『大和屋』という看板のある大きな建物の前まで来た時、痩せ犬が急に吠え、遠くの方から何かが近づいて来る音が聞こえた。かなり大勢の人間がこちらに近づいて来る。
「戦か」と曇天は音のする方を見た。
「足軽だ」と太郎は刀の柄(ツカ)を握った。
「どうする。やばいぜ」
「とにかく、隠れよう」
二人が物陰に隠れると、まもなく、五十人近い足軽たちが手に武器を持ち、松明(タイマツ)をかかげて喚声をあげ、大和屋を目指してやって来た。
彼らは素早かった。
手に持った松明を大和屋に投げ付けると、戸を蹴破り、雪崩のように店に押し込んだ。店の中から、女、子供の泣き叫ぶ悲鳴や、物の壊れる音が聞こえて来る。店を守るために、武装した侍が何人かいたらしいが、足軽の数には勝てず、皆、やられたらしい。
大事な物を抱え、やっとの思いで外に飛び出して来た店の者は、待ち構えていた足軽にあっさりと殺された。店の者が抱えていた物は銀色の小判だった。足軽たちは争って落ちている銀貨を拾い集めた。
大和屋は見る見るうちに燃えていった。
足軽たちはそれぞれ、金目の物や女を抱えて、燃えている大和屋から飛び出して来た。
手に何も持っていない者は近くの家に押し入り、邪魔する者は殺し、めぼしい物を盗んで行った。
「行くぞ!」と銀貨の詰まった箱を抱えた首領らしい男が太刀を振り上げて叫んだ。
足軽たちは、「オー!」と叫ぶと帰って行った。
太郎と曇天は物陰に隠れ、刀の柄を握ったまま、震えながら目の前で起こっている光景を見ていた。
しかし、それだけでは終わらなかった。
足軽たちの行く手をふさぐ者があった。騎馬武者に率いられた正規の武士たちだった。
彼らは、たちまちのうちに五十人もの足軽を斬り捨てた。そして、足軽らの戦利品はすべて、武士たちの手に移った。
武士たちが引き上げると、再び、辺りは静まり返った。
大和屋はほとんど焼け落ち、煙りがくすぶっている。
道には、たった今、暴れ回っていた足軽たちの死体が、初めからあったかのように転がっていた。
突然、どこかの家から、赤ん坊の泣き叫ぶ声が聞こえて来た。
曇天はやっとの思いで刀の柄から手を離すと大きく息を吐いて、また吸い込んだ。
「お、お、恐ろしい所じゃ」と言うと腰を落とした。
太郎も刀から手を離そうと思ったが、緊張して力を入れていたので指が動かなかった。左手で右手の指を一本一本開き、やっと刀から手をはずすと、曇天の顔をちらっと見て地面に腰を下ろした。
太郎も曇天も汗びっしょりだった。
「こんな所にいたら、いつ殺されるかわからねえ」と曇天は顔の汗を拭いながら言った。
太郎はゆっくりと頷いた。
空がやけに赤かった。
山の中を太郎は独り、歩いていた。
京には十二日間滞在した。滞在したというより逃げ回っていたという方が正しい。
目の前で人が殺されて行くのを何回も見た。無抵抗な子供や年寄りが殺されて行くのも何度も見て来た。若い娘が大勢の足軽に乱暴されたうえ、殺されて行くのも何度も見た。また、自分が殺されそうになった事も何度かあった。
人が死んでいく時の断末魔の絶叫は、もう、耳にこびりついて離れなかった。目の前で人が殺されようとしていても、どうする事もできなかった。ただ、震えながら、物陰に隠れているだけだった。
毎日、ビクビクしながら逃げ回っていた。
太郎は早く故郷、五ケ所浦に帰りたかった。こんな地獄から逃げ出して、平和な五ケ所浦に帰りたかった。しかし、それは口には出せなかった。曇天に弱い所を見せたくなかったし、曇天の方はまったく帰る気がなかった。今さら、五ケ所浦に帰っても俺のやる事は何もない。あんな田舎で一生、坊主なんかやっていたくない。俺はもっとでかい事をするんだ。曇天は常にそう言っていた。しかし、曇天にも、これから何をやったらいいのかは見つからないようだった。
十二日目になって、曇天は、「和泉の堺に行ってみようと思う」と口にした。いつか、快晴和尚から堺の町の賑やかさを聞いていた。もしかしたら、快晴和尚も堺にいるかもしれないし、堺の町には何かがあるような気がすると曇天は目を輝かせた。
曇天は堺に向かった。
太郎は帰る事にした。
俺は一体、どうすればいいんだ‥‥‥太郎は山の中を歩きながら考えていた。京に来て、ほんの短い時間の中で色々な事があり過ぎた。五ケ所浦にいたら、思いもしない事が京では平然と行なわれていた。
太郎の頭は混乱していた。今は、とにかく、無事に五ケ所浦に帰る事だった。それしか考えられなかった。
海が見たい‥‥‥五ケ所浦の海が見たい‥‥‥
太郎はひたすら、そう思いながら故郷に向かって歩いていた。
太郎は五ケ所浦に帰って来た。
まるで、乞食のような格好になり、気でも狂れたかのように目の焦点も定まらず、歩くのもやっとのようだった。
祖父、白峰の屋敷までたどり着くと太郎は倒れた。
山の上から故郷の海と町を見て、感激したのは覚えている。その後は、もう無我夢中で山を下りた。
太郎は肉体的にも精神的にも疲れ果て、二日間、眠り込んでいた。
目を覚ました時、側に父が座っていた。
父に何かを言おうとしたが、何を言っていいのか、わからなかった。
「面白かったか」と父は言った。
太郎は父の顔を見つめ、ただ頷いた。
父は笑った。
「わしもな、お前位の頃、家を飛び出した事があった‥‥‥爺さんもあったらしい‥‥‥うちの血筋らしいな‥‥‥人にはな、それぞれ、やるべき事というものがある。そして、それは自分で見つけなくてはならん。お前がこれから何をやるべきかを‥‥‥」
太郎は父の顔を見ながら泣いていた。なぜか、父の声を聞いたら急に涙があふれてきて止まらなかった。
父はそれ以上は何も言わず、ただ、太郎を見守っていた。
太郎は安心して、また、眠りの中に入っていった。
小春にも会いに行ったが、彼女はいなかった。
母親に聞くと、「あれは、嫁に行った」と言った。
「どこに」と聞くと太郎から顔をそむけ、「遠い所だ」と言うだけで、何も教えてくれなかった。
太郎は山の頂上から遠い水平線を見つめていた。
旅から帰って来てから何もやる気がおきず、山に登ってはぼうっと海を見ていたりしていた。
父も祖父も何も言わなかった。
『お前はもう大人だ。自分の事は自分で考えろ』
『お前のやるべき事があるはずだ。それを見つけて、ちゃんとやれ』
太郎の脳裏からは、自分の目の前で殺されていった者たちの苦痛の顔や悲鳴が離れなかった。
それに、嫁に行ってしまった小春の事も忘れられなかった。
どうして、俺が帰って来るまで待っていてくれなかったんだ。
たったの一ケ月じゃないか‥‥‥
「俺は一体、何をしたらいいんだ」
「俺がやるべき事とは、一体、何なんだ」
太郎は毎日、それを考えていた。
快晴和尚が何かを教えてくれないかと思い、長円寺にも行ってみたが、和尚はまだ帰って来ていなかった。誰もいない寺の本堂の奥に古ぼけた黄金色のお釈迦様が留守番していた。太郎は独り、本堂に座り込んでもみたが答えは得られなかった。
十日余りが過ぎた。
太郎は今、山頂から沈む夕日を睨んでいた。
「これだ!」と太郎は叫んだ。「これしかない!」
太郎は刀を抜くと目の前に水平に捧げ、刀の刃を見つめた。
とにかく、強くなる事だ‥‥‥
強くなければ何もできない‥‥‥
太郎は立ち上がると刀を構え、気合と共に、夕日に向かって刀を振り下ろした。
次の日から、太郎は変わった。
夜明け前に起きると海に出掛けた。
小舟に乗ると誰も来ない入江に行き、小舟に乗ったまま、重い木剣の素振り、槍の素突きをした。祖父の自慢の強い弓を借りて弓の稽古もした。そして、帰ると朝食を取り、祖父を相手に剣槍の稽古、弟の次郎丸に稽古をつけてやったりして、昼からは山に入り、山の中を走り回り、立木を相手に木剣を振り回した。
太郎はみるみる強くなっていった。
初めの頃は祖父、白峰も太郎を簡単にあしらっていたが、一ケ月もすると白峰も油断ができなくなる程の腕になっていた。
冬になろうとしていた。
太郎は枯葉を踏みながら山を登っていた。
山頂に着いた時、ふと、人影が目に入った。
いつも、太郎が座り込んで海を眺めている所に、一人の山伏が座り込んでいた。
今まで、この山で人と出会う事はなかったし、この場所を知っているのは太郎と今はいない小春だけだった。太郎は身を隠して、しばらく、山伏の後ろ姿を見ていた。
頑丈そうな年季の入った錫杖を肩に立て掛け、竹笈(タケオイ)を背負い、長い太刀を腰に差している。兜巾(トキン)の下の長い髪が揺れていた。
熊野の山伏だろうか、と太郎は思った。しかし、こんな所で何をやっているのだろう。
山伏だから山の中にいるのは当然と言えるが、ここ五ケ所浦では、山伏たちは港や町にはうようよいるが、この辺りの山で見た事はなかった。
「おい」と山伏は海の方を向いたまま、よく響く低い声で言った。
「そこにいる奴、わしに何か用か」
山伏はそう言ったが、相変わらず太郎に背を向けていた。
この山伏、後ろに目があるのか、と思いながら、太郎は木の陰から出て来た。
「いい所じゃな」と山伏は言った。
太郎は山伏の後ろに立ち、海を眺めた。
今日の海は少し荒れていた。
「お前は、ここの者か」と山伏は聞いた。
「はい」と太郎は山伏の背に答えた。
「愛洲の一族か」
「はい」
「ここは、まだ平和じゃのう」
「はい」
「わしに構う事はない。木剣でも振ったらどうだ」
「え? どうして、それを‥‥‥」
「そこいらの木を見ればわかる」
山伏が言った木というのは、太郎が毎日、木剣でたたいている木の事だった。木剣の当たる所は木の皮が破れ、へこんでいる。そんな木が十数本あった。
「強くなりたいのか」と山伏は聞いた。
「はい‥‥‥」
「強くなって、どうする」
「‥‥‥わかりません。でも、強くならなければ何もできません」
「強くなったからって何ができる」
「‥‥‥でも、わたしは強くなりたい」
「まあ、いいだろう。弱いよりは強い方がいい‥‥‥わしが相手してやってもいいぞ。木なんかよりましじゃろう」
山伏は初めて太郎の方を向くと、ニヤッと笑って立ち上がった。
「小僧、かかって来い」
太郎は何くそと思った。
毎日の厳しい稽古で、多少、自信は付いていた。愛洲一族の中でも『愛洲の隼人』と恐れられた祖父を相手に三本のうち、一本は勝つ事ができた。たかが、山伏ごときに負けるはずはない。
「俺は小僧ではない」と太郎は山伏を睨んだ。
「すまんな、名を知らんのでな」
「愛洲太郎左衛門久忠だ」
「ほう、偉そうな名だな。名前負けという奴か」
「何だと!」
「まあ、いいから、かかって来い。どの位、強いか試してやる」
太郎は木剣を構え、「刀を抜け!」と言った。
「これで充分じゃ」と山伏は錫杖を鳴らした。
太郎は右足を少し後ろに引き、頭の右横に垂直に木剣を構えて山伏を見た。
山伏は錫杖を右手に持って、地に突いてるだけで別に構えてもいない。
「どうした、小僧」と山伏はせせら笑った。
太郎は気合と共に駈け寄り、山伏の右手を狙って剣を振り下ろした。
山伏の右手は手首あたりで砕け折れるはずだった。ところが、どうしたわけか、太郎の木剣は手を離れ、高く飛び、太郎自身は転がっていた。
山伏の方は錫杖を突いたまま、笑っている。
「小僧、どうした。もう終わりか」
「何を‥‥‥」
太郎は木剣を拾うと、容赦しないと山伏の頭めがけて木剣を振り下ろした。
今度は木剣を手から離さなかったが、投げ飛ばされたのは前回と同じだった。
「もう一度」と太郎は山伏に向かって行った。
何度やっても同じだった。
何がどうなって、こうなるのかわからないが、太郎の木剣が山伏を打つ前に、太郎は投げ飛ばされていた。
「どうした。もう、棒振りは終わりか」
太郎は山伏の前に座り込んで山伏を見上げた。そして、両手をつくと、「お願いです。わたしに剣術を教えて下さい」と頭を下げた。
「ほう」と山伏は錫杖を肩にかついで太郎の顔を見た。
「わたしは、どうしても強くなりたいのです」
「わしのやり方は、ちと、きついぞ」
「どんな事でもします」
「そうか‥‥‥まあ、いいじゃろう。ここが気に入ったしな。今年の冬はここで過ごすか」
「ありがとうございます」
太郎は両手をついたまま、山伏を見上げた。
山伏は海の方を見ながら腰を下ろした。
「太郎左衛門とか言ったな。おぬし、いくつじゃ」
「十七です」
「十七か‥‥‥若いのう。わしの名は風眼坊舜香じゃ。吉野の山伏じゃ。よろしくな」
「吉野? 吉野というと熊野から大峯山を越えた向こうですか」
「うむ、そうじゃ。行った事あるのか」
「いえ、ありません。でも、前に熊野に行った時、行ってみたいと思いました」
「そうか、熊野に行ったか‥‥‥吉野もいい所じゃ。だが、今頃は寒いからの。うむ、ここは暖かそうじゃ。お前に剣術でも教えながら、一冬、暮らすかのう」
「お願いします」
「うむ」と風眼坊は太郎の顔を見ながら頷いた。「太郎、そこで頼みがある。わしはここに小屋を建てる事にした。斧と鋸があったら貸してくれんか。それと、すまんが米もな」
「わかりました。何とかします。ところで風眼坊殿、山伏というのは皆、あなたのように強いのですか」
「いや、そうとは限らん。武士の中にも強いのがいたり、弱いのがいたりするのと同じじゃ。わしは特別な修行をして来たんでな」
「特別な修行?」
「ああ、大峯山には天狗がおっての、その天狗から、わしは剣術を教わったんじゃ。昔、判官(ホウガン)義経公が鞍馬の天狗に剣を習ったじゃろ。あれと一緒じゃ。わしは大峯の天狗から習ったんじゃ」
風眼坊は大口をあけて笑った。
「天狗というのは本当にいるんですか」太郎は怪訝そうに聞いた。
「なに、お前、見た事ないのか」と風眼坊は真面目な顔に戻って言った。
「はい、ありません」
「そうか、そのうち、わかるじゃろう‥‥‥とにかく、わしの剣術は山伏流じゃ。武士が使う剣術とは少し違う。わしらはあいつらのように重い鎧など身に着けんからの、身軽じゃよ」
「わたしの剣術も普通のとは違います。水軍の剣法です」
「ほう。お前、水軍の小伜か‥‥‥と言うと、お前はあの愛洲隼人の伜か」
「はい。父上を御存じですか」
「名は聞いた事がある‥‥‥成程な」と風眼坊は太郎の顔をまじまじと見つめた。
「それでは、斧と鋸を持って来ます」と太郎は立ち上がった。
「おお、頼むぞ」
太郎は山を下りて行った。
風眼坊に何度も投げ飛ばされ、体中が痛かったけど心はウキウキしていた。
ちょっとした山小屋が出来上がった。
山頂より少し下の日当たりが良くて、風のあまり当たらない場所に山小屋は建った。
太郎はこんな大工の真似をするのは初めてだったが、風眼坊の言う通りに動き回っていた。
「やっと、できた」と太郎は小屋の中から夕暮れの海を眺めた。
「思ったより立派な小屋ができたな」と風眼坊は小屋の中に敷くために積んである藁(ワラ)束に腰掛けた。「さて、いよいよ、明日から始めるか」
「はい」と太郎は力強く頷いた。
小屋を建てていた三日の間、太郎は木剣を持たなかった。
朝、起きるとすぐ、海にも行かずに真っすぐに山に登って来た。自分の手で小屋を作るなんて、今まで考えてもみなかったのに毎日が楽しかった。たとえ、小さな小屋でも自分たちの手で作り上げたんだ。完成した小屋を見ながら、太郎は何となく嬉しかった。
次の日、太郎が夜明け前に山に登ると風眼坊はすでに起きて、海に向かって座禅をしていた。
「水を汲んで来い」と風眼坊は言った。「今日から、びしびしやるぞ。辛かったら、いつ、やめても構わん。お前の勝手だ。強くなりたかったら耐えるんじゃな」
「やめません」と太郎は言い、桶を持って山を下りて行った。
水を汲む場所は小春といつも会っていた、あの沢だった。
風眼坊舜香‥‥‥彼は座り込んで考えていた。
七年前の寛正の大飢饉以来、彼は一揆衆の中に身を投じていた。国人や郷士らと共に郷民を指揮して、京や奈良で支配者を相手に戦って来た。
今の世をどうにかするには、とにかく、今の社会制度を破壊する事だと思っていた。そして、最終目的は幕府権威を破壊する事。しかし、各地で一揆が起こっても幕府はびくともしなかった。
寛正の飢饉の時、近畿だけでも十万人以上の民衆が飢えて死んだ。しかし、武士が飢えて死んだという事はなかった。
その後も疫病の流行、暴風雨のための洪水などで人々は続々と死んでいった。
幕府は何もしなかった。
そして、応仁の乱が始まった。
風眼坊は京にいて、戦の成り行きを傍観していた。
どちらが勝ったとしても支配体制は弱くなる。そうすれば、各地で土着の国人たちが暴れ出すだろう‥‥‥
戦況が長引きそうだとわかると、しばらくは、また山に籠もって時を待つかと思い、風眼坊は京を離れた。別に当てもなく、冬も近い事だから南の方に、紀州の熊野にでも行くかと山の中を歩いて来た。甲賀、伊賀を抜け、伊勢に入った。伊勢まで来たのだから、ついでに伊勢神宮にでも寄って行くかと外宮、内宮と寄り、五ケ所浦を望む山の上まで来た時、太郎と出会った。
新九郎の奴は今頃、どうしているか‥‥‥
お互いにやっている事は別々だが、考えている事は似ていた。
京にいる時は何度か、新九郎と会っていた。しかし、乱が始まった年の秋、新九郎は足利義視と共に京から消えた。それ以来、会っていない。
風眼坊から見れば、あんな義視のような男にくっついていても、しょうがないとは思うが奴には奴の考えがあるのだろう。
まあ、いい。しばらくは、のんびりとやるか。
太郎が水を汲んで戻って来た。
次に太郎は食事の支度をを命じられた。
「師匠、教えて下さい」食事が済むと太郎は風眼坊の前にひざまづいた。
「まず、わしの木剣を作れ」
「はい」
「わしはちょっと、城下を見て来る」
風眼坊は山を下りて行った。
小屋を作った時、あまった何本かの丸太の中から手頃なのを選ぶと、太郎は鉈を持って縦に割った。丁度いい太さに割れると割れ目にそって、少しづつ小刀で削っていき形を整えていく。
現代の木刀と違って反りはない。とにかく、丈夫である事が第一条件であるため、太くて重い。刃と棟を区別するために、棟の方を三分(約一センチ)程の幅で平に削った。できあがると太郎は立木を相手に、その木剣を振ってみた。折れる事はなかった。
当時、剣の修行を始めるには、まず、木剣を作る事から始まった。太郎は祖父から木の選び方から作り方まで教わり、もう、何本もの木剣を作っている。初めのうちは何本も失敗した。ものの役に立たない木剣を何本も作ったが、今では完全にものにしていた。
風眼坊はなかなか戻って来なかった。
太郎は立木を相手に木剣を振った。
日が暮れかかっても風眼坊は帰らなかった。
太郎はとにかく、木剣を作っていた。何本あったとしても困るものではない。太郎は一日で三本の木剣を作った。
夜になっても風眼坊が戻って来ないので、太郎は山を下りた。
次の朝、太郎が山に登って行った時、風眼坊はまだ帰っていなかった。
太郎は水を汲みに行き、食事の支度をして、一人で食べ、また、木剣を作り始めた。
風眼坊が戻って来たのは昼近くになってからだった。
「いい町じゃな。わしは気に入ったぞ」と風眼坊はニヤニヤした。
「木剣はできました」と太郎は四本の木剣を風眼坊に見せた。
「ほう‥‥‥うまいもんじゃのう。お前、武士なんかやめて、轆轤師(ロクロシ)にでもなったらどうじゃ」
「剣術を教えて下さい」と太郎は頭を下げた。
「わかっておる」
風眼坊は木剣を一つ手に取ると軽く素振りをして、二、三度、地面を強く打つと満足そうに頷いた。
「よし、かかって来い」
「はい」
太郎はいつものように、木剣を頭の右横に垂直に構えた(八相の構え)。
風眼坊は中段に構えた。しかし、右手だけで木剣を持ち、左手は垂らしたままだった。
太郎は後ろの右足を一歩進め、木剣を八相の構えから風眼坊と同じ中段になおすと、木剣の先を風眼坊の目に向け、少しづつ近づいて行った。
風眼坊は木剣を下段に下ろすと左手を柄(ツカ)に添えた。
太郎は素早く近づくと木剣を上げ、風眼坊の頭めがけて振り下ろした。
風眼坊は左足を大きく踏み込み、身を沈めると下段の木剣を下から斬り上げた。
風眼坊の木剣は太郎の木剣の柄に当たった。丁度、太郎が剣を握っている右手と左手の間である。太郎の手は痺れ、木剣は手から離れ、空高く、舞い上がった。
風眼坊は体勢を直し、木剣を太郎の喉元に詰めると、「わかったか」と言った。
太郎は頷いた。
「真剣でやっていたら、お前の両の腕はなくなっている。まず、この技を覚える事だ」
風眼坊はそう言うと小屋の中に入って行った。
太郎は木剣を拾うと下段に構え、下から敵の両腕を斬る稽古をした。
その一瞬のうちに決まる技は、太郎が今まで祖父から習っていた剣法と違っていた。
祖父の教える剣法は、とにかく打ち合う事だった。敵が打った剣をこちらの剣で受け、力まかせに押したり引いたりして、敵の体勢が崩れた所をすかさず打つというものだった。そのやり方だとなかなか勝負はつかないし、体力がものを言った。
風眼坊の教える剣法は違った。敵の剣と我の剣のほんの一瞬の差で勝負は決まった。まさに、その一瞬で生と死が別れる必殺の剣法だった。
太郎は立木を相手に、その技の稽古をした。
下から斬り上げるため、今までの立木では駄目だった。横に手頃な枝を出している木を見つけ、その枝の付け根を狙って下段から木剣を振り上げた。
太郎は毎日、立木を相手に下段からの斬り上げの稽古をしていた。
太郎のお陰で、枝を折られた立木が増えていった。
風眼坊は小屋から出て来ると太郎の動きをじっと見ていた。
「今度は、あの枝をたたけ」
風眼坊は一丈(約三メ-トル)以上もある枝を指した。
「え? そんなの無理です」
「貸してみろ」
風眼坊は太郎から木剣を取ると下段に構えた。体を沈めると気合と共に飛び上がった。
風眼坊の木剣は下から枝の根本を見事に打ち、五寸(十五センチ)程の太い枝は折れ、太郎の頭の上に落ちて来た。太郎は慌てて、その枝を避けた。
太郎に木剣を返すと風眼坊は何も言わず、山の中に入って行った。
風眼坊は最近、山に入って薬草を採って来ては小屋の回りに干したり、小屋の中で煎じたりして薬を作っていた。
「何してるんです」と太郎が聞いたら、「わしの商売じゃ」と風眼坊は言った。
「さすがに、ここは暖かいのう。冬だというのに、まだ、色んな草がある」
これは腹痛に効く、こいつは目の薬だ、これはトリカブトと言って痛み止めとして使うが猛毒じゃ、気を付けた方がいい。風眼坊は干してある色々な薬草を一つ一つ説明してくれた。太郎はただ感心して聞いているだけで良くわからなかった。以前、小春に食べられる草や実の事を教わって驚いたが、薬になる草がこの辺りに、こんなにもあったのかと不思議に思った。
風眼坊舜香の風眼坊とは、熊野で修行していた時、彼が住んでいた小さな僧坊の名前である。昔、その僧坊に住んでいた山伏が、風眼という病にかかって失明した。今でいう淋疾性の結膜炎である。そのために、いつの間にか、その僧坊の事を山伏たちが風眼坊と呼ぶようになり、失明した山伏が亡くなってからも住む者はいなかった。風眼坊はそんな事はお構いなしに空いているのを幸いに、その僧坊に住み着いた。以来、風眼坊舜香と呼ばれている。勿論、彼は風眼病みではない。
ある日、風眼坊が山から下りて村々を回っていた時、ある村に風眼を病んでいる若い娘がいた。風眼坊と言う名を聞いた村人は、きっと風眼を治してくれる聖人様だと風眼坊に祈祷を頼んだ。風眼坊は頼まれるまま祈祷をした。祈祷をしただけで目の病が急に治るわけはない。そこで、口から出まかせに東の山の中腹に小さな泉が涌いている。その泉の水で目を洗えば必ず良くなると言った。その泉の事はついさっき、山の中で見つけたので知っていた。しかし、その水が目に効くというのは出まかせだった。出まかせを言いながらも風眼坊は心から、この風眼を病んでいる娘を治してやりたいと思った。まだ、彼も若かったし、その娘も若く、綺麗な娘だった。失明させるには可哀想すぎた。
その日から風眼坊は本草(ホンゾウ)学を学び始めた。うまい具合にいい師にも巡り会い、徹底して仕込まれた。目に関する病の事は専門家と言える程、腕を上げた。その腕でもって風眼坊は今まで旅を続けてきている。
あの時、風眼を病んでいた娘は、あやうく失明しそうな所を風眼坊の治療によって快復した。娘はたいそう喜び、風眼坊はその村で神様扱いされた。その後、何度もその村を訪ね、その時の娘、お光との間には光一郎という息子までできていた。
今では目だけでなく内科はもとより、切傷、刺し傷、やけどなどの外傷の治療もする。風眼坊舜香は加持祈祷や先達として民衆を山に案内するだけのただの山伏ではなく、剣術使いでもあり医者でもあった。
太郎は見上げる程の枝を相手に格闘していた。
風眼坊のように飛び上がる事はとてもできなかった。木剣を枝に当てる事はできるが、かろうじて当たるだけで打つというまではいかない。枝が折れるはずはなかった。
太郎は下段に構え、中段に構えた風眼坊と対峙していた。
風眼坊が近づいて来て、中段の木剣が瞬間的に上段に上がった。
太郎は木剣を素早く下段から斬り上げた。
木剣と木剣が当たり、鈍い音が響いた。
太郎が下段から斬り上げた木剣を風眼坊は右手を木剣の中程に移動して受け止めた。
「よし、いいだろう」と風眼坊は頷いた。
この技を習ってから、すでに一月が過ぎていた。あの後、何度か風眼坊と立ち合ったが、いつも、太郎の下段からの剣より風眼坊が上段から打ち下ろす剣の方が一瞬、早かった。今、ようやく、風眼坊よりも早く斬り上げる事ができた。
「じゃあ、次のを教えるか」
風眼坊は中段に構えた。「お前も中段から来い」
太郎も中段に構えた。
中段に構えたまま進み、わずかに体を右に開き、風眼坊の左腕めがけて木剣を振り下ろした。
風眼坊はわずかに腕を縮め、太郎の剣を避けると、その剣に乗せるように剣を打ち下ろし、太郎の左腕、紙一重の所で剣を止めた。
「わかるか」と風眼坊は言った。
「はい」
「これは、太刀先の見切りじゃ」
「太刀先の見切り?」
「ああ、敵の太刀筋をよく見極め、ぎりぎりの所でかわし、そして、打つ。太刀先の見切りができれば、最小限の動きで太刀をかわす事ができる」
風眼坊は辺りを見回し、小枝を拾うと小刀で先を尖らせた。次に、大きな枯葉を拾い、先を尖らせた小枝で立木に留めた。
何をする気なのか、と太郎は風眼坊を見ていた。
風眼坊は小屋の中から太刀を持って出て来た。
「いいか、よく見ておけ」
風眼坊は太刀を抜くと、立木に向かって振りかぶり、斬り下ろした。
小枝で留めてあった枯葉が真っ二つに斬れ、片側がヒラヒラと地に落ちた。
「これが、できるまでやれ」
そう言うと風眼坊は太刀を鞘に納め、小屋の中に入って行った。
太郎は立木に寄って、半分に斬られたまま小枝で留められている枯葉をよく見た。
枯葉の上から下まで綺麗に斬られている。しかも、立木の方には、まったく傷跡も残っていなかった。
太郎は早速、やってみる事にした。枯葉を見つけると小枝で留め、刀を抜いて構えた。
「エイ!」と斬り下ろす。
刀は空を斬った。二度めも空を斬った。三度めは枯葉は半分程、二つに斬れた。しかし、立木の方も一寸程深く斬ってしまっていた。
太郎は枯葉を拾っては真っ二つに斬る稽古をした。思っていたより難しかった。
何度か、立木の方にはあまり傷を付けずに枯葉を斬る事はできた。しかし、真っ二つにはならない。太刀先が当たる、ほんの一寸ばかりが斬れるだけだった。真っ二つにするには枯葉の長さに合わせて、太刀先を真っすぐに斬り下ろさなくてはならない。ただ、刀を上から下に振り下ろす円運動だけでは駄目だった。
その日は日が暮れるまで、やってみたができなかった。
次の日から太郎の枯葉拾いが始まった。籠を背負い、その中に枯葉を山に積んで来る。そして、その枯葉を一枚づつ、二つに斬るのが日課となった。
風眼坊は一体、何を考え、何をやっているのか太郎にはわからなかった。
薬作りをしている時は山と小屋を行ったり来たりしていたが、今はそれも終わったとみえて、ほとんど小屋にはいない。フラッと小屋を出て行くと二、三日戻って来なくなった。小屋にいる時は時々、太郎の相手をしてくれるが、新しい技はまだ教えてくれない。
太郎は毎日、枯葉を相手に闘っていた。
年が明けて、応仁三年となった。
京ではまだ、戦が続いている。長期戦に入り、戦況の変化はあまり見られないが、不思議な事に頭が入れ代わってしまっていた。
去年の九月、足利義視は伊勢から京に戻って来た。しかし、将軍義政を取り巻く側近たちとうまくいかず、身の危険を感じ、またもや十一月に比叡山に逃げ出した。そこを西軍の山名宗全に迎えられ西軍に寝返った。
幕府は東軍の陣内にあったとしても、幕府内にいる日野富子、日野勝光、伊勢貞親など、皆、義視の敵だった。将軍義政でさえ我が子、義尚を可愛いがり、義視を煙たく思うようになっていた。義視の後見人の細川勝元にとっても将軍と天皇を擁している今、義視の存在はそれ程、重要ではなかった。もともと、日野家の勢力を押えるため、富子が男の子を産む前に義視を将軍職に就けようと義視の後見人となっていたわけで、今となっては、それは不可能になって来た。いつまでも義視の後見人をしているより、義尚をもり立て、日野家と手を結んだ方が宗全と対抗するのに得策と言えた。
東軍に戻ってみても、義視のいるべき場所はなかったのである。
西軍に寝返った義視は西軍においては将軍とかつぎあげられたが、権大納言正二位の官位は剥奪され、官軍に敵対する賊徒と成ってしまった。
邪魔者のいなくなった日野富子は、まだ、わずか五歳の我が子、義尚を正式に将軍の後継者に決定させた。
東軍の細川勝元は天皇と将軍を擁し、頭に足利義尚を掲げ、西軍の山名宗全は足利義視を掲げ、頭は入れ代わったが戦況は変わらず、お互い睨み合っていた。
太郎は世間とは関係なく、山の中で、ひたすら剣術の修行をしていた。
太刀先の見切りは、かなり上達していた。まだ、大きな枯葉を真っ二つにするのは無理だが、小さな枯葉ならば立木を傷つけずに二つに斬る事ができた。それを風眼坊に見せるとただ頷き、今度は一本の立木だけでなく、五本の立木に枯葉を留めた。高さもバラバラである。
「あらゆる体勢から、それができなくては駄目だ。移動しながら一瞬のうちに、すべてを斬れ」
風眼坊が見本を見せてくれた。
あっという間だった。あっという間に五つの枯葉が二つに分かれた。
まるで、神業のようだった。風眼坊が一体、どれ位、強いのか想像もつかなかった。凄い師に出会ったものだと太郎は改めて思った。
「いいか、一々構えている暇はないぞ」と風眼坊は太郎に刀を返した。
一枚目、二枚目までは太郎にもやれたが、三枚目、四枚目、五枚目は駄目だった。まったく斬れていないか、斬りすぎて立木まで傷ついている。
五本の立木の中央に立ち、中段に構え、まず、目の前の枯葉を上から斬り、下段に下ろした刀はそのままで、次の立木の所に駈け寄り、枯葉を下から斜めに上に斬り上げる。三枚目の枯葉は斜めに斬り下げ、四枚目の枯葉を横に斬り、最後の枯葉を斜めに斬り下げる。これを一瞬のうちにやり、しかも、枯葉だけを斬る。
それが、完全にできるようになるまで一月以上もかかった。
その後は枯葉の位置を極端に変えた。飛び上がらなければならない程、高い位置に枯葉を留め、次々に飛び上がり五枚の枯葉を斬る。これは、なかなかできなかった。四枚目、五枚目になると、飛び上がるだけが精一杯で、太刀先の見切りなどできるものではない。
「まだ、できんのか」風眼坊が久し振りに帰って来て、太郎に声を掛けた。
「もう少しです」
「そうか‥‥‥木剣を持て」
二人は木剣を持って向かい合った。
「行くぞ」
風眼坊は木剣を太郎の右腕めがけて振り下ろした。
太郎は腕をほんの少し移動させ、それを避けた。
風眼坊は下ろした剣をそのまま、斬り上げた。
太郎はまた腕を少し移動して避けた。
次に、風眼坊は剣を太郎の横腹を狙って横に払った。
太郎は体を少し後ろにずらし、その剣を避けた。風眼坊の木剣が太郎の着物をかすった。
今度は、風眼坊の剣は太郎の頭めがけて落ちて来た。
太郎はそれを横にかわし、風眼坊の剣の上に自分の剣を重ねるように打ち下ろし、風眼坊の右腕を打った。
しかし、そこには風眼坊の右腕はなかった。
太郎は空振りした剣をそのまま上に斬り上げた。
またもや空振り、太郎は中段に構え直した。
風眼坊も中段に構えた。
「大分、上達したようだな」と言うと風眼坊は不思議な構えをした。
左足を大きく前に出し、木剣を頭の右側に刃を上に向け、切っ先を太郎の方に向け、両手を交差させるように構え、左の肩ごしに太郎を見ていた。
「かかって来い」
太郎は中段に構えたまま、風眼坊の構えを見ていた。風眼坊の剣先が太郎の顔を刺すかのように向けられている。
太郎は素早く剣を上げると、風眼坊の左肘を狙って剣を打ち下ろした。
風眼坊はわずかに身を右に開き、体を沈めて太郎の剣をかわした。かわすと同時に、剣を回転させるようにして太郎の右腕を狙って打ち下ろした。
「構えに惑わされるな。剣の通る道は常に一本だけだ。もう一度、来い」
また、風眼坊は同じ構えをした。
太郎は今度は八相に構えた。さっきと同じく、風眼坊の左肘を狙って打った。
今度は、風眼坊は左に抜けて、太郎の剣をかわした。
太郎は斬り下ろした剣を下から斬り上げようとした。
しかし、風眼坊の剣の方が早かった。
風眼坊は一度めの時は、太郎の左側に抜け、二度めは右側に抜けていた。
右側から風眼坊の木剣が太郎の両腕を押えていた。
「今日は、これまで」と風眼坊は笑った。
「はあ?」太郎はポカンと風眼坊の顔を見ていた。
日が暮れるまで、まだ、時はある。風眼坊がこんな事を言うのは初めてだった。
「今晩は酒でも飲もう。たまには息抜きするのもいいさ」
月が出ていた。
丁度、真っ二つに斬られたかのような月だった。
小屋の中で風眼坊と太郎は火を囲み、酒を飲んでいた。
「早いもんだな」と風眼坊は酒盃を見つめながら言った。「わしがここに来てから、もう三月にもなる」
「もう、どこかに行かれるんですか」と太郎は心配そうに聞いた。
「いや、もう少しいよう。今の所は行くべき所もない」
太郎はまだ、風眼坊と別れたくなかった。この三ケ月で太郎は見違える程、強くなった。体付きも一回り大きくなったようだ。しかし、まだまだだ。風眼坊と比べたら子供同然だった。もっと、風眼坊から色々と教わり、もっと強くなりたかった。
「昨日、お前の親父に会ったぞ」と風眼坊は言った。
「‥‥‥」最近、太郎は父親に会っていなかった。
京から戻って来てからというもの、父の船にも乗っていない。田曽浦の父の城にも行っていなかった。
やはり、怒っているのだろうか‥‥‥
「いい男じゃな」と風眼坊は言った。「こんな田舎に置いておくには勿体ない男じゃ」
「父上はわたしの事、何か言ってましたか」太郎は風眼坊の酒盃に酒を注ぎながら聞いた。
「ああ、お前の事を頼むと言われた」
「それでは、わたしの事を怒ってはいないんですね」
「さあ、それはどうかな‥‥‥これからの世は食うか、食われるかの世になるだろう。食われないためには世の中の流れをしっかりと見極めなくてはならん。お前にしっかりと、そこの所を教えてやってくれと頼まれた‥‥‥わしが教える事など何もないがな」
「父上がそう言ったのですか」
「ああ」
「食うか、食われるかの世になる‥‥‥それは本当ですか」
「多分な、そうなるだろう」
太郎は京の都の事を思い出していた。
食うか、食われるかの世‥‥‥
弱い者は逃げ惑い、強い者は好き勝手な事をしていた。
放火、略奪、殺人、暴行‥‥‥
悲鳴、叫び、絶叫、不気味な笑い‥‥‥
地獄絵そのものの世界‥‥‥
ここも、あんな風になってしまうのだろうか‥‥‥
あんな事が当たり前の世の中になってしまうのだろうか‥‥‥
いや、そんな風にさせてはならない。俺がもっと強くなって世の中を良くしなければならない、と太郎は少し酒に酔ったのか、心の中で決心した。
風眼坊は薪を火の中にくべた。
太郎は風眼坊の酒盃に酒を注いだ。
「お前も飲めよ‥‥‥酒を飲むのも修行じゃ」
「はい」太郎は酒盃の酒を飲みほした。
風眼坊が注いでくれた。
「師匠、世の中はどんどん悪い方に向かっているんですか」
「さあな、それはどうかな。良いか悪いかっていうのは、そう簡単に決められるもんじゃないからのう」」
「京ではまだ、戦をやってるんですか」
「まだ、やってるな‥‥‥この戦が終われば何かが変わるだろう。お前、京に行ったとか言ったな。あの京を見て、どう思った」
「ひどすぎます。人間が虫ケラのように殺されていました‥‥‥特に、足軽たちのやり方は汚くて、ひどすぎます」
「足軽か‥‥‥確かに、奴らのやり方は汚い。だが、奴らだって初めから、あんな足軽だったわけじゃない。奴らのほとんどは食えなくなって地方から出て来た百姓や、一揆や戦で焼け出されて住む所も失った連中たちだ。それに、奴らはただ、武士にあやつられているだけだ。奴らが百人死のうが千人死のうが、武士たちにとって痛くも痒くもないからな。奴らを当然のように前線に送り込んでいる。今、京で戦をやってるのは足軽だけじゃろう。東軍に雇われた足軽と西軍に雇われた足軽が前線で戦っている。武士どもは後ろの方で高みの見物じゃ。こんな事やってても足軽の死体が増えるだけで、戦の決着など着くはずがない。しかしな、足軽の奴らだって生きるために必死になってるんじゃ。死にたくないと思うのは誰だって一緒だ。百姓だろうと足軽だろうと武士だろうと、たとえ、虫ケラだってな‥‥‥いいか、物事というのは一つの視点だけで見てはいかんぞ。あらゆる視点から見なくてはいかん。今の世の中を見るのも武士の目から見た今の世と、百姓から見た今の世と、足軽どもから見た今の世は全然、違う。しかし、どれが正しくて、どれが正しくないという事もない。みんなが正しい。わかるか。物の本質というのをはっきりと見極めなくてはならん。難しい事じゃがな‥‥‥お前は水軍の大将になるんだろう。大将は特に、それが必要じゃ」
「師匠、師匠は初めから山伏だったのですか」
「わしか‥‥‥わしも昔は武士じゃった。田舎の武士じゃがな。お前位の時に、わしも京に出たんじゃ、友と二人でな‥‥‥もう二十年も前の話じゃ。初めて見た京の都は賑やかで華やかじゃった。まるで夢の都じゃったな。田舎出のわしらにとって、見る物、聞く物、何でもが珍しかった‥‥‥あの時は面白かったのう。二人して色々な事をしたわ‥‥‥あれから、もう二十年か‥‥‥時の流れというのは早いもんじゃな‥‥‥」
「どうして武士をやめたんですか」
「どうしてかのう‥‥‥成り行きじゃな‥‥‥しばらくは京で面白おかしく暮らしていたが、そんなのはそう長く続くわけがない。二人とも無一文になってのう。わしと一緒に行った奴は京に親戚があっての、遠い親戚らしいが、とりあえず、そこに居候する事になったんじゃ。わしはもっと世間が見たくての、銭もないのに関東めざして旅に出た。毎日、悲惨じゃったのう。腹をすかして、とぼとぼと歩いておったわ。しかし、ついに倒れちまった。その時、助けてくれたのが山伏だったんじゃよ。わしの師匠じゃ。師匠には色々と世話になったし色々な事を教わった‥‥‥今はもう死んじまったがな。あの時、師匠に会わなかったら、今のわしはないじゃろう。あのまま、行き倒れて死んでしまったか、あるいは今頃、京で足軽でもやっておるかもしれん‥‥‥」
風眼坊は酒を飲みほした。
太郎は酒を注いでやりながら、師匠も若い頃は色々な事をやって来たんだな、と思った。
「京に一緒に行った人は、今、どうしてるんですか」
「奴か、奴は未だに侍をやっとるよ。この前、京で会った時は将軍の跡継ぎの申次衆などやっておったが、今頃は何をしてるか‥‥‥」
「将軍様の跡継ぎの‥‥‥じゃあ、偉くなったんですね」
「偉いんだか、どうだか‥‥‥まあ、偉いのかもしれんのう。奴が何を考えてるのか、わしにもわからん‥‥‥だが、いい奴よ」
そう言えば曇天もいい奴だった、と太郎は思い出していた。
まだ、無事に生きてるだろうか‥‥‥
あいつの事だ。きっと、うまく、やってるだろう。
何となく、曇天とはまた、どこかで会えるような気がしていた。
「何、しんみりした面をしてるんだ。今日はとことん飲め」
風眼坊は陽気だった。
太郎には目の前の山伏、風眼坊舜香が何を考えて生きているのか全然、わからなかった。何かをしようとしている事は感じられる。一体、何をしようとしているのか。
また、太郎自身、これから何をやったらいいのかわからなかった。
父の後を継いで水軍の大将になるのもいいだろう。しかし、他にも何か別な生き方があるような気がする。とにかく、今の太郎はもっと強くなり、そして、もっと世の中というものを自分の目ではっきりと見たかった。
夜も更け、酔うにつれて風眼坊は色々な所を旅した時、見聞きした事を話してくれた。
太郎は自分の知らない土地の事など、ただ感心しながら聞いていた。
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